夢は第2の人生である 第42回

西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

img_3312

img_3329

 

私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を敵に占領された本土の人々に向かってFMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら載せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人からどんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら機種は同じだが別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのかいくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのかと案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気を遣ってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにABCと3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやBに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ。」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って古買に付そうと楽しみにしていたが、ふと眼を離した隙に誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色をなに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規定を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープはいつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けどもなかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンはファックス機の新品をあげる、「ただだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人下さいとはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリンスタンドでは、赤いミニドレスんのおねえちゃんが誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが誘ったので、またなにしてしまった。5/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

西暦2014年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日払いマンションに住んでいた私。毎日会社から帰ると、お金を入り口に投入して扉を開き、2DKの部屋に入ると、奥の6畳間に居る女の処へ行って、朝まで抱いたり抱かれたりしているうちに、とうとう尻子玉を抜き取られてしまった。9/1

マンチェスターかリバプールの小さな村に、私たちは3人で住んでいたのだが、MORE OVERという歌が有名になると、「MORE OVERとつぶやくとすぐに有名になれる」という伝説が生まれて、世界中から大勢の人が押し寄せた。9/3

大部屋住まいの新米役者見習いの私は、大先輩の五味龍太郎氏の付き人として、信長に侍従する日吉丸のような謙恭な態度で、諸先輩の芸を盗みとろうとしていたが、いつまで経ってもなんの収穫もないのだった。9/4

テレビで宝くじの当選番号を放送していたので、私はそれを全部メモしてから宝くじ協会の倉庫に忍び込んで、当たりくじだけを拾って引き揚げた。これで当分生活できそうだ。9/5

久しぶりに地上に降りてきたら「テニスのなんとか選手を知ってるか」、「テング熱を知ってる蚊」などとブンブブンブとうるさいので、「んなもん知るか、要らんことを知るくらいなら、なんも知らんほうがよっぽど健康的じゃ」と答えると、そいつはアキレタボーイズになって黙ってしまった、9/5

私たちは、決死の覚悟でその城砦に立て篭もったのだが、指導者たちは、籠城の意思を固めたために、日が経つにつれて食糧が乏しくなった。これでは戦うためではなく、飢え死にするためにここへやってきたようなものだ。9/6

私の城の主はだんだん若返って、いまでは孫の代から曾孫、玄孫の代にまで及ぼうとしていた。9/7

1937年、帝国陸海軍の上海攻撃に井汲氏と参加することになったので、私らは緊張高まる日本海の荒波を乗り越えて、中国本土に到着した。9/9

私がモンブランの設計図を立体化した着ぐるみを身にまとっていると、吉田秀和翁がなぜか非常に興味を持って「とってもいいね」とほめたたえるので、私はいつのまにか大勢の人々に取り囲まれてしまった。9/10

李氏朝鮮時代に渡海した私は、素晴らしい馬を見つけたので、「これはいくら?」と尋ねたら、「5千ウオンだよ」というのだが、その時代にウオンなる通貨単位が存在しているか否かが不明だったので、さんざん迷った挙句に買わずに帰国した。9/11

最愛の耕君が、大阪道頓堀の名物カニ料理の前で行方不明になったので、旅行はそこで中止となり、警察が大捜索を開始した。9/11

イケダノブオが「佐々木さん、これからは耳たぶデザインの時代だと思うんです。それで耳たぶデザイナーの名前を考えてくれませんか」とせがむので、面倒くさくなった私は、「耳たぶデザイナーでいいじゃないか」と答えた。9/11

オバマ氏に招かれて、キッチンがついた6畳間だけの木賃アパートへ行った。煎餅布団が敷きっぱなしの狭い部屋は、ごみやがらくたでいっぱいだったが、孤独な大統領は「私が心からくつろげるのは、世界中でここだけなんですよ」と、涙目でぼそぼそと呟くのだった。9/12

スイスのチューリヒで開催されている国際ネーミング大会から招待されて、私は空港からタクシーで会場に直行したのだが、何千名も収容できる国際会議場には、人っ子ひとり、猫の子一匹いなかった。9/12

暮れなずむ巴里の街角のカフェで、西田佐知子が「♪オークレールドラリューン、メザミピエロ」と歌っていたが、「アカシアの雨に打たれて」とは勝手が違うので、ずいぶん音程が狂っていた。

インディアン、つまりアメリカ先住民の襲撃に備えて最前線で銃列を敷いていた私に、隣の男が「あんたの母校はどこだい?」と聞くので、「長岡先祖学校だよ」と答えると、「それははじめて聞く名前だな」と言うので、私もそう思った。9/13

茂原印刷が謹製した円、ドル、ユーロ、ポンドなどの紙幣の偽札は、みな溜息が出るような傑作ばかりだったが、特に素晴らしい出来栄えだったのは、キューリー夫妻やドビッシーの肖像が印刷されたフランの旧札であった。9/14

インド帰りの吉田君が「上野桜木の家に来て泊れ」というので、久しぶりに東京に出かけた。まだ旅館や下宿のある本郷西片町や母の生まれた谷中の坂道を辿っているうちに、急激に懐かしさがこみあげてきて、もう一度この地で青春を送りたいと思った。9/16

私の右の胸のあばら骨の下にいた武装兵が、私の左胸のあばら骨の下にいた無防備の人々に襲いかかって皆殺しにしたので、彼らが極右のテロリストと分かった。9/17

若い男女2人がシャドー・バスケットをはじめたので、中年男もそれに加わろうといたのだが、その動きについていけず、尻尾を巻いてすごすご逃げ出した。9/18

卒業生たちがお礼参りにやって来て、学校のすべての教室に大量のウンチをまき散らしていったので、私たち在校生は驚いたが、それがもしかすると黄金に変わるのではないかと思ってそのままにしておいた。9/20

こんなに狭い島なのに権力闘争は続けられ、細川宮はナチの応援を求めて接触しようとしていたが、荒川将軍は「そんなことは断じて許さん」と息巻いていた。9/20

宝くじが外れたというので、私は右腹を偽の息子に刺されたが、それでもなお豆腐を作る手をやめなかった。9/21

最近私のSNS友になった戸田という男が、朝から晩まで大量のメールを送りつけてくるので、私は夜も寝れずノイローゼになってしまった。9/22

大阪支店の支店長に、「「JALには商品を卸すけれど、ANAには卸さない」というのはどういう理屈かね」と、問いただしているうちに朝になった。9/22

必死に逃げ回ったけれど、ついに捕えられた私は、太陽神ラアのピラミッドのてっぺんで心臓をえぐり取られることになった。9/23

私のように才能のない醜い男が、ふぁっちょんデザイナーになれるなんて、思ってもいなかったのですが、どういう風の吹き回しか実際にそうなってしまうと、まだ子豚のように醜く肥る前の真木よう子似の美人が近寄って来て、「一夜を共にしたいわ」なぞと囁くのでした。9/25

明日から戦車隊の後部砲員に配属されることになったが、エコノミー症候群の私は、その密閉された狭い空間が恐怖で、今のうちに屋外に出て深呼吸をしておこうと思うのだが、それも出来ないのだった。9/25

その広告会社の本社兼社員用アパルトマンには、てんで仕事をせずにデスクの上で寝そべっている大勢のぐうたら社員がいたが、彼らの大方がクライアントのアホ馬鹿子息だったので、会社は首にするわけにもいかず、飼殺しにしているのだった。9/26

その会社の本社ビルジングの最上階は6畳くらいの狭い1室があって、そこには風采の上がらない無精ひげをはやした中年男がひとりで住んでいたのだが、朝な夕なに有名人やタレントたちが訪ねてきて、なにやら怪しい人世相談に乗ってやっているのだった。9/26

明田五郎の家は地下にあるというので、我われがどんどん階段を降りていくと、烏賊や蛸が切り刻まれている部屋や、血まみれの嬰児の死体が散乱している部屋が、まるで菊人形のようにあらわれたが、地底の奥底の部屋に五郎は座っていた。9/27

深夜まで残業したあとでタクシーで帰宅し、車から降りて我が家に向かっている。真っ暗な坂道を喘ぎながら登っていると、なにやら足元でもぞもぞ蠢くものがある。はじめはゲジゲジかムカデかと思ったが、良く見ると蠍の大群だった。1メートル近い巨大な奴が躍りあがって尻尾を振った。9/28

レリアンの今井社長が、「すぐにテレビCMを制作してもらってくれ」というので、市電に乗って電通の築地本社へ行き、某プランナーに依頼したのだが、「ったく、やんなっちゃうなあ、忙しくて3日も家に帰っていないんですよ」とブウブウ文句をいう。9/29

それをなだめすかして、「ともかく今晩中になんとかしてくれよ」と頼むと、彼は社内の自動販売機に1万円札を入れて「CM企画キット」を取り出し、私に向かって「ではオリエンをお願いします」という。9/29

つまり、このCMのターゲットは誰で、訴求する商品のセールスポイントはなにかを教えてくれ、と迫るのだが、私はまさかこんな展開になるとは思わなかったので、「ミ、ミ、ミッシーカジュアル」とつぶやいたまま、絶句した。9/29

 

西暦2014年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日本百名山に次々に挑戦していた私は、いよいよ富士山を征服しようと、いつものようにヘリに乗り込み、頂上から縄梯子を伝って降り立ったのだが、待てよこれは「登頂」ではなく「降臨」ではないかと思い当たり、すべてをやり直すことにした。10/1

その会社の経営者が幹部に示す月次方針は、いつものように絵と文字が複雑に入り組んでいるために、解読するのに骨が折れるのだが、今月のは文字がなく、パウル・クレーのような絵しか描かれていなかったので、経営会議は紛糾した。10/2

その村の入り口にひとりの老人が座っていたが、私に「ネットのことをわしに聞くな。auに電話して聞け」と告げると、また眠りこんでしまった。10/3

ラムパル峠のてっぺんまでやって来たので、私は「きみがここまでわざわざ送ってくれたから、僕はもう寂しくなんかない。寂しくなったら、きみのことを考えるさ。もう充分だから村に引き返しなさい」というと、彼女は「でも私はどうすればいいの」と呟いた。10/4

久しぶりに授業に出ようと思って大学にやって来たのだが、友人とお喋りしている間に時が経ってしまい、いつどこの教室でどんな講義があるのかも分からないので、焦った私は校舎のはずれの鉄塔の下の夏草に潜りこんで、いつまでもキリギリスの鳴き声を聴いていた。10/5

断崖絶壁に白い中古のフォルクスワーゲンを停めた男は、白い手袋を嵌めてハッチバックを開け、(私はこんなカブトムシを初めて見た)、大量のバイブルをその後部空間に並べて販売を始めると、いつのまにやら大勢の人々がやってきて、競うようにそれを買うのだった。10/6

全国シューズ学会における彼女の発言は、出席者から拍手喝さいで迎えられたが、それは彼女の赤裸々なプライベート・フィルムの上映に対して贈られたものだった。10/7

酔っぱらった吉村氏が、ナイフを振りかざして襲いかかって来たので、私はカスバの木賃宿を飛び出し、そこに止まっていた自転車に飛び乗って、大砂漠の底に通じる坂道を猛スピードで降りながら、もう二度とカスバの女王には会えないだろうと思って、紅い涙を流した。10/8

クグツのごとき風体の正体不明の3人組を見た瞬間、脅威を直感した私は、襲われる前にやれ、とばかりに彼らを馬から引きずりおろし、奪い取ったスコップでめった打ちにして、顔面を靴で蹴り上げたが、のたうち回っている彼らを見ながら、「待てよ、これは私よりも弱い無辜の民ではないか」という後悔が頭に擡げてきた。10/9

ネットを開くと、だいぶ時間が経ってから、鮫と人間の頭と石榴が出てきた。道理で時間がかかったわけだ。10/11

「雌鶏」を「面食い」と取り違え、「大事にしてください」を「お大事にされてください」などと言う教養のない男が、親のコネで理事長に就任したので、私たちは嫌気がさして仕事を怠けるようになった。10/12

しかもその新たな経営者は、「野球の試合でホームランを打った者には、おいらのカミサンを抱かせてやる」とおふれを出したのだが、彼女の写真を見た私たちは、一層やる気を失ったのだった。10/12

台風が来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るからと思っていると、台風が来るから早く寝ようと思っていると……10/14

台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば10/14

真っ暗闇の道を、オートバイのうしろに彼女を乗せて疾走している。左側から張り出している樹木を避けて右にハンドルを切り、また左に戻ろうとしたら、巨大な茶色のヒグマが両手をバンザイして立ちふさがっていたが、私はそのまま突っ走った。10/16

いまでは国家警察によって、我々のすべての私生活が動画に記録されるようになってしまったのだが、私は長年にわたって鋭意研究努力を続けた結果、彼奴らによってそれが再生されないようにする特殊技術を開発することに成功した。10/18

港町の安宿で呻吟していたら、橋本氏が「Tender is the Night だよ」と囁いたので、「ダーバンの港はほのぼの明け染めて今宵限りはデボラも優し」なるアフリカ短歌和歌が生まれたのだった。10/19

商社の巴里駐在員の私は、日本の某有名企業から物見遊山にやってきた3人の女性の接待を命じられた。初日はA子をアテンドして終日市内を観光し、晩飯の後で踊りに行ってホテルまで送っていったら、そのまま朝帰り。翌日はB子、その翌日はC子の繰り返しで、私は死んだ。10/20

夜中に妻が突然頭部への激痛を訴えたので、タクシーを呼んで湘南鎌倉病院へ行くと、救急外来には多くの患者が思い思いにソファーに寝そべっていて、ほんの2,3人しかいない新米医者から名前を呼ばれるのを待っているのだった。10/21

公金を横領して会社を首になり、起訴されて有罪判決を受けた情けない男の話が新聞に出ていたので、ケケケと嘲笑っていたら、なんとそれは私のことだった。10/22

いつものように大方の反対を強引に押し切り、大人向けの製品なのに、「ユベッ子」という商標を押しつけて裁断しようとするマエ・セイゾウを、私は面と向かって「いい加減にしろ、世界はお前を中心に回っているんじゃあないぞ!」と怒鳴りつけた。10/22

久しぶりに省線電車に乗ると左に井出君が座っていて、右側にチイチイパッパと群れている若手女子デザイナーのあれやこれやについて、くわしく伝授してくれた。

会社の中で大勢のスタッフが展示会の準備をしているのを見物しながら、あちこちうろついていると、いつの間にかどこかで見たことがあるような、しかし実際は初めて見る可愛らしい女の子が頬笑みかけ、私の右腕を取って暗がりに導く。

接吻をうながされたので唇を近付けると、彼女は「そうじゃなくて猫又キスよ」と言いながら、いきなり上半身を海老反らせて一物を含もうとするので、私は大いに慌てふためいて、進退に窮したのであったあ。10/23

その商業施設には「オールウエイズ・ハッピー」という標語を掲げた店が出店していたが、その真後ろには「トゥジュー・トラバイエ・ボクウ」と書かれたショップが向こうを張っていた。10/24

おひるごはんを立食べてから、みんなで立ち新井のの道を歩いていると、ドングリの実がたくさん落ちていた。すると妹は、「私はどうしてここにドングリの実が落ちているのかを説明する本を書いた。そしてどうしてドングリが姿を消すのかについて説明する本は私の友人が書いたのです」と云うた。10/25

短歌の五七五七七をデジタルではかる測定機が開発されたというので、大勢の歌人たちが、我も我もと自分の歌を積算しようとしていた。10/27

夜遅く書斎で仕事をしていると、家の外でなにやら物音がする。恐る恐る窓を開けると誰かが逃げ出したので、「こらああ!」と怒鳴ろうと思ったが、声が出ない。そいつを見ようとしたが眼が開かない。10/28

私が小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくっていると、だんんだん小さな石のような物になって、海の中に沈んでしまった。しばらくするとその石のような物が動き出して、私の分身のような者となり、またしても小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくるのだった。10/29

お萩を食べても食べても、新しいお萩が出てくる。10/30

私の治めている城に、和泉式部を名乗る女が「一夜の宿を借りたい」と申し出てきたので、泊めてやった。式部とともに城内を歩いていると、恋人との別れを辛がって泣く関野や、早く子供をおろせと女を責める桐野など、兵士の心中が手に取るように分かった。10/30

鈴木正文課長は、「今日から3日間特別教習を行う。徹底的に扱くからそのつもりでおれよ」と発破をかけたが、私は「またここから坂が下るのか。そいつを固く踏みしめねばならぬ」と思っていた。10/31