最後の晩餐

 

佐々木 眞

 
 

日暮れてイエス十二弟子とともに往き、みな席に就きて食するとき言ひ給ふ。

『まことに汝らに告ぐ、我と共に食する汝らの中の一人、われを賣らん』

弟子たち憂ひて、一人一人『われなるか』と言ひ出でしに、イエス言ひ給ふ。

『十二のうちの一人にて、我と共にパンを鉢に浸す者は夫なり。
實に人の子は、己に就きて録されたる如く、逝くなり。
然れど、人の子を賣る者は、禍害なるかな。
その人は生まれざりし方よかりしものを』

――1968年改譯新約聖書「マルコ傳」第14章第17-22節

 

追記

写真は2025年11月24日まで東京都現代美術館にて開催中の「日常のコレオ」展に出品された佐々木健の油彩画《ゲバ棒、杖、もの派の現象学、または男性性のロールモデルについてのペインティング》である。

 

 

 

 

青空

 
 

さとう三千魚

 

目覚めて

ベッドの
なかで

“ラーメンが食べたい”

ぽつり
女は言った

朝ラーが食べたい
という

くるまで30分ほどの街道の町に
朝ラーの店はある

歯を磨き
顔を洗い

着替えた
女もそうした

女の運転するクルマの後ろの座席に座り
カーナビになる

空は晴れて雲ひとつなかった
青空だけがある

店では
女は

名古屋コーチン醤油

わたしは
鯖節醤油ラーメンを

食べた

鯖節醤油はさっぱりして
名古屋コーチンには鳥油の旨みがある

二軒目と女は言ったが開店前で
それで帰ってきた

空の下
通勤で渋滞する国道を

帰ってきた
空は晴れて雲ひとつなかった

青空だけがあった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

野北の

 

道 ケージ

 

「黒々とした杙が何本も立ち
それが死を実感させた」
海辺の光景、安岡章太郎だな

「海辺の墓地」
鳩はいない、
ゼノンも亀もいない、アシルなんてさ
貝殻は骨のように白く

社は放火で焼けた
母の骨を、一応、食べてみる

浜では九大生が何人も泳ぎに来て
生を煌めかせていた
この四十九日

一週前の台風で浜は汚れ
やることもなく
ゴミを拾い出だす
キリがない
空き缶、ビニール、ロープ

小さな巻貝が幾つも打ち上げられ
腐臭は潮の香りに紛れ
不快ではない
小蠅とトンボが盛んにたかる

母はこの海辺に生まれたが
海も魚も好まなかった
死ぬ間際に「お母さん…」と
この野北の夢でも見てたんだろう

その母、つまりキヌ婆とそっくりの顔をして
薨った母、テル
私も父そっくりの顔になり
鏡を見るごとに
「少年」にもなるのだった

砂を玄関のかまちで落とす
黒い犬が吠える
叔母さんがよう来たと迎えてくれた
局長は鳥締めの血を洗う

ノキタかノギタかよくわからない
風なくて
いきたくない