ゴシゴシゴシ、シャシッャーと汚れを水で流した。

鈴木志郎康

 

 

庭のアジサイの青い花が、
夕暮れの闇に見えなくなって行き、
窓のガラスにわたし自身の姿が浮き出てきたので、
「この男は」と思ったとき、
はあ、そういえば、今日の昼間、
いきなりの
富士山だったね、
それも、
北斎版画の富士山の前で
大口を開けた着物の男が
襷がけで、
充電式草刈り幾で草を刈っている。
「ニッポンの草刈り。」
MAKITA
ってテレビのCM。
集団自衛権の行使が承認されたからって、
ニッポンの首狩りはゴメンですよ。
なんてね。思ったね。
昨日の昼間は、わたしは番号が印字された紙を手に、
慶應義塾大学病院の泌尿器科の待合室で診察の順番を待って、
車椅子に座って、
掲示されてる番号の順番を気にして待っている人たちを眺めていた。
一時間余り、平和な時間。
ラフなスタイルは編集者かな、ネクタイは会社部長かな、
あの頭髪は係長かな、眼鏡は教員かな、鞄は営業マンかな、
わたし同様に夫婦連れできている人もいて、
どういう人たちか分からない、年取ってる、結構若い、
勿論、わたしもその待っている数十人の男たちの一人だった。
わたしは飴嘗めたりして、採血の数値の結果を待っていました。

今日は、スーパーMARUSHOに買い物に行ったのね。
わたしは麦わら帽子を被り電動車椅子に乗って麻理は歩いて、
上原中学校の前から井の頭通りに出て、横切るとき、
電動車椅子だと信号の点滅がすっごく気になるんだ。
代々木上原駅の高架下からコンビニの角を曲がって、
麻理の一押しでMARUSHOの店内に乗り入れた。
野菜スープに入れる洗い牛蒡一九八円とかカボチャ二〇三円とか、
温野菜サラダのキャベツ一九八円とかセロリー一五八円とかの野菜や、
カレーに入れる若鶏モモ肉二九六円や、
明治ブラックチョコ六〇六円や、
わたしの好きなカンロキャラメルサレ2袋三五八円などなど30品目、
八二九七円の買い物をして
とても持ち切れないので配達して貰っちゃったのさ。
MARUSHOは三〇〇〇円以上買うと無料で配達してくれるんですね。
スーパーの狭い商品棚の間のつるつる床を、
棚にぶつからずに電動車椅子を操ってすいすいと進む。
電動車椅子の運転がうまくなったもんだね。
麻理は袋入り宮坂吾作割れせんが気に入っている。
そうそう、
カンロキャラメルサレっていう塩入の飴は、
思わぬ人が犯人の刑事ドラマを見るのにぴったりなんだ。
そちらの棚に電動車椅子を進めると、
パンツ女のお尻がちょうど車椅子の目高でね、
左、右、左右プリップリッと目の前を通り過ぎて行く、
やっぱりちょっと目移りしちゃうよね。

スーパーMARUSHOで買って来たものはね。
朝、昼、晩、一週間余りの朝昼晩の食事で食べちゃうんですよ。
今日も、朝食の支度はだいたい六時に起きて、
わたしが足腰のリハビリのためにってやってるんですね。
毎朝、温野菜サラダと決まってる。
キャベツとニンジンとセロリとアスパラとタマネギとリンゴを蒸して、
トマトとバナナと麻理が食べるヨーグルト一匙を二つの皿に盛りつけるのね。
それにキューピーの深煎りごま入りドレッシングをかけての、
温野菜のサラダってことです。
蒸したキャベツもニンジンも甘くて美味しいよ。
それからガスレンジで8枚切りの食パン1枚を焼いて、
バターを塗って薄く切ったハムを乗せて洋辛子をつける。
麻理はパンを食べたり食べなかったり。
飲み物はピュア・ダージリン2バッグにハニイ・ヴァニラ・カモミール1バッグを、
沸騰するポットに入れた紅茶をマグカップに注ぎ、
そこへ成分無調整・とちぎの牛乳と蜂蜜を入れるんです。
これを杖を突かずに両手で持って広間のテーブルまで運ぶのが、
足がふらふらするから、躓いて、取り落としたら大惨事と、
気を遣ってそろそろそろっと歩くんですね。

今日は、朝食の後は、朝日と日経の朝刊を読んでから、
風呂場で素っ裸になって麻理に髪の毛を切って貰ったんですよ。
「後ろの毛、このくらい切ったけど、どうお」
「麻理がいいと思ったらそれでいいよ」
「駄目よ、自分の感じを言ってよ」
と麻理はわたしの頭を優しくぐいっと押すのだ。
わたしはうつむく。
頭がぐいっと押されるからうつむく、
その時の感じ、優しく押されているのだが、
反抗心の極々小さな芽がぴょこんと出てくる。
頭を押されるって、押さえつけられる姿勢でむかっとくる。
押さえつけられる、押さえつけられる、押さえつけられる、やだなあ。
記憶の底の方に仕舞い込まれているんですね。
髪の毛を切って貰った後、シャワーを浴びて、
風呂場の床のタイルが汚れているのに気がついて、
這い蹲ってたわしでゴシゴシゴシ、
シャシッャーと汚れを水で流しました。
ゴシゴシゴシ、シャシッャー。

 

 

 

七十九歳の誕生日って、ちょっと困っちゃうね。

鈴木志郎康

 

 

さて、どうやって切るか。
困っちゃうね。
わたしの似顔絵が描かれた誕生日祝いのケーキを前にして、
蝋燭の火を吹き消して、
ケーキを囲んで待ってる孫娘たちの前で、
いよいよ、
自分の顔にザックリとナイフを入れる段になった。
ちょっと困っちゃうね。

テーブルを囲む息子野々歩と嫁さんの由梨と孫のねむとはなと
妻の麻理とわたしと6人で
六つに切ればいいわけだが、
自分の顔が六つに切り裂かれるって、
ちょっと困っちゃうね。
ケーキの六つの部分はどこも同じだけど
顔の部分となると自分では気に入らない所もあるんだ。
わたし自身は何処を食べればいいのかいな。

まっ、誰が何処を食べたかは秘密。
幡ヶ谷のコンセントというケーキ屋さんで由梨が買ってきた
このケーキはクリームがさっぱりしていて、とても美味しかった。
で、顔の味はどうだったかな。
わたしを除いて、ケーキはケーキで、顔は無かった。
とうとう七十九歳か。腰が痛く、杖をついてもふらふら歩きで、
外に出るには電動車椅子っていうわたしの身体。
まっ、身体は身体だ。せめて美味しい詩を書きたいね。

毎朝の食事の後は新聞の字面を辿るのが楽しみなんて、困っちゃう。
誕生日から九日過ぎた朝に朝日新聞を開いたら、
「構図変わる新時代」と来た。
「/自ら国民を守り/米軍は有事駐留に」(注1)って見出しで、
思想家で麗沢大学教授の松本健一氏の談話ですよ。
わたしが七十九歳になったばかりで、「新時代」だってよ。
わたしはただ家にいて寝たり起きたりばかりで、困っちゃうね。
まっ、ちょっと困っちゃうけど、まあ、ひょいひょいか。

「日本国憲法の改正を逃げてはならない。」(注1)と来たよ。
わたしゃ、ひょいひょいですよ。
「日本は明治維新で開国し、敗戦で2回目の開国をしました。」(注1)
なるほど、ひょいひょいだね。
「現在、『第3の開国』の時期を迎えていると考えています。」(注1)
ちょっと待ってよ。日本の國っていろんな國と付き合ってるし、
ペルシャ湾、インド洋、イラクなんかに「自衛隊の海外派兵」してるじゃん。
開国してるのに、またその上に開国するって、どういうことかね。

開国しているのに更に開国する時期が来たなんて、困っちゃうね。
そんな、そんなドラマチックな時代に、ひょいひょいと
わたしは七十九歳の誕生日を迎えちゃたんだ、困っちゃうね。
今や、歴史的なヒーローが活躍する時代ってわけね。
すると、この『第3の開国』のヒーローは安部晋三首相なのか。
そりゃ、ちょっと困っちゃうね。
「日本を取り戻そう」って幻想を振り撒いて、
憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めるヒーローね。

このヒーローは、うんっぐっくですよ。
「国民を守るどころか戦争に巻き込む危険がある」と、憲法学者の
小林節氏は「憲法を国民から取り上げる泥棒」と言ってる。(注2)
ちょっと、ちょっと困っちゃうね。
一国の総理大臣が泥棒呼ばわりされてしまうなんて。
いやいや、この「憲法泥棒さん」は居直って、
憲法改正までやり遂げて、ずるずるっと、
国家と国民を守るための自衛隊を軍隊にするヒーローに変身するんだ。

第九条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」って、
素晴らしいじゃん。人類の歴史は戦争の歴史ってことを終わらせるってこと。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」ってのは、
正々堂々と人殺しはしないってことでしょう。いいですよ。
松本氏は「解釈変更なんて姑息だ。改憲で正面から解決しろ」
「9条に『国家および国民を守るための自衛軍を持つ』
という条項を加えることが必要です。」(注1)だって。困っちゃうよね。

自衛軍にしろ、軍隊にしろ、ひょいひょいとは行かないですよ。
怖いですよ。軍隊は、できるだけ効率よく人を殺すって集団ですよ。
わたしは子ども頃の戦時中、将校だった叔父さんが持ってた軍刀と
穿いていた長靴が怖かった。祖母に甘いものを持ってくるいい叔父さんなんだけどね。
いろいろと読んだ日本兵が捕虜を銃剣で突き殺す話が忘れられない。(注3)
最近で言えば、丸山豊の『月白の道』に書かれたビルマ戦での、
戦うというより蛸壺で耐えに耐えて死んでしまう身体を思ってしまう。
と言ったって、これはまあ、わたしの感傷なんだね。うんっぐっく。

軍隊は戦争が始まれば、人を殺す人たちの集まりになるのだ。
軍隊が戦えば沢山の人が死に、自然も人が作ったものも破壊される。
うんっぐっくだ。
人は生まれて自然に死ぬのがいいのだ。
自然を喜び、自分たちが作ったものを喜ぶのがいいのだ。
戦争は人を殺し、自然を破壊し、人が作ったものを破壊する。
戦争をしちゃ駄目だ。戦争には反対だ!!戦争する軍隊は無いのがいい。
うんっぐっく。うんっぐっく。

「軍隊がなければ国土、国民、主権という近代国家の3要素を
守ることはできず、他国に守ってもらわねば独立を保てない。
保護国になるしかない。」(注1)っていうことだ。
うんっぐっくになっちゃうよ。うんっぐっく。
うんっぐっく。うんっぐっく。
軍隊が守らなくても独立して行ける国って考えられないのか。
国同士で互いに攻めないって約束すればいいんじゃないの。
うんっぐっく。うんっぐっく。

いやあ、ちょっと困っちゃう。困っちゃう。
「未来図を描かねばならない新しい時代がきたのです。
新時代に対応できるように憲法を改めなくては
真の独立国として国民を守ることができなくなります。」(注1)
國を守るために人を殺し破壊する。うんっぐっく。うんっぐっく。
守らなければ人が殺され破壊される。うんっぐっく。うんっぐっく。
うんっぐっく。うんっぐっく。うんっぐっく。うんっぐっく。
軍隊無しってことで、どうにかなんないのかね。

人を殺したり自然や人が作ったものを破壊しなくても、
生きていられるっていう、そんな世界を創ろうとしないのか。
生きる場所を奪われれば攻めなければならない。
独立って言って國土という領域を決めて自分たち以外を排除するからだ。
国境の無い世界ができないのか。
一人ひとりが民族の違いということを乗り越えられないのか。
一人ひとりが互いに信じるものの違いを認め合うことができないのか。
生きるのには、やっぱりテリトリーが要るのかなあ。うんっぐっく。

この詩を書いているこの仕事部屋に突然他人が入って来て、
「ここはオレの部屋になった。出ていってくれ」と言われたら,
わたしゃは怒るね。「なに言ってるんだ。おまえこそ出て行け。」
と争いになるだろうな。攻撃には反撃するってことか。
言葉で解決がつかなければ暴力沙汰になるのか。うんっぐっく。
わたしは法律で解決できるから、武器は要らないと信じている。
実際わたしはピストルも刀もアーミーナイフも持っていない。
七十八年、日本で生活していて現実に武器を向けられたことはない。

個人の場合と國の場合とは違うのかなあ。うんっぐっく。うんっぐっく。
現実に、他の國は軍隊を持っている。
攻めてくるかも知れないから、独立するには軍隊が必要っていう。
それなら、他の國が軍隊を持っていなければ、
攻められることはないから、軍隊は要らないわけだ。
ひょいひょいですよ。全世界の國が軍隊を持たなければ、
どの國も軍隊というものは要らないことになる。
そうなりゃ、ひょいひょい、ひょいひょいですよ。

そうだ、世界中の國の憲法に、「日本国憲法」の
「武力を持たない。戦争をしない」の第九条があれば、
この世界から軍隊は無くなり、ひょいひょい、
戦争も無くなる。ひょいひょい、ひょいひょい、
とまあ、七十九歳の頭は数日考えて、
さっぱりとした結論を得たってわけ。
でも、わたしの結論は非現実的で、まあ空論なんだよね。
困っちゃうね。困っちゃう。

軍隊って、実は、国民一人ひとりの心を縛り上げる存在なんだ。
国民に有無を言わせないための権力の暴力装置ってわけ。
そこんところをわたしはうっかり忘れちゃてる。
困ったもんだ。うんっぐっく。うんっぐっく。
自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣ってことになってる。
っていうことは、今日、現在の自衛隊の最高指揮官は
安部晋三ってわけだ。うんぐっく。うんっぐっく。
うんぐっく。うんっぐっく。うんぐっく。うんっぐっく。

時代は変わって行くのよ。
わたしは外国と戦う戦力を持った國の国民の一人になるってことか。
わたしは戦争をしない國で七十八年も平和に生きてきたっていうのに。
それが、今や「東西冷戦構造が壊れ、
グローバル経済とナショナリズムが勃興する一方、
力の衰えた米国への一極依存は続けられなくなっている」(注1)っていう
新時代には「日本は憲法を改正して軍隊を持つべきだ」という。
思いも寄らなかった。わたしは七十八年間戦争に行かずに平和に生きた老体!!

そもそも、わたしは自分の将来を想像できないで生きてきたんだ。
行き当たりばったりの人生だった。ひょひょいとね。
第二次世界大戦の最中帽子革靴で澄まして立っている五歳のわたしは、
焼夷弾が降りしきる路地を逃げる九歳のわたしを想像できなかった。
國が戦争に負けた焼け跡で鉄くずを掻き集める小学生のわたしは、
朝鮮戦争に行くアメリカの戦車が夜中家の前を通り抜けた翌朝、
制服制帽でぎゅうぎゅう詰めの国電で通学する中学生のわたしを
想像できなかった。その中学生のわたしは、

浅草六区の映画館の暗闇の高校生のわたしを想像できなかった。
その高校生のわたしが、僅か数年後にヴェトナム戦争反対のデモに行ったわたしが、
フランス語の原書を読んでいるなんて想像できなかった。
そしてまたそのわたしがNHKのフィルムカメラマンになっているなんて、
さらに二年後、広島で悦子さんとアパート住まいをしているなんて、
そしてまた、愛してると信じてた悦子さんと離婚して麻理と再婚するなんて、
いやいや、全くもってとてもじゃないが想像できなかった。
自分のことで精一杯に想像外の人生を生きていたってことですね。

原爆を落とされるなんて、広島の人たちは想像できなかった。
わたしゃ広島に住んで『原爆体験記』に記された場所を歩いても想像できなかった。
「国民を守る」が、「原爆を持たなければならない」になるってことは想像できる。
「国民を守る」なんて言葉にすると、可笑しくなってくるね。うんっぐっくだ。
国民として守られて、わたしは詩を書いてきたってことなんですかね。
国民として守られて、わたしは極私的な映画を作ってきたんですかね。
危ないぞ。国民を守るなんて、国民が戦場に行かない連中のために死ぬってことだ。
わたしゃ、国民として詩を書いたことなんてなかった。

詩って面白そうだで、わたしゃ、高校生で詩を書き始めて、
人を驚かしてやろうと詩を書き続け、ひょいひょいとね。
詩人と言われような者になっちまった。こんなわたしは、
あの焼け跡の少年には、まったく想像もできない見知らぬ遠い存在だよ。
困っちゃうね。うんっぐっく、わたし自身は見知らぬ存在だ。
今じゃ、急激に人口が減少する日本の新たな時代になっちゃってね。
わたしは確かに老い耄れて自分でも見知らぬ存在なのだ。
新時代の実感はないけど、眼をしょぼしょぼと詩を書いてる。

年金暮らしの七十九歳のわたし。うんっぐっく。
今、現在、麻理と暮らしている。殆ど家で過ごしている。
新聞の字面を追うのとテレビのドラマを見るのが楽しみになっている。
twitterやFaceBookやMixiに庭の花を毎日投稿している。うんっぐっく。
眼が弱っているので本を読むのがきつい。うんっぐっく。
実際、困ってるのは、片づけられないってことなんですよ。うんっぐっく。
何とかしないと、何が何処にあるのやら、本当に困っちゃう。
勢い込んで、こんな詩を書くなんて、想像できなかった。

とまあ、この詩を書き終えて、急に気分が落ちてきた。
なんだい、こりゃ。気分がどんどん落ちていくぞ。
ぐーんと落ちたところで、寂寥感が襲ってきた。うんっぐっく。
また始まるってことのない、もう終わってしまったということか。
今までに経験したことのない寂しい空白ですよ。うんっぐっく。
この日頃の空白で新聞の字面に引っ掛かってしまったってこと。
そんなところってわけですね。ひょいひょいひょいですよ。まあね。
ここんとろは、詩を書いてこの時間を乗り越えて行こうじゃないですか。

 

(注1)朝日新聞2014年5月28日朝刊。「オピニオン・インタビュー」での松本健一氏の談話。
(注2)朝日新聞2014年5月29日朝刊。
(注3)Google検索「日本兵が捕虜を銃剣で突き殺す」。

 

 

 

 

『ペチャブル詩人』が「丸山豊記念現代詩賞」を受賞しちゃってね。

鈴木志郎康

 

 

納豆で昼飯を食べ終えて、
ベッドでテレビドラマを見ようと思っていた
二〇一四年二月二八日の午後のこと、
丸山豊記念現代詩賞事務局の熊本さんという人から
電話が掛かって来た。
知らない人だ。
何度も聞き返して、
丸山豊記念現代詩賞を受けるかっていう、
『ペチャブル詩人』が受賞したって、
勿論、受けます受けます、と応える。
でも、受賞のことは正式発表の
三月二八日まで極秘にして下さいって言われて、
妻の麻理には言ったけど、
息子たちにも言えない言わない。
何か浮いた気持ち。

嬉しいね。
『ペチャブル詩人』が第23回丸山豊記念現代詩賞を受賞しちゃった。
これで受賞は四つ目だ。
この次の詩集も、またその次の詩集も受賞したいね。
まあ、欲張りのわたしがそれまで生きていれば話だけれど。

ところで、
丸山豊記念現代詩賞って、
知ってはいたが詳しくは知らない。
Webで見ると、
谷川俊太郎、新川和江、まどみちおが受賞している。
東京では余り知られてないけど、
九州では権威ある賞だ。
翌々日にメールが来て
受賞の言葉を千字と写真二枚を送ってくれと。
受賞は兎に角光栄で嬉しいけれど、
その言葉を書くとなると、
ただただ嬉しいじゃ、済まされない。
そもそも、
詩人丸山豊のことは
名前だけしか知らないんだ。
その詩を読んだことがない。
更に詩人丸山豊をWebで見ると
詩を書いていたお医者さんでその上、
久留米市に病院を開設、九州朝日放送取締役、久留米市教育委員も務めたという。
九州では知名人だ。
詩人の安西均、谷川雁たちと同人誌をやって、
森崎和江や松永伍一や川崎洋など多くの詩人を育てた、いわば
九州の現代詩の大御所といわれた詩人。
その丸山豊の詩を、
わたしは読んだことがなかった。
わたしは東京在住詩人、丸山豊は地方在住詩人ってことか。
わたしって本当に見識が狭いんだよなあ。
早速、amazonに注文だ。

日本現代詩文庫22の「丸山豊詩集」を取り寄せた。
読んでみると、
北原白秋を読みふけって、十六歳で詩を書き始め、
わたしが生まれる一年前の一九三四年に、
十九歳で処女詩集『玻璃の乳房』を出している。
ランボオやラディゲに憧れた早熟の詩人だ。

海の花火の散ったあと
若いオレルアンの妹は口笛を吹いて 僕の睡りをさまします
夜明けを畏れる僕とでも思ふのかね

モダンな格好いい言葉だ。
年譜を見ると、
処女詩集を出す一年前に、
文学を志す早稲田の高等学院の学生だった丸山少年は、
東京から九州に戻って、
医師の父親の跡を継ぐべく九州医学専門学校に入学している。
ここに丸山豊の詩人にして医者の人生が始まったのだ。
軍国主義にまっしぐらって時代だ。
日本の國は一九三七年に支那事変(日中戦争)を起こし、
更に一九四一年十二月には大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発だ。
久留米は当時、第18師団司令部や歩兵第56連隊が置かれた軍都。
丸山豊は一九三九年二十四歳で軍医予備員候補者となり、
翌年、臨時召集を受けて軍医少尉となる。
一九四二年五月には二十五歳で中国雲南省に出征する。
丸山豊は詩人であり医者であり、そして軍人になった。
それから軍医として東南アジアを転戦して、
一九四四年五月、二十九歳で北ビルマ・ミイトキーナで死守の戦闘。
米英中国の連合軍の猛攻撃に、
軍医として為す術もなく傷病兵たちが戦死していく。
(と丸山自身が後に書いている。)
八月、丸山豊が「閣下」と呼んでいる
部下を愛する人格者の司令官水上少将が、
将兵を生かすために死守命令に反して自決。
それで丸山軍医も生き残っていた兵隊も戦闘から解放されて、
戦死者の死体や白骨が散乱する密林の道無き道を敗走する。
死ぬ力も無くした兵隊を見殺しにしなければらなかったという。
丸山軍医は尊敬する水上少将の死によって生かされた。
わたしには想像を絶している。
丸山軍医がビルマで苦戦している当時、
九歳のわたしは集団疎開で栄養失調になり、
東京に戻って米軍の空襲に遭い遂に焼夷弾で焼け出されていたんだ。
この北ビルマ・ミイトキーナの凄まじい闘いの様子を、
丸山豊は自分の比類が無い体験として終戦後二十年を経て、
ようやく『月白の道』に書き残した。
多くの戦死者の傍らで辛くも命を保てたその複雑な心情は、
丸山豊の魂の深奥にあって日常の意識を急き立てていたようだ。
戦後の一九四七年三十二歳の時の詩集『地下水』以降の詩には、
死者に対する慚愧と生者へ向けられた鼓舞が感じられる。
わたしは敗戦後六十年余りを経た2014年の今年、
苛烈な戦争体験を経た詩人丸山豊の言葉に出会えたというわけだ。
彼は屈折した詩を書くことによって肯定すべき日常に陣地を築き、
戦死者たちの声と向き合っていたのだろう。
五十歳の詩集『愛についてのデッサン』の二編、

  *
ビルマの
青いサソリがいる
この塩からい胸を
久留米市諏訪野町二二八〇番地の
物干竿でかわかす
日曜大工
雲のジャンク
突然にくしゃみがおそうとき
シュロの木をたたく

  *
雪に
捨てられたスリッパは
狼ではない
はるかな愛の行商
あの旅行者ののどをねらわない
じぶんの重さで雪に立ち
とにかくスリッパは忍耐する
とにかくスリッパは叫ばない
羽根のある小さな結晶
無数の白い死はふりつみ

ここに書かれた「久留米市諏訪野町二二八〇」を
Googleで検索する。
と、画面の地図の上を近寄って近寄ると、
「医療法人社団豊泉会」が出てきた。
更に、それを検索する。
「医療法人社団豊泉会丸山病院」のHPにヒットした。
「人間大切 私たちの理念です」とあって、
「『人間大切』は初代理事長丸山豊が残した言葉です。」とあった。
そして更に「詩人丸山豊」のページに移動すると
「丸山 豊『校歌会歌等作詞集』」のページに行き着いた。
地元の幼稚園から小学校中学校高校の校歌、そして大学の校歌、
それから病院や久留米医師会の歌などを合わせて六十九の歌詞を
丸山豊は作っているのだ。
驚いた。すごいな。
丸山豊は戦後、医者として、詩を書く人間として、
地元に生きた人だ。
生半可じゃないねえ。

その校歌を一つ一つ読んで行くと、
土地の山や川や野が詠み込まれていて、
光が輝き、誇りや未来への希望が唱われている。
それを読んでいると不思議に、
『月白の道』に書かれていた敵の銃弾に追われて、
逃げて死に直面したときに脳裏に浮かんだであろう郷里の
情景がここに書かれているように思えてきたのだった。
そうか、ああ、そうかあ。
丸山豊が「筑後川」の合唱曲の歌詞を書いたのも、
自己に向き合って迫る現代詩を書くことでは得られない言葉、
子どもたちや若者たちに唱われる言葉、
人びとの間に広がっていく言葉、
それは戦場で死線を越えて生き抜くために求めていた
郷里を語る言葉だった。
それを書くのが戦後を生きる詩人の一つの生き方だったんだろうな。

九州の古本屋からインターネットで、
一九七〇年発行の『月白の道』を買って読んだ。
その「あとがき」に、
部隊を共にした勇敢な模範兵だった帰還兵が、
「そのうち、となり村の農家の娘をめとり、げんきな子供をうみ、
村の篤農家として、一見なごやかな朝夕を送っていました。そして
十数年が経過しました。ある日、とつぜん、『なんの理由もなく』
農薬をのんで自殺したのです。もちろん、遺言も遺書もありません。
村のひとは、不思議なことよ、と首をかしげるだけです。」
と書かれていた。
戦地の過酷な体験の記憶が命を縮めることがあるのか。
丸山豊は詩を書くことで生き抜いたのか。

また、九州の古本屋からインターネットで、
一九八三年発行の詩集『球根』を買って読んだ。
「自画像」という詩があった。

自画像

それだけの力
またはそれだけの空虚によって
みにくくふくらむ鼻

頭髪はたちまち白く
きっと暗礁をもっている

ひだりの眼はほそく
みぎの眼はさらにほそく
単なる柔和ではない

胸を汲みにきた未亡人に
変化の果を告白する
蟻のいくさの日々であったが

のどは夕やけ
ほろびの色
あんぐりひらいた港口

密漁船がすべりだす
舳先では雑種の犬が
身をのりだして吠えている

詩集の「あとがき」には、
「私の詩の理想は、『いざ』の初志から『ああ』に果てる道程にあっ
た。ただ、愚は愚ながら人並の人生の哀歓を通過してきたので、思
惟に多少の転回ができて、いまは詩をたどるには、むかしとは逆に、
『ああ』を出発のバネとして、きびしい『いざ』に到達すべきでは
ないかと考えている。しかし其の『ああ』を所有することは至難で
あるし、人間のついの『いざ』にいたっては雲のなかである。心細
いことだ。恥ずかしいことだ。」
と書かれていた。
丸山豊の「初志」って何だったのかな。
それが生き抜き生かすってことだったのなら、
「ああ」はまだまだ生き切れてないっていう思いか。
キーワードは「水」と「影」のようだ。
「影ふみ」っていう詩がある。

影ふみ

それぞれ脆いところを持っていて
夕日のワインがひたひたと充ちてきて
あちらとこちらがはにかみによって溶け合うと
私の日没ようやく自立します

私の日没ようやく自立します
そのとき一つの影がうまれます
色をすてて声をすてて
歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど

歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど
かすかな真実を見るでしょう
あなたも影ですあなたたちも影です
愛とか憎しみとか歌ったあとの

愛とか憎しみとか歌ったあとの
そのことも影あのことも影
私の影を呼びにくる影
ふしぎな多数またはひとりぽっち

ふしぎな多数またはひとりぽっち
深い紺色の呼吸をします
夜のガラスをはらわたに収め
弱い影が濃くなります思想に濡れて

弱い影が濃くなります思想に濡れて
影とあそびますそのふくらはぎをふみます
傷ついた鼬のように
影たちがたのしく心をよせるのです

「傷ついた鼬」だってよ。
丸山豊は生活者であり孤独な詩人だったってことだ。
それから「輝く水」っていう詩がある。

輝く水

たかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のことです
私はこたえた

その日の水
その日の胸の水
おお土管の水
白内障のひるに
亀裂のかずをかぞえながら
ますますくらい方へ
走ってゆく
名のない水
私が余所見をしたおりに
あの水が輝く
すこし遅れて私が気づく
だから私は
輝く水を見たことがない
しかし私は信じている
名のない水の燃え立ちのときを
あの輝きを

たかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のこと
そうですたかが水のこと

詩人丸山豊のイメージは何とか掴めたような気がする。
さあ、九州の久留米まで新幹線に乗って行くぞ。

五月九日11時30分東京駅発の新幹線
のぞみ29号の11号車の車椅子専用個室に乗った。
初めての車椅子専用個室に麻理と二人で乗った!!
わたしの旅の習慣で窓ガラスにへばり付いて、
東海道から山陽道へ陸側の走り去って行く風景を5時間眺め続けた。
通過する駅名は早すぎて読めないが、
渡る川の名前で何処を走っているか見当を付けた。
富士山は曇って見えなかったが、
安倍川で静岡の市街は分かった。
高層ビルが増えている。
名古屋も大阪も岡山も広島も
高層マンションが群がり立ち並んでいた。
人の姿をほとんど見なかった。
4時39分定刻に博多着。
石橋文化センターの上野陽平さんの出迎えで、
車椅子専用のタクシーで九州自動車道をほぼ1時間走って、
久留米ホテルエスプリに投宿した。

五月十日はいよいよ丸山豊記念現代詩賞の贈呈式だ。
会場は石橋文化会館小ホール。
石橋はブリジストンだ。
ゴム底の地下足袋からタイヤへと、
人間が地面に接する接点に優しいゴムを使って、
足袋製造の工場を大企業に成功させた創業者の石橋正二郎は
久留米の仕立屋の息子だったんだ。
久留米がブリジストンの発祥の地とは知らなかったなあ。
久留米市の真ん中にある石橋文化センター。
その一角に石橋文化会館小ホールはある。
石橋の文化のセンターには美術館、大ホールの他に
日本庭園があり、バラ園がある。
バラ園には三百三十種類のそれぞれ名前の付いた花が
二万五千本も、この五月、咲き競っているのだった。
贈呈式前の午前中、わたしは電動車椅子で職員の方に案内されて
咲き誇るバラの花の中を散策した。
行けども行けども色とりどりのバラの花の中だ。
久留米に来るまで思ってもみなかったから、
ついうっかり「夢の中」なんて言葉が出てきそうで、
それは抑えた。
さあて、いよいよ第三十五回丸山豊記念現代詩賞の
贈呈式だ。
市長の挨拶があるのは、
副賞の百万円は市民税から出ていると言うから当然だ。
選考委員の高橋順子さんと清水哲男さんに
さんざん褒められて、嬉しくなったところで、
丸山豊記念現代詩賞実行委員会会長の久留米大学教授遠山潤氏から、
電動車椅子に座ったまま賞状と副賞の目録を贈呈された。
そのあと予算審議した市議会副議長の祝辞があって、
「ドキドキヒヤヒヤで詩を書き映画を作ってきた。」
っていう70年代風のタイトルでわたしは講演したのだった。
丸山豊とは違って自己中に生きていたわたしは
他人にはいつもドキドキヒヤヒヤだったってことですね。
そして丸山豊の指導を受けたというピアニストの
シャンソンの演奏があって
贈呈式は終了した。

詩集を買ってくれた数人の人にサインして、
久留米市内の料亭柚子庵に招かれて、
丸山豊の娘の径子さんと息子の泉さんの奥さんと
弟子だった陶芸家の山本源太さんと
高橋順子さん夫妻と清水哲男さんと
わたしら夫婦とで、懇談した。
話題は、丸山豊の若い詩人や芸術家たちとの付き合い。
「やー、来たね」と誰でも迎え入れるから、
丸山家には何人も若者がいつも屯して、
食べたり飲んだりして議論が盛り上がっていた、という。
そして、常に一人か二人が居候していた。
だから、「お母さんは大変だった」と。
そうか、だから何人もの詩人が育ったのだ。
「丸山豊記念」とはそのことだったのだ。
生きるということで、自分は死者たちと向かい合い 、
若い人たちを生かすということだった。
此処まで来て、丸山豊の「影」に出会えたわけだ。
そして、タクシーでホテルに戻った。
ちょっと、食べ過ぎちゃったね。

思い返すと、
久留米への贈呈式旅行までは、
三月の受賞の知らせから、
思ってもみなかったことの連続だった。
先ずは、丸山豊の詩集をインターネットで買ったなんて、
思ってもみなかったことだった。
思ってもみなかった新幹線の車椅子専用個室、
そこにわたしが乗るなんて思ってもみなかった。
時速250キロ余りの車窓から人影が見えなかった。
久留米という名は知ってたけど、
久留米に行くなんて思ってもみなかった。
そして、思ってみなかった咲き競う二万五千有余のバラの花、
その中を電動車椅子で散策するなんて思ってもみなかった。
初めて会った遠山教授から賞状と目録を授与されるなんて、
思ってもみなかった。
そして、そして一週間後に、
わたしの預金通帳に副賞の百万円が振り込まれるなんて、
夢のまた夢という思いで身体が浮くよ。
この賞金でもう一冊詩集ができる。
詩を書かなくちゃ。
それで、この長ったらしい詩も書いたというわけ。

 

 

 

都内の花見ドライブはあたしの青春回顧ドライブに変わっちまった。

鈴木志郎康

 

親友の戸田桂太さんから電話があった。
都内の桜の名所を巡る花見ドライブに行かないか、っていう。
足腰不自由のわたしを花見に誘ってくれたというわけ。
戸田桂太さんは親友だ。
呼び捨てでいいや、
戸田は
早大時代に『ナジャ』をフランス語で輪読した一人、
その後同じNHKで同僚のカメラマンになって、
そこで二人でこっそり、
過激を装った匿名映画批評誌『眼光戦線』を作って遊び、
歩きながら編集する散歩誌『徒歩新聞』を作って遊び、
それから「日刊ナンダイ」なんかのパロディ新聞を作って遊んだ
得難い相棒だった。
ここんところ暫く行き来が少なくなっていたけど、
去年ドライブに誘ってにくれて、
その他の事情もあって話が弾んだ。
親しみが復活してきたんだ。
戸田桂太は親友だ、
なんていうと、彼は照れるだろうな。
この関係が花見ドライブの気分を作ったんだ。
戸田桂太のことを詩に書けるなんて
なんか、嬉しい。
思ってもみなかったことだよ。

さて、4月2日の午後、
プジョー207(PEUGEOT207)が
あたしの家の前に来た。
戸田桂太の車だ。
あたしは前の座席の戸田の隣に、
戸田夫人の紀子さんと志郎康夫人の麻理が後ろに乗った。
さあ、出発だ。
待てよ、今日は暖かいから上着を脱ぐ、
ってことで、またドアを開けて半身を乗り出し、
麻理の手伝いでやっと脱ぐ。
利かない身体で一苦労、年取るって嫌だね。
シートベルトを締めるのも一苦労。

先ずは井の頭通りに出て代々木公園を横切る。
車の左に桜が満開。
右にはNHK放送センターの建物。
あたしらは昔あそこに勤めていたんだ。
五階の食堂の転勤噂のだべりが懐かしい。
と、もう原宿駅前。
若者の行列と人出でごった返してる。
昔は静かな住宅街だった。
変わっちまったねえ、まるっきり違う街だよ。
変わっちまった。
あたしの頭の中では時間が巻き返えし始める。
変わっちまった表参道から青山通りへ左折して、
暫く行って、右折して青山墓地の
桜並木に車は進んだ。
さくら吹雪の中を車は進む。
後ろの席のノンちゃんと麻理が声を上げる。
綺麗ねえ、
綺麗だ。
あたしはこの青山墓地の桜並木は今にして初めてだった。
東京に七十年住んでてこんなところがあるなんて知らなかった。
知らなかったといやー、
青山墓地を出て潜った乃木坂トンネルも
七十八歳で生まれて初めてくぐったんだね。
今にして初めてっていうところもあるんだ。
いや、今日のドライブが今にして初めてじゃんか。

トンネルを出れば乃木神社前、
ここらあたりは学生時代によく散歩した。
カナダ大使館脇の公園から昔のTBSの裏に出る道だ。
建物で見えなくなった丘の稜線を歩くという道だった。
TBSの前の通りに出て一軒きりの古本屋を覗いて、
赤坂見附から地下鉄で新宿に出るというのが散歩コースだった。
昔のTBSのあの建物はもう無く、
高層ビルになっちまってすっかり変わってしまった。
変わっちまった、変わっちまった。
この辺りで変わらないのは、
外堀通りと赤坂離宮と東宮御所。
昔、ベルサイユ宮殿を真似た赤坂離宮の左翼に国会図書館があってさ、
フランスかぶれの浪人生だったあたしは、
受験勉強をするという口実で毎日通って、
バルザックの小説を読みふけった。
『ゴリオ爺さん』に『従妹ベット』、
中身はすっかり忘れてしまいましたが、
ブルジョアと対決する純情と情熱が心に残った。
毎朝144席の一般閲覧室の椅子を確保するために、
四谷駅から赤坂離宮の玄関まで走ったものだったよ。
大理石の赤坂離宮の便所は珍しくて凄かったね。
ドアを押して入ると2メートルほどの奥の
二段のひな壇の上に便器があるのだ。
ひな壇の上では落ちついてできるものではなかったね。

あたしの呟きを載せて戸田のプジョー207は
四谷駅を右折して半蔵門を左折して、
イギリス大使館の満開のソメイヨシノを横に見て、
千鳥ヶ淵へと右折した。
この辺りは変わっていないなあ。
千鳥ヶ淵の山桜に、
戸田桂太は山桜が好きだと言った。
戸田の蝶を育てて羽化させる知性からして、
桜音痴のあたしは戸田の山桜に納得する。
お堀端から大手町、新装の東京駅の前を通過して、
小伝馬町馬喰町と白い花咲くこぶし並木の江戸通りを、
おもちゃや花火の問屋街の浅草橋に向った。

実は先日お彼岸に亀戸の実家に行くとき、
タクシーでお茶の水から蔵前通りに出る道を間違えちゃってさ、
あたしゃ、東京育ちの自信が揺らいだのだった。
オレも変わっちまったのか。
変わっちまったのよ。
隅田川を厩橋で渡って清澄通りを左折して、
清澄通りと浅草通りに挟まれた三角地帯の家並みに入る。
このあたりにあった天ぷら「ひさご」こそ、
高校で同人誌「ふらここ」をやった親友だった北澤の家だ。
横網町の日大一高の帰りに都電で彼の家に行き、
ほとんど一日おきに浅草六区街の映画館に足を伸ばし、
「ひさご」のお客の映画館の呼び込みのおじさんに、
毎回毎回只で映画を見せて貰った。
浅草日本館の暗闇で十七歳は三益愛子の母ものに涙した。
映画館通いの闇の中でオレはちょっと変わったってこと。
あれから何十年ぶりですよ。もう「ひさご」が何処か分からない。
あたしは車の四角い箱から出ることもなかった。
家並みはすっかり変わっちまってた。

戸田が運転するプジョー207は信号待ちの車列に割り込んで、
高速道路の下を隅田公園に向かう。
ウンコビルと呼ばれるアサヒビールの建物の脇を過ぎて、
東武線の高架トンネルをくぐると隅田公園の中だ。
この辺りも変わっちまったねえ。
変わっちまった。
川っぷちの桜並木を大勢の人が歩いている。
あそこに行って、
隅田川の川風を受けて桜の下を歩かなければ、
ここで花見をしたとは言えないんだろうな。
ちょっと残念。車はもう言問団子の前を通って、
向島の家並みに入った。
右に行って左に行ってまた右に行って。
東京スカイツリーの真下に出た。
そこで、あたしがテレビで見た運河の両岸の満開の桜並木、
あれは北十間川だったんじゃないかと先ずは押上駅を目指す。
ところがわたしは左折すべきを右折と言ってしまって、
業平橋を渡ってしまい、間違えた。
また、間違えた。
子どもの頃、歩いたり都電に乗ったりのこの道を間違えるなんて、
あたしとしてはあってはいけないことなんだ。
引き返すのに左折左折とまた橋を渡って四つ目通りを目指した。
その四つ目通りも家並みの姿を忘れちゃってて、
標識を見なければ確かめられない。
東京スカイツリー下の押上駅付近は変わり果ててる。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
わたしの記憶の街はもう存在しない。
何だ、あたしが育った東京はもう無いじゃん。
今の東京はあたしには初めての街ってことだ。
北十間川には満開の桜並木は無かった。
存在って、こんなにも不確か。

此処まで来たら、桜は無いけど、
あたしが生まれ育った亀戸に行こう。
浅草通りを真っ直ぐに走れば今はない昔の都電柳島車庫前を過ぎて、
明治通りの副神橋だ。
そこを右に曲がれば
高校生の頃、神主さんと万葉集を読んだ香取神社の横を通って、
十三間通りの商店街だ。
三菱銀行を過ぎて天盛堂レコード店、モスバーガーの隣りの
ドラッグストア・マツモトキヨシが元は「鈴木せともの店」!!
現在は、マツモトキヨシの二階に兄夫婦は住んでいて、
「鈴木せともの店」はもう無い。
せともの店は親父が戦後開いた店なんだ。
明治には江戸郊外の亀戸にはまだ田んぼがあって、
親父はその米作り農家の長男で若い頃は米を作った。
田んぼが町工場に変わって工員たちの家が建ち並び、
親父は花作り農家から炭屋になって、
提灯行列から大東亜戦争に突入して、焼夷弾が降りしきる戦災で、
太い大黒柱のあるあの家はB29に焼き払われた。
そしてそして焼け跡の十三間通りで敗戦の翌年せともの屋になった。
お堅い鈴木さんにはぴったりの商売というわけ。
「五円(ご縁)があったらまた来てね」とにっこりする親父さん。
戦前からコンクリートで舗装された十三間通り。
子どもの頃には蝋石で陣地を描いて陣取りをやったのよ。
自動車なんか時々しか通らなかったからね。
でも、朝鮮戦争の時には習志野の演習場に行く米軍の戦車が、
毎晩、轟音で走り抜けた。
ああ、十三間通り。
街も変わっちまったけど、
オレも変わったよ。
今のこの時、親友戸田のプジョー207に乗ってる。
この十三間通り、日曜日には
歩行者天国で家族連れが車道をお闊歩している。

あたしがそんな思いに浸っているうちに、
プジョー207は実家の前を通り過ぎ亀戸駅のガードをくぐって、
もう千葉街道に出ている。
千葉街道は京葉道路、両国橋を渡って靖国通り。
錦糸町の元江東楽天地の脇を通り過ぎると、
昔の都電錦糸堀の車庫跡は丸井のビルになっていた。
うわー、変わっちまったね。
変わっちまった。
芥川龍之介や堀辰雄が卒業した府立三中は今は両国高校。
その両国高校前を過ぎて江東橋を渡れば緑町だ。
高校時代の大雪の日に国電が止まっちゃって、
横網町の日大一高から雪が積もった緑町を歩いて帰ったことがあった。
そして両国、昔の国技館跡は今はシアターカイという劇場だ。
此処には教授だった多摩美の卒業公演で毎年来ていた。
両国橋を渡るのはこれで今年は二度目だよ。
三十年も渡ったことがなかったのに、今年はこれで二度目だよ。
再び韓国製ワンピースが安く売られている江戸通りに出て東京駅へ。
この五月には『ペチャブル詩人』の丸山豊記念現代詩賞の授賞式に、
電動車椅子で新幹線に乗って九州に行くから、
麻理が車椅子待合室を確かめに行った。
その間、車から降りて、
ベックスコーヒーショップ丸の内北口店で、
戸田と紀子さんとあたしはしばらく休憩。
そこで、オフィス勤めの人たちを間近に見たのは、
あたしには、何とも言えないリアリティだった。
そう、何とも言えないリアリティだった。

東京駅からは皇居に向かって進んで、
右折して宮城前広場の手入れが行き届いた松を眺めて、
白山通りに出ると左の歩道にフォーマルな服装の
女子大生が数人たむろしていた。入学式だったんだ。
共立女子大といえば昔よく演劇の公演を見た共立講堂だ。
フランコフォリのあたしはその共立講堂かその隣の一橋講堂かで、
劇団四季のジャン・アヌイ作の『アンチゴーヌ』を見て興奮した。
これだとばかりに、雨の日に、
石神井の浅利慶太氏の家を訪ねて劇団に入りたいと言ったのだ。
それにしても浅利さんはよく会ってくたよな。
しかし、君は先ずは大学に入って勉強すべきだと断られた。
窓の外に降る雨を覚えている。
プジョー207は白山通りを北に進む。
神保町の交差点を越えて西神田だ。
二十一歳のわたしにとって西神田は予備校の研数。
浪人三年、今度落ちたら働けと親に言われて、
後がないと悦子さんとのデートもしないでしゃかりきのしゃかりき。
秋口にはビリに近かった国語の点が
年末にはトップクラスに入って何とか早稲田の文学部に入れた。
水道橋駅のガードを潜って後楽園を左折する。
そして飯田橋、此処で降りて都電に乗って早稲田に通った。
通う都電であたしは確かに変わったのだ。

プジョー207は神楽坂下から
外堀通りの満開の桜を左に四谷に向かって走って行く。
此処の桜はJR中央線の窓から見た方が絵になる。
とは言っても、あたしゃこの五年余り電車に乗ったことがない。
またまた四谷駅から迎賓館と東宮御所の脇を過ぎて、
権田原から明治神宮外苑に入り日本青年館を右に曲がる。
ざわつく記憶が残る1960年代、
日本青年館では吊され揺れる大きな真鍮板と交わって踊る
土方巽のダンスパフォーマンスに驚いちゃった。
仙寿院の墓の下をくぐって原宿に向かうこの道は、
あたしが脊椎手術で入院の慶應義塾大学病院に通ってもう何十回も、
タクシーの運転手さんに「外苑西通りをビクターのスタジオを
左に曲がって」と告げた道路だ。
この五月には前立腺癌の治療で泌尿器科に行くのでまた此処を通る。
そしてまた原宿、若者たちでごった返す原宿。
駅前のそば屋はもう無くなったのか。
女の子男の子の行列で見えない。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
明治神宮を右に代々木公園を抜けて山手通りに出る。
そして麻理が見たいと言った東大駒場キャンパスの
桜を裏門越しに見て上原のあたしんちに戻った。
戸田桂太が運転するプジョー207は、
現実の東京の市街をめぐり走ったが、
あたしゃあ脳内の存在しない市街をめぐり走ってたってわけ。
戸田桂太よ、ありがとう。
オレも変わっちまってさ、
今じゃ、老い耄れ詩人になっちゃった。
年を取って今を取りこぼして生きてるって、
やだね。
どんどん詩を書こう。
それにしても、長い詩になった。
こんな長い詩を書いたのは初めてだよ。

 

 

 

問題は、あたしんちに送られて来る詩集に困っちゃってさ。

鈴木志郎康

 

悩みと言えば悩みなんだ。
傲った悩みだ。
捨てちゃえば片が付くものを
捨てられないで悩んっじゃうんじゃ。

困っちゃうね、
困っちゃうね、
どんどん溜まっちゃう。
どんどん溜まっちゃう。
なんとそれが新刊の詩集なんですよ。
わたしんちに宅配便と郵便で
どんどん、秋口から冬にかけて
三日と空けず、詩集が、
新刊の詩集が
見知らぬ詩人さんたちから送られてくる。
見知らぬ人の詩なんて読む気がないのにね。
視力も弱っちゃてるしさ。
今日は詩集は来なかったけど、
同人誌が来た。
積み上げられた詩集は、
今、卓上に三十三冊。
居間の床に積み上げられた
詩集の山が今十五の山を超えていく。
困っちゃうね、
階段の踊り場、積み上げれた布団のわき、本棚の前などなどと、
仕事場には足の踏み場もないほどの本の山。
邪魔なんですが、
捨てるのも
売るのも
気持ちが引っ掛かちゃう。
捨てられない、
困っちゃうね。
まあ何とか読もうと、
来た順にテーブルの上に積み上げているのね。
折角送ってくれたのだから、
ちょっとは読んでみようと思っている。
そのうちに、
そのまま、
そのまま、
時は止まらず、
テーブル上の詩集のわきで三度三度のご飯を食べているうちに、
溜まって行くってことなんすよ。
あーあ、あーあ、
あーあ、あーあ。
困っちゃうね、
どんどん溜まっちゃう。

このあたしの悩みってのは、
詩の一つのプロブレムproblem
詩を書くのは楽しいが、
見知らぬ他人の詩を読んでも楽しめない。
困っちゃうね。
自分の詩は出来るだけ沢山の人に読んで貰いたいけど、
出来るだけ沢山の人の詩なんて読みたくもないのよ。
書いている人の姿が見えない。
困っちゃうね。
プロブレム
プロブレム
何で、詩集を見知らぬあたしに押しつけるの。
いや、いや、
ただ、ひたすら、
読んで欲しいって気持ちなのさ、
あんた高名な鈴木志郎康さんなんだろ。
おれって高名詩人なんだね。
いや、いや
送って置けば、
眼にとまって、
なんか評価されるかも、って。
評価って、何だよ。
詩人として認められるってことですよ。
たしかに、あたしも、四十七年前の若い時に、
『罐製同棲又は陥穽への逃走』を出したとき、
名の知れた詩人さんたちに送って、
眼に止めていただいて、
話題にされて、
H氏賞を貰えた。
その構図ですよ。
だから、いろんな賞の選考が始まる前になると、
送られてくる詩集が急に多くなるんだ。
賞を取らなければ読まれないってんでね。
いや、褒められたいとかさ、
一番になりたいとかさ。
でもまあ、とにかく、詩集が多くの人に読まれれば、
無理に他人に送り付ける必要がなくなるんじゃないのかね。
自分の詩集を多くの人に読んで貰いたい、
だが、そのために開かれた
交流の広場がないってことか。
詩集を広める広場がないってこと、
遂に行き着いた。
プロブレム!
困っちゃうね。
いやいや、詩集の広場ならあるじゃない。
「現代詩手帖」その他の詩の雑誌の
「詩集時評」とかさ、
各新聞の「詩の月評」とかさ、
詩集を取り上げるメディアはあるじゃん。
でもさ、
刊行された詩集を全部取り上げるってことはないじゃん。
それにさ、新聞でも雑誌でも選ばれた詩人さんが、
その人の主観で選んだ詩集だけしか取り上げない。
取り上げられなかった詩集は忘れ去られちゃう。
せっかく書いたのに、
忘れ去られちょうなんてやりきれない。
困っちゃうな。
じゃあ、どうすればいいのよ。
先ずは、
まあ、全国民に詩を読む習慣を身につけて貰うのよ。
詩人たちは詩人たちで誰もが書いている人の姿が見えて、
面白がって読む詩を書くってことよ。
それで、
発行された詩集が全部揃っている書棚が欲しいね。
そこに行けば、誰の詩でも、書かれた詩は、
自由に手に取って読めるってこと。
そういう詩の広場があって
詩をもって人の交わりが生まれるってことになれば、
いいじゃん、えっ、いいのかなあ。
書かれる詩も変わってくる。
そんなことあり得ない。
困っちゃうな。

と思っているところに、
同人誌の「山形詩人」Vol.84が送られてきた。
発行人は木村迪夫さん、
編集人は高橋英司さん。
その「後記84」に
「昨年末、農作業小屋の二階に小さな書庫を作った。段ボール
箱に詰め込んで重ねておいた、過去四十年間に集まった詩集を
並べてみた。約二千冊。壮観なものである。しかし、百冊ほど
を除くと、タイトルすらほとんど記憶になく、初めて目にする
ような印象なのである。自分にとつて、そのような詩集はおそ
らくゴミ本なのだろう。人によっては、自分に必要なものだけ
を残し、その他はすべて廃棄すると聞く。それはそうだろう。
都市のアパートやマンション暮らしでは置き場所に困る。生活
空間が圧迫される。」
と書いてあった。
「その点、筆者は田舎暮らしゆえ、空間的には困らない。大工
仕事の手間暇、費用はかかったが、
所蔵するに不都合はなかった。」
と書いてあった。
二千冊を納める書棚!
いいなあ。
うらやましい。
「しかし、筆者が本を捨てられないのは、空間に余裕があるか
らではない。一冊一冊の詩集に込められた作者の熱い思いが、
捨てないで、と呼びかけてくるからである。その声は自分の声
でもある。」
そうなんだ。
だから捨てられない。
「いかに評価の低い、つまらない詩集でも、作者にとっては
かけがえのない一冊だと思う。だから、書庫が満杯になっても、
筆者は詩集を捨てない。書架を増設するだけである。とはいえ、
筆者が死んだら、息子や孫たちは、丸ごと全部処分し、書庫を
空っぽにするだろう。それは知ったことではない。」
だってさ。
そうかあ、
あたしが死ねばあたしんところでも問題はそく解決なんですね。
農作業小屋に書庫を作るこういう人がいるなんて、
救われる。
なんちゃって、
実は、詩集を読みこなす力が
自分に無いのを棚に上げて、
プロブレムとか
何とか騒いだ末に、
送られて来た同人誌の
コピペ
コピペ
で、さよならですか。
詩人さん、
詩集が来なくなったら寂しいよ。
困っちゃうね。

 

 

さあ、詩のテーマは東京都知事選!

鈴木志郎康

 

詩人のさとう三千魚さんに誘われて
三千魚blog「浜風文庫」に詩を書くことになっちまってさ、
テーマはいきなり東京都知事選だ!
あたしの一票は死票になっちゃたんだよね。
ってやんでぃ!
この人と思う候補者がいなくてね、
正直言って、結局、消去法で投票しちゃんだよね。
ってやんでぃ!

二月九日の四十五年振りの大雪の雪道を
雪掻きシャベルを抱えて、
電動車椅子を運転して投票所に行ったのよ。
自動車の轍の跡を辿って走らせたんだけど、
盛り上がった雪につっこんじゃってさ、
麻理が雪掻きシャベルで掻き分けて進んだ
という、
あたしにとっちゃ、
前代未聞の投票行動だったのね。
権力者丸出し顔のあの人が当選して欲しくなかった、
ってことです。
ってやんでぃ!
脱原発じゃんか。

車椅子専用の記入所で
候補者の名前を書いたのですが、
なんか手がうまく動かなくなりまして、
小学生のガチガチの書き字になちゃった。
他人の名前を書くのって
うまく行かないもんです。
ってやんでぃ!

そもそも
消去法で選んじゃったのは、
この人って人がいなかったってこと。
友だちになってもいいやって人がいなかったのね。
ってやんでぃ!
こころん中で、
この選挙は、
単に都知事を選ぶっていうだけじゃなくて、
権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、
とか
個人主義を歴史意識で縛り上げる国家主義が誇らしく腕組みしてるんじゃねえか、
とか
って思えちゃってね、いや、まあ、詩人さん、先走るなよ。
都知事選は現実よ、ゲン、ジ、ツ。
ってやんでぃ!
いやー、思った通りで、
暮らしの安泰が第一ね。
世間様は怖い。
いやいや、わたしの子どものころにゃー
国の安泰ってことで、
鬼畜米英、撃ちてし止まむって、
世間様はみんな同じ顔して、 白い割烹着とカーキ色の国民服で、
万歳しちゃっていたじゃん、
ってやんでぃ!
古くさい体験の繰り言は止めにしな。
時間は止まっちゃくれないよ。
さあさあ
東京の200万の世間様を
お迎えするのは全く違う夢舞台ってところじゃん、
お父さんお母さんおじさんおばさんお兄さんお姉さん
取り戻された國の輝く世界一の東京とやらで
おもてなしの絆で結ばれた手を合わせ
どんな五輪ダンスを踊るのやら、
マスコミに揺さぶられた詩人の杞憂の妄想ってやつですよ。
ってやんでぃ!
逃げるなよ
っと言ってもですね、
あたしゃ車椅子の十年持つかっての身の上ですよ。
ってやんでぃ!
言い訳みたくなっちゃった。
これじゃ駄目じゃん。