終生休日のわたしの日常ってそんなとこ、そんなとこ。

 

鈴木志郎康

 

 

五月六日の今日。
テレビのニュースが連休、連休と流すから、
あたしって、つまり、
連休って言えば、
年中連休なんだって思ってしまった。
学校にも勤めに行かないってこと。
とすると、
赤ちゃんも年中連休ってことかな。
赤ちゃんもあたしも一人では何処にも行けない。
食べて寝て、
うんこして小便して、
赤ちゃんは泣くけど、あたしは泣かない。
最近は麻理がよく笑うから、
あたしも笑う。
「なんで、そんなことがわからないの、
ほんと、バカ詩人ね、
アハハ、アハハ。」
「アハハ、アハハ、アハハ。」
麻理にバカ詩人ねって言われると、
嬉しくなって、笑ちゃう。
変だね。

五月十五日の今日。
「うえはらんど」に来た
須永紀子さんと懇談していて、
「もう八十歳だから」
と言ったら、
「若い!」と言われてしまった。
須永さんのお父さんは
九十歳で
丈夫で元気に過ごしているという。
須永さんの励ましに応えて、
せめて、
日本人男女合わせての平均寿命の
八十五歳までは生きたい。

五月十七日の今日。
野々歩一家が
ケーキを買って来て、
来合わせた麻理の友人たちと、
ハッピーバースデーの歌を歌って、
2日早く誕生日を祝ってくれた。
歌声の中心にパジャマ姿で座っているわたしに
瞬時、
その声が体に沁みてくるのだった。
この日、
麻理が
自分の難病と向き合うために、
ガレージを改造して、
地域の人の交流の場として、
この三月三日にオープンした
「うえはらんど3丁目15番地」
の来訪者は、
この二ヶ月余りで
219名に
達したのだった。

とうとう、その日の今日、
わたしの誕生日の
五月十九日になった。
iMacの前に座って、
SNSに投稿する、
「遂に80歳になった。シロウヤスさんご感想は如何ですか。ウーン、相変わらずの終生休日の日常が続くわけだから、めちゃくちゃが許されると勝手に思い、はちゃめちゃな詩を書き続けるってことですかね。」
すると
知り合いの人や、
見知らぬWeb友だちから
「お誕生日おめでとうございます」が次々に寄せられて、
わたしは、
「ありがとうございます」を返しまくる。
Web上のメッセージの交換、
ここにわたしの八十歳があるってことだね。
そして、
薦田愛さん井上弥那子さん樋口恵美子さん清水千明さんから
花のアレンジメントが贈られて来た。
左手に杖を、右手で手摺に掴まりながら
階段を降りて
大きなダンボール箱の宅急便を受け取った。
嬉しいやら、
面映ゆいやらの
そんなとこ、そんなとこ。

五月二十日の今日。
朝、朝日新聞を広げると、
一面に
「改憲へ 祖父の背中を追う」(注1)という見出し。
そして、安倍晋三首相は何年か前に、
「昔、おじいちゃんが安保闘争のとき、デモ隊にあんなに囲まれていたのによくやったよなあ。多分いまの支持率だったらゼロ%だろう。やっぱりすごいよな」
と、つぶやいたと印刷されていて、
さらに
「安倍は官房副長官だったとき、かつて岸がいた旧首相官邸の窓から外の景色を眺めながらつぶやいた。秘書官だった井上義行(52)=現参議院議員=の忘れられない光景だ。
岸の悲願は、憲法改正で『真の独立日本』を完成させること。云々」
と印刷されていた。
これを読んで、
そうかあ、
わたしの八十歳台は、
日本が生まれ変わる時代になるのか、
と思った。
ページを返すと、
「『満州国』岸元首相の原点
――産業開発進め 国家統制を主導」(注1)
とあり、
「国務院が完成したのは1936年。同じ年、やりての商工官僚だった39歳の岸は、関東軍の熱烈な要請を受けて満州に赴任した。岸の持論である『国家が産業を管理する』という国家統制論に、関東軍は新国家建設を託したのだ。岸は産業部次長と総務庁次長を兼務し、総務長官に次ぐ、満州国政府の事実上のナンバー2となった」(注1)
と印刷されていた。
1936年といえば
わたしが生まれた翌年だ。
それから戦中戦後を経た二十一年後、
1957年に
岸信介は日本の首相に就任したのだ。
わああ、あわわ、
安倍晋三首相のおじいちゃんって、
そんなすげー人で、
「岸の悲願は、憲法改正で『真の独立日本』を完成させること。」
なんだよな。
あわわ。
安倍晋三首相は
そのおじいちゃんの
憲法改正の悲願の達成に邁進してるってわけだ。
あわわ、あわわ、うんぐっく、
それで日本の歴史が変わっちまう。
日本は軍隊を持つ国家に変わって行くのかいな。
あわわ、あわわ、あわわ、
あわわ、あわわ、
明治の初めには江戸郊外の亀戸村で
農民だった
わたしの
お祖父ちゃんって、
段取り、段取りってのが
口癖で、
皆んなに
段取り爺さんって
言われてたけど、
どんな悲願を持っていたのやら。

わたしの誕生日から二日後の
五月二十一日の今日。
明け方、
目が覚めたら、
稲妻が光って、
雷鳴が轟いた。
雷様は久し振りだった。
早起きして、
花を贈ってくれた人に、
お礼のハガキを書いて、
終生休日の
一日が始まった。
そうしていると、
「蚊取り線香を穴に入れようかしら、
どうお」
と麻理。
「ええっ、どこの穴」
「決まってるじゃないの、
入り口の穴よ。うえはらんどの。」
「ああ、溝のことだろ」
「そうよ、決まってるじゃないの。
想像力がないバカ詩人ね。
アハハ、アハハ」
「アハハ、アハハ、アハハ」
わたしたち夫婦は
そんなとこ、そんなとこ。
歴史は変わるが、
わたしの日常は
そんなとこ、そんなとこ。

 

 

(注1)朝日新聞2015年5月20日朝刊

 「安倍晋三首相のもう一人のおじいちゃんの
   佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞してるのになあ。」
 この二行は長尾高弘さんの指摘により適切ではないと考えられるため作者の指示により削除しました。

 

 

 

ねじりとひねりってことで人生をひねるってこともある

 

鈴木志郎康

 

 

四月の曇り空の下に風が吹く。
風は狭いわたしの家の庭にも吹き込み、
咲き始めた山吹の黄色い花を揺らす。

ところで、捩れるってことなんだけど、
二〇一五年三月三十日に、
新しく出来たシャワールームで
わたしゃ、初めて三十四歳の息子の野々歩に、
シャワーで身体全体を洗って貰ったのさ。
身障者用の椅子に座って、
頭からつま先まで洗って貰った。
ペニスもくりくりっと洗ってくれた。
萎んだペニスをくりくりっと、
くりくりっと、
身体が捩れるって感じ。
半回転のねじり、
うふふ、うふふ。

今日は窓辺に置いた鉢植えのハイビスカスが
二つ花を咲かせた。
赤い花、
真っ赤な花だ。
沖縄のねじれが始まってるよ。
辺野古埋め立てを止めさせようとする翁長知事さん。
そうだ、ねじ込め、と思っても見るが、
日本列島のねじれだ。
ひどい捻れだ。
わたしゃ、どうにもならない傍観的態度。
ここで一つ自分をひねってみるってことができない。

amazonで
「きなこねじり菓子」を買った。
きなことさつまいもでんぷん粉のしんねりした
幅2センチ長さ12センチ厚さ7ミリの生地のを
ふたひねりしてあった。
ほんのり甘くて美味しい。
近くのセブンイレブンで麻理が
「ひねり揚チーズ」と
「カリカリトリプルチーズ」っていう
ねじり菓子を買ってきた。
こちらは、
両方とも幅1センチ長さ3ないし4センチ厚さ数ミリの生地を五,六回ねじってあって、
まるでネジの形態だった。
塩辛いので
後を引く旨味だった。

ひねり、

ねじり。

二三回なら単にひねりでいいが、
十回もひねると、
螺旋になって、
ネジになるね。
凸のねじり、
それを
凹のねじりに嵌めれば、
オスネジとメスネジで、
合わさって、
二つのものを締め付けて留めてしまう。

ところで、
人間の頭を
比喩でひねると、
いい考えが浮かぶが
実際に両手で押さえてひねると、
殺人になっちゃう。

人生にも、
ひねりってことはあるんだ。
うちの麻理が難病になって、
非常勤講師を辞めて、
家のガレージを改造して、
友人や地域の人たちに来てもらえる
「うえはらんど3丁目15番地」を開いたのも、
彼女の人生をひとひねりしたってことだ。

そういえば、
わたしなんぞは、
ひねりの人生を送ってきたと言えるね。
(歳を取ると直ぐに自分の人生を語りたがるんだ。
まあ、いいや、聞いてね。)
戦時中の集団疎開から始まって、
戦災で焼け出されていくつもの小学校を転々。
そして大学浪人、
フランス文学を目指した学生から、
ひねって、
NHKの映画カメラマンに転身、
それから、文筆業に転身、
更に大学教授に転身、
そして定年で年金生活者に転身、
この次の、
人生のひねりは
最後のひねりで、
わたし自身が写真に転身するってことだ。
これだけひねりゃあ、
わたしの人生って、
一本のネジですね。

先日、
平竹君が久しぶりに遊びきて、
帰り際に、
この次に会うのは、
わたしが写真になってだね。
と言ったら、
ブラックジョークですね、
悪い冗談はやめてください。
と言って帰って行った。

 

 

 

鋭角って言葉から始まって身体を通り越してしまった

 

鈴木志郎康

 

 

鋭角って言えば、
先が鋭い刃物。
で、身体を刺せば、
血が出るね。
そして、出血多量なら死ぬね。
でも、
木を削ると、
温かみが生まれる。
曲面が温かみを生むんだね。
曲面を削り出す手を持つ人、
鋭角を持って温かみを生み出す人、
わたしは、
そんな手を持つ人じゃなかったなあ。

ん、でね。
わたしはね、
今年になって、
一月の末から二月の末に、
三度、慶應大学付属病院の救急外来に運ばれたんだ。
一度はタクシーで、二度は救急車で、
頭痛と顔の強ばり、烈しい嘔吐の感じ、そして痰が絡んでの呼吸困難。
救急車の中で過呼吸になり手先が痺れ、
「ゆっくり深く呼吸して」って言われた。
救急外来の診察じゃ、
採血して、CT撮って、レントゲン撮って、
別に異常ない、
と薬を吸入して痰を吐いて
家に戻った。
そして、町内の小林医院にいって
吸入の薬を処方して貰って、
家で、まあ、なんとかFBに投稿はしたが、
その直後、
玄関の段差で仰向け転倒しちゃった。
麻理ひとりじゃ起きあがらせることができないで、
丁度来ていた電気工事の人に起こして貰い、
ベッドに運んで貰ったわけ。
麻理いわく。
仰向けなった蝦蟇ガエルみたいだったってね。
10日経っても左の胸を痛めてまだ痛い。

発作っていうのはね。
頭痛と顔の強ばりは朝の六時、
烈しい嘔吐の感じは夜中の三時、
呼吸困難は夜中の二時、
夜中から朝に掛けて、
気持ちが悪くなったり、
息苦しくなったり、
それは三月になった今でも続いている。
近く小林医院で処方して貰った
吐き気止めの薬と吸入の薬で
何とか時を過ごしている。
昨年の七月から服用している
前立腺癌の新薬のパンフを見たら、
どうも、その副作用じゃないかと、
当てずっぽうに思ってる。
だが、担当医はそんなことはないと言ってる。

ぐだぐだ書いたけど、
書いてもしょうもないことですね。
身体って、
当人だけものなんだからね。
病のことを言葉にすると、
「お大事に」
と、言葉が返ってくる。
当人じゃないからどうしようもないものね。
でも、そこで、
身体が当人だけものでもなくなってくるんだ。
つまり、その先の身体の消失ってこと。
そこに、
名前と言葉と写真とか、
身体無き存在が残ってくる。
また記憶の中の存在になる。

家の中で、
麻理がいると、
麻理の身体が
なんやかんや
動いているのを感じて、
安心しているけど、
彼女が外出してしまって、
いなくなると、
急に、
寂しさが襲ってくるんですね。
身体の存在って、
そういうもんなんですね。
その存在が温かみってことかな。

 

 

 

遠くなった、道を行く人たちが遠くなった、あっ、はあー

 

鈴木志郎康

 

 

遠くなった。
遠くなっちゃったんですね。
道で人がこちらに向かって、
歩いて来て擦れちがったというのに、
その人が遠くにいるっていう、
一枚のガラスに隔てられているっていう、
水族館の水槽の中を見ているように、
遠くなっちゃったんですね。
ずーっと家の中にいて、
偶に外に出て、
電動車椅子に座って、
道を進んでいくと、
向こうの方に歩いて行く人、
向かって来てすれ違う人、
みんな遠いんですよ。
車椅子に座って道を行くと、
わたしは変わってしまうんですかね。
視座が変わちゃったんですね。
視座が低くなって、
大人の腰の辺りの、
幼い子供の目線で、
電動車椅子を運転してると、
立って歩いているときなら、
目につかない人たちの姿が見えてしまう。
けれどもそれが遠いんだなあ。
見えてしまうってことで遠いんだな。
見えてしまうっていう遠さ。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さん、
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男、
レジ袋と鞄を両手に持って着ぶくれたお母さん、
見えるけれど遠い。
見えてしまうから遠い。
遠おーい。
オーイ。
あっ、はあー。

昼食で雑煮の餅を食べたら、
餅の中に金属。
あっ、餅に異物混入かっと思ったら、
自分の歯に被せてあった金属がぽっこり取れちゃったんですね。
で、早速電話して予約外で、
西原の寺坂歯科医院に、
電動車椅子で麻理と行って直して貰ったんです。
帰りに小田急のガードを潜って、
車の滑り止めでごろごろする上原銀座の坂道を、
悲鳴をあげる電動車椅子で身体を揺すられ、
登って行くと、
いつも血圧降下剤などの処方箋を貰う小林医院の前を過ぎれば、
最近開店したスーパーマルエツ前の、
麻理のママ友がおかみさんの酒井とうふ店。
豆腐屋さん頑張ってねと、
突き当たりを右に曲がって、
信号が赤にならないうちに渡りきろうと、
電動車椅子の速度を目一杯に上げて、
道幅が広い井の頭通りを横切ると、
商店がどんどん住宅に建て変わちゃってる
上原中通り商店街です。
ついでだからと、
麻理が、
薬局パパスで猫のおっしこ用の砂を買って、
その大きな袋を抱えて、
わたしは電動車椅子を西に向かって
冷たい風を受けて走らせる。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さんが、
目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーいな。
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男が、
やはり目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーい。
そしてレジ袋と鞄を両手に持つ着ぶくれたお母さんまでが、
目の前の近くを遠く歩いて行くんですよ。
遠おーくなった。
中通り商店街を行く人たちがみんな、
みんな。
遠おーくなっちゃった。
上原小学校の前まで来たところで、
冬の雲間から出た西日の鋭い陽射しに、
わたしは、
両眼を射抜かれてしまいました。
遠おーくなった。
オーイ。
オーイ。
あっ、はあー。

家に帰って、
ふっと思ったんですが、
なんか、
この國の世間が遠くなっていく感じなんですね。
オレって、
日本人だ。
東京の下町の亀戸で生まれて、
日本語で育って、
日本語で詩を書いているわけだけど、
毎朝3時間掛けて
新聞の活字を読んで、
昼からベッドで
テレビの画面を見ていると、
安倍首相も、岡田代表も、
国会で議論してる議員さんたちや、
水谷豊も沢口靖子も
刑事ドラマで活躍する俳優さんや、
ビートたけしも林修も
スタジオで騒いでいる芸能人たちが、
遠いんだよね。
その日本が遠く感じるんだ。
活字で登場する連中、
映像で登場する連中、
なんて遠いんだ。
でも、
遠いけれど読まないではいられない。
遠いけれど見ないではいられない。
いまさらながら、
ゲッ、ゲッ、ゲッのゲッ。
権威権力機構ってのが、
有名人ってのが、
言うまでもなく遠いんですよ。
遠いけど、
彼らがいなけりゃ寂しいんじゃないの。
新聞がなけりゃ、
テレビがなけりゃ、
ほんと、さびしい。
遠おーい。
けど、
電動車椅子杖老人に取っちゃ、
仕様が無い、
けど、
けど、
しようがないね。
けど、
しょうがねえや。
詩用が無えや。
親父ギャグだ。
ゲッ。
あっ、はあー。

ところが、
だけどもだ、
ねえ、
一緒に暮らしてる麻理
という存在は、
ぐーんと近くなった。
今日も、
あん饅と肉饅が一つずつ入った
二つの皿を、
はい、こっちがあなたのぶんよ、
とみかんが光るテーブルに置いた
麻理はぐーんと近くなった。
抱きしめやしないけど、
ぐーんと近くなった。
近い人が人がいてよかったなあ。
わたしより先に死なないでくれ。
いや、わたしの方が麻理を
最後まで看取るんだ。
でも、
でも、
その後の心の、
心底からの寂しさをどうするんだ。
通院するのに付き添ってくれる人がいなくなったら、
どうするのかいな。
あっ、はあー。

今日は、
二〇一五年二月二十日。
歯医者に行ってから、
早くも、
ひと月が経ってしまった。
あっ、はあー。
馬鹿みたいに、
あっ、はあー。

 

 

 

わたしは今年八十歳、敗戦後七〇年の日本の変わり目だって、アッジャー

 

鈴木志郎康

 

 

二〇一五年今年の五月の誕生日で
わたしは八十歳。
まあ、五月まで生きていたらの話だけどね。
(この詩を書いている今は一月だ。)

元旦に、
麻理には小声で素速くおめでとうを言ったけど、
彼女の難病の進行を思えば、
おめでとうが重い。
正月の会話はどちらが先かしらねだったね。
その先のところを思って、
麻理はすごく活発だ。
家のガレージを改造して、
人が集まる場にして、難病の身で
なんとか楽しく過ごして行こうというのだ。
それを分かち合いたい。
そんなこと思ってもみなかった八十歳の
年の始まりだ。

新聞には、今年が
日本の敗戦後七〇年の節目の年だと書かれていた。
オレって
その七〇年の日本の現実とどう関って来たのか。
どう生きてきたのか。
一九六〇年,七〇年の三十歳代には、
現実の変革ってことも、
ちょっとは意識したけど、
積極的に活動したことはなかった。
オレって、
人のため世のためってのが駄目なんだ。
先ずは何よりも自分に拘って、
ゴリゴリって、
それを表現という、
自己の表現による実現と思い込み、
「極私」っていう
個人の立場を現実に向き合わせる考え方に到ったってわけ。
それは、戦後の復興から、
経済優先の世の中に合わさった
マスメディアの膨張の、
有名人が目白押し世の中で、
どうやったら自分を保つことができるかってことだった。
表現だから自分の名前を目立たせたいが、
ヒロイックな存在になるのイヤだっていう
矛盾を生きてきた。
やっぱり、
素直じゃないね。
兎に角、わたしは
戦後教育を受けて、
競争社会に、まあ投げ込まれたってことから始まる。
教室じゃ、いつもトップとかビリとか決められ、
そこを縦には泳がないで、
勝手に詩を書いたり、
勝手に一人で映画を創ったり、
まあ、それで、
なんとか
自分の椅子を取って、
若い連中と
詩を書く心を共にして、
映像作品を創ろうという心を励まして、
教場では、
連中の一人一人の名前を覚えることに努力した。
で、まあなんとか友人たちに恵まれてきた。
そんなことで、
若い、
と言っても、今では
三〇代から四〇代の
詩人さんや
映像作家さんが
訪ねて来てくれる。
それが、うれしい。
今日だって、
ガレージ改造工事前の片付けに、
今井さんと薦田さんと
辻さんと長田さんが
来てくれて、
本棚を整理してくれて、
脊柱管狭窄の杖老人の
年金生活者のわたしにとって、
大助かりだったんだ。

そうそう、
この「浜風文庫」の
さとう三千魚さんも、
亡くなった中村登さんと
二人が若い時に、
詩について、
ごちゃごちゃ
言い合ったのだった。

大震災が二つあって、
絆、絆と叫ばれた世の中。
亡くなったり
親しい人を亡くした人には、
申し訳ないが、
どうもわたしはその世の中の波に乗れない。
オレって
へそ曲がりなんだなあ。
平和憲法の元で、
オレとしてへそ曲がりを通してきたわたしには、
今更、
「憲法を変えていくのは自然なことだ。私たち自身の手で憲法を書いていくことが新しい時代を切り開くことにつながる」
なんて言ったという安倍晋三首相の言葉には乗れない。
「日本を取り戻す」
なんて止めてくれ。
これが、
敗戦後七〇年日本の変わり目って言うんじゃ、
わたしとしては、
アッジャー、だ、
ゴリゴリって
区切りをつけて、
若い連中と、
詩と、
映像とを
語り合って、
友愛を深めたい、
と思っている八十歳っていうわけざんすね。

ここまで書いてきて、
老人っぽく年齢を語るのは、
やはり、
空しいね。
生まれたばかりの
赤ちゃんにこそ、
そのゼロ歳の年齢を語って欲しい、
ってなものです。

 

 

 

この衆議院選挙投票体験のことを詩に書いちゃおっと、ケッ

 

鈴木志郎康

 

 

衆議院選投票体験を詩に書いちゃおうと思ったが、
どうも、そうじゃなく、
最初、書いてやろう、
と書き始めたのが、
やろうがちゃおうになっちゃたんですね。
選挙のことを詩に書くなんて、
そう簡単には手に着かないんもんですね。

ガラス窓が、
真っ白に、
曇った。
十二月初旬の朝のことだ。
あの窓ガラスが、
頭から離れない。
真っ白に曇って、
見慣れた庭が見えない。

今は、
もう月半ばも過ぎて、
衆議院選挙の結果も決まって、
自公与党の三分の二以上の大勝で、
憲法改正の道が開かれちゃった。
総理大臣の安部晋三は選挙運動中、
「景気回復、この道しかない。」
と連呼してたが、大勝と決まった途端に、
憲法改正を口にしたね。
安部晋三の野望、
日本の歴史の流れを変えようという野望、
何よりも国家を優先する国家にするという野望、
それが、
この道しかない道、だったんですよ。
わたしは今の憲法で育った。
個人をそれなりに重んじる国家、
表現の自由が重んじられる国家、
軍隊を持たない戦争をしない国家。
それが覆されるのにわたしは反対なんだ。

十二月十六日の朝日新聞に
衆議院当選者全員の顔写真が載ってる。
小さい写真で、
みんな同じ顔に見える。
その当選者たちの八十四パーセントが
「改憲賛成派」だってさ。
ああ、もうこの國は変わるね。
ところで、
来年は日本人男性の平均寿命に達するわたしは、
それまで生きてるのかいな。
生きていたいね。

十二月十四日の投票日には、
麻理が早く出かけるというので、
投票所が開く七時ちょっと過ぎに、
わたしは麻理と電動車椅子で行って、
わたしらだけしかいない投票所で、
薄緑色の小選挙区の投票用紙に、
ながつま昭と書いて二つに折って投票箱に入れ、
白い比例区の投票用紙には、
民主党と書いてこれも投票箱に入れたんだけど、
実は、これは、
迷った末の結果なんだ。
思い起こすと、
ちょっと怒りが湧いてくる。

ウーン、何とも
怒りが湧いてくる。
小選挙区の候補者の誰にもわたしは会ったことがないんだ。
東京都第七区の四人の候補者にわたしは会いに行くべきだったのか。
それをしないで、新聞に掲載された写真と活字で、
自民党公認は駄目だ。
次世代の党公認も駄目だ。
共産党の候補者の反自民の主張はいいけど、
死票になっちまうから駄目だ。
残るは民主党公認のながつま昭だ。
彼は三度の食事に何を食べているのか、
酒飲みなのか、
兄弟はいるのか、
詩を読むなんてことがあるのか、
怒りっぽいのか、
優しいのか、
なーんにも知らない。
で、他にいないから
このオッサンに決めて、
薄緑色の投票用紙に「ながつま昭」と書いた。
わたしは渋谷区で長妻昭に投票した41893人の一人になったというわけ。
ながつまさん、頼みますよ。
比例区は
反自民の共産党にしようかな、と思ったけど、
昔、「赤旗」が
わたしの「プアプア詩」を貶したのを思い出して、
まあ、結局、主張が空っぽの民主党を白い投票用紙に書いてしまったというわけですね。
渋谷区で民主党と書いた人は18072人だから、
長妻昭と書いて民主党と書かなかった人が結構いたんですね。

こんなことじゃ、
安倍晋三の野望に立ち向かうなんてことはとてもできやしない。
今度の選挙は有権者の半分の投票で「自公大勝」に終わって、
この國は変わって行く。
そんなことどうでもいいや、って思えないから、
困るんです。
ウーッン、グッ、グッ、ケッ。
次の総選挙までオレは生きているのか。
どうだか。
真っ白に曇ったガラス窓が頭から離れない。
真っ白に曇って、
見慣れた庭が見えなかったガラス窓。

 

(注)投票数は朝日新聞の2014年12月16日の掲載による。

 

 

 

 

その家の中で九歳の記憶を歩き回った。

 

鈴木志郎康

 

 

朝日が玄関の格子戸に当たっている
記憶に残るその家。
六十九年前の
一九四五年三月十一日の朝の記憶ですよ。
東京大空襲の翌朝、
旧中川の土手を火に追われて逃げてきて、
平井橋の袂で命拾いした九歳のわたしが
母と祖母と兄と共に生き延びた直後に落ち着いたその家。
風向きが変わって焼け残ったその家。
その家に今年の十月十二日の夕方、
突然、訪れたんですね。
六十九年振りですよ。
戦災の焼夷弾の炎に追われて逃げて助かって、
その翌朝、祖母の実家のその家に落ちついてから、
六十九年振りですよ。
戦災の体験を語り伝えるという映像作品のロケーションで、
旧中川に掛かる平井橋の袂で、
電動車椅子に乗った姿で、
カメラを前に、
「ここまで逃げてきた」と語った後、
「ちょっと行ってみよう」と訪れたその家。
その家はわたしが九歳まで育って戦災で焼けてしまった家と
そっくりだったんです。
驚いた。焼ける前の家がそこにあったんです。
今は墨田区によって、
「立花大正民家園 旧小山家住宅」として保存されている家です。
玄関の格子戸。
あの朝、朝日が当たっていた格子戸。
懐かしいなあ。
そして小沢さんのカメラに撮られながら中庭に回ったら、
ガラス戸がはまった長い縁側、
雨戸の溝に心張り棒を電車にして走らせていた九歳のわたしが
突然、蘇った。
家の中にいるスタッフの藤田功一さんに
「六畳と八畳が続いて床の間があって、
縁側の突き当たりが便所でしょう」と家の外から声を掛けると、
「そうです、そうです。その通りです」と藤田さん。
戦前の焼ける前のわたしが育った家と全く同じだ。
その八畳の間に風邪を引いて寝ている子供のわたしが
母がリンゴを擦って持ってきてくれるのを今か今かと
待っていた、母を待っていた
その家じゃないですか。
七十九歳まで生きて、
六十九年ぶりに、
この家と出会えてよかったなあ、ですよ。

戦災体験者が少なくなって、
その記憶を体験していない者たちにどう伝えるかってことで、
東京大空襲・戦災資料センター主催の
「秋の平和文化祭2014」が
十一月一日から三日まで開かれてね、
「詩を読み、映像が語る
空襲と詩と下町と
鈴木志郎康さんの詩をフィールドワークする」ってのに、
わたしは参加したんです。
「大空襲 若者が伝える」(注1)
「戦争 記憶のバトン
空襲・焼け跡・・・少年時代の詩人が見たもの」(注2)
という見出しで新聞記事になっちゃったんですね。
詩作品の、「この身の持ち越し」と
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」が引用された。
おお、わたしの詩が新聞の記事になったんですね。
小沢和史さんと小沢ゆうさんと息子の鈴木野々歩君が
「この身の持ち越し」を
山本遊子さんが
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」を
映像でフィールドワークしたんですね。
そのフィールドを六十九年前の戦災の夜、わたしは
「母と共に、よろめき倒れそうな祖母の手を引いて 中川の土手を歩き、平井橋の袂に辿り着き、風向きが変わったから、わたしたち三人は 偶然に逃げた身で生き残った」
わたしは小沢和史さんにこの旧中川の土手と平井橋の袂に連れて行かれて、
当時のことをカメラに向かって語った。
「わたしの父はあの夜、逃げ遅れて、炎に阻まれて、この中川に飛び込んで、浮いているものに掴まって助かった」
ところが、どっこい、今の中川の土手の中は、
すっかり変わってしまって、
川の中の水際にゆるく下る坂道の遊歩道になっていて、
燃えさかる川岸を逃れて川の中で一夜を明かす情景を
思い浮かべることはとうていできない。
そこで多くの人が死んだのだった。
焼けてしまったわたしの育った家の跡も
区画整理で道筋が変わってしまって
九歳の頭に叩き込まれた亀戸四丁目二三二番地が、
どこだか分からなくなちゃってる。
戦災前の下町の亀戸の街は記憶の中で薄れて行くばかりですね。
小沢ゆうさんは自分のおばあちゃん新名陸子さんに、
詩を朗読して貰って、
自分の子供と友達にその言葉を復唱させた。
「焼夷弾」から書き抜いた「夷」の字を
おばあちゃんは
「エビス」と読んだ。
「エビス」
「エビス」
「エビス」
子供たちは詩の最後のことばの
「ハイ、オジギ」
と言って可愛らしくオジギした。
八歳の小沢元哉君、村宮正陸君、桑原大雅君たちは
六十九年も昔の戦災をどう受け止めたのだろう。
鈴木野々歩君はわたしの詩の
「夜空にきらめく焼夷弾。 焼夷弾。 M69収束焼夷弾、と後で知る。 三百四十三機のB29爆撃機の絨毯爆撃、と後で知る。焼夷弾に焼かれそうになった記憶。黒こげに焼かれなくてすんだ。」
というこの詩をフィールドワークした。
インターネットのアーカイブから、
アメリカの空軍が撮影した東京大空襲の映像を探してきて、
それを自分の部屋の窓に重ねて、
B29が飛び、
余裕のパイロットの姿、
焼夷弾がばらまかれるイメージ。
そして、フィールドワークの後半では
わたしと母と祖母が逃げた北十間川から平井橋辺りまでの
現在の情景がモノクロ写真になって燃やされる。
今だって爆撃されれば焼け跡になっちまうというメッセージか。
戦後の焼け跡で遊んだ九歳のわたし。
その焼け跡の、
「その瓦礫の果ての冬空に見えた富士山。亀戸から上野動物園まで焼け跡を歩いていったのよ。子供の足で」ってところを、
山本遊子さんは十二歳の少年と亀戸から上野まで歩いて、
空襲があったことなどを話し歩きながら撮影した。
その少年高橋慧人君が辿る道筋には立ち並ぶビル、ビル、ビル、
そして東京スカイツリーに行き当たるんだ。
何も無かった焼け跡には、今や、立ち並ぶ圧倒的な建造物。
焼け跡は言葉と写真でしかないじゃん。
その言葉を体験してない者に押しつけるなんて、
傲慢なんじゃないか、
と少年と歩いた山本遊子さんは感想を語ったんですね。

わたしは息子たちに自分の戦災の体験を話したことがなかった。
敗戦後の焼け跡体験も話したことがなかった。
息子たちはもう三十歳代四十歳代になっている。
これまでの日々の生活では、
自分の体験や来歴を彼らに話す機会がなかった。
考えてみると、
家族に自分のことを語るということがない。
わたし自身、親から彼ら自身の口から彼らのことを、
まともに殆ど聞いたことが無かった。
だが、洗いざらい自分のことを詩に書いてやろうと、
詩に戦災体験を書いたのだった。
戦災資料センターの山本唯人さんの目に止まって、
その詩のフィールドワークってことになったんですね。
わたしは電動車椅子で会場に行って、
被災者として、
戦争では犠牲者になる立場を自覚して、
映画を見ても漫画を読んでも、
主人公ヒーローの立場でなく、
そこで犠牲になるその他大勢の立場で、
ばったばったと殺される者たちの一人に
身を置いてきたと話した。
久し振りに人前で話をしたんだ。
そして電光が煌めく宵の東京の街中を
藤田功一さんが運転する車で家に帰ったきた。
電光が煌めく宵の東京の街中を。
電光が煌めく宵の東京の街中を。

もう一度、あの家に行ってみたいと思った。
花見ドライブに誘ってくれた戸田さんに頼んで、
戸田さんの車で夫人の紀子さんと一緒に再び、
戦災で焼けた亀戸のわたしの家があった場所を確かめて、
旧中川沿いの「立花大正民家園 旧小山家住宅」に行ったんですね。
玄関の上がりかまちを上がるのにちょっと苦労して、
座敷に上がって、
部屋の中を歩き回ったんです。
この家の中を歩き回るってことは、
九歳の記憶を歩き回るってことでしたね。
この居間の棚の上にラジオがあって
真珠湾攻撃の放送を聴いて、
「東部軍管区情報、空襲警報発令」を聞いて、
ああ、ここで。
ああ、ここで。
ああ、ここで。
わたしはしばし感傷に浸った。
オーセンチなのね、シロウヤスさん、ヤスユキさん。
九歳ではヤッチャンだったね。
そうだ、わたしはこの家で思いっきり感傷に浸れる特権者なのだ。
この家が戦災前の鈴木家の家と殆ど全く同じだと体験できるのは、
わたしと兄しかいないのだから。
神棚とその下の仏壇のある居間で、
戸田さんと並んで写真に撮って貰ったんです。
そして暮れなずむ東京の街を自宅に戻ったってわけです。
電光煌めく街中を走り抜けて帰って来た。
「夜空のきらめく焼夷弾。
焼夷弾。」
やっぱりこの「夷」ですよ。
焼かれちまった夷ですよ。
劫火に追われて逃げ延びた夷ですよ。
選挙が近く「国民」という漢字が、
新聞紙面に踊っている。
写真には、
二本の杖を突いた白髪のわたしが写ってた。

 

(注1)読売新聞2014年11月5日
(注2)朝日新聞2014年10月30日

 

 

 

それは、ズッシーンと胸に応えて

 

鈴木志郎康

 

 

わたしはいつ死ぬのだろう。

麻理が「最後まで地域で皆で一緒に楽しく暮らす会」に、
家のガレージを開放して、
広間を知人たちの集会に使って貰おうと決めたので、
夫婦で病身になってどちらが先に死ぬのかが現実に問題になったのです。
わたしが先に死ぬと遺産相続で、
この家を相続する家内の麻理は相続税が払えず、
住み慣れたこの家に住み続けられなくなるのではないかと思い、
それは、ズッシーンと胸に応えて、
悲しくなってしまうのでした。

麻理はこの家を、
いろいろな人が集まれる空間にしたいと、
家の中に堆積した物を、
「断捨離」と紙に書いて本の束などに貼って、
捨て難かった気持ちを絶って、
どんどん捨ててる。
進行性の難病のその先の死を予感してるんだ。
動けなくなっても友人たちと交流していたいという思いだ。
回りに人がいて欲しいという思いだ。

わたしはいつ死ぬのだろう。
わかりませんね。
いや、わたしが死ぬ、
ということは、
この身体が息を引き取って、
医師が心肺停止を死と判定したときに、
鈴木志郎康こと鈴木康之という名前を持ったわたしの死が確定するのでしょうね。
つまり、死ぬって、
このわたしの身体に起こることが、
社会制度的事件になるんですね。
わたしが知るわけもない。

ズッシーンと胸に応えますね。
わたしの身体が息を引き取る時は必ず来るのです。
それがいつかわたしは知ることができないのでしょう。
でも、でも、
79歳で前立腺癌を患うわたしの身体は、
否応なしにやがて息を引き取るのです。
いつまでも今日と同じように明日を迎えたい。

ところが、
わたしは
明日、
わたしの身体が息を引き取るとは思っていないです。
来月とも思ってない。
来年は、80歳になるけどまだ大丈夫でしょう。
と、一人でくすっと笑ってしまう。
歩く足がしっかりしてないから二年後はあやしい。
三年後はどうか。
いや、進行性の難病の麻理が亡くなるまでわたしは死ねないのだ。
お互いに老いた病気の身体で介護しなくてはならない。
支えにならなくてはならない。
麻理より先には死ねないのだ。
ズッシーン。

自分で死ななければ、
心肺停止はいずれにしろ突然なのだ。
ズッシーン。
遠い寂しさが、
晴れた十月の秋の空。
陽射しが室内のテーブルの上にまで差し込んでる。

 

 

 

 

大転機に、ササッサー、っと飛躍する麻理は素敵で可愛い。

 

鈴木志郎康

 

 

ササッサー、っと風が吹く。
時折、庭が翳って朝顔の蔓が風に揺れる。
雲が動いているんですね。
陽射しも弱まって来たように感じます。
麻理は難病の進行を畏れて、この九月、
勤めていた二つの大学の非常勤講師の職を辞めたんですね。
四月の新学期には想像すらしなかった進行する難病の発症。
わたしと一緒に暮らしてきた麻理の人生の大転換ですよ。

わたしに取って麻理は可愛い存在。
それ以上に、側にいてくれなくてはならない存在。
最近では特に、彼女が出かけてしまうとすっごく寂しい。
その麻理がいなくなる時が来るというのが、
わたしより先にいなくならないでほしいな。
うっうぅー、だ。
勝手ですね。

ササッサー、っと麻理は部屋を片づけ始めた。
大学の授業で使っていたものを捨てると整理し始めた。
ササッサー、っと飛躍する。
それが麻理の凄いところだ。
家の部屋を整理して「皆んなが来れる空間にしたい」と、
もうそこには飛躍する麻理がいる。

40年前、わたしを年寄りの美術評論家と間違えて尋ねて来た麻理は可愛かった。
少女の油絵を描く麻理は可愛かった。
団地の窓枠の外で逆立ちする麻理は可愛かった。
黙ってソファで寄り添って過ごした麻理は可愛かった。
その麻理が草多を育てながら日本語教師の資格を取って飛躍した。
そして日本語教師になって韓国人や中国人に気持ちを入れ込む麻理は可愛かった。
だが、大学を出てない者の扱いに対して、野々歩を育てながら、
ササッサー、っと青山学院大学の夜間部に飛躍した麻理。
そして更に語学教育は言葉の遊びに原点があるとして知って、
ササッサー、っと遊びについての修士論文を書いてしまった飛躍。
32面の掌に乗るボールに文字を書いて、
投げて受け取った親指の先に当たった文字から話を引き出す「マリボール」、
コミュニケーションツール「マリボール」を発明した麻理。
可愛くて凄い「麻理母さん」の麻理。
コミュニケーションの教師として、
桜美林大と目白大の学生をがっちりと受け止めた麻理。
教える学生の全員の作文を夜遅くまで添削する麻理の熱意。
即興劇を仕組んで学生たちを交流させた麻理。
そこで、ササッサー、っと、
コミュニケーションの場を作るワークショップデザイナーに飛躍。
大学の授業をワークショップで進めようとしていた麻理。
様々なワークショップを渡り歩く麻理は可愛い。
そ、そしてこの五月、勤め帰りに代々木上原駅の坂道で、
自転車から降りて押そうとして転んでしまって手首の全治4ヶ月の粉砕骨折。
目の前の交番のお巡りさんの助けを借りて救急車で病院に運ばれた
電話を貰っても、脚が言うこと利かないわたしは息子の野々歩に行ってもらう。
わたしはただ家のテーブルに座っていただけ。
うっうぅー、のわたし。
二日で退院した麻理は、ササッサー、っと筋肉が弱って来たと判断
素速く体操クラブに入会してリハビリに励む。
ところが身体のバランスが取れない。
整形外科医の示唆もあって、
大学病院に入院しての一週間の検査を受けたら、
それが進行する難病、オリーブ橋小脳萎縮症のせいだったんですね
そうと分かって、麻理はまたもやササッサー、っと飛躍する。
側で見ていて、その勢いが素晴らしい。
大学の授業が続けられるか、
授業の場面を想像して迷いを経巡った後に決断。
ササッサー、っと二つの大学に辞表を出して、
「今迄、学生にかけていたエネルギーを『まるで未知の世界』や、
『最後まで地域で皆で一緒に楽しく暮らす会』の活動にかけることにします」って、
FaceBook上に宣言したってわけ。
今の麻理の、その行く先を「まるで未知の世界」と捉えて、
共同して楽しく暮らそうというのが、
「最後まで地域で皆で一緒に楽しく暮らす会」なんですね。
皆さんに家に来て貰えるようにするって言って、
広間に溜まった学生の資料やら何やらを、
思い出に引っ掛かりながらもどんどん捨ててる。
ササッサー、っと捨ててる麻理。
わたしも堆積した詩集をどうにかせにゃならんことなりました。
この麻理の飛躍、気持ちがいいなあ。可愛いなあ。
でも、このところの飛躍に継ぐ飛躍には一抹の悲哀が滲んでいる。
鏡の前で髪の毛を指で摘んでふわふわさせている麻理は可愛い。
菓子のシベリヤと水ようかんを買って来て、うふふと笑うあんこ好き麻理は可愛い。

自分の病を何とかしようと、
麻理は気功と鍼灸をやってくれる所を見つけて
ササッサー、っと今日は気功、明日は鍼灸と通い始めた。
麻理は夜中に目が覚めたとき不安が募って眠れなくなり、
iPadminiでFaceBookの友人たちの動向に励ましを感じているようだ。
傍らで寝ていてわたしがトイレの目覚めたとき、
麻理が向こう向きに寝て寝顔が見えないと不安になって、
暫くそのまま寝姿を見ていると、
麻理の足の先がピコピコと動くのを見て、
ほっとして寝る。
夜がそんな風に過ぎるということがあるようになったんですね。

近頃の新聞を見ていると、
時代が変わって行くのをぞわぞわっと感じさせられる。
国民的ヒーロー錦織圭選手の誕生ってことですね。
九月八日の「朝日新聞」の一面の見出しが、
テニスの全米オープン男子シングルス準決勝で、
紙面半分の巨大な横見出し
「錦織、世界王者を圧倒」で、
その脇の4段ぶち抜きの縦見出しが
「日本初 4大大会決勝へ」だ。
まあ、錦織選手は決勝には勝てなかったけれど。
「世界王者を圧倒」って、その「世界」の二文字に引っ掛かるなあ
まあ、その三日前の記事には、
「世界最大級の恐竜化石  アルゼンチンで米大チーム発見」、
という世界的な記事が載っていた。
寝そべった男の背丈程ある巨大な大腿骨の写真。
体重はアフリカ象12頭分で、最大級の肉食恐竜ティラノサウルスの7倍、
この竜脚類恐竜は草食動物で約6600万年~1億年前の
白亜紀後期に南半球を中心に生息していたっていうことです。
1億年という活字が紙面から浮き上がる。
地球の1億年の時間はササッサー、っと経ってしまたんでしょうね

麻理さん、一億年じゃなくても、
わたしより長生きしてね。
麻理に習って、
わたしも部屋の片付けをササッサー、っとやっちまおう。
麻理がちょっと出かけて家を空けただけで寂しくなるのに、
本当にいなくなってまったら、
わたしはその寂しさを耐えられるだろうか。
ところで、現在の個人の今を詩にするってどういうこと?
「ああ、そうですか」ってことなんでしょうね。

 

 

 

二〇一四年の八月は八月、八月、ああ八月ですね。

 

鈴木志郎康

 

 

八月。
八月。
ああ、八月。

八月は朝だ。
庭に咲いた朝顔の花の数を数える。
花は開いて空に向かって目一杯叫んでいるみたい。
陽射しが強くなるともう萎れているんですよ。
また、明日咲く花は幾つかな。
花の数が気分の折れ線グラフを作るというわけ。

八月は夏休みの月ですね。
でも、八年前に多摩美を辞めてからそれがありません。
と、心は夏休み合宿の記憶を辿り始める。
ところが、付き合った学生たちの名前をぽろぽろ、
ぽろぽろ、忘れちゃってる。
寂しいね。

第一次世界大戦後100年の今年の八月、
日本の敗戦後69年の今年の八月、
ってことで、わたしが毎朝読む朝日新聞では、
戦争キャンペーンの記事は毎日載ってるんですね。
十二日には中日戦争からの戦争の年表が載ってた。
でも、わたしが生まれてからがすっぽり入るその活字が遠いなあ。

八月十五日の新聞では
朝日も日経も一面に「きょう終戦の日」とあった。
何で「敗戦の日」としないんだろう。
日本国は連合国軍に負けて占領されたんじゃなかったのかなあ。
わたしは家族と一緒に三月十日に米軍の焼夷弾爆撃で焼け出された。
まあ、今年の甲子園は逆転試合が多かったね。

一九四五年の八月十五日、わたしは十歳で家族と、
疎開先の福島県の小浜町というところの在の農家の薄暗い家の中で、
玉音放送を聴いた筈だが余りよく覚えてないんです。
わたしたちが住んでいた農家に戻る時に草履で歩いた
きらきら光る土が記憶に残っている。草履の足下を気にしていたから。
その年の十月、家族と共に東京に戻ったわたしは言葉と身体のいじめから解放された。

甲子園の中継は付けっぱなしです。新潟の日本文理が逆転ツーランで勝った。
ホームランを打った新井充選手の冷静な顔、期待されて期待に応えた。
投げる打つ走る身体身体、肉付きのいい身体、みんな泥だらけですばしっこいなあ、
ドン、ドン、ドン、かっせ、かっせ、かっ飛ばせ、
それをテレビで見ているわたしがここにいて、脚痛と腰痛でそろそろのろのろ、
入院している麻理を思って、さあ、昼食に支度でもするかあ。

広島で土石流による死者71人不明11人(27日現在)。
去年の十月に引っ越してきた若い夫婦の死が確定、痛ましい。
花崗岩が風化したまさ土の山崩れ、その土に記憶が蘇る。
五十年ほど前、広島でニュースカメラマンだった時に取材した。
土石流が海岸近くの校舎の一つの教室をまるごとぶち抜いた鉄砲水。
思ってもみなかった突然のバケツで水を浴びせられたような雨だったと聞いた。

思ってもいなかったことなんですね。何が起こるか分からない。
麻理のこの五月の自転車転倒による左手首の粉砕骨折。
八月、それがどうやら直ったところで、
その転倒の原因となった難病の発症を探る一週間の検査入院。
ということで、わたしは温野菜サラダとか野菜カレーの三度の食事を、
自分で作って一人で食べた。入院翌朝の麻理からの電話が嬉しかった。

八月、
八月、
ああ、八月。