4月のカルテット~西暦2024年卯月の歌

 

佐々木 眞

 
 

Ⅰ 相寄る魂

 
天秤座から蠍座に入ろうとする青白い月を見ながら、
しろうさぎのおばさんが、いいました。

「コウ君、私の誕生日を知ってる?
2月29日は、4年に一度の私の誕生日なのよ」

すると、すかさず、暗算の得意なコウ君が、コウ答えました。

「しろうさぎのおばさん、今年でやっと21歳だから、超若いね。」

んで、今年84歳になるおばさんは、仕方なく苦笑いしていますと、
いつの間にか近寄ってきた、柔らかい肌をしたロクロ首が、こう呟いたのでした。

「アタシの妹は、最近シモーヌ・シニョレに似てきたけど、アタシなんか、いつまで経っても、花も恥じらうスリムな25歳なのよ」*

 
*「ロシュフォールの恋人たち」で共演した仏蘭西の大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(1943.10.22)の姉フランソワーズ・ドルレアック(1942.3.21―1967)は、1967年6月26日、ニース空港に向かう車を、自分で運転している際の交通事故で、首を切断し命終。

 

Ⅱ 同志少女よ、誰を撃つ

 
春だった。
ある晴れた日の、朝だった。

チボー家の人々は、誰も徴兵されなかったのに、オレっち、ジャックだけが徴発された。
どうだ、カッコいいだろう?

で、まさか戦争が始まるとは、夢にも思ってもいなかったのに、それが突然始まったときには、驚いた。

オレは、動員されて戦場に赴いた。
稠密に張り巡らされた塹壕の中で、
まるで芋虫のように、ゴロゴロ蠢いていた。

テキは、豊富な物量に物を言わせて機関銃でガンガン撃って来るが、
こっちは弾丸不足なので、
三八銃で、パチパチ撃ち返すのみだ。

仕方がないから、オレは一計を案じて、
オリベッティのタイプライターを、機関銃のように塹壕の上に持ち上げ、
広辞苑のように部厚くてまっ白な本の上に、
ダダダダダと、戦いの文句を撃ち込んだ。

テキが、機関銃でガンガン撃って来ると、
こっちは、オリベッテイでダダダダダと撃ち返す。

ガンガンガンガンガンガン ダダダダダダダダダダダダダダダ
ガンガン ダダダ ガンガン ダダダ カンダタ ガンガン

どうだ、これが戦争だ。
これが凄絶な撃ち合いじゃ。

すると、
塹壕の上に据えた書きかけの白い詩集を、
食草のカンアオイと間違えたギフチョウがとまろうとしているのを見つけたので、
オレは、つと身を乗り出して、その黒と黄色の羽に触ろうと、腕を伸ばした。

途端に、ダンと一発。
続いてダンと、もう一発の銃声が、
鳴り響いた。

噂の女スナイパーが、オレの両眼を、見事に撃ち抜いたのだった。

 

Ⅲ のでのでゾンビ

 
桜が満開の庭に、布団を干そうとしていたら、
突然マイケル・ジャクソンの動画に出てくるゾンビ踊りをしながら、
初老の男女数名が、光る庭に入ってきた。

その中の2名は、
縁側を跨いで、青畳の8畳間に侵入しようとしているので、
「なんだお前らは! 勝手に我が家に入るな!!」

と叫んだら、慌てて黄色いチューリップが鈴なりの、光る庭に逃げ出し、
いそいそと、ゾンビ踊りの仲間に加わったので、

希死念慮、
2階に通じる階段を調べてみたら、
そこにも、男か女かは分からぬ風体のゾンビが、
瞳孔を開いたまま、呆然と座っているので、

パシリを一撃お見舞いすると、ようやく目に光が蘇ったので、
「お前たちは、なんでこんなことをするのだ?」
と、訳を聞くと、驚くべきことを口走った。

なんでも彼ら、すなわち「のでのでゾンビ」らは、
かつて700年前の鎌倉時代に、この家が建っている所に住んでいた
オオエ・ヒロモトの従者たち、だというのである。

ここ鎌倉十二所に、鎌倉幕府の官房長官みたいな権力者である、オオエ・ヒロモトの屋敷があったことは、知る人ぞ知る史実なので、

希死念慮、
そのことは、近所に立っている鎌倉大正青年団が建立した石碑にも、
しかと刻まれている。

ので。

 

Ⅳ どんどん 

 
歩いて行こうよ、どんどん。
どこかで知らない蝶が、飛んでいるかも知れないじゃないか。

語り合おうよ、どんどん。
へえー、こんな人だったんだと、びっくりするかも知れないじゃないか。

愛し合おうよ、どんどん。
殺し合うより、よっぽど仕合わせでいいじゃないか。

子どもをつくろうよ、どんどん。
今度はどんな子ができるか、この目で見たいじゃないか。

歌おうよ、どんどん。
気分が変わって、楽しいじゃないか。

踊ろうよ、どんどん。
ひょっとして、素敵なひとに会えるかも知れないじゃないか。

作品をつくろうよ、どんどん。
次に出来上がるのが、最高傑作かも知れないじゃないか。

生きていこうよ、どんどん。
これから世の中、何が起こるか分からないからね。

死んでいこうよ、どんどん。
あとから、若くてイキのいいのが、どんどんやって来るからね。

 

 

 

絶対零度-273°C*

 

佐々木 眞

 
 

ある日男は、「ありのままの世界が聞こえる音楽」をつくろうと思った。
3つの休止符からなる「4分33秒」のフレームの中では、
偶然の音楽が、次々に生まれては、消えていく。

ある日彼女は、「人の心が映る服」をつくろうと思った。
構想10年、実践10年、それは本当に出来てしまった。出来ちゃったのよ!
そのとき服は、秘められた夢を映し出す透明なフレーム。

ある日わたしは、「誰にも見えない冷蔵庫」をつくろうと思った。
絶対零度-273°Cの冷蔵庫の中には、
二十歳の秋に堕した嬰児が、微笑んでいる。

 

*ビデオ作家の小金沢健人によれば、ジョン・ケージの「4分33秒」とは273秒であり、おそらく絶対零度の数値-273°Cに由来する数字らしい。
(神奈川近代美術館鎌倉分館「小金沢健人×佐野繁次郎ドローイング/シネマ」展会場配布資料「433 is 273 for Silent Prayer」に拠る。)

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その8

「祖父佐々木小太郎伝」第8話 小話四題
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 
その一
昭和三年、世界日曜学校大会に出席し、アメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見た中で、バークレー市のカリホリニヤ大学で電子顕微鏡を見せてもらい、それを応用して写真が物を言うところも見せてもらった。すなわちトーキーで今だったら別に珍しいとも不思議とも思いはしないが、その頃日本にはまだトーキーがなく、映画はまだ活動写真と言って、動く写真だけだった。

それが物を言うのを聞いて、世の中にはまだ人間の知恵では計り知れない不思議のあることを知って、私は今まで聖書にある奇跡というものを信じることが出来なかったが、この電子の不思議を見て、マリアの懐胎も、五つのパンと二匹の魚とが五千人の空腹を満たしたことも、さては水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエイスなど、数々の奇跡も、必ずしもあり得ないことではないと信ずるようになった。

 
その二
それからウイルソン山上の天文台で、世界第一の直径百インチの大望遠鏡で、夜の木星を見せてもらって、今更のごとく宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、一層敬虔の念を深うしたのである。

 
その三
帰路シアトルから加賀丸という大きな船で北回りwして帰る途中、猛烈な暴風に遭い、どの船室にも海水が侵入して、乗客一同生ける心地もなく立ち騒ぎ、食事をとった者は一人もなかった。

私はこの時ひたすら神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず、体もあまり丈夫ではない私が、ただ一人平気で食事も常のごとく摂ったものである。私はガリラヤの海の難船で、ただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めた時、「ああ信仰薄きものよ」と憐れみ、たちどころに波風をしずめ給いしことと思い合わせ、それとは比べものにならないが、やはり、信じたから、祈ったから、弱い私があれだけ強かったのだ、と思わざるを得なかった。

 
その四
これは昭和十五年上海に行った時、ホテルから外出しての帰り道、中国人街見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車の通っている大通りから、とある横道に入った。折から夕刻で、中国人はみな軒下に集まって、にぎやかに食事をしている有様などを物珍しく眺めつつ町を歩いているうち、日も暮れかけ、雨さへえ降ってきたので引き返し、元の電車道に出て帰ろうとしたのであるが、どこをどう迷ったものか、道は見たこともない川にぶつかってしまった。

地図を見ても見当がたたず、雨はますます激しくなる。中国人が食事などをしている軒下は通れず、ズブ濡れで町をあちこっちと歩き回った。どの道を行っても川に行き当たるばかりで、電車道には出ない。ますますいらだち、ますますあわてる。尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもならない。

ふと通り合わせた中国人の人力車夫に指を輪にして「金はいくらでも出すから乗せろ」という意味を身振り手振りで示して乗せてもらった。幌があるから濡れないだけでも極楽だ。こうしているうちにはなんとかなるだろう、と思っていたが、そのうち車夫がこの得体の分からぬ客を持て余したのか、「降りろ」と要求しだした。

私は財布から金をつまみ出して、「これだけやるから、もっと乗せろ」というのだが、車夫は正直に二十銭だけとって私を引きずり降ろしてしまった。私は途方に暮れて、もう歩く気もしない。

その時だった。私はやっと気づいてそこに佇み、救いを求めて一生懸命神に祈った。すると「その道を真直ぐに行け」という神のお告げを感じたので、元気を出して歩いた。
しばらく行くと兵隊らしい者に出会った。

兵隊らしい者は、途端に銃を構えて「止まれ!」と怒鳴り、誰何されたが、日本の兵隊だと分かった私が訳を話すと大いに同情して電車通りに出る道を教えてくれたので、ようやく無事にホテルに戻ることができた。

前の難船の話とともに、これは私が子供の頃から持ち続けてきた「祈れよ、さらば救われん」の実証で、私が七十年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを疑わない。

 
あとがき
往年私が波多野鶴吉翁伝を書いたとき、それまであまりご交際もなかった佐々木さんからひどく褒めてもらい、深く感謝された。私はそれが丹波で初めて知己を得たような気がしてうれしかった。とともに、佐々木さんが無二の波多野鶴吉翁崇拝家であることを知った。

その後佐々木さんの丹波焼蒐集のお手伝いをしたりしているうちに、だんだん御懇意になり、時に身の上話なども伺ったのである。

最初母の眼病(「本書第一話」)の話を聞いた時、何という哀れな話だ、まるで浄瑠璃の赤坂霊現記を実話でいったようなものだ、と涙をこぼしこぼし聞いた。次に「父帰る」(本書第五話)を聞いた時、これはまた菊池寛の「父帰る」そっくりだと思い、「いつか私が暇にでもなりましたら、そんな話を私の筆でひとつ書かしていただきたいものですなあ」とあてもないことをいったのである。

その暇な時が頽齢七十になった私に回ってきたので、「ひとつ書かしてもらいますわ」ということになって、ことし晩秋の頃から年寄り二人が行ったり来たりして、書けたものをどうするというあてもなく、ポツリポツリと始めた仕事である。

佐々木さんは私より一つ年下であるが、まるで青年のごとく若々しく、記憶も至極確かであり、話もまことに卒直で書くにも書きよかった。私は今までこんな楽な書き物をしたことがなく、高血圧静養中の退屈しのぎの気まま仕事として願ってもない仕事だった、

やっている間に佐々木さんは、「これを本にして古希祝賀の記念にしたい」といわれ、佐々木さんの家で働いた人たちで結ばれている「佐生会」の人々にも相談して実現されることになり、途中から急に油が乗ってきたわけである。

ところが私の老筆はすでにカラカラにちび、それが高血圧二百の老身を労わりつつ、こたつ仕事でポツリポツリとやったのであるから、さっぱり問題にならない。あえて佐々木氏知遇の恩に酬うるに足らざるばかりでなく、「齢長ければ恥多し」を感じて、深く自ら恥ずる次第である。

 

    昭和二十八年歳晩  
                              生野の里にて 村島渚記

 
 

あとがきのあとがき

この半生記は、あとがきで村島氏が述べられているとおり、古希になった祖父が過ぎし波乱万丈の生涯を小冊子にまとめて親戚に配ったものをほとんどそのままリライトしたもので、孫の私も知らなかった行状が事細かに記されているのに驚きましたが、それ以上に明治、大正、昭和三代を駆け抜けた実業家、篤信家の波乱万丈、有為転変の軌跡が生き生きと活写されて興味深い読み物になっていると思います。

明治18(1885)年2月22日、京都府の山陰地方の小さな盆地、綾部に生まれた祖父は、その生涯の大半を養蚕教師、野心的な商人、宝生流の能楽師、経営者、そして敬虔な基督者として活動しましたが、昭和37(1962)年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、あえて不遜な形容詞を使うなら、まことに恰好良く、78歳で天に召されました。

旧約聖書の「士師(しし)記」に、窮境を跳ね返して剣をもって奮戦したギデオンという立派な義士が登場しますが、この勇者の名前を冠した「国際ギデオン協会」という1899年に設立された組織があります。

わが国にも支部があって、昔からホテルや病院、刑務所などに臙脂色の表紙の英和併記の特別製聖書を寄付しているのですが、晩年の祖父は、この「ギデオン協会」のボランティア活動に熱中し、大津ホテルでの最期のスピーチもこれに因んだものでした。

全8回にわたる祖父、佐々木小太郎の半生記をお読みいただき、まことに有難うございました。

 
2024年3月20日
佐々木 眞

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その7

「祖父佐々木小太郎伝」第7話 ネクタイ製造
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

昭和三年、世界日曜学校大会が米国ロスアンジェルスで開かれた時、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表中に選ばれて渡米した。その時私は、日本の主要輸出品生糸の消費状況に特に注意を払って視察した。

米国滞在中、しばしば信者の家庭に泊めてもらった。どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、二三十本のネクタイがかかっている。婦人の部屋には靴下掛があって、十数足の靴下がかかっているのを見た。

この需要の多いネクタイと靴下は、無論米国でも盛んに作られているが、まだまだ輸入の余地がある。なお日本の洋服着用者が年々激増しているから、日本におけるネクタイ、靴下の需要も激増するであろう。
いま日本は、大量の生糸の殆ど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をもって、需要の多いネクタイ、靴下に成品して内外の需要に応じたら有利だろう、と考えた。

またネクタイの方は小資本でやれるから、これはひとつ自分でやってみよう。靴下の方は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみようと思ったのである。

さて帰国して、郡是に靴下製造を勧めてみたが、遠藤社長、片山専務は、あくまでも製糸一本鎗を主張し、テンで耳を貸さない。ただ一人取締役平野吉左衛門氏は、あの温厚な人が非常な熱意を示してこれを聞き、その後も度々意見を求められ、遂に平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として昭和四年塚口に設置され、一時試練時代の苦悩はあったが、今は靴下製造がやがて製糸を抜いて、全郡是を背負って立たんとする勢いを示している。

ネクタイの方は、私がアメリカから帰ると間もなく父が死に、この時都会の生活に疲れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同で経営することにしたのは、前節に述べた通りである。

その頃アメリカでも日本でも、網ネクタイが流行していた。これはしごく簡単な設備でやれるから、少額の自己の資本だけで大阪都島に小工場を設けて創業し、その後二、三の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡張し、ようやく確信を得て、昭和十年資本金二十万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を立ち上げた。

東洋ネクタイ製織所は、本社を大阪に置き、原糸を郡是に仰ぎ、京都西陣にネクタイ織物工場を新設、加工工場を東京、大阪に設け、染織を京都の一流工場に委託した。
厳格な製品検査を実施し、織、縫を一貫するネクタイ工場として、他に譲らざる体様を整え、一意良品の輸出に勤めたのである。

また波多野鶴吉翁が、郡是を創業、経営した精神に学び、次のごとき念願を定めて、一に神の御旨に叶う工場たらしめんことを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けつつ、われらのささやかなる営みが、主の栄光を顕わす一端たらんことを祈りつつ進んだ。

 

吾等の念願

一 イエス・キリストを当社の社主と奉載して、日々その聖旨に従い、之を忠実に行わんことを期す

二 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以て、すべてのことを為さんことを期す

三 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙虚を以て修養し、自己品性の向上を図るため最善の努力をなさんことを期す

四 常に考え、常に学び、常に励み、しかして常に何物かを創造せんと努めることを期す
五 目的達成のため信仰を養い、終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし、との信念を以て前進せんことを期す

                              株式会社 東洋ネクタイ製織所

 

私は昭和四年創業の当初から、年々洋服着用者の数を調べるため、調査員を四条大宮の京阪食堂の二階に陣取らせ、下の道路を行く洋装者を数えさせた。

最初の昭和四年は一時間に男子洋装者は三人くらい、女子は勘定にかからんほど少なかったが、三年経つと二倍に増え、その後の増加はまた著しいものだった。そんなことから考えて、工場をだんだん拡張していった。

ところが昭和十年に株式会社に改めてから、生産も大いに増加し、どうしても有力なデパートに売り込まなくては、製品の捌け口が足りないことになったので、その売り込みを始めた。

ところが、原糸から染め、織り、柄、加工のすべてに最善を期し、どこの製品と比べても遜色がなく、しかも値段は格外に安くしてあるのに、どこのデパートも全然相手にしてくれない。

本間俊平先生が、大丸重役の信者を通じて、一度買ってもらったが、あとが続かない。
賀川豊彦先生にも見本を持って頂いて、あちこち運動してもらったが、これもダメだった。

どうも不思議だと思って、いろいろ探ってみると、これはデパートの仕入れ係につかませたり、ご馳走したりして十分ご機嫌を取り結ばなければ、いかに良い品を安くしても、見向いてもくれないものだ、ということが分かり、弟ははやくそれをやろうといってあせるのであるが、いやしくも社主にキリストを戴いている私の会社で、そんな真似はできない。

ちょうどその頃、阪急百貨店が開業早々だったので、私はひとつ天下の小林一三さんにぶつかって、何とかして阪急に売り込もうと、一日阪急に小林社長を訪ね、見本を見せて取引を懇請した。

小林さんは、係の者にもそれを見せ、一応製品の優秀性は認めてくれたのであるが、値段があまりにも安いのを不審がり、しきりに小首を傾けるのである。

そこで私は、それは私の会社のは、他社のごとく仕入れ係への高い運動費を含まないだけ安いのだ、ということを、社主キリストの精神から説いて、大いに小林さんをけむに巻いたのである。

小林さんは、「よく研究して返事をする」ということだったが、私は確かな手ごたえがあったと感じた。

果たして数日すると、小林さんがただ一人自動車で「あなたの会社を探すのに一時間もかかった」と言いながら来訪され、次のような話をされた。

「いかにもあなたの言われる通り、開店間もない私の店の仕入れ係も、ワイロを取っていた。そこで後来のみせしめに、その仕入れ係三人をかわいそうだが解雇した。今後私の店は、あなたの会社のネクタイを中心に売ることにするから、せいぜい勉強して入れて下さい」と、まことに小林さんらしいパリッとしたご挨拶である。

それから阪急との間に、誠意を尽くした取引が始まった。
それはよいのだが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。

「その三人を私の会社の売り込み係に採用したい」といって小林さんに頼むと、就職難の時代ではあるし、大喜びで来てくれた。
二人は慶応出、もう一人は神戸商大出の優秀な青年で、よく働いてくれた。

「阪急のネクタイは安くて品が良い」という評判が立って、飛ぶように売れ、たちまち他店の売れ行きに響いたので、早くも大丸が二度目の注文を寄越したのを皮切りに、高島屋、三越、十合(そごう)、丸物に入れ、東京では、綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、続いて松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)など、その他岡山、広島の大百貨店とも取引が始まった。

多くはその店の株も持たされて、親善関係を結び、製品はどんどん売れ、我が社は繁盛したので、進んで輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込んだが、これは上海で米国製品に化けて売られたので、あまり名誉なことではなかった。

ネクタイの生命は、柄にあった。これで他社にヒケをとってはならじ、と京都高等工芸出の意匠図案係三名に、欧米の流行を参考して研究工夫させた。

たまたま郡是に、スンプ*という顕微鏡のプレパラート同様のものがあり、極めて簡単、即座に作れるものが発明されたのを応用して、動植物の部分を拡大して検べてみると、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠が得られて製品の柄、模様に一新機軸を開くなど、ネクタイ製造に独特の地位を占めた。

このように我が社は、戦前の日本産業大飛躍時代に小粒ながらも一役を買ったのであるが、時代はやがて日華事変となり、それが太平洋戦争に進む頃には、洋服も背広も廃れて、国民服に取って代わられ、ネクタイは贅沢品として、さっぱり売れなくなってしまった。

あまつさえ昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしまったので、会社は解散のやむなきに至った。

戦後になって復興させたが、今度は思い切って趣を変え、家内工業の小工場十余箇所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、兄弟二人だけの当初発足の昔に還った。

弟の死後は、長男がその後を継いで今日に及び、戦前ほどの華やかさはないが、まず以て堅実な経営を続けている。

 

*スンプとはSuzuki’s Universal Micro-Printingの頭文字をとったもの。郡是の鈴木純一が発明したプレパラート作製の一方法で、物体の表面の観察に用いられる。適当な溶剤で表面を柔らかくしたセルロイド板に被検物を圧着し,乾燥後これを取り除く。セルロイド板上には被検物の表面構造が転写されて残るという仕組みである。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その69

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年1月

紫式部、なにするひと?
御本を書いたりするひとよ。
ボク、みますお。
みようね。

鎌倉、ツツツー、のあるとこですよ。
コウ君、ツツツーの信号、まだ苦手なの?
ダイジョウブですお。大丈夫。

コウ君、歯医者さんで虫歯を治してもらおうね?
嫌ですお。ダイジョウブですお。大丈夫。

ボクはねえ、オオヤさんとマイさん両方好きですお。
そうなんだ。お母さんも。

まひろ、泣いちゃったよ。
大丈夫だよ、コウ君。

まひろ、寂しかったんだよね。
そうだね。

ボク、まえポンキッキ好きだったんだお。
そうなんだ。

ボク、「光る君へ」の音楽、好きですお。
へえ、そうなんだあ。

 

2024年2月

めぐりあうって、なに?
また会うことよ。

お母さん、これなーに?
これはね、シロヤマブキの実なんだよ。
はい、わかりましたあ。

請求書って、なに?
これだけお金使いましたから下さい、というお知らせよ。

お父さん、あした石原さとみの番組、録画してくださいね。
分かりましたあ。

コウ君、うちのお金を黙って使うの、ドロボウだよ。ドロボウどうなるの?
ケイサツにつかまります。
つかまると、どうなるの?
困ります。
そうでしょう。ドロボウしたらダメよ。
分かりましたあ!

ドロボウ、困ります。うちお金ないのよ。
はい、分かりました。大事に使います。

ボクはイイコですよ。
そうなの? ワルイコは?
ドロボウですよ。
コウ君、ドロボウ?
違いますよ。

比較的って、なに?
わりあい、よ。

タイミングって、なに?
ちょうどいい時よ。

「転校生」で蓮佛さん、死んじゃったでしょう?
死んじゃったね。

お父さん、ホンマって、なに?
ほんとう、のことだよ。ホンマカイナ、ソウカイナ、エーだよ。

ボクは我慢できます!
なにが我慢できるの?
分かりませんお。

コウ君がどんどん遣うから、うちのお金、全部なくなっちゃうよ。
ぼく、無駄遣いしませんお!

お母さん、ごめんなさいとボクいいました。
お母さんのお財布の中のお金はお母さんのお金です。コウ君のお財布の中のお金がコウ君のお金です。
分かりました、分かりました!

お母さん、モリダクサンて、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その6

「祖父佐々木小太郎伝」第6話 弟の更生
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

私には金三郎という、たった一人の弟があった。この弟が十三、私が十七の時、忘れられぬ思い出話がある。

その時、私は蚕糸講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中だったが、家は貧窮のどん底に落ちてしまったので、弟は学校をやめさせて京都へ奉公に出すことにし、私が連れて行った。

京都へ着くと、丹波宿の十二屋に落ち着いてから、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れていき、私はその夜十二屋に泊まり、朝発って帰ろうとすると、弟が帰って来て「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部へ帰る」というのだ。

私はそれをいろいろとなだめすかして、主家下村へ連れていき、家の人にもよく頼んで、逃げるようにしていったん十二屋へ戻ったが、何だか弟が後を追ってくるような気がするので、それをかわすつもりで、知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、大変な人混みの中へ出てしまった。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいだったのだが、少しブラブラして道を尋ねて桂へ出、丹波街道を園部へ向かって歩いた。

私は家を出る時、少しばかりの旅費しか貰わなんだので、一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、この時財布に十二銭しかなく、これでは昼飯を食ったら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのまま、とうとう園部にたどり着いて、来がけにも泊まったかいち屋という宿屋に泊まった。

十二銭では、まともな泊まり方はできない。
私は、「胃病だから晩飯は食べない」と言って直ちに床に入って寝た。
裏を流れている川の瀬音が、昼飯も晩飯も食べないスキハラにひびいいて、なかなか寝付かれなかったその夜の情けなさが、今も忘れられぬ。

朝は宿屋がお粥を炊いて、梅干を添えて出してくれた。
それを残らず食べて宿賃十銭を払うとあとは二銭。宿屋が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と言って裸足で宿を出、道々落ちわらじを拾って、はいては歩いた。

昼頃になると、朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句、寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているから、何か食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬を副えて出してくれた。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼に置いて、一文無しになって明け方川合の大原に着いた。大原には貧しからぬ父の生家がある。そこで出してもらったお節句の菱餅をイロリで焼く間ももどかしく、まるで狐つきのように貪り食い、そのまま道端で寝込んでしまった。

さて私の弟は、メジロ獲りが上手で、メジロを売って儲けた十銭だかの金を、後生大事にこの時の京都へ持っていったものだ。
弟はこのチリメン問屋に三、四年くらいいたと思うが、「アメリカに行きたい」と言って、英語の独習などをやっていたが、ついに主家にひまを貰い、神戸に行って奉公した。
渡米の機会を狙っていたものらしい。

それから朝鮮の仁川に行こうと密航を企てたのだが、発見され、仁川で降ろされた、ということだった。仁川では、日本人の店に勤めて、なかなか重用されていたようだが、その後徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営した。

明治四十四年に退営後、福知山の長町筋に家を買い、嫁も貰ってなかなか盛大にメリヤス雑貨の卸問屋をやっていたが、その資金などをどうしたものかは分からない。
その頃の私の家は、相変わらず貧乏だったはずだが、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまた儲けて盛り返し、七転び八起きしたもんだから、あるいは調子の好い時、弟に相当の資金を与えたのかもしれない。

ところが弟は女房運が悪く、初めの嫁は離縁し、二度目の嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという身分不相応の大大尽遊びなどをやって、とうとう福知山で食いつぶしてしまい、京都へ出て西陣の松尾という大きなメリヤス問屋の番頭に住みこみ、そこで好成績をあげて主家に信頼され、間もなく自立して同商売の店を持ち、なかなか好いところまでやっていたのであるが、またもや酒食に身を持ち崩し、手形の不渡りなどで度々窮地に陥り、そのたびに私のところへ無心にきた。

その都度私には内々で、妻がだいぶ貢いだものだが、結局京都の店は持ち切れず、東京に逃げ、ここでも一応成功していた風だが、大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったようだ。

それから大阪に帰り、親戚をたよって、今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったので、手慣れたメリヤス雑貨にかわり、ここで嫁を貰って、今度は堅気になるかと思ったら、また性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃめちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ好くないことをやったとみえて、警察から綾部の私の家へ弟のことを尋ねてきたりして、ひどく心配したものだ。

その時父の病が篤く、電報で知らせたのだが、なかなか帰ってこない。
ようやく帰ってきて臨終に間に合ったが、これがまた隠岐から帰った時の父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿だった。
後で聞けば帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内の方まで行って、友だちに帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということだった。

葬式の時は、幸い私が夏と冬のモーニングを作っていたから、夏の分を弟に着せ、ちょうど四月の花時分だったので、どうにか恰好がついたのであった。

さてこの弟について、私はこの際、父の形見という意味で三、四千円の金を与え、好きな所へ行って、好きな仕事をさせようと思った。
実を言えば、この道楽者とは、後難のないよう、きっぱり縁を切りたかったのである。
それを弟に、今日は言おうか、明日は言おうか、と折を狙っていた。

だが私は、キリスト教入信以来すでに十余年、弟に対してこんな仕打ちをすることに対して、愛の足らぬことを深く反省させられた。
これは全然肉親の愛情に欠けた、神の御旨にそむくことで、クリスチャンのやるべきことではない、と思い直した。

かつて本間俊平氏から聞いた、氏が、凶悪な強盗犯の免囚を、自己の経営する大理石工場の金庫番にして更生させた話を思い出し、ただ己の安きを求めて弟を疎んじるようなことせず、「救わるるも、滅ぶるも、いっさい弟と共に」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから容を改めて弟に語った。
はじめに私の考えていたことが、まったく兄弟の義に背いた悪魔の考えだったことを述べて、「まことにお前に対して申し訳ない」と、手を突いて詫びた。

すると弟は、オイオイ泣き出して、「兄さん何をいうのだ。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうか手を上げてください。皆私が悪かったのです」と、気狂いのようになっていうのだった。

互いに心の奥底まで打ち明けて、兄弟の間の溝はすっかり取れ、弟が京都へ奉公に行った時のことを思い出して、神の前に幼子となり、「兄弟力を合わせて一仕事やろう!」と誓い、私の希望を容れて、弟は酒も煙草も絶って、更生することを誓った。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も、永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して、次節に記すつもりだが、私が財産の大部分を投じ、兄弟共同の事業として経営したネクタイ製造業に粉骨砕身し、よく私を助け、持ち前の商売上手と過去の経験を生かして、工場を守りたててくれた。

昨年十二月、私の家に弟が来た時、私は鯛づくめの御馳走をつくり、絶対に買ったことのない上等の酒二合を求め、私が手ずから温めて弟に勧め、「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり呑んでくれ」といって、とりもった。

弟は、「こんなうまい酒を呑んだことがない」といってよろこんだが、血圧が高いからといって、みなまでは飲まなかった。

その時弟は、死んだ妻のことを「実に良い姉さんだった」とほめ、「私が酒をやめてからこのうちへきて泊まる時、姉さんは、土瓶の中へお茶と見せかけて酒を入れ、私の枕元において飲ませてくださったものだ」と白状した。

それから弟は、「私は、ほんとうはキリスト教に入れてもらいたかったのだが、私のような者は、とても入れてもらえんと思って、今まで黙っていた。兄さんはきっと長生きされるが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでも、キリスト教でしてもらえまへんやろか」といった。

私は、「お前のその心が、すでに神に通じとるのだから、葬式などわけもないことだ」と返事しておいたが、その言葉がシンをなした如く、ことし五月七日脳溢血で死に、葬式は遺志の如く、京都紫野教会で山崎享牧師の手によって行われた。

遺児男二人、女一人、いずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くより父の業を継ぎ、弟は、後顧の憂いなく安らかに眠った。
神の御恩寵は、私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かだった。
感謝の至りである。

 

 

 

西暦2023年11月25日から26日に朝にみた夢

 

佐々木 眞

 
 

 

ある夏の日の朝、突然あらゆる交通機関が停まってしまった。

大勢の人が職場へ行こうとしても、電車もバスもタクシーも動いていないのでどうしようもない。
その結果、国民の大半が丸一日自宅待機の状態になってしまったが、
このことについて当局からの発表は何もなく、マスコミも何も伝えない。

人々は疑心暗鬼に駆られながら眠れない夜をすごしたのだが、
夜が明け、翌朝になっても事態は何も変わらず、
電車もバスもタクシーも、まったく動いていない。

ここ首都圏から少し離れた海辺の旅館では、朝から宿泊客たちが大広間に集まって、
三々五々ああでもないこうでもない、と口々に自分の意見を述べるのだが、
相変わらず確かな情報はどこにもない。

旅籠のおかみの老婆が、勘定場から出てきて、最新の国連情報を披露したが、
その話の中にも、今回の事件に触れた発表は何もなかった。
すると、なぜかおらっちの弟の善チャンが出てきて、母の愛子さんから聞いた話を始めたので、
何か重大発表かと思ったみんなが耳を澄ませると、案に相違してこんな昔話だった。

今からおおよそ半世紀前の昔、
夏場は臨海学校だったその旅籠で、中津川のおばさんは、まだ幼かった愛子さんに
「この世は所詮へのへのもへのやけど、とりあえず毎日早寝早起きせんといかんで」
と、噛んで含めたそうだ。

 

2024/1/23

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その5

「祖父佐々木小太郎伝」第5話 父帰る
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

前にも述べた通り、私の父は酒好き遊び好きで、飲む、打つ、買うの三拍子を、いずれ劣らず達者にやったものだ。それがいつまでたっても目が覚めず、四十を過ぎても五十を越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさ……もともと商売上手と人にもいわれ、世間の気受けもよく、金も相当儲けてきたものであるが、何分お人好しで、勝負事をしても人に取られるばかり、(おもに花をやった。本バクチはやらなかった)そのくせ大きなことが好きで、コメや相場に手を出して、身上にまたしては大穴をあける。金のかかる女出入りも絶え間がない、といった具合だから好い目の出よう道理はなく、母が忠実に守る履物屋の店もだんだんさびれ、借金は増す一方で家計は一日一日と窮地に追い込められていった。

その火の車の中で、明治四十三年四十九歳で母は病死した。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしめばいとおしむほど、父への憎しみが深くなるのを、どうすることもできなかった。母のかたき、と私の父を見る眼は日増しに険しくなった。

母の死後ますますヤケになった父は、もはやわが家にも綾部の町にもいたたまれなくなって、大正元年、五十八の好い年をして若い芸者を連れて、世間には内緒で隠岐の島へ逃げて行ってしまった。

私はそれを舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむというしおらしさなどはどこにもなく、父にもなかった。

父を送って帰った夜から、早くも債鬼は門院に迫って、私を借金地獄に追い込んで、貧乏あずりにあがき苦しむ日々が続いた。幸い私はこの四苦八苦の逆境を案外早くきりぬけて、借金払いも大体済ませ家業に忠実な妻と共に、履物店も旧状以上に回復し、生活もほぼ安定し、郡是株の強行買が当たって、だんだん好い目がが見えてきた。

今までは思い出す隙もなく、もちろん父からは一度の便りとてなく、人のうわさにも聞かず、その消息は一切分からなかった。その父が、ひょっこり帰って来ようとは、夢にも思わぬことだった。

大正五年、師走も近い冬の一夜、綾部の町には人声も絶え、寒い木枯らしが町を吹いてガタガタと障子に音雄を立てていた。

真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトとたたく者がいる。静かに、あたりを憚るように。
「どなた?」と訊ねても返事がない。うかり開けられぬと思ったが、泥棒とも思われないので、妻菊枝と二人で立っていって開けてみると、父だった。

父帰る! この寒夜に上に羽織るものもなく、汚れた筒袖姿の、四年見ぬ間に六十の坂を過ぎて、追いやつれてみすぼらしい父が、ションボリと戸の外に立っていた。
おずおず敷居をまたいで中へ入るなり、土間に身を投げくどくどと前非を悔いて詫びいる父に対して私の眼に涙は浮かばず、私の口はやさしいいたわりの言葉を発することができなかった。

この冷たい私とは反対に、私の妻は父に対してやさしかった。食事を供し、着替えを与え、暖かい寝床に寝させていたわった。その後もけっして悪い顔を見せず、明け暮れの世話をよくし、私に内緒で小遣い銭なども与え、キチンとした身なりをさせて大切にした。

しかしながら妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。「そんなにまでせんでもよい」と口に出して叱ったりもしたが、ひたすらに父を憐れむ妻の純情にほだされて、私の頑な心も少しづつほぐれていった。

父は隠岐にいる間のことをあまり語らなかったが、やはり腕に覚えのある桐買いをやり、これを加工して下駄の素材を造っていたものらしい。ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れていた芸者に逃げられ、寄る辺はなし、せんすべ尽きてようやく松江に渡り、そこで歯科医をしていた君美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、綾部まで帰ってきたということで、しばらくは乞食同様の見過ぎをして放浪していたものとみえて、からだ一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの着物は垢だらけシラミだらけで、これを退治るのに妻は困ったということである。

妻はどこまでも父に親切だった。一人では寂しかろうと福知山の実父に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室を与えて寝起きさせたが、二年ほどすると女が病死してしまった。

すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部を支払って世帯を持たせた。その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しい時には、随分よく手伝いもしてくれた。

ところが父と同居していた未亡人が、息子の朝鮮移住について行ってしまった。その時父はすでに七十を過ぎていたので、家に引き取った。父は孫娘の守りなどをして好いおじいさんになりきり、昭和四年四月、七十五歳で死んだ。

最後の二年ほどは盲目になったが、楽しみのない父を慰めるために、私は早くラジオを買った。綾部にも、福知山にもまだラジオ屋がなく、大阪から五つ晩泊りで技術者が来てとりつけたが、町では郡是、三ツ丸百貨店の次だった。

なお父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に丹陽教会の岡崎牧師から洗礼を受けた。

今から思えば、それはどうすることもできない宿命的のものではあったが、私はあまりに父を憎み、父に冷たかった。おちぶれ果てて隠岐から帰ってきた時、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかもしれない。

「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せねばらなむことが数々ある。なかでも私が冷酷であった父に対して、私の分まで孝養を盡してくれて私に不孝の謗りを免れさせ、不孝の悔いを残さずにすませて呉れたことは、妻に対する最大の感謝である。

 

 

 

こころを濡らす

 

佐々木 眞

 
 

久し振りに新橋のヘラルド・エースの試写会に行くと、いつものように最前列の左端に座ったヨドチョーさんが、声を枯らして
「映画を見なさい、良い映画を見ればこころが濡れますぅ」
と、皆に聞こえるように叫んでいた。

たぶん先日ここで上映された、『ローマの休日』事件のことをいうておるのだろう。

その日、おらっちときたら、あろうことかローマの宮殿で、王女のオードリー・ヘプバーンが「ローマ、断然ローマです」
というた瞬間、大の男が大声を上げて、泣いてしまったのだ。ほかの映画ヒョーロンカ連中が、誰も泣かなかったのにぃ……

くそったれ、一人くらい、泣けよ、
こころあらば、こころ濡らして、泣けよ!

こころ優しいヨドチョーさんは、おらっちのそんなこっぱずかしい噂を、紳士的に打ち消してくれようとしているんだろう。
有難いことだ。

まもなく、本日の試写が始まった。

上映されたのはタランティーノ監督の『レザボア・ドックス』だったが、あまりの暴力シーンの連続に、おらっちが狭心症の軽い発作を起こして
ニトログリセリンの白い錠剤を1粒飲んでいると、真中へんに座っていた落語家のタテカワダンシが、

「糞面白くもない、こんなエイガ見てられっか!」
と叫んで、隣の太った手下に「おい、けえるぞ」と告げて、会場からあらあらしく出て行った。

ヨドチョーさんも、おらっちも、それ以外の人も、試写会場の扉がグラグラゆれて、外光がチラチラ漏れ入るのを、みんな見ていた。
まるで『レザボア・ドックス』が、スクリーンをはみ出したみたいだった。

おらっち、なんせ招待された身だ。
いくら下らない映画でも、ダンシ師匠ほど勇気がないので、出ていけない。
じっと目を瞑り、心臓を抑えに抑えて、地獄のような100分間に耐えていた。

ヨドチョーさん、
こころを濡らす映画があるように、
こころを壊す映画もあるのです。

 

 

 

如月の歌

 

佐々木 眞

 
 

西暦2023年を総括する「現代詩手帖」の12月号を、ざっくり読んではみたけれど、どの作品のどの1行にもさしたる感銘を受けず、
それならむしろ谷川俊太郎翁が、今年の1月24日付朝日新聞の「どこからか言葉が」で書いている

  意見は言わずに 詩を書きたい私です
  書き続けるうちに意味に頼らない言葉が雪のように舞い降りてくる

の、「意味に頼らない言葉」の一語のほうが、よっぽどインパクトがあるんじゃないかなあ、と思った。

が、待てよ。
これまでおらっちの腹にガツンと来た、「意見や意味に頼る言葉」だってたくさんあったはず。
急遽そいつらを呼び出して、今宵の座興にしてみようじゃんか、と思いついた次第。
あえて出典は示さないので、お暇なときに探してみてくださいな。

*西暦2024年如月に贈る言葉10選

「われ、山に向かいて目を挙ぐ」

「舗道の下は浜辺」

「すべての武器が楽器になればいい」

「あヽ中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に 突き刺され!」

「砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく」 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」

「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」

「人世に意味を! 詩に無意味を!」

「かれは、人を喜ばせることが、なによりも好きであった」

「いかのぼりきのふの空のあり処」