武器を楽器に

 

佐々木 眞

 
 

能登半島地震では、家が潰れ、230人もの死者が出て、遭難者は寒さに凍え、
水や食物もなくて泣いているというのに、おらっちときたら、朝から晩まで、
コーヒーメーカーがコーヒーを抽出しない、と大騒ぎしていた。

ガザでは、悪辣非道なイスラエル軍が、おんなこどもを含むパレスチナ人を、
見境なしに殺しまくっているというのに、
おらっちは、昼ご飯をラーメンにするか、讃岐うどんにするかで、ごっつう悩んでいた。

ウクライナでは、怪僧プーチンが、おんなこどもを含むキーウ市民を、
ミサイルや無人機で、見境なしに殺しまくっているというのに、
おらっちは、川柳がうまくできないので、終日いらだっていた。

でも、
あっちは戦争、こっちは平和
あっちは地獄、こっちは天国

と、簡単には決められなくて、
戦火のさなかにいるひとが、かえって生き甲斐をかんじていたり
いっけん平和のなかにいるひとが、半分死んでいることだって、ありえるのよ。

でも、でも、
おらっちが悪いのか、そっちが悪いか、知らんけど
にんげんが悪いのか、神さんが悪いのか、知らんけど

いくさ、やめないか?
いくさ、もう、もう、やめないか?
いくさ、はよ、はよ、やめてけれ。

ああ、世界中の人々が願っているように、
すべての武器が楽器になればいい。
そうすればおらっち、もっと大きな声で、生きてる喜びなんかを、歌えるのに。

 

 

 

「夢は第2の人世である」第104回

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年9月

有名な思想誌の偽物が登場して話題になっているが、そこでは本物そっくりの偽物著者が本物の論旨を借りて、正反対の結論を出している。つまり思想なんて筆先三寸でころころ変わるし、変わっても構わないものなんだ。9/1

ある多忙な人物とのインタビューを頼まれたのだが、「4つの質問を4分以内にせよ」という条件がついていたので、そんなアホな、と断ってしまったのだが、うんと簡単な質問なら可能だったと、今頃になって後悔しているずら。9/2 

「です・ます体」でものを書くと、その噺をとりまくもっともらしさが次第に消え失せて、噺の真正さと空恐ろしさが浮き上がって来たので、怖くなって、「である体」に切り替えてしまったのよ。9/3

A子さんはとても素晴らしい人なんだが、突然選挙に出たら、見事当選してしまったので、ほんにんも、おらっちも、吃驚仰天だった。9/4

八百万神が列島に降臨して、1968年をもう1回やり直して、全国民が生き直すことになったらしい。もしかすると、国と民草の運命が、劇的に回天するのではないかと、みな興奮しているようだ。9/5

その住宅会社では、おらっちが画用紙に悪戯書きした童話風、あるいは漫画風のスケッチに基づいた一戸建て住宅が、ジャカスカ現場で採用されていったので、おらっちは時折恐ろしくなったものだ。9/6

道端に栗が落ちていたので、それを拾って進んで行くと、子どものコジュケイに出くわしたが、黙って電柱の陰に消えていった。そのとき、一陣のそよ風が「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」と囁くのだった。9/7

20代の若さで夭折した、天才キダンを悼む人々の群れ!9/8

ジャニーyouのおらっちは、ウィーン少年合唱団の童たちをアルファベット順に呼び寄せ、毎晩彼らに奉仕させて、おらっちの精液を愛らしい口唇に注ぎ込んでいたが、誰一人知る者はいなかったずら。9/9

某社のホームページの評判が悪いので「なんとか改善してほしい」と頼まれたので、冒頭の気持ち悪いブグウギ人形のダンスシーンを削除したら、それだけで注目率が倍増したのだった。9/10

頼んでいた本がようやく届いたが、とても時間がかかった。日本歴でいうと明治、大正、昭和、平成、令和、緑藻、弁義、下痢と流れ下って、いまは雲古の時代だが、そのかみの明治の初版本を発注したのだから、推して知るべしである。9/11

施設の職員なんて安月給に決まっているのに、長男は時々ヒガさんにファミレスに連れて行ってもらって、大好物のロースカツを御馳走になっているらしい。困ったことだ。9/12

住み込みのバイト学生の私は、「その子を落語が分る人間に育ててくれ」と両親から頼まれていたのだが、私自身あまり落語に詳しくなかったので、落語塾は諦めて、誰でも入れる千駄ヶ谷中学校に入学する結果に終わった。9/13

おらっちはスーパーで「トイレットペーパーを拡販せよ!」と命ぜられたが、なにをどうしたらいいかさっぱりわからずにうろうろしていたら、「君はてんで売り上げを伸ばせなかった」と店長にいわれて、直ちに解雇された。9/14

お隣のAさんたちと一緒に、集団検診を受けたのだが、Aさん一家が、突然モザールのオペラのアリアを歌い出したので、みな吃驚だった。9/15

久し振りに電気屋さんに来てもらったのだが、新しい電化製品が物凄く多機能になっているので驚く。しかも以前は10年だった耐用年数が5年に短縮されたので、思わず「原発とは大違いだね」といってしまった。9/16

「こんちは、イデですがあ」というて、茶色い下駄のような顔つきの男が入って来たので、すぐに誰だか分ったのよ。9/17

久し振りに倫敦へ行ったら、ロイヤルアルバート・ホールで、ハイドンの倫敦交響曲の演奏会をやっていたのだが、誰が指揮しているのかは分からなかった。9/18

あたいは、最初の子どもを堕ろされたので、2番目の子どもは絶対に堕ろさないぞ、とぐあんばって産んだのだが、しばらくして、棄てた。9/19

おらっちが、治安維持法で牢屋に入れられている間、なけなしの私財を保管しておいてくれと頼んだのに、案の定その女は、おらっちがシャバに出て来ると、行方を眩ませていた。9/20

毎年来る年金情報の書類で、障害者手帳の発行日を記入させる項目があるのだが、なんでこんな細かいことを書かせるんだと、頭に血が上るが、それらを書き込んだ書類を、1枚1枚確認する役人の顔を見ると、AI貌であった。9/21

棄てても捨てても、婦人便所の壁に浮き上がる4月の蛇じゃった。そこで、カッウーの建設に協力した人たちは。全員殺されたが、しばらくすると、みな蘇えった。9/22

ともかく戦争中のことなので、そのホテルの大半は軍隊が占拠し、わずかに残った地下2階にわたしらは押し込められ、地表を出歩くことも許されなかった。黒澤監督と小津監督を除いて。9/23

名前からしてウオータービルという建物の中に我が社は入居していたが、雨が降る度にフロアが水浸しになるので、社長のおらっちは、いつも大喜びでピッチピッチチャプチャプランランラあン!と歌いながら、長靴を履いて踊っていた。9/24

原発の建設に協力した連中は、殺されても、殺されても、地獄の釜底から蘇って、原発音頭を歌い、猫じゃ猫じゃを、踊り狂うのだった。9/25

おらっちは、組織の上層部からの特命を受けて、上司Мと共に特殊任務に就いたが、いつものように、大嫌いなМの指示は、いっさい無視して、行動した。9/26

ヘンデルのオラトリオでヘンデルノートの私は、歌詞を忘れたので、テキトーに歌いながら、相手役の女の方Hへ近づき、彼女がきちんと下着をつけてるのか否かを確かめよとしたのだが、舞台が薄暗くて、よお分らんかった。9/27

月明かりで時計をみると、まだ1時12分である。これから朝までちゃんと寝られるか、心配で心配で仕方がないが、うまく寝つけるまで、五言絶句を作り続けようと思った。9/28

夢の女に出会ったので、手を繋いで歩き始めたのだが、ふと思いついて女の手をギュギュと握ってみると、女もギュギュっと握り返したので、なんだかひどく安心したことだった。9/29

巣伊水筒の中で、あんきに泳いでいた2匹のメダカが食べられたのは、次のような、長い長い噺が、あるからだった。9/30

 

2023年10月

東大に東大平和会というレコード鑑賞の組織があったはずだが、今はどうなっているのだろう、と思って本郷へ行ってみたが、その形跡はてんで無かった。10/1

日曜日に、家族そろって町に出かけようと、電車に乗った。買い物なんかしてから、また電車に乗って、帰宅しようとしたのだが、乗った車両が、ホームからはみ出していたので開かず、そのまま、隣の駅まで運んでいかれたのよ。10/2

おらっちは、悪人リストをつくっては、順番に暗殺していった。10/3

久し振りにオグロ選手と出会った。彼と会うときはいつもどこかで御馳走してくれたものだが、今回はそういうことを期待することも、また実際にそういうこともなく別れたのだが、何度も御馳走されたおらっちはたった一度も御馳走し返したこともなかったのを申し訳なく思った。10/4

3、4、5番のナンバーが記された名建築家の設計による木製の椅子を、超ヒレツな男が、こっそり教会の外に持ち出そうとしているので、隠し持ったワルサ―で消してやった。10/5

余の畢生の大詩集が陸続と返品になって狭い我が家に殺到するので、寝るところもなくなってしまったずら。10/6

親分がいつのまにか零落したので、仕方なく150人の食客ともども、今を時めき権勢を誇る第一子分のところに身を寄せているそうだ。10/7

こないだタチウオを呉れたお兄ちゃんが表通りを歩いていたので、「やあこんにちは」と挨拶すると、いくら食べても減らない万能御飯を呉れた。10/8

その天気占い師の予報はとてもよく当たると評判なので、試しに手相を見てもらったら、おらっちがいつどこでどんな風に死んでいくのかを延々と語り始めたので、怖ろしくなって逃げ出した。10/9

この辺りは英米贔屓の地方かと思っていたのだが、ことごとく独逸、それもナチ贔屓の家ばかりなので、驚いているうちに村八分に遭ってしまった。10/10

ナンシーが緑色のコンブ状の異物が漂っている風呂の水をきれいにしてほしいと再三再四頼んでくるのだが、そのコンブが大好きなおらっちは、その都度断っているのだ。10/11

眠っている間に大量の寝汗を出しながら、物凄く怖い夢を見たので、夜中に箪笥の中から取り出した別のパジャマに取り換えたのだが、またしても怖ろしい夢を見そうでこわい。10/12

家族みんなで山間の宿に泊っているのだが、とても寒いのでこたつの中に入っていると、いつしか妹と2匹の犬になってしまって、お互いの頭と頭を突き合わせ、もたれあって体を温めあっている。10/13

夕方2匹で宿を出て、くらくふ谷を下って町の方へ降りて行くと、四つ角に大きな獅子のように獰猛そうな謎の動物が瀊居していて、ウオオオ、ウオオオと威嚇するので、怖ろしくなって宿まで逃げ返ったのよ。10/14

宿に戻って、また炬燵に入って2匹の犬になってお互いの頭と頭を突き合わせ、もたれあっていると、だんだん温かくなって体中が気持ちよくなってきたのよ。10/15

明日3年の死刑囚の刑が執行されるのだが、3人とも短歌の詠み手なので、三者三様の辞世の歌を遺せるよう、獄中歌人指導員のおらっちは朝からてんてこ舞いの忙しさだ。10/16

そのうちの一人は知る人ぞ知る歌人なのだが、いったん確定した挽歌を、2度3度と書きなおし、執行寸前におらっちに口伝えた最終改訂版が全集に収録されることになった。10/17

我が身にフライトあるやも知れず、というフレーズが脳裏に浮かんできたので、大いにもがいていたら、不意に空中に浮かんでしまった。10/18

逝きし春の頭を台座から取り外して、その本体はもとより、汚れたネジや蝶つがいを綺麗な水で丁寧に洗い流すこと。私はその作業を率先して「やりますり!」とと名乗り出たのだが、それが軽い認知症のしるしだとは夢にも思わなかった。10/19

年に1、2回だけ東京に出て芝居か展覧会を見物することがあるのだが、その時昔ながらの上品な良家の奥さんを見て心が動くこともあるが、もう若さも元気もないので日本画の中の登場人物を眺めるようにしてしばらく遠くから眺めているのである。10/20

これは、女性が妊娠しているか否かが分かるダンスだと誰かがいうたが、いくら見詰めてもさっぱり分らんかったずら。10/21

編集長にレイアウトを見せながら色々相談しようと思っていたら、酔っぱらった編集長の傍に問題のあるキャメラマンが同席していたために、ちゃんとした打ち合わせができず、ヤバイことになっちまった。10/22

巴里の街中で私が迷っていると、親切なモノンクルオジサンが、「これで好きな所へ行けるよ」

というて自転車を貸してくれた。シャトレ座での子ども作文教室が終わったので、「ラインの黄金」を見物しようかとも思うのだが、どっちのオペラ座なのか分らないのだ。10/23

私は統一庁から何百万人という大家の治安を維持するように命じられたが、具体的にどうしていいのか分からないので、アオバセセリを捜して野山をほっつき歩いていた。10/24

あたしは関西支社ではいつもチヤホヤしてもらっているので京都支局を拠点に関西ネットアークを構築し、すちゃらか大放送を繰り広げようと秘かに構想を巡らせていたのだが、大阪と神戸支局の大反対で脆くもついえさった。10/25

わが大全集を自由が丘まで持参することになったのだが、あの部厚い5冊をどうやって詰め込んだらいいのか考え続けていると、いつの間にか朝になっていた。10/26

ドコモが1万円で売り出したので、こっちは9千円で対抗することにしたが、どっちもどっちなので盛り上がらないずら。10/27

エレガントな婦人服を覆い切りパンクなイメージで売ったらどうなるだろうと意欲的な宣伝広告キャンペーンを展開してみたのだが、売上はまったく変わらなかったので、阿呆らしいことをしたと反省したのよ。10/28

万事が絶好調で推移しているので顔の助が急に自信過剰になって「やいおめえら、よっくこの顔の助の顔を見ておけ。いまおらっちがオタケビを上げるからな」といって雄叫びを上げた途端に龍になって空の高みに飛び去った。10/29

「クイズの塔」という名ののっぽビルジングが立っていて、例えば3階は人文、4階は地理、5階は人情というふうにカテゴリー別に分類してあるのよ。10/30

 

2023年11月

大恩ある大親分を逃亡させるどころか、おらっち自身が逮捕せざるをえない事態に陥り、おらっち激しく後悔したのだが、後の祭りだった。11/1

EUDころ60を丘の上から犯久で落下させ、イタリア平にケアとうさせたのよ。11/2

イスラエルのミサイルが飛んできてあたいの家を家族丸ごと爆破したが、あたいだけは生き残って瓦礫の山の底から這い出てきたのよ。11/3

「さあ、これがトヨタの最新力作だあ」というて、ハイブリッド車を勧められたが、それが今や世界の最前線にある電気自動車からいかに時代遅れの代物であるかがてんで分っていないようだった。11/4

今夜のコンサートが終了したあと、解散する人の流れが分かったので、明日は各種演奏会のチラシを満載したキオスクを要所要所に配置しようと思った。11/5

世界中の山々を征服したそのアルピニストは、帰国するとタデシナ高原の麓に隠遁し、ついに征服できなかった若い娘と暮らしているそうだ。11/6

なんせ右翼放送局の肝入りでできた映画なので、スクリーンのところどころでその肝を見せつけると、観客衆はそのエグイ醜さと悪臭にのけぞるのだった。11/7

上司がねえ。まっことくだらんことばっかりいいくさるので、ドタマにきたおらっちは、そいつをぶっ殺してしもうたが、あまりいい気持にはなれなんかったずら。11/8

こんにちはイデです!という声がしたので、え、あのイデ君が我が家に顔を出したのかあ、と驚いて階段を駆け下りて玄関口をのぞいてみたのだが、イデ君の影も形も見えなかった。11/9

おらっちっが車に乗せられて警察へ向かう途中、対向車に乗っていた黒犬が窓から窓へ飛び移って、おらっちの顔をペロペロ舐めまくるので参ったずら。11/10

昼飯を息子と一緒に食べようとソバ屋で1時間近く待っていたが、まだ順番が来ない。今思い出したのは、息子はソバなんか好きでもないし、もしかすると出されても食べないかもしれない。最初から豚カツ屋に行けばよかったと激しく悔んでいる。11/11

その人と話していると、その人もこの世ではもう二度と私と会うことはないだろう、と思いながら話していることが分って、なんだか悲しくなってしまった。11/12

アメリカ移民300ドルが終わると、自動的にチンと日付が変わって、音メタ的に大音量の太鼓が鳴る、というさいしんしきシステムだった。11/13

グリュミオーとハスキルがモザールの後期ソナタを演奏するというので、久し振りにサントリーホールにいったら、カザルス、コルトー、フルトヴェングラー、ワルター、クレンペラー、新しいところではグールドやクライバーまで聴衆席に収まりかえっていたので驚いた。11/14

不人気の異次元内閣がとんぷく薬局のお薬手帳でポイントが溜まると全員アロハでハワイ旅行に行けるようにしたので、とんぷく薬局だけは大繁盛だ。11/15

おらっちは「3月6日の武装蜂起は占い師が験が悪いというから、4月1日にしよう」と説いたのだが、仲間たちは「いやそれは4月バカみたいだから断固3・6にする」と言い張って決行したのだが、案の定失敗に終わったのよ。11/16

脳味噌の塩梅が悪いので、いつもの脳外科にいったら早速いつものように開頭して「こいつのせいでアセラル効果が減退したんでしょう。全部切除しときましたから、すぐに良くなるでしょう」と明言したのだが、半年経っても良くならないのはなぜだろう。1/17

山陰本線の綾部駅を降りるとタクシーが停まっていなかったので駅前から西町商店街を通って西本町25番地のてらこ下駄屋に着いたが誰もいなかった。11/18

カーペンターズから招かれて楽隊かと思って加盟したら、これが大工の組合で、壊れた煉瓦塀の体積を計算することが中学時代と同様全く出来ないおのれに気づいて、やっぱし駄目なんだと絶望してカーペンターズを辞めたのよ。11/19

紅楼夢に出てくるような女のような男のような子どものようなチャイナドレスを着た纏足娘を踏んだり蹴ったりしていたぶっていたら、急に吐き気がしてやめざるを得なくなった。11/20

ここは南米のどこかなのだが、大平原に無数の灰色の鳥が歩き回っているのだが、おらっちはその名を知らないし、知りたくもないずら。11/21

横長のテーブルの真ん中に座らされて食事をしている。右には大好きな女の子がいるのだが、左は大嫌いな上司だ。ステーキを喰っている最中にお腹が痛くなってきたのでトイレに行きたいと思うのだが、まっこと難儀なことになったずら。11/21

「コハコナラズ」という言葉が乱発されるのだが、その意味が分らないので迷惑だ。「子は子ならず」だろうか? 「孤は孤ならず」だろうか? それとも「こはこならず!」なのだろうか?11/22

鎌倉に早く帰りつかなければならないので、気ばかり焦る。見知らぬ駅に平戸橋行とかいうバスが停まっていたので、思い切って乗ってみたのだが、運転手も乗客もいないのでどっち方面に行くのかさっぱり分からない。11/23

我が軍営を視察に訪れたパナナン大将は、まっさきに便所の中に入ってその汚らしさに鼻をつまみながら、「トイレをきれにしない軍隊が敵に勝ったためしはない」と大声で訓示を垂れたのでした。11/24

玄関で話声が聞こえるので急いで2階アから降りてみると丸坊図のジョージの後ろ姿がとらっと見えたのでジョ0イ、ジョージと(叫んだが「行ってしまった。残念な「ことをした。11/25

ある夏の日の朝、突然あらゆる交通機関が停まってしまった。
大勢の人が職場へ行こうとしても、電車もバスもタクシーも動いていないのでどうしようもない。その結果、国民の大半が丸一日自宅待機の状態になってしまったが、このことについて当局からの発表は何もなくマスコミも何も伝えない。

人々は疑心暗鬼に駆られながら眠れない夜をすごしたのだが、夜が明け、翌朝になっても事態は何も変わらず、電車もバスもタクシーもまったく動いていない。
ここ首都圏から少し離れた海辺の旅館では、朝から宿泊客たちが大広間に集まって、三々五々ああでもないこうでもない、と口々に自分の意見を述べるのだが、相変わらず確かな情報はどこにもない。
旅籠のおかみの老婆が、勘定場から出てきて、最新の国連情報を披露したが、その中にも今回の事件に触れた発表は何もなかった。
すると、なぜかおらっちの弟の善チャンが出てきて、母の愛子さんから聞いた話を始めたので、何か重大発表かと思ったみんなが耳を澄ませると、案に相違してこんな昔話だった。
今からおおよそ半世紀前の昔、夏場は臨海学校だったその旅籠に連れてきた中津川のおばさんは、まだ幼かった愛子さんに「早寝早起きせんといかんで」と言い含めたそうだ。11/25

あたしは海風の中に塩のにおいを感じた。うず高く積まれた塩浜の丘の上に立つと、空の上に2つの鯱鉾が浮かんでいたが、それがバッハの2丁のヴァイオリンのための協奏曲を演奏しているのだった。11/26

昨日はクロネコヤマトの人に助けてもらったのだが、今朝はそのクロネコの車が別のクロネコの車とバス停の傍で衝突していて、昨日の親切な運転手が車の下敷きになって血塗れで苦しんでいるので、おらっちはなんとか恩返しをしようとケータイを取り出したが救急車の番号が分らないのだ。11/27

リーマンたちはみながみな別人AIを所有していて、午後5時に退社するとそれから後はその別人AIが残業したり、有楽町のガード下でいっぱいやったり、AI同士で新年会や忘年会に出たりするのだった。11/28

昔の映画をみていたら銅山が出てきたので、「あ、銅山だあ!」と叫んだら、「違う、象だ、だ。象山だ」というて佐久間象山が現れた。11/29

昼過ぎにみすぼらしい男の子が迷いこんできたので、仲良く一緒にマツボックリ遊びしたのだが、「キミ、どこから来たの?」と訊ねると「御成から」という。彼の父親がモーリタニアの女性と再婚して3人で死んでいると言うので、家まで送っていくことにした。11/30

頼まれた原稿にどうも現世秩序と権門の禁威に触れる文言があったようで、編集者が気にしているようだが、それらの空気に忖度して早手回しに原文の修正や削除を申し出ようとするおのれの醜さを恥じて、じっと沈黙しているところだ。11/30

 

2023年12月

血塗れの瓦礫だらけのガザの地で土俵入りした熱海富士の右足が夕陽の逆光ですっくと伸びたシルエットが美しかった。12/1

怪しい男が海水浴場で少年のカメラを持ち逃げするのを目撃したケンちゃんは、こんな卑劣な行為をする奴は絶対に許せない! これから裁判長になって牢屋に叩き込むのだ!と息巻きながら、ハンオコを押し続けるのだった。12/2

わが隊の指揮官は、「戦闘が始まっても、すぐには反撃せずに、本部の判断を待ってからにせよ」と命令したが、いざ戦闘が始まると、おらっちを含めた兵士の全員が撃って撃って撃ちまくったのだった。12/3

研究費が枯渇してしまったので、私は図書館の特別顧問兼守勢研究員に就任し、自分の研究に必要な書籍資料はぜんぶ購入してまかなうことにしたのよ。12/4

刑法が改訂されてクガタチで犯人捜しをすることになったので、自民党安倍派には誰もいなくなった。12/5

絶好球が来たので、得たりやおうとバットを振ったのだが、ホームランにはならずセンターを超えるライナーになってしまい2塁までしか行けなかった。やや内角寄りの球だったのでちょと詰まったのだろう。12/6

新人類が新人世、新人世と叫び続けるのでそれはどういう意味なんだろうと考えつづけているうちに朝になったずら。12/7

由良川の河川敷にやってきた都会育ちの純ちゃんが、偶々ヒバリの巣を見つけて、新品の革靴で土を詰め込んで入り口を塞いでしまったので、上空を舞っている親ヒバリが心配で心配でピー、ピー鳴くと、穴の奥から子ヒバリたちも助けて、助けてと懸命に鳴き叫ぶのだった。12/8

2人の少女は赤い三角錐の上に乗って微動だにしなかった。が、しばらくすると三角錐から降りた小さいほうの少女が、大きい方に向かって、「ここは危険になってきたから、しばらくスイスに逃げましょうよ」というのを聞いて、これはまずいことになったな、と思った。なぜなら私は大きい方の少女に恋していたから。12/8

地下にある温泉に入ろうと暗い廊下を歩いていると、いきなり抱きすくめられたので、そいつの横顔を見るとなんとジャニー野郎だったので、振りほどこうとしたが物凄い腕力である。なるほどだからジャニーズの連中はみんなやられてしまったのかと得心できた。12/9

おらっちと彼女との付き合いを深紅のカアテンの陰からいつでもそっと監視しているのが彼女の兄弟であることを、おらっちは知っていた。12/10

掌を海にたとえたりすることがありますか?と聞かれたので、いいえ、でも右手の親指よ人差し指を湾の入り口とみなしたりすることはありましたね、と答えた。12/11

我はあまりにも感情的な、彼奴等に言わせると扇情的な文章を書くというので、あっという間に言論界から干されてしまった。12/12

久し振りに忘年会が開かれるというので企画室の会場に行ったら誰も居ないので、宣伝の会場に回ったら、セイさんとイマナカさんがぐでんぐでんに酔っぱらっているだけで誰もいなかったので、仕方なく家に帰って寝た。12/13

同級生のマリちゃんに会ったら、顔の右半分は火傷をしたのか黒くなっていたが、右半分は雪のような白肌だったし、相変わらず大きな瞳でこっちを見据えたので、覚えずギクリとした。さすがはツウちゃんと並んで仏文のマドンナと言われただけのことはある。12/14

戦場で負傷して担ぎ込まれた病院でレントゲン写真を見せられたホームズとワトソンは、欠落したお互いの骨と骨とを組み合わせると初めて1人前の人体になると気が付き、退院してからは一緒に暮らすようになった。12/15

向こうのあぜ道を風采の上がらない猫背の男が歩いているので、「やあこんにちは!御機嫌いかが?」と訊ねたら、「戦なんかくだらないからやめれ」とぼそりというので、やっぱりミヤザワ選手だったんだと思った。12/16

我ら兵士は敵を「丸太」と呼べと上から命じられ、その丸太を銃剣で突き刺していたのだが、ちょっと勇気のある兵士はわざと体すれすれの地面を突き刺して良心の呵責の試練に遭わないような配慮をしていた。12/17

その洋館に迷い込むと、イケダノブオ夫妻がつくった「ゴーン/おふ」という題名の西洋童話風の幻想的な動画を上映していた。12/18

瀕死状態でくたばりかけていたおらっちを助けてくれたサンタクロースは、おらっちを赤鼻のトナカイの橇に乗せてその酒池肉林の館に連れて行ってくれた。そこでは4人の絶世の美少女がおらっちにつききりで面倒を見てくれたのだが、おらっちはその中の一人だけ2を熱愛したので残りにの3人の憎しみをかったのだった。12/19

男3人と女3人合計6人でサル金持ちの別荘で遊んでいたんだが、いつの間にか2組の男女が居なくなってしまった。春の夜は長いので、残された僕たち2人だけでダブルベッドに横たわって、なんとなくなるようになってしまったずら。12/20

誰かが書いた極秘文書のおおかたは削除したのだが、最後の4項目だけはいくらやってもどうしても消せないので、「崇神天皇の怨念のせいだ」ということになった。12/21

その韓国の寿司名人がつくった寿司は最高にうまかったので、同じ韓国人のおらっちは、「これからは寿司は韓国に限る。北朝鮮は知らないけど」と思わず叫んだのよ。12/22

私は頻尿なので、定期的に泌尿器科で薬をもらって飲んでいるんだが、子規の晩年と同様に食後にどっさり柿を食べるので、いつまでたって頻尿は治らなかった。12/23

3Dデジタルで放送されたsの障子の桟の美しさは比類がないもので、全世界から賞賛の声が寄せられたそうだ。12/24

おらっちが山道を登っていくと道端に2つの毬栗と10個以上の菓子パンが落ちていたので、それらを拾いながら急な坂を上っていると、後ろからやってきておらっちに追いついた女の子が、「これはうちで焼いたパンだから、返してください」という。12/25

バカダ大学ノヒジョーキン講師になって、「現代の音楽論」を担当することになったのだが、現代も音楽も不案内なので、仕方なくNHK-FⅯの「現代の音楽」を録音したやつを学生に聞かせてお茶を濁していたら、各方面からクレームが来たので、困っているところ。12/26

シガハラ印刷のシゲハラ社長に中山競馬では武豊をどっさり買ってくれと頼んだはずだったが、見事に一等賞に輝いてから連絡してみると、忙しくて馬券を買い忘れたというのでガックリだった。12/27

私らは同じ学校の国文、英文、仏文、独文の4人の男女の同級生だったが、毎日のように学食でランチをしていいるうちに、2組のカップルに分かれていったのよ。12/28

敵の火力がいかに優勢でも、わしのピンが1本でもあれば、そいつを使って彼奴らをあっという間に全滅させてしまうので、わしはマーラーの第1番とか「内乱の予感」とか、進撃の巨人」とかいろいろに呼ばれていた。12/29

近くの大学の構内を散歩していたら、部室の中に綺麗なネエンチャンが1人で座っているのを見つけ、色々話をしていたら、なんとなくお互いにモヨウしてきたので、ここで一気に畳みかけようとおっぱじめたのだが、すぐさまおらっちは不能人間だったことを思い知らされる羽目に陥ったずら。12/30

膵臓ガンのステージ4の宣告を受けたおらっちは、日向国の南端の浜辺の村で最期の日を迎えることにした。12/31

2人で協働して敵をやっつけるゲームをしているのだが、肝心のその相方がトロクてなかなか攻めきれず、イライラするのだが、その相方もおらっちをトロイと思っているらしい。12/31

九州の最南端の、村には1軒のホテルしかないという僻地の映画祭に招待されてやってきたおらっちだったが、ホテルでの飲み食いはサインで許されるとしても、帰りの交通費すらないので、映画鑑賞どころではなかったずら。12/31

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その68

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年10月

「よごさないでね」、とホソカワさんいってくれたよ。
そうなんだ。

ならぬって、してはいけないのこと?
そうだよ。

フクモトリカ、「こんど充電してね」っていうでしょ?
なぬ?

お父さん、明日ビデオにとってね。
分りましたあ。

お父さん、大好きですお。
ほんとかな?
ほんとですお。

お母さん、早く良くなってね。
分りましたあ。

お父さん、お母さん、良くなった?
もうちょっとね。
もうちょっと?
そう、もうちょっとだよ。

お母さん、薬のんだ?
のみましたよ。

マコトさん、死んじゃったよ。
誰が?
タケナカさんが。
ああ、昔のドラマね。

お父さん、御飯ですお。
分りましたあ。

お母さん、今日、美容院いったの?
行きましたよ。

もりだくさんてなに?
いっぱいいっぱい、ってことよ。

お父さん、販売課は第2作業室でしょ?
そうなんだ。

お父さん、お母さんは?
さて問題です。お母さんは、どこへ行ったでしょう?
おばあちゃんち。
ブブー。
岸本歯科。
ピンポン。

コウ君、こんどキシモト歯科いって、虫歯なおそうか?
い、いやですおおおおお!
なんで。抛っておくと大変なことになるんだよ。
い、い、いやですおおおおお!

 

2023年11月

コウ君が「1万円探してください」、だって。
なぬ? 生きがい探してください?
生きがいじゃなくって、1万円札よ。

お父さん、ぼく電気つけておきましたお。
ありがとう。

お父さん、あしたハシモトカンナのビデオとって。
今度はカンナちゃんですか。はい、分りました。

お父さん、ごはんにしよ。
はい、分りましたあ。

くらもちさん、ボランテイアだったでしょう?
そうだね。

お父さん、録画した?
しましたよ。
お父さん、録画した?
しましたよ。

私はイヤミです。ぼく、イヤミ好きですお。
お母さんも。

ぼく、ウエハラミツキとハシモトカンナ、好きですお。
そうなんだ。

旅立つって、なに?
あの世にいってしまうことよ。

旅立つって、引退でしょ?
そう、引退も旅立ちだね。
お父さん、ビデオ終りました。止めてください。
わかりましたあ。

取材ってなに?
いろいろ調べたり、聞いたりすることよ。

おじいちゃん、おばあちゃん、死んじゃった?
死んじゃったね。

中井貴一、最後おうちに帰ってくる?
病気になって死ぬためよ。

「ぜひ」「どうぞ」でしょう?
そうね。

 

2023年12月

お父さん、録画してくれた?
したよ。バッチリ録画したよ。
ハ、ハイ。

オクラ、にゅるにゅるですお。
そうだね、にゅるにゅるだね。

ちなみに、ってなに?
じっさいのところ、よ。
アベヒロシ、ちなみに、っていいましたよ。

お母さん、今年年越しそば食べますよ。
食べましょうね。

コウ君、今年なにどしだったっけ?
ウサギですお。
来年は、なに年?
クマ年ですお。
クマ年かあ!

お母さん、ほんまにって、なに?
ほんとうに、のことよ。

お母さん、寝てくださいね。
分かりました。

お母さん、良くなってね。
だいぶ良くなりましたよ。

お父さん、録画した?
したよ。
DVDにしてくださいね。
するよ。

イエヤス、国のことでしょう?
そうね、国のことをやったのね。

ぼくマツモトジュン、すきですお。
そうなんだ。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その4

「祖父佐々木小太郎伝」第4話 株が当たった話
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

大正3年、欧州戦争が勃発して糸値暴落し、郡是製紙会社は払込資本金十四億円余に対して、三十億余円の大損をした。「郡是はつぶれる」という噂が高く、二十円株が四、五円の安値に落ちた。

波多野翁に満幅の崇敬と信頼を払い、大の郡是ビイキだった私は情けなくてたまらなかった。波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気づかいはない。今悪くてもきっと立ち直ると私は確信し、金があればあの際限もなくさがっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったが、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしない。

その頃、蚕業講習所拡張のため、そばにある私の所有地、三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話があった。

その時私は、ようやく差し押さえをといてもらうだけの返済は果たしていたが、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っていたから、西村君に「売るにしてもこの借金払いをしてからでなくてはいけないし、そんなことをしたところで、私の手に入る金よりも債権者に払わねばならん金の方が多いにちがいないから、余裕のない今の私にはとてもできない」というと、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから、まかしてくれ」という。

しばらくすると西村君がやってきて、「万事うまくいって、これだけ余った」といって、五十四円という少なからぬ金を、私に呉れたのである。まるで夢のような話で、何だかタダからお釣りをもらったような気がした。

この天から降ったような金で、私はドン底まで下がり切って捨て値になっている郡是株を買いあさった。百姓は株がきらいで、タダにならぬ間にと誰も彼も売り急いでいた。
私は綾部付近から和木、下原の方へ行って買った。買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた買い買いした。高木銀行がよく便宜を図ってくれた。
大正四年になると、郡是は窮余の策として六十億円に増資し、優先株を発行したが、その優先株が非常に有利な条件がついていたにもかかわらず、すっかり嫌われて、払い込みの十二円五十銭ならいくらでも買えた。

その頃私は、蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク懐炉を発明して実用新案をとり、これは波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社、郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回った。

そのついでに私は、三丹地方ばかりではなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて、郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って、優先株を買いあさった。津山では武蔵野という一流旅館を本陣とし、いきなり女中に百円のチップを渡し、紀の国屋文左衛門の故智?に倣って、実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預け、その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地元に信用のある人物を頼んで、地方の株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下であったが、すべて払い込み額十二円五十銭で買うことにし、両氏は熱心に活動してくれて、買うて買うて買いまくったものだ。

一方、蚕具の方も専門技術者に好評を博し、郡長から町村長への紹介状を貰って売って回ったのだから、これもよく売れた。

戦局が進むにつれて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して、糸況も日を追って好転し、郡是株もメキメキあがった。津山ではまだ十二円五十銭で楽に買えるのに、綾部ではすでに二十円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいってくるのを見て、「今日は一億円儲かった」と思った日が、三日も四日もあった。

蚕具の方は、後に大成館が会計の不始末で破産同様になり、私は旅費を出してもらったくらいのことで、売上から貰うはずの割り前は一文も貰えなんだが、そんなことは何でもなく、片手間仕事の株買いで大もうけをして、昨日の貧乏から一躍して、小型ながら株成金と地元の人から謳われるようになった。

郡是は翌五年には百億円近い大儲けをして、一挙に頽勢を挽回し、五月には優先株を抹消し、資本金二百億円となり、将来の大飛躍が約束され、株価はグングンあがった。まったく波多野さんの手腕と徳望の然からしむるところ、私の予想はちがわなんだ。

大正五年三月の郡是株主名簿を見ると、三千余の株主中、私は第二十五位の大株主になっていた! といっても持ち株はわずか七拾八であるが、この時の郡是は、まだ何鹿郡以外には出ていない時で、私以上の二十四人の株主といえば、波多野さんをはじめ葉室一統の人々、その他地方にソウソウたる素封家揃い! 私などとは提灯と釣鐘以上に何もかも段違いの人たちばかりだったのである。

昨日まで借金取になやまされて、日本一の貧乏人だと思っていた身で、「いったいこんなことでいいのか」と私は迷った。そこでさっそく波多野さんのところにお礼かたがた相談に行った。(この一条は「波多野鶴吉翁伝記」にも載せられている。以下これを引用する。)

……すると翁は、ありあわせの紙に宥座の器を描き、「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば、正しく真直ぐになる。なお注いで一杯にすれば、覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えて、ほどほどに株を持っとれば好い。私などはしょうことなしに今度はたくさんの株を持たされて、払い込みの準備などあるわけでなく、全く困っている。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株を持っとるのでなくてはいけない」といわれた。

なお宥座の器のことは荀子宥座篇にあり、魯の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れている。ただし翁は、その愛読せる「二宮翁夜話」にこの記事あるに拠ったものであろう。

この時翁は、右の宥座の器の訓に次いで、「積極と消極」ということについて教えられた。この言葉は当時一般の人にはまだ耳うとい、いわば知識人に使われていた新語といったようなもので、翁はこの新語解説にことよせて、私に処世の要諦を説いたのである。

「積極」については、「自分に確信があったら、冒険と思われるようなことでも、勇気を奮ってドンドンやれ!」と説かれたものだ。この時私の持っていた七拾八株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が交っていた程度だったが、この頃はすでに郡是はつぶれない、きっとよくなる、という確信と、私の財力にも多少の余裕が出てきた関係から、引き続き優先株買いに狂奔することができたのである。

それがためには随分剣の刃を渡るような冒険もやったものだ。津山の武蔵野旅館に泊まった時も、最初百円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えの時、旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のドテラにコリコリした縮緬の兵児帯、私の脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯! それを女中が丁寧に畳んで衣装箱に納める時には、私は冷や汗が出た。

そんなことから偽装札束のトリックがばれはしないかと、毎日気が気でならなかった。時々金庫から偽装札束包みを出してもらって、大きくしたり、小さくしたりして預け替えた。

金のやりくりには格別苦心したもので、店で使っていた二三人の若者を、津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他金策を機敏にやらせたもので、丹波紀文はついに化けの皮を現さずに最後までやりおおせて、まず存分に儲けたものだ。

それもこれも若さのさせたことではあるが、一は私の波多野ビイキ、郡是ビイキのさせたわざ、なお波多野翁積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこの時も何ものかが乗り移っていたような気がする。

こんなわけで私は、案外早く貧乏あずりから脱することができて世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられて、その頃選挙の取り締まりが苛酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙された時、義憤に燃えて私が急先鋒になり、年長者で声望のある医師吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らし、間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のごとき名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもので、これが優先株の引き受けを容易にして、郡是の危機を救う上に役立ったものである。

これが二日会の発端となり、この二日会は今日も続いて市民の健全かつ有力なる世論機関となっている。数奇な運命に弄ばれ、しばしば逆境に苛まれつつも、まんざらすくんでばかりもいず、私は私なりに青年時代にふさわしい血の気の多い思い出もある。

私の貧乏あずりは、父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年とが最もひどく、三年を境目に下駄屋の方がだんだん順調にいきだして、だいぶん楽になり、四年、五年と大いに株で儲けて株成金といわれるまでになったのである。

父については次節で述べるが、大正元年に隠岐へ逃げて四年越して五年には失敗して家へ帰ってきた。この父に対して、私はまだ十分打ち解けることはできなかったけれど、父の代に重なった大変な借金ももはやきれいに返してしまったし、最初差し押さえの封印を解いて貰う時には、随分無理を言ってまけてもらった借金もあるので、そうした向きへは後から改めて挨拶し、どちらへ向いてもアタマのあがらんようなところはなく、帰ってきた父としても肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には、十分の上にも十分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも、私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと思い切った大祝いをした。

まず一石の餅を一週間かかって搗き、その頃の銘酒「正宗」と「福娘」の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友を交々招き、毎日芸者三四人をあげて、一週間の盛宴を開いた。株券や銀行の預金帳を三宝に載せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露した。

私は、決してこんなことを、見栄や自慢でやったのではない。いわんや、さんざん苦しめられた債権者や困った時何の助けもしてくれなかった親類にあてつけでしたのでもない。あの時すげなくされたことは、皆私にとって薬だった。

父の道楽が、私を貧窮のどん底に陥れたことも、同じく私への良薬だった。甘やかされずに神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し、神も助け給うたのである。
かく思う時、今は何もかも感謝であり、その感謝の微衷を表すだけのことをしたのである。

この時芸者を大勢呼んだものだから、私は急に芸者にもてるようになり、付きまとわれだした。私は三十三でまだ若かったし、ウカウカするとこの誘惑に陥って、父の二の舞をやりはしないかと、我ながら心配になった。

宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして、酒を用いる機会が非常に多くなって、時間と金銭の浪費がおそろしくなった。かねて何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いないと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心を惹かれていた。

翁の受洗したのは、今の私と同じ三十三の年だった。私もここで入信して、シッカリと身を固めようと思い、教会通いを始めた。私は「波多野翁から洗礼を受けたい」と無理をいっていたが、大正七年二月二十三日、翁は突如として脳溢血で急逝されたので、その直後の三月十日、私は丹陽教会牧師、内田正氏から洗礼を受けた。

いわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえば、いえないこともない。世間からもそう見られたようだが、思えば十二才の時母の眼病を観音様に祈った時から、苦しい時の神頼みに、稲荷様、金毘羅様、座摩神社、北向きのえびす様と、種々雑多の神様、仏様を祈ったものだが、いずれもそれぞれ奇跡的の感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が、波多野翁崇拝と結びついて、私をキリスト教に行かせたのであって、結局「行くべき時、行くべきところに行きついた!」のである。

これこそ神の御摂理である。今の私は、信ずることによって、いかなる苦痛困難も、必ずみな喜びと感謝に代えて下さる神の御恵みを思い、ますます信仰より信仰へと努めはげみ、取るに足らないこの身ながら、聊かにても神の御栄光を顕わすことに精進して、神と人への奉仕に努力している。

 

 

 

クガタチ*

 

佐々木 眞

 
 

西暦20××年、とうとう日本国憲法が改訂された。
詩文が死文と化した第9条の代わりに、なんとなんと、「クガタチ条法」が制定されたのである。

イスラム教の「目には目、歯には歯」に似ているが、もっとラジカルな内容だ。
犯罪の容疑者は最高裁にいくと、最後、クガタチによって有罪か無罪かが決まるのだ。

沸騰した湯の中に手をつこんだらどうなるかは、泉下の愛犬ムクでも、近所のジョージ君でも知っている。

「日本書紀」には3か所でこのクガタチが出てくるが、こいつが出てきたら最後、いくら天祐があっても、無事に無罪放免されるやつなんて、古今東西ただの一人もいない。
みな有罪となり、つまりは死刑に処せられて、「ジ・エンド」になるのだ。

早速、最高裁に送られたジミントウ・アベノミクソ派の「5人組」が、クガタチの刑に処せられた。

5つの洗面器の中でギンギンに沸騰した湯に突き入れられた、5つの拳固と25本の左指は、たちまち茹でた伊勢海老のように真っ赤っかあになって、5種類の苦悶の叫びが、法廷狭しと響き渡った。

「さあ、お前たち、いくら裏金をもらったのか、ありていに白状せよ!」
閻魔様ならぬ裁判長の厳命が下るや否や、

キャイーン、キャイーン、ギャイーン、ギャイーン!
「イッセンマン、ニセンマン、サンゼンマン!」
「ヨンセンマン、ゴセンマン、ロクセンマン!」
「ジュウネン、ナナオクドル、イッセンジュウゴオクエーン!!!」
青白い自白が、悲鳴といっしょに半蔵門の夕空に発せられていく。

お次はまるで節操なき異次元男、もとい「令和の火の玉男」の番だ。

そもそもお前さんは、確固たる主義主張もなく、ただオメイを総理にしてくれた男のことだけを大切に思って、天下国家、もとい、諸国民のさいわいのことなぞ、これっぽっちも眼中になく、ショもないことを世界中でペラペラぺらぺらしゃべり倒して、それが政治家の仕事と心得違いして、いままで生きてきたのよ。

どうじゃ、相違ないか。
なぬ、小生意気に異議があると?
では、早速このクガタチの試練を受けてみよ! 
本当のことを言うものは爛れない。嘘を言うものはきっと爛れる!

キャイーン、キャイーン、ギャイーン、ギャイーン!
青白い自白が、悲鳴といっしょに半蔵門の夕空に発せられていく……

 
さはさりながら、何千何万位の無辜の民を圧殺してきた最悪の凶器クガタチも、コウ君のようなノンサンス自閉症児にだけは歯が立たなかった。

「人殺しをやったろう」と強弁されたら、「人殺しをやりましたあ」。
「お前、おらっちが大事にしまっておったアイスを食べたろう」と迫られたら「食べましたあ」とあらぬ告白。

「お前、おらっちが隠していた千円札を盗んだろう」と詰め寄られれば、にっこり笑って「あい、あい、あい」

なんでもかんでも、「やりました、食べました、盗みました」と平然と答えていたコウ君を、なんかい伝家の宝刀クガタチにかけても、両手はまったく火傷することなく、天神地祇のまん前で、見事にその無罪を証明してみせたのである。

 
 

*クガタチ(盟神探湯)は古代日本で採用された真実追及の手段。神に誓願してから手を熱湯などに入れ、焼け爛れた者を邪とする一種の神判である。「日本書紀」の応神天皇9年4月条、允恭天皇4年9月条、継体天皇24年9月条にその具体例が記載されている。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その3

「祖父佐々木小太郎伝」第3話 貧乏あずり
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

私の母はよい母だったが、父は善人ではあったが大ザッパでだらしがなく、大酒というほどではなかったが酒好きで、芸者などあげてハデに飲んだものだし、女道楽もなかなかなもので、いつもどこかにかくし女があったようだ。

母はまじめに店を守って商売に精を出していたが、父の金づかいが粗いため、家計はだんだん不如意になり、借金がかさむ一方だった。私の養蚕教師で得た給料は皆母に渡した。母は有りがたがって、いつも押しいただいてよろこんだ。

そこで私もできるだけ節約して一文でも多く母に渡そうと心掛けた。その頃菓子といえばコンペイ糖だったが、私はそのコンペイ糖一つ買ったことはなく、時々中白の砂糖を買って来て、指先につけて少しづつねぶり、ひどく労れた時などには、砂糖湯をして飲むのが、ただ一つのぜいたくで、半斤ほど買って来ては、長い間たのしんだものだ。

私がそんなにして家に入れる金は、盆仕入れのたしや、借金の利払いにつかわれて、初めのうちは相当家計の助けにもなったが、借金がかさむにつれて、焼け石に水ほどのききめしかないようになった。

私は明治三十七年妻(菊枝、昭和十七年病死)を迎え、それから五年たって明治四十三年には母が死んだ。その前年妹を舞鶴に嫁がせる時、ひとり娘だというので、分に過ぎたこしらえをしてやった無理さんだんなども、家計に響いて、母の死後は家中に火の車が舞った。

ヤケになった父の乱行は一層つのり、はては芸者をつれて隠岐の島へ逃げるといいだした。困ったことだとは思ったが、私のいうことなど聞いてくれる父ではなし、とめてみても仕方がないと思って、いよいよ出立の時には舞鶴まで送っていった。

その頃、舞鶴から隠岐通いの汽船があった。それに乗って父は行った。父はその時五十八だった。父はそれまでに隠岐へ二三度行ったことがある。隠岐には日本海の潮風に吹かれて、目の細い良質の桐がある。それを買い込んで下駄材ばかりでなく、琴材として京都方面に売ってもうけたことがある。まんざらあてなしに行ったわけではなく、父としては隠岐の島で一旗あげるつもりで行ったのではあるが……

父を送って帰った夜、入り口の戸をあらあらしくたたいて起こす者がある。町の信用金庫の某氏の長身が、提灯をさげて立っていた。父が逃げたということをいち早く聞きつけて、信用組合からいっぱい借りている父の借金を「いたい君はどうするつもりじゃい」とかみつくような談判である。

職務に忠実な某氏の言い分にさらさら恨みはいえないわけだが、情け容赦のないことばで、ズケズケといじめつけられるのは、骨身に応えた。それから毎日門に迫る債鬼ひきもきらず、何しろ父は借りられるだけの人から、借りられるだけの金を借りまくっていたもので、金額は三、四千円くらいだったが、五円、十円の小口もあって、後に私がつぎつぎ払って、戻ってきた借用証書が、一番の支那カバンにザっと一杯、今も保存しているほどだから、債権者の数は大変なもので、中には札付きの高利貸もあって、それが入れ替わり立ち替わり来て、私を絞木にかけるのである。

泣くにも泣けない私は、ただありのままに「父の借金だからといって、踏み倒す考えは毛頭ありません。何とかしてお返しする覚悟ではありますが、今どうするわけにもまいりません。どうかお返しできる時までご猶予をお願いします」と判子で押したようないいわけを、何度も何度も畳に額をすりつけてくり返すよりほかに手も足もでなかった。

ありもしない金で牛肉を買って、親類の者に集まってもらって相談もしたが、叔父の一人は、「おじじゃのおばじゃのいうものは縁の薄いもんじゃ。きょうだいとか、嫁の親元とかで心配してもらいなはれ」などといって、けっきょく構ってくれるものは一人もなく、かえってこんなことをしたのがわるくて、督促はいよいよきびしくなり、ついに一部の債権者から財産を差し押さえられ、福知山から高某という執達吏が来て、家財道具、畳建具に至るまで封印をつけてしまった。ところがこの執達吏は情け心のある人で、「私は職務上やむを得ずこんなことをやるが、あんたにはまことにお気の毒だ」と、父の借金のために苦しんでいる私に、思いやりのことばをあけてくれた。これこそ鬼の親玉かと思ってこわがっていた執達吏にやさしく慰められたのは地獄で仏に会ったほどうれしかった。

こんなみじめな身の上になってしまった私は、とても綾部で生きていく道はないと思った……。愛媛県へ行こう! あちらでは蚕業界に多少私の名も売れているし、青野氏のような有力な知人もある。松山市には渡辺旅館という泊まりつけの宿屋もあって、私夫婦をひと月くらいは金無しでも泊めてくれるだろう。その間に蚕業界に就職口でも求めたら、多分何とかなるだろう……と、妻にも話して、私は夫婦で夜逃げを決心した。差し押さえ残りの手回り品、売れ残りの下駄までつめて、信玄袋三つにまとめ、駅近くの知人の家に預けた。それから工面した金がとうやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかない。それがいかにも心細かった。

それから舞鶴に嫁いでいる妹のこと、福知山二十連隊に入隊している弟のことを思った。満期退営しても帰る家がなかったら困るだろう……などと思うと、夜逃げの決心もすこし鈍ってきた。思い余ってうしろあたまに両手を組み、ゴロンと寝ころんで考えていた時、ちぎれた新聞紙が枕元にあったのをとりあげて、何気なく読むともなしに読むと、三文小説にちょうど私のように借金取にいじめられている男が、「今何といわれても金は一文もねえ。但しおれも男だから、キンタマだけは一人前のを持ってる。よかったら、これでも持っていけ!」とタンカを切るところがあった。

これを読んで、メソメソしている自分を不甲斐ないと思った。もっとこの男のように「ズブトクやらねばいけないと思った。夜逃げなんかやめにして、城を枕に討ち死にの覚悟で、やはり綾部に踏み止まり、逃げるにしてもそれからだ。と、私は虎の子の二十円あまりを持って、大阪へ鼻緒の仕入れに行った。今まで取引をしていた問屋へは借りがあるから顔出しができぬ。御堂筋の方へ行って別な問屋をさがした。すぐに二三軒見つかったが、何しろ二十円ばかりのはした金を持って虫の良い無理をいおうと「いうのだから、どうも敷居が高くて店に入れない。行ったり戻ったりしていると、近くに坐摩神社というりっぱなお宮があったので、私はそれへ参り、いきなり鈴をメヤクチャに鳴らして祈った。「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」と。それから店に行ったが、どうも敷居がまたげない。また神社に引き返して、今度は傍にある稲荷様にも祈ったが、やはり入れない。また引き返して三度目を拝んで行ったら、今度は入れた。

私は「今は金がないが、決して不義理はしないから、これだけで、できるだけ多くの商品を卸してくれ」と、十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して、五十円ほどの下駄と下駄の緒を送ってくれる約束をした。

この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円づつ金を入れて、商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送店に出荷されるところまで見届けて綾部へ帰った。

秋祭りもすんで時節はずれの時だったが、紅提灯を五つ六つの軒にぶらさげて、下駄の大安売りをはじめ、元値を切って売った。「安い、安い」と評判が立って飛ぶように売れた。私はその金を持って再び大阪へ行き、前の頭金をきれいに払い、今度は前金なしに前よりはるかに多く三つの店から卸してもらった。
それがちょうど町の夷市に間に合い、ジャンジャン売った。やはり元値を切って売ったのだから、夷市の客が蟻のように集まってきて、おもしろいほどよく売れ、「綾部は下駄がメッポウ安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴から買い手が来るようになって、私の店ははやった。

続いて正月の大売り出しも千客万来で、ほかの店からも羨まれ、「さすがは春助の子じゃ。なかなかやるもんじゃ」と人からも褒められた。父は道楽で身をあやまったが、商売は上手だったのである。

私の店がはやるのを見て、あれほどつめかけた借金取もぱったり来なくなった。差し押さえの口へは、私が直接行って話し合い、だいぶ負けではもらったがともかく皆済し、正月には封印のとれた畳の上で、めでたく雑煮が祝えた。まだ借金は残っていたが、誰も催促する者はなく、まだ大口三百円の残っている債権者から、「また入ったら、いつでもつかっておくんなはれよ」といわれる程、昨日の鬼も仏になって、急に融通もききだした。

今までは元値を切って売ったのだから、もうけにはなっていないけれど、とにかく商品がよくはけて、相当額の金が不自由なく融通がきき出し、店の名が出て得意のふえたことは、商人にとって絶対の強みである。問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたから、信用は満点で先行は明るく、まだ借金が残っていることも格別苦にはならなかった。

私の家には「北向きのえびす様」という小さいえびす大黒の像があった。小さい板が十二枚あって、願い事を叶えてもらった度に、板を一枚づつ供えることになっていた。

父母が信仰していたから、私も商売をやるようになって、毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁昌を祈り、それがうまく行ったものだから、十二枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、何度も何度も繰り返した。封印を解いてもらう話し合いでも、少しもいじけずにテキパキやって、全部予想以上に成功したのも、この福の神様が私に度胸をつけてくださったお陰だと思って、お礼の板を重ね重ねしたものだ。

大阪の坐摩神社にしても、あれほど入れなかった問屋の店へ、三度目には勇敢に飛び込んで、無理な取引を快く承知してもらったのも、決して私の力だけではなく、坐摩神社や稲荷様が、あの時乗り移っていたのだとしか思えなかった。

もともと私は下駄屋などやる気はなかったのであるが、案外調子よくいったのですっかり面白くなり、松山落ちなどはとうに断念して、一生懸命下駄屋をやった。そして養蚕期になると店を妻にまかせて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料は再び大幅に家計の上にものをいってきた。そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきた。

後年キリスト教に入り、聖書の「それ有てる人はなほ與えられ、有たぬ人は有てるものをも取らるべし」(マルコ伝第四章二十四節)を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて、万感無量なるものがある。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その2

「祖父佐々木小太郎伝」第2話 養蚕教師
 

佐々木 眞

 
 

 

私の家は綾部の目抜き通りで履物屋を営み、郊外に桑園を持ち、当時流行の養蚕もやっていた。そんな関係で郡是の創立者、地方養蚕界の元締、波多野鶴吉翁とは懇意で、私も子供の時から目をかけてもらっていた。

私が小学校を出て16の時、波多野さんは自分が所長をしている京都府高等養蚕伝習所(私の入所中、城丹蚕業講習所と改称)へ、私を入所させろと父に説き、「年齢が2つ足らんが、それはどんなにでもなるから」といって、しきりに勧められるので、入所することにした。

生徒はたいてい20がっこう、26、7の人もいて、私一人がまだ子供だった。卒業して一ㇳ春綾部町の養蚕巡回教師をしたが、そろばんが上手になるというので、その頃地租改正で忙しい税務署につとめ、十八の年にはそのそろばんを買われて郡是(現在の「グンゼ」)に入り、事務所につとめた。

その頃(明治三十四、五年)綾部地方は、個人が勝手に少額の切手を出して貨幣同様に流通させていた。郡是もこれを発行し、私は切手作りで忙しかった。二十一の徴兵検査で肺浸潤だといわれたので、父が心配して、私は郡是をよした。郡是在勤中も、春の養蚕期は会社も休みなので、毎年巡回教師に出た。十九の時佐賀村の小貝へ行った。その年晩霜でひどい桑不足となり、由良川がまっ白くなるほど誰もかも蚕を流した。

私は蚕は捨てさせず、急いで金つもりをさせて綾部に帰り、父を説いて桑を買わせた。こんなことにかけたら父はうまいもので、四方に走って上手に桑を買いあさり、荷車に積んでドンドン小貝に運び込み、小貝は一疋も蚕を捨てず、おまけに上作の繭高と来て、養蚕家はホクホクしてよろこび、私も思わぬ手柄を立てて、「若いけんどなかなかやるもんじゃのお」ということになった。

翌年は波多野さんの推薦で西原へ行った。西原というところは、どういうものか毎年蚕が不作で、上野源吉という伝習所の先生までした熟練第一の教師も失敗し、おまけになけなしの繭をゴッソリ糸屋に買い倒されて弱りきっていた。

ことし私がしくじったら、波多野さんにも済まんし、西原をいよいよ貧困に陥れてしまう。当時は日露戦争の真っ最中、私が兵隊にとられていたら、今戦争に行っている時だ。「よし!戦争に行ったつもりで命懸けでやろう!」と私は心に誓った。

毎日城丹へ行って見学し、先生にも尋ねて研究し、最善を尽くした。私はこの頃の温暖育の失敗の多いことから、いろいろ考えた挙句、給温のため一つの爐に使う燃料を二分して二つの爐で焚き、廊下にも火鉢をおくようにして、温度の調整と均一化をはかった。

これがたしかによかったとみえて、見事に成功し、上作をとった。あと二年続けて西原へ行き、都合三年毎年上作をとったので、疲弊しきっていた西原も完全に立ち直り、西原の農家に今まで見ることのできなかったすがすがしい畳敷の間ができ、柱には文明開化のさきがけの掛け時計が時を刻んでいる、という生活風景が見られるようになった。

その頃よく養蚕集談会が開かれ、その道の大家連中が来て指導するのであった。私は西原で体験した「修正温暖育」といったようなものを提げて、大家連中の説く定石的飼育法を机上論として排撃し、青二才ながらおめず臆せずやり合って、大家連中をタジタジとさせたもので、同じ仲間でその頃のことをよく知っている梅垣良之助君や出野新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若い時から、一ッ風変わった鼻息の荒い男だった」といわれるのである。

明治42年にはやはり波多野さんの推薦で、はるばる愛媛県に行くことになった。愛媛県は古くからの特産物である藍が、舶来の化学染料に押されてダメになってしまったので、これに代わるものとして藍畑に替えて養蚕を奨励したのであるが、それがさっぱりうまく行かず、連年失敗で、県の養蚕技師で綾部出身の西村彌吉氏がすっかりてこずって、養蚕先進地で、ことに最近盛名並ぶものなき自分の郷里京都府に救いを求め、技術者の派遣を乞うたのである。

波多野さんのおめがねで五、六人行った中で、私が最年少である。おまけに行ったところは周桑郡庄内村といって、村長青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議長もしているという、声望並びなき人である。その庄内村の養蚕が連年失敗続きで、ことしここをうまくやらなかったら、愛媛県蚕業の前途も危ういということを、西村氏からコンンコンと聞かされたのである。私は京都府蚕糸業の名誉にかけて、愛媛県蚕業の危機を救わねば男がたたん、ということになってしまった。

私は青野氏の家に泊めてもらった。青野氏は素封家で、私にあてがわれた室も、夜具布団ももったいないほどりっぱなものばかりであった。私はかねて波多野さんかに教えられた通り、枕には自分の手拭、掛け布団の襟には風呂敷をあてて寝た。

青野氏には凝った茶室があって、鐘を打って客を招き入れるような本式の茶席が設けられ、都度私も招かれた。さいわい私は、妹が茶の稽古をやっていた時、いつもお客様になっていたものだから、飲み方だけは心得ていた。おちつき払ってカタのごとくやって、恥はかかなかった。

青野氏は謡曲が好きだったが、それがすっかり下手のよこ好きで、同族の青野浩輔さんと毎晩のように奥座敷でうなるのだが、どっちもどっちで兄たりがたく弟たりがたく、聞いていても肩の凝るようなものだ。

私も謡曲をやると聞いて、すぐにその席に招かれ、強いられるがままに小謡を一番うたったら、「これはたいしたものだ」ということになって、蚕の先生は承知の上でやっとることだが、とうとう謡曲の先生に祭り上げられてしまった。

ところがご先方は観世、私は宝生、観世の謡本を見て宝生をうたうのを、観世の人がせっせと習うというおかしなことになってしまったのであるが、それでも何とかお相手をして、愉快にやったものだ。

こんなことから私は青野氏一門の人と親しくなり、信用もされた。青野氏は金もあり、羽振りは良し、そのかげで仕事をする私は樂だった。村の人たちも、よくいうことを聞いてくれたから、すべて思う通りにやれた。

県でつくってくれたという稚蚕飼育所で、共同飼育も好成績だったし、それを家々に持ち帰ってからは、私は昼夜を問わず家々を駆けまわって指導したので、最後までうまく行って一人の違作者もなく、庄内村はじまって以来の上繭を多収して、村の人は大よろこびだった。

私だけでなく京都府から行った教師のところは皆成績がよく、繭の鑑定にかけても県の技術者よりはるかに優れていたので、その方面にもひっぱり出され、京都府蚕業のために大いに気を吐いたものだ。繭は入札で売られ、庄内村の繭はその平均値が愛媛第一の最高値だった。

あとで聞いた話であるが、青野家の人が、「今まで入れ替わり立ち替わり養蚕の先生が来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていたが、人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱりヘタクソで、一度もロクな繭のとれたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は、子供あがりの若造で、「これが何をやるか」とたよりなかったが、どうしてどうしてお行儀がよくて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも、前の先生方とは全くちがって、上手にやってもらったから、みんなウンともうけさせてもらった」といっていたとのことだ。

それから特に所望されて、あと二年続けて都合三年この村へ行ったが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗の大鯛の立派なものをもらったり、学校の下に「佐々木先生記念桑園」と、大きな標柱を立てた桑園までできた。

その後兵庫県の関の宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへ、それぞれ二三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続いた。

船井郡の時、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」といって渡してもらった給料が、たしか百八十円だったと記憶している。

この頃までの養蚕は、蚕は在来の小石丸、昔だったから虫も小さく、そう飼いにくいものではなかった。ところが私の養蚕教師時代には温暖育が析衷育に進んで、だいぶ改良されてはいたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでいたうえに温度をかけられるから、萎凋して蚕の食欲をそそらない。

蚕はいつも腹を減らしていたから失敗が多く、定石通りにやっても、またしても蚕が腐ったりして、養蚕教師が逃げ出したり、大失敗をして首をくくった者もあったほどで、養蚕教師も、なかなか楽なつとめではなかった。

私は自分のカンで温度の調整をはかり、これが桑の萎凋を防いで、一度も違作などしたことはなかった。とにかくは波多野翁によって率いられた京都府の蚕業は、サン然頭角を抜いたものだった。

ただに技術の上ばかりでなく、人間としても他の地方の養蚕技師とは心構えがちがっていたように思う。私なども、波多野翁がなかったら、人生にどんな滑り出しをして、どんな者になっていたか分からない。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その67

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年7月

お父さん、いまどこ?
病院だよ。
お母さんは?
トウキューで買い物だよ。

ウエハラミツキ、髪短くしたね?
そうね。短いね。

あしたあ、ハス見にいってえ、セイユー行きます。
そうか、お父さんも、一緒にハス見に行っていい?
いいですお。

女たらしって、なに?
だらしないひとのことよ。

ぼく、これからお昼寝しますお。
してくださいな。

お父さん、録画した?
コウ君、バッチリしましたよ。

お父さん、いま録画みますよ。
そうですか。じゃあ見ましょうね。
はい、分りましたあ。

お父さん、「寂しい」の英語は?
ロンリーだよ。コウ君、寂しいの?
寂しくないですお。

「菱」はタを突き出してるよね。
なぬ、おや、確かに突き出してるね。

お父さん、大好きですお。
お父さんも。

お母さん、リハビリって、なに?
傷ついた手とか足とかを元に戻すことよ

テラオさん入院したの?
そうよ。
治りますよ。ぼく祈りますよ。ほら、治りましたお!
あら、あら。

おじさん、ウエハラミツキ好き?
好きですよ。
おばさん、ウエハラミツキ好き?
好きですよ。といっときゃいいのね。
おねえさあん、ウエハラミツキ好き?
好きですよ。―小林理髪店にて

お父さん、金曜日にフクモト・リコ、録画してくださいね。
分りましたあ。

ウエハラミツキ、髪の毛短くしたお。
そうだね。コウ君よく見てるね。

お父さん、起きてください!起きてください!
いま何時?
7時ですお。
分りましたあ。

 
2023年8月

お父さん、きょう石原さとみ、録画してください!
はい、分りましたあ。

お父さん、ぼく、イシハラサトミのビデオ見ますお。
いま見たいの?
いま見たいですお、
分りましたあ。

お母さん、ぼく図書館行ってえ、ハス見てえ、セイユウ行きますお。
分りましたあ。

お父さん、洗濯もの外で干してる?
外で干してるよ?

ぼく、カーブミラー好きですお。
お父さんも。

ぼく、布袋草、好きですお。
お母さんも。

ぼく、遅くなってもいいですお。

ぼく、ウチダアサヒです。
こんにちは、ウチダアサヒさん。

お母さん、ぜいたくって、なに?
いらないものまで、どんどん買ってしまうことよ。

ぼく、前、オシン見ましたよ。
そうなの。
ぼく、オシン好きですお。
そうなんだ。
ぼく、責任持ちます。
そうなの。

 
2023年9月

お父さん、明後日ビデオ撮って。
なんのビデオ?
トリリオンゲーム。
誰が出るやつ?
フクモトリコがでるやつ。
分りましたあ。

お母さん、リハビリって、なに?
手や足を、元に戻すのよ。

タカオさん、入院したの?
そうよ。
ぼく、祈りますよ。治りますよ。治りましたよ。

お父さん、雨ですお。今日おうちに帰りたいですよお!
そしたら、まず職員さんと相談しなさい。
分りましたあ!

お母さん、お菓子食べたいですよ。
食べなさいな。
はい。

「トリリオンゲーム」、こんど最終回?
そうみたいだよ。
残念ですか?
残念ですお。

ぼく「さくら」みましたお。
そう、良かったね。

大雨で幼稚園お休みになったんだって。
そうなんだ。

接続って、つながることでしょ?
そうだね。
セツゾク、セツゾク。

ぜいたくって、なに?
いらない無駄なものをいっぱい買い込むことよ。
ぼく、ゼイタクしませんお。
そしてね。

マリちゃん、元気になりましたか?
元気になりましたよ。

ぜいたくって、なに?
いらない無駄なものをいっぱい買い込むことよ。
ぼく、ゼイタクしませんお。
そうしてね。

マリちゃん、元気になりましたか?
元気になりましたよ。

コウ君さあ、イトウサンちが無くなっていて、びっくりしなかった?
びっくりしましたおお。

ウエハラミツキ、お腹に赤ちゃん入ってるってよ。
そうなのよ。来年はじめに、生まれるんですって。

ぼく、ウエハラミツキ、好きになりましたお。
なんでウエハラミツキ、好きなの?
優しいから。
へえー、そうなんだ。前は可愛いからだったのにね。

 

 

 

一本道

 

佐々木 眞

 
 

神田鎌倉河岸にある、とても小さなビルで働く仲間たちと一緒に、
第2次関東大震災直後の、帝都駅の近くまで歩いて来た。

蜘蛛巣城のように高く聳え立つプレミア超幹線のプラットホームを見上げると、最後尾の13号車に、善良な市民や俸給労働者の貌をした、町内会、自警団、愛国婦人会員らが群がっている。

またしても大勢の伊藤野枝や大杉栄、孫文や周恩来やBTSを、鎌や竹槍や出刃包丁で殺戮し、その返り血を浴びて全身血塗れのまま、吊革にぶら下がって「君が代オマンタ音頭」を高唱している。

今日は、そんな帝国の臣民を慰労するべく、シン帝国政府が特設した、「全国プレミア新幹線13号車無料の日」なのだ。

いままで一緒に歩いてきた、人事のウチダやナカザワ課長、総務のごますりワタナベや広報のカトウ嬢たちは、「今からでも急げば、あの最後尾の13号車に滑り込めるはずだあ!」と、口々に叫びながら、蜘蛛巣城のように高く聳え立つプラットホームを目指して、「イチニノサン! ゴオ!」で駆けていったが、私らはそうしなかった。

熱血ラッシュアワーであんなに混んでいる列車に、彼女を乗せるわけにはいかない。
「ぼくたちは、次のが来るまで、しばらく待っているよ」と彼らに言って、
線路と並行している狭い野道をずんずん歩き始めると、彼女も後を追ってきた。

ラララ、2人だけの野道だ。
ラララン、2人だけの夜道だ。
知り合ってまだ日も浅いのに、いつの間にか2人は手をつないで 
ゆっくり、ゆっくり、一本道を歩いて行った。

初めて手をつないだが、手をつなぐことがなぜか恥ずかしく、
そのうえ、手に汗が滲んできたのが気になって、
ぼくは彼女の掌の真ん中を、中指で一回だけ、チョンと突っつくと、
彼女も一回だけ、チョンと突っつき返してきた。

「しめた!」と思って、
今度は掌ぜんたいを、2回連続で、グッ、グッ、と握りしめると、
彼女も2回連続で、グッ、グッ、と握り返してきた。

「やったあ!」と思って、
今度は間を開けて、3回連続で、ギュッ、ギュッ、ギュッ、と握りしめると、
彼女も3回連続で、ギュッ、ギュッ、ギュッ、と握り返してきた。

「超ウレピイな!」と思って、
今度は回数を間違えないように、「イチ、ニー、サン、シー」と頭の中でカウントしながら、10回連続で、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、と握りしめると、彼女も10回連続で、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ、と握り返してきた。

それからぼくは、「生まれてこの方、これ以上幸福な瞬間は知らなかったなあ」と思いながら、もうすっかりうれしくなって、彼女の手を握り締めながら、
暗い線路沿いの一本道を、どこまでも、どこまでも、歩いて行ったのでした。

 

 

 

「夢は第2の人世である」第103回

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年6月

電車に隣り合わせに座った男は、自分が惚れた女の鼻が、さながらピノキオの鼻であることに気づき、女は、惚れた男の唇が、ホッテントットのように分厚いことを知って興冷めし、かくて百年の恋も一瞬にして終わったのであったあ。6/1

幸い自宅が大学の坂下にあったので、私は試験日には弁当を持って早朝から坂道を登っていくと、暗闇の中で受験生たちが蠢いていた。大学の正門をくぐると、学生たちがブラックエンペラー集会を開催していた。6/2

試験を受けている最中に空腹を覚えたので、風呂敷をを開いて日の丸弁当を喰っていると、父から「試験ぐあんばれよ」という電話をもらったのだが、死んでから半世紀以上経って、史観会場でそんな電話を貰ったことが、不思議でならない。6/2

僕らは解雇される前に、一人前のデザイナー&ディレクターとしての仕事がやれる技量を、身につけさせてもらいたい、そうなったらいつレイオフされても結構だと喰い下がったのだが、テキがは、そんな都合のよい主張を認めるような甘い経営者ではなかった。6/3

原宿本社の5階の突き当たりに、来日して展示会を開いたデザイナーのペリー・エリスが、通訳のサトウケイコ嬢に付き添われるようにして立っていて、マスコミの取材を受けているのだが、彼の顔は逆光になっていて、よく見えない。6/5

同じ5階の反対側のエレベーターの前に1台のレッテラ・ブラックが置いてある。米国最古の婦人衣料ブランド「ボビー・ブルックス・オブ・ニューヨーク」を担当する英語の堪能な課長が、中目黒のレナウンルック社に移転するので捨てたのだろうが、勿体ないので拾っておこうかと迷う。6/6

来客があるというので、1階の正面玄関まで降りていくと、葉山に住んでいるという写真家のブルース・オズボーン氏が井上佳子さんと一緒に立っていて、「このビルはガンダムに似ているので撮影したい」というので、「どうぞどうぞ」と答えて、彼が撮影するのを見ていた。6/7

余は反乱軍の仲間たちと、専権王の軍隊に向かって突撃していたが、ドンキホーテに扮した指揮官のアランドロンが、行手に立ち塞がったので、余は踊り上がって、彼奴の胸に両手に持った短剣を突き刺して、息の根を止めてやったのよ。6/8

おらっちは、ついにそいつの居所を突き止めて、夜中に忍びこんで、そいつを布団丸ごと縛り上げて、そいつの心臓のところに、「返り忠の鼠」の印を、つけてやったのよ。6/9

おらっち藤井名人と対戦中なんだが、藤井選手がお馴染みの大長考に耽っている間に、おらっちの手足のさきっちょから、頭のてっぺんのところから、どんどんどんどん溶け始めたので、こりゃまたどうしたことかいなと、焦りに焦る。6/10

突如、異次元男が、「万事を放擲して、3年半永平寺で修行する!」と宣言したので、全国民が「それはなによりの朗報!」と、喜んだのなんの。6/11

お馴染みのリヴァイアサン選手がでてきて、おらっちの前に、面白そうなオモチャを投げ出すので、みな寄ってたかって、奪い合うのだ。6/12

夜の公園の中に、大勢の外国人家族が座っている。住むべき家のない彼らは、昼間は客のいない百貨店などをブラブラし、夜はここで野宿して、何カ月も過ごしているのだ。6/13

ある会社のリーマンでありながら、某製作会社に頼まれて同業他社のTVCMを企画制作したら、これがなんとカンヌでCMグランプリを獲ってしまったのだが、おらっちが授賞式に出る訳にもいかず、うれしいような悲しいような、不思議な気持ちずら。6/14

それがどんなに古くても、その写真の中のどこかのポイントを押すと、そのポイントが拡大されて3次元のカラーの動画が展開される画期的なシステムを発明したのだが、はてさて、これをどうしたらいいものか?6/15

久し振りに横須賀のヴェルニー公園を散歩していたら、ヒロ君一家とぱったりでくわした。ヒロ君は商売繁盛で、奥さんと2人の子供も元気そうなので、安心した。6/16

わたしらは何日も何日もスタジオに籠って音作りをして、「アレ」が訪れる、あの聖なる瞬間を待っていたのよ。6/17

交響曲のはじめと終わりの数小節だけ聴けば、それでその真価が分かるような気がしていたのだが、現代音楽のライヒやグラスなどは、いくら聴いてもさっぱり分からなかった。6/18

その老舗旅館に泊まると、夜寝るときに枕を持った美貌の男女が現れ、望めば夜伽をしてくれるというので、国内外の旅行客からの圧倒的な人気があった。6/19

夜中にトイレに入ったら、「倍、倍、倍」というて、オシッコがいっぱい出て来たので、驚いた。6/20

大量の粗大ゴミを、今すぐ名越の焼却センターへ持っていかねばならんのだが、あんな急坂まで、このオンボロ自転車で運べるだろうか?6/21

第2営業部で打ち合わせをしていたら、ムロタ課長の似顔絵を描いてくれと頼まれた。「おらっちの所属は宣伝課だが、デザイナーではないから描けない」と固辞したんだが、「どうでも描け描け!」と迫って来て、とうとうムロタ課長がお馬に乗ってハイドウドウの大騒ぎだ。6/22

トントンと釘を打っているような音がしたのは、私が横たわっている棺桶の蓋をしているのだと、今頃になって気づいた。6/23

ド田舎の取手で開かれている息子の展示会場は高層ビルの7階にあるので、エレベーターに乗ったら、息子の担当教授が一緒に乗り込んできて、さんざん息子の悪口をいうので、反論しようとしたらさっさと降りてしまい、代わりにシャワーを浴びた素っ裸の男の子が乗り込んで来た。6/24

僕らの「いかすぜバンド大会」が始まった。おらっちが演奏するのは、もちろんジュリア・リンカーの「あたいのワンコを起こさないで」と、「バリハイ」の特別ヴァージョン。んでアンコールは、勿論近田春夫&ビブラトーンズの本邦初のラップ「いい女ってなんで、こっちに来ないの」(「AOR大歓迎」所収)だ。6/25

私は我ながら卑劣な振る舞いをしてしまったことを、今頃になって悟って、フマ君に謝ったが、どうやら謝るべき相手を間違えたようだった。6/26

その親切な伯母さんは、「具合悪いからだで、そんな急な階段を降りたら、躓いて階段の下まで落下してしまう。早く手すりをつけなさいよ」というてお金まで送ってくださったので、手すりができて、とても重宝しているずら。6/27

おっらちの不用意な発言で、本来ならシャンシャン大会であるべき株主総会が、大荒れに荒れてしまったので、おらっちは花形の総務部の株式担当からはずされ、資材購入係に降格処分されちまったぜい。6/28

どんどん左の眼が見えづらくなってくるので、蔵並眼科を訪ねて、一日も早く手術してくれと頼んだが、あーたは前回の手術を勝手にキャンセルしたから、どこか他をあたってくらさいと言われてしまったずら。6/29

おらっち焦ってラグーン社の塹壕にタラコをぶら下げておいたら、いつの間にかバクダン虫になってしまって、みんなが寝静まっている時に次々に爆発したのよ。6/30

 

2023年7月

血の杯を呑み干して、あれほど固く兄弟の契りを交わしたにもかかわらず、、俺たちの反乱は未遂に終わってしまったが、それは拷問の脅しに負けて、俺たち全員があっさり自白したからだった。7/1

小学館の「小学1年生」から「小学6年生」の6誌に「よいこ」「めばえ」などを含めた幼児学年誌の全編集長が我が家にやって来たので、とりあえず皆さんを風呂場に案内したのだが、狭いうえに、風呂椅子も洗面器も足らないので、抗議の声が殺到している。7/2

一晩中、全世界をうろつき回ってみたが、どこもかしこも、おらっちに適した居場所とは到底感じられなかった。7/3

五反田のTOCを覗いてみたらJCの展示会をやっていて、そこに新年度の宣伝計画表が掲示されていたので、にゃろめ担当のおらっちに相談もせず勝手なことをしやがって、と土たまにきたので伊藤忠に文句を言いにやってきたところだ。7/4

A将軍によって完全に包囲されたB将軍の軍勢は、降伏するか全滅するかいずれかだと誰しもが思ったのだが、一夜明けると彼らの陣営はもぬけの殻となっていたので、A将軍はあっけにとられた。7/5

万事絶不調なのに、どうして「万事快調」なんて詩を書くの?と訊ねる人がいたので、万事絶不調だからこそ書いたんだよと答えたのだが分ってもらえないようだった。7/6

詩のようなものの書き反故ですが、というてどっさり半紙を送ってきたのだが、一枚一枚読み進むうちに、端倪すべからざる傑作揃いと思えて来たのだった。7/7

おらっちが出したお弁当箱くらいの大きさを米粒くらいの細かい活字で埋めた一巻物の大詩集を、一夜にして読了してしまったので、完読賞を下さいと迫られたので、仕方なく授与して差し上げたのだった。7/8

「1枚千円展」という展覧会に行ってきた。展示作品のどれでも1枚千円で買えるといういまどき珍しい大胆不敵な販促キャンペーンが功を奏して、押すな押すなの大入り満員の大盛況だ。7/9

余は、長い長い大旅行からひさかたぶりに帰国したので、愛する家族への土産も半端ない数量にのぼった。余は暗い三畳間の30ワットの電球を捻って明りをともしながら、老いたる父母、一足飛びに大人になった弟妹のためにボストンバッグの中から手品師のように次から次へと土産物を取り出していった。7/10

ミッドウエイで撃沈されて沈みそうな空母のブリッジに最後の最後までぶら下がっていたら、陛下から特別報奨金が下賜されるというので、我われ水兵は必死に食らいついていた。7/11

やはり関東大震災が勃発し、東京は完膚なきまでに壊滅し、消墨色の灰燼と化したので、京急は焼け焦げた無蓋の矩体を乗せた馬車を、三浦半島の端まで定期バスの替わりに運行させている。7/12

おらっちパリコレのプレタのモデルを頼まれていたのだが、余りの暑さにスケジュール帖が脳味噌の中で蕩けて腐ってしまったので、無断欠席となって除名処分を受けちまったよ。7/13

わいらあ国際義勇軍はウクライナを支援しようと空路はるばる戦場までやって来たのだがロシア軍の猛烈な爆撃に息も出来ずにタコつぼに潜んでいることしかできなかった。7/14

岐阜の大垣と謂う所に来ているようだが、その山奥にある大滝の源泉を捜しながら急峻な坂道を登攀しているのだが、あともう少しで頂上というところで滝から流れ落ちる水流とと共に麓まで落下してしまうのだが、幸いなことにおらっちはパラシュートを身につけているのだ。7/15

ウクライナ戦争即時停止と世界平和即時実現、日米安保条約即時解体を祈念して、私らはやってやってやりまくったのよ。7/16

暑くて暑くてどうにも寝つかれないので、大弱りしていたが、ふとセイユーのレジのクレジットカードを入れる際の侵入角度を参考にして体位を変えてみたら、みごとに嵌ってスイスイ寝られたのよ。7/17

ボクは今日26歳の誕生日を迎えた選手に「誕生日おめでとう!体に気をつけてガンバ!ガンバ!」とエールを送ると、ヒジョーに喜んでいた。7/18

その大書店のいちばん先のひら台の上に私の詩歌集がどっさり積まれているので驚いていると、どこからか子供が出てきて、本を玩具にして遊んでいるので、もっと驚いてしまった。7/19

サントリーの入社試験会場に来てみると、出された問題はイヌの育て方と飼い方についてであったが、半分以上はイヌ愛に満ちたイヌ学のお勉強だった、中にはヘナ、ナカという名前の品種もあったが、ともかく全員合格の目出度い試験だった。7/20

過日北原博士一家は、長男が大麻を吸引していたというのであろうことか家族全員が築地署の頑丈な牢屋に入れられ、歌舞伎座帰りの暇人の好奇の晒し者にされたというのだが、酷い話だ。7/21

剣闘士の私は毎日ローマの円形闘技場で食うか食われるかの殺し合いをしていたのだが、だんだん厭になってある日仲間と相談して殲滅一歩手前の八百長試合を敢行したのだが、コロシアムをうづめ尽くした観客が怒り狂って殺せ、殺せの大合唱が沸き起こって諸共に殺されちまったのよ。7/22

当初村の主だった連中は、文月は革命に適さないから葉月に延期しろと何度も忠告したのだが、わいらあ若衆連はかえってそれに反発して決起したのだが、案の定準備不足で大失敗してしまったずら。7/23

えらくひもじくなってしまったが、なにせ夢の中であるからなにも食えないので、じっと我慢しているのら。7/24

「あける」、「いのる」、「うむ」、「えぐい」「おこる」「かむ」、「きる」「くすぐる」「ける」…。ビデオショップに行くと、おらっちが企画した<あいうえおシリーズ>がずらりと並んでいたが、売れた形跡はなかった。7/25

ある女の一生について書いたが、やはり文字だけではなく、写真なんかを入れた言方がさまになると脇から言われたので、そうしようとは思うのだが、残念ながらその材料がないのだ。7/26

私の小学時代の同級生だが、いまだもって独得の民族衣装を纏っているのだが、それががどこの民族なのか私も本人も知らないのだ。7/27

ゴダールとロメールが共同編集して巴里で2年間だけ出ていた「ル・シネマ」という映画雑誌が物置から出てきたので、とりあえず表紙だけ撮影したんだが、これって「なんでも鑑定団」に出してみる値打ちがあるだろうか。7/28

A国のさる土地をB国が基地にしたので、それをC国がとがめて、「おらっちにも基地にする土地を寄越せ」と恫喝したので、A国はB国の基地の隣の土地をC国に与えてしばらく様子を見ることにした。7/29

真夏日の朝の光の中で、深紅の薔薇の花弁はいつまでもいつまでもハラハラと水の上に落ちるのだった。7/30

開高健のことを書こうとしていたのだが、いきなりタイトルを「開高海○」としたものの、○の個所にどんな漢字をもってきたらいいのか、いくら考えてもてんで思い浮かばないので、結局開高健論は没になってしまったずら。7/31

 

2023年8月

亡くなったケータイが、どこかでぶつぶつ言うておるよおだ。8/1

むかし椎名誠が逗子のWWW店のカジュアルウエアはなかなか面白いよとビーパル誌で語っていたのを思い出して行ってみたのだが、そんな店は跡形もなかったずら。8/2

さる高名な哲学者が、私の詩集の感想文を書いてくれたのだが、超難解でしかも3冊の超難解な哲学書に拠っての書き下ろしなので、おそらく書いた本人にしか理解できないと思われた。8/3

日中米露そしてコスタリカからやって来た5人の若者が開発した超半導体AIなる最新式の機械が全世界からの反響を呼んでいるが、その中身は杳として深い闇につつまれている。8/4

寝苦しい夜を輾転反側しているといつのまにか漱石もどきになって、次のような歌が転がり出てきた。「我もまた剥犬の如くうろつきぬ東京大阪巴里倫敦」。8/5

この風景を前にしてどういう風に写真を撮ればいいのかと聞かれたので、1枚はアジア風に、もう1枚はアフリカ風に撮り給えと助言したのよ。8/6

今回の総選挙に臨む党の方針を聞かれたので、前回のしかつめ路線をやめて、ワハハ本舗で行こうと即答したのだが、果たしてその真意を分ってくれたか否か、自信はない。8/7

昔の言葉でいうと女工さんたちが大勢行き来している洒落た小さな町だったが、私はどうしたら彼女たちに気に入られるのかいくら考えてもそのやり方を思いつかなかった。8/8

アラン大使館で発信しているおらっちのブログが大好きですとジョージが言うので、現実世界だけではなく冥界の住人にも読んでもらえるように地下通信を開始したのよ。8/9

私のグループは何グループ?と聞かれたので、スウエンソンの白鳥グループだよと返事したが、相手はそれっきりうんともすんとも言わないので、ほんとにスウエンソンの白鳥グループなのか心配になってきた。8/10

ツアラストラのおらっちは、なお多くのことどもを語ろうとしたのだが、突然語るべき中身がなにもないことに気づいたので、それからは大いなる沈黙期に入ったのよ。8/11

おらっちは一人の孤高の老テロリスト、および10年の若手テロリストを大事にせんといかんと思ったずら。8/12

元騎兵隊員の俺は、キヘイタイについて知るために電話をかけるが、誰からも返事がないので、奇兵隊に電話すると、こちらのほうは速やかに返事があった。8/13

この鉄道会社では始発列車を待つ乗客のために、夜中から翌朝まで読書室を開放し、湯茶のサービスから簡易ベッドまで据え付けてあったが、なんといっても嬉しかったのは書架に余の詩集が並んでいることだった。8/14

会社を抜け出して赤電話がやけに目立つ田舎町をほっつき歩いていたのだが、やがてそれにも飽きて赤電話で「夕方までには戻るから」と会社に電話したのよ。8/15

おらっちが病院の中で夕涼みをしていたら、タンアミなんとかに似たおばハンが、おらっちの預金通帳を持っていこうとしたので、「こらあ、なにしてけつかんねん!」と大声で抗議した。8/16

戦前戦中から映画雑誌で映画の感想文を書いていたのだが、敗戦直後からは進駐軍による検閲をかいくぐって、日米安保条約は良くない、という趣旨のコラムを書いているのだが、誰も読んでいないようだ。8/17

お父さん、ビデオ撮って、と度々息子が電話するので、おらっちは時間の海に浮かんでいる9時30分と5時15分の2つの表示板をつかもうと必死で平泳ぎしているのだが、波が荒くてなかなか辿りつけない。8/18

Oオリ氏はどうやらおらっちへの生前贈与を考えていたらしいが、結局はそれを断念して軽井沢で静養しているらしい。8/19

ブルックナーが怒涛のブルックナー進行を続けている間も、超満員の地下鉄に乗り込もうとする乗客の中には、母から大層世話になった多くの人たちがいたのだった。8/20

私に麻酔をすると、正しい日本人、正しくない日本人、変わらない日本人、時々変わる日本人、やたらと変わる日本人、日本人じゃない日本人のどれかに転位してしまうので、あらかじめいうておかんけりゃならん。8/21

女性ナンバーワンの評判の女史の論文を読ませてもらったが、別段どうということもないので、なんでナンバーワンなのかさっぱり分らんかったずら。3/22

「やっぱ寄る年波には敵わん、俺の最後の勝負は大失敗に終わった!」と、ナベサンはNYの5番街で大いに嘆いたが、所詮は後の祭りだった。3/23

1万1千発の花火とまつがえて、1万1千発の核ミサイルを撃ってしまったので、その男は急いで下宿に帰って、4畳半の押し入れで頭を抱え、誰かにペンペンしてもらうべく、尻をぐっと突き出していた。8/24

だんだん耄碌して何がホントか分らなくなってきたので、本当のことだけを書き綴った真実の本」全10巻をつくって、国立国会図書館に納品したが、いったい誰が読むのだろう。8/25

SNSの記述については「趣味」と「実益」と「その他」の3つのジャンルに分けて保存しておこうと思うのだが、じっさいには「その他」ばっかりに入れる羽目になってしまう。8/26

過激音楽が、香りの黄金公園で、ひとしきりシブヤ鳴り響いていた。8/27

すべては形象破壊の瞬間にかかっているのであり、タダのダダではありえない、と狂い咲きサンダーバードが教えてくれた。8/28

ともかくねえ、目の前に銃があると、撃ってみたくなるので、そんときもすぐに撃ってみたのよ。8/29

今朝白内障の手術をするはずの眼医者へ行ったのだが、どこかへ引っ越したとみえて、影も形もなかった。8/30

アメリカにいる池田ノブオのオレは3枚の写真を撮った。一枚は先住民がハンマーで鉱石をぶち割っているやつ、もう1枚はアリゾナの大平原に沈む夕陽の写真なのだが、3枚目のわが人世最高の傑作が一番素晴らしい奴がどうしても思い出せないので焦り狂う。8/31