グレン・グールドと朝比奈隆

音楽の慰め 第9回

 

佐々木 眞

 
 

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グレン・グールド( 1932 – 1982)は、画期的なバッハの演奏で知られるカナダの名ピアニスト、朝比奈隆(1908- 2001)はブルックナーの演奏で知られた我が国で最も偉大な指揮者です。

2人は残念ながらすでに故人ですが、朝比奈隆氏が1974年にグールドの「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集」の4枚組LPのために書かれたライナーノートを読むと、生前この2人は、少なくとも1度は共演したことがあるようです。

このライナーノートの版権は、朝比奈氏のご遺族と当時のCBSソニーにあるのでしょうが、その文章が彼の音楽と同様、あまりにも素晴らしいので皆さまにご紹介したいと存じます。願わくは無許可転載を許されよ。 (以下はその引用です)

「今から15年以上も前、ベルリンのフィルハーモニー演奏会に現れたカナダ生まれのピアニスト、グレン・グールドは、たちまち楽界の注目を集めた。彼の演奏にはいささかも名手的華麗さはなく、豪壮なダイナミズムもなかった。レパートリーは小さい範囲に限られ、バッハ、スカルラッティ、モーツアルトからヴェ-トーヴェンの初期まで。しかしこの青白いひ弱な青年の奏でるピアノの異常な魅力は、滲み通るように人々の心を捉えた。

私が初めて彼を知ったのは、その頃1958年11月、ローマのサンタチェチリア・オーケストラの定期演奏だった。彼が希望した曲目は、ヴェートーヴェンの第2協奏曲だった。この変ロ長調の協奏曲は、通常オーケストラの音楽家にとっても、指揮者にとっても、また独奏者自身にとっても、色々な意味であまり好まれる作品とはいえない。即ち、他の4つの協奏曲に見られる壮大さもなく、技巧的な聞かせどころというようなものもない。オーケストラの総譜は比較的平板で、効果的ともいえない。しかも演奏そのものは決して容易ではないからである。

果たしてサンタチェチリアの楽員たちも、なぜ他のものを選ばなかったかとか、弦の人数をもっと減らそうかと、あまり気乗りのしない態度は明らかだった。しかも、協奏曲のために予定されていた前日の午後の練習の定刻になっても、独奏者のグールドは一向に姿を見せない。気の短いイタリア人気質で、どうしたとか、電話をかけてみろとか、騒然としているところへ、事務局から体の加減が悪いので今日は出かけられないとマネージャーのカムス夫人から電話があったと連絡してきた。

私はただちに練習を中止、翌朝の総練習の初めに通し稽古だけをすることに決定、音楽家たちは損をしたような得をしたような表情で、肩をすくめながら帰っていった。

さて翌11月19日、イタリアの空は青く澄み、ローマの秋は明るい日差しの中に快く暖かい。午前10時、聖天使城の舞台にはピアノが据えられ、配置の楽員が席につき、私は指揮台に上がって、オーケストラの立礼を受けたが、独奏者の姿は見えない。

ソリストを見なかったかと尋ねても誰もが知らないという。いささか中腹になって来た私は、「ミスター、グールド」と大きな声で呼んでみた。すると「イエス・サー」と小さな声がして、コントラバスの間から厚いオーバーの上から毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにした、青白い顔をした小柄な青年が出てきた。

オーケストラに軽いざわめきが起こる。その青年はゆっくり弱々しい微笑を浮かべながら、一言「グールド」といって、右手を差し出した。「お早よう、気分はいいですか」と答えて振ったその手は、幼い少女のそれのようにほっそりとしなやかで、濡れたようにつめたかった。

その手を引きもせず、昨日は一日中ほとんど食事もとれなかったし、夜も眠れなかった。寒くて仕方がないから、オーバーを着たまま弾くことを許してもらいたい、ゴムの湯たんぽを2つも持って来たがまだ寒いなどと、つぶやくような小声である。

上衣を脱いでシャツの袖まであげている者も居るオーケストラと顔を見合わせつつ練習は始められた。私は意識して少し早めのテンポをとって提示部のアレグロを進めた。名にし負うサンタチェチリアの弦が快く響く。見ると彼はオーバーの襟を立て、背をまるくしてポケットに両手を差し込んで深くうつむいたままである。

一抹不安の視線が集中する。やがてオーケストラは結尾のフォルティッシモに入り、力強く変ロの和音で終止した。

正しく8分休止のあと、スタインウエイが軽やかに鳴り、次のトゥッティまで12小節の短いソロ楽句が、樋を伝う水のようにさらりと流れた。

それはまことに息をのむような瞬間であった。思わず座り直したヴァイオリンもあれば、オーボエのトマシーニ教授は2番奏者と鋭い視線をかわした。長大な、時には冗長であるとさえいわれる第1楽章が、カデンツアをも含めて、張りつめた絹糸のように、しかし羽毛のように軽やかに走る。フォルテも強くは響かない。しかし弱奏も強奏も、ことにこの楽章に多い左右の16分音符の走句が、完全に形の揃った真珠の糸が無限に手繰られるように、繊細に、明瞭に、しかも微妙なニュアンスの変化をもって走り、流れた。

それは時間の静止した一瞬のようでもあった。二つの強奏主和音が響くのと、すさまじい「イタリアのブラウォ!」の叫びとは、殆んど同時だった。彼は困ったような笑いをかくして、「手がつめたくてどうも」と、またオーバーの内へ両手を差し込むのだった。

その夜の演奏会の聴衆も、翌朝の各新聞の批評も、驚嘆と賞賛をかくそうとはしなかった。私にとっても、オーケストラにとっても、快い緊張と、音楽的満足の三〇分だった。その前後、今日までに欧州各地で協演したチエルカスキー、フォルデスまたはニキタ・マガロフのような高名な大ピアニストたちとはまったく異質の、別の世界に住むこの若い独奏者の印象は、私にとってもまことに強烈だった。」

 

ラシャを着たる猫背の男手を延べてスタインウエイをいまかき鳴らす 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第43回 

西暦2016年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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幻の歌舞伎の蘇演で私は主役を演じていたが、公演が進むにつれて毎晩異なる死者がどんどん甦ってくるという副産物があって楽しみだったが、今夜は舞台に超珍しい黒い蛾が飛んで来たので新種発見を確信した私は、舞台はそっちのけでそれを追いかけた。6/1

以前から私はどうも前世で一人殺しているような気がしていたのだが、前々世でもすでに一人を殺しているようなので戦慄した。6/2

僕はその狭い空間に彼女が入ってきたとき、僕にどうされてもいいと思っていたことを分かっていたが、なぜかその権利を行使する気にはなれなかった。6/3

10人の乙女の真ん中の雄蕊のところにいると、五月蠅くて煩くて敵わなかったが、私はなるほどこれが百花斉放百家争鳴というやつかと腑に落ちた。6/4

遠藤君が九州支店でトランプ販売を命じられて途方に暮れているというので、とっておきのアイデアをメモしておいたら、なんと社長の八木がこっそり盗みだしてしまったようだ。6/4

まだきわめて少数のファンしかいないマイナーなパンクバンドなのに、とち狂ったマネージャーが、ぬあんと武道館を押さえてしまったのだが、私らは、ほとんど無人のだだっぴろい会場で、やけくその演奏を続けていた。6/5

苦節半世紀、ついに反重力無軌道玉乗りマシーンが完成した。これにまたがると重力に逆らって自由自在に玉乗りが出来るので、世界中のサーカス団から引き合いが殺到し、開発者の私は嬉しい悲鳴を上げていた。6/6

よく見ると田のクロの部分に、巨大なお萩が並んでいた。我われは知らんぷりをして田のクロを何回もぐるぐる回っていたのだが、たまりかねた誰かが喰らいつくと、みなそれに倣ったが、私は泥だらけのお萩を口にする勇気がなかったので、黙ってその光景を眺めていた。6/7

若くして新社長になった安倍に会見を申し込んだ私は、大阪の居酒屋に招かれた。そこで私は、さてどうやって彼奴を料理してやろうかと思案しながら、公衆便所の入り口に似た地下に降りてゆく入口を潜った。6/8

ミレーヌ・ドモンジョは、死んだ蝶のような目で、私を見つめた。6/9

さとうさんに連れられて東中野に行くと、メリーゴーランドがぐるぐる回っていた。輪っかの上下2段の上には、ビールやワインや酒類が、下にはコップなどの容器が収納されていた。下戸の私が湯呑を取り出そうとしていると、さとうさんは「これからは毎晩東中野ですが宜しいですか」と叫んだ。6/10

サッカーの大事な試合に出場している。1点取って先行していたが、たちまち同点に追い付かれてしまい、チームには動揺が広がった。僕らは、往年の名選手たちの精霊を競技場の上空に呼び出して勝利を祈願したら、終了間際に待望の勝ち越し点が入った。6/12

国法を犯したとかいう重大な罪で、すでに課長は割腹自殺を遂げ、部下の桐野もそのあとを追ったので、私も自分を無きものにしたほうがよいのではないかと思うのだが、いったい全体、どうしてそんなことをしなければならないのか、てんで呑みこめないのだ。6/13

恐ろしく透明な海の中には、いままで見たこともない美しい海藻の間を、見たこともない美しい魚の大群がすいすい泳いでいた。そのおばあさんは、「どうやすごいやろ。こんな立派な海藻や魚は、世界中でここにしかないんやで」と私に向かって自慢した。6/14

田中君は「ここは最高だよ!」と自慢しながら、私を青山の裏通りの隠れレストランに案内してくれたのだが、そのコンソメスープの不味さには閉口した。6/15

久しぶりに自分の足を使って歩いてみると、たのしくてうれしくて、涙がこぼれるような思いで山を下った。6/16

その作家の唯一の貴重な作品集全一巻をむかし読んだことをすっかり忘れていた私だったが、いままたそれを読みだしてもちんぷんかんぷんなので、たまたまそこに寝そべっていたその作家に問いただしたのだが、それでもさっぱり意味が分からない。6/17

私はいつの間にか孝壽君になってベッドに横たわっていると、看護婦がいきなり鼻の奥にプラスティックの細い棒を突っ込んで掻きまわしたので、驚きと激痛でのた打ち回ったのだが、彼女は平然としていた。6/18

山に遊びに行って樹と樹をつなぐブランコに乗り、「せいの!」で漕ぎだして真ん中でドッキングしたら、お互いに猿のように興奮してやみつきとなり、いつ果てることなく何度も何度も交合したのだった。6/19

私が何十何も前から記録していた夢日記を朗読してくれ、と頼まれたので、ゆるやかに回転する回り灯篭の前に立って、そこに投影される草書体の文字を、おぼつかなげに読みあげた。6/20

私はその物をずっと追っかけていたのだが、そのうちに、だんだんその物に背後から追われているような気持ちになってきた。6/21

僕らはやっとの思いでその理想的な会場を借りることが出来て、さあいよいよ明日から展覧会だと張り切っているのだが、スタッフが全員素人のボランティアばかりなので、まるで準備がはかどらず、焦りに焦っていた。6/23

敵に刺されて瀕死の重傷を負いながら、ようやっと御城下にスンダ餅を運び入れることに成功した忍者は、難儀な任務を終えた安堵感からウトウトしていた。6/24

青年がハーレイ・ダビッドソンに乗って登場すると、そのまわりを無数の赤毛の狗たちが取り囲み、ブンブンという排気音に合わせてワンワンと啼き叫んだ。6/24

それにしても、もうすぐ蒲田のはずなのに、道が真っ暗で、何も見えない。6/25

中野町のおばさんから借りた本を返そうと思って、遮二無二に自転車を飛ばすのだが、なかなか着かない。地下道を出て階段を登り、広場に出ると、大勢の人々でいっぱいだった。6/25

私が本番に備えてベートーヴェンの「第9」を練習していると、見知らぬ若者が燕尾服に着替えている。「君はここに何をしに来たんだ」と尋ねると、「今日の演奏会の後半がベートーヴェンの8番なので、私は前半に2番を振れといわれました」と答えたので、私は驚いた。6/26

プレス費は商品貸出関連だけの支出のはずなのに、マスゾエ嬢は、お菓子や化粧品や本代や旅行費や、要するになんでもかんでも自分が欲しいと思う物をジャカスカ購入しはじめたので、みな唖然とした。6/27

軍の本体は1キロ先だというので、午後11時になってから闇の中を懸命に後を追ったのだが、いつまでたっても追い付かない。その差はどんどん開いていくようなので、私は焦った。6/27

地中海のリゾート地を歩いていたら、見知らぬ誰かが「別荘にいらっしゃい」と招待してくれたので、そこを訪れたのだが、生憎主人が不在で、黒人の大男が、「ここにあるものは何でも持ってけ」と押しつけるので困ってしまった。6/28

野盗の襲撃をかろうじて逃げのびたものの、家も財産も丸焼けになって無一物の哀れな私たちだったが、親切な村人たちに励まされ、もういちどゼロから再出発しようと決意した。6/29

この南の島では、とにかく鳥が人をまったく懼れない。私が左右の手で、雀に似た金色の小鳥を捕まえると、小さいのが、大きい奴の口の中の小さな虫を上手にくちばしでつまみだして、美味しそうに食べるのだった。6/29

 
 

 

*以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2014年霜月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

アムステルダム港からルテシア号に乗り込んだカラヤンは、NYに到着したらシベリウスの交響曲4番と5番、それに交響詩フィンランディアを振るつもりでいたが、まさか自分が亡命することになるとは夢にも思っていなかった。11/1

研修会の講師が演説している。
「さあ、君たち。ここで最新型の3Dシステムが導入されているので、君たちが望むものなら、たとえそれが原発でも原子力潜水艦でもたちどころに出来上がるのだ。それはこの私が太鼓判を押すから安心したまえ」
「問題は、まず何を製造するのかを君自身が決めることだ。それが決まれば、問題はそれをいかに作るかという問題に進むことができる。素材については鉱物系、動物系、植物系、無組織系の4種類を用意しているからどれでも君のお好み次第だ」
やがてあるメンバーの製品が溶鉱炉の真上に吊るされた。
よく見るとそれは彼自身の精巧なダミーであった。ダミーは下から吹き上げる摂氏何万度ものまばゆい光と高熱に包まれ、アッという間に紅蓮の炎をあげて燃え尽きた。11/2

私がワルキューレの女騎士にちょいと顎で合図すると、彼女はただちに銀色に輝く巨大な槍を投げつけ、古今東西の膨大な書籍を宙空に浮かべた。そして彼女が槍を左右に煌めかせるたびに、忽ち書籍は時代別や地域別に並び変えられ、人類の文化史の編集に大きく貢献するのだった。11/3

去年の夏に亡くなった酒井君が、覚えめでたい前課長の前で今季の媒体計画を説明している。とくに四国地方に注力してローカルバス媒体を使った広告宣伝に力を入れたいと例の口調で熱っぽく説くのだった。11/4

突然誰かにピストルで撃たれた。当初肉体への侵入度は3.5であったが、ドクターⅩが緊急手術してくれた結果、2.5まで下がった。これで脳の切開手術はせずにすむ。11/4

手が紙で切れ血が止まらなくなったので病院へ行くと、そこに穴が開いてどんどん大きく深くなってゆく。覗きこむと穴の内部にびっしりくっ付いた微細な黄色い卵から、見たこともない奇妙な魚が次々に孵化して、琵琶湖ほどに拡大した湖を泳ぎ回っているのだった。11/5

私のオケで公演前のゲネプロをやっていたら、時々雑音が紛れ込んでアンサンブルが乱れるので、どうしたことかと眼を光らせていたら、突然の豚のように太った醜いヴィオラ奏者が、「ごめんなさい、私が悪いのです。退団させてください」と泣きだした。聞けば昨夜夫婦喧嘩をして演奏どころではないというのである。11/6

私は戦時中は今井和也という人が社長をしている小さな広告会社に勤め、来る日も来る日も出征広告を作っていた。私が文章を書き半川君がデザインするのであるが、ある日常にPEDを携えて英語を勉強していた旧知の大辻四郎という人が召集されたので、この辞書の写真を掲載したところ、私はすぐに特高に逮捕された。
今井社長をはじめ橋本清一、村雲太郎などの諸先輩が築地署に掛けあってくれたが、特高は私の思想的背景を激しい拷問付きで日夜追及した。
が、もともとなんの思想も持たないノータリンでパープリンンの私だったから、小林多喜二を虐殺したばかりの殺人鬼も2週間で放免したのだった。11/7

私は戦場でまみえた雑兵太兵衛を相手に、城壁を3たびも4たびもぐるぐる回りながら鋤を振り回してとうとう斃した。すると今度は雑兵次郎衛門が出てきたので、次郎衛門を相手に城壁を3たびも4たびもぐるぐる回りながら、鋤を振り回してとうとう斃した。すると今度は雑兵三郎衛門が出てきたので…… 11/8

韓国に仕事で来ていたので、ホテルで朝食をとってから白いローブをまとったまま表通りに出ると、軍隊が警備している。私は午後1時に韓国の原宿と呼ばれている明洞で小林陽子と待ち合わせていたので、どんどん歩いて行ったが、戒厳令が敷かれている街には誰一人いなかった。11/8

久しぶりに北嶋君と芝居を観た後で、彼の自宅で飯でも食おうということになって、2人でスーパーで買い物をしてから歩道橋を歩いていたら、向こうから本町4丁目の足立茶碗店の足立君がやって来て、「ほらよ、これが「熊野の天然水」だ。遠慮せずに持ってけよ」といって、北嶋君にビニール袋を渡した。

北嶋君は、「僕は君が誰だか知らないし、知らない人から物をもらってはいけないとカントも語っているから、要らない」と断ったのだが、足立君があまりにもしつこく「持っていけ、持っていけ」とヤクザのように強要するので、さすがの北嶋君も根負けしてその重いビニール袋を受け取った。

両手に花ならぬ食料品をいっぱいぶらさげ、大汗かいて北嶋君の家にたどり着き、一歩玄関の中に入ると、驚いた。
玄関も、リビングも、キッチンも、寝室も、書斎も、トイレや浴室の中まで「熊野の天然水」で一杯なのだ。

1LDKに立錐の余地なく立ち並ぶ500mlのペットボトルの大群は、モダンアートのインスタレーションのようでもあり、巨人の胃袋の内壁にびっしりとへばりついたポリープの森のようでもあった。おまけに北嶋君のビニール袋の中には「熊野の天然水」しか入っていない。

「北嶋君、これはいったいどうしたわけだ」と尋ねると、カントの読みすぎで青ざめた顔付きの哲学青年は、上がり框にどっかりと腰をおろして、事の次第を語ってくれた。
「実はさっきの足立君は僕と同じこのマンションに住んでいるんだが、中上健次の水呑み婆が出てくる小説を読んでから、水呑み教の虜になってしまったんだ」

「その小説では熊野の聖水を飲むと体毒をきれいにしてくれるという妄想に取りつかれた連中が出てくるんだが、これに一発でいかれてしまった足立君は、毎晩僕の部屋にやって来て「熊野の天然水」の押し売りをするようになってしまった」

「ああ、仕事だって大変なのに、家に帰れば足立君が聖なる水をガブガブ飲めば健康になって幸せが訪れるという。飲んでも飲んでも下痢をするばかり。これからいったいどうなるんだろう。僕は人世に疲れ果てたよ」と嘆くのだが、私はなんと慰めてよいのか分からなかった。11/8

アメリカ大使館に、ベロニカ嬢が来日した。私が飲み屋で友人のフランキーに「もしキャロラインに事故があったら、次期駐日大使はベロニカちゃんで決まりだね」と話しかけると、彼は突然真っ青になって「JFK is No.1! Caroline is No.1!」と叫んで泣きだした。11/9

今度の課長は、本来部下に任せるべき仕事もぜんぶ自分でやってしまう人物なので、やりにくくて仕方がない。「大量に発生したユスリカにどう対応すべきかは、俺に任せろ」と宣言したままなにもしないので、頭にきた私は、火炎放射機で抹殺してやった。11/10

その大劇場に入ると、数年前に開催された超マイナーなインディペンデント映画祭で上映されるはずだった「古い谷の記録」や「アクラ」などの35ミリフイルムが、あちこちの座席の上に長い帯のように抛り出されたままになっていた。おそらく誰かの妨害が入ったのだ。11/11

南米のばあさんの屋台からガヴァを買おうとして邦貨300円相当のコインを渡したはずだったが、ばあさんは受け取っていないという。しばらく押し問答しているうちに、「まてよ、これはおいらの耄碌と勘違いだった」と思い直して300円払うと、喜んだばあさんはいきなり右手を出してきたので、私もその手を取ってぐっと握り返した。11/11

宇宙蛇がおのれの尻尾を銜えてどんどん呑みこんでいくのをじっと見つめていたのだが、どんどん胴体が消えていって、そのうち全部無くなってしまった。11/12

私は「いいね!」と書き込まれた私の投稿記事が、パソコンの画面の真ん中で突然ぜんぶ消えてゆくのを、茫然と眺めていた。11/13

今なら敵の間隙を衝いて、アジスアベバの司令本部も、大審院も、軍事顧問の魔法使いも、撃滅することができる千載一遇のチャンスだというのに、わが反乱軍の無能な指導者たちは、いつまでも腕組みをしたまま、立ち上がろうとはしなかった。11/13

NYの山本君がコムデギャルソンから新ブランドを出すというので、絶海の孤島で開催されたショーを見に行った。服はいまいちだったがバッグ、シューズ、雑貨の出来が良かったと感想を伝えると、「これから村の老漁師を訪ねて習字と下駄の鼻緒すげを習いに行くので、ここでお別れします」といった。11/14

川で遊んでいたら、ゴッゴオという物凄い音が聞こえたので、村人たちと一緒に急いで裏山の頂上まで登ったら、いままさに村全体が津波に呑みこまれてゆくところだった。11/15

裏駅の近くに永滝氏の住居兼用の壮麗な屋敷が聳えていたが、氏はその「3階にある展示会場が来訪者に分かりずらい」といって、いつまでもくよくよ心配していた。11/15

真夜中に庭の離れに電気が点いていたので、覗いてみると、母が「心配しなくても大丈夫だよ。昔の友達がやって来たのでお父さんと一緒にもてなしているところだよ」というのであった。11/16

あたしのことを好きな男がいると子供たちから聞いたので、それはいったい誰だろうと思いながらあたしが公民館の外までやってくると、蛍があちこちで輝き始めていた。11/16

「○○とするにはあらずしてそは○○なり」という和歌を作った。これは上出来、この歌こそはわが生涯の大傑作ならむ、と確信していたのだが、時が経つうちに、その○○がなんであったのかをすっかり忘れ果ててしまった。11/17

急に学生時代の呑気な気分が蘇って、部屋の向こうで寝ている友人に鉄の球を投げてやろうと思いついたが、友人は2階ではなく1階に寝ているのを思い出した。すると見知らぬ人から「真夜中にネンネグーしているところに、鉄球なんか投げないでくれよ」というメールが入った。11/17

わが会計事務所では、沿線の駅ごとに1名から数名の担当者を派遣していたが、普段は閑散としている綾部駅で突然殺人事件が発生して、多数の乗客が押し寄せたために、1人だけの係員は朝からてんてこ舞いだった。11/18

機動隊に追われてお茶ノ水のビルジングのてっぺんによじ登った私は、次々に別の建物に飛び移りながら追及をかわし、無人の日大の運動場に飛び降りた。11/18

山崎方代さんがいる八幡宮の前の鎌倉飯店で中華丼を食べていると、いきなりドンブリが宙に浮き、料理屋の外に飛び出した。私のだけでなく、方代さんや他の客のドンブリも列をなして段葛を南下し、由比ヶ浜めがけて飛んでいった。今頃は相模湾を飛行しているだろう。11/19

私は自分の下手くそな詩を朗読しながら、身振り手振りで表情をつけようと努力しましたが、まるで最近アルツハイマーが進んだおばあちゃんのように思うにまかせません。のみならず肝心の詩の朗読すらおぼつかなくなってしまい、すっかり自信を喪失してしまいました。11/19

テントの中にクスクスやカナカナを連れ込んで、背後から貫いた浅ましい姿を赤外線カメラで盗撮されていたために、私は検察局に呼び出されて1階級降格になってしまった。11/20

家光公から「最近領海に出没する海賊船を拿捕せよ」と命じられたので、本邦最大の戦艦と屈強な漁師百名の下賜を願い出て、南の海に乗り出した。夜陰に乗じて敵船百艘の周囲を百名の漁師が荒縄で縛り、私が操縦する巨大戦艦が先頭に立って海賊もろとも全船を長崎の港まで牽引すると、公は大層喜んで「望みの物は何でも取らそう」とのたもうた。11/21

尾根チャンと海外出張して「良い写真を2カット撮ってこい」といわれたので、まずパリでモデルのからみを、ついでアルジェリアで乾いた風景写真を撮ったが、圧倒的に後者の出来栄えがよかった。11/22

名古屋近鉄の電器売り場で、キャンバスを立ててスケッチを描き始まると、忽ち人だかりができた。私は「あら、これはダリよ」「これはゴッホよ」と持て囃す女たちと、どんどんデートの約束を取りつけながら、売り場主任と大型テレビの商談を始め、どんどん値切っていった。11/23

やがてA子とデートの約束をとりつけ、50インチの液晶テレビを40万円で買う商談が成立したところで、私はキャンバスをかたずけ、サインをしてから彼女と新幹線の駅に急いだ。11/23

某新聞社に勤務する友人が、彼が担当者である歌壇の選歌会と、同じく彼が担当する本年度年間最優秀スポーツマン選考会のメンバーを、同じ部屋に同じ日時に召集したたために、それぞれの作業が大混乱したために、長嶋茂雄や岡井隆などの有名人が怒り狂って友人に詰め寄った。11/24

2人で地下道を何十分も歩いてから、ようやくシティタウンの前に出たところで、彼女が私に絡みついてきたので、さあ困ったぞ、どうしようと悩んでいると、その近辺の若者たちがこちらに近づいてきた。11/25

繊研新聞の広告を見ていたら、誰かの小説の読書感想文が出ていた。よく見るとそれは3Dの立体広告になっていて紙面から立ち上がっているのだった。11/25

私はイトレルを演じたチャプリンの映画からヒントを得て、常に7人の美女をデスクの周囲に侍らせておいて、たまたまそうしたくなったときには、そのうちの誰かをつかまえて、内なる欲望を発散させるのだった。11/25

会いたい会いたいと希っていた昔の思い人と連絡がついた私は、再会の喜びに殆ど有頂天になっていたが、午後4時に落ち合う約束をしていたレストランに行くと、それは切り立った岩山のてっぺんに聳え立っていた。11/27

レストランは無人で、誰もいない。客も給仕もいないし、いくら待っても彼女は来ない。それでも私は辛抱強く椅子に腰かけていると、厨房のほうで物音がしたかと思うと、恐ろしい顔つきをした屈強な男たちが突然現れて、私を取り囲んだ。11/27

白い蝶が飛んで来たので、寒冷紗の網を一閃し、得たりやおうと捉えてみると、それは巨大なウスバシロチョウだった。私がその部厚い胸を圧して息の根を止めようとすると、それは全裸の堀北真希に変身し、「お願いです、なんでもしますからわたしを殺さないで」と哀願するのだった。11/28

いつのまに内戦が始まったのか知らないが、横須賀線から眺めた逗子では死人は見かけなかったのに、鎌倉駅の下馬四つ角では、黄色く焼け焦げた肢体が折り重なって、見るも無残な様相を呈していた。11/28

雄大な山脈を背景にした映像に「山は常に動いている」というナレーションを乗せたアリゾナ州のCMに、「山登りをするときにはガラガラ蛇に気をつけよう」という注意事項を付け加えてほしいという依頼があったのだが、阿呆馬鹿デザイナーが、山を蛇のとぐろ型に修正したために、放映中止になってしまった。11/29

卓ちゃんたちと待ち合わせした料理屋は、どうやら風呂屋だったらしく、部屋の中は、浴衣などが乱雑に脱ぎ捨てられていて、浴槽からは嬌声が聞こえてくるので、気分を害した一人は「俺はもう帰る」と言ってどこかへ行ってしまった。11/30

 
 
 

西暦2014年師走蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

久しぶりに北嶋君と会って、街中をぶらぶら歩きながら私が、「やっぱり10代の女性と100歳の男性がいちばんかっこいいね」とつぶやくと、北嶋君は、「じつはぼくもそう思っていたんだ」と頷いた。12/1

会社を出て家路を急いでいた私は、露地のどこかで外套がひっかかってしまったので悪戦苦闘していると、私の家の中にいる誰かがその姿をじっと見つめている。ようやくひっかりが取れた私が家の中に入ると、見知らぬ美少女が「よござんしたね」と言うのだった。12/2

業績悪化で荒蕪地に移転してきた会社は、鉄板を針金で囲んだバラックのような建物で、前田さんの獰猛な犬どもが、ワンワン吠えながらあたりをうろつきまわる。それでも私は、愛犬ムクをひしと胸に抱きながら、仕事を続けていた。12/2

私が急いで呑み下した聖句は、私の腹の中をあちこち揺れ動きながら、青白く光り輝いていたが、時々口から飛び出しそうになるので、母はハラハラしながら見守っていた。12/3

増田君のところに会社から1000万円も振り込まれていたので、大道君は非常に心配して、「これはどういう素姓の金なんだ」と、しつこく尋ねるのだった。12/3

パーティー会場に暴漢が乱入して、剣を振り回したために、何人かの若い坊さんの両手が斬り落とされてしまいました。12/5

私は緑の牧場の羊を次々に殺していったのだが、その羊はじつは凶悪な殺人犯の偽りの姿だった。12/6

東国の王も、今では相当落ちぶれてはいたが、敵に追われた私が逃亡する前夜には、最後の晩餐だといって、懐に入れて大切にしていた手作りのパスタを御馳走してくれた。12/7

私は常に2つのユニット、2つのツールから組み立てられていた。20万円と10万円の2つの札束のような。12/7

友人の発表会に出席しようと、地下街の通路を急いでいたら、いつのまにか清水トモ子が私にぴったり寄り添って「あのお課長、わたし会社を辞めますのでよろしくお願いします」と言うので、驚いて立ち止り、じっくり話をしようと思ったら「ちょっとトイレ」というなり姿を消してしまった。12/8

キャンパスの中をぶらぶら歩いていたら、死んだ酒井君が畳んだ椅子を持ってきて「これに腰かけると楽ちんですよ」という。まもなくここで「アラビアのロレンス」を野外上映するというのだが、彼と一緒に座っていると、突如にわか雨が降ってきた。12/8

清さんの会社に若い女子が5人も6人もやってきたという話を聞いて、一度覗いてみようと思っていたが、その機会がなく時が経つうちに、仕事にあぶれてしまったので、もう恥も外聞もなく泣きついたら、すぐに雇ってくれた。

しかし男性の社員は俺とサトウだけなので、どうにも照れくさくて仕事にならず、新橋へ行って陽のあるうちから酒をくらっていたら、サトウが怒り狂ってやってきたので、なだめすかして別の店で呑みなおすことにした。

ところがその飲み屋の石の階段に左足を置いたところ、足の周りに小さい赤いカニがうじゃうじゃと蠢いているので驚いた。「これは超珍しい種類のカニだから、全部捕まえよう。お前も手伝ってくれ」とサトウに頼んだら、「ダメヨ、ダメダメ」と断られてしまった。12/9

松井は、「低い球は右に押し出すように打たないと、打率が上がらないんです」と言いながらそのやり方を実演してくれたので、私はそれにヒントを得て「右斬り作戦」を決行した結果、クーデターは見事に成功したのだった。12/10

それがどういう内容だか分からないのだが、私は致命的な失敗をしてしまったらしい。私自身にも、会社にも、大勢の人々にも多大な迷惑と損害を与える失敗らしいのだが、当の本人である私はどうしていいのか全然分からないのだった。12/11

ここは僕たち孤児を収容する施設です。今日はウィーンからライナー・キュッヒルというはげ頭のおじさんがやって来て、僕らのためにヴァイオリンを演奏してくれることになったのですが、駆け足でやってきたので、椅子に躓いてひっくり返ってしまいました。12/12

「さあここからはサハラ砂漠だよ」という声が聞こえたので、頭を上げて前方を見ると、遥か彼方まで砂山が広がっているのだった。12/13

海に飛び込み、彼女の家は青の洞門の下にあったはずだと思いながらどんどん潜っていくと、岩で造られた部屋が2つあったので、左の方に進んでいくと、彼女にそっくりの女性が私を手招きするので、そのまま抱擁してベッドで事に及ぼうとした。

ところが、やはり私のあそこはぐんにゃりとしたまんまで期待にこたえられず、「どうにもこうにも」と嘆いていると、いつの間にか別の女性がやって来て、「母と私を間違えるなんて」と怒り狂っているので、私はまたしても「どうにもこうにも」と呟くのみだった。12/13

母と投票所を訪れたら、選挙管理事務所の立会人の2人が母に暴言を吐いたので、思わずカッとなって殴りかかったら、そいつらの体は、じつは鎌倉青年団が大正時代に造った鎌倉石の石碑で、眼だけがギョロギョロ動いているのだった。12/14

自慢ではないが、私のモノは素晴らしい性能を備えているらしく、ひとたび交わった女性は病みつきになるらしい。そんな噂をどこから聞きつけたのか、一面識もない女性たちが、毎朝門前市をなして、全裸で佇んでいるのだった。12/15

その可憐な美少女に密かに好意を抱いていた私だったが、彼女にどう思われているのか自信がなかった。そこへあるカメラマンが猛烈にアタックしはじめたが、彼女は徹底的に無視したので、嬉しくなった私は、カメラマンに蒸しタオルを掛けて抹殺してやった。12/16

「蜂起の時は、こうやって敵に向かって傲然と顔を上げて、戦場に突き進むんや。みんながあんたを見てるんや。討たれることを恐れてはならんのじゃ」という声がした。12/17

地下の奥深くにある迷宮の中で、私はよく締め切りを忘れた。いろんなエレベーターやエスカレーターを次々に乗り換えないと目的地にたどり着かないので、ただそれだけでいたずらに時が流れてしまうのである。12/18

やっと山登り組合のコンセンサスが統一されたらしく、「世界百名山」の広告がたくさん出るようになった。12/18

編集長から8ページもらったので、私は新橋の「新・橋」にある新聞社を舞台に活動する男女の仕事や哀歓を、枚方の菊人形のような立体模型で表現し、横浜行きの電車が停まるプラットホームで、その掉尾を飾った。12/19

私に気がある外国人の女を、彼女の希望通りに階段の上でひんむいてやると、女は泣いて喜んでいた。するとそれを見た日本人の女が、「この女、なんてザマなの」と罵ったので、私は彼女もひんむいてやった。12/21

ある日、アフリカの熱砂の町ハラルにいる私たち邦人が全員集合して、最近の国際情勢やビジネスについて論じ合っていた。突如武装した黒い兵士が乱入して銃をぶっぱなして散会を命じたので、みな蜘蛛の子を散らすように大急ぎで逃げ出したが、取り残された1人の半裸の男が倒れて口から泡を吹いている。助け起こそうと近寄ってみるとアルチュール・ランボオだった。12/23

私は一晩中自分の夢をキャンバスに描くのに忙しかったが、いちばん難しかったのは、夢の内容と表象の相関関係だった。12/24

新しいテレビ番組の企画書を書いているのだが、書いても書いてもそれが文字にならないので、私は非常に焦った。12/25

共同テーブルにつくや否や、弾丸列車に関する出席者の問題意識はただちに共有されたので、私が機関銃に銃弾をガチャリと装填するや否や、祖父小太郎が登壇して「では、ただ今から弾丸列車を発車させる」と宣言した。12/26

この前の大火の時に撮った写真を缶詰にしておいたら、いつの間にか腐ってしまっていたので、最近の火事の写真に差し替えた。12/28

波がとどろきわたる大河だったのに、一瞬にして大蛇がとぐろを巻くようにうねりながら粘土に変化し、やがて紅茶色の土になってしまった。12/28

3時半から授業が始まるので、校舎めざして野原を歩いて行くと、若き日のオードリー・ヘプバーンにちょっと似た少女が頬笑みかけたので、挨拶を交わすうちに、なんだかえもいわれぬ懐かしさを覚えて、どんどん好きになってしまった。

近くのカフェに入ってどうということもない話をしていると、ヘプバーンが入って来た客を避けるような素振りをするので、「どうかしたの?」と尋ねたが、「別になんでもないの」と答えるばかりだ。

そのうちに時が速やかに流れたので、「僕は3時半から授業があるから、そろそろ行かなきゃ」と立ち上がると、ヘプバーンは「あら、この前と同じことをおっしゃるのね」と言うので、確かにこれと同じことが以前に起こったことを思い出した。12/28

電通と博報堂に頼んで別荘を作ってもらったら、「これはあなたの家ではなく生活の党の人の家だ」といわれてしまったので、いたく当惑しているわたし。12/29

俺とナカシマが寝そべりながら仕事の話をしていると、突然人妻らしき妖艶な女性が、ナカシマのお腹の上に乗っかって来て、「ナカシマさーん、あたしと結婚してよ」と、猫撫で声で甘えた。

するとナカシマは「バカヤロ、俺は3人も嫁はんがおるんじゃ。4人目の嫁はんなんかいらん、いらん」と断ったら、妖艶女は「いやん、いやん、嫁にしてよ」と激しく身悶えしたので、ナカシマは黙りこんでしまったが、恐らくボッキしていたのだろう。12/29

それから会社に行ったが、その妖艶女がまた現れて、今度は私の作品を見せてくれとせがむので、「しょうがないなあ」といいながら一緒にエレベーターに乗って喫茶店へ行くと、狭い店内にむちゃくちゃに大勢の若者が、裸同然の恰好で座り込んでいる。

作品を見せてやろうと妖艶女を探したのだが、いつのまにか姿を消してしまったので、もう誰でもよくなって、たまたま通りかかったアオキ嬢に見せたが「よく分からないわ」という。

喫茶店にはスクリーンに映画が上映されていて、ヨコヤマリエとヨコオタダノリが新宿の紀伊国屋でからんでいるのを、口をあけて眺めていた。私が「もうじきヨコヤマリエが万引きするよ」とアオキ嬢に囁くと、いつの間にか傍に立っていた妖艶女が、「そうじゃなくてヨコオタダノリが万引きするのよ」と訂正するのだった。12/29

BSCS社の依頼で講演をして各地を巡回していたが、あるときこの会社は、衛星放送関連の業種とは無関係な金融ファンドと知って愕然とした。12/30

この歳になっても試験を受ける羽目になってしまったが、厭で厭で仕方がないので、終始投げやりな態度で面接を受けていると、昔の自分が思い出されてなおさら落ち込むのだった。12/31

 

 

 

熊野の天然水

 

佐々木 眞

 
 

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久しぶりに親友の北嶋君と芝居を観た後で、彼の家でチャーハンでも食べようということになって、2人でスーパーで買い物をしてから本町通りを歩いていた。

すると本町4丁目の足立茶碗店から、高山彦九郎そっくりの顔をした背の高い若者が飛び出してきて、「ほらよ、これが「熊野の天然水」だ。遠慮せずに持ってけよ」といって、北嶋君に水が入った大きなビニール袋を渡した。

北嶋君は、「ぼくは、君が誰だか知らないし、知らない人から物をもらってはいけないとカントも語っているから、要らない」と断ったのだが、足立彦九郎があまりにもしつこく「持っていけ、持っていけ」とヤクザのように強要するので、さすがの北嶋君も根負けして、その重いビニール袋を受け取った。

仕方なく2人で荷物をいっぱいぶらさげ、大汗かいて北嶋君の家にたどり着き、一歩玄関の中に入ると、驚いた。
玄関も、リビングも、キッチンも、寝室も、書斎も、トイレや浴室の中まで「熊野の天然水」で一杯なのだ。

1LDKに立錐の余地なく立ち並ぶ500mlのペットボトルの大群は、モダンアートのインスタレーションのようでもあり、巨人の胃袋の内壁にびっしりとへばりついたポリープの森のようでもあった。
おまけに北嶋君のビニール袋の中には、「熊野の天然水」しか入っていない。

「北嶋君、これはいったいどうしたわけだ」と尋ねると、カントの読みすぎで青ざめた顔付きの哲学青年は、上がり框にどっかりと腰をおろして、事の次第を語ってくれた。

「実はさっきの足立君は、僕と同じこのマンションに住んでいるんだが、中上健次の水呑み婆が出てくる小説を読んでから、水呑み教の虜になってしまったんだ」

「その小説では、熊野の聖水を飲むと体毒をきれいにしてくれる、という妄想に取りつかれた連中が出てくるんだが、これに一発でいかれてしまった足立君は、毎晩僕の部屋にやって来て「熊野の天然水」の押し売りをするようになってしまったんだ」

「ぼくは昼間の仕事だって大変なのに、夕方家に帰れば、足立君が、「聖なる水をガブガブ飲めば健康になって幸せが訪れる」と、真夜中まで力説する。仕方なくぼくが「熊野の天然水」を口にすると、飲めば飲むほど下痢するばかり。明け方まで、しょちゅうトイレに行きっぱなしさ。これから、いったいどうなるんだろう。ぼくは、人世に疲れ果てたよ」

北嶋君の嘆かいは、さらに延々と続いたのだが、もはや私は、この親友をなんと慰めてよいのか分からなかった。

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その11

 

佐々木 眞

 
 

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お父さん、大洋がベイスターズになったの?
そうだよ。
耕君、ベイスターズ好きなの?
好きですお。

お父さん、「どんど晴れ」の夏美のなつは、夏のなつですお。
そうだよ。夏のなつだよ。

お母さん、レイプってなに?
嫌な言葉よ。どこで聞いたの?
知りませんよ。

お母さん、責任てなに?
しなくちゃいけないことよ。
お母さん、ぼく責任持ちますお。
そう、持ってくださいね。
無責任はいけないことですお。ぼく責任持ちますお。

ぼく「国鉄最終章」の本、好きですお。
そうなんだ。
ぼく、「国鉄最終章」の本、買いましたお。
そうですか。

耕君、無駄遣いしないでね。
はい、ぼく無駄遣いしませんお。
無駄使いするとお金がなくなるからね。お金がなくなったらどうなるの?
どろぼう?
お米やお肉や野菜が買えなくなるでしょう?
はい、ぼく無駄遣いしません。

お父さん、賜物ってなに?
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お父さん、さいならって、さよならのことでしょ?
そうだよ。
さいなら、さいなら、さいなら。

あしたおばあちゃんチに行って、図書館へ行って、西友へ行きますお。
分かりました。

お父さん、ベロだしちゃだめでしょ?
だめだよ。

お母さん、つべこべってなに?
つべこべいうことよ。

「横浜線では混雑緩和が試みられることになった」
お母さん、ぼく読みましたよ。横浜線好きになったんですよ。
そう、良かったね。

お父さん、横浜市は金沢区とかでしょう?
そうだよ。

お母さん、ミニストップ行ってきますよ。
なにしに行くの?
アイスクリーム買ってきますよ。
気をつけてね。
はい、行ってきます。

神様ってなに?
耕君がちゃんとやってるか上の方で見ているひと。
そうなの?
そうなのよ。

お母さんさん、歴史ってなに?
これまでいろいろあったことよ。平成の前は昭和でしょう、その前はなんだった?
大正。
そうそう、そういうふうに。

お母さん、せせらぎってなに?
川がゆっくり流れていることよ。
せせらぎ、せせらぎ。

お母さん、まぼろしってなに?
人には見えないものよ
まぼろし、まぼろし。

お母さん、めんどくさいって、なあに?
めんどうなことよ。

お母さん、おだやかってなに?
グワーと怒らないことよ。
ぼく、おだやかにしていますお。

お父さん、埼京線は浦和南高校に行く時でしょ?
そうだよ。

お父さん、コスモスは秋と桜でしょ?
え? ああ、そうだね。

お父さん、三角の英語は?
トライアングルだよ。

お父さん、ファは小さいアでしょ?
そうだよ。

お父さん、小田急は青い線でしょ?
そうだよ。
無人改札って駅員さんがいないんでしょ?
そうだよ。

ありふれたってなに?
よくあること、よ。

お母さん、早くお風呂に入ってね。
はいはい。

ぼく、蓮佛さんの声好きですお。
蓮佛さんの声真似してみて。
「ご迷惑をおかけしてどうもすみません」「かいとくん、早く良くなってね」
上手だね。

蓮佛さん、なんで泣いていたの?
生まれて初めて作ってもらったお弁当が美味しかったからよ。

調べるのは検診でしょ?
そう。
歯のゴミは歯石でしょ?
そうだよ。

お母さん、責任取るってどういうこと。
最後までちゃんとやることよ。
ぼく、責任持ちますので。

お母さん、ぼく、雨と雪両方好きだよ。
そうなの。

ジュース1本にしましたお。
ホントかなあ、いっぱい飲んだんだろ?
今度1本にしますお。

お母さん、なほちゃんに会った?
会いましたよ。
なほちゃん、笑ってた?
笑ってたよ。
なんで笑ってたの?
楽しかったからよ。

お母さん、ぼく鎌倉郵便局好きですよ。
そう、じゃあ今から行こうか?
嫌ですお。

お母さん、アドバイザーってなあに?
いろいろ教えてあげるひとよ。

お母さん、あざやかってなに?
きれいで輝いていることよ。

お母さん、黒木メイサがジュースを飲んでるとこになって。
「ああ、おいしい、おいしい」
ぼく黒木メイサが笑ってるの、好きだお。

お父さん、京浜東北線変っちゃったねえ、
青い電車もうとおってないでしょう?
もうアルミ車ばかりでしょ?
へー、そうなんだ。

「来い」って「来てね」のことでしょう?
そうだよ。

ぼく、オダカズマサ好きだお。
そうか、耕君は小田和正好きなんだ。

車椅子そっと押すのよ。
そうね、そっと押さなきゃね。
ぼく、車椅子そっと押しますお。

お母さん、ジョウトってなに?
譲り渡すことよ。
JR203系、インドネシアに譲渡されたよ。
へえー、じゃあ今インドネシアで走ってるの?
そうだお。

お母さん、じょじょにって、どういうこと?
だんだん、ということよ。
じょじょに、じょじょに。

お父さん、ぼく旅行でおみやげ買ってきますよ。
ありがとう。
お母さん、ぼく旅行でおみやげ買ってきますよ。
ありがとう。

ぼく群馬旅行好きですよ。
そうなの。
ぼく「ホテルきむら」好きになりましたお。
群馬旅行、また行きますか?
また行きたいですよ。

大宮高校どこにあるの?
埼玉県だよ。
お父さん、ぼく埼玉県好きだよ。

 

 

 

マジカル・ミステリー・デンタル・ツアー

 

佐々木 眞

 
 

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歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと*
ああ歯が痛い、歯が痛い。

歯が猛烈に痛みます。
この痛みは、なんなのだ? 虫歯かブリッジか歯槽膿漏?
それとも心臓からの悪しき便りか。
痛い痛い、歯が猛烈に痛いんだ。

我慢に我慢を重ねていたけれど、左の奥歯がひどく傷むので、
無理矢理頼んで押しかけたのは、横須賀大滝町の沖本歯科。
皇太子さんにそっくりの顔をした温厚な先生が
「佐々木さん、どうされましたか?」

と、私の名前を呼びながら、顔を下から覗きこみました。
まず患部周辺をレントゲンで撮影したあと、奥歯の臼歯の治療が始まります。
虫歯がすでに神経に達しているので、麻酔をかけて神経を取ることになったのですが、
どういう訳だか、麻酔がなかなか掛からない。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

先生のピンセットが患部に触れると、
その都度ピリリ、ビリリとシビレエイにやられたような痛みが走ります。
沖本先生は「痛かったら左手を挙げてください」とおっしゃるのですが、
ピリッときても、なかなか手をパッと上げられない。

そんな時、いつも考えるのは脳に障がいのある息子のこと。
「痛かったら左手を挙げてください」なんていわれて、どうするんだろう。
「ハイ!ハイ!ハハイ!」と答えはするものの、
困って、おびえて、パニクってしまうのではなかろうか。

しかし変だぞ。今日はおかしい。
私は昔からいともたやすく麻酔が掛かるのですが、
今日はいったいどうしたことか?
掛かり方がぜんぜん弱いのです。

すると先生は、慌てず騒がず「しょうきガスを使ってみましょう」とおっしゃいます。
「正気?」
「いや笑気です。これを両方の鼻の穴から注ぎ込みますと、しばらくすると頭がぼんやりしてきますからね」といって他の患者さんのところへ行ってしまいました。

ひとりぼっちで取り残された私の頭は
次第にぼんやりしてきましたが、
これまでいろいろお世話になった歯医者さんのことが
突然私のくたびれ果てた脳裏に浮かんできました。

どういう風の吹きまわしか1960年代の終わりにリーマンになった私が、慣れないスーツ姿で通い始めた会社は、神田鎌倉河岸にありました。
その神田では伊藤歯科がいいというので、私が神田駅に近いその歯医者を訪ねますと、そこには老若2人の伊藤先生がいて、私は若い方の伊藤先生にあたりました。

若先生といっても既に中年で、医者というより英国風の紳士のような知的な風貌が印象的です。他方老先生は70代を過ぎて、もう米寿になんなんとする温和なお年寄りで、医者というより、春風駘蕩たる落語家のようなこの方が、名医と謳われていたことが後になって分かりました。

ある日のこと、酷い虫歯になった私は、奥歯の神経を抜くことになりました。
物慣れた手つきで麻酔を掛け終わった若先生は、さっきからピンセットのようなものを握りしめて、穴の奥にひそんでいる細い糸のようなものを引っ張りだそうとするのですが、これがなかなかうまく行きません。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

白いマスクの上の額からは大粒の汗が浮かんで、
それが瞼の上に落ちてきます。
若先生はだんだん苛立ってきたようです。
いきなりマスクをはずすと、大きな声で叫びました。

「困った、困ったあ! こんな細かい神経は今まで一度も見たことがない。困った、困った! いやあ、参った、参ったあ! 佐々木さん、ぼく、どうしましょう」
歯医者に「どうしましょう」と言われても、私はどうする訳にも行きません。
ちらっと向こうを見ると、大先生は知らん顔をして女性の患者と楽しそうに話しています。

いやしくも大都会の街中で開業している医師が、
そんな捨て鉢な台詞を患者に向かって吐いていいものでしょうか。
大学でも講義しているというインテリゲンチャンの若先生は超理論派かもしれないが、
大先生に比べると、技術で劣る不器用な人だったのでしょう。

同じ伊藤歯科なのに、
どうして大先生に治療してもらえなかったのか。
どうして眼高手低の若先生に当たってしまったのか。
私はその時ほど恨めしく思ったことはありません。

さて。
時と所は変って、1970年の原宿竹下通り。
ここは平成末期の現在とは違って、真中あたりに鰐淵晴子さんのお父さんのバイオリン教室があるくらいで、朝から晩まで閑古鳥が鳴いていました。

そうして。
原宿駅からその竹下通りを歩いて、
明治通りに出たすぐ右側に、
その歯医者さんはありました。

ドアを開けると、そこはたったひとつだけの座席と必要最低限の設備しか備えていない、
狭い狭い部屋である。
まるで西部劇に出てくる散髪屋のような空間に、汚れた白衣を無造作にはおった年配の男と、唇が妙に赤い妖艶な看護婦が控えておりました。

無精ひげをはやし、よねよれのネクタイを巻いた男は、医師というより流れ者。
医師というならドク・ホリディといった風情で、もうもうと煙をあげて両切りのピースをふかしています。
彼の机の上には、テネシー特産ジャック・ダニエルのボトルがでんと置かれていました。

若づくりのおねいさんは、
看護婦というより、飛鳥公園前のバーのホステスのような婀娜な風情で、
私が入室する直前まで、この怪しい中年医者とクチャクチャガムを噛みながら
イチャイチャイチャイチャ××××××××していた模様です。

二人がペッペッとガムを捨てたのを合図に、治療が始まりました。
男は、いきなり目の前にぶら下がっている器具を私の口腔に突っ込むと、ガリガリやりはじめましたが、その乱暴なこと。
ウイスキーと香水が入り混じった猛烈な口臭が私の鼻を襲います。

そういえば、こういう治療の光景を、むかしどこかで見たことがある。
それは浅草の木馬座という名のしがない大衆劇場。
若き日の「野火」の映画監督が、自作自演したお芝居「電柱小僧の冒険」!
そこに出てきた、満洲帝国大学のマッドサイエンス教授の人体解剖実験でした。

破竹の勢いでたちまち治療を終えたマッドサイエンス教授は、
「はい終了」
といいながら、なにやら白い物を抛り投げ捨てると、それは見事に部屋の隅に置いてあった白い衛生箱にスポンと収まりました。

あっけに取られてその不思議な光景を眺めていた私は、
おねいさんが鳴らすレジの
「チーン!」という音に送られて歯科を出たのですが、
痛みは治まるばかりか、ますます激しくなる一方です。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

痛くて痛くて眠れない一夜が明け、私は頬っぺたを押さえながら、
同じ原宿の千駄ヶ谷小学校交差点の近くの山下歯科を訪ねました。
ここは名医として定評があったのですが、いつも超満員で長く待たされるので、物好きな私はそれを敬遠して、あえて初めてのマッドサイエンス歯科に走ったのでした。

「ありゃ、ありゃ、これは何だ?」
といいながら山下先生がピンセットでつまんで白い物を目の前に突き付けました。
「驚いたなあ、脱脂綿が入ってますよ」
昨日マッドサイエンス教授が放り投げたのは、脱脂綿の残りだったのです。

名人、山下先生の仕事は、素早い。
私の治療がだいたい終わったので、いつの間にか隣の患者さんに麻酔の注射を打とうとしています。
するとその男はいきなり子供のような悲鳴を上げて、こういいました。

「先生、先生、その注射は、お隣の佐々木さんに打ってくれませんか?」
「佐々木さん、ご無沙汰しています。私からのお中元をどうぞお受け取りください」
驚いて男の顔を良く見ると、
なんとイラストレーターの安東さんではありませんか。

「冗談じゃない。そんなお中元はお断り。安東さんも、余計なことをいわないでください。頼みますよ」と私が慌てふためくのを知ってか知らずか、
山下先生は、ぶっとい注射針を、安東さんの奥歯の根っこにグサリと差し込みました。
カラカラカラと悪魔の笑いを高らかに響かせながら。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空*「天理教御神楽歌」より引用

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第4回

第1章 丹波人国記~水無月祭り

 

佐々木 眞

 
 

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「てらこ履物店」のいちばんの上得意は、色街の月見町の芸者さんたちでした。
彼女たちは、上等の着物をきて酒席にはべりますから、当然、その行き帰りにはこれまた上等の草履をはきます。
下駄よりも、ヘップ(オードリー・ヘプバーンが映画の中ではじめてはいたサンダルのことを、いつのまにか下駄業界用語でそう呼ぶようになりました)よりも儲かるのは、当然のことながら高級草履でした。
昼間は神聖な教会の祭壇に額ずき、夜は月見町の芸者たちに御世辞のふたつもみっっつもいいながら、ハンドバッグとセットで2万5千円もする高級草履を売り込むセイザブロウさんとアイコさん。
健ちゃんのお父さんのマコトさんは、そんな父と母が、日ごと夜ごとに繰り返す、表と裏、聖と俗の二重生活というものにたいして、生意気にも、罰あたりにもいまいち得心がいかず、軽い反発すら覚えていたというのですから、ずいぶんとネンネエのおぼっちゃまだったのですね。

さあて昨年の夏ことでしたが、いまは鎌倉に住んでいる健ちゃん一家は、そんな格調高い歴史と伝統を誇る綾部の「てらこ」を訪ねました。
海に近く夏でも涼しい鎌倉から新幹線でやってきた京都は、無茶苦茶に蒸し暑く、もっと暑い綾部に辿りつくには、そこからさらに山陰本線の急行で1時間半かかります。
山陰本線の狭軌も狂気のように、明治ミルクチョコレートのようにぐんにゃり曲がり、運転手さんは懸命にレールを取り替えなければなりません。
そして取り替えられた分だけ列車は進み、とっかえひっかえしながら、健ちゃんたちはようやく懐かしの故郷に辿りついたのですが、到着した綾部盆地は、さらにさらに蒸し暑い。連日35度を超えるうだるような暑さに、アブラゼミは飛びながら鳴き死に、ニイニイイゼミは一声チチと鳴いてから、息を引き取りました。

綾部は水無月祭りの夜でした。
由良川に架かる綾部大橋を埋め尽くした群衆の頭上高く、五色の菊やしだれ柳や紫陽花の大輪、中輪、小輪の夜目にも鮮やかな花々が、中空に何度も何度もはじけました。
光と色がきれいに組み合わさった花模様が、黒い夜空にバチバチとはぜて消えてゆく一瞬、盆地を見おろす四尾山と寺山と三根山のほの青い輪郭が、ほのかに浮かんではすぐに消え、それはどんな夢にも終りがあることを告げているようでした。
しばらくすると、大橋の上流一キロのところから流された灯籠が、あちこち寄り道しながら、ゆらりゆらりとこちらへやってきます。
それを見ながら健ちゃんは、まるで遠い祖先の精霊がざわめいているみたいだ、と思いました。
橋の上から手を合わせ、頭を垂れている人もいます。
灯籠をよく見ると、桐の葉の上に柿の葉を敷いて、さらにその上にナスやキュウリ、ホオズキ、トウモロコシの赤毛などで上手に作った牛や馬が、可愛らしく乗っかっています。
昔の人への供養を念じて、いまの人々の敬虔な真心が流す数百、数千の灯籠は、由良川の川面を埋め尽くし、橋上の善男善女が口々に唱えるご詠歌が最高潮に達したとき、川の左岸では曽我兄弟富士野巻狩仇討の場の仕掛け花火が水火こきまぜて、ドドオーン!と鳴り響きました。
夜空からは菊、桜、柳、山茶花、四花の五尺玉、はては特大の六拾センチ玉の打ち上げ花火が百花繚乱と咲いては散り、得たりや応と一糸乱れぬ乱れ打ちが、盆地全体を轟然と揺るがせます。
地軸も曲げよと吠える天地水、倶梨伽羅紋紋の唐繰り仕掛け、一世一代の大舞台と花火師が腕に撚りを掛けた光と音の饗宴は、さながら真夏の夜の夢まぼろしのように、今宵を先途と蕩尽しつくしました。
綾部の目抜き通りの西本町の老舗履物店「てらこ」では、由良川河畔の並松、上町、東本町、さらに旧城址がある上野、田町あたりから団扇に浴衣掛けでそぞろ歩く人々に向かって、橋から戻った健ちゃんが、黄色いボーイソプラノを投げつけています。
「さあ、いらっしゃい! いらっしゃい! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 品良くて、値段が安くて、持ちが良い。買うならことと、下駄はてらこ。てらこの下駄だよお!さあ、いらっしゃい!いらっしゃい!」
セイザブロウさんとアイコさんは、かわいい孫のあきんどの姿を、目を細くして眺めています。健ちゃんの御蔭で下駄もヘップも少しずつ売れて行くようです。

ちょうどその時、いつの間にやらうら若い二十三、四の月見町の小粋な姐さんが、ひとりでお店に入って来ました。
利休鼠の絽の着物に白、黄、紅、金、緑の斑点を総柄に散らし、三本の山百合を鮮やかに咲かせて。帯は黒地に観世水。雪のように白い肌を思い切りよくぐいと肩まであらわに。裾捌きもなまめかしう。
姐さんは疾風のように「てらこ」に入って来たので、彼女の金口の黒のバッグから一本の口紅がころがり落ちたのを、健ちゃん以外の誰一人気づきませんでした。
健ちゃんは、金色の容器から飛び出した真っ赤な口紅を拾ってすぐにお姐さんに渡そうと思ったのですが、なぜだかそれに触ってはいけないような気がして、どうしても手に取れません。
じっとそいつを見つめているだけで、心臓が早鐘を打ち、額の周りには冷たい汗がじっとりと湧きでてきました。
――ええい、こんちくしょう。口紅がなんだ。こんなもんがつかめなくてどうする!
と、思い切って右手を伸ばしてそいつをつかむと、意外にもズシリと思い手ごたえ。
そおっと鼻で匂いをかいでみると、今まで感じたこともない、未知の、禁断の、大人の、成熟した女の、不潔で、いやらしい匂い!
自分でも思わず知らず、そのきたならしい真っ赤なやつを、地べたのコンクリーの上に力いっぱい塗たくると、これが、いつか公園のトイレの片隅で見つけた薄いゴムの中のぶよぶよ淀んだ青白い液体のように、ぐんにゃりやわらか。どこまでも続く赤い血の流れに乗ってどこかへずるずると引きずられてゆくような怪しい磁力を感じて……
健ちゃんは、魔がさしたように、その口紅をそおっと自分のくちびるに塗ってみました。
舌の端っこでチロリとその赤いやつをなめてみると、急に頭の芯のところでジーンとしびれ、下半身がふあーんと暖かくなり、吐き気がするといえばするような、めまいがするといえばするような、気持ちがいいといえばよく、悪いといえば悪い。要するに、自分で自分が分からなくなってしまったのでした。
……とその時、やたら長い足をあだっぽく組んで竹のストールに腰かけていた姐さんが、今の今まで吸っていたキセルを、はっしと煙草盆に打ちつけました。
おしろいで真っ白に部厚く塗りたくった襟足から、きれいな櫛目をつけて、湯あがりに結いあげたばかりの、漆黒の日本髪が、ぐらありと半回転しました。
そして、健ちゃんのほうを向いたその顔は、いつかどこかで見たことのあるノッペラボーだったのです。

 

空空空空空空空空空つづく

 

 

 

フリードリッヒ・グルダ親子の思い出

音楽の慰め 第8回

 

佐々木 眞

 

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私は、昔は音楽といえばクラシック、クラシックといえばベートーヴェン 、ベートーヴェンといえばフルトベングラーの第9交響曲が大好き、という笑うべき超保守的人間で、モーツァルトなんて内容空疎な軟弱な2流の音楽家と勝手に思いこんでいました。

しかしどんどん歳をとっていろいろな音楽に接しているうちに、必ずしも「ベートーヴェンが硬派で、モーツァルトが軟派」ではないこと、2人とも天才ではあるが、どちらかといえばモーツァルトの方が神様に近いところにいるような天才的な音楽家で、ベートーヴェンは、そんなモーツァルトの音楽に迫ろうと懸命に努力を重ねた音楽家ではないかと考えるようになってきました。

極端なことをいうと、私にとってベートーヴェンの音楽は、人間的な、あまりにも人間的な音楽であり、モーツァルトのは(「神に愛されし人」という意味の“アマデウス”という名前が示す通り)天上から降って来る神様のような音楽なのです。

そんなモーツァルトの音楽は、いつどこで、誰の演奏で聴いても、私たちの心を楽しませたり、慰めたりしてくれるのですが、今宵はウイーンっ子のフリードリッヒ・グルダが演奏するピアノ・ソナタを聴いてみましょうか。

この「モーツアルト・コンプリート・テープ」6枚組は、題名通りもともとテープに録音されていたものを、CDに焼きなおしたものです。
1956年から97年にかけて、フリードリッヒさんがこっそり自宅などでテープレコーダーに録音しておいたのを、彼の死後、息子のパウル君が発見したんだそうです。

そして彼が、それを独グラモフォンから売り出すようにしてくれたお陰で、私たちはこの素晴らしいモーツァルトに接することができたのです。

それだけではありません。パウル君は偉大なお父さんが未完のままで放り出していたK.457の第3楽章を、できるだけグルダ風に追加演奏して、親子合奏完結盤を新たに制作してくれました。

私は父グルダには会ったことなどないのですが、1961年生まれの息子のパウル君には、かつて渋谷のタワーレコードでひょっこりはちあわせしたことがあります。

私が6階のクラシック売り場でCDを物色していると、すぐそばにひとりの若い外国人がやってきて、やはりウロウロしています。その顔がどうもどこかで見た顔で、よく見るとすぐ傍に張ってあった「パウル・グルダが渋谷タワーにやって来る!」というポスターの写真の顔なのでした。

あちらの国の人たちは、こちらの国の人たちと違ってべつだん知り合いでなくとも挨拶代りに笑顔を差し向けますが、このときもパウル君が私に頬笑んだので、急いで慣れない「頬笑み返し」をしながら私が、「もしかして貴君はパウルさんにあらずや?」と尋ねると、その青年ははにかみながら、小声で「イエス」と答えたので、私はそれ以来、パウル君の熱烈なファンになったのでした。

そんなパウル君が、亡き父君のために編んだ、私の大好きなモーツァルトのピアノ曲集は、これからも生涯の愛聴盤となっていくのでしょうが、どのソナタに耳を傾けても、聴衆をまったく意識しないインティメートな表情と赤裸の心に打たれます。

どうやらグルダは、モーツァルトその人に聴いてもらうために、深夜そっとベーゼンドルファーの鍵盤に触れていたように思われてなりません。

そしてその白眉は、ボーナスCDに付された「フィガロの結婚」の自由なパラフレーズ集ではないでしょうか。たった1台のピアノが、スザンナの、モーツァルトの、そしてグルダの生きる喜びと悲しみを、あますところなく表現しています。

 

ああグルダのフィガロ この演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ 蝶人

 

参考 https://www.youtube.com/watch?v=1ssk4tfKcIM

 

 

夢は第2の人生である 第42回

西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を敵に占領された本土の人々に向かってFMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら載せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人からどんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら機種は同じだが別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのかいくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのかと案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気を遣ってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにABCと3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやBに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ。」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って古買に付そうと楽しみにしていたが、ふと眼を離した隙に誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色をなに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規定を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープはいつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けどもなかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンはファックス機の新品をあげる、「ただだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人下さいとはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリンスタンドでは、赤いミニドレスんのおねえちゃんが誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが誘ったので、またなにしてしまった。5/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

西暦2014年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日払いマンションに住んでいた私。毎日会社から帰ると、お金を入り口に投入して扉を開き、2DKの部屋に入ると、奥の6畳間に居る女の処へ行って、朝まで抱いたり抱かれたりしているうちに、とうとう尻子玉を抜き取られてしまった。9/1

マンチェスターかリバプールの小さな村に、私たちは3人で住んでいたのだが、MORE OVERという歌が有名になると、「MORE OVERとつぶやくとすぐに有名になれる」という伝説が生まれて、世界中から大勢の人が押し寄せた。9/3

大部屋住まいの新米役者見習いの私は、大先輩の五味龍太郎氏の付き人として、信長に侍従する日吉丸のような謙恭な態度で、諸先輩の芸を盗みとろうとしていたが、いつまで経ってもなんの収穫もないのだった。9/4

テレビで宝くじの当選番号を放送していたので、私はそれを全部メモしてから宝くじ協会の倉庫に忍び込んで、当たりくじだけを拾って引き揚げた。これで当分生活できそうだ。9/5

久しぶりに地上に降りてきたら「テニスのなんとか選手を知ってるか」、「テング熱を知ってる蚊」などとブンブブンブとうるさいので、「んなもん知るか、要らんことを知るくらいなら、なんも知らんほうがよっぽど健康的じゃ」と答えると、そいつはアキレタボーイズになって黙ってしまった、9/5

私たちは、決死の覚悟でその城砦に立て篭もったのだが、指導者たちは、籠城の意思を固めたために、日が経つにつれて食糧が乏しくなった。これでは戦うためではなく、飢え死にするためにここへやってきたようなものだ。9/6

私の城の主はだんだん若返って、いまでは孫の代から曾孫、玄孫の代にまで及ぼうとしていた。9/7

1937年、帝国陸海軍の上海攻撃に井汲氏と参加することになったので、私らは緊張高まる日本海の荒波を乗り越えて、中国本土に到着した。9/9

私がモンブランの設計図を立体化した着ぐるみを身にまとっていると、吉田秀和翁がなぜか非常に興味を持って「とってもいいね」とほめたたえるので、私はいつのまにか大勢の人々に取り囲まれてしまった。9/10

李氏朝鮮時代に渡海した私は、素晴らしい馬を見つけたので、「これはいくら?」と尋ねたら、「5千ウオンだよ」というのだが、その時代にウオンなる通貨単位が存在しているか否かが不明だったので、さんざん迷った挙句に買わずに帰国した。9/11

最愛の耕君が、大阪道頓堀の名物カニ料理の前で行方不明になったので、旅行はそこで中止となり、警察が大捜索を開始した。9/11

イケダノブオが「佐々木さん、これからは耳たぶデザインの時代だと思うんです。それで耳たぶデザイナーの名前を考えてくれませんか」とせがむので、面倒くさくなった私は、「耳たぶデザイナーでいいじゃないか」と答えた。9/11

オバマ氏に招かれて、キッチンがついた6畳間だけの木賃アパートへ行った。煎餅布団が敷きっぱなしの狭い部屋は、ごみやがらくたでいっぱいだったが、孤独な大統領は「私が心からくつろげるのは、世界中でここだけなんですよ」と、涙目でぼそぼそと呟くのだった。9/12

スイスのチューリヒで開催されている国際ネーミング大会から招待されて、私は空港からタクシーで会場に直行したのだが、何千名も収容できる国際会議場には、人っ子ひとり、猫の子一匹いなかった。9/12

暮れなずむ巴里の街角のカフェで、西田佐知子が「♪オークレールドラリューン、メザミピエロ」と歌っていたが、「アカシアの雨に打たれて」とは勝手が違うので、ずいぶん音程が狂っていた。

インディアン、つまりアメリカ先住民の襲撃に備えて最前線で銃列を敷いていた私に、隣の男が「あんたの母校はどこだい?」と聞くので、「長岡先祖学校だよ」と答えると、「それははじめて聞く名前だな」と言うので、私もそう思った。9/13

茂原印刷が謹製した円、ドル、ユーロ、ポンドなどの紙幣の偽札は、みな溜息が出るような傑作ばかりだったが、特に素晴らしい出来栄えだったのは、キューリー夫妻やドビッシーの肖像が印刷されたフランの旧札であった。9/14

インド帰りの吉田君が「上野桜木の家に来て泊れ」というので、久しぶりに東京に出かけた。まだ旅館や下宿のある本郷西片町や母の生まれた谷中の坂道を辿っているうちに、急激に懐かしさがこみあげてきて、もう一度この地で青春を送りたいと思った。9/16

私の右の胸のあばら骨の下にいた武装兵が、私の左胸のあばら骨の下にいた無防備の人々に襲いかかって皆殺しにしたので、彼らが極右のテロリストと分かった。9/17

若い男女2人がシャドー・バスケットをはじめたので、中年男もそれに加わろうといたのだが、その動きについていけず、尻尾を巻いてすごすご逃げ出した。9/18

卒業生たちがお礼参りにやって来て、学校のすべての教室に大量のウンチをまき散らしていったので、私たち在校生は驚いたが、それがもしかすると黄金に変わるのではないかと思ってそのままにしておいた。9/20

こんなに狭い島なのに権力闘争は続けられ、細川宮はナチの応援を求めて接触しようとしていたが、荒川将軍は「そんなことは断じて許さん」と息巻いていた。9/20

宝くじが外れたというので、私は右腹を偽の息子に刺されたが、それでもなお豆腐を作る手をやめなかった。9/21

最近私のSNS友になった戸田という男が、朝から晩まで大量のメールを送りつけてくるので、私は夜も寝れずノイローゼになってしまった。9/22

大阪支店の支店長に、「「JALには商品を卸すけれど、ANAには卸さない」というのはどういう理屈かね」と、問いただしているうちに朝になった。9/22

必死に逃げ回ったけれど、ついに捕えられた私は、太陽神ラアのピラミッドのてっぺんで心臓をえぐり取られることになった。9/23

私のように才能のない醜い男が、ふぁっちょんデザイナーになれるなんて、思ってもいなかったのですが、どういう風の吹き回しか実際にそうなってしまうと、まだ子豚のように醜く肥る前の真木よう子似の美人が近寄って来て、「一夜を共にしたいわ」なぞと囁くのでした。9/25

明日から戦車隊の後部砲員に配属されることになったが、エコノミー症候群の私は、その密閉された狭い空間が恐怖で、今のうちに屋外に出て深呼吸をしておこうと思うのだが、それも出来ないのだった。9/25

その広告会社の本社兼社員用アパルトマンには、てんで仕事をせずにデスクの上で寝そべっている大勢のぐうたら社員がいたが、彼らの大方がクライアントのアホ馬鹿子息だったので、会社は首にするわけにもいかず、飼殺しにしているのだった。9/26

その会社の本社ビルジングの最上階は6畳くらいの狭い1室があって、そこには風采の上がらない無精ひげをはやした中年男がひとりで住んでいたのだが、朝な夕なに有名人やタレントたちが訪ねてきて、なにやら怪しい人世相談に乗ってやっているのだった。9/26

明田五郎の家は地下にあるというので、我われがどんどん階段を降りていくと、烏賊や蛸が切り刻まれている部屋や、血まみれの嬰児の死体が散乱している部屋が、まるで菊人形のようにあらわれたが、地底の奥底の部屋に五郎は座っていた。9/27

深夜まで残業したあとでタクシーで帰宅し、車から降りて我が家に向かっている。真っ暗な坂道を喘ぎながら登っていると、なにやら足元でもぞもぞ蠢くものがある。はじめはゲジゲジかムカデかと思ったが、良く見ると蠍の大群だった。1メートル近い巨大な奴が躍りあがって尻尾を振った。9/28

レリアンの今井社長が、「すぐにテレビCMを制作してもらってくれ」というので、市電に乗って電通の築地本社へ行き、某プランナーに依頼したのだが、「ったく、やんなっちゃうなあ、忙しくて3日も家に帰っていないんですよ」とブウブウ文句をいう。9/29

それをなだめすかして、「ともかく今晩中になんとかしてくれよ」と頼むと、彼は社内の自動販売機に1万円札を入れて「CM企画キット」を取り出し、私に向かって「ではオリエンをお願いします」という。9/29

つまり、このCMのターゲットは誰で、訴求する商品のセールスポイントはなにかを教えてくれ、と迫るのだが、私はまさかこんな展開になるとは思わなかったので、「ミ、ミ、ミッシーカジュアル」とつぶやいたまま、絶句した。9/29

 

西暦2014年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日本百名山に次々に挑戦していた私は、いよいよ富士山を征服しようと、いつものようにヘリに乗り込み、頂上から縄梯子を伝って降り立ったのだが、待てよこれは「登頂」ではなく「降臨」ではないかと思い当たり、すべてをやり直すことにした。10/1

その会社の経営者が幹部に示す月次方針は、いつものように絵と文字が複雑に入り組んでいるために、解読するのに骨が折れるのだが、今月のは文字がなく、パウル・クレーのような絵しか描かれていなかったので、経営会議は紛糾した。10/2

その村の入り口にひとりの老人が座っていたが、私に「ネットのことをわしに聞くな。auに電話して聞け」と告げると、また眠りこんでしまった。10/3

ラムパル峠のてっぺんまでやって来たので、私は「きみがここまでわざわざ送ってくれたから、僕はもう寂しくなんかない。寂しくなったら、きみのことを考えるさ。もう充分だから村に引き返しなさい」というと、彼女は「でも私はどうすればいいの」と呟いた。10/4

久しぶりに授業に出ようと思って大学にやって来たのだが、友人とお喋りしている間に時が経ってしまい、いつどこの教室でどんな講義があるのかも分からないので、焦った私は校舎のはずれの鉄塔の下の夏草に潜りこんで、いつまでもキリギリスの鳴き声を聴いていた。10/5

断崖絶壁に白い中古のフォルクスワーゲンを停めた男は、白い手袋を嵌めてハッチバックを開け、(私はこんなカブトムシを初めて見た)、大量のバイブルをその後部空間に並べて販売を始めると、いつのまにやら大勢の人々がやってきて、競うようにそれを買うのだった。10/6

全国シューズ学会における彼女の発言は、出席者から拍手喝さいで迎えられたが、それは彼女の赤裸々なプライベート・フィルムの上映に対して贈られたものだった。10/7

酔っぱらった吉村氏が、ナイフを振りかざして襲いかかって来たので、私はカスバの木賃宿を飛び出し、そこに止まっていた自転車に飛び乗って、大砂漠の底に通じる坂道を猛スピードで降りながら、もう二度とカスバの女王には会えないだろうと思って、紅い涙を流した。10/8

クグツのごとき風体の正体不明の3人組を見た瞬間、脅威を直感した私は、襲われる前にやれ、とばかりに彼らを馬から引きずりおろし、奪い取ったスコップでめった打ちにして、顔面を靴で蹴り上げたが、のたうち回っている彼らを見ながら、「待てよ、これは私よりも弱い無辜の民ではないか」という後悔が頭に擡げてきた。10/9

ネットを開くと、だいぶ時間が経ってから、鮫と人間の頭と石榴が出てきた。道理で時間がかかったわけだ。10/11

「雌鶏」を「面食い」と取り違え、「大事にしてください」を「お大事にされてください」などと言う教養のない男が、親のコネで理事長に就任したので、私たちは嫌気がさして仕事を怠けるようになった。10/12

しかもその新たな経営者は、「野球の試合でホームランを打った者には、おいらのカミサンを抱かせてやる」とおふれを出したのだが、彼女の写真を見た私たちは、一層やる気を失ったのだった。10/12

台風が来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るからと思っていると、台風が来るから早く寝ようと思っていると……10/14

台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば10/14

真っ暗闇の道を、オートバイのうしろに彼女を乗せて疾走している。左側から張り出している樹木を避けて右にハンドルを切り、また左に戻ろうとしたら、巨大な茶色のヒグマが両手をバンザイして立ちふさがっていたが、私はそのまま突っ走った。10/16

いまでは国家警察によって、我々のすべての私生活が動画に記録されるようになってしまったのだが、私は長年にわたって鋭意研究努力を続けた結果、彼奴らによってそれが再生されないようにする特殊技術を開発することに成功した。10/18

港町の安宿で呻吟していたら、橋本氏が「Tender is the Night だよ」と囁いたので、「ダーバンの港はほのぼの明け染めて今宵限りはデボラも優し」なるアフリカ短歌和歌が生まれたのだった。10/19

商社の巴里駐在員の私は、日本の某有名企業から物見遊山にやってきた3人の女性の接待を命じられた。初日はA子をアテンドして終日市内を観光し、晩飯の後で踊りに行ってホテルまで送っていったら、そのまま朝帰り。翌日はB子、その翌日はC子の繰り返しで、私は死んだ。10/20

夜中に妻が突然頭部への激痛を訴えたので、タクシーを呼んで湘南鎌倉病院へ行くと、救急外来には多くの患者が思い思いにソファーに寝そべっていて、ほんの2,3人しかいない新米医者から名前を呼ばれるのを待っているのだった。10/21

公金を横領して会社を首になり、起訴されて有罪判決を受けた情けない男の話が新聞に出ていたので、ケケケと嘲笑っていたら、なんとそれは私のことだった。10/22

いつものように大方の反対を強引に押し切り、大人向けの製品なのに、「ユベッ子」という商標を押しつけて裁断しようとするマエ・セイゾウを、私は面と向かって「いい加減にしろ、世界はお前を中心に回っているんじゃあないぞ!」と怒鳴りつけた。10/22

久しぶりに省線電車に乗ると左に井出君が座っていて、右側にチイチイパッパと群れている若手女子デザイナーのあれやこれやについて、くわしく伝授してくれた。

会社の中で大勢のスタッフが展示会の準備をしているのを見物しながら、あちこちうろついていると、いつの間にかどこかで見たことがあるような、しかし実際は初めて見る可愛らしい女の子が頬笑みかけ、私の右腕を取って暗がりに導く。

接吻をうながされたので唇を近付けると、彼女は「そうじゃなくて猫又キスよ」と言いながら、いきなり上半身を海老反らせて一物を含もうとするので、私は大いに慌てふためいて、進退に窮したのであったあ。10/23

その商業施設には「オールウエイズ・ハッピー」という標語を掲げた店が出店していたが、その真後ろには「トゥジュー・トラバイエ・ボクウ」と書かれたショップが向こうを張っていた。10/24

おひるごはんを立食べてから、みんなで立ち新井のの道を歩いていると、ドングリの実がたくさん落ちていた。すると妹は、「私はどうしてここにドングリの実が落ちているのかを説明する本を書いた。そしてどうしてドングリが姿を消すのかについて説明する本は私の友人が書いたのです」と云うた。10/25

短歌の五七五七七をデジタルではかる測定機が開発されたというので、大勢の歌人たちが、我も我もと自分の歌を積算しようとしていた。10/27

夜遅く書斎で仕事をしていると、家の外でなにやら物音がする。恐る恐る窓を開けると誰かが逃げ出したので、「こらああ!」と怒鳴ろうと思ったが、声が出ない。そいつを見ようとしたが眼が開かない。10/28

私が小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくっていると、だんんだん小さな石のような物になって、海の中に沈んでしまった。しばらくするとその石のような物が動き出して、私の分身のような者となり、またしても小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくるのだった。10/29

お萩を食べても食べても、新しいお萩が出てくる。10/30

私の治めている城に、和泉式部を名乗る女が「一夜の宿を借りたい」と申し出てきたので、泊めてやった。式部とともに城内を歩いていると、恋人との別れを辛がって泣く関野や、早く子供をおろせと女を責める桐野など、兵士の心中が手に取るように分かった。10/30

鈴木正文課長は、「今日から3日間特別教習を行う。徹底的に扱くからそのつもりでおれよ」と発破をかけたが、私は「またここから坂が下るのか。そいつを固く踏みしめねばならぬ」と思っていた。10/31