外へはずれ出る

 

駿河昌樹

 
 

なんでもよい
なにかものを書かせれば
ひとはかならず
思い出を
すなわち過去を
書くだろう

あるいは
身近に起こったことへの感情を

断片的な考えを

なにかについての
好き嫌いを

目の前の
風景や
光景を

見よ!
こうして詩歌は
できあがる

なんと
むなしいことか!

素朴とか
真率とか
呼びたがるひとも
いるようだが

かといって
これらの
どれにも当てはまらないような
なにか
あたらしいもの
超越したもの
奇想を
書いてやりたいと
躍起になるひともいたりする

なんと
子どもじみた
素朴このうえない
頑張り!

こうして
書くことの外へ
出るほか
なくなって
いく

こうして
詩歌の外へ
はずれ出るほか
なくなって
いく

俗人

愛するは
未だ
詩と為さず


陸游
『朝飢えて子聿に示す』

 

 

 

死者たちの顔

 

駿河昌樹

 
 

   一度死んだ人が、わたしの身体のなかで何度死んでもいい。
   土方巽

 

まぢかに見た死者たちの顔を
詳細に思い出したくなったので
思い出してみていた

そうして
気づいたのだ

かれらの顔は
すこしも
“死”んでなどいなかった

やはり
大きな考え違いを
し続けてきていたのだ

ためつすがめつ
見つめ続けられるようになったことを
怠惰から
“死”などと
呼んで
済まそう
過ぎ越そうと
慣らされ
強いられてきたのだった

 

 

 

愛とはなにか?

 

駿河昌樹

 
 

愛とはなにか?


問う人たちが
けっこう
まわりにいたころ

ぼくも考えた
考え続けてみた
愛とはなにか?

いまのぼくなら
べつの問いを
投げかけるかもしれない

愛とはなにか?

どうしてあなたは問うのか?

もちろん
問いはしない
そんな
こと

愛とはなにか?

さえ
問いはしないのだから
もう

問うているかぎり
起こらないものがあり
問うこともなくなったとき
それになりきる
そんなものも
ある

愛とは
問わないことだ

 

 

 

求められているのは

 

駿河昌樹

 
 

やはり
書くということは大きい

文化
というが
あれはやはり
文に化する
ということだろう

文にしてみる
言葉にしてみる
文字にしてみる

ソクラテスのように
イエスのように
ブッダのように
書かなかった賢人もいる
たぶん
そこが理想の到達点ではある

しかし
言葉にしてみる
文字にしてみる
文にしてみる
という径路もある

たぶん
文字や言葉や文そのものが大事なのではない
けれども
そうした物質化の過程で
跳ね返ってくる大きな反作用があって
それは精神を変容させる

求められているのは
そんな変容だ

文字や言葉や文を携えて
次の世界に行こうなどということではない
求められているのは

 

 

 

歩いて

 

駿河昌樹

 
 

     Suis-je amoureux ?
     ―Oui, puisque j’attends.
      Roland Barthes
      〈Fragments d’un discours amoureux〉 1977

 
 

雨がうつくしい

たぶん
迷子になったまま

歩いて

あるか
なきかの
こころの
花ばな
つよくはない
やさしく降る雨に
打たして

歩いて

やわらかい葉が
もう
いっぱい出ていて

雨に打たれて

わたしも花ばな
あるか
なきかの
こころの
花ばな

逝ってしまったひと
逝くひと
はじめから
いなかったひと

雨に打たれて

花ばな

夜ですから
くらい
くらい
もっとくらいところへ
行こう

歩いて

こころの
花ばな

《わたしは愛しているのか?
 ―そう、
 わたしは待っているのだから》*

 
 

*ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(1977)

Roland Barthes 〈Fragments d’un discours amoureux〉, Seuil, 1977

 

 

 

一切だれにも向けられず

 

駿河昌樹

 
 

言語使用は
たとえ
無人の孤島でなされようとも
必然的に読み手を呼ぶ
ヒトがまったくいない場所であっても
言語そのものが
みずからを「読む」

この言語神学に到る者は少ない

一切だれにも向けられず
ヒトの読み手がまったく想定されず
ヒトに読まれるために言語配置が行なわれず
言語みずから
ひとり
言語使用痕跡を読む

意識的にこれがなされ続ける場で
はじめて
この界において
発生しはじめる波動がある

 

 

 

ちょっと先にぶんぶん

 

駿河昌樹

 
 

ひとのことを
それはいいとか
あれはよくないとか
そんなふうに判定するモードに入ってくる感じがすると
いやだな
と思う

こういうモードが間違っているのは
ちゃんと
理論立てて説明できると思う
めんどうだし
時間がかかるから
しないだけで

ひとりで
くまのプーさんみたいに
野山の道を
のんびり歩いていて
ちょっと先に
ぶんぶん
ハチがむれて飛んでいるのを
見たとする

それを
いいとか
わるいとか
判定しないよね
そおっと
迂回していくだけのこと

いいも
わるいも
ないんだよね

 

 

 

ぼくはにほんごを知らない

 

駿河昌樹

 
 

 「ひとつの文体とは、
 自分自身の言語[自国語]において吃るようになることである。
 これは難しい。
 なぜなら、そのように吃ることの必然性がなければならないからだ。
 自らの発話において吃るのではなく、言語活動それ自身で吃るのである。
 自分自身の言語において外国人のようであること。逃走線を描くこと。
 私に最も強い印象を与える事例は、カフカ、ベケット、ゲラシム・ルカ、ゴダール
 である。」

 (『対話』、11)

  ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』

 
 

「書くことは正確な人間を作る」
という
小学校で
先生が強調した
フランシス・ベーコンのことばを
信じたわけでもないが

たぶん

ぼくは
ゼロから
にほんごを学ぼうとして
つとめて
ことばを記すようにしてみている

ぼくは
にほんごを知らないのだ
なんだか
よくわからない

しかるに
まわりのひとたちは
にほんごなんて
わかっているのが当たり前だというように
にほんごをじぶんたちは所有しているかのように
ぺらぺら
にほんごをしゃべっているし
さくさく
にほんごを書いている

こどもの頃から
それに
すごい違和感があった

にほんごは
なめくじのように
いつも
どこかどろどろしているし
ひとも来ない汚れた小さな神社の柱に
むかしに貼られたままの紙の
そらおそろしい字のように
きもちわるい

ぼくは
すこしでもどろどろしないように
きもちわるくならないように
にほんごに慣れよう
にほんごの裏の思いのようなものを見抜こう
と思って
にほんごを記してみている

そういえば
フランシス・ベーコンは
じつは
「読書は充実した人間を作る
 会話は気がきく人間を作る
 書くことは正確な人間を作る」
と書いたのだそうで
だったら
読書だけでいいかな

いまのぼくは思ったりする

本当は
充実vs気がきくvs正確
をこそ
ベーコンは問題にしたのだったかも
しれない

だいたい
小学校の先生が
ベーコンのことばを引用したのも
ノートのとりかたを
教えるときの
かっこ付けだったかもしれない

読書のすすめのときなら
「読書は充実した人間を作る」
のほうを
きっと
引用しただろう

学校の先生というものは
いつも
ご都合主義な
ものなのだから

 

 

 

ことばをつづけられないというのも

 

駿河昌樹

 
 

そこのコスモスの一群は
秋のあいだじゅう
みごとに
しかも
ずいぶんながいこと
咲きつづけていた

すっかり枯れ切って
それでも
ひとの背よりも高く
立ちつづけているのを見ると
枯れても
じつにみごとな・・・
と思う

みごとな・・・
の後に
なにかことばを
つづけたい気もするが
蛇足にしか
ならないだろう

ことばを
つづけられない
というのも
いいものだと思う

 

 

 

ぼくの子ども時代は

 

駿河昌樹

 
 

子どものころ
雲の上には死んだ人たちがいて
のんびり寝転んだりして
空を流れて行ったり
山にひっかかったり
大海原の上に出て行ったり
街の上では雨を降らしたり
そんなふうに
してるんだろうと
ほんとに
思っていた
信じていた

事故で死んだ人など
雲の上でも
血だらけでいるんだろうか?
そしたら
雲の上も血で汚れたり
してんじゃ
ない
のかな?
などと
ほんとに
思っていた
心配した

そんなふうに
思わなくなったころ
終わったのだ
ぼくの子ども時代は