エノコログサの穂

 

駿河昌樹

 
 

上野駅の常磐線ホームの
後端というのか
他より空いているはずなので
最後尾の車両に乗ろうと
端っこのほうで待っていた

近い線路と
むこうの線路とのあいだに
ちょっとした園のように秋草が茂って
ことに
エノコログサが
まだ若い
きれいな穂をつけて
何本も
何本も
風に揺れている

昼間なので
陽はちょっと暑いくらいに射して
いい
眺めだ

エノコログサの穂というのは
なんというか
ちょうどいいかたちで
幸せだった子ども時代を
象徴してくれているように見える

ほんとうに幸せだったにしろ
そうではなかったにしろ
それほどでもなかったにしろ
エノコログサを見ていると
やはり
幸せというものはあったかのような
気にさせてくれる

何本も
何本も
風に揺れている

列車が
なかなか来ないのも
いい

何本も
何本も
風に揺れている

 

 

 

平和の少女像

 

駿河昌樹

 

美は衆人の目を避ける。
うち捨てられ、忘れられた場所を求める。
そこでしか、その姿と、気品と、本質を再現する光に
出会えないことを知っているためだ。   エズラ・パウンド

 

題名も
作者名もなければ
よかったのに

思う

ものの見かたを限ってしまうような
一方向に導いてしまうような
紹介も
コンセプト解説も
なければ
よかったのに

たゞ
そこにある
置かれてある
それだけで
よかったのに

近寄って
もっとよく見てみようとしたり
遠ざかって見直そうとしてみたり
見に来たひとに
そうしてもらうだけで
よかったのに

そんなところから
その造形物のまわりに芽吹くかもしれないものが
芸術
ではなかったのか

ぼくはさびしむ

慰安婦像
などと
呼ばれてしまった像の顔は
むかし
むかし
東京の端っこの町で
まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似ていた

むかし
むかし
といっても
もう戦争はとうに遠のいて
子どもが
たゞの子どもでいられるようになった
むかし

題名も
紹介も
解説もなければ
あの頃のおねえちゃんたちが
ちょっと疲れて
椅子に座っている姿に
ぼくには見える
その見えかたのおかげで
まだ二歳や三歳ほどだったぼくに
ひととき
ぼくは戻ることができ
厚紙の着せ替え人形を何体も並べていた
どこかのお家の畳のにおいや
小さい子にはちょっとこわく見えた
部屋の隅の薄暗がりや
お庭の生け垣や
立ち並ぶ柾木や菖蒲の葉や
舗装もしていない外の道の土のにおいまでが
いちどに蘇ってきて
あの像は
ずいぶん大事なぼくだけの世界への入り口になってくれる

どこの展覧会に行っても
美術館に行っても
題名も
説明も
いっさい見ないで
すぅっと
人影を避けて泳ぎ去る川魚のように
絵や
彫刻や
そのほかの造形物を
見て
流れていくのが
美術とかアートとか呼ばれるものとの
ぼくのつき合いかたに
いつのまにか
なったが
もとの淵に戻ってくる川魚のように
こころ惹かれたもののところには
また
ぼくは
すぅっと
戻ってくる
ひとつの絵や彫刻が
ぼくにとっての
ぼくにとってだけの
芸術に
なっていくのは
そんな回遊がくり返されたのちのこと

広告会社や
イメージ戦略ばかり考える
腹黒い大企業や
軽佻浮薄な表舞台で名利を得ようと必死の
ゲージュツカさんたちや
アーティストさんたちや
美術史家さんやキュレーターさんが醸し出す
あの
風俗業界の雰囲気によく似た
べったり感や
よどみや
ウルサさは
♪バーニラ、バニラ、バーニラ……*
と大音響を立てながら
少女たちを
現代生活という戦場の慰安所へ勧誘していくものの雰囲気に
ずいぶん似ている
そんな雰囲気のなかに棲みこんで
金と名を掻き集める者たちの
これっぽっちの控えめさも自己反省もない
居直り切った
押し売りそのもののプレゼン攻めに
(やめてくれ…
(頼むから…

うっかり
ぼくは
祈るような気持ちに
なってしまう

題名も
紹介も
解説もなければ
よかったのに……

見かたを
強いられることがなければ
よかったのに……

そういうのが
芸術
ではなかったのか

さびしむ……

まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似て見えるとき
あの像は
ぼくのなかで
ほんとうに
平和の少女像となる

ぼくも近所のおねえちゃんたちも
むかし
むかし
東京の端っこの町で
人類史上めずらしいほどの
小さな平和にすっかり包まれて生きた!
そう生きることができた!
こう思うとき
あのおねえちゃんたちと同じ顔をしながら
そう生きることができなかった
べつの時代のおねえちゃんたちがいた!
という思いの流れの先に
時代や個人的経験に限界づけられたぼくひとりの目と違う
もっと大きな目が
きっと
開眼していく

なにも
見落さない
なにも
見逃さない
目……

 

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裏にバーコードが付いているような判断のしかたで

 

駿河昌樹

 
 

簡単には言い切れないことを
もどかしく
ぶつぶつ
時には陰々滅々と
ことばならべしていくのが

だと思ってきたので

きりきり言い切り
あちこちから借りてきたような表わし方や
裏にバーコードが付いているような量産品的な判断のしかたで
髪を突っ立てたIT企業の社長や
半グレのトップみたいな「後悔?無関係だけど?」的な口調で
そこそこ高価なスニーカーみたいに
キッ!
キッ!
と歩くたびブレーキやアクセルを利かせて
八方美人に小利口にしゃべってるのを見ると

ヨシモト
にでも
行ってやったら?
と思う
政府からは100億円貰っているそうだから
潤う
と思うよ
それなりにさ
と思う

(もっとも
(いま起こっているのは
(旧来の日本型裏社会の掃討
(ヤクザなんかより遙かに情け無用の国際金融資本が
(この列島をいよいよ直接統治するために
(これまでノシてきた幇間屋を潰しにかかっているところ
(政治の世界も同じで
(新たな真の民主主義の可能性が見えてきた……
(なんて夢を見ていると
(いつのまにか安手の軍靴を履かされるようになるよ
(きっと

(おっと、
(これ以上は言えない
(言わない
(シュールレアリスム詩の形体や
(キリスト教系神秘主義詩の形体や
(イスラム神秘主義詩の形体でも
(ひさしぶりに蔵から出してこないことにゃ……

 

 

 

そういう時節が来た……

 

駿河昌樹

 
 

(どのような個人のものであれ個人の生活も情報も重要ではない…
(そんな時節がある…
(個人主義や民主主義や自由主義という迷妄に甘えた
(20世紀以降の人間には理解できなくなってしまったことだね…

2019年7月1日からの一週間は、
たとえば私が、
ロベルト・シュヴェンケ監督の『ちいさな独裁者』(2017)や
パブロ・ソラルス監督の『家に帰ろう』(2017)を
見たことや
今さらながらに
ニコラス・ジャレッキー監督の『キング・オブ・マンハッタン』(2013)を見終えたり
カフカ『城』と堀辰雄『菜穂子』の再読を始めたり
エックハルト・トールの自我の不在性についての説明法に感心させられたり
ペトラルカのRerum vulgarium fragmentaの
ルネ・ド・スカッティによる2018年のフランス語訳や
フランソワ・ラヴィエの編んだアンナ・ド・ノアーユ詩集(リーヴル・ド・ポッシュ版)をいたく感心しながら読みはじめたり
したことにはなんの重要性もなく、

アメリカとロシアの潜水艦がアラスカ沖で戦闘状態に入り、
アメリカの潜水艦は沈没、放射性物質の海洋への流出が発生し、
ロシアの潜水艦も重大な損害を受けて14人が死亡した
らしい、
という、
事件、
のほうにこそ、
世界的な
重大性はあった

アメリカ側の死傷者については情報がない

ペンス副大統領はホワイトハウスに呼び戻され、
予定されていたニューハンプシャー行きはキャンセルされた
プーチン大統領のイベントもキャンセルされ、
大統領、国防相、ロシア軍参謀長らの緊急会議が開かれた
ブリュッセルの欧州連合本部はEU国家安全保障理事会の緊急会議を招集、
イギリス政府は国家緊急事態対策委員会(COBRA会議)を招集

ベルシャ湾と
湾岸諸国におけるアメリカと西側の軍事基地では
不自然な動員
が発生
他方、金地金はその日の取引の最後の数時間で
1オンスあたり40ドル急上昇

機密情報に抵触するものばかりで
どれひとつ
正確に公表はされない

どれも確認しようがなく
どれも嘘かもしれない
どれかはそこそこ正しいかもしれない
どれもそこそこ正しいかもしれない

怖いのは
怖すぎるのは
まったく
メディアにそれらが載らないこと
ダネ
ダネ
あんなのはインチキ情報さ、
とさえ、載らない
こと、
ダネ
ダネ

なにかに向けての
フェイクニュースの
思わせぶりな
小出しの数々かもしれない
しかし
確実になにかに向けて

韓国への半導体材料の輸出管理強化は
表面的な理由や
その下に推測される別の理由をはるかに凌ぐ
あくまで公表され得ない長中期的な国防上の理由がある
という情報も届いてきている

7月に入って確実に始まったことがかなりあり
これから
大小のかたちで露呈してくるが
危険な時節に本当に入った

(そう、もはや、
(個人の重要性など、見向きもされなくなる
(そういう時節が来た
(これからの個の生、個の興味、個の価値観、
(とは、
(なにか……
(答えは出ているよ、
(無、
(だよ、
(無、
(生きのびて、
(おいきよ、
(ただ、野良犬のように、
(これからの、
(10年
(ほどは、ね、……

 

 

 

きみはどう思う?

 

駿河昌樹

 
 

さびしさから
味わいが失せていかないように
ほんとうに
努めなければいけない

せつなさが
しぼるように
懐かしく
あり続けなければならない

冷えてきた森を抜けて
うすら暗いみずうみのほとりを
まだまだ
ながくながく行かねばならなかったとき
さびしいとも
こころ細いとも
まとめられなかった気持ちを
きっと
無事に戻ったら伝えたいと思ったひとが
何人かは
いたはずだっただろう?

そんなことが
ぼくらのこころのいのちというもので
そう
やはり
ぼくらあっての
ぼくらのいのちだった
と思うのだ

きみはどう思う?

 

 

 

かくある日日を楽しといふか

 

駿河昌樹

 
 

令和と呼ばれることになった
この列島だけの新時代もすでに六日目に入り
初夏というのに
うす曇りの朝はすでに秋めいている
枯れ果てた多くのものが
たんなる名称の変更では覆いきれずに
はやくも露呈してきてでもいるのか

斎藤茂吉の忠実にして有能な弟子
しかし慎ましやかで地味だった歌人柴生田稔が
戦中にこのように歌っていた

つきつめて新しき世も思はねばかくある日日を楽しといふか

 
時代と自己へのなんと見事な批評!
あまりに静かにさらりと一行に表わしてしまうので
細かく過去の詩歌を見直す目にしか
ともすれば
止まらなくなってしまうが

年老いて時におもねる文章は今日もひきつづきて夕刊に出づ

いたく静かに兵載せし汽車は過ぎ行けりこの思ひわが何と言はむかも

 
この列島に起こること
起こりうること
くり返されることは
すべて
柴生田稔がひそやかに歌って去っていってしまっているように見える
まるではじめて自分が発するかのように声高に
あるいは
新たな論や批判を提示するかのように矜持たかく
今さら言うまでもなしに
しかし
再三だれかが
くり返して言葉にしなければならないのも
たしかではあって

時すぎて人は説かむか昭和の代のインテリゲンチヤといふ問題も

 
 

 

 

そうそうに生前葬じみたことをしてみているのか

 

駿河昌樹

 
 

あまりになにもかもが過ぎていくので
あまりになにもかもが去って行くので
人間たちはお手製の時代の区切りなど作って
なにやかや身振りをしてみたいのだろうか
集まってしばし身もだえしてみたいのだろうか
果てのない宇宙の闇に浮いているほかないさびしさを
そうしてまぎらわしてみたいということか
そのさびしさを切々と感じるじぶんさえ
遠くないうちに過ぎていき去って行くことを
たまたま舞い落ちた星の上に今まだあり続けながら
そうそうに生前葬じみたことをしてみているのか

 

 

 

かわいそうで

 

駿河昌樹

 
 

だれを見てもかわいそうに見えてしまって
ときどき
見知らぬ人を見ながら
立ち尽くしてしまったりする

時間とよばれるものも
空間と呼ばれるものも
とりわけ人生とかじぶんとか呼ばれるものも
あんなに信じてしまって
あんなに真に受けてしまって

かわいそうで
だれを見ても
立ち尽くしてしまう

みんなみんな
あまりに
深く
だまされたままになっていて

かわいそうで

 

 

 

雲 あそこ 薄紫

 

駿河昌樹

 
 

雲があのあたり
指のように下りてきている
煙のように

薄紫色がかっているので
薄紫のように
と言ってみたく思うが
日本語は許してくれないだろう
どこの言語なら許してくれるだろうか

そんな許しを求めて
求め
求めて
詩歌のかたちを借り続けてきたが
詩歌でさえ
めったなことでは
許してくれない

雲 あそこ
指して 下りてきている
薄紫して


すこし近づく

下りてきている
でさえ
ひどく離れた嘘の言い方で
ほんとうなら

下り 来 る

ぐらいに言いたい

わたしは
ほんとうに
助詞
助動詞

きらいだ

それらを多用した詩歌
それらに頼った詩歌

ほんとうに
きらいだ


助詞
助動詞

わたしだって
使っている
浸かっている


あそこ
薄紫

 

 

 

正真正銘真正の火宅なんだから

 

駿河昌樹

 
 

世の中を舐めてかかってはいけないとか
世間を馬鹿にしてはいけないとか
そんなお説教をチラ見せする人がいまでもたまにいるし
大上段から振りかぶって投げつけてくる
陳腐な絵にかいたような精神的老人型もいるが
フクシマ以後ではなく
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後
いわゆる「世の中」や「世間」の痴呆状態は露呈されたわけで
フクシマ以後「世の中」や「世間」を馬鹿にしないことは野蛮である
とアドルノめかして言い切っておきたいとさえ思う*
「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と記した後
「物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである」
とアドルノは続けたが
思えばなんと
いまのニッポンは
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
ばかりではないか
とうに精神の死んでいる人人人……が
桜を見てまわったり
夕日のなかで家族的観照に感傷的に浸っていたり
あれはスゴイ!だれはスゴイ!
ステキでしたよぉ!
これってホントおいしい!
どんどん素晴らしいビルが出来てきますねぇ!
とんでもない才能に脱帽するしかないです!
なんとしても新たな風を政治に!
などなどの空言キャッチボールや空言胞子撒き散らし遊びを
しているだけ
それだけ

まぁ
よほどの天才的な発明でもなされないかぎり
数百年は死の放射能出っつづけのフクシマを抱えて
子子孫孫
天文学的負債を背負って滅びに向かっていくだけのニッポン列島人だから
しょうがないと言えばしょうがなくて
たゞたゞ精一杯の明るさを
けなげに
はかなげに
あらんかぎりの心のちからを出し切って装って
太宰治が『右大臣実朝』に書いた
「平家ハアカルイ、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
なんて
読んだことも読む気もないだろう気やすさで
読書量の徹底的な少なさで
文字情報と文字情報リテラシーの少なさで
視野のしやわせ…おっと、違った、しあわせな狭さで
行くんですね
逝くんですね
がんばってね

ちょっとはアドルノとかも見てみてね
ルカーチの物象化概念を敷衍したともいえる
アドルノの物象化論は
マルクスの商品化論と
ヴェーバーの合理化論を継承していて
そのあたりをまとめておさらいし直せば
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後状況を
もっとポップに言い換えればフクシマゴマカシを
超克する精神や方法論を導き出せるきっかけになるかもしれないから
見てみてね
とにかく
なんとか
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
であるのは
やめていこうよ
あらゆることにもっともっと正しく不満になって
もっともっとあたふたして
じぶんなんてすっかり失って
こころここにあらずでとりみだしてばかりの
あらまほしき姿にしっかりとなって

そんな状況なんだから
正真正銘真正の火宅なんだから

 
 

*アドルノ『プリズメン』
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。」