サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

駿河昌樹

 
 

国民とやらを
市民とやらを
庶民とやらを
これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

自分で採った種子を蒔けない法律もできたことだし
水道は民営化されて8倍も10倍も料金が引き上げられるようだし
労働時間の規定は完全に取り除かれて酷使したい放題になるのだし
老人や身障者や他の社会的弱者の切り捨て政策は進展目覚ましいし
原発事故の県ではガンの発生がウナギ登りでも誤魔化されているし
各地の原子炉の維持や廃炉には天文学的な支出が続いていくのだし
腹汚い既得権益連中が凝集して富を吸う戦前帝國化が進んでいるし

わからないのも
見て見ぬふりも
何もしないのも

国民とやらの
市民とやらの
庶民とやらの
やっぱり自業自得なので

これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

…と書く
あたしはだれ?
と問いが来るかもしれないから
言っておくけど

サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

 

 

ほんとうの窓が

 

駿河昌樹

 
 

だれにも媚びないことばを
まだ
記せる?

どれだけ?

そう思って
ここにも
ことばを記してみる

認められたがりのことば
買ってもらいたがりのことば
覚えてもらいたがりのことば
こころに留めてもらいたがりのことば

そんな商売ことばたちだけに
なってしまった地上で
まだ
あり得るのか
けっして奴隷になることのない
ことばは

たゞの逡巡としか見えないことばや
急ぎのメモ書きのことばこそが
まだ知らぬ
どこかのひろびろとした草原への
窓のように見える

だれをも動かそうとしないことば
だれをも誘導しようとなどしないことば

そんなことばたちがほしい

たゞ
窓がほしいために

ほんとうの窓が

 

 

 

また恋文したくなってきている

 

駿河昌樹

 
 

ひとにわかりやすいものを書くひとたちの
書いたあれこれ
ちょっと時間つぶしのあいだに
読んでみていて

…やっぱり
辟易してしまった

わかりづらいものへ
わかり得ないものへ
ことばを並べながら手さぐりしていく
高原の空気のようなひとたちへ

また
恋文したくなってきている

 

 

 

どんな炎でも暖められないほど

 
 

駿河昌樹

 
 
 

……そうであるならば、
わたしたちのまわりにも、
なんと多くの、疑いようもない、
詩の、数々が……

エミリー・ディキンスン、ヒギンスンに宛てて

〈本を読んだとき、どんな炎でも暖められないほど
〈からだ全体が寒気立つとしたら、
〈わたしには、それが詩だとわかります。
〈あたまのてっぺんがすっぽり抜けるように
〈からだが感じたら、それが詩だとわかるのです。
〈わたしには、この方法が、すべて。
〈ほかに手だてがあるでしょうか?

 

 

 

たとえば声を奪われ

 

駿河昌樹

 
 
 

あの肉体のない詠唱が…
エミリ・ディキンスン

 
 
 

たとえば声を奪われ
目も耳も奪われ
顔ばかりか
四肢も胴も奪われ
心も思念も
意識まで奪われても
なおも残る
あなた

そんなあなたが生きるべき
いまとせよ
今日とせよ
これからの数か月
数年とせよ

 

 

 

詩人

 

駿河昌樹

 
 

ジャームッシュの『パターソン』*はよかったが
詩人と呼ばざるをえないひとが
どうして詩人としか呼ばれざるをえないか
たとえば
この花がどうしてこの花で
どうしてあの花ではないのか
ありえないのか
いろいろな批評や研究のようにわずらわしい理屈など重ねず
時間の流れのなかに
ほわんと鮮明に見せてくれていたのが
よかった

詩人としか呼びようのないひとというのは
毎瞬さまざまなものが意識に押し寄せ続けるこの世のしくみに対しては
やっぱりよい存在のしかた
やっぱり的確な意識の使い方をしていると
思い直させられ再確認させられるところがあって
よかった

ウイリアム・カーロス・ウィリアムズで有名な
パターソン市に住んでいる市営バス運転手
その名もパターソン
が主人公で
これだけでもう詩神話的な人物設定なのだが
ノートに詩を書き溜めるだけで
詩集にまとめて出版しようなどという気の全くないところが
詩人の最高のすがたになっている

ジャームッシュの批評精神ははっきりここに出ている
まだ若く最高の活動期にある詩人が
じぶんで詩集を出版しようなどと思っては駄目なのだ
じぶんの詩をふり返り推敲し直し選択し編集して本にするなどの
一連の行為は詩作とは全くちがう運動で
それらに精神をふりむけた時にもう彼は詩人ではなくなってしまう
ジャームッシュの慧眼はすごいものだと思わされる

もちろん後世の読者としては本がなければ困るのだが
書き留められた詩から詩集出版への過程には
つねになにか予想外の突発的な事故や椿事がなければならない
書物の中で最高度の存在であるべき詩集というものは
詩人が必死に出そう出そうとしては絶対にいけないもので
ことの成りゆきから出版されてしまう事態に至るのでなければならない
詩集には詩人の思惑を超えた画竜点睛の伝説がどうしても必要で
そうしてこそ人類にそれらの言葉の束が残る奇跡が起こる
何冊何十冊出そうが人類の流れに深く染まっていかない本ばかりだが
書物の中で最高度の存在である詩集というものは
そのような身ぶりをせず別のアリュールを帯びていなければならない

主人公パターソンの詩帖はある晩
飼っている犬にこまかく食いちぎられてしまって
それまで書き溜めてきた詩はぜんぶ花吹雪になってしまう
さんざん妻からコピーしておけと言われながら
その気なしにいい加減な返事をし続けてきたぼんやりパターソンも
この時ばかりはさすがにショックを受ける
けれども彼が本当にもう一段上の詩人レベルに抜けるのはこの時
じぶんの秘密の詩帖にだけ書き溜めてきた天性の詩人が
それまでの作品をすべて失って
なおもこの世の中のひかりの中に居続ける時
純度100パーセント詩人がふいと顕現してしまう
それでも市営バス運転手の彼はいつものように出勤し
いつものように街を茫洋望洋と歩き
さまざまなあたりまえの光景を見聞きし続ける
書いたものを失ってしまっても詩人は詩人
たぶん書いても書かなくても詩人は詩人
数十年に一冊だか一世紀に数冊だかの割合で残っていく詩集だけでも
人類史上ではすでにずいぶんな量になっているけれど
そうした詩集があろうがなかろうが生まれつきの詩人たちがいて
そのうちのひとりは市営バスを寡黙に運転していたりする
彼らとおなじひかりの中に詩人でなど全くない人たちもいて
詩人素ゼロのひとたちさえ中にはいっぱいいるという豊饒さに
気づいてみると
それはそれで
いい感じもするよね…
とジャームッシュは呟いている
たぶん

映画の最後
パターソンがグレートフォールズの前のベンチに座っていると
日本から来た詩人なのか
文学の先生だかが隣りに座る
演じているのは永瀬正敏
眼鏡をかけた日本人は鞄から
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』の訳本を出して見せる
街のことも『パターソン』のこともアメリカの詩のことも
いろいろ知っているのがわかる
日本人に「詩人か?」とたずねられて「ちがう」と答えたパターソンが
それでもいろいろと詩のことを知っていて
好きな詩もいろいろあるのに気づき
日本人はパターソンが生来の詩人であるのを直観的に理解する
パターソンに白紙のノートを渡し
書け!
とは言わないものの
書くことを促して去っていく時に
Aha…と言い残すが
後で白紙のノートをぱらぱらめくりながら
パターソンも
Aha…とつぶやく
詩人どうしの最高のコミュニケーションをAha…としたところに
ジャームッシュの詩の理解の非常な深みがある
禅や武士道に通じた彼なら
あたり前といえばあたり前の締めかただったかもしれない

もちろん
ぱらぱらめくられる時の
白紙のノートこそ
どんな詩集にも優る最高の詩集であることも

それを手にしながら
Aha…とつぶやくことの
目もくらむような豊饒の瞬間の
この世のひかりの中にあるひととしての
確認も

Aha…

 
 

*

 

 

 

愛する大地

 

駿河昌樹

 
 

数日前に使った鉛筆削りを
机の上の
電灯の下の
スタンドの
上に
出しっぱなしにしてある

そんな風景
インスタにも上げたりしないし
データ保存もしない

だいたい
写真に撮りもしない

…こう記してみて
じつは
これだと
気づく

写真に撮られない風景がいっぱいなほうが
ほんとはいいな

撮ろうとも思われない
見逃されっぱなしの
見捨てられっぱなしの
風景とも光景とも呼ばれないような…

そんな
“愛する大地”っぽいもの

ほうへ

 

 

 

ひとつだけ誇らしいと思うのは

 

駿河昌樹

 
 

ひとつだけ
誇らしいと思うのは
徒党を組んで偉がろうとだけは
けっして
しなかったということ

表面だけ取り繕って
認めてもいない者たちを仲間として募って
おたがいに無理に褒めあい
まるで才能ある集団であるかのように
装おうとなどはしなかったこと

たいして認めてもおらず
おもしろくも思っていない年長者を
仰々しく盛りたてて
次の地位に滑り込ませてもらおうとは
一度もしなかったこと

 

 

 

斎告る

 

駿河昌樹

 
 

祈る、とは
「斎(い)告(の)る」の意

広辞苑にはある

斎、とは
忌み清める、身心を清浄に保ち慎む

告、とは
告げる

祈った、
と自認する人は多いだろうが
斎した
という人は
どのくらい居ただろう

どの程度まで

した
という
のだろう

そして
告(の)った内容は

だっただろう

斎告った人が
たとえば
昨年
あるいは
今年の正月
いた
のだろうか
たったの
ひとり
ほどでも

 

 

 

よるべないたましいのだれかさんとして

 

駿河昌樹

 
 

寒い
寒い

天気予報やニュースが言っているほど寒くは感じなくて
家の中でも
まったく暖房を使わないほどだけれど
手の甲や
指の甲が
いつもより乾いて
ちょっとシワシワしてくるのは
やっぱり
寒い
ということなのだろうか

手や指の甲の
そんなシワシワが
ずいぶん
ひさしぶりで
懐かしい
なつかしい
時間

呼び起こされるようだった
呼びよせられるようだった

特に
小学生の頃の冬
外に遊びに出ると
手は
かじかんで
乾いて
よく
白っぽく
シワシワになった

あの頃
それをどうやって
温めただろう
どうやって
元に戻そうとしただろう

手のひらや手の甲を
いつまでも
スリスリして
摩擦し続けて
温めようとしただろうか
ハアハア
息を吹きかけて
いつもの肌に
戻そうとしただろうか

おおい!
まだ生きてるよ!
まだ生きてるんだぜ!

そんなふうに
ぼくは
あの頃の
白く乾いた手の甲に
指の甲に
遠く
ーいや、けっこう近くかな
呼びかける

あの頃の
白く乾いた手の甲や
指の甲を
持っていた少年に
呼びかける

あの子の
やがて
行きついていく先の
あくまで
あくまで
途中経過の
仮の大人の姿をしたものとして
あの子を
がっかりさせ過ぎないで済むような
わずかばかりの
心の
思いの
それらよりも奥底のなにかの
かがやきを
ちょっとばかりは
守り続けている
まったく
ひとりぼっちの
よるべないたましいの
だれかさん
として