鈴木志郎康さんの思い出

 

長田典子

 
 

詩人であり映像作家であった鈴木志郎康さんが2022年9月8日に亡くなられてから一年以上過ぎた。鈴木志郎康さんは、ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんはじめ、大きな作家や詩人を多く育て世に送り出している。

鈴木志郎康さんから詩について多くの教えを受けた一人として、いつも劣等生だったけど、何か言葉にしなければと思いつつも、志郎康さんがこの世にいないことを受け入れられず月日ばかりが過ぎてしまった。生前、志郎康さんの夢をよく見た。柔和な顔で、いつもにこにこ笑っていた。
ああ、亡くなられてもう一年が経つ…と思いながら眠ったせいだろうか。久しぶりに志郎康さんが夢に出てきた。志郎康さんはジャージ姿で、ご自宅のキッチンテーブルのいつもの場所に立っていた。なんだか忙しそうにしていた。わたしは、やっと志郎康さんの思い出を書く気持ちになった。思い出がたくさんありすぎて、どこから書いていいのかわからないけど、わたしにとって鈴木志郎康さんとはどういう存在だったのか、書いておきたいと思った。

志郎康さんは「先生」と呼ばれるのをとても嫌がっていたので、いつもわたしたちが呼んでいたように、ここでも志郎康さんと呼び、敬語も極力避けて書くことにした。

志郎康さんに詩の指導を受けた人は数多い。それぞれの詩人がどんな指導を受けたのかは人によって違うはずだ。志郎康さんの詩の指導は、まるでカウンセリングのようで、一編の詩に30分はかけて1対1で話し合いアドバイスをしてくれた。必ず良い所を褒めてから、気になる箇所について、見逃さないできっちり突っ込んだ質問をしてきた。必ず褒める、というのは、過去に辛口だけの指導をしていたら受講生が一人もいなくなってしまったという苦い経験があったとご本人から聞いたことがある。確かに志郎康さんの詩の教室では、逆にいつも自分の本気度を試されていた。

志郎康さんは、
「この行は、どういう気持ちで書いたの」
「それを言いたいのなら、この言葉では足りない。わからないよ」
「今喋ったことを、ちゃんとこの行に書かなくちゃ」
「たとえば、詩では、こんな言葉のやり方がある…」

など、個人の内面の奥底を引き出す形で、どんどん突っ込んで、本人すら気が付かなかった感情、書けなかった本心、抜けていた事柄を聞き出し、場合によっては例示もしてくれた。持参した原稿には志郎康さんの言葉をメモった字や矢印で真っ赤になった。それを頼りに家で書き直して次回持っていくと、また新たな課題をつきつけられる……。同じ教室の人は皆、志郎康さんのアドバイスをもとに何度も書き直しをして、もうこれ以上書けないというところまで頑張って一編の詩を仕上げていった。もうこれ以上は書けない……という感覚は、志郎康さんとの応答の中で個々に掴んでいったと思う。

「と思う」…と書いたのは、実は自分の詩をどうするかでいっぱいで、あまり他の人のことまで細かく気にできなかったからだ。もうこれ以上書けない……という感覚には個人差もあるし、自分は、最低3回は書き直し、アドバイスをしてもらったように思う。その過程で推敲の仕方や自分の詩を客観視する感覚を培うことができた。30分ぐらいの会話の中で、自分が言いたいことや表現したいことがあっても、人には自分が思うように伝わらないこと、ひとりよがりにはならないこと、詩を書くときに、それを批評するもう一人の自分が必要だ、ということが自然に身についていった。夜、一人で詩を書いていると、志郎康さんの声が頭の中で響いてきて「それじゃだめ」「そうかなぁ」など聞こえるようになってきた。もちろん、その声は書いている詩を客観視し批判する自分の声だ。

たった1回で、
「もう、これでいいんじゃない。よくできてる」
と言ってもらえる凄い詩人もいた。

 志郎康さんに初めてお会いしたのは1988年の秋頃だった。その日開かれたある講座にゲストでいらしたときだった。気さくに2次会にもお付き合いいただき、帰りに関内のホームで、個人的に詩の話をしたことがきっかけだった。
「もし、詩人になりたいなら僕の教室にいらっしゃい」
と誘ってくださったのは今でも自慢だ。そして詩人として本気で詩を書くことになる大きな転機ともなった。これは運命だと思った。今思えば志郎康さんは横浜で乗り換えて東横線で渋谷に行くはずだったのに、わたしが横浜で降りないので、詩の話をもっとしたいのだろうと察してくださって志郎康さんも降りなかったのに、志郎康さんの気遣いに全く気付かず、わたしは次の東神奈川でさっさと電車を降りてしまった。志郎康さんが東京方面にお住まいなので、品川方面に向かう京浜東北線に乗られたのかと勘違いしていたのだ。挨拶をして座席を立ちあがったとき、鳩が豆鉄砲をくらったような志郎康さんの戸惑いの顔が忘れられない。

それから一月ぐらい経過した年の暮れ、お送りした拙詩の感想とともに、詩を書く人たちが自主的に運営していた「卵座の会」への入会を勧めてくれた。「卵座の会」は、当時の渋谷東急BEカルチャーセンターで志郎康さんが教えている詩の講座が母体となり、週に2回では物足りないと感じていたメンバーによって、宇田川町の区民会館で隔週で開催されていた。他の人が皆、東急BEの詩の講座にも通っているのを知り、迷わずそちらにも通うことにした。毎週木曜日の夜は志郎康さんに詩の指導をしてもらえたのは本当に幸運だった。
「卵座の会」も東急BEの詩の講座も、すでに詩集を出版し評価されている詩人、まさに詩集出版に向けて仕事を進めている詩人が数人いて、詩集製作で葛藤する姿を目のあたりにでき大いに勉強になった。わたしにも詩集を出せることがあるのだろうか……と、どこか不安な気持ちで考えていたが、実際に詩人となって新詩集の製作に向かう詩人たちを目のあたりにしたことで、わたしも詩集を出してみたいと強く思うようになっていった。

会が終わると、近くの喫茶店に行き閉店の11時までは詩の話でもちきりになる。志郎康さんは2次会にも最後まで気さくにお付き合いくださり、同じ詩を書く立場としての様々な詩への思いを話してくれた。メンバーはJR渋谷駅の改札口前で話し足りなかったことを30分ぐらいは立ち話をしてから、三々五々、解散となっていった。わたしのような新参者には、他の人が、今何を考え何に向かおうとしているのかを聞くだけで、価値のある時間だった。わたしは時代の変化を意識することとは全く関係ない小学校教師の仕事に埋没していて、詩の世界のことや「今ここ」という感覚には非常に疎く、心底ハングリーだった。他の人は都心の企業で働く会社員や編集者で、別世界の人々と出会えたこともとても嬉しかった。小学校教師は室内で教えることより水泳やマラソンをやる体育や野外観察、劇薬を使用しての理科実験に加え、運動会や遠足等の行事が毎月あり、世間で思われている以上の肉体労働だ。わたしは、日によっては版画の指導で爪の奥まで真っ黒にしたままでも、電車で1時間半かかる郊外から帰宅を急ぐ人に逆流するようにバタバタと都心の渋谷に出かけて行った。都会の女性詩人たちの白くて美しい腕や手がとても羨ましく、眩しくて憧れた。

志郎康さんに初めてお会いした頃、わたしに言ったのは、
「人のことばかり書いていないで、まず、自分のことを書きなさい」
だった。確かに社会的な内容の詩も多く書いていたが、自分の生活のことも書いていたので、なぜ、「人のことばかり書いている」と言われたのかが全くわからなくて戸惑った。

ある日の2次回の喫茶店で、志郎康さんは、わたしに
「今、書いているような詩を詩集にしても、かなりいい詩集にはなるとは思う。でも、それだけじゃだめなんだ」
と言った。え、それだけじゃだめ、ってどういうこと?志郎康さんの教えは、わたしには高度すぎて、戸惑うばかりだった。あるときは、
「恥ずかしがり屋で、いくつになっても少女のような面がある人だけど、今書いているような詩を進めていくのなら、(恥ずかしさを乗り越えて)もっとはっきり書かなくちゃだめだ」
とも言った。
「それだけじゃだめなんだ」って何なんだろう……。出会ったころ聞いた言葉の意味を、あのときはうまく理解できなかったものの、当時の詩は、ある程度のレベルはクリアできていたかもしれないが、特別に抜き出た個性を放っているとは言い難かった。羞恥心を乗り越えて本気で書かなければ、人には何も伝わらないということも今ならわかる。
よく志郎康さんが言っていた「身を賭して書く」ということができていなかった。「身を賭して書く」とはどういうことかは、今ならはっきりとわかる。そしてわたしは、志郎康さんの言葉の通りに身を賭しエネルギッシュに書けた時期もあった。しかし、今の自分は、もう違うステージにきているようにも感じている。でも、やっぱり、わたしは「今の書き方ではだめだ」。志郎康さんの言葉が頭に蘇る。

バブル真っ盛りの頃に開いた第一詩集出版記念会では、詩集の感想とともに
「いろいろ引き出そうとしても、けっこう強情で……本心をなかなか出そうとしないんだけど、抱えているものをどう書いていいのかわからなくて苦しんでいたから、スカウトして僕の教室に来るようになった」
と紹介してくれた。初めてお会いした時から、わたしが重苦しい何かを抱え込んでいることを直感していたようだ。志郎康さんほど直観力や洞察力のある人は稀有だと思う。
当時、教師をしていたわたしに、
「今のお仕事との関係で大変でしょうけど、羞恥心を捨ててはっきり書かなくちゃ」
「すぐに説教臭くなっちゃう(のは駄目)」
「優等生の詩みたいでなんだか…(つまらない)」
とは、何度も言われた言葉だった。

体育が大の苦手でもともと体力のないわたしにとって、学校の仕事は自分の体力を大きく上回っていたため、精神的なストレスやトラウマが原因で心身を壊し、詩を書けない時期が数年続いた。ようやく恢復の兆しをみせ、詩作を再開できたとき、志郎康さんに久しぶりに書けた詩を郵送した。嬉しかった半面、うまく書けない自分に焦れて、かなりの弱音を手紙で吐いてしまった。あのとき、わたしは、志郎康さんに弱音を吐いてみたかったのだと思う。それは長引いた心身の病の恢復の兆しだった。志郎康さんはすぐに電話をくださり、どうしてそう思うのか、事細かに聴いてくれ、励ましてくれた。そのおかげで気分を切り替えて詩作を始められた。感謝でいっぱいだ。

志郎康さんは、詩の教室でもそうだった。調子の悪そうな人には、いつも励ましの言葉や褒める言葉を忘れなかった。調子の良さそうな人には、遠慮なく厳しい言葉をかけていた。志郎康さんは、その人の精神状態や詩の調子まで含めて指導をしてくれていた。

志郎康さんは、そのうち多摩美術大学でのお仕事が忙しくなり、東急BEの詩の教室も「卵座の会」も来られなくなった。志郎康さんと教室で直接お会いすることのない期間が10年以上はあっただろうか。退官されてお体の調子を悪化された頃に、「卵座」同人だった辻和人さんのお誘いを受けて、何人かで志郎康さんの書籍の整理などのお手伝いに御宅に伺うようになった。作業が終わると少しの間、志郎康さんとの歓談が楽しみだった。

志郎康さんが『ペチャブル詩人』(書肆山田/2014年)を出版された頃だったろうか。志郎康さんの発案で詩の合評会が始まったのは本当に嬉しかった。始めは1か月に1度、次第に2か月に1度になったが、3年近く「ユアンドアイの会」が続いた。「ユアンドアイ」は「友愛」→「You&I」からの造語だ。このグループは「友愛」を大切にして欲しい、という志郎康さんの言葉からだった。
その3年の間に、志郎康さんは『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』(書肆山田/2015年)、『化石詩人はごめんだぜ、でも言葉は』(書肆山田/2016年)、『とがりんぼう、ウフフっちゃ』(書肆山田/2017年)と、毎年立て続けに詩集を出版され、わたしたちを驚かせた。すでに80歳を超えた詩人とは思えないほど、エネルギッシュに、言葉と詩は相変わらず破壊的で志郎康さんよりずっと若いわたしたちを圧倒した。その頃だ。志郎康さんが、
「このままでは、小さくまとまってしまう」
と、ある詩を読んだときの言葉は忘れがたい言葉として頭に残っている。その場にいた詩人たち全員の胸にも強く響いたと思う。

志郎康さんは、世間の評判など関係なく、詩の形を最後まで破壊し高めていく、違うものを求めていく姿勢を貫いた。ものすごいエネルギーと精神力だ。そして強い人だ。強い人だから、あれだけ優しい人なのだと知っていた。
その後、志郎康さんは体調を悪化させ一緒の合評会が難しくなったことやコロナ禍もあり「ユアンドアイの会」は、ZOOMを利用するようになり現在も続いている。

鈴木志郎康さんの教え子たちのどのくらいの人がそう思っているかはわからないが、少なくともわたしにとって、志郎康さんは、父親のような存在だった。ベッドに伏しておられる志郎康さんを思い浮かべるたびに「いつまでもいつまでも生きていてください」と願い続けていた。父親のような存在だったから、新詩集を出すたびに、いちばんに読んで欲しい人だった。

志郎康さん、お会いしてから数々の助言をいただきながら出版できた第一詩集、そしてそれからずっと、きめ細かくご指導くださり、ありがとうございました。感謝でいっぱいです。雲の上から、また色々なアドバイスをしてください。というか、生き返ってください。わたしは、志郎康さんがいない今「小さい詩」しか書けなくなっています。ダイナミックで「身を賭した」ような詩を書けなくなってしまっています。

だから、はやく生き返って来てください。

 

 

 

僕の詩が始まる

 

長田典子

 
 

※2022年夏に小中高生を対象とした詩のワークショップの講師をやりました。アクティビティでメモを書いた後は教室でメモをもとに詩を書く活動でした。汗をかきながら詩を書く小中高生を見て、わたしの中に今もいるわたしの小中高生の姿が現れてきました。この詩は彼らと一緒に行動し刺激を受け、わたし自身の心に起こったできごとを詩にしたものです。

 
 

ん、ぎゅるぎゅるぎゅる、んんん、
重いエンジン音をたてて
鉛色の琵琶湖を島に向かって観光船が進む
カシカシカシカシ湖の表面に引っ掻き傷を作りながら
僕は中高生対象の詩のワークショップに参加して船で島に向かう
頭上を大鷲が旋回しながら何かを狙っている
僕はメモを書く
「湖面の真裏にはきっと別の世界が逆さにある」
女の子がアーケードの道をジグザグ歩いているんだろう
なぜだろう
僕は彼女をよく知っている気がする
あと50メートル真っ直ぐ進めば彼女の通うクリニックがある
彼女の歩く速さで湖面が瞬きして漣立つ
ん、ぎゅるぎゅるぎゅる、んんん、
この夏休み 僕は詩が書けそうな気がしてくる
「大ワシが湖面に急降下する」
「えものをねらって水面に首をつっこんでいく」

あと50メートル進めばクリニックに辿り付ける
あたしが歩くたびにタイルが足裏の形に歪み足が取られるし
アーケードの店先に置いてある消毒液を全部順番に使わねばならないのに
猛禽類の嘴がタイルの下からぎゅるぎゅる杭のように突き出ては引っ込む
人混みの溢れるアーケードを前進したいだけなのにできなくて
体中の怒りの溶岩が爆発してまた死にたくなる
英語の時間busをブスって読んだらクラス全員が爆笑した先生も
みんなあたしを心底馬鹿にしてる気がして咄嗟に隠し持ってたライターで
掲示物に火をつけたあたしもみんなも焼け死んじまえ!あたしは叫んだ
怒り心頭で体中から火を噴いて呼び出されて来た親にも殴りかかって
クリニックに通うハメになったけど色んな薬を貰えるから嬉しい
あの日から学校には行かなくてもよくなってあたしは部屋に閉じこもり
毎日「死」「死」「死」と部屋の壁に書いては消し書いては消している
両側に並んだ全ての店先の消毒液を手指に吹き付けなければ
クリニックに辿り着けないのに猛禽類の嘴があたしの足裏を突いてくる
焦りで怒りが倍増して行き交う人々を皆殺しにしたくなる
バッグに手を突っ込み先の尖ったシャーペンを探すでも触る前に
手指消毒をせずにはいられないどうしてもせずにはいられない
体中の怒りの溶岩が爆発しバカヤロー!と叫びまくる死にたくなる
アーケードなんか火の海になれ!みんな死んじまえ!この世もなくなれ!
怒りで体中が震えて止まらなくなるクリニックまであと少し
自分で自分の手を摩る消毒液で消毒する摩る消毒する
クリニックでは毎回判で押したように同じ会話が交わされる「どうですか」「調子悪いです胃薬と風邪薬も付けてください」「じゃ、いつもの通りの薬ね」まで30秒「ありがとうございます」頭を下げて40秒後には診察室を出る駅のトイレで処方された2倍の抗鬱剤と風邪薬一気に飲み込む
すっきりする「ヒミツ」だよあたしが「おんなおとこ」だろうと
「おとこおんな」だろうとどうでもいいじゃんなんでもいいじゃん
頭がぼーっとして色々どうでもよくなって死にたい気分も消えていく
ふらふらした足取りで歩いていると巨大な猛禽類の嘴が下から飛び出てきてあたしの両方の足をグイっと掴んで床の下に引き摺り込む
ん、ぎゅるぎゅるぎゅるぎゅる、んんんん、んんんん、
くねくね体を波状に撓ませながらタイルの裏側に引きずり込まれていく
裏側の世界では船のデッキで男の子がノートに何か書いているのが見えた
巨大な湖の上をあたしは大鷲に掴まれて様さに飛んでいる

ん、ぎゅるぎゅるぎゅる、ん、
船は重いエンジン音をたてて湖を進んでいく
「湖の向こう岸はすがうら」「昔から続く漁師の町」
僕は大鷲が湖に首を突っ込み一瞬で魚を口に咥え
水面から空高く飛び立つのを見た
「ワシのえじきは女の子」「島の方に飛んでいく」「きみをよく知ってるよ」
魚は女の子で柔らかい全身をくねくねさせて遠くの岩に運ばれていく
女の子は岩の上で大鷲に啄まれ喰われてしまうんだろう
僕も本当は大鷲に喰われた方がいいんだ毎日毎日死んじゃいたいんだもん
僕の筆箱は毎日学校で誰かに破壊されてノートには
「バカ」「死ね」「おんなおとこ」の落書きばかり毎日毎日
「僕もえじき」「僕は毎日ごう問されている」
「僕はいくじなし」
我慢してきた気持ちが急に込み上げて涙が溢れそうになった
自分の部屋に入るなり僕は泣いてしまう
お母さんを心配させたくないから理由は言わない
涙を指で拭いては服に擦り付けるきつい気持ちを涙で消毒する消毒するんだ
「風」が「僕を消毒」する

この湖の先の先の先の遠くの寒い土地で戦争が始まった
家族を失くした人たちが泣きじゃくっているのが夕べもテレビに映ってた
「戦争は人間や町をえじきにする」
「教室も戦場」だ
「マンガ本やくしゃくしゃに丸められたプリント」が
「爆弾みたい」に床に散らかっている
僕は僕をいじめるやつらを皆殺しにしてやりたい
んぎゅるぎゅるぎゅる、ん、船が湖面を進んでいく
大鷲は高く高く灰色の宙深く女の子を咥えたまま旋回している
僕はカシカシカシカシ鉛筆で新しいノートにメモをする湖の眼球をひっかく
「手前に見える島のてっぺん」
「女の子が座ってる」
「あばれ回ってワシの爪から落っこちた」
町が焼かれ家族が殺されて泣きじゃくる人たちの顔が湖面に映る
泣きじゃくってるのはたくさんの僕の顔だ湖面を覗き込みながら
僕は泣きじゃくる「さざなみは心臓のこどう」
お母さん、僕、「死にたい」よ
お母さん、僕、「でもまたお母さんに会いたい」よ

「僕の涙が湖面にいっぱい落ちる」
「湖に穴があく」
「女の子はあばれ回ってワシの爪から落っこちた」
「僕はえじきでいい」「えじきなりにやっていく」
「女の子は助かった」「女の子はわかった」
「薬は飲んでもいいけど死んじゃダメだ」
「僕はわかった」「自分だけのかっこいいヒミツを持てばいい」
「ワシといっしょに空を飛んだ女の子」
「誰にもマネできない女の子だけのヒミツ」
「すがうらで」「ふなずし食べてみたい」
「かっこいい」「勇気ってなに」

ぼくはカシカシカシカシ、メモをした
もう涙はひっこんでいた
「僕のかっこいいヒミツ」「僕は詩人だ」
ん、ぎゅるぎゅるぎゅる、んんんん、
湖の眼球が僕に向かって瞬く
漣は湖面が開閉する扉だ
僕の詩が始まっている

「湖は僕と女の子を記憶する」

  * 
 

さざなみのメモ      中三 小里埜 沙舵男

 
大ワシが湖面に急降下する
えものをねらって水面に首をつっこんでいく
湖面の真裏にはきっと別の世界が逆さにある

湖の向こう岸はすがうら 
昔から続く漁師の町だ

女の子がワシのえじきになって島の方に飛んでいく
僕もえじきだ
毎日ごう問されている
遠い国で戦争が始まった
教室もまた戦場だ
破れたマンガ本やくしゃくしゃに丸められたプリントが
爆弾みたいに床に散らかっている
死にたい、でもまたお母さんに会いたい
おとこおんな おんなおとこ 
風が僕を消毒する

手前に見える島のてっぺん
女の子がふてくされて座ってる
あばれ回ってワシの爪から落っこちた
僕の涙が湖面にいっぱい落ちる
湖にたくさんの穴が開く
それは女の子がえじきになった穴

女の子はあばれ回ってワシの爪から落っこちた
女の子は助かった
お母さん
僕はえじきでいい
えじきなりにやっていく
女の子はあばれ回ってワシから逃げた
女の子は逃げてわかった
薬は飲んでもいいけど死んじゃダメだ
僕はわかった
自分だけのかっこいいヒミツを持てばいい

ワシといっしょに空を飛んだ女の子
誰にもマネできない女の子だけのヒミツ
おんなおとこ おとこおんな おんなおんな おとこおとこ
どうでもいいことだ
すがうらでふなずし食べてみたい
さざなみは 心臓の鼓動
僕のヒミツ かっこいいヒミツ
僕は詩人だ

湖は僕と女の子を記録する

     *

僕は湖にできた穴を潜り抜けてアーケードを歩いて行く
じぐざぐに歩いて手指に消毒する
本屋に行って新しい詩集を買う
家に帰ったら書きかけの詩を推敲する
漢字検定の勉強もする
大鷲から逃げた女の子は
今頃どうしているんだろう

 

 

 

ミュウちゃん、ホワイト・マジック、

 

長田典子

 
 

ふわふわ ゆらふら
春めいて 暖かい日は
サバトラ雌猫ミュウちゃんのお散歩日和
ミュウちゃんはもうすぐ十八歳
ふわふわ ふらふら のっそり のっそり
まずは大好きなカレックスの葉をめざす
首を傾げながら葉を噛み 引きちぎっては食べている
ミュウちゃんの尻尾の先には
ホワイト・マジック、白い薔薇の枝が伸びて
新芽が やわらかい刃物のように
わたしの胸をすーっと切り開く
ズキズキ鈍い痛みが胸をかけ降りる
ふるふる ふわふわ ゆらゆらりん
まだ冬の気配を孕む冷たい風が胸の奥まで沁みて
あのとき仔猫だったきみの前足がふみふみするから
痛みをこらえ そうっと息を吐き出し春の名前を呼ぶ

ユキワリソウ、スノウドロップ、シュンラン、スイセン、マルメロ、
ミュウちゃん、ミュウちゃんの白くて温かいお腹、ホワイト・マジック、


この庭できみは生まれた
ホワイト・マジックの枝の下を
ととととっと駆け回ったきみはその足の速度で
わたしより早く季節をまたいで行ってしまう
もう遠い晩秋の庭にからだを濃く染めて
どんどん先を歩いて行ってしまうミュウちゃん
このごろ背骨が突き出て痩せてきたミュウちゃんを腕に抱きあげ
土臭くて 毛繕いする唾液の混じった白いお腹に
唇をあてながら
唱える

マジック、ホワイト・マジック、
ユキワリソウ、スノウドロップ、シュンラン、スイセン、マルメロ、
ホワイト・マジック、白い薔薇、ミュウちゃん、わたしの春、
マジック、ホワイト・マジック、
ふっくら大きい白い薔薇、
また咲かせてよ
ミュウちゃん、

呼ぶと
どこからともなく
跳び出してきたあのころ
きみの季節を ひっくりかえしたい
マジック、ホワイト・マジック、
白い薔薇、

ふるふる ふわふわ ゆらゆらりん
ホワイト・マジックの新芽が仔猫の前足になって 
胸の奥底をふみふみするたびに
たくさんの時間がよみがえる
スリッパよりも小さいのに回虫でお腹をぱんぱんに膨らませて庭に蹲っていたきみ
アイビーが手におえないくらい繁茂していた
いつも遅く帰宅して食事をしながら新聞を読み足の裏できみの背中を撫ぜていた
モッコウバラが枝を絡ませ華やかに花びらを飛ばすのも
きみが喉を振り絞ってわたしを呼ぶ声にも気付けなかった日々
アガパンサスが長い陣痛から解き放たれたように花開いた夜遅く
帰宅するときみは尻尾の毛を全部抜いて鋭い目でわたしを威嚇した
きみの尻尾は長いミミズのようでテーブルの下には猫毛がどさっと落ちていた
でも寝るときは喉を鳴らしてベッドに入ってきた
わたしの二の腕の内側 いちばん柔らかい場所に爪をたて ふみふみしながら
痣ができるまでちゅうちゅうちゅうちゅう吸っていた 
ミュウちゃん、ママの乳首が欲しかったんだね
エゴノキに小鳥がくるたびに目を見開き
き、き、き、き、き、と小さく声を出して低く身構え
野生の血をたぎらせていたっけ
ホワイト・マジックが大輪の花を咲かせていたよ
きみは気性が荒くて
獣医さんをいつも手こずらせてばかり
ホワイト・マジック、白い花びらがゆれていた

ふらふら ふるふる ゆらゆらりん
ミュウちゃん、
ミュウちゃーん、
マジック、ホワイト・マジック、
陽で温もったウッドデッキに寝そべるきみの横に
わたしもからだを伸ばし骨ばったきみを抱きしめる
白いお腹に顔をうずめる
きみの唾液の匂いが混じった尖った乳首
土臭くてやわらかいお腹のあたりに
唇をくっつけてぷはぁーっ、と息を吐き出す
ぷはぁーっ、ぷはぁーっ、ぷはぁーっ、
マジック、ホワイト・マジック、白い薔薇
もっともっとあったかくなぁれ、まあるくまあるく膨らんでよ
マジック・ホワイト・マジック、
きみの秋から ここの春の新芽まで戻っておいで
夏にはまた大輪の白い薔薇を咲かせてよ
きみは目を細め 毳だつ白いお腹で 
子を慈しむように
大きなわたしを受けとめる

ミュウちゃん、
小さな乳首に唇を押し付けて
ちゅうちゅうちゅうちゅう吸っていたい
いつまでもいつまで甘い匂いを嗅いでいたい
あったかいお腹にいつまでもいつまでも顔をうずめていたいのに
するり
わたしの腕から抜け出し
おばあちゃんが腰を曲げて歩いて行く
のっそり のっそり ふらふら ふわふわ ゆらゆらりん
背骨の影をいっそう濃くしながら
ウッドデッキの隅っこに
よっこらしょっと肘を張り
まえあし うしろあし じゅんばんに折り曲げて
ゆっくりゆっくり寝そべると
茶色くしぼんだ花びらみたいに
ひげぶくろをふにふにさせてから
春の青空に向かって
大欠伸ひとつ

ミュウちゃん、
ミュウちゃーん、

マジック、
ホワイト・マジック、
マジック、

 

 

 

存在するわたし

 

長田典子

 
 

ああ 
息苦しい
ソファに横たわる人を見降ろして
一方的に罵倒する
口が臭いんだよ、とか
野菜が嫌いなくせにケーキばっかり食べるなんてバカか、とか
なんで一緒にデートしてくれないんだ、とか
髪が少ないなら少ないでいいけど散髪屋で
「渡辺謙と同じ髪型にしてください」ってそれだけのことを
なんで言えないんだ、とか
お腹が出すぎで虫唾が走る、とか
だからってベッド離して寝るな、とか
まくしたてる
なにもかもあんたのせいなのだからと
重労働で曲がった指をあてつけに見せつける
あの人は目を三白眼にしてわたしを斜めに見上げる
頬を凍り付かせてもう終わりだという顔をする
わたしはぜったい終わらせたくないと続ける
いやだ終わらせてたまるか
吐いた罵詈雑言で喉がつまる
息苦しい

耐えられなくなったところで
目覚める
飼い猫が胸の上で丸まって
鼾をかいている
そうだった
猫もわたしも鼻を患っている
飼い主が病院嫌いで
疫病がもう何年も蔓延していて
嫌いな病院がもっと嫌いになって
死にそうでなければ気にしないでいいと過ごしているうちに
あそこもここもと気になるところが増えていき
猫のあれもこれも病のせいではないかと気になるところが増えてしまい
けっきょく病院には行かない連れても行かない
どんどん行かねばならない病院が増えてしまい追い詰められいく
息苦しくなる

息苦しくなると猫に噛みつく
口の中が毛だらけになるまでハグハグ猫に噛みつき続ける
猫はこっちの気が済むまで噛まれるままにさせている
猫はわたしをぜったいに裏切らない
知っている
あの人もぜったいにわたしを裏切らない
この鼻の病の息苦しさ
この疫病蔓延の息苦しさを
あの人にもぶつけたくなる
いやだ
夢の中のようにもう終わりだという顔が本当になったら
いやだ
疫病の恐怖 テレビニュースの執拗さといい加減さ
息苦しくてたまらない
バス通りを
目を空洞にして大声でわめきながら
あてもなく歩いて行く人の気持ちがわかる

ああ 息苦しい
夢の中で
あんな酷いこと言わなきゃよかったな
終わらせてたまるか
あの人とわたし それから猫

きょうは二か月ぶりにあの人が出張から帰ってくる
出張中は毎晩電話をして
すき?って聞く すきって返ってくる
無限大?って聞くと わざと三つ分と言ってくる
そのまえは地球三個分以上じゃないと嫌だった日が続いていた
だんだんエスカレートして
無限大が無限大じゃなきゃやだ、って言うと
無限大無限大無限大無限大と早口で呪文のように言ってきて
最後はいつもお互いに大笑いしながら電話は二分で終わる

あの人が服を着替えてうがいをして石鹸で手を洗うのを確かめてから
広くて深くてハーブ石鹸の匂いに少しだけ機械油の匂いが混じった懐に
顔をうずめて深呼吸する
匂いを嗅ぐ
今夜のおかずはあの人が出張先で調達してきたアジの干物と田舎風煮物
わたしは朝の残りの味噌汁を温め食器を並べればいいだけ
猫にも少しだけ温めたミルクを与える
あの人がわたしに多めによそった野菜の煮物をさりげなくあの人の皿に取り分ける
鼻うがい液や猫の餌の話などする
猫は男嫌いであの人がそばに寄るとシャーシャー威嚇する
あーあ、やっぱりかあさんがすきなんだ、わたしが笑う

寝る前には必ず曲がった指の関節にテーピングをする
これは指の酷使と加齢によるもので
確かに何十年も一日中重い荷物を運搬したり指を酷使する仕事をしていたけど
小学生でリリアンにハマりその後は編み物クラブで手提げバッグやマフラーを編み
高校生以降は勉強もせずに彼氏のセーターばかり編んでいたのも原因かもしれない
彼氏が変わるたびに何枚編んであげたんだろう嫌な奴ばっかりだったのになんで……
わたしという存在はないと同じだと思っていたから懸命に自分の形を象っていたのかも
中学生の頃ピアノばかり力まかせにぶっ叩いて弾いていたのもいけなかったのか
事あるごとにあの人に曲がった指を見せつけて
「あんたのせいだ」って言うことにしているのは
猫のマーキングに似てるのかも
あの人はいつもわたしのところにいて 
ぜったいに裏切らないから
わたしは今ここにこの場所に存在しているって感じられるようになったから
曲がった指を一瞬ちらつかせれば
事足りるのだ
すくっと立っていれば
枝がしなっても もとにもどる
息苦しさも 疫病も
ひゅー、っと ぬけていくだろう 

歯磨きをするあの人の後ろに立って言う
鏡を見ながら隅々までしっかり、とか 時間をもっとかけて、とか
寝る前にケーキ食べるなんてサイテイ、とか
買ってあげた増毛剤ちゃんと使ってよね、とか
夢の外でもやっぱり声を荒げている

あの人って夫というか古い友だちというか幼馴染みたいなものなのか
我が家の順位は最下位のあの人もやっぱりわたしの猫なのだ
ふらっと帰ってきてふらっと出かけるあたり
猫とわたしとあの人が揃う場所は
どんなときも
深く深く呼吸ができる

ここに存在する
存在し続ける
わたしは

すくっと立っていれば
枝がしなっても 

 

 

 

今ここにある「聖家族」の記録

村岡由梨第一詩集『眠れる花』を読んだ。

 

長田典子

 
 

 

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』(書肆山田刊)を読んだ。201ページの厚い詩集は、二部構成で、33篇の詩が収められている。

表紙には画家の一条美由紀さんによる「村岡由梨肖像画」が効果的に配置され、インパクトがある。一条さんの絵は、いつもとても個性的で不穏な物語性、そして詩的な不条理性を孕んでいるように感じて、目が離せなくなる魅力を感じる。その一条さんの絵が表紙なのだから、存在感を感じさせないわけがない。裏表紙には娘さんの眠さんによる「村岡由梨肖像画」が描かれている。コンテチョークで描いたのだろうか…一枚の絵なのに折り目を境に表情が明と暗に分かれるように巧みに描かれており、表紙に負けない迫力で迫ってくる。タッチの違う描き手による村岡さんの肖像画は、激しい本の内容とよく合っている。
詩集の場合、自費出版のため、詩人本人が多くをプロデュースしなければならないことが多い。表紙はじめ本のたたずまいそのものに、どれだけ著者が心を込めて詩集製作に取り組んだかが現れることが多いように、個人的には感じている。村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』は、本を見た瞬間から、著者の強い思いを感じさせる。

もともと映像作家である村岡由梨さんは、詩作を始めてすぐの2018年11月からウェブサイト「浜風文庫」で発表を続けた。2021年1月まで書かれた作品を2021年7月31日発刊の201ページもの詩集に纏めてしまった。創作への熱いエネルギーを感じる。著者自身は、あまり意識していないかもしれないが、初めから、ご自身の内部を言葉にしてさらけ出す、さらけ出してしまえる凄さは詩を書く大きな才能だと注目している詩人だ。

タイトル『眠れる花』は、長女の眠(ねむ)さんと次女の花さんの名前から付けられており、詩集中に同タイトルの詩が収められている。村岡さんの娘さんたちを想う気持ちが伝わってくる。多くの詩の中に、思春期真っ只中で、感受性が人一倍強い娘さんたちのエピソードや、精神的に揺らぐ母親の村岡さんを娘さんたちが励ます言葉、やはり鋭い感受性ゆえに揺れ母親としてこれでいいのかと自分を厳しく問いただす村岡さんの悩み、映像作家の夫の野々歩さんも登場し、家族の温かくも危うい日常が描かれている。娘さんたちのピリピリした感受性に、村岡さんも野々歩さんも同じ目線の高さで対応し、受け止め、お互いの鋭さが音叉のように共鳴し合い増幅する。壊れそうなお互いを、必死に支え合う家族の姿は、「今ここ」にある「聖家族」の姿をリアルに描いている。

村岡さんの詩は、夢やイメージが唐突に出てきて唐突に途切れたりする。読んでいる方は、混乱する。だが、その混乱した世界こそが、村岡さんの世界なのだと知る。もしも、手慣れたやり方で、それぞれの連の運びをスムーズにしようとしたら、もう、村岡さんの詩ではなくなってしまう。

村岡さんは詩のなかで、自身の過去をどんどん暴いていく。自身に付きまとい激しく苦しめる自己憎悪の原因をつきとめようとする。村岡さんの感じている自己嫌悪や自己否定感は、そのへんにある生半可なものではない。非常に激しく厳しく救いようがないほど深い感情だ。村岡さんは、常にその忌まわしい感情と闘っている。隙あらば自分を抹殺しかねないほどのどうにもならない感情なのだ。さぞきついだろうと思う。
村岡さんが今まで11本の映像を制作し、2018年から詩を書き始め追及していることは、自身のその自己憎悪と自己否定を表現すること、そして、映像制作や詩作で、そのありかを実体として掴み抽出しようとしている行為のように思う。実体が把握できれば、うまく共存することもできるようになるかもしれない。

「クレプトマニア」という詩では小学生の頃の万引きの話が描かれている。そして自分へ自己憎悪を言葉として形にして受け止めてみる。当然、当時の母親や父親の言動も思い出すことになる。そしてさらに救われがたく深く落ち込んでしまうのが行間からうかがえる。しかし、娘さんたちの次のような健気な励ましの言葉や行動を思い出し書くことで、何とか立ち上がろうともがいている。

 

中学3年生の娘が言いました。
『嫌い』っていう言葉は人を傷つけるためにある言葉だから、
簡単に口に出してはいけないよ

でも、私は、私のことが嫌いです。

小学6年生の娘が言いました。
「私が私のお友達になれたらいいのに」

 

また、

 

「ママさん、ママさん」
そう言って、ねむは
はにかみながら私を抱きしめる。
「人ってハグすると、ストレスが3分の1になるらしいよ。」
そう言って、はなが
ガバッと覆いかぶさってくる。

 

「イデア」では、それまで過激な表現が多かった映像作品から脱皮したような穏やかな家族の日常と病弱な愛猫の死を通して、存在とは何かを問いかけているように感じる11本目の同タイトルの映画「イデア」の感想を夫の野々歩さんが言う。

 

「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」

 

初期の頃から一緒に映像制作をしていた野々歩さんの言葉の重みを感じ、読者もほろっとする。ここでも、村岡さんは、激しい自己憎悪と自己否定感から、何とか救われようと言葉を連ねる。

『眠れる花』は、ストレートで散文的な言葉に圧倒される。そして強烈な場面が次々に描かれている。現代詩を読み慣れている人にとって、これは詩なのだろうか、と疑問をもつかもしれない。わたしは愚かにも、散文かエッセイのように、行分けされた詩を頭の中で繋げてみた。もちろん、繋がらなかった。これは、まぎれもなく詩なのだと再認識した。詩集中の多くの詩は、詩の概念やロジックからはみ出ている。そこが凄い。村岡さんの大きな才能を感じずにはいられない。

「青空の部屋」では、

 

太陽に照らされて熱くなった部屋の床から
緑の生首が生えてきた。
何かを食べている。
私の性器が呼応する。
もう何も見たくない。
もう何も聞きたくないから。
私は自分の両耳を引きちぎった。
耳の奥が震える。
私が母の産道をズタズタに切り裂きながら生まれてくる音だ。

 

植物のような緑の生首は、新鮮で生命力にあふれかえっている。それは、母の産道を切り裂きながら産まれてくる著者自身だ。現在、精神的な病を抱えている村岡さんは、娘さんたちのために、常に「よい母親」でなければならないと思っている。生首のイメージが現れたとき、村岡さんの母親と自身が母親であることが重なってしまい、「性器が呼応する」。激しく自己を憎悪し、「耳を引きちぎ」りたくなる……。

 

そして、漆黒の沼の底に、
白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

 

自分が分裂していく…。その姿を詩の言葉で確認する。そして再生への道を模索していく……。そんな、懸命に生き延びようとする村岡さんの姿に感動する。

「ぴりぴりする、私の突起」では、助産婦に

 

「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることができないんです。」

 

と打ち明け、笑い飛ばされてしまう。おそらくこの助産婦は極めてフツーの人で、フツーの発想以外を信じないタイプの人だ。しかし、人を相手にする仕事の人だったら、相手が抱える深い闇を見抜き、寄り添おうと努力して欲しいものだと思う。また、村岡さんだけでなく、赤ん坊に乳首を吸われて性的なことと結びつけてしまう女性は、口には出さないだけで、案外多くいるように思う。あたりまえのことではないか……。ただし、村岡さんは誰よりも強い自己憎悪の感情の持ち主だ。だから、自分の乳首を気持ち悪くて触れない……。このことを多くの女性を相手に仕事をしている助産婦さんには理解して欲しかった。

自分のことで恐縮だが、わたしは、妊婦を見かける目を逸らしたくなる。妊婦の膨れたお腹の中に、赤ん坊とは言え、もう一人の人間がまるまって、そこにいる……そう考えただけで、正直、気持ち悪くて直視できない。妊婦は未来を育む赤ん坊を身籠っているというポジティブなイメージしか世の中の人は認めない。でも、わたしには、どうしても受け入れられない存在だ。わたしは妊婦には絶対になりたくなかった……。30代になってから10年以上に渡って下腹部がのたうち回るほど酷く痛み、遂に何も食べられなくなって体重が30キロ台になりガリガリに痩せてしまった時期がわたしにはある。男性と同様に社会で働きたい(働くべきだ)という強い気持ちから、女性性や母性を激しく否定する潜在意識が宿っているのだろう。跡取りとして長男の誕生を切望されていたところに女児として生まれてしまった生い立ちも、深く影響しているはずだ。やっかいなことに潜在意識はコントロールできない。痛みは月経の周期に合わせて月に3週間は襲ってきた。子どもを孕みにくい月経が始まったとたんに身体はすっきりと痛みから解放され、月経が終わると再び断続的にやってくる七転八倒するほどの痛みが続いた。やっとの思いでよい医師に出会え、原因が激しい鬱状態からくる痛みだとわかった。クリニックに通い適切な投薬を受けていることもあり、現在は痛みの症状が出なくなった。これも激しい自己嫌悪や自己否定の類からきているはずだ。こういう自己嫌悪、自己否定の在り方についても、世間の人はなかなか理解できないだろう。

女性、特に母親に対して、世間はいまだに固定的観念を押し付け、抑圧する。しかし、21世紀の現代、その固定的で抑圧的な観念から、進化できないものかと思う。女性であろうと母親であろうと、十人十色の生き方や感じ方があっていいはずだ。

「絡み合う二人」では、母である村岡さんと思春期の娘さんとの微妙な愛情関係が描かれている。微妙な愛情関係とは、母と娘、母と恋人、母と女友だち…そんな複雑な温かい関係だ。しかし、思春期の娘の胸のふくらみに、母として、いつか自分から巣立って離れていってしまうという不安がよぎる。そこから母乳で娘さんを育てるご自身を回顧する連が強烈だ。

 

青空を身に纏った私は、
立方体型の透明な便器に座って
性の聖たる娘を抱いて、授乳をしている
娘が乳を吸うたびに
便器に「口」から穢れた血が滴り落ちて、
やがて吐き気をもよおすようなエクスタシーに達し
「口」はピクピクと収縮痙攣した。
無邪気な眼でどこかを見つめる娘を抱いたまま
私は私を嫌悪した/憎悪した。

 

この鮮やかな連にわたしは驚愕し、感動した。ここには、「新しい、誰も描かなかった母子像」が輝くように存在している。後光を放っている「現代の母子像」として、わたしの胸を射抜いた。

 

小さくて無垢な娘は、お腹がいっぱいになり、
安心したように眠りに落ちていった。

あなたは、悪くない
ごめんね。
ごめんなさい。
穢れているのは、あなたではなく、私なのだから。

 

美しく眠る赤ん坊に向かって謝る村岡さんがいる。読者であるわたしは、思わず声をかけたくなる。「あなたはちっとも穢れてなんかいない。並外れてご自身に、ご自身の身体に、敏感なだけなんだよ。」と伝えたくなる。ありていな言い方になるが、多くの女性は母性と経血を結び付けたりはしない。村岡さんだからこそ、感じられる特別な感覚であり感性だ。村岡さんには、自分の感じたイメージを迷いなく言葉にしていく凄さと度胸を感じる。

詩集には「眠は海へ行き、花は町を作った」「変容と変化」「新しい年の終わりに」など、家族の危うくもほのぼのとした内容の詩も多く含まれている。

2021年6月6日(日)、13日(日)にイメージフォーラムで行われた「村岡由梨映像展<眠れる花>」で上映後のトークで村岡さんは、「日頃、実体に対する不安があり、フィルム制作そのものに実感を感じる」と話していた。会場で配られたパンフレットの2016年に制作した「スキゾフレニア」(16ミリ)の説明には、「私は今、ここに存在しているのでしょうか。今、このキーボードをたたいているのは、本当に私なのでしょうか。このキーボードは本当に、ここに存在しているのでしょうか。この椅子は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。この、床は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。……」と魂の悲鳴のような言葉が書かれている。村岡さんが一人の人間としてぎりぎりのところで懸命に踏ん張り、生きていることがわかる。

自分の存在、自分を取り巻く世界の存在を確かめるために、映像制作をしてきた村岡さん。その制作体験を礎にしながら、今度は言葉にして、存在を確かめ、書くことを始めた村岡さん。事象を客観視し気付いていく様子が、行を追う読者にもリアルに感じられ一緒に納得させられる。ぎりぎりの状態まで追い詰められながらも、家族の存在に助けられて生き抜いてきた。激しい自己嫌悪と自己憎悪に苦しめられつつも、村岡さん自身も家族を支え大きな力になっているはずだ。これからも、ご自身の感覚や感性からの表現を大切にし、映像制作、そして詩作を続けていただきたい。あえて詩について注文するとしたら、ざっくりと捉えた粗削りな言葉の中味を、さらに開いて細かい表現の仕方にも触手を伸ばして欲しい。とても楽しみな映像作家であり詩人だ。

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』には、裏表紙となった娘さんの眠さんの絵はじめ、花さんの詩や夏休みの立派な工作の写真、そして病のため1年で命を終えた愛猫のしじみの写真、夫となった野々歩さんとの運命の出会いの話なども織り込まれている。今ここにある「聖家族」の記録となっている。真摯で壮絶な家族の物語は、どこの家庭にも潜んでいる狂気を暴いているようにも思える一冊だ。

 

 

 

 

ブラックダイヤモンド / 20200625

(ジョージ・フロイドさんが殺されてから3か月が過ぎた)

 

長田典子

 
 

ブラックダイヤモンド
眩しく輝く
魔法の肌
綺麗
ほしい

のに
なぜ

I can’t breathe.

ブラックダイヤモンド
息は止められた
20ドル紙幣のために
I can’t breathe.
8分46秒のチョークホールドで
殺された
息ができない ※1

むかしむかし
先祖は
アフリカから船で連れて来られた
家畜のように
それからずっとずっとずっと
息ができない
息を止められたまま
ずっとずっとずっと

We are human beings!

We can’t breathe!
人間なのに

ブラックダイヤモンド
闇が世界中を覆っている
息ができない
息を止められた
もうたくさんだよ

ブラックダイヤモンド
風邪をひかないように
帽子とスキーマスクをしていた
帰宅を急いで
歩いていた
怪しまれた
I can’t breathe.
殺された  ※2

ブラックダイヤモンド
恋人と部屋で眠っていた
それだけ
ノックもなくドアを開けられ
撃たれた殺された
一瞬で
I can’t breathe.
それさえ言えなかった ※3

ブラックダイヤモンド
フードを被ってジョギングをしていた
ポケットから携帯を出そうとした
怪しまれた
撃たれた殺された
17歳だった

I can’t breathe.
それさえ言えなかった ※4

息ができない
息ができない
Mama. Mama.
数え切れないブラックダイヤモンドが
殺され続けてきた
獲物のように

もうたくさんだよ
Mama. Mama.
どれだけ殺されたら
この闇は終わるのだろう

Black Lives Matter!

ブラックダイヤモンド
なぜ生まれた
闇を輝かせるために生まれた

お母さん!

ブラックダイヤモンド
闇の中でも眩しく輝く
魔法の肌
肌理の細かい綺麗な肌を
わたしは
ほしい

ブラックダイヤモンドは美しい

ブラックダイヤモンド
闇を照らせ!

Black Lives Matter!
Black Lives Matter!

闇を照らせ!

ブラックダイヤモンド
眩しく輝く
魔法の肌は
美しい

わたしは叫ぶ

Black Lives Matter!
Black Lives Matter!

 
 

※1.ジョージ・フロイドさん 
2020年5月25日ミネソタ州ミネアポリス近郊で20ドル札使用容疑で手錠をかけられ、8分46秒間、途中意識を失っているにも関わらず首を膝で圧迫されて死亡。享年46歳。
      
※2. ブレオナ・テイラーさん
2020年3月13日ケンタッキー州ルイビルの自宅で恋人と就寝中にノックもなく警官が押し入り8か所撃たれて死亡。
享年26歳

※3 トレイバン・マーチンさん
2012年2月26日フロリダ州サンフォードでコンビニから帰る途中、容疑者と疑われ撃たれて死亡。享年17歳。

※4 アリージャ・マクレイン
2019年8月24日コロラド州オーロラでアイスティーを買って帰宅途中、警官に怪しまれ殺害された。貧血症のため風邪をひかないように帽子とスキーマスクをしていた。享年23歳。

※5 上記4名は氷山の一角であり、400年以上に渡って数え切れない黒人が理不尽に殺され続けてきた。2016年にトランプがアメリカ大統領に就任後、白人至上主義者による黒人への憎悪犯罪が増加傾向にある。


 

 

 

Sakura Sakura

 

長田典子

 
 

さくら、サク、ラ、
かすみかくもか
薄墨色、けぶる
花房、すずなりの、
み、わ、た、す、か、ぎ、り、
アバンギャルドな、不穏に響く変ホ長調、CDから流れる
スタンリー・クラークのSakura Sakura みわたすかぎ、……消音、空白の、り、
アバンギャルドな、不穏な、り、立ち現れたる我らの
妖怪「土蜘蛛」の、千筋、万筋、白い糸伸ばす、
Scatter 散りばめる、
り、はらはら垂れる り、り、…… ふいに消滅、
ウッドベースの低い重なる不協和音 破れ、去る、空白、その気配、

低い空から弾ける薄墨色の花火は
下降する、はらはら花びら Scatter まき散らす
五臓六腑に匂い発つ墨…、墨…、じわじわ薄紅色に染めあげ、
長机に向かって小さな手で書いた高音の「さくら」から遥か遠く
黒い土の上をけぶる薄紅色の気配
花房、
群れる 散る 這う 広がる 渦巻く その先の空白
空白 ヨコハマ、リビングから
てのひらの「土蜘蛛」の糸、千筋、伸ばし伸ばし、飛ばした
七年前のニューヨーク、ブルーノートへ
大嵐、
水没したロウアーマンハッタン
三日後には開店
ステージが終わると客は急ぎ足で外に消えていった
Scatter 散らす、
暗闇の中でライトが小さく灯る
何か記念のお土産をと二階に上がって行ったら
いつも人で賑わっているフロアには誰もいなくて
あなたにバッタリ出くわした
咄嗟に
二人で写真を、とお願いしたのだった
あなたの腰に腕を回し脇腹の贅肉をぎゅうっと摘んだ
写真よりもその手の感触がわたしのお土産
いざや いざや
七年後、
二〇二〇年
ブルーノート・トーキョー
ようやくあなたのウッドベースの音を聴いた
記念のお土産に買ったCDの
Sakura Sakura
不穏な変ホ長調、二オクターブ下の重なる隣合わせのドとシ、はらはら、煙る
けぶ、る
ヨコハマのリビングでSakuraは
いざや いざや
渦巻く不協和音、濁る、一月の床は冷たく広がる
のやまもさとも
攻撃、報復、くすぶ、る、る、疫病、る、る、り、花房めくるめく、
低く弾ける花火は黒い土の上を群れる、渦巻く、散らばる、くすぶ、るる、
花房はなびら るる、り、り、り、はらはら散らばる り、り、
立ち現れたる
我らの妖怪「土蜘蛛」の白い糸、千筋、万筋、伸ばす り、り、り……、
消音する、りりりりりり……、不穏な、り、り、り、
Scatter 散りばめる、
スタンリー・クラークのウッドベースがリビングの床に反響する
温かい消音、り、りりりりりりり……、五臓六腑に沁みわたる
あの日
あなたの脇腹の贅肉をぎゅうっと摘んだその指で
紐スイッチを引く
ライトを点ける
けぶる 春
薄墨色の花房
不穏な 温かい 燻る
はらはら るる、り、り、り、り、り、り……、
いざや いざや
春です

 

※童謡「さくら」より引用あり
※「Sakura Sakura」…『Jazz in The Garden』The Stanley Clark Trio with Hiromi &Lenny Whiteより引用

 

 

 

てのひらのうちがわには

 

長田典子

 
 

ふと
テーブルに手をおく
あなたはかならず平面に
ゆびさきを縦にする

五歳だった
ほら、こんなふうに、
てのひらに触れた茹で卵に
ゆびを沿わせてまげた
その角度のままに

「茶色の小瓶」の八分音符は難しくて
あなたは泣きじゃくった じれったくて
いちどできたら繰り返し弾いた
八分音符と八分休符の組み合わせが
きもちよくて

ジャズ ジャズ やめられないジャズ

卵が発熱する
パソコンの
キーボードは鍵盤
ゆびは 今も
ピアノを弾いている

あの日のまま ゆびさきをたてて
叩くパソコンのキーボード
卵は熱い卵はくるしい卵はじれったい

産みたい産まれない産みたい産まれない
ジャズ ジャズ やめられないジャズ

産まれたら きっと
だきあおう
牙をむくまえの
甘噛みのように
だきあおうよ
毛が生えそろう前の獣のように

弾き語る
ジャズ ジャズ ジャズ 発熱するジャズ

十二歳
ピアノ教室はやめた
バスで街まで行ってまだ知らないソナタの楽譜を買い
調律されていない古びたピアノで夜中まで練習した
独りぼっちで卵を温め うちのめされ
あなたがピアノを弾くのをやめたのは十四歳
てのひらのうちがわで
卵を温めた そのかたちのまま

ジャズ ジャズ ジャズジャズ ジャズ


鍵盤は
パソコンのキーボード
あの日のまま ゆびさきをたてて
てのひらのうちがわには発熱する 卵

卵は孕む卵を孕む
卵は卵を産み落とす産み落とす
発熱する卵 孵化する 孵化する
バックミュージックは「茶色の小瓶」
ぽろ、ぽ ぽろ、ぽ ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽろ、ぽ、
ゆびさきは つっかえる ひきかえす はんぷくする はんぷくする
制御不能な 暴走する 沸騰する じれったい

産みたい産まれない産みたい産みたい産みたい

ジャズ ジャズ ジャズ くるおしいジャズ

キーボードはわたしはわたしのてのひらは
ゆびさきは
弾き語る
産みたい産み出したい産み出す
キョウリュウ!
しっぽが長くて 巨大な 牙をむく
凶暴な 肉食の
不用意な 制御不能な
ぽろ、ぽ ぽろ、ぽ ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽろ、ぽ ぽぽぽぽ
キョウリュウ!

産まれる産まれる産まれる産まれる

ぽろ、ぽ ぽろ、ぽ
ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、
ぽろ、ぽ、ぽぽぽぽ

キョウリュウ!
だきあおうよ
牙をむくまえの
甘噛みのあとは
ふかく ふかく
交りあおうよ
不用意に 凶暴に 制御不能に
くるおしく
食らいあおうよ

キョウリュウ!

 

 

 

レポート さとう三千魚「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」

(2019年7月26日(金)於・青山スパイラルルーム)

 

長田典子

 
 

2019年7月26日(金)、詩人の松田朋春さん主催Support Your Local Poetのイベントで、さとう三千魚さんによる「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」の講演が、19時から青山スパイラルルームで行われた。暑い夏の夜だった。
とても楽しみにしていたので開演30分前に会場に到着すると、パワーポイント用のスクリーンの前で、さとうさんはパソコンで内容のチェックをしていた。浜風文庫’s STOREのTシャツにジーンズというラフな姿だった。場所はおしゃれな青山。しかも前面の大きなガラス窓からはスタイリッシュなビルが見える部屋とあって、最近太ってパツンパツンになってしまっているにもかかわらず、一張羅のお花柄のワンピースを無理やり着込み緊張して出向いわたしだが、さとうさんのラフな格好を見て一気に緊張がほどけた。

さとうさんのそのゆったりした雰囲気とともに、優しい人柄が滲み出てくるような、わかりやすい話だったこともあり、わたしだけでなく、会場全体が始めからほっと和みながらさとうさんの話を聞くことができたと感じている。

1980年代からさとう三千魚さんのご活躍は詩の雑誌を通じて存じ上げていたものの、わたしがさとうさんに初めてお会いしたのは、鈴木志郎康さん宅で行われている詩の合評会「ユアンドアイの会」のときである。今から4年ぐらい前のことなのに何だか古くからの知り合いのように感じている。さとうさんは、現在は会社を退職されて静岡にお住まいだが、その前は、平日は東京、休日は静岡で過ごされていた。当時わたしはスーツ姿のさとうさんしか見たことがなかった。日曜日の「ユアンドアイの会」には、翌日の会社勤務を控えて静岡から重いノートパソコンを持参しての参加だったからだ。ウエブサイト「浜風文庫」でもお世話になっており常にとても温かい対応をしてくださるおかげで、とかく萎縮しがちなわたしなのに、のびのびと作品に取り組むことができている。「浜風文庫」も休日以外は地道に毎日更新されている。いつもにこにこしている穏やかな印象や風貌から、さとうさんは、とても上手に社会と折り合いをつけて生きている人、誰とでもうまくやっていける人だと思っていた。
でもそれは社会人になってからの世間に向けての顔であり、本来はどうやら違っているらしいことがわかった。秋田県出身のさとうさんは、どことなく口が重い、シャイで寡黙な人というイメージもかすかに感じとってはいたのだけれど。

さとうさんは、幼児期、言葉を発するのが苦手で、常に母親の後ろに隠れているような子だったという。詩は小学生の頃から書き始め、中学生になってからは、通学していた学校で詩人の小坂太郎さんがたまたま教師をしており、小坂さんに詩を見てもらっていたという。ここで、すでにさとう三千魚さんは詩人としての芽をじわじわと伸ばしていたのだ。恵まれたスタートだったと言える。
高校時代は孤独だったという。受験のため東京に出てきたが、満員電車に圧倒され満員電車恐怖症のようになり、結局、浪人時代も朝の満員電車に乗れないために予備校には通えず桜上水のアパートの部屋に引きこもっていたのだという。当時、アパートの近くには野坂昭如さんの豪邸があった。野坂昭如さんの『さらば豪奢の時代』という本を読んださとうさんは、著者の書いていることと実際にやっていることの乖離を感じ手紙を書き送ったとのこと。さとうさんの生家が農業を営んでいたことから「実際はこんな甘いものではない」と憤りを感じたのだ。「他の著書も読むべきであったのに、若気の至りだった」とも言っていた。浪人時代のこのエピソードを聞いて、わたしはさとうさんの「詩の核」を見たような気がした。

その後、さとうさんは、小沢昭一さん率いる「芸能座」の研究生になった。演出部に所属し、演出助手をやりながら大道具や小道具もやっていた。研究生の合宿で、小沢昭一さんの前で余興をやらなけらばならなかったときに、さとうさんは西脇順三郎さんの詩「旅人かえらず」を朗読した。小沢さんは、さとうさんの詩の朗読をしっかり受け止めて聞いてくれたという。劇団にいても詩を手放さなかったさとうさん。やはり生来の詩人だと思った。

少年時代、さとうさんは雲ばかり見ていたという話は以前に聞いたことがあった。その視線は今も変わらず、日々、フェイスブックにポストされる写真からも知ることができる。

さとうさんには独特の視線や触手がある。

最新詩集『貨幣について』(2018年・書肆山田)刊行に向けて書いている段階で、考えを煮詰めていたとき、疲労とストレスがあいまって移動中の新幹線から降り熱海駅のホームで倒れてしまったときのエピソードが強く印象に残った。病院に救急搬送され病院の窓から外を見たとき「すごいものを見ちゃった」と感じたという。搬送された熱海の病院は片側が海に面した断崖絶壁の上に建っていた。さとうさんは倒れたとき血圧は上が220まで上昇していたらしい。この状況で病院の窓から絶壁を見てしまったさとうさんは、自身の状況を直感として把握し受けとめたのだろう。こういうとき、人は、人生のメタファとしてさらに言葉を続けて言いつのってしまうものだ。あるいは、わたしのように、ぼーっと生きている人間だったら「やれやれ、酷い目にあったものだ。ようやく家に帰れるわい」「今日は天気がよくて景色が良く見えるな、病院に搬送されるなんてなんてこった」、「なんだ、この病院、こんな崖っぷちに建っていたのかー」など、仕事帰りに病院に救急搬送されてしまった不幸をまずぼやきたくなるだろうし、無事であったがゆえに徒労感でいっぱいになってしまうものだ。あくまでも自分の経験と比較しての感想だけど。しかし、さとうさんは一言「すごいものを見ちゃった」と言ったのだ。わたしは、そこがすごいと感じだのだ。

ちなみに、詩集『貨幣について』の連作を執筆中、実際に千円札を燃やしてみようとしたが、燃やせなかったらしい。もちろん一万円札も。
十分に過激である。貨幣とは、かくも強靭な存在なものなのかと複雑な感慨を覚えたわたしである。

さとうさんの直感的で濁りのない視線は詩だけでなく芸術全般におよび、主催する「浜風文庫」には、詩人だけでなく画家、写真家など幅広く作品が掲載されている。この視線の行方は際立っていると感じている。

その直感的な視線と生来の寡黙さは、さとうさんの詩にもうまい具合に作用しているように思う。

さとうさんは、新日本文学の詩の講座で鈴木志郎康さんに出会い、その後の詩集出版に繋がる詩を書き始めた。さとうさんに影響を与えた詩人は鈴木志郎康さんの他に西脇順三郎さんがいた。つい最近は、谷川俊太郎さんの『はだか』を読んで衝撃を覚えたとのこと。この三人の詩人の詩、そしてご自身のデビュー詩集『サハラ、揺れる竹林』から「マイルドセブン」、『はなとゆめ』から「地上の楽園」、『貨幣について』から「19.貨幣も焦げるんだろう」を朗読した。30年以上前の初期の作品「マイルドセブン」はあまり読みたくなさそうだったが、主催者で司会の松田朋春さんにリクエストされて大いに照れながら朗読された。これを聞いた人はとても感銘を受けたようで、その後の二次会の席でも話題になった。
とても自然で胸に染み入ってくるような朗読だった。

今回、わたしは、「地上の楽園」に改めて注目したのでぜひこの場を借りて紹介したい。

 
 

地上の楽園

 

息を吐き
息を吸う

息を

吐き

息を
吸う

気づいたら
息してました

気づいたら息してました
生まれていました

わかりません

わたしわかりません
この世のルールがわかりません

モコと冬の公園を歩きました
モコの金色の毛が朝日に光りました

いまは
言えないけど
いつかきっと話そうと思いました

モコ
モコ

なにも決定されていないところから世界が始まるんだというビジョンは

いつか伝えたい
いつかキミに伝えたい

息を
吐き

息を
吸う

息を吐き
息を吸う

モコと冬の公園を歩きました
柚子入りの白いチョコレートを食べました

モコの金色の毛が光りました
モコの金色の毛が朝日に光りました

わたしはモコを見ていました

そこにありました
すでにそこにありました

 

 

先に述べた寡黙で直感的な詩人の側面がここにも表れている。
「息を吐き/息を吸う」というリフレインに始まり「気づいたら/息してました」と書くあたり。まるで世界を初めてみたかのような驚きを感じる。そう、「すごいものみちゃった」は初めて世界を見た人の根源的な発語のようなのだ。だから、日ごろ情報まみれのわたしたちは、その新鮮な発語を聞いて驚くのだ。「わたしわかりません/この世のルールがわかりません」も、なんと清冽な行だろう。「何も決定していないところから世界がはじまる」まで読んで、なるほど、とわたしたちは改めて詩人によって気づかされるのである。確かにどんな瞬間も厳密に言えば「何も決定していない」ところから始まっているのではないか。最後の「そこにありました/すでにそこにありました」は、愛犬モコの金色に光る毛の存在を通して、詩人の希求する決定された「ビジョン」をそこに発見したということだろうか。
改行や細かく分けられた連の間からも、さまざまな想いが生まれ、読者に考える空間としての猶予を与えてくれる。深い世界観を感じると同時に切迫した言葉の行から切ない感情が湧き上がってくる。もう一度読み返したいという気持ちにさせてくれる。

余剰時間の多くをスマホに奪われつつある今日、わたしたちがじっくり詩を味わう時間は明らかに減っている。これはわたしの個人的な思い込みだが、わたしは詩を常に傍らに置いて繰り返し楽しみたい。生活に疲弊したとき、ふいに空白の時間ができたとき、詩を繰り返し読むことで、ふっとその詩の世界に入り込み現実の自分とは違う世界や湧き上がる想いを楽しみたい。わたしにとって、詩集は書物というより大切な宝箱のような存在だ。宝箱を開けたときのような豊かできらきらする時間を、さとうさんの詩は与えてくれるような気がする。さとうさんの詩は、時間に追われる忙しい日常からふと距離を置いて読むことをお勧めしたい。

さて、この7月26日(金)は、詩人に限らず写真家や画家の方々も集まっていてさとうさんの幅広い交友関係に改めて驚いた。わたしは、詩人のイベントでこれほど幅広い分野の人々が集まっているのを初めて見た。

実は、『サハラ、揺れる竹林』が発売されてすぐに、わたしも購入した一人である。「~するの」という語尾の扱い方がとても新鮮で影響を受けた。そのさとう三千魚さんと、30年後にお会いし一緒に詩の合評をしたり、さとうさん主催のウエブサイト「浜風文庫」でお世話になっているという幸せな出会いにとても感謝している。

 

 

 

とってもよいことが起きる日

 

長田典子

 
 

つよい北風がふいて
ドアは
たすけてたすけてたすけて
と言いながら
閉まった

たすけ
てた
すけて

たすけくん
出た ドアから
すけて
とうめいにんげん
出た

ドアは閉じて開いた
はろはろはろはろはろー
と言いながら
たすけくん
ドアを
ぱたりぱたりぱたりした
音だけがした
たすけくん
だれも気がつかない

たすけくん
てけすたてけすたてけすたこらさっさ
丸テーブルの上にあったお土産のずんだもち
たべた
たすけくん
ずんだもちたべた
ずんだもちのすけになった
もちもちねばねばざらざらする
ぱたりぱたりする
つよいつよい山形だだちゃ豆の
山形ずんだもちのすけになった

つよい風がふいて
山形ずんだもちのすけさん
ドアをぱたりぱたりぱたりして
はろはろはろはろーって
ドアを開けて
てけすたてけすたこらさっさ
丸テーブルに向かって歩いていった
だだちゃ豆色の燕尾服きた紳士の
山形ずんだもちのすけさん
ふかくゆっくり椅子に座った

きょうは
なんの日?

知らない
でも
とってもよいことが起きる日さ

山形ずんだもちのすけ男爵は
てけすたてけすたこら
さっさっさ
あご髭をすぅっとなでたんだぁ