五月のうた

 

原田淳子

 
 

 

夜明け、
ヒナドリたちが瑠璃色の口笛を吹く

樹木の姿のあなたは
となりの光を揺らす

白粥の湯気が陽に輝く
器の曲線がわたしを撫でる

ブラウスに袖を通し
透きとおった歌を着る

猫に時間を告げて
夜までの約束をする

蔦を滑り、花の露をのむ

駅までのまっすぐな道
髪を逆立て、車輪を漕ぐ
雲が青く、高く、膨らんでゆく

太陽の輪のなかを
魚たちが行き交いする

夜道は魚影の群れ
服は潮に濡れている
泥の足跡

貨幣は泥からつくられる
最後の雨のあと
虹といっしょに海へ還してあげよう

遠く
果てない海に浮かんでいるのは
いつかの日の
きみのうた

 
 

<「詩(うた)をひらく」記 >
―5月24日(土)、大磯souiにて

2022年より、友人の野上麻衣さんと、詩の持ち寄り会、「詩をひらく」を始めた。
詩を声にすることで、じぶんのなかに在った言葉が身体から離れ、シャボン玉のように宙に浮いてゆく。
うたは、光のかたちをとり、ころころと、ひらひらと、ひらかれてゆく。
詩をひらく時間、その不思議のなかにいる。
集ったひとの詩が一瞬、触れ合い、また離れて、わらわら、泳いでゆく。

5月24日の土曜日、大磯のギャラリーsouiさんにて、四回目の「詩をひらく」を開催した。
この日は、さとう三千魚さんをお招きし、数名の方が詩を持ち寄り、あるいは聴く身体として参加してくださった。

ひとりひとりの詩が船のように、大磯の海のうえを浮かんでいった。
ひとの声はなんて柔らかな波なのだろうか。

わたしは、近年父が書いたメモから、ふたつの詩をひらいた。

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父に認知症の兆候がみられるようになったのは、三年程前のことだ。物事の整理が疎かになり、記憶が欠け始めていった。
あるとき、荒れた父の机を整理をしていたら、父の角張った字のメモがふと目に留まった。

「ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に」

それは『一握の砂』に収められた石川啄木の歌の一片であった。
弱音を嫌い、常に明るかった父が、こんな傷心の歌を記したことが意外でもあったけれど、父の筆跡にはなにかを残そうとする衝動が感じられ、胸を掴まれた気がした。
もともと父は文学や音楽を愛する青年であった。
戦後の貧しさから小学校はろくに通えず、中学卒業後は市の助成を受け夜間の商業高校に通い、昼は労働、夜は授業の傍ら、図書館で借りていた本を読み漁っていたという。
あるときには貸出冊数が市内でトップとなり、図書館から表彰を受けたこともあると聞いた。
実家には父が集めた図書館の廃棄本が山ほどあり、わたしは幼いころ、父の残した古書を読み漁っていた。
父は卸売業に勤しみ、日夜働いていた。
勤勉な清貧そのものの父から、「蟹工船」という言葉が漏れることが度々あった。
父はふとした光景から、すきな歌詞や短歌、詩の一片を口ずさむことはよくあったが、発見した啄木の歌のメモから、苦学生の頃に彼の労働を支えた文学や音楽が、認知症が進行する父のなかでもまだ生きていることを知った。
中度アルツハイマー型認知症を患い、委縮してしまった父の海馬には、彼の青春に輝いていた、うたや譜が、いまもやさしくぷかぷか浮いているのだ。
そのことにわたしは爽やかに感動し、わたし自身にとっても救いのような気がした。
そしてそのうたの一片は、いまのわたしの胸に新しい労働詩として沁みた。
労働歌というものがあるならば、労働詩というものもあるのだろう。
労働歌がひとが連なるためのもの、コミュニティの連帯を生むものならば、詩はその書いたひと、読んだひと、その個人のもので、孤独であるものに思う。
歌になるまえの、音の分子。

わたしはこの4月から求職中で職業安定所に通っているのもあり、日々、労働(job)と仕事(work)のこと、活動と生産のことを考えている。
ハローワークで、時間と対価に換算された数字ばかり追っていると、生きている時間の計算をしているようで、ますます分からなくなってくる。

一方、わたしは、昨年から定期的に大久保にある「ひかりのうま」というライヴハウスを、体調不良となった店主の支援のため、有志の友人たちとボランティアで手伝っている。
日中の仕事のあと、深夜まで受付やドリンクを作るのは体力的にはしんどいけれど、その場所にやってくるひとたちが、そこに流れる音楽を聴いて、そのひとの背中から羽根が生えるように解放されてゆく姿を目の当たりにすると、なんだか自分自身も解放されてゆく気がした。
そんなふうに、その人が社会的役割を脱ぎ捨てて、純粋な個人に還ることができる音楽、うた、言葉がある場所、そこに来るひとにむけて、わたしは心から「いらっしゃいませ」ということが出来る。
そこには貨幣という対価はまったく発生していないが、ハンナ・アーレントがいう「job(労働)」はこういうものではないかしら、少なくとも、わたしのなかの「労働」というはこういうものだと信じている/ 信じたい。
貨幣に結び付ける「仕事」ではなくても、心の「労働」なしの仕事はあり得ない。
わたしは芸術家でも生産者でもなく、あるいっときの労働を貨幣に替えて生きている労働者だ。
そして、労働と引き替えた何かしらの産物に齧りついて生きている。
米や本や衣服や、わたしの身の回りにあるものすべて、労働の対価だ。
それらには汗と涙だけでなく、わたしの労働の傍らに在った詩/ うたが染み込んでる。
父のそれと似て。

五月の「詩をひらく」では、父の海馬に浮いている詩を想い、そして、さとう三千魚さんの詩集『貨幣について』の返詩として、わたしなりの労働詩をひらいてみた。
そして最後は海へ。

” 貨幣はどこにあるか?” (『貨幣について』)

貨幣は泥から作られる。
貨幣は、ひとの汗と涙の、潮の泥だ。だから海へ還すのだ。
詩/うた の姿で。

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5月24日に集った皆さま、
さとう三千魚さんに、
うた/詩に、
心より感謝いたします

” それゆけ、ポエム!”(鈴木志郎康)

 

文責 原田淳子

 

 

 

薦田 愛 詩集
『そは、ははそはの』

自己否定を内包する叙事詩集

 

長尾高弘

 

 
 

【一】

 英雄伝のようなものだけでなく、時間の経過とともに人間関係が変化していく様を描いた詩も叙事詩と言ってよければ、『そは、ははそはの』は叙事詩集だと言えるだろう。ト書きのような状況説明、内心の声、実際に口にした言葉がそれぞれそういうものですよと明示されないものの(たとえば、発言だからといってほとんどは「」で囲んであったりはしないし、発言者が誰かも書かれておらず、発言者名が書かれていないから一目でここはト書きだとわかるということもない)、注意して読めば明確に区別できる(誰の発言かも含めて)ように自然にミックスされているのはかなりの力技だが、読みながらその区別が気になってくると、これは劇詩に似たものではないかと思えてくる。実際、薦田さんは劇団「燐光群」の戯曲の執筆にも参加されていたのだ。

 もし、この見立てのように一つひとつの詩をある程度独立した存在として立たせつつも、全体でひとつのまとまったドラマを打ち出そうとしているのなら、詩をどのように並べて詩集を構成するかは作者にとって重要な問題になるだろう。ここで巻末の初出一覧を見ると、ページ数でも作品数でも全体の四分の三近くを占める《壱》は二〇一五年一月から翌年一月までコンスタントに十三作書かれてさとう三千魚さんのサイト「浜風文庫」(https://beachwind-lib.net/?cat=25)に掲載されたあと、さらにその翌年の一月までの間に三作書かれていることがわかる。《弐》、《參》を含めてそれ以降の作品が散発的に書かれているところを見ると、少なくとも《壱》の最初の十三作についてはある程度の構想をもとに書かれているのではないかと思うのが自然なところだろう(実際には詩集に収録されているのは十二作だけで、四作目の「卯月、うらはらの」は詩集から外したことを初出記録に注記するのを忘れられたようだ。これからは詩集に合わせて数えることにする)。作品はかならずしも時系列順にはなっていない。最初の「ふたみ、夕暮れの」は三作目の「新宮、そして伊勢の」と同じ旅行の後半だろう。

 しかし、「ふたみ、夕暮れの」には、どうしても最初に入らなければならない理由があると思う。「後記」で作者自身が旅を詩に書いたと言わんばかりのことを書いているが、〈はじめてみると、旅を入り口に、家族の来し方や日常がたちあがる〉とも書いているのを見れば、〈旅を入り口に、家族の来し方や日常〉を書いているのである。実際、詩集を何度も読むとそういう感想を持つ。たしかに、〈旅〉は言葉と現実の世界をつなぐという重要な働きを担っているが、詩集の彩りであって(彩りも重要な役割だが)本題ではないように思われる。

 そのような見方からすると、「ふたみ、夕暮れの」の二連目で二見ヶ浦の夫婦岩から〈めおと〉というキーワードを引き出しているのは意図的なものだと感じられる。冒頭の〈女ふたりで夫婦岩なんてね〉というところがこの詩集で最初のセリフで、これはあとを読むと〈私〉の言葉だということがわかる。そのあとの〈、と〉によって〈私〉のセリフは〈なんてね〉で終わっていることが明示されるとともに、次行の〈鼻をかむ〉で〈私〉のちょっと引いた構えが暗示される。

 その次の行の〈だって〉から〈父つまり夫を送って三十年の母との旅だ〉までの四行は鼻をかむ〈私〉の内心の声だと考えられる。そのあとの〈結婚中退からの十年/めおとって響きに/ちょっとひるんだのは私〉という三行は、〈私〉の状態の説明であって内心の声を写し取ったものではない。そして、この三行によってふたりともに結婚生活は終わってしまっているが、〈母〉は死別という自らの意思と無関係な理由で結婚生活を終えなければならなかったのに対し、〈私〉は〈中退〉しているという違いが短い言葉でさりげなく示されている。初読のときはともかく、二度、三度と読むと、あとの部分で〈母〉が熱烈な恋愛結婚だったことが描かれているのに対し、〈私〉の(ここで話題になっている)結婚生活が簡単に終わってしまったように書かれているので、母と娘で(この時点までの)結婚生活のあり方に大きな違いがあることがくっきりと印象に残る。

 〈仄白くにごった光が絵筆のいっぽんとして/雲を走らせる/夕闇を押し留めて伊勢湾の空は/つがいの岩をみおろしている〉という鮮やかな印象を残す四行の連以降の終盤はこの不在の〈父〉が支配している。ここで〈仄白くにごった光〉という言葉が出てくるので、次の連の〈深夜、あの岩、あの海、あの空の写真をみている/(仄白くにごった光の)〉で言及されている写真は、〈母〉とふたりで夫婦岩を見たそのときの写真だろう。

 その次の〈そう/旅の翌日/これをみて/母の手に一枚のモノクロ写真/え/父だ、父が写っている/その後ろ/あ/めおといわ/夫婦岩だ/おれも行ったんだぞと言ってるみたい、と母〉と始まる最終連はうまいところで、最初の〈そう〉は前の連の〈深夜、〉という一行とともに、〈母〉から写真を見せられたのが、前の連よりも先だということを示している。このように時系列順に並んでいない箇所が多数あるところがこの詩集の作品の特徴で、これは最初に言及した演劇などではたぶんあまり頻繁に見られないところだ(映画、テレビドラマなどの映像作品にはよくあるが)。

 この部分では短い各行が目まぐるしく役割を変える。〈そう/旅の翌日〉は状況説明、〈これをみて〉は〈母〉の発言、〈母の手に一枚のモノクロ写真〉は状況説明(モノクロというところがカラー写真普及前だということを示している)、〈え〉は〈私〉の発言、〈父だ、父が写っている〉は〈私〉が実際に口にしたのではなく内心の声(本当に口にしたのなら、〈あ、パパが写っている〉というような表現になっていたはずで、〈父〉とは言わないだろう。なお、〈パパ〉という言葉が出てくるのはずっとあとである)、〈その後ろ〉は〈母〉の発言、〈あ/めおといわ〉は〈私〉の発言、〈夫婦岩だ〉は〈私〉の内心の声(この二行目の〈夫婦岩だ〉は内心の声か実際に発声された言葉かは微妙だが、どうしてもどちらかに確定させなければならない理由はないと思う。なお、このように読みが同じだが表記が異なる二行が続く形はこのあとでも散見される)、〈おれも行ったんだぞと言ってるみたい、と母〉の行は〈母〉の発言であることが明示されていて、そこまでのスピード感のある行渡りに休止符を入れている。

 最終連はあと五行だ。〈旅行前にしていた整理の/続きをとアルバムを開いたら〉は〈母〉の発言の続きである。ここから、〈母〉も〈父〉が写った写真に気づいたのは旅行から帰ってきてからだということがわかる。そして〈開いたら〉で行が終わっているので(たまたまページもここで終わっている)〈母〉の発言がまだ続くのかと思うと、最後の三行、〈いったいいつの社員旅行だったのか/まっすぐな目を向け/モノクロの父は〉は〈私〉の内心の声である(この詩集の作品はここでの〈母〉の発言のように省略がかなりある)。この連の〈社員旅行〉と〈モノクロ〉という言葉は経済成長を目指していた一九六〇年代を想起させるとともに、最初の十二作の影の主役が最終行の〈父〉であることも示している。

 それにしても、何度かこの詩を読んで二枚の写真の関係に確信が持てるようになると、〈仄白くにごった光〉が天上の〈父〉の視線のように思えてくる。そして、〈波に洗われ続ける岩の冷たさ/注連を張るだけの隔たり/おもいもしなかった感覚がたちのぼる〉の三行に、働きづめだった(ということが十一作目で明かされる)〈父〉の姿と〈仲のいい夫婦〉(十二作目における表現)だった両親を見ていた〈子〉の視線を感じる。では、〈父〉が〈みおろしている〉〈つがいの岩〉の〈つがい〉は誰と誰なのだろうか。気を抜いているとすらすらと読めてしまうが、この冒頭の詩は非常に密度が濃い。最初から母と子の微妙な関係、母と今はいない父の濃密な関係を簡潔な言葉で説得力豊かに示している。

 二作目以降、連載最後の四連作の手前まではこの一作目と比べればゆったりとしている。行数が増えているし、会話の部分が増えていく。二作目の「河津、川べりの」はおそらく〈母〉との旅行が始まったきっかけで、〈私〉は桜が好きな〈母〉が〈あとどんなにがんばっても二十回くらいしか見られないものね〉と言うのを聞いて、まだ見ていない河津の桜を見に行くことを〈母〉に提案する(この部分には思い切って旅に誘うという感じが出ており、習慣化した旅で次の行き先を提案するのとは勢いが違うので、そもそもの始まりだと思われる)。〈母〉は〈私〉からもらった桜のペンダントをつけてきて〈私〉を喜ばせる。一般に親子でも子が大人になったら互いにそれなりに気を遣わなければうまくいかない(そして相手が本当は何を考えているのかよくわからない)ものだが、そういう微妙な距離感をうまく表現していると思う。しかし、ここではまだ互いに相手を気遣っている部分が前面に出ていて、本当に緊張が走るようなことはない。

 ところが、三作目からは三連続でそれぞれが失敗を犯し、たとえば三作目(先ほども触れたように、一作目の二見行きの前後に起きたことを描いていると思われる)では〈母〉の気が急いている状態で〈きゅうっと狭くなる/通路 あなたへの〉というようなことが起きる(でも終わりの方で〈やっぱりね、親子だね〉と言えるときも来る)。このようにして、ほんわりと温かくまとめた二作目よりも少しずつ微妙なところに触れて行くようになる。

 五作目の「湯葉、固ゆでの」では、初めてどこかに行くのではなく都内の自宅の近所での移動の話になるが、〈気がついたら亡くなった父のポジションにおさまりかえって〉という重要な一行がある。ここは一作目からしばらく出番のなかった〈父〉が久しぶりに顔を出す部分だが、〈父〉が本格的に登場するのはもっとあとだ。

 六作目の「光、長崎の」と八作目の「窓、犬山の」はこの詩集のなかでもっとも純粋に旅行を描いている。そして、信仰はないが教会に惹かれ、家族以外の人々に思いを致すという共通点がある。家族の外への視線が入ることによって詩集のスケールが大きくなっている。間にはさまれた七作目の「そうめん、極太の」は「湯葉、固ゆでの」以来の東京の話だが、〈父〉と〈母〉の故郷である四国が話題になる。ただし、四国からやってくるのは〈母〉の方の親戚である。

 そして、九作目の「海、尾道の」からは〈父〉と〈母〉の故郷である四国への旅を四作に渡って連続的に取り上げ、この詩集の本題であると思われる〈家族の来し方や日常〉がその旅の間に入り込んでくる(それまでの旅は作品が書かれた年よりも前の年に行かれたものだと思うが、ここからは二〇一五年の旅行なのではないかと思う)。しかし、〈地図と映画でしか知らない町へ行く/初めての/私にとって 母にとっても/尾道〉という〈海、尾道の〉の冒頭は、新たな旅の話が続くのだろうと読者を油断させる効果がある。一行目に〈知らない〉、二行目に〈初めての〉とあって、三行目に〈母にとっても〉というのだから、過去の話に踏み込んでいくとは予想できない。四行目の〈尾道〉で初めてあれ四国に近いぞと思うが、でも〈母〉さえ行ったことがないんだよねと思ってしまうのである。

 何度か読むと、このフレーズの順序はうまいなと思う。いかにも現代詩という小難しさはないが、散文では決してこのような書き方はしない。散文で書けば、たとえば〈私にとっても母にとっても地図と映画でしか知らない尾道という町に初めて行く〉というような感じだろう。これでは詩にならない。〈私にとって 母にとっても〉というのがまた絶妙で、私が行ったことがないのは当然として母でさえ行ったことがないのだと言っているように感じる。〈海にのぞむ町〉という尾道の形容詞としてもっとも月並みな言葉を使った上で(これも読者を油断させる)、六行目で〈純子さん〉という読者にとって未知の人の名前が出てくる。

 その〈純子さん〉については、それまでの旅のプロセスについて十二行に渡って少々長めに語っている第二連を挟んで、第三連の三行目になって初めて〈母〉の〈洋裁学校の同級生〉だということが明かされる。〈母〉が洋裁学校に通い、結婚後、そして〈父〉の死後も洋裁を続けていたことは連載十二作のあとに書かれた「いと、はじまりの」で明かされるが、〈母〉の洋裁はここが初出だ。長い第三連の最後の六行、〈話は同級生たちのこと/純子さんの娘さんたちお孫さんたちのこと/ほんとうのところは/孫の話ができなくて寂しいのだろうと/母の内心を想像するのはこんな時/聞いてみたことはないけれど〉は記憶に残る。

 そして長い第六連の最後の十一行がこの詩の肝である。そのなかでも〈大学生だったそのひとのひとこと/ダンスなんかする女の子はきらいだと/それでやめてしまうのだ母はダンスを/出会ったばかりのひとが/そんなふうに言ったからと〉という部分がとりわけ強烈な印象を残す。〈母〉の〈父〉に対する思いは並大抵のものではないということを強く感じさせる。最初に詩集を読み通したときでも、そういう箇所があったことが(どの詩のなかだったかは忘れてしまっても)記憶に残る。

 次の連にも、〈ママの清楚なところがいいと/言っていたひとと母とは銀婚式を迎えられなかった/三十三回忌も終えたのよと母〉という巧みな行が含まれている。前後がうまく語られているので、引用の二行目と三行目の間にはちょっと隙間があるように感じられるが、結婚生活の方がその後の生活よりも短いことがここでさり気なく示されている。

 そして最後に〈明日/私たちは海を渡るバスに乗る/父の郷里へ向かうのだ〉という三行があって、次の作品にそのままつながっていく。その「穴子、瀬戸内の」では、「湯葉、固ゆでの」で出てきた〈母は生ものと肉に加えて鰻も好まない/ただし穴子は好む〉という二行が効いてくる。作品のなかでお酒がまわってきたあたりで、〈うなぎなんて食べられないと/もっぱら穴子派だった父〉という二行が出てくるのだ。さらに最初の連を締めくくる〈せっかくだから穴子食べよう/東京と違って小ぶりなのをね/蒸すのじゃなく焼いたのをさ〉という三行と〈うなぎなんて〉の連を締めくくる〈父は/東京の穴子も食べていた/蒸して甘がらいたれを塗ったのを〉が響き合う。〈父〉(〈母〉にも共通してあると思うが)の東京に対するアンビバレントな思いが穴子で表される。もう〈家族の来し方や日常〉が全開になっている。この作品では〈パパ〉という単語が初めて登場する。家族間で使う言葉は当然〈父〉ではないが、この家では〈お父さん〉でもなく〈パパ〉だったらしいと想像させられる。家族間で使われる言葉が出てくることにより、〈パパ〉がいた頃の生活が臨場感のある形で読者にも迫ってくる。

 「穴子、瀬戸内の」は〈バスは/伯方島から大島へ/さしかかろうとしている〉という三行で終わり、次の作品も引き続きこの旅のことが描かれると読者は予想するわけだが、その次の「しまなみ、そして川口の」は〈渡る/渡るということ/向こうがわへおもむくということを/かんがえていた〉という四行から成る抽象的、思念的な一連で始まる。それでも、前作は尾道から瀬戸内海の島々を経由して今治に向かおうとしているのだからと、そちらのシーンを予想していると、次の連で出てくるのは〈荒川大橋〉や〈川口〉という関東の地名である。しばらく読むうちに〈三十年以上〉前に〈父〉と〈母〉と〈私〉が三人で暮らしていた町が話題になっているのだということがわかる。そこで出てくるのは〈工場だったところはたいてい/配送センターみたいなものになっている〉とか、〈あの社宅の一画はまるっきり跡形なくて〉といったものであり、きわめつけは〈今はもうない会社に勤めていた父〉という言葉で、読者も喪失感を共有することになる。

 尾道からスタートした旅のことは第三連でようやく〈ふた月前〉のこととして言及される。ここでもバスで橋を〈渡〉っている。四連目の冒頭、一行目から四行目も鮮やかな描写だが、ポイントは五行目から八行目だろう。〈領地をわかつ樽流し〉というのは備前(現在の岡山県)と讃岐(香川県)の境界が曖昧だったので、樽を流して樽がたどった道筋を境界線にしようと備前側の庄屋が提案したら、予想外に備前側を流れてしまって、ほとんどの島を讃岐に取られてしまったという伝説に由来しているらしい。人間が漁業権でもめたのである。だから、〈真鯛も章魚も穴子もでべらがれいも/波をきりわける境界線なんて知らない〉という二行が続く。〈境界線〉は〈渡る〉と〈向こうがわ〉につながる言葉だ。そして〈向こうがわ〉は異界であり、危険な場所である。

 しかし、〈二十三歳の父〉と〈二十二歳の母〉は〈向こうがわ〉、すなわち〈東京〉に渡っていった。それは異界への恐怖ではなく、夢と期待があったからだろう。本四連絡橋などなかったのだから、橋を渡るよりも大変な〈船〉で渡って。そこまで思い切って行ったのに、目的の〈東京〉には落ち着けず、〈東京のへりを滑り落ちたところ〉で暮らすことになった。そして〈父〉は〈二十年あまりを働きづめに働〉いて〈たおれ〉、〈子〉は〈カロウシという言葉がなかった頃/あれを労災と言わないなら何を労災と呼ぶのかと/心をとがらせ〉た。〈おれは悔いはないが/お前たちがふびんだと言い置くくらいなら/他に途はなかったのか〉というところでは〈子〉、すなわち〈私〉は珍しく〈父〉に厳しい批判を投げつけている。ここは《壱》のクライマックスのひとつだ。

 そして、連載の最終回となった「ふとん、あの家の」に続く。一方で尾道からの旅の話は続いているが、〈父〉が亡くなったあとに〈私〉が〈父〉の故郷川之江に行ったときの母との会話、〈父〉の闘病記を書いた母のエピソード(拙文の冒頭でも触れた〈恋愛結婚だった仲のいい夫婦だった〉という行で始まり〈あとがきに記した生まれ変わってもと/うまれかわってもわたしはと〉という二行で終わるこの連は鮮烈な印象を残す)、〈私〉が子どもだった頃のエピソードが入り、それらを〈ねむり〉という糸でつないでいるのは見事な技で、前作の怒りを鎮めて幸せな家族の記憶で終わる。たぶん、これが当初の構想における締めくくりだったのだろう。

 しかし、作者はその締めくくりに不満を感じたようだ。ここで話が終わってしまったら、〈母〉は受け身の人、過去をひたすら懐かしむ人で終わってしまうが、そうではないということを打ち出しているという印象を残す三作が続く。

 連作の連載が終わったあと、五ヶ月近くのちに発表された「いと、はじまりの」は、〈母〉が〈父〉と出会う前から得意にしていて長く生業とした洋裁のことを描いている。〈十年二十年着ても傷まない出来栄えも/あたりまえという矜持〉を持てるほどの腕前で〈自分のと娘のと/二着のウェディングドレスを縫った〉という。最後に引用されている薦田英子さんの文章(「ふとん、あの家の」で言及された〈父〉の闘病記だと思われるもの)、特に〈気取って、ミシンの上に立ったわたしに、あなたは照れもせず無邪気に歓声をあげました。/「ワァー、ぼくの花嫁さん!」/ いいながら、わたしを軽々と持ち上げて椅子からおろしました〉という最後の部分は印象的で、詩集を読み終わったあとも記憶に残る。

 だが、それでも足りなかったのか、《壱》の最後に置かれた「ふたつの世界を股にかけて母は」では、白内障の手術後、〈世界が変わったみたい!〉という〈母〉のメールが引用されている。そのなかの〈手術した方をつむると、今まで当たり前だった日常がセピア色に見えるのよ〉という言葉を受けて〈ふたつの時間ふたつの世界に股をかけて踏みしめる足もと〉という詩行が〈母〉の新たな未来を寿ぐように続く。

 でも、まだ作者には不満が残っていたようだ。このふたつの作品の間にはさまれた「はり、まぼろしの」は、「いと、はじまりの」補遺ということから「ふたつの世界を股にかけて母は」の前に置かれているが、《壱》のなかで最後に発表され、おそらく最後に書かれたものだと思われる。「いと、はじまりの」で〈二本の糸/二本の針が行き交って縫いあげてゆく〉と書いたことに対して、〈母〉にそれは間違いで〈針は一本〉だと指摘されたために〈それぞれ針に糸を通したふたりが/出逢って一緒に布を縫ってゆくのではなく/ひとりが糸をとおした一本の針で/もう一本の糸をたぐり寄せ/縫いあげてゆくのね〉ということになり、〈もういっぽんの糸を迎えに〉いくのは〈母の手〉だから、〈母と出逢ってふたり物語を仕立てあげてゆく父は/何を手にして、どこに立てばいいのか〉ということになってしまう。〈ひもときはじめた物語の続きをみうしない私は/今日踏み出す足を決めかねている〉という二行で終わっているのは、そのためだと言っているかのようだが、〈物語の続きをみうしな〉ったことにはもっと大きな理由があるように予感される。

 
 

【二】

 皮肉にも、この一冊が本としてまとめられたのは、《壱》を書き始めたときには作者自身が想像もしていなかったことが起きたからなのだろう。《弐》、《參》にはそれが書かれている。ただし、〈重ねかさねて二年〉(「訪ない、かれの」)とか〈つきひは一年を/さかのぼる〉、〈三人で暮らそうと/春先の旅も一緒だった〉(「ばっこばっこ、ははは」)といった記述から計算すると、「訪ない、かれの」の冒頭の〈その年正月三日〉、つまり〈母〉と〈彼〉を引き合わせた食事会は遅くとも二〇一六年であり、その後の記述から考えれば二〇一五年以前でもないだろう(二〇一五年だったら〈重ねかさねて三年〉でなければおかしい)。二〇一六年の〈正月三日〉は毎月連載された最初の十三作の最後を飾る「ふとん、あの家の」の発表日でもある。とすると、そのときにはまだ「いと、はじまりの」以下の三作は書かれていない。そして、「はり、まぼろしの」が二〇一六年発表の「いと、はじまりの」を〈母〉が読んだ前提で書かれていて、三作すべてに〈傘寿〉または〈八十歳〉という言葉が含まれているので、この三作の現在時は二〇一六年(「はり、まぼろしの」は二〇一七年初めもあり得る)であることは間違いない(さらに、「ばっこばっこ、ははは」には、二〇一九年の時点で〈齢八十三〉、その前年五月に〈八十二歳〉だと書かれている)。

 しかし、「訪ない、かれの」の冒頭に描かれている二〇一六年は、《壱》の最後の三作にある〈母〉を持ち上げるという空気とはまったく逆の空気が流れている。実際、正月三日のできごとについても〈野末の草むらをそよと微かに揺らす風のほんの兆し〉という不穏な一行で締めくくられている。もっとも、「訪ない、かれの」は書き下ろしであり、早くても二〇一八年の事件のあと、おそらくは《參》の「ものぐるひ」よりもあとに書かれていると考えられるので(二〇一八年に「浜風文庫」に掲載された薦田さんの作品は、引っ越しのことを描いた俳句の連作だけである。なお、巻末の「略歴」には〈二〇一八年、関西に居を移す〉とある)、二〇一六年時点とは違う意識で書かれているのは当然だろう。

 それにしても、〈会わせたい人がいると母に話し〉た割に〈にこやかな母と物腰やわらかなユウキ〉の〈間でひとり冷や汗かく私〉の様子は奇妙な感じがする。普通、結婚を意識しているという相手を親に引き合わせるときには、双方が相手を気に入ってくれるかどうかという不安はあっても、結婚に向かって一歩前進するという高揚感の方が強いのではないだろうか。しかし、〈いえまじめなのはありがたいけれど/真っこう正面きりましたね〉という〈私〉にはちょっと迷惑そうな風情さえ感じられる。引き合わせの動機が〈離婚歴ある娘すなわち私の帰宅が深夜におよぶと/心配かつ不審にかられる彼女から/メールがひんびん届いたりするから〉だというのだから、どちらかというと〈母〉対策が主であり、ひょっとすると〈私〉にはまだ〈ユウキ〉と結婚するという明確な意思はなかったのかもしれないとさえ思ってしまう。

 しかし、〈気がついたら亡くなった父のポジションにおさまりかえっ〉た(「湯葉、固ゆでの」)とか〈父亡きあと三十数年を何とか乗り切った/長女じゃなく長男みたいと言われる子〉(「ふたつの世界を股にかけて母は」)というように描かれてきた〈私〉の姿、その〈父〉と〈恋愛結婚だった仲のいい夫婦だった〉のに早く死に別れ、〈生まれ変わってもと/うまれかわってもわたしは〉と〈あとがきに記した〉(いずれも「ふとん、あの家の」)という〈母〉の姿を見てきた読者は、このような〈私〉の様子からも、〈ユウキ〉と〈母〉が〈私〉をめぐって競い合うとか対立するといった今後を予想せざるを得ない。〈母〉にとって〈私〉が〈父〉の完全な代理になるわけはないだろうが、〈私〉が目の前からいなくなれば〈母〉は深い喪失感を味わうことになるだろう。もっとも、〈ユウキ〉と〈母〉にそういう競合、対立の意識があるなどとは決して書かれていない。だからそんな対立があるだろうというのは読者の勝手な想像であり、そういう読者はどちらにもそんな意識はないのかもしれないとも思わざるを得ない。

 その後の〈ユウキ〉と〈母〉の動きは対照的に描かれる。〈ユウキ〉は〈ほどなく「遊びに来」〉て、〈女所帯〉ではそれまでできなかったことをちゃっちゃと片付ける。〈結婚を前提におつきあいさせていただいてい〉る娘と義母になるかもしれない人とではもちろん接し方が違うが、もっとも大切な相手の身内として〈母〉のことも大切にする(それは、むしろ次の「まじなふ、ははは」で詳細に描かれるのだが)。〈私〉との距離はどんどん詰めてくるが、決して〈母〉に敵意を示すようなことはなく、二〇一八年の事件が起きるまでは〈三人で暮ら〉すという前提を崩さない。そのように描かれている。

 一方の〈母〉は〈初対面のあと母から/興奮ぎみのメールがつづいた/デモドリの娘の新しい交際がそんなにも嬉しかったのか/あとに/むっつり黙り込む日があり/かとおもえば/ふたりでとる朝食のとちゅう言葉尻がとがって諍いになり/あんたは性格が変わってこわいとなじるなり席をたち/やむなく私は会社へ出かけ/夜ふけて帰ると部屋にこもっていて/食卓が席をたった朝のままの日もあり〉というように不安定化し、自壊していくように描かれる。たぶん、「ふたつの世界を股にかけて母は」や「はり、まぼろしの」と同じ時期にここに描かれたことも起きていたのだろう。

 そして、「訪ない、かれの」は〈迷い〉で終わる。その〈迷い〉は〈私と/母とユウキと三人/いっしょに暮らすならどこ〉かについてのことのように書かれているが、それだけだろうか。詩にも〈もろもろ迷うちからが/尽きようとしていた〉という二行があって〈もろもろ〉という言葉が何気なく入り込んでいる。〈ユウキ〉と〈母〉の競合を予想する読者には、〈きみはそれじゃあいつまでたっても決めない/決められないよとユウキ〉が決断(引っ越し先のだが)を迫っていることが今後の波乱を予告しているように感じられる。

 次の「まじなふ、ははは」も書き下ろしだが、〈あの子/あなたに気を遣いすぎて身体をこわすわよ/口にしたのだった/まるで/幼い姫の誕生を祝う席に遅れて現われた/年老いた魔女の/呪いの言葉のように〉という冒頭からまさに波乱含みだ。〈まじなふ〉は「呪う」という意味で使われているが、「(相手のために)祈る」という意味もあるので、最初はどちらなのかがわからない。〈あの子〉と〈あなた〉が〈私〉と〈かれ〉のどちらを指しているのかも、五行目まで進まないとはっきりしない。この最初の不安定感と〈年老いた魔女の/呪いの言葉〉という言葉の強さが、〈あの子/あなたに気を遣いすぎて身体をこわすわよ〉というぼんやり読んでいれば見過ごしてしまいそうな言葉の持つ意味を読者の脳に刻みつけてくる。

 二連目からはその言葉に至るまでの経緯が九ページ近くに渡って語られる。しかも、この二連目は三連目からの伊豆のエピソードが五ページほど続いたあとの発言であり、その五ページ先で〈話のタネだ/ほんとうに行くとは思わなかった〉という言葉を添えた形で繰り返される。つまり、二重に時系列のずれがあるわけだ。

 驚いたことに一泊の伊豆旅行のあと、大手町から九段下まで東西線に乗って千鳥ヶ淵に花見に行ったのである。この千鳥ヶ淵行きがすごい〈ひとごみ〉でいかに疲れることだったかが四ページほど語られたところで、〈あなたに気を遣いすぎて〉の種明かしがある。〈だいじょうぶ/声かけたのだ/彼に/人ごみに出かけることなどほとんどないのに/ただごとではない/おしくらまんじゅうに/つかれてはいないかと/つかれているこころが/言わせた/だいじょうぶだよと/言ったのだろうか/彼は/そのあとのことだ//あの子/あなたに気を遣いすぎて身体をこわすわよ〉。〈彼〉が〈行列もひとごみも苦手〉なことはそれまでに二度も書かれている。周到だ。そして、この九ページの間に読者の記憶に残っているのは、〈ユウキ〉がいかに〈母〉のために気を遣ってきたかである。にもかかわらず、〈はは、は〉〈そうと気づきもせずに〉〈わるい予言のように〉(詩ではこの三行はまったく逆の順序で並んでいる)、その言葉を口にしてしまったのである。〈私〉の〈はは〉に対する怒りが並大抵のものではないことは、〈すべり込む呪いの言葉を洗い流そうと/夜半/ふたつの耳にシャワーをあてる〉という最後の三行がよく表している。

 ここまでを俯瞰的に見ると、「訪ない、かれの」で示された〈母〉と〈彼〉の潜在的な競合関係が、「まじなふ、ははは」で顕在化したというように感じられる。〈母とユウキと三人/いっしょに暮らす〉(「訪い、かれの」)というのは、どちらか片方を選ぶことができない〈私〉に合わせてほかのふたりが動いてきたということだ。〈私〉との関係を維持したければ、〈母〉と〈ユウキ〉は潜在的競合関係をあえて無視して三人の暮らしを目指さなければならない。「訪ない、かれの」と「まじなふ、ははは」を通じて〈ユウキ〉はそれをしっかりと実行してきたが、〈母〉はすでに「訪ない、かれの」の時点で危うくなっており、「まじなふ、ははは」ではついにうっかり〈幼い姫の誕生を祝う席に遅れて現われた/年老いた魔女の/呪いの言葉〉を吐いてしまった。しかし、〈あの子/あなたに気を遣いすぎて身体をこわすわよ〉という言葉は、〈母〉の意図とは裏腹に、〈あの子〉=〈ユウキ〉、〈あなた〉=〈母〉だということを〈私〉に教えたのだ。そして〈母〉との共存はあり得ず、どちらを選ぶかを迷っている余裕はないことも(さらに、このあとの三篇を読めばわかるように、〈私〉は〈あの子〉とは〈ユウキ〉以上に〈私〉だと感じていたはずだ)。

 《弐》の残る二作「はくり、ひとの」、「ばっこばっこ、ははは」と《參》の唯一の作品「ものぐるひ」は、同じ日の同じできごとを中心として成り立っている。「はくり、ひとの」は見開き二ページでこの詩集のなかでもっとも短く、「ばっこばっこ、ははは」は十四ページ、そして「ものぐるひ」は二十二ページでこの詩集のなかで群を抜いてもっとも長く、特異な作品でもある。こちらに書かれていることがあちらには書かれていないということがあるので、三作のなかの重なる箇所、重ならない箇所をつなぎ合わせて読まないとわからない部分がある。

 たとえば、「はくり、ひとの」では〈いさかうことがあって〉としか書かれていないこと(そして、「ばっこばっこ、ははは」では触れられていないこと)は、「ものぐるひ」を読むと〈「テレビつけたるままならば彼のひと/いたう疲るるによって/み終へたまはば消さるるか/おのが部屋にてご覧じたまへ」〉という〈私〉の言葉に〈母〉が〈口あらがひを責〉めたことだということがわかる。そして、「はくり、ひとの」では〈びんせんというもの/しょくたく/かきおかれた文字があって」、「ばっこばっこ、ははは」では〈書き置き四行〉としか書かれていなかったものが、「ものぐるひ」では〈「さらば かたじけなう ゆるしてたべ 幸あれかし」〉と擬古文に書き直された形で出ている(「浜風文庫」に残っている改稿前の「ものぐるひ」(https://beachwind-lib.net/?p=25821)には〈さよならありがとうごめんねしあわせに〉という現代文の形が含まれている)。

 しかし、もっと注目すべきは、「はくり、ひとの」で〈泣いてただただわびるつねの習いもとじこめ〉、「ものぐるひ」で〈あさましやな/口あらがひを責むれば/泣き泣き詫ぶる習ひのあの子が/御免ごめん許してたべと度重ぬるさまの/うるさうて かまびすしうて/おぼへず/あなかまつと聲荒らぐるほど/執念くて/かかるあの子が/詫び言せぬ/詫ぶることばをのみこむがごと/睨めつくる/おそろしや 怖やの〉と書かれていることだろう。どちらにも〈習い〉という言葉があり、その日には〈習い〉に反することをしたというのだから、その日まではそういう絶対服従が〈習い〉になっていたのである。《壱》からはそのような〈習い〉があることはとても想像がつかなかったので、読者としてはびっくりだ(そうと知ってみると、「河津、川べりの」の〈だったら/だったら〉の二行で始まる連や、「穴子、瀬戸内の」の〈旅のミッションその二〉あたりにその兆候があったのかとも思うが)。

 よく読むと、「ばっこばっこ、ははは」にも、〈あんたにわるい/言われれば打ち消す/くりかえしだった〉という箇所がある。「〈あんたにわるい〉と〈言われれば〉自分の言い分を〈打ち消す〉〈習い〉だった」と解釈すればよいのだろう。ここには〈泣いてただただわびる〉とか〈泣き泣き詫ぶる〉という言葉が入っていない分衝撃度は低いが、同じ〈習い〉のことを言っていることがわかる。そして、そのような〈習い〉の原因または理由と思われるものは逆に「ばっこばっこ、ははは」にしか書かれていない。

 

  そっぽむきたい
  むいてもいいと
  気づかなかった
  ずっと
  兄弟姉妹なく父なくなり
  「仲よく」「大事に」と
  言われた日から三十六年

  あかるみにでてしまえばもう
  つつみ隠すことは難しい
  (以下略)

 

 この詩集の本当のクライマックスはここだろう。〈「仲よく」「大事に」〉という言葉がマインドコントロールのように〈私〉を〈三十六年〉も縛ってきたのだ。しかし、〈そっぽむきたい/むいてもいいと/気づ〉いてしまった。〈あかるみにでてしまえばもう/つつみ隠すことは難しい〉とはずいぶん抑えた控え目な言い方だと思うが、〈気づ〉く前とあととでは革命が起きたぐらい、世界がひっくり返ったぐらいの違いがある。《壱》を書き始めたときには作者も想定していなかったことが起きて、それが詩集全体を支配している。

 〈あんたにわるい〉の直前に〈ごっこ/ごっこだったのか/ずっと仲のいい親子に/見えたろう思われたろう/思っていた/うっかり/水をむければ応えるひとを/もてなすのが習いになっていた〉という八行があるが、〈もてなす〉というのは《壱》のもとになった旅のことだろう(後記にも、旅の提案について〈水を向けると母も応じた〉とある)。実際、《壱》を書き出したときにはそんな意識はなかったから《壱》を書けたわけだが、ここでは〈うっかり〉という言葉で《壱》を全否定している。しかし、《壱》の旅の記録があれだけしっかり書かれていなければ、ここの〈うっかり〉の重さは読者には伝わらないだろう。そういう意味で、《壱》はえらく長い前置きだが必要不可欠なのだ(前置きなどと書いてしまったが、拙文の前半で縷々書いてきたように、《壱》だけでも優れた詩集として成立し得るものの、この〈気づ〉きを知るとそれすらも前置きに見えてしまうという意味である)。

 では、どこで〈あかるみにでて〉〈気づ〉いてしまったのか。それを示すために書かれたのが《弐》の最初の二作、特に「まじなふ、ははは」だろう。対立が誰の目にも顕在化したのは、〈母〉の家出が起きたときだが、〈私〉が〈気づ〉いたのは〈呪いの言葉〉のことを聞いたときである。それは実際にその〈呪いの言葉〉が発せられたときからまもなくのことだろう。花見は三月末か四月初めのことだと思われる。家出は〈五月〉と明示されている(「ばっこばっこ、ははは」)。一か月と少しぐらいの短い間だが、〈私〉の〈気づ〉きと〈母〉の家出にはタイムラグがある。上の引用で(以下略)とした〈べつべつのひとひとりずつと申し立て/剥がしてきたうえでなお/うかがっていた/もっとそっと/なだらかに切り分けるナイフを/もたなかった〉という六行にその短いタイムラグのことが書かれている。

 〈べつべつのひとひとりずつと申し立て〉の部分は、〈私〉が〈母〉に対立する形になっても自分を貫くようになったということだろう。「ばっこばっこ、ははは」のなかで〈叔父〉の〈「ここに来るしかないってわかっとるやろ」〉という言葉に対し、〈なぜ/なぜわかるとおもう/ひとひとりのことを/わかるなどとなぜ〉と憤っているのも、それとつながっている。その〈叔父〉は〈「仲よく」「大事に」〉と言ったひとりなのかもしれない。

 〈うかがっていた〉というのは、〈泣いてただただわび〉たりしない態度を示すチャンスを〈うかがっていた〉ということだろう。そして、〈もっとそっと/なだらかに切り分けるナイフを/もたなかった〉というところに切迫感がある。〈あさましやな/口あらがひを責むれば/泣き泣き詫ぶる習ひのあの子が/(中略)/詫び言せぬ/詫ぶることばをのみこむがごと/睨めつくる〉という〈ナイフ〉は、なるほど〈そっと/なだらか〉だとは言い難い。

 この部分は、「訪ない、かれの」の後半部分を思い出させるところでもある。〈そっぽむきたい〉の直前に〈朝こじれて夜帰ると/席をたった食卓が/そのまま/冷めきって〉という四行があるが、これは先ほど〈母〉が不安定化、自壊していく様子として引用した箇所の最後の行〈食卓が席をたった朝のままの日もあり〉と同じことを言っている。その引用箇所は連を変えずに〈ユウキとはじめての旅〉のことも描いている。〈京都で大喧嘩/泣いたり怒鳴ったり駆けだしたり黙ったりまくしたてたり/つづいて高野山四天王寺/笑い転げたりハグしあったり〉というのだが、まさに支配関係のない独立した(〈べつべつの〉)人と人の交わりではないだろうか。〈ひとひとりのこと〉が〈わか〉らないからこそ〈大喧嘩〉もするのだ。

 あとは家出の結末だ。「はくり、ひとの」は家出のシーンで終わっているので、そこには触れていない。それに対し、「ばっこばっこ、ははは」は〈それでも//三人で暮らそうと/春先の旅も一緒だった/彼が駆けつけ/待った/しらっと/夕方だった/帰ってきた/母のくちから/別に暮らす話/ふるえる声/もの言えぬわたしに代わり/「それがいいです」と/きっぱり/彼/スープのさめない距離と/叔父叔母に言われ/うなずいて帰ったけれど/こわばった顔に/あきらめたらしかった〉、「ものぐるひ」は〈なれど//うからに説かれ/三日目/もどれば/もの申さぬあの子/カレと呼ばるるかの親切なりしをのこ在りて/おかあさんと呼ばれたり/まつしろなり/まつしろ/ドア押し開くる/また〉と描いている。

 両方に描かれていることがあり、一方に描かれていてもう一方に描かれていないことがあるが、たぶんどちらにも描かれていないことがある。だから読者としてはよくわからなくてじれったいが、ほかならぬ「はくり、ひとの」で〈ことばにうつすと何かがもれおちる/うつしとられたものばかりに宿る事実はうそくさい〉と言っているのだから、この詩集の読者は、書かれていない部分があることを覚悟しなければならない(これはここだけでなく、《壱》から《參》までのすべてに当てはまることだ)。ただ、〈三人で暮ら〉すことはもちろん、〈スープのさめない距離〉で暮らすこともなくなったということははっきりとわかる。

 
 

【三】

 《參》の「ものぐるひ」については、先ほど特異な作品だと言っただけのことはあって、まだ触れておきたいことがいくつも残っている。特異ということで誰でもすぐに感じるところは、全体が擬古文で書かれていることだ。もっと具体的に言えば、能の謡曲の形式にかなり近づけてある。

 これだけでもかなり実験的な試みだが、実験的ならすばらしい、とてもいいというものでもない。なぜ能の謡曲という形式を借りたかが問題になる。その前に謡曲がどのようなものかを簡単に確認しておこう*1。

 言うまでもなく能は古典的な演劇だが、主役であるシテ(シテに従うツレがいる場合もある)と脇役のワキ(ワキツレというものもいる場合がある、一部ワキのない曲もある。ワキはシテと丁々発止のやり取りをすることもあるが、たいていは観客の代表としてシテの話の聞き役になる)、進行役(狂言回し)のアイが舞台で所作をしたりセリフを言ったりする(アイのない曲もある)。そのほかに、笛、小鼓(こづつみ)、大鼓(おおづつみ)、太鼓(たいこ)の囃子方、観客から見て舞台の右側に座って合唱する地謡(場面の説明をするほか、シテの内心の思いや謡の続きを謡うこともある)、芝居を進めるための裏方を担う後見がいる。謡曲は舞台台本で、シテ、ワキ、アイ、地謡が関わってくるが、シテと地謡はシテ方の家、ワキはワキ方の家、アイは狂言方の家が代々務めてきたため、謡曲本にはそれぞれの家で必要なことしか書かれていなかった。これを初めて全部載せたのが九十年前に岩波文庫として出版された野上豊一郎編『謡曲選集』で(同書のはしがきが以上のようなことを説明している)、出版各社の古典文学全集的なものの謡曲集の巻もそのような作りになっているだろうと思われる(少なくとも、手元にある小学館『日本古典文学全集』の謡曲一、二の二巻はそうなっている)。「ものぐるひ」は、この形式にならい、インデントによってシテ、ワキ、地謡(シテの内心の思い)が見分けられるようになっている(【一】の冒頭で指摘した区別なしの形式とは異なるということである)。

 「ものぐるひ」では、《弐》までの〈母〉が〈嫗どの〉としてシテの役割を果たしている。能にもいきなりシテが出てくる演目はあるが(あとで触れる「三井寺」もそうである)、普通は最初にワキが自己紹介(名ノリ)をしながら出てくる。「ものぐるひ」でも、最初に出てくるのはワキで、高松に旅行(〈Go To トラベル〉)でやってきた学生という設定になっているが、嫗が語ることはともかく、この学生と嫗のやり取りはもちろん、学生の存在自体もフィクションなのではないかと思う。

 これはあくまでも私(この文章の筆者)の考えに過ぎないが、《弐》は〈私〉の一方的な主張ばかりだったので、読者としては〈母〉にも言い分があるはずだということがずっと気になっている。いや、作者としても、〈はは〉を罵倒しまくった「ばっこばっこ、ははは」で終わるのではちょっと後味が悪かったのではないかと「想像」する。しかし、「ばっこばっこ、ははは」で〈なぜ/なぜわかるとおもう/ひとひとりのことを/わかるなどとなぜ〉と〈叔父〉を非難した言葉はそのまま〈私〉にも跳ね返ってくる。〈私〉が〈母〉の立場を完全に代弁するということはあり得ない。

 しかし、「ばっこばっこ、ははは」に〈ややあって返信また返信/わび言のち反論/また反論つきぬ反論/メールボックスにあふれる/母というひとの名と言葉〉と書かれていることから「想像」すると、作者の手元には〈母〉の言い分についての十分な資料がある。ただ、それ自体を衆目にさらすわけにはいかないだろう。何らかの工夫が必要になるはずだ。

 幸い、能の謡曲は、日本の古典芸能にありがちなことだが、かなり様式化されている。シテのタイプによって「神男女狂鬼」(しんなんにょきょうき)という分類があり、以前は一日かけてその五種をその順番で五曲演じていた(五番立てという)。実は、「ものぐるひ」というタイトル自体、神男女狂鬼の狂(四番目物ともいう。ほかの四種に入らないものをすべて入れるので、雑物、雑能などとも呼ばれる)のなかのサブタイプ、物狂のことを表しており、これは行方不明になった愛する男や腹を痛めた子を探し求める狂女がシテを務めるという内容のもので、能の子を探す狂女の演目としては「三井寺」、「隅田川」、「百万」などがある。なお、能の「狂う」は精神疾患のことではなく、神がかりのようになって舞い謡うことである(だからそのときは「正気」ではなく、トランス状態になっている)。

 以前にも触れたように、この詩集の大半の作品が最初に発表されたウェブサイトの「浜風文庫」には「ものぐるひ」の初稿(二〇二〇年十月三日付け)が掲載されているが、そちらでは〈媼〉が〈学生〉に言った言葉とワキの〈学生〉が言った言葉、心の声だけが擬古文で、〈媼〉の心の声または独り言は現代文になっている。大半がその〈媼〉の心の声または独り言なので、擬古文の部分は少ない。

 それに対し、二〇二〇年十二月十日付けの完成稿(ふりがなを追加したことや小さな「っ」を大きな「つ」に変えたこと、最後の〈あと けらけら と申しける〉の一行を独立した一連として繰り返したことなどを除けば詩集に掲載されているものとほぼ同じもの、以下は詩集掲載版を参照する)は、すべてを擬古文にしている。擬古文かどうかで口にした言葉と心の声の区別をしていたものが全部擬古文になったためか、心の声の部分は丸括弧で囲まれるようになった(能なら地謡に謡ってもらうような部分だろう)。そして、改作前は学生がシテの話を聞くというワキの役割を放棄したため、〈媼〉が現代文で独り言を〈吠え〉る羽目になっていたが、改作後はワキらしく、少々間抜けに感じられるところもあるが話を聞くようになったので、現代文の独り言だったところがワキ(と観客、すなわち読者)に対する語りになっている。

 両者を比べると、改作前の現代文による〈媼〉の語りは妙に生々しく感じられる。《弐》までの〈私〉の視点から語られたことと張り合うような混ざり合うような変な感じがする。しかし、言葉の調子も含めて能の型に嵌めることによって、その生々しさが消えたのだろうか。私(この文章の筆者)はうまく理屈にすることができないが、もっと感性的なレベルでこれしかない、はまっているという感想を持つのである。

 以上を念頭に置いた上で内容を読んでいこう。拙文の【二】では、『《弐》の残る二作「はくり、ひとの」、「ばっこばっこ、ははは」と《參》の唯一の作品「ものぐるひ」は、同じ日の同じできごとを中心として成り立っている』と書いたが、正確に言うと「ものぐるひ」は《壱》と《弐》の総集編のようなもの(ただし、〈家族の来し方や日常〉の部分だけで、旅の部分は除く)になっている。もちろん、〈母〉の視点から語られているので、《壱》、《弐》とは違う部分がある。ここではもちろんそこを中心として見ていくことになる。

 まず、当たり前と言えば当たり前だが、一人称が別の人になったので、家族の呼び方が変わっている。《壱》、《弐》での〈父〉は〈背の君〉または〈あのひと〉、〈私〉は〈あの子〉、〈母〉は〈みづから〉になる(〈叔父〉も〈弟〉だ)。この作品には〈メール〉、〈携帯〉、〈ソーシヤルデイスタンス〉といった新作ではない能には決して入ってこない語彙が多数入っているが、目立たないながら〈あのひと〉と〈あの子〉もそうだろう。このふたつの単語は、読むのに苦労する擬古文のなかでそれこそ生々しく記憶に残る。

 全体は強いて分ければワキの学生がうどん屋に入る前と出てきたあとに分けられる。前半では心の声として〈あのひと〉の思い出を語っているが、後半では〈あのひとと/暮らしたる二十二年/うれしうてたのしうて/会社勤めせはしく/家にあらぬこと多きひとなれば/さみしうはさうらへども〉、〈せはしきあのひと つまの/いたって健やかなるがある折/あさましや床に伏し/さうしてやうやう共に居らるる時を得てさうらふ/うれしうて憂はしうて/二とせあまり/あのひとは ああ/はかなうなりて若きまま〉と〈あのひと〉にちょっと触れたあと(ここには新しいところはなく、《壱》の終わりの方の復習である)、もっぱら〈あの子〉の話になる。前半と後半冒頭は話を本題に導いていくための糸口であり、本題が後半にあることは明らかだ。ただ、二つの引用箇所の間に〈あの子/ひとり子の/あの子の居れば〉という三行があって、〈あの子〉が〈あのひと〉の代わりになっていたことが示唆されていることは目を引く。

 次に目を引くのは、〈あの子〉が大学を卒業して就職したあとの〈ある日ひとりのをのこ参りて/むすめ御をふた親にまみえさせたしと申す/否むことはりとてなく/そののち/ひとり子なればとてみづからと三たりにて暮らせども/ふいに了んぬ〉という六行だ。今まで〈デモドリ〉という言葉が何度か使われていたが、「家を出て」はいなかったことに驚く。しかし、それ以上にぎょっとさせられるのは、〈あの子〉の離婚が〈ふいに了んぬ〉と自然現象のように描かれていることである。おそらく、そのときも「まじなふ、ははは」で描かれたようなことがその〈をのこ〉に起きていたのだろうと想像してしまう。そして、その連の締めくくりがまたも〈あのひと〉の身代わりとしての〈あの子〉を示唆する〈むすめなれど/しごとにんげん、とや/さながら背の君の代わりと/にがわらひ〉という四行になっている。

 〈なれど/あの子が〉の二行の連からは《弐》の内容に踏み込んでいく。拙文の【二】で述べたように、ここは復習というよりも「はくり、ひとの」と「ばっこばっこ、ははは」に書かれていなかったこと(またはその時点ではまだ書けなかったことかもしれない)が初めて詳述されている。それについては繰り返さないが、ワキの学生が〈ここな嫗どの/しづまりたまへ/御身の背の君の物語をば聴かむと申したるに/あの子とや/御子のこととや/うたてやな/あさましう いとどことさめてさうらふ〉と文句を言っているのは好プレーであり、話が〈あのひと〉から〈あの子〉に逸れていっていることを読者に教えてくれる(これは、この詩集が旅を主題としているかのようなふりをしているけれども、本当は〈あの子〉が〈嫗どの〉から自立した経緯を描いた叙事詩集であることも示している)。

 家出から三日目に戻ったが〈あの子〉の拒絶に遭って再度〈ドア〉を〈押し開くる〉ことになったというところで、再びワキのセリフが入る。改作前は〈袖すり合うとは申し条/ソシアルディスタンスな今日った/触るるはご法度/うちすてて参らずばなるまいて〉と言ってワキの役割を放棄してしまったところだが、改作後は〈袖すり合ふとはまつことこのこと/少し歩みたうなりたれば/歩みあゆみ承らうよ〉と言ってワキを務めきることを申し出る。謡曲の型があと少し頑張れと詩人の背中を押したような形だ。

 それにしても〈少し歩みたうなりたれば〉とはずいぶん間抜けな物言いだなと思うが、〈歩〉むことから〈潮風みなはの洗ふ城とは/あれなるや/たまもてふ波うつ石垣/港ちかき海ぎはへと歩をすすめて参らうよ〉と高松城のことを話題にしているのはまたも好プレーだと言える(ちなみに〈たまも〉とは高松城跡の玉藻公園のことを指している)。冒頭の心の声の部分で〈潮の匂ひないたす此処は/あのひとに初めてあり会ひし町〉と懐かしさを示した高松に対して、歩き出してからの〈嫗どの〉は次第に気持ちが昂ってきて、〈おう おぼへぬ/いい 見も知らぬ/おお とほき遠きい町/うう 疎うとしき/知らぬ人ばかりの町〉と拒絶的な態度を示すが、その予告になっているのである(なお、各行冒頭の二字は、そのあとに続く言葉の冒頭の音の母音に対応している。〈見〉(み)は「い行」なのでその前が〈いい〉、〈疎〉(う)は「う行」なのでその前が〈うう〉となっている。もっとも、〈おぼへぬ〉の前が〈おう〉、〈とほき〉の前が〈おお〉になっている理由はよくわからない)。

 少し先に進みすぎたが、ワキのセリフの直後に戻ろう。〈おうおう と/聲あぐるはいと易けれど/おしころし押し殺す底ひより/たぎりたちくるもののさうらひて/あの/あの子/あの子の名 を/こゑ に/こゑ に出ださず/聲 にせむ〉というところは難しい。嘆く声を押し殺しても、心の底から吹き出してくるものがあって、それが〈あの子の名〉だということなのだろうが、〈こゑ に出ださず/聲 にせむ〉というところの〈こゑ〉と〈聲〉の違いは何なのか。

 実はこの詩のなかでは、〈あのひとの血縁〉の〈ナミコさん〉の名前は出てくるが、〈あの子〉の名前は出てこないのだ。実際に出てきた〈聲〉は〈えおう いい いい〉というものだが、先ほど引用した〈おう おぼへぬ/いい 見も知らぬ/おお とほき遠きい町/うう 疎うとしき〉と同じように解釈すると、〈あの子〉の名前である「めぐみ」の母音だけを抜き出した「えうい」を引き伸ばしたものだと思われる。〈なにかに似たれど なにやら覚束ぬものの/名のごと/したたるなりわたる/音に濡れ〉とはその声が遅れて耳に入ってくる様子だろう。

 続いて〈びやうびやう/吹き鳴らしたるは/のどならむ こゑ ならむ〉というのだから、〈こゑ〉は発声前の意図のことだろう。名前そのものを言うつもりがないのだ。それに対し、〈この身の/なにかににたれど なにともおぼつかぬ/聲〉は発声後に響いた音のことだろう。ここからは〈こゑ〉を発した(子を生んだ)〈母〉(〈この身〉)の〈なにかににたれど なにともおぼつかぬ〉〈娘〉(〈聲〉)という関係が見えてくる。〈ひとひとり〉という現実に耐えられない〈母〉の姿を描こうとしたものだと思われる。

 そして、先ほども引用した〈疎うとしき/知らぬ人ばかりの町〉で数少ない〈見知りたる/ひと〉である〈細うて優しき/折ふしこはき/ナミコちやん〉に連絡を取ろうとしたのか、〈書き込みひとつなき/暦をぞめく〉る。ここでワキの〈ナミコどのとやらむ/むすめ御にてさうらふや〉というセリフが入る。〈嫗どの〉が〈とうにおはさぬ/あのひとの血縁/ナミコさん〉と言った直後なので、今度こそこのワキは間抜けなやつだと思ってしまうところだが、〈嫗どの〉が〈あの子の名〉を「えうい」としか言っていないのに〈ナミコちやん〉の名を言っていることを読者に注意させるためのセリフだと考えるべきだろう。

 そして久しぶりだと思われる電話が〈あの子のカレと申すをのこ〉からかかってくる。〈殆としう果つるものを/ほとほとしう果てぬにや〉はほとんどかからなくなった電話がかかってきたことを言っているのだろうが、〈果つる〉という言葉からは自らの死を意識しているのかという意味合いも強く響いてくる。そして〈ま〉があったものの〈あの子の こゑ 聲〉も聞く。

 能の物狂は、探す人を見つけてふたりは幸せに暮らすという形で終わるのが普通である(「隅田川」の場合は子が死んでいることを知って嘆いているところに子の幻が現れるという形だが)。電話というなんとも現代的なものを介してだが、ここで能の型に沿うかのように親子の疑似再会が果たされるわけだ。

 しかし、ここで疑問が湧いてくる。〈切つ先ふるふと思へば〉というのだから携帯電話だ。携帯以前の電話なら市外番号の異なるところに引っ越したら電話番号がすっかり変わってしまって電話もかけられなくなる。携帯電話も少し前ならキャリアが変わったら番号が変わっていたが、二〇〇六年にはMNPが導入されて変えなくて済むようになった。それなら、この〈嫗〉は〈あの子〉の声を聞きたければ自分で電話すればよいのではないかということだ。

 思い出さなければならないのは、「ばっこばっこ、ははは」の最後の部分である。〈母〉は実際にメールも電話もしている。しかし、〈わたし〉はそれに疲れて〈着拒〉に及んで〈圏外〉に去っているのである。そういうわけで、電話をかけてもつながらないのだ。だから、〈あの子のカレと申すをのこ〉(この〈カレ〉というのも古典の謡曲には絶対出てこない語彙だ)から電話がかかってきたら、〈あらあ/おぼえずはねあがる/こゑ 聲/みづからがこゑともおぼえぬ/こゑ〉が出るぐらいのことなのである。

 ここで〈こゑ 聲〉となっているのは、〈こゑ〉と〈聲〉が一致しているということだろう。そして、〈あの子〉の〈こゑ〉と〈聲〉も一致している。これは、〈えおう いい いい〉などという発声をしていないのだから当然のことだが、〈嫗〉がそこまで追い詰められていたということを想像すべきだろう。そして、〈みづからがこゑともおぼえぬ/こゑ〉が〈こゑ〉であって〈聲〉でないのは、うわべの声だけではなく心から喜んでいるということを表しているはずだ。

 しかし、〈かあっとあつうなりたる〉あまり、〈嫗〉は失敗してしまう。〈たらちめなりみづからはみづからはあのこのたらちめなり/あの子の生まれしより長ういなあの子をはらみしより長う/いちにちたりともかくることなう長う/みづからはたらちめなりなればこそ/たれば たら ただこのたらちめは〉と〈あの子〉は自分と一体だとまくしたて、〈あの子〉が〈ひとひとり〉だということを否定してしまい、電話を切られてしまう。〈嫗〉は〈きれてありしやきりたるものや〉と言っているが、切られたことは明らかだ。読者としては、作者は〈嫗〉が〈ひとひとり〉という現実を突きつけられたが、どうしても受け入れられずにいるということを描こうとしたのだと解釈すべきだろう。

 〈嫗〉は電話がかかってきたから、手紙でも届いていないかと〈郵便受け〉を見に行くが、そんなものは当然ない。〈たぎりたる/つむりのひえて〉とあるが、物狂能の型として、子と再会した母は物狂の状態から脱する。探し求めた子が死んでしまったことを知った「隅田川」の母親も探し求める理由がなくなったので物狂ではなくなる。この〈嫗〉も〈うれしき切れ端握りなほし〉〈うれしき思ひの絵文字選りて〉〈ナミコさあん〉にメールを書き始めるが、古典の物狂能のシテたちとは異なり、〈嫗〉には〈ゆくりなう/ぐうつとせきあぐるもの〉(思いがけず噴き出してくるもの)がある。そのため、〈メールの文字〉が〈重うにごりそめ〉、〈いかな了見にやあの子とや/カレとやらむ申せしひとも/きがしれぬきがしれぬいまごろでんわして寄越すきがしれぬ〉と書いて送ってしまう。

 送ったのが深夜の非常識な時間なので(〈12さしたる/針ふるへ/糸とほさぬ時計の/針ふるへて〉。〈母〉が得意な洋裁の針に触れているところが面白い)返事は朝になるが、ナミコさんもよくつきあってくれるものだと読者は感心してしまうところだ。しかし、〈嫗〉からすると、ナミコさんは《壱》の時代までの〈あの子〉のように自分を理解してはくれないという思いなのだろう。〈ナミコさん〉初出時に〈細うて優しき/折ふしこはき〉、〈語りかくれどひたと見上げをる〉と形容してあったので、〈わらはぬをさなごのナミコさんのみつめをる〉が効いてくる。〈嫗〉は〈ナミコさん〉では満たされないのだ。

 ここまでが〈嫗どの〉の回想で、能なら地謡がかなりの部分を歌ってシテが舞っていたところだろうが、次の〈こ、こはいかに嫗どの/そこな畳まれたる/携帯の鳴りをるやらむ/嫗どの をうなどの〉というワキの言葉で現実に引き戻される。ワキはすべての出番で好プレーを演じている。しかも、〈畳まれたる〉という言葉で〈嫗どの〉の携帯がこの時点での主流であるスマートフォンではなくガラケーだということまで教えてくれるのだ。

 次の〈嫗どの〉の最後のセリフは絶唱とも言うべきところで、〈みづからを〉の五音のあとは七五調を貫いている。これも能にはよくある形で、感きわまったところのセリフは七五調になる。たとえば「隅田川」でも、行倒れの少年を弔うために土地の人々が行っている念仏の対象が自分の子のことだとわかったときのシテは、「今までは/さりとも逢はんを/頼みにこそ/知らぬ東(あづま)に/下(くだ)りたるに/今はこの世に/亡き跡(あと)の/しるしばかりを/見る事よ…」*2と謳う(字余りが少々あるが)。

 ちょっと脱線するが、河合祥一郎氏によれば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などの初期作品には彼の詩人としての試みが劇作に大きく反映されているという。河合氏もそれを意識して『新訳ロミオとジュリエット』(角川文庫)では「表現の技巧には特に留意したつもり」だとして、たとえばソネット形式になっている一幕と二幕の間の歌(コロス)として〈はかなくも、古びた恋は、墓の中、/新たな愛があとを継ぐ。…〉という現代文による七五調の訳文を作られている*3。劇の一部の(あるいはそれを独立させた形の)七五調の詩の可能性には注目すべきではないだろうか。ついでに言っておくと、拙文で擬古文という言葉を使い文語という言葉を使っていないのは、中世語の語彙と文法で書かれていても登場人物が口にする言葉は口語であって決して文語ではないだろうと思うからである。

 さて〈嫗どの〉の七五調の絶唱だが、こういうものの常として、私(この文の筆者)のような凡人の身にはなかなか難解だ。「自分を呼ぶ聲も風のなかで消えてしまうぐらい田舎びた潮の鳴る道をどちらに行ったらわからないような毎日だが、亡くなった夫を慕っているので、そのときが来るのを待ってあちらの世に渡ろう」というようなところなのだろうか。前半三行は「しらぬ」と「しらむ」の音の近さで繰り返し朝がやってくることを呪っている序詞のような気がする。そして最初の三行のなかでも「みづからを呼ばはる聲も風の間に/絶えむとばかり」までは「鄙びたる/潮鳴る道の左右しらぬ」を導くための序詞のように見える。そして、「しまなみ、そして川口の」冒頭の思念的な四行を思い出す「渡る」という言葉が使われている。

 最後のワキのパートは、最初の三行一連がワキの言葉で、残り二連はワキの視点からの状況説明だ。ここでのワキも好プレーを演じていて、状況説明の冒頭で〈潮風にも消ぬ携帯の着信音〉と言って〈嫗どの〉の絶唱の序詞を否定している。〈炭いろの衣ふわとひるがへりて/突き出されたる枝先のごとき指より/今しなげうたれたるもののさうらひ〉は非常に技巧的に携帯電話を投げ捨てる様子を描いているが、〈携帯〉と名指ししていないので、私(この文章の筆者)は初めて読んだときには携帯を捨てたことに気づかなかった。何度か読むと、〈炭いろの衣〉(ワキがうどん屋を出てきたときの〈嫗どの〉の形容でも使われているが)から想像される(そして「まじなふ、ははは」の決定的な言葉を思い出させる)魔女のイメージと〈突き出されたる枝先のごとき指〉という描写もぴったり合っている。〈嫗どの〉の際限がない孤独感は「ばっこばっこ、ははは」の〈跋扈〉とはあまりにも対照的だが、作者にとって〈嫗どの〉はまだ〈魔女〉という存在なのだということを知るかどうかでこの作品の解釈は大きく変わるだろう。

 この巻末の作品は、よく練られた巻頭の作品をはるかにしのぐほどの細心の注意のもとでとてつもないテクニックを駆使した大作であり、ずっしりとした存在感がある。ただ読んでいるだけなら適当に誤魔化してわかった気になってしまうところも、このような文章を書くことによって自分を追い込むと、適切なのかそうでないのかはっきりわからないものの、あれこれの意味(謡曲との類似点、相違点も)が見えてくる。このような作品はそうそう出現するものではないと思う。

*1. 私(この文章の筆者)がそこそこ親しんでいる古典芸能は歌舞伎だけであり、能、狂言、文楽などはどれも生で見たのは一回限りで正直なところよく知らない。しかし、歌舞伎は能、狂言、文楽を取り入れており、たとえば、能の「安宅」を歌舞伎化した「勧進帳」ではワキに相当する富樫左衛門が最初に出てきて自己紹介する。そういうところを見ているので、「ものぐるひ」がこれらの古典演劇をもとにしたものだということはすぐにわかった。それでも、歌舞伎でも狂言でもなく能らしいということがわかるまでは時間がかかった。ここで能の基礎知識として説明していることは、三省堂の『能楽ハンドブック』や小学館の『日本古典文学全集』三十三、三十四巻の謡曲集、各種ウェブサイト(特にthe能.com:https://the-noh.com/jp/と文化庁の文化デジタルライブラリー: https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/learn/#c5。後者には「隅田川」の解説のページ: https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc14/sumidagawa/index.htmlがあり、物狂の能のパターンが説明されている。亡くなった子の幻と出会う場面を含む動画もある)などで一夜漬けで学んだことを垂れ流しているに過ぎないので、そのつもりで読んでいただきたい。

*2. 小山弘志、佐藤喜久雄、佐藤健一郎校注・訳 小学館『日本古典文学全集33 謡曲集一』pp.512-513。

*3. 河合祥一郎訳『新訳ロミオとジュリエット』(角川文庫)p.178、p.46)。なお、河合氏は筆者の高校の同期生だが、筆者は中高一貫校の高校に編入入学したため、同期生は百八十人ほどと少なめながら、そのうちのごく一部としか同じクラスになったことがなく、そうでなくても交友関係が隣の大学の同好会の名前を騙って駅前でどんちゃん騒ぎの飲み会をするようなメンバーに偏っていたので、同級になったことのない彼とは言葉を交わしたことがない(実は、同級生でも言葉を交わしたことのない相手がけっこういたと記憶する)。先方はこちらのことなどご存知ないだろう。一方、河合氏は高校時代から英語が抜群にできるということで、同学年の生徒でその名前を知らない者はいないという存在だった。

 
 

【四】

 これを機会に今まで持っているだけで手が出なかった薦田さんの過去の詩集『苧環論』、『流離縁起』も読んでみた(詩人諸氏には申し訳ないが私のまわりにはそんな詩集が山ほどある。なお、『ティリ』は単純に持っていないので読んでいない)。特に印象に残ったのは、詩論として書かれたという『苧環論』の表題作「苧環論」だった*1。改めて詩集の姿形を見てみると、帯文に引用されているのも「苧環論」の一部であり、目次でもほかの作品と同等に(つまり、詩論として特別扱いされることなく)並んでいて、詩集タイトルにもなっている。詩集中の作品への言及もあるので確かに詩論といえば詩論なのだが、言葉の運び方がこれこそ詩だと思わせるものになっているのである。

 たとえば、タイトルになっている苧環(おだまき)だが、最初は画家への贈り物として選んだ花として〈赤みの濃い紫のくすんだ色のや、水色から娼びた明るさを抜いたようなのや、黒に近い青紫の花びらがひっそりと聞いていて、すっきりと伸びた花茎の許を囲む葉の形も慎ましげなのが、うれしい〉という形で登場する。〈水色から娼びた明るさを抜いたようなの〉というような濃密な言葉はなかなか出てくるものではない。

 それが次のページでは一転して文楽の『妹背山婦女庭訓』のなかの苧環の話になる。想い人の着物に糸を結んであとを追いかける男女が持つ糸車のことだ(花の方はこの道具に形が似ているので苧環という名前がついたらしい)。男(藤原鎌足の息子淡海)は糸のおかげで想い人の素性を知り(鎌足の宿敵である蘇我入鹿の妹)、女(豪族ではない市井の娘)は糸が切れて想い人(淡海)を見失うというあらすじを紹介した上で、〈私にとって苧環は、行方も知らずに導かれてゆく怖さ、心躍りの徴である。導かれてゆく先は、思いもよらない言葉の磁場である〉という美しい比喩で「詩論」の核心に入っていく。

 これだけでも、若き日の薦田さんの比喩のセンスのよさと『そは、ははそはの』であらゆる形の比喩が詩の力を強めていることの根源がうかがえるが、「詩論」自体は〈私のつくる詩は、メッセージの伝達を志さない。また、物語の全景を描ききることもない。そこここに物語の断片を垣間見ることはあっても、それだけを手がかりに終点までゆくことはできないきまりごとになっている〉〈意味を解してしまう不自由な中枢を避けて、心の琴線にダイレクトに届く詩。/つい言葉の意味を追うことを忘れ、詞章の律動や音の心地よきに身をまかせ、たゆたってしまいたくなる詩。/私の書きたいのは、そんな詩である〉という方向に進んでいく。

 この「詩論」をもっとも鮮やかに示しているのがスーラの比喩である。〈スーラが点描画においてとった方法は、従来のパレット上での色の融合ではなかった。より純粋な色を並べ置き、離れたところから見ると、溶け合って淡い澄んだ色調を楽しむことができるという仕掛け、視覚混合といわれるものであった/そこに用いられた色は互いに照り応えあい、反射して、澄んだ輝きを生み出した〉

 ところが、この比喩はだんだん過激化していく。〈近くで見れば、タッチの安定した色の苗床である。そのどれもが、一枚の絵の構成部分という領分をこえて輝いて見えるので、画家がほんとうは、この色のひとつひとつを見せたかったのではないかと思えてくる。もっとも、この細部に生気がなければ、絵はたちまち艶のない、安ものの類に堕するにちがいない〉。

 そして、それを言葉に〈応用〉するところに到達する。〈言葉を、その個々の意味において存分に立ち上がらせつつ、全体としての通意を断ち切る〉というのである。あれあれ、スーラは〈より純粋な色を並べ置き、離れたところから見ると、溶け合って淡い澄んだ色調を楽しむことができる〉ようにしたが、薦田さんは〈全体としての通意を断ち切〉ってしまうらしいぞ。

 もっとも、詩は詩論を裏切るものだ。音による純粋詩を目指すかのような「詩論」とは裏腹に、『苧環論』に収録されている「詩」は言葉のさまざまな意味が交錯する空間になっているように感じる。私がたまたま知っている歌舞伎の用語が散りばめられている「なよたけすべらな爪沿い遣らずの傘さす保名の道ゆき夜もすがら棧敷をかけだす襟足その意気のとおさに折から獣心よびさます」やたまたま土地勘があって時代がわかる「本郷二丁目壱岐坂上潮が鳴る」では特にそれを感じた。すべての作品で音に対する作者の鋭い感性ははっきりと感じるが、「詩論」が主張するほど意味を消し去ろうとしているわけではないのではないか。。

 ただ、「苧環論」以外の作品は、〈大層な主張があって、それがために言葉を動員するわけではない〉という点では共通している。それに対し、「苧環論」には〈主張〉があり、その〈主張〉を明確にするために、あるいは著者にとって納得のいく形で押し出すために、言葉を制御して使っているという違いがある。そのため、「詩」では封印されていた〈主張〉を展開するための言葉のテクニックが駆使されている。薦田さんはそのような技術を備えながら、「詩」ではその力を封印していたのではないだろうか。「詩論」として書かれた「苧環論」に「詩」として書かれた作品で見られない詩の要素を感じ、これは「詩」だと思ったのはそのためだろう。

 『苧環論』について「詩」ではなく「詩論」から話を進めたのは邪道だが、『流離縁起』についても「ことの次第」という後記から入ることにしたい。〈対の詩集〉として構想していた『ティリ』(一九九五年)と同時期に書かれた作品を十年もあとの二〇〇六年に出すため〈書き手の個性よりも、書いた時代の匂いのほうが強く浮きあがるのではないか、と懼れた〉が、〈時代のにおいなどいささかもそなえていない、明らかに私という書き手の、略しがたい軌跡なのであった〉とある。

 実際、『流離縁起』には『苧環論』以上に〈時代のにおい〉がない。〈本郷二丁目壱岐坂上〉のような実在する地名は一切入っておらず、読者は作品として描かれる未知の世界を所与のものとして受け取らなければ先に進めない。全体的な印象批評に過ぎないが、『苧環論』の詩篇には拡散していく開放性を感じるが、『流離縁起』の各詩篇には凝縮していく閉鎖性を感じる。その分、言葉の密度は高くなっており、筋をたどりやすくなっている。『流離縁起』の方が『苧環論』よりも初読で読みやすいのではないかと思う(私の場合はそうだった)。

 「ことの次第」で先ほど引用した部分の次は、段落を変えて〈むろん、身の内からあふれた言葉ばかりではなく、離れて暮らしていた明治生まれの祖母の声音や佇まいなども織り込んでいる。すでに演劇作品へと形をかえて観客の耳目に届けた一節もある〉と続いている。〈むろん〉というところで、〈身の内からあふれた言葉ばかり〉では足りないということらしいと安心する。そして、〈祖母の声音や佇まい〉というのは巻末に四編ある「石積み」の連作のことだろうと想像する。「ことの次第」を読む前に全編をひと通り読んだが、「石積み(Ⅰ)で「じゃったの」という語尾や「わし」という主語に接して、外界と触れ合ったという感じがした。でも、〈演劇作品へと形をかえて観客の耳目に届けた一節〉はどこだったかわからなかった。

 「肉鞠」という作品では〈生魚〉が嫌いな〈痩せた母〉という懐かしい人が登場する。また、「海駅」という作品の〈東の都市に向けての急がねばならない道のりを、人々の好んでする鉄路ばかりで行くことに倦んで、ふいに、この駅でなら叶う海路への乗り換えを、果たさなければと思い立ったのだ〉という一節では「しまなみ、そして川口の」の〈父〉と〈母〉を思い出した。順序が逆だが、不思議な既視感だった。

 このように見てくると、この三冊が同じ人によって書かれたことはよくわかった。耳のよさ、古典文学/芸能、演劇の下地がどの作品にも共通して感じられる。もちろん、三冊それぞれに異なる色合いがあるし、【四】では私がわかる範囲でそれを明らかにしたつもりだ。まだ触れていないことで特に指摘しておきたいのは、『流離縁起』の後記が書かれてから時間のたった作品を集めている「のに」という文脈ではあるものの、〈時代のにおい〉がないことをよしとしているのに対して、『そは、ははそはの』は時代と場所の固有性をはっきりと描いていることだ。時代の移り変わりのスピードが上がり、文学が永遠を目指すことは難しくなっていることから、私は変化の過程の一瞬を後世に伝えることの方が有意義なのではないかと思っている。そういう意味で、『そは、ははそはの』は『流離縁起』が向かっていた方向から反転してよい方向に向かっていると思う。

 三冊を比較したとき、入りやすさという点ではおそらく異論なく『そは、ははそはの』が一番ということになるだろうが、奥も深い。「本郷二丁目壱岐坂上潮が鳴る」や「石積み」連作などの例外を除けば、『苧環論』や『流離縁起』は単声と感じる作品が多いが、『そは、ははそはの』はほぼ全篇複声だと思う。入りやすさゆえに作者の文学的後退を感じるならそれは大きな誤りだろう。

 この文章は書くために三か月近くかかってしまったが、特に【三】では毎日新しい発見があって作品に堪能させられた。しかも、【二】、【三】で詳述したように、《壱》と《弐》、《參》の間には後戻りできないような断絶があると思われる(つまり、もう《壱》を書いたときのようには作者は〈母〉を描けない)。そのような断絶(あえて自己否定と言いたいが)を抱えた作品は、ひとりの作者の生涯のなかでもそうそう巡り会えるものではないだろう。

 歌舞伎を見ていると、いわゆる古典では眠くなることが多い。新作ではそれほど眠くならない。たぶん、古い芝居の時間は現代人の生活リズムよりもかなりゆっくり流れていてその遅さについていけなくなるのだと思う。速さについていけないのではなく、遅さについていけなくて眠くなってしまうのだ。遅いということは一つひとつの描写の密度が濃いということである。ひとつの感情に行き着くまでのプロセスが複雑なのだ。当代の市川團十郎白猿などは、せっかちな現代の観客のために、たとえば『義経千本桜』のような古典を早回しで見せる演目を作っているが、何度か両方を見ると、やはり原作の濃密さがよいと思う(それでも眠くなるが)。『そは、ははそはの』には古典歌舞伎のような濃密さがある。しかも、最大のテーマは〈ひとひとり〉という近現代の思想だ。多くの方にその濃密な味を堪能していただきたい。

*1. 薦田愛「朝顔だったか」(「浜風文庫」https://beachwind-lib.net/?p=35913)。

 

 

 

老いて、詩を生きるということ

 

廿楽順治

 
 

 

 さとう三千魚さんから頂いたテーマは「老いて、詩を生きるということ」でした。あまり深く考えずにこのテーマで話をすることを承諾してしまいましたが、あらためて考えると、かなりいい加減な約束をしてしまったことに気づきました。
 わたしはこのテーマ、つまり「老いて、詩を生きるということ」という言葉のひとつひとつについて、実際は何もまともに考えてきませんでした。どの言葉も自明のこととして、適当に使っていたことに、今さらながら気づきました。

 

「老い」とは

 たとえば「老いて」という言葉。「老い」の現象についてはむろん知っています。自分は六四歳ですが、これは明らかに「老い」の範疇に入ります。でも、「老い」ということをまともに考えたことはあまりありませんでした。筋力が衰える、かつてできたことができなくなる、怒りっぽくなる、記憶があいまいになる、情熱がなくなる、そういったことについてはもちろん実感しています。しかし、それが「老い」ということでしょうか。老いに関する社会問題といわれるものも、自分にはだんだん身近になってきました。そうしたことについても、つまり「老後」という言葉についても、ふいに思い至ることもありますが、それでもどこかでまだ図々しくも三〇代後半くらいのつもりでいる気がします。

 

「老い」は時代で変わる?

 昔の作家に源氏鶏太という人がいますが、この源氏鶏太の『定年退職』という小説を読むと、当時の定年年齢である五五歳の老年の暮らしが今とはかなり違うことがわかります。この小説は一九六二年から六三年にかけて朝日新聞で連載されました。小説の冒頭で、五五歳の定年を迎える主人公の同僚の血圧が少し高いという会話が出てきます。その同僚の少し高い血圧が上は一七〇、下が九八となっています。現在の基準で考えると、高齢者の数値としては確かにありえますが、五五歳という年齢を考えると、違和感があります。今なら、まだ若いのに高い、健康に注意しなさいと言われるところです。「老い」というのは一見普遍的な自然現象のようにも思えますが、時代や社会によってそのイメージが違ってくるんだろうと思います。
 そういうわけでどうもこの「老い」という言葉の意味があらためて考えるとよくわかりません。いったい生物はみな本当に「老い」るのでしょうか。最近売れているようですが、小林武彦と言う人の『なぜヒトだけが老いるのか』という新書(講談社現代新書・二〇二三年)があります。これによると、動物で老後があるのはヒトの他はシャチとゴンドウクジラぐらいらしいです。たいていの動物は子孫を残せなくなると、パタッと死ぬ。だとすると、動物には普通、「老い」はない、ということになります。
 もちろんここでは「老い」を動物の生態や「人類」という文脈で考えるつもりはありません。今日のテーマにあるように、あくまでも「老い」が詩にどう関わるのか、が問題になります。そうすると、「老い」は詩においてどういう現象となるのか、ということになります。一般的には「老い」は「衰え」と同じものとみなされるので、詩においては、詩の力の衰退というように解釈されると思います。若いときは記憶力と豊富な語彙を駆使し、とめどもなく連想に連想を重ね、饒舌に、かつ多量に言葉を生産する。それが生産力の衰えとともに寡黙になり、語彙は貧しくなり、素直になってくる。

 

「老い」のイメージ

もちろんこれは単純な図式です。実際の詩人の作品の変遷をみると、必ずしも「若さ」から「老い」へという単線的な図式は詩の指標として役に立たないのではないか、という思いが強くなります。近代以降の自由詩には、「若さ」に重きを置く、というバイアスがあって、そのために「老い」の詩を見えにくくしているのではないか、と考えています。これは個人的な印象なので、文学史的には違う、という見方があるかもしれません。しかし、通俗的なイメージの中では、自由詩は夭折者のもの、ということがずっと続いているのではないでしょうか。現代の自由詩は早い死を、象徴的な最高の価値としているように思えます。このバイアスがあまりに強いために、実際に詩を読むときに、人は詩人の本質的な年齢を無意識に基準にしているような気がします。若いのに力を感じさせないものは負である。逆に高齢なのに若々しい力があるものは正である、というように。ここでは実際の年齢は問題ではありません。年齢にもかかわらず、その「若さ」の含量が問題になっています。「現代詩」はある意味で若者の風俗現象なのではないかと思います。先日思潮社の小田久郎社長が亡くなった際、新聞では「谷川俊太郎さんや大岡信さんらを登用して、戦後の現代詩ブームを生んだ」と報道されていましたが、そのブームの当事者は「若者」のものであったろうと思います。

 

「老い」対「若さ」
 もちろんこれは詩の世界だけの話ではありません
。ある時期から、「若さ」ということの価値が上昇してきたわけです。これがいったいいつからなのか、わたしによくわかりません。三浦雅士は『青春の終焉』というとても面白い評論で、文学の中の青春や青年の誕生を描いています。それによると、青年という括りの誕生は馬琴の『南総里見八犬伝』辺りまで遡るようです。その後、明治に「青春」という言葉が流行します。三浦雅士はさらに一九三〇年代と一九六〇年代の「青春」の類似性についても言及しています。要するに、「若さ」とか「青春」というのは近代にともなって普及した流行現象ということになるので、これをあまり普遍の原理とするわけにはいきません。
 歴史学や民俗学などの研究をみれば、おそらく現在の「若さ」の様相はかなり相対化されるのではないかと思います。それは「老い」についても同様だと思います。「老い」はかつてのような価値としては、相等減衰しているのではないかと思います。さらに、「老い」の多様化ということは、同時に「若さ」の多様化とも連動しています。両者ともに、かつてのような対立図式のなかで自らの地位に安住できなくなってしまったように思えます。

 

詩の業界の「若さ」

 しかし相変わらず他のジャンルと同じように、現代詩の世界は現在、「新しい」「若い」詩を発掘しようとしています。そのためにいくつもの賞や投稿の場所が設けられ、詩の更新が目指されます。これはひとつには出版業において、商品サイクルが求められていることに対応しています。ただ、詩が商品となった歴史はそれほど古くはない。小説は昭和初期の円本ブームによって、職業としての作家を生み出したようですが、詩人は残念ながら今に至るまで生業としては成立していません。職業の模倣として一部の出版社に支えられながら、「詩人」と呼ばれる人たちは自意識と社会上の公認の間を揺れながら存続しています。荒川洋治は一時「詩作家」と言っていたと思いますが、これは無理があります。

 近代の文学史が出版事業と一対であることを考えるならば、「詩人」はこのあいまいな地位のなかで、文学史の更新と商品の新しさを期待されて、「若さ」という価値を負わせられている、ということになります。でも、これはそれほど根拠のあることなのでしょうか。
 個人的な印象では、現代詩の「若さ」志向は、いわゆる「段階の世代」にも起因しているように思えます。学生運動が詩にもたらした影響はとても大きいと思います。また、その前史として「荒地派」の詩の動きがあります。『荒地』に掲載された有名な北村太郎の議論がありますが、そこでは先行世代の詩人が、戦中の状況を回想して詩の空白があったとした発言に、鋭い批判を突きつけています。戦争責任論については同じ「荒地」の同人で、吉本隆明が高村光太郎をやり玉にあげていますが、こうした若い世代が先行世代を突き上げる構図は、七〇年代くらいまでは続いていたように思えます。
 しかし多数の若者が少数の老齢者に対峙するという、これまでの世代闘争のイメージは、現在ではかなり怪しくなってきています。この物語の背景にあった老若の人口比の逆転の問題が、周知のように近年では大きく前面に出てきているからです。ちょっと乱暴に言ってしまえば、六〇年代七〇年代の老若の図式は、単に若者の数が多かったために成立した物語ではなかったか、ということです。

 

「若さ」の風俗と詩

 一九六八年に小松左京が発表した短編に「せまりくる足音」という近未来物のSF小説があります。これは一〇代や二〇代の若者が世界を支配し、高齢者を殺していくという近未来世界の話です。主人公は七八歳ですが、朝、生き残った老人向けのラジオで若者用語の情報を勉強して、若作りをして町へ出かけます。若者は日々言葉を短縮して感覚的に使うので、この流行に乗り遅れると、高齢者として発見されてしまうわけです。そこで、あらかじめラジオで若者の流行語を勉強して、若者がたむろする場所に出かけます。ところがそこに「詩人」があらわれて、事態が変わってしまい、結局彼は高齢者であることが発覚してしまいます。主人公が「詩人」と遭遇する場面はこんなふうに描かれています。

 
「なんなしーー意味なし」〝詩人″は手をおよがせていう。
「ワイワイコンマ、ワイコンマ……」
「から?」と娘はきく。
「それから……」〝詩人″は首をふる。「先、まだできてない」
「ワイワイコンマ、チューライカ……」
彼はつづける。どうせでたらめで、それでいいのだ.
「ワッ!」〝詩人″は奇声をあげる。「ヤック! イェック! ヨック!ーーヤッホウ! 君、すげ!ーー詩人!」

 
 小説の中にはビックリマークが多用されていますが、もしかするとこれはその後一九七〇年に発行された吉増剛造の『黄金詩篇』あたりを予感しているのかもしれません。そういえば、このビックリマークは吉増が論じた明治の青年・北村透谷の詩篇にも出てくる記号です。この小説は、六八年当時の若者の現代詩を外野からみた印象なのかもしれません。
 しかし、小松左京の物語の主人公を脅かした「詩人」は、現実のものとなっていません。というのも、未来を担う青少年の数が減少し、「迫りくる足音」としてははなはだ心許ない状況になっているからです。人口減少が進む現在では、かつての物語が崩壊しているように思えます。むしろ、今の「若い」世代は、多数者の高齢世代の下でマイノリティになっているような気がします。

 

「修辞的現在」と「若さ」対「老い」の図式

 これはわたしの個人的な印象ですが、今の二〇代、三〇代の詩人には、六〇年代七〇年代の詩に対する憧れのようなものがある気がします。主体がない自分たちに対して、あの時代は主体があった、というようなイメージを持っているのでは、と思っています。
 これはわたしもよくわかります。わたしが現代詩に接し始めた七〇年代の終わり頃、かなり多様な詩のスタイルが書かれていました。難解な詩もあれば、分かりやすい詩もあり、そのいずれにも古典と言っていいくらいの名作がありました。そうした詩には、戦後という時代や学生運動など、その世代を象徴するような社会的な出来事が背景にありましたが、一方でわたしたちの世代は、三無主義などと言われて、そのようなものは何もない世代と見られていました。この無の気分というのは、現在の若い世代でもどこかで継続されているように思えます。そういう視野からみると、先行世代の詩人たちの世界はすごくまぶしいわけです。
 かつて吉本隆明の「修辞的現在」という文章が大きな反響を及ぼしました。現在では詩は修辞上の差異になってしまった、というような内容の議論でした。かなりインパクトのある状況把握で、北川透はこの議論を受けて、しかしわれわれはこの微細は差異に賭けていくしかない、というようなことを言っていました。戦後の社会や現実、思想との対峙によって誕生した「現代詩」の後で、われわれはもう消化試合のようなものを課せられているだけなのだ、という感覚を持ったことを覚えています。
でも今の若い世代は特にそういうことに敏感ではないと思いますし、そういう議論があったこともあまり知らないのではないかと思います。ただ、かつて現代詩が生き生きとしていた時代があった、ということは漠然と感じているのではないでしょうか。それに反して、わたしたちの現状はそうではない、という感覚はあると思います。
 というわけで、現在ではかつてと違い「若さ」ということ、「老い」ということの多様化した様相が露骨になり、いかにもありそうなかつての「若さ」や「老い」というものが、書割の松のように嘘くさいものになってきています。もちろん、この嘘くささは今にはじまったものではなく、中世だろうと近代だろうと、本当はあったものだろうと思います。しかし今では、「若さ」対「老い」という「大きな物語」が崩壊してきたために、これまで見えにくかったリアルな多様性の様相が浮上してきた、ということではないでしょうか。
 現代詩はそういった状況のなかで、「若さ」とか「老い」のきわめてリアルな様相に対応せざるを得なくなってきた、といえるかもしれません。もはやかつてのように「若さ」の詩、「老い」の詩を書くことは難しいだろうと思います。少なくとも、現在のリアルな詩を書こうとする場合、従来の「若さ」や「老い」では、どうにも芝居がかったものに見えてしまう、つまり「クサイ」わけです。しかし、「若さ」の現代詩は風俗としてのそれなりの蓄積があるので、多少「クサイ」ものでもやっていけます。
 それに反して、「老い」の「現代詩」はそれほど確立されているようには見えません。わたしが「老い」の詩というのは、単に高齢者問題を素材にしたものではなく、現代詩を縛っているようにみえる「若さ」、それを価値に据えない詩のありかたのことです。
 前置きが少し長くなりましたので、それではそろそろこの辺で、実際の詩を読んでいきたいと思います。

 

天野忠とずれ

今では「クサイ」ようにみえてしまう老いの詩を一つあげてみます。天野忠です。老年の詩というと、この詩人を連想する人は多いのではないかと思います。編集工房ノアの『続天野忠詩集』の一番最後に掲載してある詩を読んでみます。
 

   オヤ

 古い友人たちが傍へ来て
 オヤ、君はまだ……
 そんな顔をして
 フッと消えることがある。

 なにぶん
 彼らは死者なので多くは云わない。
 生きている他人は
 そんな顔をしない。

 しても丁寧なことばでくるむ。
 「オヤ、ずいぶんお元気の様子で……」

 おかげさまで、ヘイ、と私は頭を下げる。七十五歳。
 自分の寂しい闇の中で
 まあだだよ、と舌を出す。

 

 個人的にはよい詩だと思っています。でも、今七五歳でこのような詩を書いても、天野忠よりも説得力は劣ってしまう気がします。現役バリバリの七五歳には、この詩のように古い友人の死者がやってきても、気づかないかもしれません。一方、重大な持病のある七五歳の人には、この詩はとてもよくわかるものだと思います。そういうわけで、今では七五歳ということで、簡単に老年の多様性を一括りにできません。
 天野自身はどうだったでしょうか。「まあだだよ、と舌を出す」と最後に言っているところをみると、死者を少しからかっているようにも見えます。「老い」の図式を使ってちょっと遊んでいる、というようにも見えます。これはもちろん若い詩人には簡単に書けません。ただし、もしこれが人々が死に囲まれていた戦争中だったら違ってきます。いずれにしても、現在このような詩を若い人が書いた場合、嘘の詩ということになることは間違いありません。でも、それはそれで仮構の語り手を立てた詩として成立することはありえます。
 少し意地悪い言い方をすると、天野忠は「老い」の語り手を演じているとみることもできます。天野の詩の語りは、素朴で正直、というイメージを持たれやすいと思いますが、私個人としてはちょっと疑っています。天野は若い頃、当時のモダニズム風の詩を書いていましたし、また一九六六年の五七歳の時には『動物園の珍しい動物』という虚構性の強い詩集を出しています。この詩集に収められた詩編は、「クラスト氏」という外国人の詩である、という前提になっていました。もちろんそこに書かれている詩は天野のものなので、天野とまったく無縁のはずはありませんし、天野の詩だといっても少しもおかしくありません。でも、詩のありようとしては、それは天野自身から少し離れたものとして提示されています。
 今読んだ詩にも、自分から少し離れた詩のありよう、というのがどこかでベースになっているのではないか、と私は感じます。わざわざ「七五歳」と自分の年齢を詩に書き入れているあたりが怪しい。ここでの語りは「七五歳」のものだよ、と読み手に宣言しているわけです。それは逆にいえば、詩の語りはそれが宣言されていないと、年齢を無視して読まれてしまうかもしれない、ということです。
 この宣言は、詩の上で自分を客体化していますが、自分を対象化することによって、詩は天野自身から少しずれていってしまいます。自分が自分を対象化するということは、自分が二重になることです。自分に対して、おまえは七五歳だと規定するもう一方の自分を産み出すことです。それによって、自分の中に差異を持ち込むことになります。
 天野の特徴としてあげられるユーモアは、この、自分や対象から少し離れた視点をもつ、ということで生み出されている気がします。そもそもユーモアや笑いといったものは、対象にピタっと一致した真面目さに対して、ちょっとずれてしまうところにあります。
 私の個人的な見方では、天野は「老い」の語り手を仮構しながら、「老い」自体にずれを持ち込んでいる。このずれがユーモアに連動している、ということになります。

 

粕谷栄市と迷宮

 このずれた「老い」をもっと突き詰めた詩を読んでみたいと思います。粕谷栄市の「晩年」という詩です。これは『楽園』という最近の詩集に収められています。
 

   晩年

   若し、私が、八十歳を幾つか越した老人だったら、私
 は、ある大きな港町に住んでいる。路地裏の古い一軒家
 で、独り暮らしをしている。
   若い頃から、倹約して貯めた金が少しはあるから、ま
 あどうにか生きてはいられる。何もできないし、するこ
 ともないから、相変わらず、古い服を着て、貧しい食事
 をして、つましい日々をやり過ごしている。
   そんな私にも楽しみはあって、それは、自分の住むこ
 の町を、気ままに歩きまわることだ。もちろん、杖をつ
 いて、やっと、覚束ない足を運んでいる始末だから、そ
 んなに遠くには行けないはずだ。
   が、それにしては、いろいろな場所で、思いがけない
 出来事に出会うことが多い。ただ、年寄りの悲しさで、
 一晩、過ぎると、その一切を忘れてしまっている。
   誰にも、それを伝えられないのだ。たとえば、今日は、
 埠頭に近い橋の上で、大勢の女たちに、丸裸にされ、足
 蹴にされたあげく、汚い河に投げ込まれた。
   ずいぶんと、ひどい目に遭ったのだ。だが、明日にな
 れば、自分は、それも憶えていないに違いない。
   たぶん、私が、八十歳を幾つか越した老人であること
 も、あやふやだからだろう。かりに、そうだとしても、
 足の弱い私が、坂の多いことで知られるその港町で、独
 り暮らしをすることができるものだろうか。
   全ては、私が耄碌して、本当のことが分からなくなっ
 ているということなのだ。実は、私こそ八十幾つかのそ
 の老人かもしれない。思えば、悲しい事実である。
   いや、そうとばかりとはいえない。むしろ、その逆だ。
 私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。
   今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
 る。深夜、満天の星の下のその港町では、家々のどの窓
 にも、花のように、優しい灯がともっている。
 
     *粕谷栄市 当年八十二歳

 
 天野忠の二重化した語り手の「私」がここではさらに極限化されています。粕谷栄市の詩の愛読者であれば、語り手の「私」が夢の中の「私」、もうひとりの「私」について語る、というのはお馴染みのことです。ところが、このお馴染みの手法に、なぜかいつも読み手は魅せられてしまうわけです。

 

岩佐なをと「老い」のパロディ

 この詩を含む詩集『楽園』は、昨年の現代詩人会の「現代詩人賞」を受賞しました。わたしはこの選考に参加したのですが、実は選考会の席上、この詩集と最後まで争った詩集がありました。岩佐なをさんの『たんぽぽ』です。この詩集も「老い」の詩です。もちろん悲哀がベースにあると思うのですが、にもかかわらず「老い」で遊んでいる、そういう印象が強くありました。粕谷栄市と同様、天野の詩をさらに先まで進めているわけです。でも、ちょっとあの世とこの世を簡単に往来しすぎているのではないか、という意見もあって、賞の方は最終的には粕谷栄市に決まりました。
 岩佐さんの詩集『たんぽぽ』の中から詩をひとつ読んでみます。
 

   責任

 いとをかしの
 暮れ方だった
 かれこれ昭和も枯れて
 外では行く手の景色もすけすけの頃
 黒電話が
 どすをきかせて鳴った
 重いジュワッキをとると
 耳を当てるところから声がした
 あなたのお骨が出ましたから責任もって
 引き取りに来てください。という
 やるせない気分さ。
 昔そこは一軒家の喫茶店だった、という
 とり壊されて掘りおこされて
 私が出た
 部分的であったから極端に
 責任を感じることもなかった
 いい加減なサテンのあるじは自称詩人で
 店自慢のブレンドコーヒーは
 インスタントだった、という
 少しは責任を感じろよ。
 と読者諸氏は思われるかもしれない
 ほら
 また秋の暮だ
 言葉はなにを肴に付け合わせて
 雰囲気やこころもちを供するべきか
 ここから先は長い夜
 想い出にふけるにはもってこいだ
 つらかったなぁ。
 あの頃の心の日照り
 骨の出たあたりは駐車場になるそうで
 ほら
 かなたの青山もゆるりと隠れた
 夜の帳が下りてきたなら
 利き手でひょいとかるく持ち上げて
 くぐれば
 弔い酒にちがいない

 
 粕谷栄市の詩は、実を言うと私は少しふざけているのではないかと思うのですが、岩佐さんの場合はかなり確信犯です。近代の詩、もう少し大きく括れば近代の文学は、たいていは真面目ですが、そういう視点でみると岩佐なをの詩は、大げさにいうと近代に戦いを仕掛けているようにさえ見えます。「ジュワッキ」という言葉は、これはウルトラマンの声の「シュワッチ」のだじゃれだと思うのですが、そうした物言いが、突如出てくる。自由詩なんだから何をやってもかまわない、という感じです。しかも「死」を「いとをかし」の出来事として語っています。語り手はここでは幽霊ですが、どうやら「生」に対して責任を取ろうとしていません。このふざけ方は、見ようによっては天野忠のようなイメージとしての老人像を反転させ、さらにその先をパロディ的に描いたように受け取れます。
 この二人の詩集をみると、現在では天野忠が描いたような「老人」の風景が、はたして詩としてどこまで耐えられるだろうか、という思いを強くします。
 粕谷栄市の詩は、かつての老人のイメージを迷宮化して、別の世界を展開していますが、私を含め世の中の老人がみんなそのような世界を創り出せるわけではありません。かといって現在、天野忠のような「好々爺」風の演技をすることも難しい。では、現実の「老い」に見合ったようなものはないのか、ということになります。
 そこで、天野忠や粕谷栄市、岩佐なをとは違うタイプの「老い」の詩人について、少し考えてみました。粕谷栄市や岩佐なをは読んですぐに分かるように、虚構性が強く、語りにメタレベルが仕掛けられています。そういう点では、通常私たちが考える一人称の「抒情詩」とは違います。

 

「老い」の一人称

 だったらということで、一人称で詩を語る、というタイプで「老い」の詩人を考えてみました。もちろん現在の「老い」に見合う詩人、ということになりますので、単に典型的な「老い」を素材にした詩は対象外です。問題なのは、まさに「老いて」「詩を書く」ということを体現している詩人、ということになります。
 当然、高齢で書いている詩人です。しかもその「詩を書くこと」の基準に「若さ」がない、ということが肝心です。といっても詩の「若さ」の定義自体があいまいなので、とても難しいところですが、ここでは私の独断でそうした「老い」の詩人を想定させてもらいました。対象はたくさんいますが、私がとりあえず選んだのは、「若さ」にありがちな未来への展望がなく、記憶と分かちがたくつながった「現在」しか語らないような詩人です。こういう詩人は、「老い」で遊ぶような視野はありません。粕谷栄市との違いで言えば、語り手自らを対象化するようなことがあまりない。なので、詩を語る「私」は詩のなかで基本的に二重化することがありません。

 

岡崎清一郎と破天荒

 私がそこでまず思い浮かべたのは、少し前の人ですが、岡崎清一郎という詩人です。この人の詩を初めて読んだのは、たぶん高校生の頃だと思います。当時定期購読していた『現代詩手帖』で読みました。変な詩だなあ、というのが第一印象でした。この人は一九〇〇年、明治三三年の生まれです。亡くなったのは一九八六年で、私が二〇代半ばの頃、ということになります。ネットで経歴をみると、白秋に才能を見込まれたようです。村野四郎の詩誌『旗魚』にも参加しています。足利出身で地元の佐野中学、現在は高校のようですが、そこを中退して、太平洋洋画研究所に通っていた、とあります。岡崎の詩は、少し古いアンソロジーをみると大抵掲載されていますが、それだけではどうも作風が想像しにくいです。沖積舎から『岡崎清一郎全詩集』が出版されていますが、これは全五巻ありまして、とにかく饒舌で多作な人ですので、数編読んだくらいでは全体像がよくわかりません。かくいう私もまだ全詩篇を通読していません。今日紹介するのは、岡崎の最後の詩集『恋歌』ですが、これは現在国立国会図書館のデジタルライブラリーに会員登録すれば、パソコンやタブレットの画面で読むことができます。岡崎が七四歳の時に作られた詩集です。私の紹介ではおそらく岡崎の詩がどういうものなのか、全体がよく分からないと思いますので、もし興味があればぜび読んでみてください。
 詩集『恋歌』から一篇読んでみます。「死」という詩です。この詩は詩集を代表するものというわけではなく、私が適当に選んだものです。適当というのは言い過ぎですが、詩集の中で比較的短めで朗読しやすい、ということと、今日の話のテーマである「老い」に関係しているという点で選びました。とにかく岡崎清一郎の詩は破天荒なので、どう選んだものか、自分でも途方に暮れてしまいます。では、読んでみます。

 

   死

 私は死んでしまいたい。
 これとおもう場所がみわたらない。
 なんであの叫びを発したか。
 石は空からおちる。
 どういう方法でからすむぎをかるか。
 私を追いぬいていくひとがある。
 異常な執念はどこから来たか。
 石には凸物と凹物とがある。
 場所をかえて本を開いて読む。
 頭上に大きな花がゆれておる。
 幽暗な影をつくり妖しくうつくしく
 まもりの天使のようだ。
 私の言葉はどもる。
 むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい。
 宗教は狂気の兆象(シルシ)。
 相好をくずして笑ッてる者もある。
 私はいそぎたい。
 私はわからないん。
 あべこべのまわりあわせはたえがたく
 なげきは放恣にいつものようだ。
 私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ。
 私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。
 伽藍のなかは地獄でありおしつぶされて狂気になる。
 あたりはうッそうとしたレモン樹。
 私はこれと思う場所がみわたらない。
 私を誘拐してくれい。餌食にも。
 私に麻痺を錯覚をひどいことをする鬼神を。
 動悸うつ薔薇の動因をおおデモンを。
 いやいや立ッたままの姿勢でこの奇妙なたえがたい硫黄のながれを。
 そなたよ ともしびの下で読んでくだされい。

 
 冒頭二行目に「みわたらない」とありますが、これは誤字でしょうか。でも、後半にも同じ語が繰り返されていますので、明らかに確信犯です。口語では「あ」が「わ」という音になることはありますが、話し言葉をそのまま写したのでしょうか。「わからないん」という言葉も出てきます。この末尾の「ん」というのは他の詩にも度々出てくるので、もしかすると方言かもしれません。足利弁というのがあるようで、先日ネットで足利弁の紹介サイトを見つけましたが、ただ、この語尾の「ん」のことはありませんでした。
 もちろん、わたしは岡崎のこの文を方言かどうか判定したいわけではありません。岡崎は相当な読書家のようで、詩には多くの正式な書き言葉の語彙が出てきます。そうした難しい語と口語が自由に交差するのが岡崎の詩です。先ほど破天荒といったのはこういう語彙レベルでの混交のことも指しています。わたしたちは教育のなかで、文の表記などを統一することを教えられています。正規の文というのは、ブレのない表記と用語が前提です。そういう点では、岡崎の文は正規のものではありません。
 ところで、試しにこの詩についてMicrosoftのCo-pilotという生成AIに鑑賞文を書かせてみました。生成AIは何かを考えるようなプログラムではなく、膨大なネット上のデータを参照して、確率的に文を生成させるもののようです。考えるのではなく、力業で自然文の模倣をするわけです。ですから、次の文はネットにある膨大な文の集合知が割り出した平均的な解答ということになります。読んでみます。

 

 この詩は、非常に深い絶望感と混乱を描写しています。詩のタイトルである「死」は、そのテーマを象徴しています。以下は、この詩の鑑賞と解説です。
【詩のテーマ】
 詩全体を通して、作者は自らの存在や感情に対する困惑と絶望を表現しています。「私は死んでしまいたい」という冒頭の一文から、強い死への願望が示されています。この絶望感は、作者が人生において満たされない何かを感じていることを暗示しています。
【イメージと象徴】
 詩中のイメージや象徴は、読者に強烈な感覚を与えます。「石は空からおちる」というフレーズは、無秩序や突発的な出来事を示し、作者の混乱を反映しています。また、「大きな花がゆれておる」や「レモン樹」といった自然のイメージは、対照的に美しさと不安定さを同時に表しています。
【感情の表現】
 作者は感情を直接的かつ強烈に表現しています。「むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい」や「宗教は狂気の兆象」といったフレーズは、内なる不安や狂気に対する恐れを描写しています。また、「私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ」といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています。
【結末】
 詩の終わりに近づくにつれて、作者の絶望感はますます強くなり、「私を誘拐してくれい。餌食にも。」という一文で頂点に達します。このフレーズは、作者が自らの存在を否定し、他者に自分を委ねたいという強い願望を示しています。
 この詩は、その強烈な感情と深い絶望感を通じて、読者に強い印象を残します。詩を通じて、作者が抱える内なる葛藤と苦悩を感じることができ、共感を呼び起こすと同時に、人生の深い問いかけを投げかけています。

 

 どうでしょうか。なかなかよい鑑賞文ではないかと思います。これを少し書き直して学校のレポートに出したら、先生が見破るのはかなり難しい気がします。
 ただ、これにはわたしが先ほど触れたような表記のブレなどはいっさい出てきません。あくまで意味やイメージの観点だけから文を生成させています。最後に「人生の深い問いかけを投げかけています」とありますが、こういうコメントはどの詩にも当てはまるものなので、言ってみれば鑑賞文にとっては万能の言葉です。その他にも、一見岡崎の言葉にそって解釈したような文がでてきますが、それらはよく考えてみると、他の作品でも通用するような言い回しとなっています。要するにこれが一般的な詩の鑑賞文の書き方における平均値ということになるわけです。しかし、これでは岡崎が自由に語るその姿は見えてきません。わたしは岡崎の詩から違和感を感じますが、それは意味やイメージには還元できないようなものです。もちろん、それを表記の問題だけに還元することもできません。
 ちなみに、先日ネット上で、静岡県教育委員会が作成した「生成AIを利用するに当たって」という生徒向けの文書を見つけました。この文書には生成AIの適切でない使い方として、「詩や俳句の創作、音楽・美術等の表現・鑑賞など感性や創造性などが必要な場面において生成AIを安易に使い、そのまま利用する」という例が出ていまして、「感性や創造性などが必要な場面」というところが赤字になっています。でも、生徒自身の感性や創造性で、同様の鑑賞になった場合はどうするのでしょうか。わたしたちの「感性」や「創造性」と言われているものは果たして一様に個人の独特のものに基づいたものなのかどうか。それらは案外周囲に教育されたり、影響されたりするものだろうと思います。むしろ無条件に「感性」や「創造性」という観念的な用語を使ってしまう言い方に、わたしは生成AI風なものを感じてしまいます。おそらく生成AIは、みずからを利用する際の注意書きを、この文のように生成するのではないでしょうか。
 それはともかくとして、生成AIは、「『私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ』といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています」と言っています。それはその通りなのですが、次の行で岡崎は「私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。」と書いています。これが「いいともかまわない」という言い方であれば、ネット上によくある詩と同じような印象を受けると思いますが、岡崎は「いいともかまいません」と少しおどけたような言い方を続けています。
 この辺の文の乱れ方が岡崎の自由なところで、言い換えれば、確率や統計からみて割り出せないものではないかという気がします。現代詩では、こういう混乱を最初から目的として書かれる場合がありますが、これはこれで単調になりがちです。先ほど挙げた小松左京の小説に出てくる詩人の言葉を思えば分かると思いますが、そこではあえてでたらめ、正規の文にならないもの、それだけを志向しています。その志向は露骨です。そのために読み手にはその方法、法則が見えてしまう。そうなると、たちまち退屈になってしまいます。岡崎の場合は、どうもそれとは違う。文字通り恣意的なのです。しかし、作品としては大きな不調和を感じさせることなく、完成しています。ここには長年詩作を続けてきた岡崎の動物的なカン、といったものが働いているのかもしれません。
 抒情を、「今」「ここで」「私が」「語る」ものとして考えると、岡崎の詩はもちろん抒情詩です。今、ここで、思いついたことを語っている。これらの複数の要素を統一しているのは、詩の上に現われる「岡崎清一郎」という人格です。俳句には「俳人格」ということを言う俳人がいるようですが、詩にも「詩人格」というのがありそうです。少しくらい表記や文が混乱していても、その「詩人格」自体は乱れない。詩を初めて書く人の詩が不自然に見えてしまうのは、まだこの「詩人格」がテクスト上で自分のものとなっていないからです。
 この「詩人格」は、そう簡単には現象しません。スタイルとか個性とか言われるものはこの「詩人格」に由来していると思いますが、それが確保されるためには、試行錯誤と一定の経験や、訓練が必要になるように思います。「老い」はたぶんこういうところに関係してくるのではないでしょうか。「老い」の様相は多様ですが、しかしどの様相もそれが経験の集積や行為の繰り返しの結果であることに間違いはありません。そういう意味では、詩の「老い」はこの「詩人格」の形成と不可分だろうと思います。「詩人格」はいわゆる「ハビトゥス」の一種です。「ハビトゥス」は、「態度、外観、装い、様子、性質、習慣などを意味するラテン語」と『ブリタニカ国際大百科事典』にはありますが、この「ハビトゥス」が年齢を重ねてある水準に達すると、日本風に言えば、達人とか名人の境地になるのではないでしょうか。ここまでくると、他の詩人との比較はもうあまり意味を成さないわけです。先ほどの粕谷栄市詩集が現代詩人賞を取った際の選評で、わたしはこれはもう「粕谷栄市」というジャンルではないかというようなことを書きました。同じことは岡崎清一郎にも言えます。あるいはそれは草野心平でも同じかもしれませんし、他にもそういう言い方に値する詩人は数多くいます。
 もちろん若い詩人にも個性的な人は多くいますが、しかしそれはどこかで「現代詩」というジャンルに色目を使っているようなところがあります。というか、ほとんどの人はこの「現代詩」、あるいはただの「詩」でもいいですが、そういう何か目に見えないけれども、どこかにありそうなプロトタイプ、あるいはそのプロトタイプの否定ということに縛られている。若い世代の詩人はあまり戦後以降の詩を知らない、という話も聞きますが、それにしても教科書や音楽、ドラマなどから知らないうちに植え込まれた現代の「詩」のイメージは持っているだろうと思います。しかし岡崎の場合、どうもわたしたちより自分勝手なんです。これは小松左京がイメージしたようなSFの詩人とは、似ているようで本質的に違う気がします。
 岡崎は萩原朔太郎と同時代の人といってもいいと思いますが、そういう時代的なことを考えると、彼にとっては口語自由詩というもの自体が、わたしたちのようにまだ自明のものではなかった可能性があります。口語的な言い方、あるいはこなれた言文一致体の様相で、「私」のことを語る改行形式の文、というのは日本ではそれほど長い歴史を持っているわけではない、ということをわたしたちはつい忘れがちです。

 

西脇順三郎と語りの器

 では次に岡崎同様、自分勝手な詩人をもうひとり挙げたいと思います。西脇順三郎です。紹介するまでもない有名詩人ですが、西脇は岡崎の六歳年上で、一八九四年、明治二七年生まれです。岡崎と同じように画家を目指していたようです。西脇もまた膨大な詩を書いています。西脇の詩で教科書に出てくるのは「(覆された宝石)のやうな朝」という冒頭で有名な「天気」とか、「雨」という短い詩だと思いますが、後記のものは一篇がかなり長く、饒舌な詩が多いです。最後の詩集は『人類』というものですが、考えようによってはかなり人を食った題名です。栞に書かれている吉岡実の文章によると、最初のタイトルは『人間』だったようです。この詩集は本文が二九五頁、詩は六六篇もある分厚い詩集です。ここから一篇を選ぶのは、岡崎の場合と同様、なかなか難しい。
 どの詩も西脇の西洋文学の教養と、西脇本人の記憶や経験が入り混じっていて、しかも人名の読み方を故意に変えたり、カタカナ表記にしたりするなどの遊びに満ちています。この詩集では、「荒地」の詩人・木原孝一のことを「ボクゲン」とカタカナ表記にしています。晩年の西脇は中国の古典を研究していたようなのでその影響だとは思いますが、そのことを全く詩のなかでは説明されていませんので、初読では「ボクゲン」とは何のことか分かりません。それ以外にも日本語をカタカナで表記しますので、一見すると外国語のようにも見えてしまうような、おどけた書き方をしています。
 詩の内容についても、日々の散歩や人との出会いを素材にしていることは見当が付くのですが、詩のなかでは古代のギリシャ人や様々な詩人などが思いつくままに登場するので、実際にあったどのようなことを語っているのかはよく分かりませんし、本人もそれを具体的に人に伝えようとはしていないようです。新倉俊一が西脇の全ての詩集に注をつけた『西脇順三郎全詩引喩集成』という本がありますが、これをみると部分的に何を下敷きにしているかは多少分かります。しかし、その背景が仮に分かったとしても、西脇の詩の面白さは、そのような意味の理解とは違うところにあるように思われます。
 これは言ってみれば、「うわごと」の面白さではないでしょうか。岡崎もまた「うわごと」を言っているように私には思われますが、西脇の場合はその「うわごと」がさらに進行しています。ここでは「西脇順三郎」という語り手を核として、時間や記憶、東西の場所を超えたあらゆるものが恣意的に呼び込まれて逆巻いています。これらは「西脇順三郎」という点に対して、あたかもぞれも等距離のように配置されています。西脇の抒情の「今」「ここで」について言えば、彼の「今」は過去や記憶を含み、「ここで」は「今のここ」だけでなく、「記憶のなかのここ」も平等に含んでいます。西脇の語りにおいては、時空の遠近感はきわめて希薄になっている、と言ってもいいと思います。
 また西脇の詩は、悪く言えば、金太郎飴のようにどれを読んでも同じように見えてしまいます。もちろんどの詩も違う素材、機会を素にしています。しかし、この違う物質や様々な出来事が反復して立ち現れては同じように消えていく、というのは私たちの日常世界ではむしろ当たり前のことのように思えます。西脇はこうしたことを世界の「淋しさ」であると同時に「諧謔」と捉えているのだろうと思います。これは近代人の感覚ではなく、西脇がよく持ち出す古代ギリシャ人の考え方に近いのかもしれません。そこでは時間は直線的ではなく、円環的になっています。そう考えると、「若さ」も「老い」も交代して現象する一要素に過ぎない、ということになります。商品価値としての新鮮さは、ここでは季節のように消えてはまた到来してくるもの、ということになります。詩の業界では、いつも違う詩、新しい詩を書くことがよいことだ、という価値観がよく言われ、これに反していつも同じスタイルを繰り返しているのは衰弱だ、という具合に批判されます。金太郎飴は確かに退屈ですが、でもどうして反復の退屈はいけないのか、とあらためて考えるとよく分からなくなります。先に挙げた粕谷栄市も悪く言えば金太郎飴の詩です。この金太郎飴への嫌悪感は、資本主義的な商品のサイクルに私たちが知らぬ間に洗脳されているだけのような気もします。
 こうしたことへの反発を分かりやすく「東洋的」と括ってしまうことは簡単ですが、それでは生成AIが繰り出す平均的な知のようなものになるだけで、西脇の具体的な語りの諸相がみえてきません。
 では詩集『人類』の中から、最後の第四章に収録されている「夏日」という詩を読んでみます。これは『西脇順三郎全詩引喩集成』によると、昭和五〇年、一九七五年に『あいなめ』という詩誌に発表されたもので、その時の副題は「金子光晴君の霊前に」というものでした。西脇はこのとき八一歳です。

 

   夏日

 パパーイ
 なんという幻花だ
 八月十四日正午近く
 寺の帰り
 シバゾノ橋の方へ歩いて行くと
 地獄の火焔で麦わら帽子が
 燃えあがりそうだ
 目が時々くらんで
 向こうから来る二人の青年が
 隠元豆に見えたり
 火葬場に行く編笠をかぶつた
 杜甫のようにも見えてきた
 いや金子光晴のように見えた
 金網の柵に巻きついている
 ヒルガホをつみとつて
 この夏日の記念と思つて
 「峰」の空箱に入れて
 三田通りまで日影を渡つて行く
 ようやくアンパン屋のとなりの
 店にころがりこんで目をつぶり
 葦の管からひやしコーヒーをすすりながら……
 あの偉大な「永遠への放浪者」が
 永遠と化合してから
 一ヶ月半も過ぎてしまつた
 幸い今日は一と月おくれの新盆だ
 彼はもう地球の上で食べのこしを
 あさつている人間ではないのだ
 彼はまだ人間であつた時
 芸術なんざたべのこしだと
 私にある晩ささやいて
 石に浮きぼりにした
 すばらしいエイコーンの写真を
 くれてたち去つた
 オイモイ!

 
 一読してカタカナが特徴的に使われているのが分かります。西脇は詩の冒頭にたびたび感嘆詞を置きます。ここでは冒頭に「パパーイ」とあり、最後に「オイモイ!」と書いていますが、これらはどちらもギリシャ語で「悲しみを表わす感嘆詞」だと新倉俊一は注記しています。「エイコーン」(これは英語でどんぐりのことで、道祖神の男根を表わしているようです)もそうですが、これらは外国語です。ところが、「シバゾノ」は日本語です。その他「ヒルガホ」や「アンパン」といったカタカナ表記もあります。カタカナ表記をすることで、日本語と外国語の境はあいまいになり、音のイメージが前面に出てきます。西脇は音によるダジャレのようなものをよく書きますが、そこでは外国語の教養がパロディ化されているようにも見えます。
 現代詩はよくメタファー、隠喩が大事だと言われますが、そこでは視覚的なイメージをもとにした飛躍が重要視されています。一方で、音の類似から言葉が繰り出される詩法もありますが、これは換喩的なもので、日本の前近代の縁語で続いていくような文に近いようなものもあります。西脇はイメージや意味よりも後者の換喩的な言葉の連鎖を重要視しているように思われます。遠い物同士をぶつける、という俳句でいういわゆる二物衝撃を西脇は唱えているようですが、そのぶつける力は、視覚や意味だけではなく、音的なものを媒介にしている面もあるのではないでしょうか。だとすると、西脇の教養的な背後の意味をいくら探っても、その詩が現に今私たちに現象している面白さは、見えてきません。というか、それは見るものではなく、聴くべきものだということになります。もっとも、人間には「黄色い声」といったことがわかる「共感覚」というのがありますので、視覚か聴覚か、といった極端な選択はあまり意味を成さないでしょうし、それをやってしまうと逆に不自然で貧しいものになるかと思います。
 この詩は金子光晴の葬儀から一ヶ月半くらい後までのことを素材にした機会詩で、西脇の詩によくあるように、「シバゾノ橋の方へ歩いて行く」という歩行の行為が発語のエンジンになっています。この歩行のリズムが次々とイメージや記憶や音を招き入れるわけです。詩はもちろん金子光晴への哀悼がテーマになっているのですが、詩は現実の個人の記憶を超えているように見えます。よくあるような感傷的な感慨はほとんど書かれていません。冒頭と最後に置かれた感嘆詞そのものが、まるでこの詩の中心であるようにすら思えます。感嘆詞は、「人類」にとって原初の言語である、ということかもしれません。
 西脇と岡崎はともに饒舌な詩人です。この饒舌はイメージや意味がもちろん伴いますが、一方で饒舌に語る、その行為自体が目的となっているように見えます。岡崎の恣意性や西脇の原初的な感嘆詞は、この「語る」こととほとんど等価値です。彼らには、「乗り物」としての詩の「語り」こそが詩なのでしょう。これは先ほど触れたハビトゥスの極端なありようかもしれません。

 

石原吉郎と極限値

 さて、時間も差し迫ってきましたので、最後にもうひとり岡崎や西脇とは違う「老い」の詩人について触れておきたいと思います。饒舌な詩人ではなく、逆に短い詩を書く「老い」の詩人です。その詩人は石原吉郎です。「老い」の詩人といっても、石原は天野や岡崎、西脇に比べるとかなり若くして亡くなっています。亡くなったのは一九七七年、六二歳のときで、今の私より年下です。亡くなった翌月の一二月には詩集『足利』が発行されています。又、翌年の二月には遺稿集ということで最後の詩集『満月をしも』が発行されています。

 石原吉郎はご存じの通り終戦時にソ連の強制収容所・ラーゲリに収容され、一九五三年、八年に及ぶ抑留の末、帰国します。翌年五九年には現代詩手帖の前身である『文章倶楽部』に投稿を始めています。このとき三九歳です。その後の活躍はみなさんご存じかと思います。特に初期の詩「位置」は有名です。その中に「無防備の空がついに撓(たわ)み/正午の弓となる位置で」とあります。この「無防備の空」とは一体なんでしょう。この詩は短いもので、詩の背景となるようなことについては何も語られていません。キリストの磔刑の場面だと解釈する人もいますが、人によっていろいろな読み方ができるものになっています。
 石原の詩には「位置」もそうですが、対句的な構成が多く出てきます。私としては、対句的なものの対峙する狭間に、石原の「位置」があったのではないかと思っています。それはかつてのシベリヤ抑留生活と、戦後日本に帰還した後の生活との狭間でもあります。石原吉郎については、ラーゲリ体験に直結させる理解の仕方がいちばん分かりやすいと思いますが、しかしよく考えるとそれは安直ではないかと思います。 石原はエッセーの中で戦後の日本で主体を回復させることが辛かった、と述べていますので、極限体験のトラウマからの回復過程が、むしろ詩人・石原吉郎を形成したと考えた方が自然です。その意味で詩人・石原吉郎を産んだのはシベリヤではなく、戦後日本だろうと思われます。
 石原は一九五三年、ハバロフスクから舞鶴に向かう興安丸という船で帰還しますが、このとき甲板から青空をぼんやり見あげたことを短いエッセーに書いています。このシベリヤと戦後日本の間の途上の空が「無防備の空」ではないかと個人的には思っています。おそらくこのときが最も安堵できた「位置」にあったのではないでしょうか。
 石原はその後遅れて戦後日本に参加しました。周囲と時間がずれているわけです。こうした周囲の時間とのずれが、自他を執拗に対峙させる石原の詩の難しさにつながっている気がします。しかし晩年にはこの詩の様相は、少し変化してきます。詩の素材にいかにも日本風のイメージが増えてきます。石原の死んだ年に刊行された詩集『足利』の、詩集名になった詩「足利」などが典型的な詩です。その「足利」を読んでみます。

 

  足利

   足利の里をよぎり いちまいの傘が空をわたった 渡
 るべくもなく空の紺青を渡り 会釈のような影をまるく
 地へおとした ひとびとはかたみに足をとどめ 大路の
 土がそのひとところだけ まるく濡れて行くさまを ひ
 っそりとながめつづけた

 
 かなりかっこいい詩です。しかしここには、かつての石原吉郎を思わせる「対峙」の風景は出てきません。主体の回復に向けて、対峙の姿勢を取る人間はここにはいません。語りの視点は「姿勢」を取る身体を視界から外していて、まるい傘の濡れた影が移動する光景だけを見ています。空虚な風景といってもいいかと思いますが、でもこの空虚は先ほどいったシベリヤと戦後日本との狭間にあった「無防備の空」であるようにも見えます。この空虚、もしくは無防備さは極限値でもあり、その先には何もありません。
 鮎川信夫と吉本隆明の対談集『詩の読解』(一九八五年・思潮社)で、吉本は石原の最後の頃の詩について、すごいと同時に病的だ、というように言っています。これは「戦後詩の危機」という章のなかでの発言ですが、この対談は終わりの方で当時の若い詩人、荒川洋治などの話題に移っていきます。もともとは『磁場』という詩誌に掲載された対談だったようですが、対談の元のタイトルは「石原吉郎の死・戦後詩の危機」となっていました。石原吉郎の晩年の詩の話が、当時の新しい詩人たちの課題と連動しています。言ってみれば鮎川や吉本の戦後詩と石原の詩はずれていて、むしろ次の世代の詩に近い、という認識のように思えます。実際に吉本の「修辞的な現在」では、石原の「足利」と荒川洋治の「水駅」が並んで論じられていました。石原吉郎は微妙な形で、「荒地」の戦後詩からはじかれているわけです。少し言い方を変えれば、鮎川や吉本とは違う老い方ということになります。しかしそれは詩として「病的」なのかどうか、という点は即断できない気がします。確かに死の間際の石原吉郎は奇行が目立っていたようですので、精神的に病んでいた可能性は高いですが、それが詩の判断と必ずしも関わるとは思えません。
 先の西脇も岡崎も、石原とは違う様相ですが、やはり「病的」に思えます。西脇は三十代後半の時の「詩の消滅」(『超堅実主義詩論』一九二九年)という詩論で、「人間の消滅」と言っていますが、これも戦後詩的にみればやはり「病的」と言わざるを得ません。その詩論のなかで西脇は詩の進化過程を要約していますが、詩の最終段階のことをこう語っています。「人間の消滅と共に詩の消滅である。ランプが消された。しかし未だ恐らくカンガルーやサボテンの樹なんかは生きようとしてコセコセしている。哀れなものだ」。
 詩は「生きている」こととしてあるのか、あるいは限りなく「ないこと」に近いのか、という議論はたぶん今後も尽きないでしょうし、わたしは今それについて判断する程の能力はありません。それはそれぞれの詩人の詩作で追求するほかない問題だと思います。
 最後に吉本が「すごい」と言った石原吉郎の最晩年の短い詩を読んでみます。これは遺稿集の『満月をしも』にも収録されていません。「百ヘクタール」という詩で、一九七七年一二月に雑誌『ユリイカ』に掲載されたものです。
 

   百ヘクタール

 百ヘクタールの街へ
 百ヘクタールの家屋を建てる
 その百ヘクタールで
 街と家屋は
 まったく終わり
 風と会話はその百ヘクタールの外側で
 まったく終るだろう

 
 まるでマンガのような光景です。この「街と家屋」の合体が、「足利」の「傘」でもあり、また石原吉郎という詩人格の全体でもある、ということだと思います。ふたつのものに挟まれてあった位置が、とうとうそれ自体で成立する。この極限値の可能性と限界が、石原吉郎の詩の語りの「老い」ということになります。
 ただ、それを「老い」という言葉で語るべきどうかは、疑問です。もちろんそれは「若さ」ということではありません。ここに出現しているのは、わたしたちが詩を語る、ということの様々なありようのうちの極限のひとつ、ということです。
 これまで挙げてきたものはわたし個人の恣意的な選択によるもので、作風も年代もばらばらの詩人たちです。これはあくまで、わたしの視野からみた「老い」と詩の関わりよう、ということになるのですが、いずれもかなり極端な事例で、プロトタイプになるようなものではありません。結局、それぞれがみずからの傾向にあわせて、詩の修行をするしかないということだと思います。もちろん、この修行は何かの境地に到達するためではなく、楽しいからする、あるいは、そうするしかないからするもの、ではないでしょうか。言ってみれば、持病みたいなものです。

 

結語 現代詩の洗脳?

 ということで、この一連のとりとめもない話は終りにしますが、ここで気づかれたことがあると思います。女性の方はもうおわかりかと思いますが、この話にはひとりも女性詩人がでてこない、ということです。これはわたしが現代詩を男性の視点でしか考えてないという無意識の現われです。これはたぶん、日本の近代以降の詩が女性の視点を欠いている、ということの洗脳の結果でもあります。

 
 

※この論考は2025年1月26日(日)に「静岡県男女共同参画センター あざれあ」で開催された静岡県詩人会 主催、日本現代詩人会・静岡新聞社・静岡県文化協会 後援「ポエム・イン静岡2025」での廿楽氏の講演原稿を廿楽順治氏の許可を得て公開するものです。(さとう)

 

 

 

また旅だより 69

 

尾仲浩二

 
 

写真展のために中国へ2週間ほど行っていた。
贅沢な話だが、ご馳走続きでクタクタになってしまった。
昼は四川料理、夜は南京料理、そして徐州、上海、無錫
なるほど、少し痺れたり、恐ろしく辛かったり、それぞれ特色があって旨い。
でも僕にしてみればみんな中華料理、なかなかに油が強い。
食べ過ぎないようにと気をつけていても、10人ほどの円卓に日本人はひとり。
みんなは楽しく会話が弾んでいるけれど、中国語はまったく分からない。
次々と運ばれてくる料理をひたすら食べて、強い中国酒を飲んでいるだけになってしまう。
いや本当に贅沢な愚痴なのはよく分かっている。
でも一度だけ食べたマクドナルドのハンバーガーが嬉しかった。
日本では決して食べないのに。

2024年5月7日 中国、南京にて

 

 

 

 

また旅だより 68

 

尾仲浩二

 
 

中学の同級生数人の集まりの翌日に久留里を散歩
小さな城下町で名水が湧き、酒蔵がいくつもある
試飲コーナーもあちこちあるが、昨夜の酒の余韻がまだあるし
あの頃の可愛かった女子や、早死してしまった奴の顔を思い出しながら
暖かな日差しの中、桜吹雪の小道をのんびり歩けば酒はいらない

2024年4月13日 千葉県久留里にて

 

 

 

 

また旅だより 67

 

尾仲浩二

 
 

連日暗室で韓国の旅のプリントを作っている。
その間、外は暖かかったり、寒かったり。
大風だろうと、土砂降りだろうと暗室にいるとまったくわからない。
でも来週には桜が咲くらしい。
暗室のラジオがそう言っている。
だったら翌週には桜の下で昼酒だ。
よし今日も暗室に入ろう。

2024年3月14日 東京中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 66

 

尾仲浩二

 
 

大阪から船に乗って釜山へ行ってきた。
夕方に出港して昼に着く。
船客のほとんどは韓国の人たちで、売店の通貨も韓国ウォン。
飛行機よりも安い料金なので韓国の学生達がたくさん乗っている。
食事の後のアトラクションは船員バンドの熱い演奏で70年代ロックや韓国歌謡。
その演奏に学生達もノリノリでなんだか嬉しくなる。
後は部屋で焼酎をやりながら瀬戸内海の灯りを眺めていればいい。
朝方に玄界灘でに出ると大きく揺れだしたが、それも船旅の醍醐味。
帰りには釜山で刊行した写真集をたくさん持ち帰った。船に荷物の重量制限はない。
こんな楽しい国際航路を気軽に楽しめる関西の人がうらやましい。
なんとか大阪に用事を作って、そのついでにまた釜山へ行ってこよう。

2024年2月14日 東京中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 65

 

尾仲浩二

 
 

ひさしぶりに熱をだしてしまった。
ゴールデン街でたくさんの人たちと会った翌日から。
なんだか喉がイヤな感じだなと思ってドイツで買ったトローチを舐めていた。
朝方40度超えで、やってしまったかと発熱外来を予約した。
結果はコロナもインフルエンザも陰性。
でもキツくて酒は飲めないし、咳き込んでいるので人には合わない方がいい。
ゴールデン街では正月恒例の展示をやっている。
ギャラリー街道では昨年行った台湾の報告展も。
残念ながら家でおとなしくしているしかない。
なぜなら今週釜山へいくから。
釜山でも展示が始まっているのだ。
そこでは牡蠣も待っているのだ。
なのでもう四晩も酒抜きだ。

2024年1月 14日 東京中野の自宅にて

 

 

 

 

また旅だより 64

 

尾仲浩二

 
 

毎年写真展をやっているギャラリーは大阪心斎橋の古いビルの地下にある。
東京から行くと、旨くて安い大阪の飲み屋で一杯やるのが楽しみなのだが、近頃はギャラリー周辺は古い店がなくなり、チェーン店ばかりで残念だった。
ところが店構えをを見て、ここは!とピンときた店があった。
暖簾をくぐり、ひとりで切り盛りするマスターの顔をみて大丈夫だと思った。
まず生ビールと鯵の南蛮漬け、そしてどて焼き、どれも旨い。
つづいて注文した芋焼酎のロックはコップになみなみと注がれていた。
それを三杯飲みながら隣り合わせた客とマスターと話をし、ご機嫌で店を出た。
翌日のランチではお勧めのカツ玉子とじ定食をそしてその夜もまた。
薄暗いビルの一階にひっそりとあるその店の名前は「大心」
店名の由来はと聞いたら、大阪の心斎橋だから
すばらしい!

2023年12月10日 大阪 心斎橋にて

 

 

 

 

また旅だより 63

 

尾仲浩二

 
 

フランスではパリフォトという大きなフェスティバルが終わったところだ
コロナの前には毎年のようにこの時期にパリへ行っていた
今年も写真集イベントへ参加しないかと言われたが
夏にアルルへ行ったからと、誘いを断った
本当のところは飛行機燃料代の高騰と円安が厳しかったのだ
早朝のベッドの中、ネット上に大勢の人たちで賑わう初日の会場の様子を見る
その中に懐かしい人たちの姿を見つけると、そこに自分がいないことが悔しい
寝ぼけ眼で、来年は必ず参加するから席を用意して欲しいとメールを送っていた
戦争も円安も終わりが見えないけれど

2023年11月14日 東京、中野にて