鈴木志郎康 新詩集「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」を読んで、な。な。おおい、おおい。

 

さとう三千魚

 

 

鈴木志郎康さんの新詩集「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」を読んだ。

80歳を過ぎた詩人の最新詩集だ。

浜風文庫に書いていただいた詩が殆どですから既に読んでいる詩ばかりなのですが、
詩集が準備される時、おそらく詩人によって詩集に掲載される詩が選ばれ、詩の順番が決定される。
そこに新たに詩集独自の時間が形成されるのでしょう、詩集のなかの詩のかずかずは新たに生まれなおされたなと思われます。

わたしは鈴木志郎康さんを思い浮かべる時、画家ベーコンの絵を思い出してしまいます。
なぜなんでしょうか?
裸の詩人が苦痛に歪んだ顔で大口をあけて叫ぼうとしているのが見えます。
大口をあけて叫ぼうとしているのに声が聴こえない。
時間が止まってしまったのでしょうか。
この詩集を読んだ印象もベーコンなのでした。

明るいリビングに二本杖で佇つ老詩人がいるのが見えます。
詩人にはもはや何も残っていない。
猫のママニもいない。
傍らに妻の麻理さんがいるだけだ。
老詩人を麻理さんと詩が支えている、そう思えます。

 

自分の書いた詩が
物になるっちゃ。
空気の振動が立ち昇ってくる
物体になるってこっちゃ。

(中略)

この世に、
言葉が立ち昇る、
詩集ちう物体を、
残せるっちゃ。
この世には、
物体だけが、
残るっちゃ。

 

「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」という詩から引用してみました。

ここで、詩人は詩を空気を振動させるものとして捉えています。
そして詩集は空気を振動させる詩を集めた物体であり詩人が消失しても物体としての詩集は残ると詩人は語っています。

 

テレビを見てた、
息子の草多に
抱き起こされたっすね。
怪我はなかった。
麻理が脚をさすってくれたよ。
よかったですっす。
ホイチョッポ。
明るくなって、
庭に、
五月の風が流れ込んで、
若緑の葉が、
さわさわ揺れたよ。

 

「これって俺っちの最後の姿かって」という詩から一部を引用してみました。

キッチンのリノリウムの床に倒れた詩人は、
「これって俺っちの最後の姿」と思ったのでしょう。
これで最後かと間近に死を感じ、その場所から世界をみつめています。

 

庭に、
五月の風が流れ込んで、
若緑の葉が、
さわさわ揺れたよ。

 

ここに世界が顕現しています。
振動する詩が顕現していると思えるのです。

 

いやああ、あらゆる事物に、
俺っちは、
姿を映して、
影を残して、
生きて来たんだって、
ことですっすっすっす。

(中略)

俺っち、薬缶をピカピカに、
ピカピカに、
磨いたっす。
毎朝、紅茶を沸かしてる
ピカピカの
薬缶の横っ腹に、
キッチンに立ってる
俺っちの
姿が映ったっすっすっす。

 

これは「ピカピカの薬缶の横っ腹に俺っちの姿が映ったすよね」という詩の一部です。

この詩はオバマ大統領が広島の記念式典で行った演説をテレビ映像などで見て書かれた詩です。
爆心地から260メートル離れた住友銀行広島支店の入り口の階段に原爆により残された人影を詩人が見たことを思い出し書かれた詩です。

ここにも詩人が苦痛に歪んだ顔で大口をあけて叫ぼうとしているのが見えます。

その苦痛は詩人一人の苦痛ではなく世界を引き受けることによる痛苦に思えるのです。
そして、ピカピカの薬缶の横っ腹に映った自身の姿を冷徹に受けとめて世界を見つめているのです。

これらの詩を書き写していて、あらためて日本語が壊れているのを知りました。

 

影を残して、
生きて来たんだって、
ことですっすっすっす。

キッチンに立ってる
俺っちの
姿が映ったっすっすっす。

 

詩を書き写していて実に書き写し難い吃音の日本語となっていることに気付きます。
この詩集のなかで繰り返されるこれらの日本語が壊れるような行為こそ、この詩人がいまを生きるための詩行為なのでしょう。
ここにこの詩人の言葉の生命があると思われるのです。

そしてこれらの詩行為は「重い思い」という詩の連作に連繋されてゆくのです。

 

「重い思い  その一」

 

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来る。

晩秋の陽射しが
部屋の奥まで射し込んでいる。
な。

脳髄の中に、
からだがゆっくりと沈んで行く。
な。

な。

おおい、
おおい。

 

「重い思い」という「その一」から「その六」まで連作された詩の「その一」全文を引用させていただきました。

ここに連なる言葉の行為とはどのような行為でしょうか?
ここには老いた詩人が直面する生の危機への実感と言葉が世界を照射する行為があると思います。
これをヒトは詩(無い言葉)と呼べばよいのではないかと思うのです。

 

春だなあ、
四月も半ば、
夕方の日差しがながーく、
キッチンの床に射し込んでるっちゃ。
こんな一日もあるっちゃ。
とがりんぼう、
ウフフ。

 

詩集のタイトルとのなった「とがりんぼう、ウフフっちゃ」から一部を引用しました。
ここには世界を受容した詩人の世界を照射する視線があると思います。
鈴木志郎康の詩は世界を照射することで、この詩人自身を支える行為なのだと思われます。

 

言葉を書くと、
言葉の形が出てきちゃう、
形と意味のぶつかり合い、
そこんところで、
言葉をぶっ壊す力が
要るんだっちゃ。
「外に出ろ」
ぶっ壊す力、
ぶっ壊す力、
それが、
俺っちの心掛けっちゃ。
ウフフ、
ハハハ。

 

とこの詩人は「引っ越しで生まれた情景のズレっちゃ何てこっちゃ」という詩で書いています。

詩人は生き抜くために何度でも自身の詩の形を「ぶっ壊す」でしょう。
鈴木志郎康は日本語をぶっ壊して何度でも自身の詩を生きるでしょう。

 

な。

な。

おおい、
おおい。

 

 

 

 

ありがとう さようなら

音楽の慰め 第19回

 

佐々木 眞

 
 

 

油蝉が鳴き、向日葵咲き、黒揚羽舞い、夏は命輝く季節。
しかし太陽に焼き尽くされた生命は、あっけない終末を迎えます。

生病老死は瞬きの間、
信長が、「人間わずか五十年」と幸若舞の「敦盛」を謡うのを待たずに、この世を去る人も多いのです。

西暦2017年の夏も、死は身近にあります。
毎日毎日人は死んでいくけれど、わたしの知人もどんどん姿を消しているのです。

一平君、大田ティーチャー、オトゾウさん、飯塚さん、
荒川さん、佐々木正美先生、阪口さん、そして井出隆夫クン。

天命か否かは誰知らず、
老いも若きも、魅せられたように泉下に赴くのです。

井出君は、はるか昔の大学生時代の同級生でした。
彼は西武新宿線の武蔵関、私は隣の東伏見という田舎村に下宿していました。

キャンパスの長いスロープ下に、5つの部室があって、
私は03部室で「経哲草稿」や「ドイツ・イデオロギー」を読んでいましたが、
井出君は、05部室の「ミュージカル研究会」というところに出入りしていた。

私はなぜだか彼を、「軽薄でちゃらちゃらした輩」、と軽蔑の眼で睨んでいたが
井出君は知らん顔して、ノートブックになにやら歌詞を書きつけていた。

ちょっとお洒落でハニカミ屋さんの井出君は、女性にもてたことでしょう。
きっとモーレツにもてたろうな。
源氏物語の「若紫」のような少女を見つけて、大切に囲いつつ妻にしたいとほざいていたな。

彼が山川啓介という名前の作詞家として、一世を風靡したことを知ったのは、それから何年も経ってからのことでした。

印税で大もうけした彼が、軽井沢に別荘を建て、そこに若くて美貌の妻と住んでいるという、嘘かほんとか分からない風の噂を耳にしたのもその頃のことだった。

ある日、たまたま私がテレビをつけると、それがNHKの教育テレビの「みんなの歌」というコーナーで、「ありがとう・さようなら」という知らない曲が流れていました。

「ありがとう さようなら 友だち」ではじまるその歌は、学校を卒業する子供たちの、先生や学校への感謝と別れを告げる短い歌でしたが、私の胸をつよく打ちました。

さいごの「ありがとう さようなら みんな みんな ありがとう」のリフレインのところは、中原中也の詩のパクリじゃないかと思いながらも、ほろりと涙がこぼれたのです。

歌が終わってクレジットが出ると、それが井出隆夫という名前でした。
福田和禾子という人の曲も良かったが、井出君の歌詞は、私の心にじんと響いた。
一生に一度でもこんなに素敵な歌詞を書けたら本望だろうな、と思ったことでした。

井出隆夫の霊よ、安かれ。
みなさん今宵は、西暦2017年7月24日、72歳で身罷った旧友の絶唱を聴いてください。

 
 

 

 

 

嗚呼、おらっちも「めっちゃくっちゃな詩」を書きたくなったずら。

鈴木志郎康著「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

わが敬愛する詩人の手になる、なんと3年連続の詩集の、最新版が出ました。

それにしてもタイトル自体が、なんと軽やかなステップで、人世と詩が一体となった微笑ましくも楽しげなリズムを弾ませていることよ!

らりらりらあんとページを開けば、森羅万象に対する旺盛な好奇心の炸裂です。

「三度の食事に5回のうんこ」という糞詰りの苦しみの吐露から、若き日の「プアプア詩」との再会、戸田桂太の「東京モノクローム」を読み、初めて三か月と一日の孫を抱いた日のよろこび、「権柄面のおっさん」に出くわした際の不愉快と金正男暗殺事件の不可解、オバマ前大統領の広島訪問と小池東京都知事の「活躍」に向けられる鋭い目、さらには天皇制と天皇退位問題への揺れる考察まで、いまや詩人が手に触れ、目にするありとあらゆるものが、日々の詩作の、楽しくも苦しい、つとめとなりおおせたようです。

ひとたび詩人がウンコをひりだせば、たちまち黄金のポエムになるのである。

加齢と病気によっていくぶん行動の自由を奪われた詩人の好奇心は、かえって反比例して、その飛翔の広さと高さを旺盛に押し広げていくようですが、そのありさまは、どこか明治時代のはちゃめちゃ八方破れの革命的詩歌人を思い起こさせます。

正岡子規は、「病床六尺」という切点にて、彼の六感を通過する森羅万象を、(あたかもカメレオンの長い舌が、蝶や蜻蛉を一瞬にしてとらえるように)、得たりや応と大脳前頭葉に取り込み、それを直ちに当時の最先端の文章に変換しては吐き出しましたが、その「赴くところ詩ならざるところなき突貫小僧精神」は、そのまま平成の鈴木志郎康氏の行状にものの見事に継承されていると思います。

よく世間では「元気をもらった」などというセリフを軽々しく口走って物笑いのタネになる人がいますが、よしや笑われても構わない。この詩集で何回読んでも私が感動するのは、次のような一連であります。

 

「春一番が吹いたっちゃ。
俺っち、
元気が出て来たっちゃ。
気持ちが先走ってるっちゃ。
身体がまだまだ動かせないので、
めっちゃくっちゃな詩を
書きたくなったっちゃ。
めっちゃくっちゃな詩、
めっちゃくっちゃな詩。
ヘヘ、
ヘヘヘ。」 

(「俺っち、気持ちが先走ってるっちゃ」より引用)

 
 

嗚呼、嗚呼、おらっちも、めっちゃくっちゃな詩を、めっちゃくっちゃに書きたくなったずら。

 

 

 

激情の指揮者、トスカニーニ

音楽の慰め第18回

 

佐々木 眞

 
 

 

フルトヴェングラーと共に20世紀を代表する偉大な指揮者、アルトウーロ・トスカニーニは、1867年にイタリアのパルマに生まれ、1957年にニューヨークに自宅で89歳で亡くなりました。今年は生誕150年、没後60年ということで、記念CDボックスなどが発売されました。

チエロ、ピアノ、作曲に高い技能を発揮したトスカニーニは、イタリアのトリノのレージョ劇場を振り出しに、ミラノ・スカラ座やニューヨーク・フィル、メトロポリタン歌劇場、NBC交響楽団など世界有数のオペラハウスや管弦楽団を指揮し、その正確なテンポと楽譜に忠実な演奏で高く評価され、後続の指揮者、たとえばカラヤンなどに、決定的な影響を与えたのです。

さて今宵皆様にご紹介するのは、1940年代から50年代にかけてNBCスタジオやカーネギーホールで収録されたワーグナーのライヴ映像です。*

タンホーザー序曲やワルキューレ第三幕の「ワルキューレの騎行」、トリスタンとイゾルデの「前奏曲と愛の死」などのいずれも全曲からの抜粋がいくつか演奏されたのですが、はじめて目にするトスカニーニの指揮振りの精悍さと正確さ、そしておのが音楽の精髄を聴衆に届けようとする真情あふれる姿に大きな感銘を覚えました。

いずれの演奏も、音楽の内容よりも、その厳密なテンポや音量の制御などの形式面にまずは耳を奪われます。

生前の偉大なライバルであったフルトヴェングラーと違って、トスカニーニの指揮は、テンポを制御する右手と楽器の入りと、その流通を管理する左手に加えて、千変万化する顔の表情が大活躍します。

彼は、自分がリハーサルのときに指示した楽器が正しいときに、正しい音量で、正しく演奏されていないときには、まるで仁王様のように柳眉を逆立て、楽員たちを眼光鋭く睨みつけます。

しかし「トリスタンとイゾルデ」の終結部などで、彼の手兵NBC交響楽団が見事な演奏をやってのけている最中には、突如童顔に帰って、まるで餓鬼大将のように微笑む姿には、驚くと同時に感動させられました。

この“音楽の鬼軍曹”は、たしかにオケをアホバカ呼ばわりもしたのでしょうが、問題は、彼が面罵した楽員たちとともに、どのように音楽を演奏したか、です。
ご覧のようにここには、誰のものでもない、トスカニーニだけのワーグナーの音楽が鳴り響いています。オーケストラの面々は、「トリスタンとイゾルデ」に替わって歌い、また歌い、さらに歌い続けているのです。

そこに光り輝いていたのは、音楽そのものでした。
トスカニーニと音楽することの無上のよろこび、そして連夜の奇跡的な演奏の成就がなければ、誰がこの天才指揮者の無礼と独裁に唯々諾々と従ったでしょうか。

さてトスカニーニの最も激情的な演奏記録は、ヴェルディの「諸国民の讃歌」という珍しい曲を、ピーター・ピアーズの独唱と合唱付きでスタジオ収録したものです。

故国イタリアのファシスト政権が崩壊し、第2次大戦が連合国の勝利によって終結したことをことほぐ1943から44年にかけてのこの演奏では、勝利国の英仏米の国歌のほかに、なんと当時旧ソ連の国歌であった労働歌「インターナショナル」が鳴り響きます。**

大いなる過ちを犯した母国イタリアも含めて、「全世界よ、恩讐の彼方に新たな平和を構築しようではないか!」とばかりに「諸国民の讃歌」が高らかに謳いあげられるのですが、その後の世界が、どのような変転を辿ったかを知る者にとっては、様々な感慨が胸に浮かんでくる映像です。

1954年4月4日のオール・ワーグナー・プログラムの演奏会で、一時的な記憶障害のために「タンホイザー序曲」を振り間違えたトスカニーニは、翌日引退声明文を発表しますが、ニューヨーク・タイムズに載ったその「The sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say goodbye to my orchestra」という、簡潔にして万感の思いのこもった文章こそ、この稀代のマエストロの人となりを、よく後世に伝えていると私は思うのです。***

*『Arturo Toscanini The Original Ten Televised Concerts 1948-1952 with NBC Symphony Orchestra アルトゥーロ・トスカニーニ TVコンサート』(DVD5枚組)東芝EMI、 2002

**ヴェルディの「諸国民の讃歌」

***「トスカニーニ、その人と芸術のドキュメンタリー」

 

 

 

西暦2016年7月26日

 

佐々木 眞

 
 

西暦2016年7月26日未明、相模原市緑区の社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり園」に侵入した君は、当直の職員を拘束して自由を奪った後、そこに収容されていた重度の障害者たちを、持参した5本の出刃庖丁を使って突き刺した。

君は、67歳の男性、Aさんを刺した。
君の両手は血に染まり、Aさんは死んだ。

人には、すべて名前がある。
その名前のもとで生き、その名前のもとで死ぬ、そんな大切な名前が。
私はNHKの番組「日本人のお名前」を参考にして、仮名のAさんを、この国でもっともポピュラーな「佐藤さん」という姓で呼ぼせてもらおう。

Aさんこと、佐藤耕作さん。
演歌ファンのあなたは、北島三郎のテープを100本近く持っていたそうだ。
畑作業が得意で、若い頃はクワガタやカブトムシを採集し、園ではヤギやニワトリの世話を手伝っていたという。
室内での作業にも意欲的で、外部の人からは職員と間違われるくらい温厚で、リーダー的な存在だったそうだ。

その夜、君は35歳の女性を刺した。グサッ、グサッと刺した。
鈴木良子さんは、死んだ。
コーヒーが大好きで、みかんやいちごも大好物。抱っこをせがむ甘えん坊で、いつも笑顔で過ごしていた良子さんを、君は殺した。

それから君は、音楽が好きで、レクレーションを楽しみにしていた43歳の男性、高橋義男さんを刺した。
グサリ、グサリと何度も刺したのだろう。
君は、高橋義男さんを殺した。

君は、26歳の愛くるしい娘を殺した。
中学生の時、書き初めで「まま」という字を書くようになり、母親がとても喜んでいた。そして誰からも愛された田中しのぶさんを、殺した。

それから君は、囲碁や将棋が大好きで、職員とじゃんけんをして「あっぷっぷ」を楽しんでいた49歳の男性、渡辺一郎さんを刺した。ずぶりと刺した。
渡辺一郎さんは、死んだ。

君は、歌が好きで、お兄さんが教えてくれた「椰子の実」の歌をよく口ずさんでいた70歳の女性、伊藤百合子さんを刺した。
伊藤百合子さんは、死んだ。

ラジオが大好きで、小さな携帯用のトランジスタラジオをいつも手に持ったり、ポケットに入れたりして持ち歩き、楽しそうに聴いていた66歳の男性を、君は殺した。
ちょっとお茶目なところがあった中村純一郎さんを、君はずぶりと刺し殺した。

短期で施設を利用していたころから、かわいらしい笑顔の人気者の女性を、君は何度も刺した。
小林栄子さんは、まだ19歳だった。
栄子さんは、死んだ。

65歳の女性、木村静子さんは、いつも笑顔で、仲間の中心にいる人だった。家族と一緒に外出したとき、とても嬉しそうだったという。
そんな静子さんを、君は何度も突き刺した。
静子さんは、死んだ。

短期で施設を利用し、作業のときもふだんから、ホームの仲間たちを優しく見守っていた41歳の男性を、君は刺し殺した。
山本大輔さんは、死んでしまった。

その笑顔に会いたくて、ホームを訪れる人もいたという40歳の女性、加藤恵子さんを、君は刺し殺した。
恵子さんは、毎日の食事をおいしそうに食べ、お散歩やドライブ、ひとつひとつを楽しみながら過ごしていた。

55歳の男性、吉田宏さんを、君は刺した。
吉田さんは、施設から少し離れたところにある100円の缶コーヒーを自動販売機まで行くのが楽しみだった。
部屋に貼ってある家族や行事の写真などを指差しながら、楽しそうにいろいろと話す姿をみんなが覚えている。
吉田宏さんは、死んだ。しかし体の傷があまりにも酷かったので、遺族の方は棺の中の顔だけを見てお別れをされたという。

60歳の女性、山田みずえさんを、君は刺し殺した。
本当に穏やかな人で、話すことはあまりできなかったが、相手の目をじっと見つめ、そうすることで自分の思いを伝えようとしていた。
うれしいときは体を左右に揺すって、にっこり笑う姿が印象的だった。

野球が大好きな43歳の男性、佐々木清さんを、君はグサグサと突き刺した。
いつもニコニコ笑っていた佐々木さんは、突然死んでしまった。
清さんのタンスには、たくさんの野球のユニホームが入っていたが、あれはどうなったのだろう。

山口瑠璃さんは、明るくて世話好きな65歳の女性だった。
洗濯物を畳むのが得意で、ほかの入所者の衣服やタオルを畳んで、決められたタンスにしまうなど、よく職員の仕事を手伝っていた。
うれしいことがあると、声を出して楽しそうに笑っていた。
瑠璃さんは、殺された。君が殺した。

松本さゆりさんは、穏やかで純粋な55歳の女性だった。
施設の周りに散歩に行くと、道ばたの草や葉を手に取って、その草を自分の目の高さにあげて、じっと見つめながら、くるくると回して喜んでいた。
君はそんなさゆりさんを、刺し殺した。

井上健太さんは、音や香りにとても敏感な66歳の男性だった。
ラベンダーやミントなどの匂いがするアロマオイルがお気に入りで、香りを嗅いでうれしそうにしていた。
趣味は散歩で、外の空気を吸うのが好きだった。
君は、そんな健太さんを刺し殺した。

斎藤由香里さんは46歳の女性で、持病を抱えていたが、中山美穂や工藤静香などのアイドルに興味があった。
とても話し好きで、人なつっこくて、よく職員の会話に入ってきた。
そんな由香里さんを、君は何度も突き刺した。
由香里さんは、死んだ。

林雄二さんは 言葉は思うように話せなかったが、65歳とは思えない活動的な男性で、よく食事のあとの掃除や食器の片付けなどを自発的に手伝っていた。
とても仲間思いで、他の利用者が困っているとすぐに職員を呼びに来てくれて、すごく助かったという。
そんな林雄二さんを、君は何度も突き刺した。
雄二さんは、死んだ。

西暦2016年7月26日未明、相模原市緑区の社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり園」に侵入した君は、入所者ほか43名の身体を柳刃包丁などで突き刺し、うち19名を腹部刺傷による脾動脈損傷にもとづく腹腔内出血などで殺害し、その他の24名にはそれぞれ全治約6カ月間の前胸部切創、両手背挫創などの傷害を負わせた。

君は、「意思疎通の出来ない人は、幸せをつくれない」と語っていたそうだが、果たしてそうだろうか?
物言えぬ人々も意思疎通はできるし、誰だって生きているだけで幸せを感じられるのではないだろうか?

君は「障害者は不幸を作ることしかできません。周りを不幸にするので、いない方がよい」と語っていたそうだが、果たしてそうだろうか?
私の長男も障害者だが、彼のおかげで我が家は不幸や離散を免れることができて心から感謝している。

君は「障害者は死んだ方がいい」と言い、「こういう人たちは安楽死させたほうがよい」と主張しているようだが、果たしてそうだろうか?
それは障害者への差別であり、人間の自由・平等・博愛への挑戦ではないだろうか?

君は、アメリカの大統領トランプ氏の選挙演説を聞いて、今回の犯行を決意したそうだ。
君は、あの狂犬のような男の排他的な発言を聞いて、「障害者は要らない存在だ」と思ったのではないだろうか。

誰かを「この世で要らない奴だ」と言い切れる人間は、他人から「それならお前もこの世で要らない奴だ」と言われても仕方がない人間だ。
この世の中では、役に立つ人間も、まったく役に立たない人間も、同じように有用であり、同じように無用なのである。

どんな人にも、地上で安穏に暮らす資格がある。
その資格を、君は無慈悲に奪い去った。
どんな障害を持つ人にも、楽しく生きる権利がある。
その権利を、君は問答無用に奪い去った。

さあ、来なさい。君よ。植松聖という名の青年よ。
ここに座りなさい。君が殺めた19人の遺影の前に座りなさい。
佐藤耕作さん、鈴木良子さん、高橋義男さん、田中しのぶさん、渡辺一郎さん、伊藤百合子さん、中村純一郎さん、小林栄子さん、木村静子さん、山本大輔さん、加藤恵子さん、吉田宏さん、山田みずえさん、佐々木清さん、山口瑠璃さん、松本さゆりさん、井上健太さん、斎藤由香里さん、林雄二さんの霊前に、深く頭を垂れなさい。

さあ、来なさい。君よ。植松聖という名の青年よ。
君のその血塗れの両手を合せて、私と共に今は亡き19名の冥福を祈ろう。
せめて彼らが、この世で果たせなかった安気な暮らしを、天上で送れるように。
突如奪い去られた平安を、経巡る六道輪廻の中でおいおい取り戻せるように。

 
 

*お断り 文中の犠牲者の皆さんについての記述は、NHKの「19のいのち―障害者殺傷事件」ホームページの文章から引用し、要旨を適宜リライトしました。

 

 

 

夢は第2の人生である 第52回

西暦2017年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 


 

「マーサ製造所」という看板はいったい誰が掲げたのか? 「うどんそばを製造している我が家にはふさわしくないから、なんとかしろ」と、さっちゃんに迫るのだが、知らん顔してそっぽを向いているのだ。3/1

「なぜおれはなにをやっても成功するのか? それはおれが絶対に他人の真似をしないからだ」と、その男は吹きつける風に向かって叫び続けていた。3/2

ベンチで寝ころんでいる女の上を乗り越え、なおも進んでいくと、ストに参加した5、6人の労働者たちが、プラットホームに、マグロのように横たわっていた。3/3

部屋の中のニイニイが鳴き始めると、屋外のニイニイも、一斉にニイニイ鳴き始めたので、今年は豊作だと分かった。3/3

半年前に、渋谷でモザールの2台のピアノのための協奏曲を弾いていた青年と一緒に、同じ曲を演奏している。彼は「この半年間のことは全然覚えていない」というので驚いた。3/4

そいつは、私がつけた値段をコピぺしたものに、「?」マークをつけて、送って寄越した。3/4

我われは敵を見おろす高台の陣地にあって、一晩中篝火を焚いて警戒していたが、それは大平原の覇者と称されている敵だけに、一瞬の油断も許されなかったからだ。

アライサの元芸人は、ブースの中に一室を与えられていたが、特に仕事はなさそうだった。私がシエラザードのビデオをつけると、珍しそうに眺めていたが、お互いに一言も交わさずに別れた。3/5

そのホテルの支配人は、「うちでは1年間どんな忘れ物でもお取り置きしてあります」と言って、様々な貴金属や本やカバンを見せてくれた。3/6

展示会では、5社中2社からのサンプルが間に合わず、バイヤーからクレームが殺到した。3/7

サルマ川に着いたのは、もう夕方だったが、急激な引き潮の余波で、浅瀬には無数のバルウオがバチャバチャと跳ねまわっていたので、私らは手当たり次第に収穫して、晩御飯のおかずにした。3/7

久しぶりに7人の妾を夜の友としようと呼び出しをかけたのだが、誰一人としてやって来ないので、7軒の家を訪ねて、次々にベルを鳴らしたが、誰も出てこない。きっとどこかで7人で談合しているのだろう。3/8

予約しようと思って帝国ホテルへ行ったら、どういうわけだか、フロントに大勢の子供たちが列を作って並んでいたが、夜になると、子供もフロント係も、お客も、誰もいなくなった。3/9

夏の夜、体育館でブラブラ遊んでいると、誰かが「このパンツを、あんたに穿かせてやろう」と叫んだので、私は「僕は嫌だ。Tに穿かせろ」と言いながら逃げ出したが、とうせんぼしていたY子が、私の胸をドンと突いたので、私はその場でひっくり返ってしまった。3/10

空を眺めていると、世界中からタイキ者がやってくる。何をなぜ待機しているのか知らないが、アルゼンチン、アメリカ、イタリア、ウクライナ、ウズベキスタンのアイウエオ順で、世界中からタイキ者がやってくるのだ。3/11

アマゾンのタイムサービスで、私は一瞬の隙をついて、日本列島全域の不動産を買収してしまったのだが、その翌日から資金繰りで七転八倒することになってしまった。3/12

河出の文学全集の欠本をアマゾンで検索したら、なんと7億円の超高値がついていたので、これは妙だなと思いつつ、こないだの宝籤で7億円を当てたばかりの私は、ひょいとクリックしてしまった。3/13

自室に戻ると、数人の男女が談笑しながら煙草をふかしていたので、私は激怒して「お前たち! いったい誰の許しを得て入って来た。ここはおらっちの部屋だ。即刻出ていけ!」と怒鳴ったのだが、彼らは知らん顔している。3/14

九龍ホテルに連泊している私の部屋には、毎晩見知らぬ客が訪れたが、ある晩電通のフルカワと名乗る男から、私は2本のラジオ・ドラマの脚本を依頼された。
しかし私は生まれてこの方、ドラマのシナリオなんて書いたことがないので、はてどうしたものかと、悩みに悩んだ。3/15

下宿のおばさんは、万年床の少女探偵にほとほと愛想を尽かしていたが、かといって彼女を追いだそうとはしなかった。3/16

建築業界の若きボスとなって君臨しているかのように世間では噂されている私だったが、しかしてその実態は、若い妖艶な情婦の言いなりになる男奴隷なのだった。3/16

死の床に就いていた老将軍は、私を招いて遺言しようとしていたが、そうはさせじと悪代官がうろちょろするので、私は酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせている将軍の枕元に、なかなか近づけないでいるのだった。3/17

「ウスイと申しますが、キョウセンさんはいらっしゃいませんか?」という声がした。
すると路地の奥から声がして「おや、あのときのウスイさんですか。あれは10年前でしたね。でも昨日のことのようによく覚えていますよ。今日の出物は何ですか?」
という声が聞こえた。3/18

中国へ飛んだら、大きな変化が起こっていた。それは「情から無情」ということで、まさしくこれこそが、かの国の政治経済社会に決定的な影響を及ぼしていたのである。3/19

久しぶりに春闘で満額回答を勝ち取ったというのに、米原産業の労働者諸君に喜びの表情はこれっぽっちも見えなかった。みんな安倍蚤糞の所為だった。3/20

私が眼を瞑っていると、耳元で「センセ、ワダエミのこたあ、もうお忘れになったほうがよござんすぜ」という男の声がした。
ワダエミって誰だろう? 眼を見開いた私は、早速検索してみようと思ったのだが、あいにくどこにもPCなど見当たらなかった。3/21

満月の光に煌々と照らしだされて、真昼のように明るい大空の彼方から、突如巨大な惑星が大接近してきたので、驚いて見詰めていると、その惑星から打ちだされた無数の岩石が、我が家に押し寄せてくるので、私は妻子ともども、命からがら逃げ出した。3/22

銀座で4人でお茶していたら、紅一点のイラストレーターのカワムラさんが、突然「あなたたちは男根の世代なの?」とよく通る声で叫んだので、われわれ男どもは、手に持った紅茶のカップを、思わず取り落とすほど動揺した。3/23

昔のDurbanの服を着てみたら、思いのほか塩梅がよかったので、「なかなかいいなあ」と呟くと、そんな私をじっと見つめている女性がいるので、誰かと思ったら、もうとっくにこの世の人ではないコンドウ嬢だった。3/24

新書館と打ち合わせをするために、原宿の竹下通りを歩いていた私は、突然アオキ嬢がいなければ行っても無駄だと気付いたので、急いで会社に引き返そうとしたのだが、歩いている途中で、自分はいったいなんのために引き返すのかを忘れてしまった。3/24

生死を賭した菊人形劇の最終番で、私はコースを外れてしまったので、途方に暮れている。果たして本来の道筋に戻れるだろうか。3/25

そこはまことに夢のような楽園であったが、私は涙を呑んで、泣く泣くそこから立ち去らねばならなかった。3/26

犯人の井桁の紋どころの男は、どさくさまぎれに逃げ出そうとしたが、私が背後から首をギュッと締めたので、ようやく大人しくなった。3/27

「カルメン」でドンホセを歌った私は、カーテンが降りるや否や、気を失ってしまったが、劇場全体を覆い尽くす「ブラボー!」で意識を取り戻し、一緒に手をつなごうとカルメンを探したが、どこにも見つからなかった。3/28

昼飯を食おうと思ってパスタを注文したら、ぬあんと真っ白な肩を出した白雪姫が、席まで運んでくれたので大喜びしたのだが、白雪姫ときたら、真っ赤な唇を開いて麺を1本ずつおいしそうに吸い込んでしまうので、「僕にも早く呉れよ」と催促したのだが、彼女は皿を持ったまま引き返してしまった。3/31

 

 

 

「言葉なき歌」の方へ

さとう三千魚著「浜辺にて」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2013年の10月にツイッターで「さとう三千魚」という人の詩を見つけた私は、とてもよいと思い、お願いしてfbの友達に加えてもらいました。

すると翌年の7月のある日、さとうさんから、「自分が主宰するweb詩誌「浜風文庫」になにか書いてみませんか?」というお誘いを頂き、うれしくてうれしくて、得たりやおうとばかりに「夢日記」を連載させてもらったのが、そもそものはじまりでした。

佐藤ではなく「さとう」とひらいた名前と、そのアイコンの優しく柔らかなイメージから、なんとなく少女のようなイメージを懐いていたのですが、それは私の勝手な思い違いで、実際にお目にかかった「さとう三千魚」選手は、スーツをきちんと着こなした立派な社会人であり、隆とした男性詩人でありました。

そのとき、さとうさんは、「毎日毎日大工がかんなくずを削るように毎日毎日詩を書いていきたい」とおっしゃたので、「それは凄い。それってまるで詩の修行僧ではないか!」と思ったのですが、この直観は当たらずとも遠からずだったといえましょう。

さて、肝心の詩集の話です。

作者の前の詩集「はなとゆめ」(無明舎出版刊)は、どちらかといえば薄い本でしたが、今度の詩集はものすごく部厚かったので、とても驚いた。
部厚いけれども、非常に軽い。そして使われている紙が、昔懐かしい藁半紙のような柔らかい紙だったので、またまた驚いた。

私はイギリスのペンギン・ブックスから出ている<THE PENGUIN Guide to Compact Discs>というクラシック音楽CD批評の部厚いカタログが大好きで、毎年丸善か紀伊國屋で購入して、夏の昼寝の枕に使っていたのですが、まさかそんなスタイルの詩集が登場するとは夢にも思わなかったなあ。

桑原正彦画伯による、邯鄲の夢のようにほのかなタッチの表紙の絵も、今回の「浜辺にて」という表題にぴったりです。

この本を開くやいなや、たちまち作者が愛してやまない故郷の海の光景が広がってくる。
青空を飛ぶ雲、寄せては返す波の音……
白い渦が泡立つ浜辺からは、磯ヒヨドリやカモメたちの鳴き声が聞こえてきます。

愛犬モコと一緒にそれらに見入り、大いなるものと一体になっている作者は、もしかするとこの世の人ではないかもしれぬ。
自然と永遠に溶け込んでいる存在、実在と非在を行き来する夢幻のような存在、作者の言葉を借りれば、「この世の果てを生きるしかない」存在かもしれません。

ふだん一個の生活者として暮らしている私たちは、言葉を持たない。
持たないけれど、四六時ちゅう、「ない」言葉を発している。
人間界も自然界も、全世界が「ない言葉」で満ち満ちている。
その「ないはずの言葉」にじっと耳を傾け、観取し、共感し、随伴する言葉を発する人が、さとう三千魚という詩人なのでしょう。

中原中也には「言葉なき歌」という詩があり、メンデルスゾーンにも同名のピアノ作品がありますが、この詩集のいたるところから聞こえてくるのは、作者みずからが言う「コトバのないコトバ」、言葉以前の言葉、言葉の果ての言葉、なのです。

父母未生以前のなんじゃもんじゃ珍紛漢紛蒟蒻問答はさておき、今度の詩集には楽しい仕掛けと言葉遊びがちりばめられています。

それはまず、日付のある日録ドキュメンタリー風の展開です。
かんなくずを削るように、「日にひとつのコトバを語ろう」と作者は言う。

次に作者が採用したのは、なんとツイッターの「楽しい基礎英単語」から自由に引用されたさまざまな英単語を枕詞にして、そこからおのずと引き出される思い出や森羅万象への想念を、間髪を容れず即興的に書き綴るという大胆不敵なライヴポエム手法です。

たとえば、2013年10月29日の<fish 魚>という項目の詩は、こうです。

 

ひかりの中で揺らめいていた

明るい川底の
小石のうえの魚たちは揺らめいていた

コトバは
なかった

すべてだった
すべてだとおもった

水面に太陽が光っていた
水藻がゆらゆらと揺れていた

丸い眼をしていた
魚たちにコトバはなかった         (引用終わり)

 

ここには、一匹の魚になって魚たちと合体している少年がいる。
そうしてこの世で生きることの意味、世界の、宇宙の摂理を一瞬で体得した一人の元少年がいる。

さらに私たちは、百科全書的な言葉遊びを超え、宇宙の本質をみつめ、事物を自分の目と言葉で再定義しようとする一人の哲学者の心意気をも感じ取ることができるのではないでしょうか。

最近作者が熱海駅で倒れたという突然の報は衝撃でしたが、前途有為な詩人の一日も早い回復と新たな飛翔を願ってやみません。

 

*「浜辺にて」(らんか社刊)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B5%9C%E8%BE%BA%E3%81%AB%E3%81%A6-%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%86%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%AD%9A/dp/4883305031/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1499088428&sr=1-1

*「はなとゆめ」(無明舎出版刊)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%82%86%E3%82%81_%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%86%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%AD%9A/dp/4895445887/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1499088428&sr=1-2

 

 

 

ゲオルク・ショルティの「神々の黄昏」

音楽の慰め第17回

 

佐々木 眞

 
 

 

ゲオルク・ショルティ(1912-1997)は、ハンガリー生まれの指揮者です。後年は英国に住んでロイヤルオペラの総監督を務めたので、女王陛下から称号を賜り、かの国ではサー・ジョージ・ショルティと呼びならわされていました。

彼はリスト音楽院でピアノ、作曲、指揮を学びましたが、1942年にはジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、名ピアニスト兼指揮者として国際的に活躍するようになりました。

私は80年代の初めにNYのカーネギーホールで彼が手兵のシカゴ交響楽団を振ったショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴きましたが、文字通り血沸き肉踊る、唐竹を真っ向真っ二つに割ったような豪快な演奏でした。

おそらくマジャールの血を引いているのでしょう、その精力的な顔つきと、その特異な風貌にふさわしいエネルギッシュな指揮ぶりは、どんな凡庸なオーケストラをも激しく鼓舞して、その最善最高の演奏を引き出していくのです。

シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、そのように指揮も見るからに精力的でしたが、あちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナ、ヴァレリー・ピッツ嬢と一目ぼれで再婚し、たちまち可愛い子をなしたのでした。

そんなショルティの代表的な録音といえば、有名なマーラーの交響曲全集もさることながら、やはりステレオ初期の1958年に、有名な名プロデューサー、ジョン・カルショー率いるデッカのチームによって録音されたワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲にとどめをさすでしょう。

世界的にはトランプ、日本的には安倍蚤糞という史上最悪の暗愚指導者が、世界と日本を滅茶苦茶にしている今月今夜の音楽の慰めとして、最もふさわしいのは、その「指輪」の終曲「神々の黄昏」でありましょう。

「ジークフリートの葬送曲」が流れる中、ブリュンフィルデの放った火は、神々の居城に燃え移り、主神ヴォータンも、えせ指導者のトランプも、その愚かな忠犬安倍蚤糞も焼け死んでしまいます。

天下一品のウィーンフィルのオケの咆哮をものともしないジークフリートのヴォルフガング・ヴィントガッセン、ブリュンフィルデのビルギット・ニルソンの絶唱は、文字通り歴史的名演奏と申せましょう。

 

 

 

夢は第2の人生である 第51回

西暦2017年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

世にも恐ろしい化け物に襲われて命からがら逃げかえったのだが、地方局の報道を使ってそいつを退治する志願者を募ったら、Aさんが早速協力すると申し出てくれたので、来週一緒に出かけることにした。2/1

少数精鋭の突出主義によって権力を掌握したオグロ選手は、「このホテルにいる貴人を捕虜にすれば、なお80日間クーデターを延長できるはずだ」と力説したが、私だけは断固反対して戦列を離れた。2/2

不倶戴天の敵将と対決しようと盛り上がっていたら、そこへ大勢の難民たちが逃げ込んできたので、戦闘どころではなくなってしまったのだが、そこへ現われたカトウテンメエ氏が「有難う、お蔭で助かったよ」と礼を言う。なんのことやらさっぱり分からない。2/4

試合の冒頭でいきなり私がゴールしたので、安心しすぎたのか、わがチームは終盤に同点、逆転打を決められて、もろくも初戦で敗退してしまった。2/5

地下球場で練習試合をして、疲れ果ててゴロゴロ雑魚寝していたら、「あらイチローがいるじゃない。サインしてもらおう」と人々が押しかけたのでジロウ、サブロウ、シロウたちが拗ねた。2/6

茶の間で飯を食っていると、突然長男が発作を起こしたので、飛んで行って抱き起していると、やはり彼を助けようと身を伸ばした妻も、パニック障害を起こして倒れてしまったので、私が右ひざで隣の父親をつつくと、私に向けたその顔は、私そっくりだった。2/7

「能登の猛将」と称された私だったが、このたびの戦を前にして、なぜかまったく意気消沈し、押し寄せる敵に立ち向かう気力が、どこからも湧きでてこないのだった。2/10

新型爆弾を抱えたドローンを、上空から猛スピードで次々に墜落させると、さしもの難攻不落の地下要塞も、一夜にして陥落してしまった。2/11

上司があるページのレイアウトについて、写真と文章の比率がどうじゃこうじゃ、と難癖をつけるので、それがどうしたこうした、と押し返しているうちに、戦争が始まって廃刊になってしまった。2/12

核戦争で廃墟と化した新宿の元高層ビル付近を、加藤嬢と歩いていると、3名のチンピラに襲われたので、私はベルトから3本のナイフを取り出して投げつけると、狙いは過たず、彼奴等の心臓にズンと突き刺さった。2/13

ある日、殿が敵に襲われそうになったので、私は殿の刀の刃の中に潜り込んで、敵が斬りつけるたびに、刃の中でハッシハッシと受け止めたので、殿は危うく一命を取り留め、私は殿より褒賞を賜った。2/13

真っ暗な野原を歩いていると、うしろから野良犬が猛烈なスピードで走って来て、私を追い抜いて、深い川に飛び込んで水を飲むと、今度は私に飛びかかって来た。2/14

どういう風の吹きまわしか、私はチンポコをおっ立てたまま、4枚のパネルを別宅まで運んだという「鉄の男」として、みんなから尊敬されるようになった。2/15

とうとう万人が万人の敵となるホッブスの夜がやって来たので、私たちは数十人づつに別れて、夜の闇の底を足音を立てずに歩いた。

ランチをとろうと、放送出版の若者と一緒に急な階段を下りていく途中で、私は足を踏み外して宙ブラリンになってしまったので、若者たちに助けられた。彼らの後を追ったが、行方が分からなので、どこかでランチを取って事務所に戻ると、彼らも戻っていた。2/16

放送出版の若者たちは、新譜の宣伝を担当しているのだが、試聴盤が少ないので、自分でCDやDVDに焼いて、それを局や識者や評論家たちのところに届けるのだ、といって、私にもオランピアのテスト盤を呉れた。2/16

歴代3代にわたるわが社の宣伝担当が、久しぶりに一堂に会し、激論を交わしながら、丸1日がかりで最新のCM企画案を作り上げたのだが、考えてみれば、そこには現在の担当者など誰もいないのだ。2/17

私は昔とった杵柄で、クリスマスの幻想的な空間を見事に演出してのけたので、周囲の絶賛を博して、いい気になってしまった。2/18

私は革命的フィルムの開発に没頭して、家庭をてんで顧みなかったのであるが、半年ぶりに帰宅したら、妻君が夢中でぺんてるでお絵描きをしていたので驚いた。2/19

私は、「今日のイベントの内容を、このビデオにすぐに取り込め」と、部下のムラタに指示したが、ふくれっ面のムラタは、返事しなかった。2/19

2017年2月某日午前1時、リンチョン氏は、開口一番こう喚いた。「べらぼうめ。てやんでえ!」2/21

村人たちは、思い思いに自分の大切な人を車に乗せて、いずこへか逃れ去って行きました。2/23

ヤフオクに出品したら、早速落札者が出たのだが、送料が分からないから発送できず、いらいら焦っているわたし。2/24

クォーターバックに新人の平岡を起用してからというもの、わがチームは連戦連勝で、あろうことか、とうとうリーグ優勝まで果たしてしまった。こういう男こそ、真のラッキイボーイというべきなのだろう。2/25

逗子芸術文化会館の竣工式の日に、桜尾源兵衛の葬式があったが、彼の棺は、大勢の若者たちによって、まるで神輿のように担がれて、自宅から会館まで運ばれていった。2/26

ようやくバスがやって来たので、乗ろうとしたが、あまりにもぎゅうぎゅう詰めの超満員だったので、私だけが乗りきれず、バス停に取り残された。2/27

隣の家の男の子と女の子が、トルコのメヴレヴィ教団のセマーのように、ぐるぐる回りながら踊っているので、私も仲間に入ろうとしたのだが、輪の中に入れなかったので、はじめて歳を感じた。2/27

「そういえば、吉藤さんチのお庭の左奥には、池があって、鯉や金魚がたくさん泳いでいましたね」と尋ねたら、吉藤さんから「そうでしたっけねえ」という素気ない返事が返ってきたので、私は、自分の記憶に急に自信がなくなった。2/28

 

 

 

瀧廉太郎の「憾み」

音楽の慰め 第16回

 

佐々木 眞

 
 

 

私のような年寄りでもまだまだ死にたくないのに、20代、30代という若さで死なねばならなかった人たちの悔しさはいかばかりだったことでしょう。

私の好きな古典音楽の世界に限ってみても、ウイーンで31歳で死んだシューベルトや35歳でみまかったあのモーツアルトをはじめ、20世紀になっても数多くの指揮者や演奏家が早世しています。

例えば私の好きな1920年生まれのイタリア人指揮者のグィード・カンテッリは、1956年11月24日未明、パリ発の飛行機が郊外で墜落し、36歳で不慮の死を遂げたのです。その8日前にスカラ座音楽監督就任が発表されたばかりの死は、世界中から惜しまれました。

天才女流ヴァイオリニストと謳われたジネット・ヌヴーも、30歳を目前に1949年10月27日、エアフランス機の飛行機事故で夭折しました。

それから4年後の1953年9月1日、同じエアフラの同じ機種に乗ったフランス人の名ヴァイオリニスト、ジャック・チボーは、72歳にしてアルプスの山に激突して命を失いました。

翻って我が国の悲劇の音楽家といえば、「荒城の月」や「箱根八里」の滝廉太郎でしょう。1879(明治12)年に現在の港区西新橋に生まれたこの天才は、長じて今の藝大で作曲とピアノを学び、1901(明治34)年にはドイツ・ライプチッヒ音楽院に留学しますが、その5か月後に肺結核を患って翌02年に帰国。1903(明治36)年6月29日、故郷大分で弱冠23歳の若さで、憾みを呑んで亡くなりました。

「憾みを呑んで」というのは、言葉の綾ではありません。
彼が死を目前にして書いた生涯で最後の曲、それは「憾」というタイトルの、涙なしには聴けない遺作でした。

滝廉太郎はクリスチャンでありましたから、敬虔な基督者が、神さまに対して自分の薄幸の身の上を恨んで死んだはずはない、などと尤もらしいことをのたまう向きもあるようですが、この音楽を聴けば、そんな悠長な解釈なぞどっかへ吹っ飛んでしまいそうです。

今宵はそんな曰くつきの遺作を、小川典子さんのピアノ演奏で聴きながら、若き天才の冥福を祈りたいと存じます。最後の一音に耳を澄ましつつ。