夢は第2の人生である 第50回

西暦2017年睦月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

白い顔の女と宿屋に入ったら、なぜだかもうひとり顔のない女も一緒に入ってきた。他には誰も客がいない2階のだだっぴろい大広間に布団を敷いて、まだ夜にもならないのによもやま話をしていたら、急にその気になったので、私が白い顔の女の上にのしかかると、顔のない女は気を利かせて、別の部屋に逃れ去ったのだが、宿屋の女将がいきなり部屋の襖を開けはなったので、私たちはひどく興ざめしてしまった。1/2

私は大統領との面会を果たべく延々と待たされているのだが、いつまで経っても名前を呼ばれないので、だんだん頭に血が上って来た。1/3

真冬だというのに、真っ白な百合が、巨大なサソリの形で咲き誇っている。そしてその花弁の奥のメシベの一つひとつに、ウラナミシジミが長い口吻を伸ばしていた。1/4

落城が間近に迫った城内では、敵軍の侵入で自分の命が危ぶまれるというのに、兵士も城民も、城中のどこかに隠されているという財宝を求めて、狂ったように宝探しに狂奔していた。1/5

我が右手の長剣を振りかざしながら、2度までも突撃したけれど、武運つたなく、私は敗軍の将となった。1/6

亡命ロシア人のオリガ姫が、「私ももう歳でくたびれたからそろそろ故国へ帰りたい」とレストランのオーナーに訴えたが、これまで通り日露のスパイを続けてほしいといわれて、泣く泣く引き下がった。1/7

正月にやってきた親戚の子供たちに、気前よく300万円もお年玉をばら撒いてしまったので、私は今年に予定していた詩集の処女出版を諦めざるを得なくなってしまった。1/9

オグロ選手は、私を美味い料理屋に連れて行ってやろうと考えていたのに、私が勝手にそこいらの一膳飯屋で晩飯を済ませてしまったのを腹立たしく思っていたとみえて、あっという間に行方をくらましてしまった。1/10

取り残された私は、裏通りをふらふら歩いているうちに、まわりが純白に輝くジュラルミン回路に入り込んだが、逝けども行けども出口に辿りつかないし、時々は背後から高速弾丸列車が通過するので、危なくて仕方がない。1/10

そのうち、前方の踊り場のような空間に濃紺の顔をした、ウルトラセブンの姿が見えた。私が「一刻も早くここから出て地上の駅まで行きたいのだが、どうすればいいか教えてくれないか」と尋ねると、ウルトラセブンは「もうすぐオグロがここにくるはずだ」と教えてくれた。1/10

十二所でいちばん早く咲く白梅を見に行ったら、花も木も枝もあとかたもなく消え失せていたので、こりゃ大変だ、夢から覚めて朝が来たら、すぐに現場へ行ってみなくちゃ、と焦った。1/10

ヤフオクの競売に、またしても500円差で敗退してしまい、悔しくて悔しくて、てんで眠れなかった。1/11

かこっこいい俺様は、有名な建築家がデザインしたかっこいいトップホテルのバーで、かっこいい服着て、かっこいいポーズを決めていたが、誰一人その俺様を見ている人はいなかった。1/12

「ああ、まんべんなく焼けたビーフカツを食べたいなあ」という要望が寄せられたので、うちの軍の料理人に頼むと、早速美味しいビーフカツを作ってくれた。1/12

野原であおむけになって、お天道様の激しい光を感じながら目をつむっていると、私の唇の上に、数多くのてふてふがとまって、羽根を休めているのに気付いた。1/13

マージャンなんて何十年もやっていなかったのに、サトウ君にヤクマンを振りこんでしまい、お金の持ち合わせなんか全然ないからどうしよう、困った困った、と冷汗をかいていると、有難いことに夢から覚めて夢だと分かった。1/14

敵の追跡から逃れるために、わしは長い間ほら穴の中に隠れ住んでいたが、その快適さがすっかり気にって、穴から出るときに、読み残したたくさんの書物を、そのまま穴に置いてきたほどだった。1/15

好いた女と奈良に旅立ち、昼間から旅館に部屋をとって、早く寝ようと思ったのだが、まだ女中が掃除しているので、布団が敷けない。仕方なく、夕方まで時間をつぶそうと町中を散歩していたら、女の父親と出くわして、女を無理矢理奪われてしまった。1/16

それで仕方なく知人のナラさん宅に逗留していた私は、ある日、ナラ宅を訪れた妙齢の美女と意気投合したので、一刻も早く寝たいと思ったが、まだ真昼なので、仕方なく、夜が来るのを待っていた。1/16

ところが夕方になると、東京からフマ君がやって来て、「これからナラ宅で、全世界アナキスト同盟の日本支部総会を開催する」と宣言したが、私はあまり興味がなかったので、くだんの美女と手に手を取ってフケた。1/16

会社の忘年会の余興に、地元の去年のものつくりコンクールで佳作に選ばれたひょっとこのお面を被って「アイハブアメン踊り」を歌って踊ったのだが、てんで受けなかった。1/17

留学はしたものの、現地の言葉がてんで分からないので、私は急いで語学学校に通うことにした。1/18

洞窟の奥に棲息していたその猛虎は、安全な隠れ家だと信じ込んでいた人々を、次々にゆっくりと喰い尽くした。1/20

コンサート会場には、大勢の人々がたむろしていたが、ここでは受付で名前を呼ばれた限られた人しか入場できなかった。「ミスタ・スティング」という名前が呼ばれると、私の隣にいた男が黙って入場していった。1/21

トランプ大統領の就任演説を聞きながら、刑事コロンボの妻がボタンをつけていたのは、冬物のガウンではなく、よれよれのレインコートだった。1/22

わが劇団では、今回木下順二の「夕鶴」を舞台にかけることになったが、座長が「今回は団員1名につき100名分の切符代を負担してほしい」といいだしたので、「与ひょう」役の私は、即座に退団した。1/23

ヤフオクで買ったばかりのCDプレーヤーのボリュウムを上げると、いきなり再生が停まる。何回やっても停まってしまうので、眼がさめてから実際にやってみると、やっぱり停まるので、夢にも値打があることが分かった。1/25

私は中国の田舎に派遣されて、土地を測量することになったのだが、あまりにも広大過ぎて、どこから手をつけていいのか考え込んでいるうちに、早くも3カ月が過ぎてしまった。1/26

私はその地方の「がっつき踊り」を踊るために、全速力で坂を下って皆と合流した。1/27

せっかくのメンズウエアの新ブランド発表会なのに、突然の大雨で出席者一同ずぶぬれになってしまった。すると新作のウエアを一着に及んだお寺の坊主たちが、徒党を組んで行進してきたので、雑誌の編集者やプレス関係の連中も、その後に続いていなくなってしまったから、主催者は泣いたり怒ったりしている。1/28

私は、夢中になってサボテン狩りをしていた。恐らくトップは私だろう、と思いこんでいたのだが、なんと最後の最後でナガオ氏に抜かれてしまい、虎の子の1万円札を取られてしまった。1/29

我が家を訪れた柔道家が、ぜひ私の家にも来てくれ、と言うので、訪問すると、庭の真ん中に、柔道着をきてポーズを決めた彼の銅像が建っていた。1/30

 

 

 

旅の日のモーツァルト

音楽の慰め 第15回

 

佐々木 眞

 
 

 

1787年の秋、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ夫妻は、ウイーンを発ち、3頭の郵便馬に曳かれた駅馬車に乗ってプラハに向かいました。

故郷ザルツブルクやウイーンと違って、つねにモーツァルトに好意的だった中欧の音都で、彼の畢生の傑作歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を初演するためでした。

メーリケの小説「旅の日のモーツァルト」(岩波文庫・宮下健三訳)を読むと、この秋の日の天才音楽家の浮き立つような高揚した気分が、めまぐるしく回転する車軸の軋みと共に、読む者に生き生きと伝わってきます。

この年の5月には父レオポルトに死なれ、ウイーンでの暮らしにはいささか暗雲がたちこめてきた31歳のモーツァルトでしたが、名作「フィガロの結婚」に続いて「ドン・ジョヴァンニ」を書き終えたこの若者は、「ウイーンが駄目なら、プラハがあるさと」ばかりに、胸に希望を膨らませながら、橙色の美しい駅馬車に乗り込んだのでした。

この生きる喜びにあふれた「旅の日のモーツァルト」にもっともふさわしい音楽、それは彼が女流ピアニストのジュノーム嬢に捧げたピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271の第3楽章2分の2拍子のロンドでしょう。

たとえ世の中に絶望と不安が渦巻き、心身共に疲労困憊していても、モーツァルトの希望の調べを耳にすると、たちまち一縷の光が前途に差し込んでくるのですから、音楽の力は偉大です。

では早速、わが内田光子嬢の若き日の演奏で聴いてみましょう。第3楽章の冒頭から終りまで聴いた後、第1楽章から全曲聴いて頂けたらうれしいです。

 

 

*写真の前列左端が、1840年78歳のモーツァルトの妻、コンスタンツェ。彼女はその2年後に没した。

 
 
 

由良川狂詩曲~連載第11回

第4章 ケンちゃん丹波へ行く~いざ綾部へ!

 

佐々木 眞

 
 

 

「よおし、分かった。僕はすぐに綾部へ行く。お前もすぐに由良川へ戻って、みんなに安心するように伝えてくれたまえ」

と、ケンちゃんは漱石の坊っちゃん風に水盤に向かって叫びました。
それを聞いたQちゃんは、思わず、

「やったあ、やったあ、ついにウナギストとしての使命を果たせたぞお。うれしいなあ、うれしいなあ!」

と、本日最長不倒距離の跳躍を試みて、その喜びを力強く表明したことでした。

ケンちゃんは、波頭を超えて数千里の大冒険が終ったばかりだというのに、ふたたび命懸けの大旅行へ旅立つ、か細いQちゃんの背中を、そっと人差し指で名でなでてやってから、水盤の中のQちゃんを、手のひらですくいとり、自宅の前をさらさらと音を立てて流れる滑川の支流へ、そっと放してやりました。

Qちゃんはケンちゃんに向かって尾ひれを小さく3回振って、さよならをいうのももどかしそうに、彼なりの全速力で下流めがけて泳いでいったのですが、Qちゃんのそんな姿を、この付近をいつも周回しているシラサギとカワセミが、無言で見送っていました。

「さ、急に忙しくなったぞ。今日中にぜんぶかたずけなくっちゃ」

ケンちゃんは、ふだんはやりませんが、やる時はやる男の子です。
その日のうちに全教科の1週間分の予習復習宿題その他もろもろを一気にやっつけてしまうと、大好きなお母さんと兄貴のコウちゃんに宛てて、さらさらと書き置きをして、冷蔵庫の扉に貼り付けました。

そしてドラエモンの貯金箱を金づちでぶち壊して出てきた全財産を、着替えと一緒にリュックの中に入れ、その日の午後1時5分、十二所神社発鎌倉駅行きの京急バスに飛び乗ったのでした。

冷蔵庫のメモにはこう書かれていました。

「お母さん、コウくん、お帰りなさい。突然ですが、綾部へ行ってきます。
由良川の魚たちが、悪い奴らに滅ぼされてしまいそうなんだ。
そして、僕しか助けられないんだ。
だから、2,3日綾部へ行ってきます。
5月の連休で学校も日曜を挟んで3連休だからいいでしょ?
綾部のおじいちゃんとおばあちゃんに、電話しといてください。
お金は、貯金を使うからダイジョウブ。
心配しないで帰りを待っててネ。バイビー!
追伸 勉強はぜんぶ終わらせといた」

そしてその日の午後3時ごろ、鎌倉駅から横須賀線に乗ったケンちゃんは、一路丹波に向かったのでした。

横浜駅で新幹線に乗り換え、京都に着いたのが午後7時半、そこから山陰本線の急行で1時間半、ちょうど夜の9時過ぎにケンちゃんは綾部の旧市街の目抜き通りににある「てらこ」の入り口に立っていました。

「こんばんは、ケンです!」

と言ってケンちゃんが、既に店仕舞いを終えたのに煌々と明かりをともしている下駄屋さんのガラス戸をとんとんたたくと、おじいちゃんとおばあちゃんが、2人揃って飛び出してきました。

「おお、、おお、よおきたのお、ケンちゃん。鎌倉のお母さんから電話があったから、まだか、まだかと待っとったんやど」

セイサブロウさんは、そういって可愛い孫の顔をうれしそうに、心配そうに、のぞきこみました。おばあちゃんのアイコさんは、黙ってケンちゃんを抱きしめ、ほっぺたにブチュっとキスをしました。
ケンちゃんはすぐに逃げ出そうとしたのですが、アイコさんはなかなか放してくれません。

その夜は、久しぶりに話が弾みました。
綾部と鎌倉の2つの町を結ぶ有名な武将の話を、セイザブロウさんがしてくれたのです。

室町幕府を開いた足利尊氏の母は、その名を上杉清子といい、上杉の本貫地は丹波の上杉でした。彼女は上杉の光福寺というお寺で生まれ、少女時代を過ごしたのです。
光福寺はのちに丹波安国寺になりますが、このお寺は足利氏支配下の全国に設置された安国寺の筆頭と定められ、最盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数えました。
丹波梅迫の安国寺は、綾部の市街地から由良川を隔てた北の山の斜面にあり、本堂の右手の木陰に清子と尊氏、そして尊氏の妻、赤橋登子の墓が並んでいるそうです。

その足利尊氏は鎌倉に住み、後醍醐天皇の命によって、新田義貞などと共に鎌倉幕府を倒し,京に室町幕府を開いた人ですから、綾部に生まれ、京に遊び、鎌倉に住むケンちゃんのお父さんと少し共通点があるような気もしますが、時代も人物のスケールもまったく違うので、やはり全然関係ないのでしょうね。

ところでケンちゃんのお父さんのマコトさんは、半年前に会社の仕事でNYに出張したのですが、一週間で帰国するはずが、どういうわけか行方不明になり、NY市警に捜索願を出したのですが、今のところなんの手がかりもないのです。

支店の人の話では、なんでも三カ月ほど前にブロンクスで黒人の女性と一緒に歩いているところを見かけたそうですが、それっきり。
みんなは、事故にでも遭ったのではないかと心配しているのですが、じつはマコトさんは以前スペインのマドリードでも行方不明になり、半年後に突然成田に元気な姿を見せたので、会社も家族も、もうすぐ帰ってくるだろうと、たかをくくっているのでした。

そんなわけで父親不在のケンちゃんでしたが、とっても元気。
アイコさん心づくしのタケノコご飯を、おいしくいただき、その夜はぐっすりと眠りました。

 

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夢は第2の人生である 第49回

西暦2016年師走蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

突然家の中に大きな蛇が入ってきたので、ゼンチャンもコウチャンもケンチャンも大騒ぎ。お母さんが大蛇の上に座布団をかぶせたので、私はその上から岩を落としてやろうと思ったが、念のために座布団の下をそっと覗いたら、それは大蛇ではなく人間の顔だった。12/1

某国との平和友好条約が締結され、その記念式典が開催された。私はその祝祭コンサートの演奏をする一員なのだが、最高に盛り上がったコーダの部分で、携帯の呼び出し音をうまく鳴らせるかどうか自信がなくて、ひどく緊張している。12/2

私の目の前で、前田嬢が、あほばかナベショーの横暴と徹底的に戦っている。じつに偉い。立派な女性だ。12/2

最近会社へ行っても、竜宝部長も今中課長もいない。事務の安永さんに聞いても「さあどうしたんでしょうねえ」と言うばかりなので、近所の居酒屋を探したら、朝から飲んだくれていた。12/3

兄貴が、おらっちのスケをこましたので、おらっちも、兄貴のハクイスケを、2回こまして、倍返ししてやった。12/7

私は、私に、致命的な毒液を注射しようとした、電通の営業の男を、投げ飛ばし、崖から突き落として、九死に一生を得た。12/8

久しぶりに海づりに行ったら、タイやヒラメがどんどん釣れるので、驚いていると、海から死んだ祖父が出てきて「わしは、じつはコヤナギルミという童話作家だったんだ」というたので、驚いた。12/9

幕府から選ばれた10名の男女は、下にも置かない厚いもてなしを受けたのだが、「1対の男女でも親しくなれば命はない」と厳命を受けたので、ひどく緊張を強いられていた。12/10

今中課長から「君は関連会社へ出向してくれ」といわれ、今の会社に飽き飽きしていた私は喜んで、まずは偵察にといそいそ出かけたのだが、そこでじつに不可思議な女と出くわした。12/10

コンサートが終わって、会場から出てくる群衆の中に、死んだはずの義母を見つけた。神宮プールを覗きこんでいるので、きっと私の死骸が浮いていないか心配しているのではないかと思って、私はおずおず「おかあさん」と声を掛けた。12/11

すると彼女は驚いた顔をして、「あらマコトさん、どうしてこんなところにいるの?私はミエコを探しに来たのよ」というので、「ミエコはここじゃなくて、逗子のプールで泳いでいるんですよ」と教えると「あらそうなの」と答えたその顔は、ずいぶん若かった。12/11

今年の世界図書館展は、アフリカで開かれたのだが、書籍の展示が天地さかさまになっているので、修正するのに半日掛かった。食堂へ行っても、食事も水さえないので、私はどうしてこんなところまでやって来たのか、と我が身を呪った。12/12

運転などやったことがない私は、女をスピードカーに乗せ、ひしと抱きしめたまま、山から野原へ、野原から街へ、街から海へ、ドドシシドッドと全速力で疾走したが、不思議なことに、誰にも出会わず、何物とも衝突しなかった。12/13

大混雑のレジで、私は誰かの財布を拾った。中に入っていた5千円札をこれ幸いとこっそり引き抜いて、それで勘定をすませようとしたら、担当のオヤジが「ちょっと待ってください」と言うので、小心者の私はびくっとした。12/13

新宿まで進出してきた中国軍を、わが連隊は奮戦して銀座8丁目まで押し返したので、彼らは、東京湾から撤退していった。12/14

「おいらはCMをウオッチするために、これまで民放ばかりみていたので、いましばらくはNHKだけみることにしているんだ」というと、テツちゃんが「こないだやっていた「たきやかな夜」というドラマみましたか?」と尋ねた。そんなの聞いたこともない。12/15

万能の人工知能アンドロイドをプレゼントされたので、私は、こいつをローマ時代の奴隷のようにこき使ってやろう、とひそかに考えた。12/18

私は破産してしまったので、来年3月まで、キンサンギンサンのために勤労奉仕をするように命じられた。12/19

私の膝に倒れ伏した芸者の松坂慶子が、「わたし、もうどうなってもいいの。今夜ここに泊めてください」と泣きながら訴えたのだが、うぶな私はどうしていいか分からず、うんともすんとも答えられなかった。かくして運命の決定的瞬間は過ぎ去った。12/20

行動計画表を見ると、午後2時に鎌倉ではなく相模原を出発することになっていたので、私は郷土防衛軍第8連隊を率いて、急遽相模原に向かった。12/21

「冬場は火事にならんように、火の用心をするんじゃよ」と、そのお爺さんは何度も警告していたのに、わたしたち子供会の落ち葉焚きが原因で、街は丸焼けになってしまった。12/24

セイさんと一緒に帰り支度をしていたら、赤ちゃんを連れた若い女性が、わたしたちになにやかにやと話しかけてくるので、「うざったいなあ」と思いつつも、なかなか可愛い顔をしているので、むげに振りきることもできず、いつまでもうだうだ関わっているわたくし。12/25

永代のデザイナーとショーを見物していたら、松平さんが「あなたずいぶん昔のスーツを着ているのね?」と揶揄するようにいうたので、「ええ、昭和10年代の古着です」と答えてしまった。本当は80年代のコムデギャルソン・オムの残骸だったのだが。12/28

隣の家との隙間に3.15平方メートルの土地を持っていたのだが、ついもののはずみで、「御主人に差し上げてもいいですよ」と言ってしまったことを、私は朝まで後悔していた。12/29

NYの美術館から10枚のスケッチの発注を受けた田中君が、あっというまに訳のわからない心象画を描き上げるのを、私は茫然と見つめていた。12/30

判決が下り、私は海に突き落としたばかりの武者人形を、たった一人で海底から地上に引き揚げなければならなくなった。12/30

橋本氏と別れた後、プラットホームで電車を待っていると、赤ちゃんを連れた若い女が、どこかへ連れて行って欲しい、とねだるので、映画を見たりお茶をしたりしていたが、ずいぶん遅くなって電車も終わってしまったので、ホテルに入って寝た。12/31

私が浅草公園から引っ張ってきた風来坊シェフの超お買い得弁当は、物凄い売れ行きである。100名様限定の「さわこの初恋弁当」などは、それこそあっと言う間に売り切れた。12/31

 

 

 

長尾高弘 詩集「長い夢」を読んで、若い人に会う。

 

さとう三千魚

 

 

長尾高弘さんの詩集「長い夢」を読んでみた。
1995年に出版されているが1983年以前に書かれた長尾さんが18歳から23歳の頃の作品なのだと「あとがき」にある。

わたしにも若い時はあったが、長尾高弘さんにも若い時はあったのだろう。
この詩集の詩は、いま長尾高弘さんが書かれている詩とは違って見えるが通底するところもあるのだろう。

「白いもの」という詩がある。

 

白いもの

私の
ゆらゆら揺れて
崩れて流れそうな風景の虚像は
噛めば噛むほど
白く
ぐにゃぐにゃと粘着してのび
顎骨を抱きこみ締めつけるが
噛むことは決してやめてはならない
それは口からはみ出して
まず両眼をつぶしにかかり
頬にも首にも乳首にもへばりつき
瞬く間に田虫のように全身にひろがって
大きく波うつ
そして白いのっぺらぼうの団子になった
私はじっとしていることは許されず
穴だらけの地面を
頼りなげによろよろ転がり
やがて鈍い音を残して
なくなる

 

世界は「崩れて流れそうな風景の虚像」として見える時があるだろう。
世界は「ぐにゃぐにゃ」に見えることがある。
この「白いもの」とは自己なのだろう。
自己は「大きく波うつ/そして白いのっぺらぼうの団子になった」のだ。

また、ひとつ「満月」という詩を読んでみる。

 

満月

ある日突然
抜け毛が気になり出し
またある日突然
止まった
頭の頂上に
直径5センチの丸い禿ができた
周囲の毛で
一生懸命隠したが
まるで薄野原の月見ね
と女が笑った

 

ここにも長尾高弘さんの自己への眼差しがある。
「まるで薄野原の月見ね」と女に笑わせている。
二十歳前後の若い長尾高弘さんが自己を突き放しつつ自己を肯定している。

最後に「長い夢」という詩を読んでみる。

 

長い夢

瞬きながら
私はそんな重荷に耐えられない
キラキラ光り
あなたの茂みから
あなたの溶岩のように
流れ出ている
あなたのえもいわれぬ匂い
私はその匂いが好きだ
あなたの赤い肌に
うぶ毛がぴったりと
はりついている
あなたの崩れた笑顔が
私の前で動かない
私は殆ど吐き気を感じている
父親の上に胡座をかいて
油を売っているあなた
隠したくなる場所もない
私は危ない道でつんのめった
あなたのたっぷりと余った身体を借りて
私は長い夢を見よう

 

「私」はやがて「あなた」に出会うのだろう。
「あなた」は「溶岩のように/流れ出ている」だろう。

「あなたのえもいわれぬ匂い/私はその匂いが好きだ/あなたの赤い肌に/うぶ毛がぴったりと/はりついている/あなたの崩れた笑顔が/私の前で動かない」

ここで私は他者に出会うのだ。
他者は私を受け止める「たっぷりと余った身体」を持っているのだ。

わたしは長尾高弘さんの詩集「長い夢」を読んで「若い人」に会えたと思えた。
「若い人」に会えて嬉しいと思った。
「若い人」は長尾高弘さんであり、わたしでもあったのだろうと思えた。

「若い人」は自己の先に他者に出会い世界に開かれる萌芽のような存在なのだろう。

 

 

 

♪パパパ~横浜の県民ホールでモーツァルトの「魔笛」を視聴して

音楽の慰め 第14回

 

佐々木 眞

 

 

西暦2017年の3月19日、私は横浜の県民ホールで、モーツァルト最晩年のオペラ「魔笛」を鑑賞しました。

王子パミーノと夜の女王の娘パミーナ、鳥刺しのパパゲーノとその恋人パパゲーナが、魔法の笛と愛の力で数々の試練を乗り越えて結ばれる「夢幻秘教劇」で、その最大の聴きものは夜の女王の2つのアリア、それからパパゲーノとパパゲーナによって歌われる「パパパの二重唱」です。

前者の超絶技法も凄いけれど、後者のまるでこの世のものとも思えない純真無垢な歌声を耳にすると、薄命の天才が夢見た人類の楽園が、いまそこに花開いているような気がして、いい演奏に出会うと思わず涙があふれ出るのです。

その日も私はひそかに「パパパ」を楽しみに、横浜の山下公園のすぐ傍の会場までやって来ました。

私にとって生涯忘れがたい感動的なチェリビダッケと読響の一期一会のコンサートは、この県民ホールで行われたのですが、あれからおよそ半世紀の歳月が流れたのだと思うと感無量でした。

さて当日の演出・装置・照明・衣装は勅使河原三郎という人でしたが、全体的にはこのオペラの本質をわきまえない小賢しい仕事ぶりでがっかり。終演後にブーが出たのは当然といえましょう。

照明・衣装・装置はさすがに小奇麗でしたが、ドラマの狂言回しに伊東利穂子というバレリーナを起用し、主要な歌手を差し置いてほぼ出ずっぱりでオペラのあらすじを説明させたり、音楽に合わせてやたらくねくれと踊らせたりするのは、いったいどういう了見なのでしょう。鑑賞の妨げになること夥しいものがありました。

かつて亡きニコラス・アーノンクールとクラウス・グートのコンビが、2006年のバイロイトの「フィガロの結婚」で舞台にケルビーノの分身ケルビムを登場させた時にも感じたことですが、「魔笛」の主人公は、あくまでもモーツァルトの音楽なのです。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。下手に余計な演出をしないほうが観客の心に届くのです。

装置は天井から吊るされた大中小の金属製のリングが、舞台転換に合わせてさまざまに組み合わされるというスタイルでしたが、以前どこかのワーグナーの「ニーベリングの指輪」で見たような気がする既視感の強いもので、まあ可もなく不可もないというところでしょうか。

さて肝心の音楽ですが、初めて耳にした神奈川フィルのフルートの名演には唸らされました。以前同じこの舞台で演奏したオトマール・スイトナー指揮のベルリン国立オペラの室内楽なアンサンブルには及ばないものの、神奈川フィルは、N響のような官僚的なオーケストラと違って、やる気と適応力、そして管弦楽の高い技術と合奏能力を兼ね備えていたのはうれしい驚きでした。

問題は指揮者です。このオケの首席の川瀬賢太郎という1984年生まれの若手指揮者は、バロック時代の音楽、しかもオペラを、ロマン派の乗りで振っているようで面喰いました。
有名な「魔笛」の序曲を重苦しく響かせるのは構わないが、テンポがいかにも遅すぎるし、遅くしたからといって、クレンペラーのような秘儀的な壮重さが醸し出されていたわけでもない。第1幕全体がそんなペースですから、歌手はきっと歌いにくかったに違いありません。

ところが休憩をはさんだ2幕に入ると、なぜだかテンポが速くなりました。
もとより「疾走する悲しみ」と称される作曲家の音楽ですから、早いところで早くてもいっこうに構わないけれど、フリーメイソンの神聖な儀式の音楽を、まるでドボルザークのスラブ舞曲のすたすた坊主のように通り過ぎてもらっては困るのです。
現代詩と違って、古典音楽にはそれにふさわしい形式と表現方法があるということを、この人は誰からも教わらなかったのでしょう。

いま世界中のオーケストラが資金難に陥り、ギャラの高い中堅以上のベテランを敬遠して若手指揮者を抜擢しているのですが、同じ若手でも、ちゃんとした音楽的素養と伸びしろのある前途有為な人材を登用してもらいたい、と思ったことでした。

歌手については夜の女王を歌った高橋維選手が素晴らしかった。たった2曲でオペラ全体の出来栄えを左右する重要な役どころですが、立派に重責を果たしていました。
パミーナの幸田浩子は、やはり高音部で声を張り上げると斑があり、終始部で音程がふらつく癖がありますが、弁者&神官の小森輝彦という歌手よりは遥かにましでした。
ザラストラの清水那由太、タミーノの金山京介、パパゲーノの宮本益光、モノスタトスの青柳素晴、三人の侍女と童子は、二期会合唱団の面々ともども健闘していたと思います。

最近は主に東欧から二流三流の歌劇団がやって来て、かなり高額な料金で円をかっさらって行くけれど、あんなのに比べたらこちらのほうが遥かにレベルは高いと私はなんでも鑑定団いたした次第です。

とまあかなり辛口の感想になってしまいましたが、この「魔笛」の演奏はオペラの複雑な性格もあってなかなか難しい。私もこれまで国内外の公演を実演、録画録音を含めて数多く見たり聞いたりしてきましたが、これこそ最高というものにはまだお目にかかっていません。

強いて挙げればヴォルフガング・サバリッシュ指揮N響が1991年10月29日に上野の文化会館で公演した「魔笛」でしょうか。主要な歌手はクルト・モルなどの外国人、演出は江守徹、衣装はコシノ・ジュンコ、照明は吉井澄男などの日独共同制作でしたが。

私はサバリッシュもN響もあまり好きでもないし、高く評価もしていないのですが、この一期一会の名演、とりわけパパゲーノとパパゲーナの「パパパの二重唱」にはいたくいたく感動したことでした。

 

*「パパパの二重唱」
https://www.youtube.com/watch?v=FZkLDInGzEQ

*夜の女王のアリア「復讐の炎は」
https://www.youtube.com/watch?v=dpVV9jShEzU

 

 

 

夢は第2の人生である 第48回

西暦2016年霜月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

私が乗った船が遭難して沈没しそうになったので、SOSを発信すると、「遭難マニュアルをよく読め」という返信があったので、読んでいるうちに、船は沈んでしまった。11/1

私は理科部長に部活の時間と場所を訊ねたのだが、教えてくれない。どうやら私は、部長に嫌われているようだ。11/1

僕らのパーティーは、豪華ホテルの一室で開かれていたが、隣の大広間では、集英社の大パーテイが同時に開催されており、ちらとそちらを見ると石井さんの姿もあったが、あの人たちは家族同伴でやって来ているようだった。11/1

町内でいつも面白い話をしている、おじいさんがいて、「わしの名前はシュニッツエルじゃ。誰かわしの話を記録しておいてくれないか。あとで1冊の本になれば、皆の衆が喜んで読んでくれるだろうからな」と語った。11/3

雛段の真ん中よりやや右側が、彼女の定位置で、ここで美しきヒロインは、くつろいで飲み食いしたり、客とおしゃべりしたり、調子に乗ると、その場でセクスしたりするのだが、だんだん疲れて嫌になって来ると、右端の個室に退くのである。11/4

久しぶりに会ったオオミチ君が、「会社のノルマで追い詰められているから、この中元セットを買ってくれ。1個1500円だ」というので、10セット買ったら、とても喜んでくれた。働くのって大変だ。11/7

男子学生たちはみなホモだったので、女子はみな老学生の私の部屋に押し寄せたが、いくらなだめすかしても、肝心の一物が物の訳に立たないので、頭に来て、全員立ち去ってしまった。11/8

おりしも、そのマンションでは、子供たちと大人の女性テームとの野球大会が開催されていた。11/9

買ったばかりの冷蔵庫からかなり離れたところで、その家の息子が、なにやら懸命に工事をしていた。窓際に佇んでいる彼女に近づこうとしたが、彼女が待っているのは、私ではないと分かったので、そのままにして別れてしまった。11/10

長い間隣国に占領されていた私たちは、ようやく解放された後も、彼らに対して屈折した感情を長く懐いていた。11/11

課長が出張先でレンタカーを借りて、ものすごいスピードでぶっ飛ばしたために、事故ってしまった。幸い怪我はなかったが、車は大破してしまった。クワバラ、クワバラ。11/12

疲労困憊した私は、もうすべてにおいて投げやりになって、国家機密事項を平文のウナ電で全世界に発信してやった。いい気味だった。11/15

夕方、会社から帰ろうとエレベーターを降りたら、ナベショーがお客さんに「すんまへん、こんな時間に来ていただきまして」と謝っていた。この男は、大物ぶっていつでもダブルブッキングしているから、こういうことになるんだ。11/16

その男は、いい女だと思うと、ダンスに誘ってチークダンスをするのだが、彼奴は踊りながら、膨らんだ局部をやたらとこすりつけるので、女たちは、嫌がってたちまち逃げ出してしまうのだった。11/16

砲撃を受けると、そのたびにコンクリートのフロアが崩れ落ちる。次の砲弾がどこに落ちるか分からないので、運を天に任せて、思い思いの場所に佇んでいると、目の前でドカンという音がして、私らは最上階から地下室まで猛烈な勢いで落下していった。11/17

ダリ展の隣で開催されている展覧会は、奇妙だった。会場はだだ広いのに、何ひとつ展示物も説明パネルがない。にもかかわらず、ダリ展より高い入場料を取られるので、みんな頭に来ているのだ。11/19

ちょっと油断していると、野良猫と野良犬と野良詩集が家じゅうに氾濫して、足の踏み場もない。そこで私は、我が家を犬猫詩集叩き売りショップにすることに決めた。11/19

我われの明日の計画を、カーテンの向こうで盗み聞きしている奴がいたので、妖刀村正をギラリと引き抜いて、グサリと突き刺すと、アベノシンタロウが朱に染まって斃れていた。ザマミロ、ふてい野郎だ。11/20

長い間行方不明になっていたクラタ氏が、突然この世に戻ってきたのだが、無気力そのものだし、眼はいつも死んだ魚のようだし、どうも様子が変だ。11/21

「恒例の社長年頭訓示によると、最近のわが社の業績は非常に好調らしい」、と海の底で立ち泳ぎしながら、時々あくびして、常務が教えてくれたが、本当にほんとだろうか。11/21

あるい夏の日に、黄色いワンピースを着た痩せた女がやって来て、挨拶抜きに「ポコペン」というたので、私はなにもいえずに、その場に立ち尽くしていた。

その翌日、ブーベリックという男がやって来て、やはり挨拶ぬきに「ポコペン」というのだったが、私が彼と一緒に村のあちこちを散歩していると、村人たちもいつしか「ポコペン」「ポコペン」と挨拶するようになってしまった。11/22

ある朝、関東平野を3.1で揺らしながら、地震は、「今度は6.0だぞ」と脅かすのだった。11/23

その男は、「私は、生涯で2度もサルガッソーの海で死にかけたことがある」と語った。11/25

原発事故による放射性物質で汚染されたというのに、この病院では、いつもと同じように安気に無警戒に業務を続けているのだが、それは病院長をはじめ首脳陣がどのように対応したらいいのか、てんで分からないからだった。11/27

小津監督が、新しい映画のエンデイングの音楽のために、大太鼓を買って来たのだが、実際に使ってみると、うまくいかなかったので、ヤオフクに出したが、誰も応募してこないいようだ。11/28

滔々と落下する千尽の滝壺を茫然と眺めていたら、隣に立っていた女が、私を背後から抱きかかえたまま、青い水底へ飛び込んだ。女は、大蛇のような両腿で、私の下半身をがっちりと締めあげ、両手を背中に回して身動きできないようにしてから、私の唇に舌を差し込んだ。11/29

私とセイさんが、どの席に座ればよいのかを巡って、その料亭の女将と若女将が喧嘩し始めたので、私らは、いつまでたっても座ることができなかった。11/30

 

 

 

木村迪夫詩集『村への道』をじっくりと読んだ

 

鈴木志郎康

 
 

 

詩集『村への道』(2017年2月20日書肆山田刊)は山形で農業を営むわたしと同い年の老いた詩人の詩集だ。詩人木村迪夫さんは、山形県上山市の牧野部落に住んで農業をやるかたわら詩をかいている。いや、傍らではなくて農業も詩作も木村さんに取っては同様に生きて行く上で欠かせないものであろう。「あとがき」に「わたしに詩を書かせたのは、明治生まれの文盲の祖母であった」と書いている。祖母は二人の息子、その一人は木村さんの父親、が戦死したのを知って、「三日三晩蚕室にこもって号泣した」のちに「三日後に蚕室から出て来た祖母は、次のようなうたをうたい出した。

 

ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは
さいのかわらでこいしつみ

にほんのひのまる
なだてあかい
かえらぬ
おらがむすこの
ちであかい」

 

と「蚕飼いの労働歌にかえて」歌ったということだ。息子を戦争で奪われた母親の心情と思いがストレートに伝わってくる歌だ。この祖母の歌を書き留めたのが孫の木村迪夫さんなのだ。少年の迪夫くんは祖母が「おれに字が書けたら、戦争で犠牲になったこの悲しみ、苦しみを書き残して死にたい」と口ぐせのように言うのを聞いていた。そして「おれには字が書ける。祖母の思いをおれが引き継がねば」と決意したと言うことだ。詩人木村迪夫さんの詩の原点がここにあると思う。
それから木村さんは詩を書き続けた。『村への道』の最後ページにある「同じ著者によってー」を見ると、その他に15冊の詩集を出して『村への道』は81歳になった詩人の16冊目の詩集で二十篇の詩が収められている。詩集の三分の二あたりに「わが死地」という詩がある。その詩には自分が生まれ育った村に対する気持ちが語られて、最後に

 

「わが死地は
この村以外に無いと
心に決めて
久しい

すると
何故か 急に
わが村が
美しく見えてくる」

 

と書かれている。一連目には、

 

「少年期から
青年期にかけて
——にくしみのふるさとーーであった」

 

と書かれ、二連目には、

 

「労働にあけくれる日々——
早くから
村脱出の夢を抱いて寝た」

 

と書かれて、そして三連目四連目には、

 

「村と人との温くみを覚えるようになったのは
四十歳か
五十歳か
ずい分と歳を取ってからのことだ

そのわが村落も
いまは人かげも無く
農業後継者も無く
見渡すかぎり田野や
畑野も
荒れ始めようとしている」

 

と書かれて、「わが死地は」の次の連に続くのだが、その間に空間を取って、いきなり

 

「——TPPが 追いうちをかけるーー」

 

という一行が書かれている。TPPのことはよくわからないが、農産物の輸入が増大して国内農業が縮小し、農業者の意欲が減退して離農者が増えると言われている。つまり、TPPによって農業が壊滅的になるということだ。木村さんはそんな壊滅すると予想されている自分が生まれ育った農村を死地と決めて愛情を深めていると言うのだ。
詩集『村への道』は そういう生まれ育った農村を愛しむ気持ちを持って書かれた詩集と思われるが、その前半の詩には自分のことと村の生活が書かれ、後半には牧野部落のことが語られている。最初の詩「夜の野へ」には自分自身を見つめ直すところが語られている。夏の暑苦しい夜、部屋から走り出て村道を経て畦道へ駆け抜けると、自分の思い出の影が草に足取られて転ぶ。そこで「いまは亡き詩兄K氏がうたってくれた」詩を思い出すのだ。この詩兄K氏は農村の貧しい現実に対して言葉で闘った黒田喜夫ということで、その詩は黒田さんが木村迪夫のために書いてくれた詩ということだ。

 

「土地のない男は流れ去る
けれども少しだけ土地のある男は
必ず死ぬ 獣を映す眼の脂の色よ」

 

「土地のある男は必ず死ぬ」の男は牧野で農業を続けて来た木村さん自身のことと受け止められるが、その後の「獣を映す眼の脂の色よ」はわたしにはどうもよくわからないけれど、猛々しく生きろということなのだろうか。木村さんは「不帰の村への想いをおこしてくれ」と黒田さんに呼びかけて、曼珠沙華の花を添え、草むらに寝転がってまどろんでしまい、明け方に目覚めるが、頭には東北の有名詩人の宮沢賢治や有名歌人の齋藤茂吉を嫌う黒田喜夫の詩の一節が残っている。その木村さんの眼の前には村全景が迫って、「あれた桑の老木の森」が眼に止まるのだ。木村さんは自分の先行きが見えない農村に生きる多少は名が知られているが、牧野の草むらに寝転がる無名の詩人として生きて行くことを自覚しているのであろう。

次の「吹く、春の風が」では、トラクターに乗り春風に向って畑を耕しながら、「おれは 現役の百姓なんだ/おれは まだまだ若いんだ/勇気は十分に残されている」と自分を励ましている。この詩は「集落(むら)は/春/農夫(ひと)も/春」と終わり、農業をやり続ける自負が感じられる詩だ。

三つ目の詩の「少年期——遥かなる歳月の彼方に」では子供の頃を回想している。稲刈り後の田圃で三角ベースの野球をして、球が沼田に落ちた時、「(還らない父さんの声だけが、なぜかボールのように/弾んで、ぼくの耳に返ってきた)」ということで、父親の戦死が少年の木村さんの心を占めていたと思われる。働き手の男のいない農家はそれだけ収入にも響いていたことだろう。詩の後半には、夜になると「星空ばかり眺めて」「炎となって燃える音のする星を見付け/ぼくは/その星を/〈未来星〉と名付けた」という。そして現在の木村さんはこの星に「この村の行く末を」問いかけるのだ。

四つ目の「夏の花」は、「こころやすい美人の同僚に促されて/会議のあと/役所の地下通路で買った/鉢植の」ハイビスカスの花に、沖縄に行った時にその赤い色に「身の内の還らない血の色を見た」という思い出や、梅雨のはげしい雨の後に同じような雨上がりに娘さんを嫁に出した時の思いを寄せて、今は夫婦二人だけの暮らしになったと慨嘆する作品だが、木村さんには後継者がいないことを暗に語っている。

五つ目の詩には「稔りをはしる声」というタイトルで、稲が稔って来た時のその稔りを稲を作って来た者が全身で受け止めたこみ上げてくる感慨が歌われている。

 

「なおもしとぶるしずくの
早い沈みの時刻(とき)の際で
おう
おう
おう と
さけびの声を挙げ
暮れゆく宙天に木霊し
稔りをはしり やがて地に還る
部落(むら)と
農夫(ひと)との
影の
たたずみ」

 

とこの詩は終わっている。

 

七つ目の「眠れ/田んぼよ」は、雪の積もった田んぼを前に、自分たちが黒く日焼けしながら細心の注意を払って稲を育てて来たこと、また田んぼを流れる水が村の歴史を物語ることを思って、今は田んぼも村人も春を控えて静かに深く眠れと語りかける詩だ。最後に「ふたたびの春の/醒(めざ)めのために (死ぬなよ)」と締めくくられているところに木村さんの郷土愛が感じられる。

八番目の詩は「遥かなる詩人たちへ」と題され詩で、スーツを着て電車に乗って講演に行き、黒田喜夫や祖母のこと、また木村さんの家の隣に住み着いて稲や牧野部落の歴史を独特の映画に作った小川紳介のことを話し、帰って来てはしゃいだ気持ちに水を掛けて畑に走り、自分は農民なのだと自覚したと語られている。

九番目の詩は「煌めく日々の終わりに」というタイトルで、五十数年前に夫婦になってから、日中には乗用草刈機で草を刈り、夕方には四十数年前に植えた巴旦杏の樹を伐り、夜になると深い闇が満たす部屋で仰向けに寝ると、老いてもなお「見果てぬ夢を追いつづける」という日常が語られている。

十番目は「雑草(くさ)のうた」だ。雑草は田んぼや畑には害となる植物だから農民は殺草剤を撒いて枯らしたり鎌で刈ったりする。木村さんは「吹く、春の風が」ではトラクターに乗って畑の草刈りすると、また「煌めく日々の終わりに」では乗用草刈機で草を刈ると書かれている。この詩では、その刈り捨てる雑草の名前を一つ一つ挙げて、雑草を自分の身に引き寄せて「雑草に/安息の季節はあるか/きらめく鎌の刃先に/眠りの村の/未来は映ってみえるか」と語っている。稲と心を共にし、また雑草とも心を共にする木村迪夫さんがここにいる。

十一番目は「枕頭詩篇 Mさんへの手紙」という詩。「Mさん」が誰方か分からないが、表現者の木村さんが敬愛して近況を素直に告げることのできる友人なのだろう。その友人に向かって、表現者としての木村迪夫が姿を現している。風邪をひいて寝ていて胃は完治していると言われているのにその胃が痛む。寝床の中で十五、六年前に山形県トータルライフ研究会が刊行した写真集『風と光と夢』に見入ってしまう。その頃は自分もまだ若く、そこに写っている女性たちのはつらつとした姿に村の未来が映し撮られているようで、生きる意欲が湧いて来るのを感じる。枕元には古典となった近藤康男編著『貧しさからの解放』と大牟羅良著『ものいわぬ農民』が置いてある。『貧しさからの解放』は戦後の農山漁村の貧困の現実と背景を指摘して貧しさからの解放を示したといわれる本であり、『ものいわぬ農民』は著者が古着の行商として戦後の岩手県を歩き農民の本音と農村の現実を生々しく綴ったといわれる本だ。木村迪夫さんは死ぬまで勉強しようという気概を持っているのだ。そういう木村迪夫は奥さんから

 

「お父さんは大した才能も能力も無いけれど
いい友だちをいっぱいもっていて
幸せだね
一番だね」

 

と励まされている、というが、外は「めずらしく大雪で」、部屋に寝ていると自分の老いを感じないではいられないというわけだ。この詩は「死期はまだ先なのだから」という言葉を繰り返して終わっている。

十二番目にあるのは「別れのブログーー追悼 立松和平さん」というタイトルの散文だ。これは立松和平が亡くなる前の年に木村迪夫さんについて書いた文章のようだ。木村迪夫さんが「ものいう農民」であること、「がっしりした体躯」と「鋭い目つき」の持ち主であること、「一生懸命働いてきた 出稼ぎにいって金を貯め 農地を買い足してきたのだった 米中心の経営にし減反になるとその部分を転作にしてなんでもつくってきた だが村の人口は減るばかりだ 村では農業後継者のいる人はほとんどいず 自分と妻とが頑張れるうちはなんとか農業はつづけるが それ以上はもう無理だ というのである」ということ、「『この頃 詩が書けなくてな 悲しくなってくるのは そのこともあるのさ』 木村さんは いきなりこういった 悲しみの深さが 私などでは想像するよりも深いのかもしれない 『詩は特別なものだろうけど 詩が書けなくてなったら 木村さんではなくなってしまうよ 詩は書かなくちゃ 』私はこう返しただが 二十年ぶりの再会はなんだか悲しかった 一〇〇万人のふるさと 二〇〇九年 夏」と書かれて立松さんの文章は終わっている。この散文によれば、木村迪夫さんは農業でも表現者としても、後継者がいないまた詩が書けないという危機的状況にあるのだなあと分かったような気になって来る。

この後、十三番目の「夏の彼方へ」と十四番目の詩集の題名なっている詩の「村への道」へと続いて行き、この詩集のクライマックスになるのだ。「夏の彼方へ」は梅雨時に「膝丈までのびた」雑草が雨に濡れてじっと立っているのを見て、

 

「こころが重すぎて
歩けそうにもなくなるが
やがてくる再びの真夏日の
その日まで
耐えて待つ覚悟をする

栽培(つくる)ことを止めて久しい
ぶどうの棚の下の雑草の
その靭さをわが身に置き換え
現実(あらわ)な降りの激しさの
梅雨(あめ)のなかに
性懲りもなく
わたしは
屹立(た)つ」

 

と危機的な状況にあってもそれを受け止めて、独立して屈することなくこの状況を生き抜いて行くというわけだ。単に「立つ」ではなく「屹立」という言葉を使って状況の厳しさに立ち向かう気持ちを表していると思える。
「村への道」は一読してした時に妙な気持ちになった。詩の二行目の「冬の河を遡(のぼ)ってきた農夫の姿がある」のこのいきなり出てくる「農夫」は一体何者なのかということだ。それまでの詩の農夫は木村さん自身か牧野部落の農夫だったが、わざわざ「冬の河を遡ってきた」この農夫は現実の農夫ではない。

 

「百年の孤独のような凍えから解放された
農夫は
この先の百年の村のかたちを眼のうちに
黄色にけぶる空と地のはるかな接点を
歩きはじめる」

 

という過去から未来に向かって歩き始める永遠の農夫なのだ。木村迪夫さんが厳しい状況に耐えた果てに考え出した農夫と言えよう。その農夫が「ゆっくりと/村へとつらなる道の坂を/越える」のだ。木村迪夫さんはこの農夫を出現させた。ここがこの詩集のクライマックスだと思う。わたしの理解の及ぶところではないが、次の詩の「わが死地」を読んだところからすると、この農夫は農村愛の化身とでも言えないだろうか。その農夫が牧野部落にやって来ると予言するようにこの詩は終るのだ。

そして十五番目の詩は「わが死地」だ。「わが死地は この村以外ないと 心に決めて ひさしい すると 何故か 急に わが村落が 美しく見えてくる」とこれまでの郷土への複雑な思いが吹っ切れたような心境になったということだ。

十六番目の「わが青春の記」はがらっと変わって散文とわずか四行の行分けの言葉がついた作品になっている。一九六五年前後の元気だった青年学級のことが書かれ、「一九六一年からわたしは、上山市東部青年学級の専任指導員を務めるようになっていたが、六五年の初頭に入っても青年たちの熱気はまだまだ衰えることはなかった」ということだ。詩人の「真壁仁先生にきてもらい」宮沢賢治のことを話してもらったりした。そして「学習会が終わったあとは、皆んなでスクラムを組み、ロシア民謡を声高らかに歌った。
ああ なつかしの
仲間たちよ
青年学級の 仲間たちよ
いまも元気でいるか」
で終わっている。最初にざっと読んだとき、あれれ、なんでこんなこと今更書いているかと訝しく思ったものだった。木村さんは若い頃、村からの脱出願望を持っていたのではなかったのか。それなのに若い仲間を組んで歌っている。そうか、そんなふうにして村に住み続けたのだ。それから続く三篇の散文を読み、中国で戦死した父親に呼びかける詩を読み、最後の「牧野部落」という散文を読み終えて、敢えて、散文を連ねて詩集を終えるということがなんとなく分かった気がしたのだった。

十七番目は「稲穂」というタイトルの五つの小節からなる散文だ。最初に「しかし米価がいかに低かろうと、豊作はやはり喜ばしいものである。稲穂を抱える両腕におのずから力が入り、笑みがもれる。鼓動が高なり、やがて心が静まる。稲作農家としての至福のときである。」と書かれ、木村さんに取っての稲の意味合いが語られている。二節目には、そういう稲作農家の集まりである牧野部落のシンボルマークが募集によって稲穂になったことが語られている。三節目は、牧野部落の夏祭りには農婦(おんな)たちが稲穂の図柄の法被を着て踊り稲穂の旗がはためき、「これこそ、縄文紀以来の伝統に生き、未来へと生き継いでいこうする村だとの、こころ根ではあるまいか。」と語られ、稲穂のシンボルマークから縄文へと思いが伸びて行く。四節目では、真壁仁の作品の「稲の道」の引用だ。「友だちが持ってきてくれた野生の稲の穂一本/芒(のぎ)がひどく長くて/そのはじっぽに/縄文紀の光がきらっと見える」「揚子江をくだった奴が/黒潮にのっておれたちの列島へ渡って来た」と縄文紀の稲の渡来がメコン川の稲の穂を手にした感動を持って語られている。五節目はその詩を受けて、秋の稲刈りが済んだあと、「稲の道」を暗唱しながら、「昆明の奥地から、この牧野の原に至り着くまでの、道のりの長さを、はるかな年月のわたり。」をしきりに思うということだ。農民であり詩人の木村迪夫さんはここで視線をぐーんと高い処に持ち上げて生活の場である牧野部落を遥かに見ることになったわけである。これこそ農村愛のなせるところではないか。

十八番目は「敗戦」というタイトルで、牧野部落の人たちが敗戦をどう受け止めたかを部落の会議録を引用して語った散文だ。「一九四五年の、牧野部落総会記録誌を、読む。『敗戦』を牧野部落では、どう受け止め、どう対処したかが気にかかった。」と書き始められ、十月十七日から翌年の三月までの連続した六回の会議録が引用されている。そこには外地派遣の家族の懇談会、疎開学童の帰郷、甘藷の提出、人口調整、農業調査などの件が記載され、十月三十日の「進駐軍ニ對スルカツ亦日本人ノ道義ノ高揚ニ關シ其ノ筋カラノ旨令ノ報告」とか、更に十一月十七日の「終戦ノ時局ニ對シ戰爭中ノ責任上辭職ノ件 協議ノ結果會長以下役員一同総辭職スル事ニ決定 常會ニ計ル事」とか、そして翌日の十八日の「會長以下役員一同総辭職ノ件常會ニ計リ 協議ノ結果今迄通リ務ムル事ニ決セリ」とかなど、また翌年の二月十七日の「新圓切替ニ關スル件」とかの議事録に、村人たちが生活の場で敗戦を受け止めていた様子が伺える。木村さんはこの会議録の中の「外地派遣ノ家族一名宛出席懇談会開催」という項目に注目して、こうしたことで、「『戦果大ナリ、ワガ皇軍奮闘セリ』の虚偽の報しか、聞かされてこなかった」村人たちは敗戦の実態を理解したのだろうと指摘している。そして最後に「結果として、陸軍軍人、一般国民合わせて三百万人の犠牲者を出したと厚生省が発表したのは、二年も経ってからのことである。」と付け加えて散文は終わっている。この懇談会で木村さんの祖母は木村さんの父親の戦死を確認したということであろうか。

いよいよ終わりに近付いて十九番目は、「祈り大地」という詩だ。「敗戦から七十年/父親の果てた中国への想いは/わたしの心から長い年月消え去ることはなかった」と書き始められている。「父親の死地」は「余家湾という静かな農村」ということだ。少年の頃に別れた父親の心優しい面影を七十年忘れることはなかった。そして遂に木村さんはその余家湾に行って、父親の霊に呼びかけるのだ。

 

「母親の眠る
まぎの村へ

祖母が悲しみと怨念のうたをうたって逝った
あなたには遠くなつかしい
まぎの村へ

おやじよ
七十年ぶり親子ともども

ニッポンへ帰ろう

まぎの村へ帰ろう

いまも緑濃い大地へ
そして田圃へ 出よう
畑へ行こう

ふたたび戰爭の無い
まぎの村の未来へ
一緒に
帰ろう」

 

木村迪夫さんの心の叫びだ。それは祖母、母、父とその子の自分という一家が揃って牧野という土地に葬られたい、そこで家族揃って永遠を過ごしたいという切なる願いであろう。土地と家族というところに木村迪夫さんの思いは至ったのだ。牧野という土地に深い愛情を感じるようになったからこそ、父親が亡くなった元の戦地にまで行って、父親の霊を呼び戻そうとしたと言えよう。
さて、最後のニ十番目の作品は「牧野部落」と題されたニ節からなる散文だ。牧野には「わたしが子供のころ、多くの雑木林が残っていた。原生林そのままで生い茂っていた。」と、つまり〈樹海〉でマギノの語源は「紛(まぎ)れ野」からと言われるということだ。そして、その雑木林がドングリなどの植生の限界地だと語られ、河岸段丘の一帯は水も豊富で、ドングリの実や鮭鱒も取れただろうし、多くの縄文人も集まってきていただろうと想像できるというのだ。そしてここで一転して切り返して、「このように地域的にも、歴史的に豊かな牧野部落を、若い時分わたしは、住み良い部落などとは一度も思ったことは無かった。」と書き進め、遅れて湿った狡猾で貪欲で小権力構造に組み込まれた人々の村社会と決めつけて、「『いつかこの村から脱出してやる』その思いだけを増殖させながら、少年期から、青年期を生きてきた。」と一節目を書き終えている。そしてニ節目に入るとこの脱出願望を支えていた村の否定すべきところが一挙に肯定されてしまうのだ。「原生林のように、静かで少しばかり寂しくてもいい。そこに住む人びとの心が美しくなどなくてもいい。狡猾で、貪欲で、ときには卑猥で、村うちの生き死の噂の絶えない、部落であっていい。これからも永い年月、生きつづけて欲しい。わたしたちが死んだあとも、小さな歴史を地深く刻みつづけて欲しい。」で終わっている。木村迪夫さんは変わったのだ。今まで否定すべきとしていたものごとを肯定して、こだわっていた自分を滅却してしまった。一節目から二節目に飛躍的に変わった心の変化の理由は語られていない。想像するに、その変化は村を脱出することなくそこで生活し続けてきて、村に愛着が生まれ、その土地をわが死地と決めたからであろう。最近は木村さんにお会いしてないが、容貌や身体つきもきっと変わったことでしょう。でも、その変わり目をきちんと一冊の詩集にしたというところで自分と向き合う詩人の木村迪夫さんは変わっていないと思えるのだ。

「あとがき」を読むと、木村迪夫さんの詩歴の一端が語られている。祖母の歌を書き留めたときから、男手の無い極貧の農民として「このまま一介の土百姓として虫けらのごとく地中に埋もれて生涯を終わりたくないと念じた。自己主張のできる、言葉を持つことができる人間として生きねばならないとも決意した。」という意識で詩を書き始めたという。そして七十年、現代詩に託して、反戦への思いと政治に翻弄されて来た「東北の農民の、怒りと悲しみを表現しようと努力してきた。」ということだ。今や、「そんなわたしを、人々は農民詩人と呼んでくれる。しかし、わたしは、真実、農民詩人としての枠を超えた、普遍的な詩人でなければならないと念じている。」と言うだ。
普遍的な詩人というのは、この詩集の最初の詩「夜の野へ」で木村さんのために黒田喜夫が「宮沢賢治が嫌いだ、斎藤茂吉が嫌いだ」と書いた有名な人物のことではないだろうか。詩を書けば、誰でもできるだけ多くの人に読んで貰いたいと思うが、詩を書くわたしには実はそれはどうでもいいことに思えるのだ。まあ、敢えて言ってしまえば、わたしには普遍的なんて糞喰らえざんすよね。そこで、まあ、普遍的な詩人を目指す木村さんに、この詩集をじっくりと読ませていただいたお礼に、余計なことですが、軽口を滑らせれば、木村さんの身の周り普遍的な詩の素材はいっぱいありますよって言いたいですね。牧野部落のドングリ、木村さんが作っているお米、耕している田圃や畑そのもの、その土そのもの、空気、風、そんなものごとを対象にするのでなく、主役にして、そのときどきの気分に乗せて心を込めて上手い言葉で書けば、普遍的な詩ってものは出来るんじゃないですか。でも、木村迪夫は牧野部落に根ざして生活する詩人であって欲しいですね。わたしは木村迪夫の姿が見えている「吹く、春の風が」とか「稔りをはしる声」とか「眠れ/田んぼよ」なんかが、それと木村さんが夜中に田んぼに走って行く「野の夜へ」も好きですね。

一冊詩集をこんな風にじっくり読むなんてことは何十年振りのことだった。木村迪夫さんとは面識がある。牧野部落の木村さんの家にも行ったことがある。木村さんの家の隣の小川プロを尋ねた時も木村さんとお会いした。でも、ここ暫くはお会いしてない。木村さんもわたしも1935年生まれで同い年なのだ。そして、わたしは学童疎開で牧野部落の上山市の隣の赤湯温泉に疎開させられて、栄養失調になったということもあって、へんな言い方だが、親しみを感じていた。送っていただいた詩集は読んで来た。今回も『村への道』を貰ってさっそく読んだが、「わが死地」には惹きつけられたが、詩集全体では散文で終わっていたりしていてよく理解できなかった。そこでまあじっくり読んでみようという気になったのだ。読んで、木村迪夫さんがなんか、いやしっかりと自分の心の変化を語っているのが分かって、木村さんはよかったなあとひとり頷いている。

 

 

 

鈴木志郎康著「新選鈴木志郎康詩集」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

1980年に思潮社から出版された12冊目の詩集です。

ここには「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」「完全無欠新聞とうふ屋版」「やわらかい闇の夢」「見えない隣人」「家族の日溜り」「日々涙滴」から抜粋された92の詩篇と2つの詩論、富岡多恵子氏の鋭い詩人論、清水哲男氏の誠実な解説がぎっしりと充満していて、最近少しずつ現代詩を勉強しはじめた私にとっては、大いに勉強になりました。

「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」の「グングングン! 純粋処女魂、グングンちゃん!」や「完全無欠新聞とうふ屋版」の「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」などは、それ以前の「プアプア詩」の前衛的パンクてんこもりの続編として、読めば読むほどに血沸き肉踊るような破壊的な喜びを覚えました。

でも、もう先輩の皆さんにとっては周知の事実なのでしょうが、
そんな詩人の作風は、3番目の「やわらかい闇の夢」で、突然その世界がうって変わります。

まあ、豹変ですね。

あのシュトルムウントドランクの日々は限りなく永遠に続いて、“戦後日本を代表する世界遺産”になるかと思われたのに、さらば真夏の太陽の黄金の輝きよ。それは余りにも短かった。

「ああ、なんて勿体ないことをしてしまったんだ!」

と、思わず私は叫んだほどでした。

そんな門外漢の私の歯軋りなどおいてけぼりにして、詩人は、さながら東洋のボードレールのように、

「もう秋だ。お嬢さん、おうちに帰りな。往来の言葉蹴り遊びはもう終わったぜ」

とでも言いたげに、ひそやかに別の歌を呟きはじめるのです。

深夜鏡の前で自分の裸体を見つめながら“裸の言葉、裸の心”という奴を探し求めるように、とうとつと独語しながら、いわゆるひとつの内省的な思索を繰り広げるようになるのです。

あたかもベートーヴェンの「第9」の合唱が入るところで、すっくと立ち上がったバリトンが、能天気なはやとちりの管弦楽をさえぎって、

「おお友よ、その調べではない。もっと別の歌をうたおうではないか」

と叫ぶように。

けれどもそれは、耳に心地よい歌ではありません。「狂気がバタバタしている」物音です。

新しい自分、新しい詩を求める詩人が、自分の心臓に向かって蛇入する血まみれの即物音。
まるで自分の胸に聴診器を当てながら、病根を探ろうとする医者のモノローグのような肺腑の言が、ここにはドクドク刻まれているようです。

さて、自ら求めて人為的な“冬の時代”に突入した詩人が、その後どのような紆余曲折を辿りつつ「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」の現在にまで至ったのか?

不勉強な私はてんで知らないのですが、いろいろ有為転変があったにもかかわらず、詩人の心底の底の底では、あのプアプアちゃんの純粋桃色小陰唇の幻影が、いまなおプアプアと浮遊しているのではなかろうかと睨んでいるのですが。

 

空白空白プアプアちゃんグングンちゃんとキイ子ちゃん3人揃って爆裂するや 蝶人

 

 

 

幻の名機「KEF104ab」を探して

音楽の慰め 第13回

 

佐々木 眞

 
 

 

しばし呆然とその場に佇んでいた私が気を取り直して「ね、清水君、で、このスピーカーいくらするの?」と尋ねると、「中古とはいってもまだ比較的新しいですから、ま新品の半額の五万円ですね」という返事が返ってきました。

今だってそうですが、70年代のはじめの五万円は相当な物入りです。
私は3日間悩みに悩んだすえに、この欲しくて欲しくてたまらなかったスピーカーを涙を呑んで諦めたのでした。

あの運命の夜から幾星霜、2017年の1月に入ったある寒い夜、何気なくヤフオクをチエックした私は、なんとあの曰くつきの名器KEF104abが競売に付されているのを見つけたのです。

横浜のリサイクルショップが出品していたそのスピーカーは、もちろん年代物の中古品です。70年代にクラシックファンから好評を博したKEF104abは、しばらくすると製造中止になり、今ではこういう形でしか入手できなくなったのです。

今や棺桶に片足をっ込んでいる後期老齢者の私に、突然あのスピーカーから迸り出る朗々たるチャイコスキーの弦の奔流、そして管弦楽に抗して連打されるティンパニーの猛虎のごとき咆哮が生々しく甦りました。
「よおし、この千載一遇の機会を逃してなるのものか」
私は万難を配して、この幻の逸品をものにするぞ、と決意しました。

しかし気になるのは財布の中身です。
リーマンを止め、フリーライターを止め、大学の教師を辞め、年金生活に入った私が自由にできる金額は、ほんのわずかなものです。
1000円から始まった競合入札が、どこまで高みにせり上がるのか。
私は毎晩ネットでその金額が上がるのを、はらはらどきどきしながら見詰めていました。

ラッキーなことにこの物件は、横浜保土ヶ谷区にあるその会社での「現物手渡し」が条件になっていました。
通例では全国から殺到する競合者と張り合わなければなりませんが、これだと恐らく横浜市内か神奈川県下に在住している人に限られてくるでしょう。

私は車を運転できないので、その会社まで電車で行き、横浜市のタクシー会社に予約して決められた日時に現地で待ち合わせ、トランクの中に2台のスピーカーを入れて自宅のある鎌倉に向かえば、八千円ほどの費用で賄えることが分かりました。
交通費込みで3万円ならなんとかいけるな、と私は踏みました。

そして、いよいよその決戦の夜がやってきました。
ライバルは6人くらいに絞られ、締め切り寸前の値段は、1万7000円と思いのほか低い。これなら楽勝と思い、私はあと締め切りまであと1分の段階で2万2000円を張り込み、「見事落札おめでとう!」の知らせを心待ちにしていたのです。

ところが、ところがです。なんと、なんと落札終了時間が過ぎた後で2万2500円をつけ、最後に笑った奴がいたのです。
2人のライバルがデッドヒートを繰り広げているのを知った出品者が、終了時間を延長して落札価格の引き上げを図ったに違いありません。

ああ、なんということだ!
ヤフオクで煮え湯を飲まされたことは、これまでも何度かありましたが、今月今夜の敗北はじつに手痛い。
かくて幻の銘器KEF104abで、ムラビンスキー&とレニングラードフィルハーモニー管弦楽団の交響曲第5番を半世紀ぶりに耳にして涙にむせぶ奇跡は、うたかたの夢まぼろしと消え去ったのでした。