最後の4つの歌~リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」

音楽の慰め 第7回

 

佐々木 眞

 
 

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誰もがシューベルトのように「白鳥の歌」を歌います。

松尾芭蕉の生前最後の句は、「旅に病で夢は枯野を駆け廻る」でした。
与謝蕪村は「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」と歌って死にました。
子規の絶筆3句は、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「 痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「 をとゝひのへちまの水も取らざりき」でした。

また時代を大きく遡って、「古事記」で大活躍するヤマトケケルノミコトの最後の4つの歌は次のようなものでした。

○倭(やまと)は国の真秀(まほろ)ば たたなづく青垣 山籠れる 倭し麗し

○命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ その子

○愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

○嬢子(をとめご)の 床(とこ)の辺(べ)に 我が置きし 剣(つるき)の大刀(たち) その大刀はや

そして今宵わたくしが皆様にご紹介したいのは、リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」です。

リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss1864~1949)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家で、リストの交響詩やワグナーの楽劇を華やかな技法をもって発展させましたが、戦後は第3帝国の音楽院総裁を務めるなどナチスとの悪い噂も取り沙汰され、あまり幸福な晩年とはいえなかったようです。

彼が死の前年の1948年に作曲した「最後の4つの歌」は「春」「9月」「眠りにつく前に」「夕映えの中で」の4曲からなっていますが、とりわけ私の心に迫って来るのは廃墟となった故国と老人の絶望を身を捩るようにして呟く「夕映えの中で」という昏い暗い歌曲です。

ヨーゼフ・フォン・アイヒェヘンドルフという詩人の言葉に、シュトラウスが曲をつけたのですが、これを吉田秀和氏の最晩年の邦訳でご紹介しましょう。

私たち、困苦と喜悦を切り抜け
手に手をとって やってきた
そのさすらいから 休もう
今こそ 静かな国の上で

あたり一面、谷は身を傾け
大気はもう暗くなってきた
ただ雲雀が二羽上へ上へとのぼってゆく
夢からさめやらぬまま 靄の中へ。

こちらにおいで、鳥たちには勝手に囀らせておけ
もうじき眠りにつく刻になる、
私たち、お互いはぐれないよう
この人気の全くないところで。

おゝ、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
(吉田秀和「永遠の夜」より引用)

さあ、それではこの名曲中の名曲を、ドイツの名歌手シュワルツコップの独唱で聴いてみましょう。
伴奏はアッカーマン指揮フィルハーモニア管弦楽団、あるいはジョージ・セル指揮ベルリン放送交響楽団の演奏がお薦めです。

「最後の4つの歌」の最後の曲の最後の言葉「Ist dies etwa der Tod?」の問いかけが響きわたるとき、私たちの心もまた、地球最後の日の夕闇に沈んでいくような悲哀を覚えるのです。

 
 

 

 

 

夢は第2の人生である 第41回

西暦2016年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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会社の事務の人が今日でお別れだというのにその課の人が誰も誘わないので、一緒に食事をした。始めてちょっと話をしただけだが、優秀な人だと思った。4/1

僕たち3人の山岳兵はファシスト政権軍と戦っていたが、そのうちの1人が負傷したのでひとたびは見捨てて立ち去ろうとしたが、思い直して2人で山奥の隠れ場に退避し、彼の傷が癒えてから再び前線に立ちもどった。4/2

酒池肉林の限りを尽くしたあとで、この世の別天地のような桜花爛漫の国についた私は、紅白の桃の花を咲かせる1本の木の下で夢のようなひとときを過ごした。4/5

私の城に遊びにやってきたパバロッティの前で、私が彼のライヴァルであったドミンゴとカレーラスのLDばかり映し出していると、次第に怒りをあらわにして額に青筋が立ってきた。4/5

社食で昼食をとろうとしたら、ランチメニューが品切れで困っていたら、他のメニューの惣菜をかき集めて急遽新ランチを作るので、あと10分待ってほしいとアナウンスがあった。4/6

カール・ヘルムのジーンズを身に付けた私は、リングの上で黒人にヘッドロックされ息も絶え絶えになっていたが、シンヤ君がいたので、「今度LAに行ったら、ジーンズを2本買ってきてくれないか?」と頼んだ。

シンヤ君が「いいすよ。ブランドはなににしますか?」と聞くので、私は「ちょっと待ってくれよ。いまこいつをやっつけながら考えてみるから」と返事すると、それまで黙って話を聞いていた黒人が「やっぱりカール・ヘルムがいいんじゃにすか」というた。4/6

何ヶ月振りかで登校して、シンジョウ教授の教室に入っていったら、いきなり仏文和訳を命じられたので、目を白黒させて脂汗を流していると「キミは予習をしてこなかったんだな。そおゆう不届きな者は私の授業に出る資格はない。とっとと出てゆけ!」と激怒せられた。

これは私が悪かった。仕方なく退室しようとしたら、怪しい男が可愛い女の子と一緒に教室に入ってきた。
鈍く光るナイフを突き付けられて蒼ざめているのは、なんと私の昔の恋人ヨイコではないか。私はいきなりヨイコの腕を摑んで、教室の外へ飛び出した。

すると男も、あわてて私らの後を追ってくる。
私らはキャンパスの坂道を転がるように駈け下りて全速力で走ったが、男に追い付かれそうになってしまった。
あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から財布を取り出し、ありったけのお金をばら撒くと、男は夢中になって拾い集め、それを自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中からiPhoneを取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾った。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から六つ子おそ松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になっておそ松君を追いかけ、やっと追い付くと自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から一松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になって彼らを追いかけ、拾い集めた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたセーターを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていた天使のブラを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたスカートを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は身につけていた黒いパンティを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男が夢中になってそれを拾おうとしたので、私は思わずヨイコの手を離し、それを拾って素早く身につけたのだった。

ロンドンまで逃げた私たちだったが、執拗に追ってきたトランプ大統領の手下どもにとうとう捕まってしまった。古くて狭いパブに監禁されている私たちを助け出そうと大勢の支援者が駆けつけ、一緒に戦おうと言ってくれた。4/8

再び北海道への移住が許可され、私は12人の希望者のひとりとなった。別荘にはスウェーデン人の令嬢を同伴していったが、私は彼女に日夜精を吸いとられたために、ほとんど仕事にならなかった。

敵が放つ刺客の暗殺を恐れていた私は、いつも従者を私の身代わりにしていたのだが、或る日その従者が私の目の前で暗殺されてしまったので、世を儚んだ私は出家して仏門に帰依した。4/8

私はアイスクリーム店を経営して金儲けしようと、我が家の改装を業者に頼んだのだが、見積もりを大幅に値切ったせいか、カウンターがあまりにも高くて、お客さんの手が届かないために、せっかく店開きしても誰も買いに来なかった。4/10

せっかく田舎から上京してこの文藝本部を訪ねてくれたというのに、俳諧部の連中は全員銀行、いや吟行に出かけてしまったので、仕方なく私たち和歌部で対応したのだが、微妙なところで話がバルバロイになってお互いに消化不良に陥った。4/12

急に腹が痛くなって下痢しそうになった。急いでトイレに走ったが2人も先客が待っている。ようやく1人待ちになったが、こいつがなかなか出てこない。もう限界と思った時、ヒグマ君がボックスを揺すってそいつを抛り出してくれたので助かった。4/13

デスクに戻ると、黒板の左上に小さな字で「次期WHD担当は佐々木さんです」と白いチョークで書いてある。WHDっていったいなんだ? 私はなにをすればいいんだ? 誰かに尋ねようと思うのだが誰一人いない。4/14

2つの大都会の中間部の田舎の小さな町で、私は誰からも知られずにひっそりと暮らしていた。おそらくこのまま無名のままで地上から消え去っていくのだろう。4/14

なんとか教の宣教師は、その聖なる教えについて滔々と御託宣を並べ立てたのだが、私はその間じっと項垂れて、2筋に分かれて放水するオシッコをなんとか1本にまとめようと腐心していた。4/15

南太平洋の楽園に到着した私は、その島に上陸することになったが、旅の途中で荷物もバッグも財布も無くしてしまったので、この世の極楽と呼ばれるそのリゾートに着いてもてんで嬉しくなかった。4/17

すると落ち込んでいる私に同情したのか、1人の親切な島民が、南洋特産の極彩色の魚を呉れたが、その魚は「私を殺さないでください」とでもいうように、一度も目を閉じないで、じっと私を見つめているのだった。4/17

試写室を出ると知り合いのハーフの女の子がいたので、しばらく雑談した。十分に魅力的な容貌と肉体の持ち主だったが、無念にも私はあがってしまって、話の継穂が尽きたので「じゃあね、バイビー」と唐突に別れを告げた。4/18

それから私は、女と同棲していた高級アパルトマンの5階の部屋へ帰ろうとしたのだが、突然何年も帰っていない女房のことを、あの懐かしいみそ汁の味と共に思い出し、踵を返して元の古巣への道を辿っていった。4/18

その中国人は料理の達人で、空中からいきなり卵を取り出すと、美味しい卵焼きを即座に作ってみせた。4/19

会社で働いている私に、「電話ですよ」とギャルがいうので、受話器を取って「もしもし佐々木ですが」と喋るや否や、細かい穴から水が猛烈な勢いで流れ出し、オフィスはたちまち大洪水になってしまった。4/20

自称寛永生まれのオオサンショウウオお婆さんのピアノ・コンサートを聴いた。なんでもフジコ・ヘミングウェイというお婆さんの演奏があまりにも酷いので、それなら自分がちゃんと弾こうと思ったのだそうだ。4/20

思いもよらぬところで、偶然昔の恋人と再会した。聞けば離婚した後に再婚し、明日新しい亭主と外国へ旅立つという。私たちは恐らくもう2度と会えないだろうと思いながら軽く抱擁して別れた。4/21

「もしかするとあなたは「ここに1着のセーターがあります」という例のたとえ話を持ち出すんじゃないでしょうね」と彼女が言うので、私はまんまとその挑発に乗って「ここに1着のセーターがあります」で始まる、長い長いたとえ話を語り始めた。4/22

彼は昔は私と同じような貧乏人だったのに、最近どんどん金持ちになっていく。どうして?と尋ねたら「水道の蛇口からどんどん10円玉が出てくるので、それを貯めてお金持ちになったんだ」とその秘密を漏らした。4/23

CMは細く長く打つのがいいか、それとも資金のありったけを投じて一気に流すのがいいか大先輩のイマイさんに聞いたら、「そりゃ断然後者だよ」というので、私は朝から晩まで全局でCMを流し続けた。4/24

進駐軍に差し押さえてられていたオケが、ようやく解放された。指揮者がいないこのオケでコンサート・ミストレスを務める母は、久しぶりにコンサートができる嬉しさを全身で現しながら、上体と頭を激しくゆり動かしつつ音楽に没入していた。4/26

本日をもって競馬のジョッキーの世界から足を洗ったH氏は、心機一転料理学校に通うことにしたそうだ。4/27

バカ田大学の近所に住んでいた私が、朝早く駅に急いでいると、キャンパスに通学する無数の学生たちがワンサカワンサカ大河のように流れてくるので、私は身動きできなくなってしまった。4/29

長らく陰険な上等兵と2人で行動していた私だったが、ようやく上官から独立行動を許され、「アラン・ラッド似の謎の男を追跡せよ」という命令に従って、全国を流浪することになった。4/30

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2014年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

J.クルーの来秋冬シーズンのメンズのパンツのシルエットが、みんなサブリナパンツのように絞られいるので、驚いてデザイナーのエミリー・ウッズに修正するように頼むのだが、彼女はどうしても妥協しない。7/31

持っていた自転車の鍵を、東京駅の新幹線乗り場の改札口の機械に挿入したとたん、私は新大阪の駅に到着していた。7/30

水の上を浮遊する廃市を2日間流離っていた私は、なにも口にしていなかったので、そこで出された肉じゃが定食を、世界でいちばん美味しい料理として賛嘆しつつ頂戴したのであった。7/28

下水配管が集まっている場所に巨大なサッカー練習場があったので、ここでボールを蹴り合っていたら、四方八方から押し寄せる人々によって、私は王として戴冠された。7/28

素敵な小道をどんどん辿っていたら、愛らしい少女と出会ったので、私は彼女を家に連れ帰って寝た。

某重大事件の犯人を追う私は、2人の詩人の協力を得て知床半島のウトロの番屋までやってきたのだが、なんの手がかりもなかった。

政府の大号令で大舞踏会が開催され、老若男女が踊り狂ったが、それが終わると、「今後はいかなる歌舞音曲も慎むように」という命令が出されたのであった。7/26

最高級ホテルでのショーが真夜中に終わったので、私が北島君に帰ろうかと声をかけたが、「僕はもうちょっとここにいる」というので会場を眺めると、黒人のプロデューサーが、ショーに使われた衣装や小道具や高級車や時計などの小物を、全部お客に呉れてやっているのだった。7/25

私とある老人がSNSで好きなことを語り合っていると、今井さんが「そんな無駄話は即刻やめろ」と文句をいうので、「ここは死にゆく者のための空間なんですよ」と反論した。7/24

バラエティ番組に出ていた色っぽい女優が、「背中から尻尾が出ている友達をここへ呼んできてもいいかなあ」というので、プロデューサーの私は、「いいとも」と鷹揚に頷いた。7/23

車の運転は運転手にまかせ、後部座席で乳繰り合っていた私たちだったが、ふと前を見ると誰もいないので青ざめた。7/22

山澤君が操縦する蒸気機関車は、猛烈なスピードで展示会場に突入し、いろいろな障害物をなぎ倒しながら、壁に激突して、ようやく停止した。7/21

戦争が始まって徴兵されることになったので、まだ童貞で恋人もいなかった私は、いわゆる風俗へ行ったのだが、もはやその種のセックスショップは閉鎖されており、味気ない思いで営倉の門を潜ったのだった。7/19

古めかしい大劇場で、演劇を観ていた。はじめは全然詰まらなかったのだが、ようやく面白くなりかけてきたところに、突然大地震が発生、いまにも天井が崩れ落ちそうになったので逃げ出そうとするのだが、足がすくんで動けない。7/18

「「時は西方に流れる」という題名の映画の撮影に同行しませんか?」と誘われたので、私は妻と一緒に3ヶ月間全国を流浪する、ロングバケーションに旅立つことになった。7/17

その少女と関係するのかしないのかが、その場に居合わせた人々にとっての最大の関心事になってしまったようなので、私はおおいに戸惑っているのだった。7/16

激しく泣き叫ぶ声が聴こえたので、息せき切って駆けつけると、一頭の小象が、仰向けになってのたうち回っていた。7/15

足元にまとわりつくリトルピープルを蹴飛ばしても、蹴飛ばしても、まだくっついてくるので、私は疲労困憊してしまった。7/14

ぬばたまのお伝は、「お客さん、よってらっしゃい、みてらっしゃい、これはほんとに美味しいお酒ですよ」と巧みに客引きをしながら、じつはこえたごから汲んで来た汚ない水を売りつけているのだった。7/13

せっかく生まれ落ちても、この小さな蓮池では立ち泳ぎしていないとおぼれてしまうので、子供たちは、必死で手足を動かしているのでした。7/12

「空」派が勝つか「海」派が勝つか、という熾烈な社内闘争の結果、アトム衛星がC衛星を撃墜して後者が勝利を収めたので、私は初めて名刺を作ってもらえることができた。7/12

荒涼とした夜の街の広場で、息子はたった一人でなにか訳の分からない言葉を呟きながらうろついていたので、私は全速力で走り寄って、その太った体を両手で抱きしめた。7/10

私が撃った銃弾は6発であったが、あとで回収されたそれらは、条痕がくっきりと刻まれ、午後の陽ざしを浴びて、黄金色に輝いていた。7/10

戦闘中に気がつくと、心臓のすぐ傍を弾丸が貫通しており、夥しい血が流れ出しているので、私はいよいよ自分はこれで死んでしまうのだと初めて悟った。7/9

さる戦国大名の依頼を受けた私は、「ともかく兵に戦争を徹底的に楽しませ、てんでカッコよく死なせてやりませうヨ」と言って、濠の前面にお色気たっぷりのおっぱいの絵を描いたり、大砲の色をピンクにしたりしたので、次々に注文が舞い込んだ。7/8

恋人同伴でショウを見物に来たら、日隈君が「課長どういうつもりですか、このショウの準備は全部うちの課の担当なんですよ。それにもう1箇所イベントもあるし、一体どうするんですか」、とパニクッっている。7/7

「米国からばかりじゃなくて、英国からも借金しないと不公平じゃないか」と彼がいうので、私はまた新しい手土産を持って未踏の地雷原に分け入る羽目になった。7/6

私はナボホ族の女が呉れた旨そうな肉を口に含んだが、彼らが昨夜ヒュー族の男たちを虐殺するところを見ていたので、すぐに吐き出した。ところが仲間のペー公は私がいくら止めろといっても聞かずにムシャムシャ食べている。7/4

ナボホ族を征服させた私たちを歓待しようと、美女が美食を持ってきたが、私は前回の経験に懲りて、蒸しパンだけを口に入れたのだが、じつはそこにも殺されたヒュー族の男たちの肉が含まれていると分かったので、私は直ちに一族を皆殺しにした。7/4

「1500億円相当の秘伝の舞の奥儀を、特別に8000万円で教えてつかわす」というので、私がどうしようかと迷っていると、その名人は、「さあどうする、どうする」と、手に持った浄瑠璃人形を、私の顔にぐいぐい近づけるのだった。7/3

裏口から逃げだした私と彼女は、オートバイに乗った奴らに追いかけられたので、必死で逃げたのだが、とうとう追いつかれた。「ヤバイ、万事休す」と思われた瞬間、彼らは私を追い越して駆け抜けていった。7/1

 

 

 

西暦2014年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

ベートーヴェンの「第9」を演奏することになった。基本的にはベーレンライター版に依拠しつつ、ブライトコプフ旧版の良さも取り入れ、いうなれば柔道の受身のような自然体の良いとこ取りで臨んだわけであるが、演奏は、それはそれは酷いものだった。8/1

街のどこかにある家の地下室に横たわっていたら、突然スポットライトが当てられて、誰かが「歌を歌え」というのだが、私にはそんな器用なことはできないので、いつまでも固辞してうだうだ言っている。8/1

どこかで時計が鳴っているので目が覚めたが、よく聞いてみるとそれはすだく虫の音だった。あんな金属的な響きはいままで耳にしたことがないが、けっして不快な音ではなかった。8/1

夜の弾丸配送列車での運送を依頼した3社に対して、私はその委託を急遽キャンセルしようとした。2社はすでに出発していたので間に合わなかったが、さいわい残る1社の弾丸列車は、まだ発車していなかったので助かった。8/2

頭が2つで体が1つの人間と、頭が1つで体が2つの人間がいた。
前者の頭のうちの1つは私の頭であったが、見知らぬ別の頭の持ち主との折り合いがつかないので、困る。
また後者の頭の裏表は、別々の人物の顔になっていて、その1つは私なのだった。8/2

頭の中のノートにマーラーの全交響曲の全楽章を書き出しながら、頭の中でその音楽を鳴らそうとしたが、全然だめだった。
考えてみれば楽譜を読み書きできない私には、はなからそんな芸当ができるはずがない。8/3

グラグラ自転しながら公転する巨大なお皿の上で、人形のジェロームとフラッシャーがうごめいていたので、はズドンと1発で仕留めてやった。8/5

閻魔大王による審判が終わった。
お情けで今生の思い出に1曲だけ聴かせてやるというのでジュークボックスのバッハを押したのに、流れてきたのはなんと「千の風になって」であった。8/6

ようやくパリの地下鉄構内に入ったが、ここでいきなり投石を受けた私たちは、やむをえずその正体不明の集団に対抗して石やゴミや棒を投げ返したので、そこらじゅうに血まみれの負傷者が続出した。8/7

2年前のリストラを上回るリストラをやらねば会社がつぶれてしまう、と思い込んで、私は出張をキャンセルして、本社への道を急いだ。8/9

リストラのことで頭がいっぱいになっていた私は、毎朝新聞の全15段広告を代理店に発注するのをすっかり忘れていたので、夜の街を疾走した。8/9

カタログ撮影の3人のモデルが上京してきたので、次々にものにしてやろうと思い、まず最初の女に手をつけたのだが、次の日になると誰が誰だかわからなくなってしまったので、もう手を出すのをあきらめてしまった。8/10

大儲けを企んだ投資に失敗して一夜にして資産を失ったオブローモフを憐れんだ婦人ソーニャは、一文なしの初老の男を彼女が経営する旅籠に招いた。8/11

そして彼女は、来る朝ごとに彼の部屋の窓から見える白雪の前庭に、さまざまな意匠を施した世界中の珍しい風景や花鳥風月、珍奇な見世物を、みずからの手で色彩豊かに飾り付け、傷心の男オブローモフを慰めた。8/11

会社の製品を上代の半額で社員現売して、大量に外部に横流ししている社員がいるとわかり、突如監査が入ったので、私たちは「俺じゃないぞ、俺じゃないぞ」と大騒ぎしていた。8/12

海底からにょろにょろと立ち上がるヒドラの2本の足を、私は自分の足でキックしながら撃退していたのだが、ヒドラはその攻撃の手を休めずにだんだん肉薄してくるのだった。8/12

私の好きな尾道のおじさんは、舟遊びが大好きで、東京湾にボートを係留している。8/13

おじさんと2人で山本橋を散歩していたら、おじさんが「ほら見て御覧、ほらほらあそこ」と指さしながら、夕暮れの運河に落ちてしまった。おじさんは毛皮の首巻きのついたコートを着たまま、浮き沈みしている。

ようやく岸壁に辿りついた尾道のおじさんに「あれはわざとおっこちてみせたんでしょう?」と尋ねたら、「そうじゃない、ずるずる滑り落ちてしまったんだ」と笑いながら答えた。8/13

大地震で海に落ちた2人の女の子は、すぐに元気を取り戻して、それぞれ2人の男の子から声をかけられたが、2人ともてんでその気はないのだった。8/13

菊池は作曲家だったので、ジャノメミシンに向かってある少女への思いを作曲しようとしたのだが、それほど彼女を愛しているわけではないことが分かった。8/15

私がやむにやまれず意思表示をするやいなや、官憲は「秘密保持法違反のヒコクミンめ!」と怒鳴りつつ私を拘束した。8/15

こんなド田舎の茶店などいつ潰れてもおかしくないというのに、私はルリマツリの花で覆われた土蔵に名人を招いて、連日連夜の連歌三昧にうつつを抜かしていた。8/16

引っ越し用の荷物を積む込むトラックがやってきたので、運転手に「これは物集高見の荷物なんだがね」と言ったが、知らん顔をしていた。8/17

首の入ったずだ袋をたくさん並べて風入をしていたら、捨てたと勘違いしたのだろう、誰かが全部持ち去ってしまった。817

一晩中窓を開けたまま眠っていたので、上弦の月が、私の額をいつまでも照らしていた。8/19

その大分限者は、太平洋を見はるかす大邸宅の3階に住んでいたが、ときどき私たちが住んでいる2階まで降りてきて、キョロキョロと様子を窺うのであった。8/19

かの有名なる彫刻家に頼まれて、彼の膨大な作品の複製を製作をすることになったのだが、考えてみれば、それで一生食いっぱぐれこそしないものの、自分の作品は作れそうもないので、意を決して断った。8/20

半世紀ぶりにマージャンをやることになった私は、いきなりチンイツトイトイドラサンイッパツツモバンバンで上がったのだが、この「バンバン」こそが我が国の高度成長の原動力となり、バタイユの生きる歓びであり、ベルグソンのエラン・ヴィタールであったことが初めて分かった。8/21

「象の飼育に必要な毎月の経費100万円は、ここから出してください」と言われた。私は金川氏の預金通帳を預かっているのだが、いつも残額がすれすれなので、ハラハラドキドキさせられているのである。8/22

また電通の岡田君が出てきて、「この広告の掲載誌は何部お持ちしましょうか?」と尋ねる。
彼は三越の社長の御曹司であるという噂があるが、本当だろうか?親とは似ても似つかぬ顔立ちと性格の人なのだが。8/23

私は日本人が大好きなアメリカ人だったが、大川のほとりを散策していたら、おばあさんが私に興味を持ったのかいろいろ話しかけてきて、とどのつまりは旧芭蕉庵の近所に下宿することになってしまった。8/24

部下の男女がヴェルサイユ宮殿で挙式するので、仲人を頼まれた私(景山民夫になっていた)が仕事を終えて駆け付けると、待ってましたとばかりにスピーチを指名されたのだが、いくら考えても2人の名前すら出てこないので、頭の中が真っ白になり、滝のような汗を流していると、ミンミンゼミが大きな声で鳴いてくれたので助かった。8/25

祖父小太郎の展覧会を開催しているという連絡があったので、はるばる駆け付けてみたのだが、だだっ広い会場に人影はなく、展示物は祖父に何の関係もないものばかりなので、私は途方に暮れてたたずんでいた。8/27

「憲法」という文字をどう「読み解く」かでいろいろな意見が出たが、「ケムンパス」と読むのが正解だと、全評議員の意見が目出度く一致した。8/28

世田谷のノッポビルで撮影があるというのでやってきたが、指定場所には定時になっても1人の女性モデルしか姿を現さない。
仕方なく色々話し合っているうちにすっかり意気投合して屋上へ行って抱擁、接吻したのだが、それ以上は許そうとしないのだった。8/28

大恐慌に突入したために、私が関係している5つの会社からすぐに連絡するよう急を告げる電報が届いていたが、私は全部ごみ箱にほうりこんで山本大介と一緒に銀座に飲みに出かけた。8/28

江ノ電の中で短歌新聞を読みふけっている少年は、腰越に住んでいることを、なぜか私は知っていた。8/29

暖房のないシカゴの鋼鉄ビルの最上階で凍えていた私を温めてくれたのは、春の女神アフロディーテだった。私らはことのついでに何度も愛し合ったのだったが、2か月ほどで別れてしまった。8/29

11時にパリのIRCAMを出て、そのレストランを探した。それと思しきレストランは街道に面して建っていたが、私は車から飛び降りることができなかったので、そこへ行くことができなかった。8/29

4年生になった私たちの別れの時がやってきた。在学中に有名になったデザイナー黒田信夫が、「1年生の時に、俺はこの日のために君たちのために黒いスーツを作ってやったことを覚えているかい?」と聞くので、そういえば黒い奇妙な服をもらったような気がしはじめた。8/30

なかなか電車が動かないので、私たちは駅のホームに降りた。大勢の子供たちが乗車口を出たり入ったりしていると突然ドアが閉まり、電車が動き出したために、何人かの子供は線路に振り落とされ、回転する車輪が彼らの頭や手足を切断していくのがはっきり見えた。8/30

田中陽子がブラジル国王に選ばれた瞬間、彼女の心身が、私に転位してしまった。そして次の瞬間、私は押し寄せる群衆の渦に飲み込まれてしまった。8/31

 

 

 

夢は第2の人生である 第40回

西暦2016年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。3/1

海水浴を楽しんでいたら、大きな箱がプカプカ浮かんでいたので、その上にイスと机を置いてくつろいでいたら、各国の軍艦が見物にやってきた。3/2

A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼等はもう存分にきこしめてぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。3/5

地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじとこっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえているといつのまにか周りに人だかりができた。3/6

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。3/6

「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。3/6

小高い丘の上で黄揚羽と戯れながら巨大な水色の蝶が飛びまわっている。翅の色はクスサンに酷似しているがこれはこれは新種の揚羽に違いないと確信した私は、薄絹の採集網を一閃してそれを捕獲し、部厚い胸部を一気に押して窒息させた。

まだ生温かいその大きな蝶を三角の硫酸紙に折りたたんでいたとき、私は突如急な便意に襲われたので、三角紙に包んだ蝶をその場にそっと置き、近くの草むらで用を足してすぐに戻ったが、それはどこにもない。いくらあちこち探しても、影も形も見当たらなかった。3/7

大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」とみんな声を揃えて新社長の私に言い付けるのだった。3/7

私は超多忙だった。まず所属するカルテットの演奏会が目前に迫っていたが、委嘱した新曲がまだ出来あがっていないから練習さえできないでいたのである。3/8

次に新雑誌の創刊号に64ぺージももらっていたのだが、その中身をどうするのか何ひとつ決まっていなかった。最後は自分が監修するふぁちょんブランドの次期シーズンのデザインがノーアイデアだった。

にもかかわらず月日は矢のように飛び去っていくので、私は仕方なく3つ目の仕事部屋全体を大きな布で覆って外から見えないようにしたので、まったく気にならなくなった。3/8

「只今から26種の植物の植え込みを行います」と宣言したサトウ君は、私の弁当箱の中に無秩序に散らばっていた多種多様な苗を、26の棚田のように整然と区画整理して綺麗に植えこんだので、みんな拍手喝采した。3/9

25歳の処女の大活躍の御蔭で、宿願の用水が切り開かれたのだが、不幸なことに彼女の過去の罪業が暴かれ、逮捕監禁されることになったが、「功罪相半ばする」と判定されたので、無罪放免されることになった。3/10

ふと周りを見渡すと、第1章に出てきたサーカスの親子と、第2章で登場したじいいさんばあさん、第3章でSMに耽っていた男女がいずれもこの巨大な木の下の青い草の上で憩うているのだった。3/11

彼が起きると朝の7時半で、女も起き上ったが、彼は「疲れただろうから、君はもっと寝ていなさい」と言い残してベッドを離れた。3/12

私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。3/13

どういう風の吹きまわしかアレがだんだん硬くなってきたので、「オオ、イイゾ、イイゾ」と驚いて様子をみているうちに、やっぱりみるみる凋んでいった。3/13

燃えるゴミ、燃えないゴミのほかに、燃えるか燃えないか分からないゴミがあるので、我が家では3番目のカテゴリーを新たに設定して、土曜日に出したのだが、市役所のゴミ車は引きとってはくれなかった。3/14

わが社が冷果会社を吸収合併した途端、トランプにそっくりの顔をした社長が、「すぐそこにオフィスを作って仕事をしろ」というので、氷と氷の間にブースを作って、イヌイットのような生活をしている。3/15

私はその大学の寄宿舎に住んでいたのだが、ある日同級生の山口君が「君の誕生日はいつだ」と聞くので「じつは今日なんだ」と答えると、「それは目出度い。実は私の映画俳優の伯父も今日が誕生日なんだ。今から連れてくるからここでお祝しよう」と行って出かけたきり、いつまで経っても帰ってこなかった。3/16

うちの事務所は新進気鋭の男女の作曲家を抱えているのだが、いくら新曲を書いても楽譜出版や演奏の見込みは皆目ないので、ここ10年間は演歌の編曲でなんとか食っていた。3/17

その時大きな幕がざっくりと切り開かれて蒼ざめた馬が嘶き、地は大きく震えたので、我われは「第7の封印」が解かれたことを知った。3/18

野球賭博をやったと噂されている巨人の生意気な若手選手が、バッターボックスに出て来たので、大きく振りかぶった私が、顔すれすれのビーンボールを投げると、彼奴はバットを投げ捨てて、ダッガウトへ逃げ出した。3/19

私は役満の「九連宝燈」をてんぱっていた。たぶん9面待ちだと思うのだが、もしかするとそうではないかもしれない。そう思うと額に脂汗が玉のように滲みだし、馴染みの雀荘に居たたまれずに逃げ出したくなるのだった。3/19

私が要塞に入って最初にしたことは、3.7インチ高射砲の砲身に右手で触ることだった。私は、手に入れたばかりの自分の武器を、自らの手で触れて確かめたかったのだ。3/19

夜になると7時間立哨せよと命じられたが、だんだん眠くなってきた。立ったまま眠っているとオオカミに喰われるので、私は皆と同じ寝袋に潜り込んで朝までぐっすり眠ってしまった。3/19

私は原子炉だが長い間使われていなかったので、技術者が恐る恐る「出力は30ぐらいでよろしいでしょうか」と聞くので、「大丈夫、とりあえず45までならいけそうだよ」と教えてやると、嬉しそうな顔をして「では、どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。3/20

本邦の代表的なテノール歌手は、先日の健康診断でガンの宣告を受けたにもかかわらず
昨日はモザール、今日はバッハ、明日はヴェルディを国立劇場で歌うことになっているというので、すぐに手術をするように勧めたが、ガンとして言うことを聞かない。舞台で歌いながら死にたいそうだ。3/22

5年前に会社を辞めた吉田君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだ」と断ると、「この絶好のチャンスを逃したらもう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。3/22

某国の宰相に良く似た男が暗い部屋の中にいたので、私は静かに背後に回って彼奴のそっ首をかいた。3/23

「戦争が始まったので、今日からネットの物販はできなくなる」と通達にやって来た役人が、たまたま昔の部下だったので、私はぎりぎりで「しきみ」の実を買うことができた。3/24

ジェームズ・ボンドの私は、新幹線が停車している高架線路の下にあるカフェでコーヒーを飲んでいたのだが、誘拐犯がドアを出て線路に降りた瞬間に立ちあがって、マグナム弾を連射すると、そいつはあとかたも無くなった。3/26

小泉首相は、閣議で立憲主義てふ言葉をこの国から追放しようと演説しただけではなくて、実行したのであった。3/27

せっかく寄席に行ったのに、誰一人客が来ていないので、私は万やむを得ず高座に上がって、自分自身のために一席伺う羽目になってしまった。3/28

いつまでも胸に秘めているのが心苦しくなってきたので、私はこの絶好の機会にむかしむかし黄色い花のような連中を殺してしまったことを告白した。3/28

さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。3/29

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチの社にとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書が手元にあるんで、よろしければお貸ししますよ。リース代はお任せしますから、そちらで適当につけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。3/29

L社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたらアリゾナ州のイメージだという。アリゾナ州のどんなイメージなんですかとまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「だいたいアリゾナ州ッってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなのであきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると大勢のインデイアンの子供たちが私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちもどんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、困ったなあ、どうしようと立ち往生していると大正時代の着物をきたおばさんたちがやはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。3/30

ウイキで「第9」を検索すると、直ちにその男の猛烈に下手くそな「おお、フロイデ!の野太い一声がユーチューブの映像で出てくるのだが、その下手くそさが並外れているのであっという間に世界的な人気を博し、近々ベルリンフィルに呼ばれるそうだ。3/31

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

京の町を散歩していたら「はい、鉄板誕生400年記念日です」と言われて、誰かに写真を撮られてしいまったが、あれはいったいどういうことだったんだろう?5/31

ボーカルとギターの双方が、おのれが目立とう目立とうと競っていたので、私が謡と三味線と笛太鼓の演奏を聴かせると、2人とも黙り込んでしまった。5/30

「お客さん、どうせなら年増より初々しい少女のほうがよろしいでしょ」と、番頭は卑猥な笑いを押し殺しながら、珍客である私への人身御供を吟味しているのだった。5/29

いちおう胸の彫りものは終わったはずなのだが、私が「どうも龍のデザインがいまいちすっきりしないな」というと、彫師は「そうでやんすか。もう一度あっしが零からやり直しやしょう」と胸を叩くのだった。5/29

「東京を出て大阪に行かむとする者は神戸をめざすべく、仙台をめざす者は岩手をめざさざればついに大阪、仙台に到る日はあるまじ」と、或る者したり顔に語れり。5/28

私が小説の中で「「ドアンゴ」という名前の車は、漫画みたいなふざけた命名でよくない、むしろ安吾にすべきだ」と書いたら、その会社の社長から「よい案なので早速改名します」と電話があった。5/27

真夜中にバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が2回鳴ったので、いつもの無言電話かと思って放置していたら、3回目にまた鳴って、それは渡辺さんのご主人が、たったいま湘南鎌倉病院に救急車で運ばれた、という電話だった。5/26

水道の水で乾き切った喉を潤し、ようやく元気を取り戻したので、再び元の道を南に向かって進む。行けども行けども誰にも会わない。やがて陽が沈み、空がゆっくりと黄昏れると、道はふっつりと消え去り、深い暗闇の奥底に私は取り残された。5/25

自転車に乗ってどんどん進んでいく。どこまで行っても道路に車はない。道路も周囲も行けども行けども無人である。はらっぱの向こうに一軒屋がみえてきた。平屋の一間に入ると真ん中に囲炉裏の灰穴があったので、私はそこで用を足した。5/25

水辺の別荘のすがれた庭で、私たちはふぁっちょん広告の撮影をしていた。その別荘の持主の老人が、ノーメークでモデルとして出演したのだが、モノクロ写真がかえって人物と風景に深い陰影を与えていた。5/24

その顔をよく見ると、知り合いの大辻嬢だった。彼女は養父の暴力と抑圧をうけて念願の巴里留学の夢が絶たれようとしていたので、私は無償の留学制度があることを教え、身元保証人になってあげるから早く旅立て、と助言したのだった。5/23

私が講演代を半額に値切ったことをまだ覚えていたらしく、ぶつぶつ文句を言う掘氏に別れを告げて、半島の小村の市場へ行くと、魚や野菜が信じられないような価格で並んでいたので、私がどんどん手にとっていると、レジの女性が大きな袋を貸してくれた。5/23

雨宮さんの家は、しろつめ草が茂る広大な丘陵の中にあり、放牧された牛たちがのんびりと空ゆく雲をながめていた。私は彼の奥さんと子供の3人ずれで、その大草原をこころ行くまで散歩するのが常だった。5/22

海外勤務員がなんだか落ち込んでいたので、「君の日記をネットで全世界に発信すれば、面白く読んでくれる人がきっといるはずだよ」と慰めると、次第に元気を取り戻して、「そうでしょうか。ぼくやってみます」などと口走るのだった。5/21

売上不振のこの会社にあって、他の誰もリストラされないのに、なんで販売課の課長の俺だけが指名解雇されるのか。しかも過去2カ月は抜群の売り上げを誇っているのに、と激しく怨みながら、私はノサップ岬の白い波頭を眺めているのだった。5/20

私は愛する少女のためにそのミュージカルをつくり、そのラブソングをつくったのだが、彼女はそんなこととはついぞ知ることなく、涙を流しながら、千秋楽まで毎晩主題歌を絶唱したのだった。5/19

「なにゆえ短歌」というネットでやっている怪しい短歌制作の試みを、授業でもやっていたら、教室の中に得体の知れない老若男女がおしかけてきたので、女子大生たちはきゃあきゃあ悲鳴を上げながら逃げ出した。

「般若のお辰」が迫ってきたので私は驚いたが、お面の奥から昔の女の顔が出てきたので、また驚いた。原宿でお茶していると、隣の席に嫌な女が2人座っていてしきりに私らを窺うので、急いで店を出て彼女のマンションへ行った。5/16

そのひとは、かつてはヘレン・ケラーのように偉大な人物として慕われていた。老いてアルツハイマー症を患ってからは、ほとんど昔日の面影は失われたにもかかわらず、若き日の美しさと冒しがたい気品がかすかに漂っているのだった。5/15

「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った左の穴は、直径100×100」とシコを踏んだ途端左足のふくらはぎが攣った。ようやく回復したので、「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った右の穴は、直径100×100」とまたシコを踏んだら、今度は右足が激しく攣った。5/15

私は巨大な蜂の巣のような巨大な穴の最低辺で働いていたので、遥か上方を見上げると大小いくつのもシャンデリアがさんざめいて、とてもここが地獄のような労働工場とは思えないほどだった。5/14

「ちょっと口を開けてくれませんか」と歯医者が言うので、言われるがままにしたところ、彼はいきなり麻酔注射をぶちかまして、予期せぬ大手術が始まったのであった。5/13

クリークを渡ろうとしたら、底には巨大な2匹の白蛇がうねっている。仕方なく側面をつたって前進しようとしたのだが、そこにも白魚のように白い無数の子蛇たちがうねうねダンスを踊っているので、さてどうしたものかと私は考え込んだ。5/12

プラクシートという所で世界演劇祭が開催されているというので、そこへ行こうと思ったのだが、いくら調べてもそんな名前も地名も出てこないので、私は途方に暮れた。5/11

日露交渉の日本側の通訳を担当することになった私は、プーチンを担当するロシア側の美貌の通訳官と恋に落ちてしまい、業務などそっちのけで愛を交わしていたのだった。5/10

3Dプリンターで拳銃を作ろうとしていたら、みょうちきりんな男が出てきて「シュウダンシジェイエイケングア」どうしたこうしたと言っているので、削除しようとしたが出来ない。仕方なくプリントアウトした奴を、危険物塵出しの日に出した。5/9

私はローバーミニに4人の外国人の女をぎゅうぎゅうづめに詰め込んで、逃走を続けていたが、それは彼女たちを、アフリカの偉大なる王への貢物にするためだった。5/7

野茂になった私は、捕手はもちろん監督の言うことなどもまったく聞かないで、勝手に剛速球を投げ込んでいた。それが墓穴を掘ることが自分でも分かっていたにもかかわらず。5/6

私は原稿を書いている時間が無いので、やむをえず生まれて初めての口述筆記を試みたのだが、私の秘書の男は(こいつはバカ殿のどら息子だった)、それについていくことができず、いたずらにドラエモンの漫画を書き散らしているのだった。5/5

その黒人の牧師は、説教を始める前に聴衆に向かって「まず喫煙をやめるように」と警告したが、聴衆がその指示に従ったのを知ると、「説教代は消費税込みで20.8ドルだ」と言い放った。5/4

息子が何度も「お父さん、すぐに食器を洗ってくださいね」と頼むのだが、パソコンに向かって仕事をしていた私が生返事ばかりしていると、彼は突然怒り狂い、地団太踏んで暴れ出した。5/4

「白いドレスの女」という映画について私が書いたコラムについて、それが国家情報局のビッグデータに収蔵されているデータとの整合が取れていない、という理由で文句をいわれた。そもそも題名からして違っているというのである。5/3

あの日私は、下から押し寄せてくる水をものともせずに、机の位置を少し高い場所に移動して、下からどんどん届けられる荷物を次々に処理して、普段通りに夕方帰宅したのであった。5/2

来年度の予算を立てている村田マネージャーが首をひねっているので、「消費税が上がったから困っているんでしょう?」と水を向けると、そうではなくて「盆踊りの経費をどうしても捻出できないので弱っている」というのであった。5/1

 
 
 

西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

夢は第2の人生である 第19回 西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

「あまりにも多忙だったので、パンフレットの文字校正をする余裕がなかったのです」、と若者たちは、懸命に弁明するのだった。6/30

私たちが運営しているNPO法人は、今年は赤字のはずだのに、なぜか50万の黒字になっているので、調べてみたら安倍蚤糞という会社から350万円の寄付があった、ということが分かった。彼らは水面下で税金をばらまいているようだ。6/29

その謎の電話会社は、先住民に誘拐された一家の悲劇を、隠喩だか、暗喩だか、モチーフにしているという噂があったので、私以外は加入していなかった。6/26

「これは陰茎ではなく、イチジクの形をした肥料なのです。原料は花のエキスなので舐めると花のキャンディにような甘い味がしますよ」と、そのセールスマンはイチジク浣腸をぶらぶらさせた。6/26

地下のスタジオでカモラマンと一緒に撮影をしていると、役員室から尾上理事長が降りてきて、「このパンフレットには違う判子が押してある」などと、じつにくだらないイチャモンをつけたために、撮影は中断のやむなきに至った。6/25

夜の海の奥底には、無数の深海魚がひめやかに泳ぎ回り、その隠微な世界は、波の上からのぞきこんでいるだけでは、到底伺い知ることができない。6/24

停車中の電車に乗り込むと、大学の演劇部の仲間たちが、座席にすわっている乗客たちを次々に殺しているので、恐ろしくなった私は、電車から飛び降りて線路伝いに逃げだした。6/23

独り暮らしをしているマンションで家政婦を頼んだのだが、火はつけっぱなし、水は出しっぱなしで、部屋中が水浸しになってしまったので、すぐに追いだした。6/22

もののはずみで誰かが「こんな会社辞めてやる」と言い出し、まわりの連中も「我も我も」と続いたので、ブラックプレジデントの私は、「本当に辞めたいなら、人事課長の中沢君か係長の内田君に届け出なさい」と言うた。6/21

夢の中なので、いくらお金を借りようが使おうが関係がないということにようやく気づいた私は、それこそ夢中になって欲しかった高価なあれやこれやを、どんどん手中に収めていたのだが、ふと「夢から覚めたらどうなるのか?」と心配になった。6/20

私はAに金を貸した。その金をAはBに貸した。しばらくしてAは、「Bが行方不明になった」と私に告げたが、おそらくそれは嘘だろうと思いながらバイトを続けた。6/19

私は、息子が私のお金を無断で持ち出したことを知っていたが、なにも言わなかった。しばらくして金庫を覗くと、そのお金は元に戻っていたので、息子が返したことが分かった。6/19

地震警報が発令されたので、私らは間もなくやってくる津波にそなえて、各戸に1個ずつ配布されている大きな浮輪を膨らませようとしたのだが、慣れない作業ゆえに捗らず、焦りまくっているうちに、それは襲ってきた。6/17

客がギネスばかりのんでいるロンドンのパブで、私はノンアルコールのビールを頼んだはずなのだが、それはいつまで経っても運ばれて来なかった。6/16

彼らは男ばかり数名で共同生活をしているようだった、ノノヘイが病気の時はセキノが、セキノの具合が悪い時はスギザキが代わりに仕事に出て、お互いに助け合っている姿が好ましかった。6/15

東京を逃れて京都にたどりつき、熊野神社あたりで学生相手の一膳飯屋を物色していたのだが、唯一の女性である前田嬢が「これは嫌、これもダメ、ちゅうちゅう蛸かいな」と文句ばかりつけるので、いつまで経っても昼飯にありつけない。6/14

世の中が戦争一色に染まって来たので、もう黙っているしかないといったんは思ったのだが、あまりに酷い事態を迎えつつあるので、最後の科白を言おうとした途端、突撃兵たちの集団に飲み込まれてしまった。6/13

私が率いる1個小隊は、東に向かっていたのだが、西からやってきたわが軍団の大波にのみ込まれてしまったので、みな三八銃を抱えたまま、ちりじりばらばらになってしまった。6/13

「これからはワンショットごとに消費税を掛けることになった」というので、念のために撮影済みのフィルムを調べてみると、確かに映像毎のすぐ後の黒いフレームには「消費税8%」と書きこんであった。6/12

私は息子を海につれていって泳ぎを教えようとしたのだが、彼は親の言うことは全然聞かず、しばらく放置していたら独りで沖合まで行って勝手に泳いでいるのだった。6/11

塹壕戦に従軍していた私らは、指揮官が全軍突撃を命じたので、三々五々前面の狭い砲撃口から外へ出ようとしたのだが、そもそもそこが狭すぎるうえに、銃や背中の飯盒が邪魔になって、押し合いへしあいするうちに全てが終わった。6/11

プロレスの八百長試合で、私が「ハイ」と声を掛けると、甲が乙に業を掛ける段取りになっていたのだが、んなこたあすっかり忘れて試合を見物していたために、試合はそのまま終了してしまった。6/10

最新のメンズ市場の販売動向を中島選手が延々とレポートしている間、僕たちはねんねぐーしたりあらぬ空想にふけったり、どうやって借金を返済するか算段したりしていた。そして僕たちはこういう時間こそはリーマンにとって至高の時であることを知っていた。6/9

大勢の兵隊を乗せた巨大な軍用列車は、なぜか線路から浮かんでしばらく空中で静止していたのだが、突然呪縛が解けたように汽笛を鳴らして疾走し始めたので、兵士も群衆も鳥も喜んで叫んだり鳴いたりした。6/8

洗濯物を家の外に干しておいたのだが、いつの間にやらそれが道路に落ちてしまって、その上をたくさんの車が轢き過ぎていくのだった。6/8

苦心惨憺の末に1枚1面当たり3時間の長時間超高音質安価LPレコードの開発に成功した私は、CDの音の暴力に悩まされ続けていた全世界のクラシックファンから感謝されただけではなく、一躍大金持ちになってしまった。6/7

死刑囚の私の首の上からシューっと唸り声を上げてギロチンの刃が落ちてくるのを聞きながら、私はそれが初めてではなく、いままでに幾たびか経験していたことを思い出していた。6/6

戯れにガイガーカウンターを買った私が、自分の体や周囲の家具や植物などにそれを向けると、物凄い音響を発してガアガア、ガアガアと唸り続けるので、私は思わずそいつを取り落としてしまった。6/5

プロデューサーは、私が演出する番組の視聴率が悪いのを気にして、あれやこれやの提案を口にするのだが、私は昆虫の名前はすぐに覚えられるのに、どうして野の花や草花の名前を覚えられないのかと考え込んでいた。6/3

私は寝る前に黒い靴下を履き、これなら水虫も痒くならないはずだ、と考えていたのだが、夜中に蚊に刺されてしまったことは想定外であった。6/3

私が彼の女を奪ったために、彼はたいそう私のことを怨んでいたが、これまで彼は大勢の男たちの女を無理矢理奪っていたので、これもいい薬だと私はひそかに考えていた。6/2

グリーン州のグリンランドがこんなに素晴らしい緑の楽園とは知らなかった。観光客は誰ひとりいないし、風と鳥の鳴き声以外は朝から晩まで物音一つしない。私はなにもかも捨ててこの地に永住したいと願った。6/1

 

 

 

平成スチャラカ社長行状記

 

佐々木 眞

 
 

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某月某日
地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじと、こっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえていると、いつのまにか周りに人だかりができた。

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。

某月某日
さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチにとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書があるんで、よろしければお貸ししますよ。お代はお任せしますから、そちらで適当に値をつけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。

某月某日
「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。

某月某日
かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。

某月某日
大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」と、みんな声を揃えて新社長の私に言い付ける。

私が「名前だけの社長」になったお祝に、A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼らはもうきこしめて、ぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。

某月某日
5年前に会社を辞めた井出君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだよ」と断ると「この絶好のチャンスを逃したら、もう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。おいらはしつこいひとは嫌いだ。

某月某日
取引先のL社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたら「アリゾナ州のイメージだ」という。「アリゾナ州のどんなイメージなんですか」とまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「そもそもアリゾナ州ってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなので、あきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると、大勢のインデイアン、もとい、アメリカ先住民の子供たちが、私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は、彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちも、どんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、「困ったなあ、どうしよう」と立ち往生してしまった。

ところが、たまたまそこに居合わせた大正時代の着物をきたおばさんたちが、やはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった!」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。

某月某日
私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると、月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。

 

 

 

おやすみなさい~ブラームスの子守唄

音楽の慰め 第6回

 

佐々木 眞

 
 

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私は花鳥風月にだけは恵まれた田舎で育ちましたが、音楽的な体験はほとんどありませんでした。家にあったヤマハの古いオルガンで賛美歌を自己流ででたらめに弾くくらいが関の山で、家でクラシックのレコードを聴いたことなど一度もありませんでした。

ところが私が小学5年生だったころ、ある日、大本教の本殿のすぐそばにあった体育館に全生徒が集まるように命じられました。

そして校長先生から、「今日はアメリカからやって来られた歌手の方が、みんなに歌を聴かせてくださるから、静粛に聴くように」という前触れがあり、続いてうらわかい、おそらくは20代のソプラノの歌手が、年長の女性ピアニストとともに登壇しました。

そこで彼女が歌ったシューベルトやモーツアルトやブラームスのリートが、思えば私の音楽体験のはじまりでした。

「野ばら」の愛らしさや「魔王」の不気味な恐ろしさ、「菩提樹」の旅情、とりわけコンサートの最後に歌われたブラームスの「子守唄(原題はWiegenlied)」の、あの母胎に回帰していくような優しい旋律は、歌い終えた彼女の美しい面立ちとともに、あれから幾星霜を経た閲今日も、ありありと瞼の裏に残っています。

その後私は、田舎の町の映画館で、「菩提樹」という映画をみました。これはウォルフガング・リーベンアイナーという人が監督した1956年製作のドイツ映画で、あの有名な「サウンド・オブ・ミュージック」と同じタラップ一家のアメリカ亡命旅行を描いていましたが、その「菩提樹」の最後のシーンが、今なお忘れられません。

ナチスを逃れて無事にニューヨークでのコンサートを成功させたマリア(美貌のルート・ロイヴェリック)が、この素敵な曲を美しい声で歌っていました(同じロイヴェリックが主演した「朝な夕なに」も、トランペットが活躍した主題歌とともに忘れがたい映画でした)。

私はこれは実際はロイヴェリック自身の声ではなく、おそらく名歌手ルチア・ポップの吹き替えではないかと想像しているのですが、歌い終わったルート・ロイヴェリックが、まるで聖母のように微笑みながら、ドイツ語で「 Gute Nacht(おやすみなさい)」と観客(わたし)に囁いて、ザルツブルグからの逃避行が「めでたし、めでたし」で終わる無量の浄福感は、私の心に長く揺曳したものです。

それからまた長い長い年月が経って、私はドイツ・グラモフォンが特別限定版で発売した46枚組のブラームス作品全集を購入し、1曲1曲をなめるように聴いていたある日のこと、久しぶりにこの子守唄に出会いました。

作品49「5つの歌曲」の4番目のこの曲を、女声ではなく、なんとバリトンのフィッシャー・ディスカウがしめやかな声で歌っています。

ということで、どちらさまもここらで Gute Nacht!

 
 

*参考 ウイーン少年合唱団によるブラームスの「子守唄」

 

 

 

空谷の跫音~イタリア弦楽四重奏団の空耳アワー

音楽の慰め 第5回

 
 

佐々木 眞

 
 

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イタリア弦楽四重奏団のモーツァルトの「ハイドン・カルテット」を70年代の旅先で耳にしたときは、最初の一音で陶然となって、なぜだか涙が出て仕方がありませんでした。

ああ、これがモーツァルトだ。これが弦楽四重奏だ。これが弦のほんたうの響きだ。
と確信できて、それは同じ頃に聞いたクーベリックのマーラーと同様にかけがえのない音楽体験となったのでした。

その後同じ曲をいろんな機会にいろんな団体で聴いたが、みな駄目でした。
大好きな東京カルテットも駄目でした。鉄人アルバン・ベルクも、てんでお呼びでなかった。

それから幾星霜、いまではとっくの昔に解散したこの四重奏団がかつてフィリップス、デッカ、DGに入れたCD37枚の録音を順番に、それこそ粛々と聴いていくなかに、K387のその曲がありました。

「春」という副題がつけられたそのト長調4分の4拍子のその曲の、冒頭のAllegro vivace assaiを久しぶりに耳にした私でしたが、どこか違うのです。

それはまぎれもないイタリア弦楽四重奏団の演奏ではありましたが、あの日、あの時、あのホールに朗々と鳴り響いた、あの奥深い音ではなかったのです。

それから私は急いでCDを停めて、そのほかのモーツァルトやベートーヴェンやシューベルトなどがぎっしり詰め込まれている黄色いボックスにそっと仕舞いこみました。

半世紀近い大昔の、あのかけがえのない音楽と懐かしい思い出が、もうそれ以上傷つけられないように。

 

 

 

夢は第2の人生である 第39回

西暦2016年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

 

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米ソ冷戦下の時代にアメリカンのホテルに泊まったソ連の子供たちは、黒人のフロント係に、ソ連のホテルに泊まったアメリカの子供たちは、イワンの馬鹿のようなフロント係にそれぞれ懐いて、とても満足して帰国したそうだ。2/1

国連にロシアと日本が大枚の寄付をしたという噂を耳にして、「その嘘ほんまかいな」と思いながら電車に乗ると、電車の中刷りに「たけしがやって来る」と書いてあったので、「たけしなんかより、さんまのほうがずっとがいいな」と私は思っていた。2/2

ジャイアント馬場を化け物のようにしたような怪物が、チーフとサブの2人をさんざんな目に遭わせたあと、屋上の洗面所で上着を脱いで水を飲んだりしているのを見つけたので、私はぐったりしている2人にそのことを伝え、3人で復讐しようと図った。2/3

洗面所の外で待ち伏せしていたら、お化け馬場がやってきたので、3人で立ち向かい、2人が大きな体を押さえている間に、私が股間に何度も猛烈キックを加えると、さしもの怪物もたまりかねて、8階の階段の上からまっさかさまに転がり落ちた。2/3

これは夢の中だから大丈夫だな、と思って頭にシャワーをかけたが、案の定濡れなかった。2/4

僕の腹と腰には、びっしりとパイプ爆弾が巻かれている。僕のお師匠さんがいう。「あいつは悪魔だ。悪魔はこの世から取り除かねばならない。あいつを殺せば、世の中はたちまち平和になるだろう。そして君は永久に神から賛美されるだろう」2/4

とても面白そうな夢を見たので、真夜中にその内容をメモしたはずだが、朝起きてみたら手帳には何も書かれていなかった。2/5

時間が押していたので、「ではこの執行部案でよろしいでしょうか?」と尋ねると、バラバラという拍手のはざまから2、3本の手が上がったので、私は失敗したことに気付いた。「ではこの執行部案を拍手でご承認ください」と言うべきだったのだ。2/5

早く彼奴を潰さなきゃ、と思ってキック、キックでぶっ潰してやった。2/6

新幹線の先頭の2人しか入れない空間に、無理矢理5人で乗り込んだ。2/6

痩せたデビッド・ボウイそっくりの軍人が遥々私を訪ねてきたので、家の外へ出ると、ボウイは、いきなり私の口を吸いながら、その勢いで、私の肉を全部吸いこんでしまった。2/7

逃亡中に新しいケトルを5個買って、それで茶を飲もうとした首領は、「まず煮沸した熱湯でケトルを消毒してから、湯を捨て、もういちど煮沸した熱湯に、茶を入れろ」と手下に指示した。2/7

道路の真ん中を、中身が空気だけのかりそめの人々が大勢歩いていたが、私もまったく同じような、かりそめの人だった。2/9

官憲は、私たちを逮捕しようと待ち構えていたが、私らは別に悪いことをした覚えはさらさらないので、平然とその場に居直り、彼奴らにつけいる隙を与えなかった。2/9

橋本と名乗ったその男は、激しく降る雨の中を、ずぶぬれになって踊り狂っていた。2/10

「君はよく戦った。もうそれくらいでいいだろう。武器を捨ててそこから出てこい」という聞き覚えのある上官の声がしたので、私はたった一人で閉じこもっていた塹壕から、のっそりと、まぶしい光の中へ出た。2/11

雨宮氏は、彼が大切にしていたルイ14世風の、華麗にして重厚なデザイン画を、ことごとく売り払って出家した。2/12

「君のパンツが、また濡れてる。お気の毒だね」と慰めたら、そいつは「そんなこと、お前の知ったことか」といきなり逆上したので、ついかっとなった私は、彼奴を殴り殺してしまった。2/13

プロのカメラマンが、私のその「万感の思い」というやつを撮影したいというので、私は大いに戸惑っていた。2/14

或る男が、銀の取っ手を世界最高速度で製造することに成功したというので、その町工場ではささやかなお祝いをした。2/15

この男は大物なので、当局はしばらくは拘束せず放置していたのだが、洞窟の中で生活を共にするうちに、私はその人物の重厚な存在感に圧倒されるようになっていた。2/16

半ズボン姿の息子と、山際に建つ高層マンションの階段を自転車を転がしながら、上へ上へと登っていくと、てっぺんで行き止まりになった。ここで引き返そうと、車輪を戻そうとしたとき、いきなり息子が、ひらりと身をひるがえして空に飛び出し、地表にどすんと叩きつけられたので、驚いて見守っていると、しばらくして元気に立ち上がったので、やれやれと胸を撫で下ろした。2/17

その男は、みなから嫌われていたので、こそこそと立ち去っていこうとすると、みんなは口を揃えて、「せっせっせえーのよいよいよい。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」と大声で歌いだした。2/18

その歌は、「あいつは人からお金を借りても、決して返さない。その癖ションベンしてると早く出せ、早く出せと催促する変な奴。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」というような内容だった。2/18

夜、小便をしようと講談社の編集部に立ち寄り、いつもの便器の前に立ってズボンを下ろそうとしたら、いつのまにか隣に知らない男が立っていて、「やあ軽薄短小君、君はなにをしごいてこれからなにをしようというの」と歌い出したので、私は出なくなってしまった。2/19

するといつのまにか紛れ込んでいた女子が、「そういうあんたこそ、女の前で裸になったら、なにもできないくせに、偉そうなことを抜かすな。ボケナス」と罵ったので、くだんの男はすごすごと便所を出ていった。2/19

それから私は、広大なキャンパスの中で途方に暮れていた。昔一度大学に合格していたにもかかわらず、事務所で手続きするのが面倒臭くなって、そのまま郷里に戻ってしまったことがあったが、今度こそちゃんと入学しようと心に決めて、朝から歩きまわっているのである。

しかしなんという人間の多さか。人波に酔って疲労困憊した田舎者の私は、しばらくベンチで寝転んでいたが、急に空腹を覚えたので、よろよろと立ちあがって、学生食堂に行ってランチを食べようと思った。

あらかた喰い物は無くなっていたが、食堂のおやじさんが親切な人で、「ランチは終わったけど、残り物なら出してやろう」と言ってくれたので、ほっと一息ついた。するとおやじが、「ところであんた、これからどこへ行くの?」と私に尋ねた。

「医学部の大学院で入学手続きをするんだ」と答えたら、「なら飯どころじゃない、すぐに行かないとヤバイ」と脅かすので、一口も出来ないまま再びキャンパスに飛び出す。人に聞き聞き走りまわって、ようやく大学院の事務所に辿りついた。

ところが事務所のおばはんは、「手続きはもう終了したけれど、午後4時半からパーテーがあるから、そこへ行って学部長に頼めばなんとかしてくれるかもしれないよ」という。「場所はどこだ?」と聞いたが、「それは分からない」という。喉は乾くし、腹は減るし、頭はクラクラするので、もう諦めて下宿へ帰ろうかと思ったのだが、田舎の両親のことを思ってもう一度がんばろうと思った。2/19

勤務しているお笑い会社で、初めて映画をつくることになり、参考にするためにみんなで大阪のアチャラカ物をみた。会長がみんなの感想を聞きたいというのだが、誰もなにも言わないので、私が「作るとすれば、非上方的で洗練されたユーモアのある映画ですな」といったら、「そんならお前が監督をやれ」といわれた。2/20

わが社の会社案内カタログがやっと完成したというので、手に取って開いてみたが、はじめのほうに4/6という数字が印刷してあるだけで、中身は真っ白だったので、社員は呆然としてペラペラページを繰っていた。2/21

寿司屋で野菜寿司を注文したら、店主が「今日はなにもないから、お前さんの右足を折ってくれないか」というので、折って差し出したら、それを美味しい天ぷらにしてくれた。2/22

世界中が困窮したので、我が国でもそれに準じて貧富の差が著しくなってきて、両階級は事あるごとに大殺戮を繰り返し、格差どころか人口そのものが激減してきたので、万やむを得ずお互いに妥協して、背中合わせにくっつきあうようになってきた。2/23

貧者たちは、冨者が所有するあらゆるビルや住宅の内部に勝手に侵入するようになり、野球場やサッカー場、とりわけ企業の会議室で終日ごろごろするようになったので、冨者のビジネスマンは、彼らの隙間を縫って打ち合わせするほかなかった。2/23

朝の4時頃に私の声が聴こえた、とリョウちゃんがいう。「そんなはずはない、その時間は私は眠っていたよ」というと、「かわかわの耕ちゃん!」と叫んでいたという。どうやら寝言が電波で鎌倉から浦和まで飛んで行ったらしい。2/24

ジコチュウで不規則発言を繰り返していた歌手が、ついにイオニアレストを退社したので、社長も社員もほっとした。2/25

修学旅行の夜にホテルのトイレに行くと、小便器があまりにも高い位置についているので、チンポコが届かない。ふと便器の下を見ると、点点と血糊がついており、人間だか鳥獣だかよく分からない目玉や肉片も散らばっている。2/27

これは駄目だ。小便どころではない。早く自分の部屋に帰ろうとするのだが、ホテルの廊下は真っ暗闇で、どこにあるのかも分からない。2/27

桐野と2人で巨大なクマと戦っている。最初は私が黒クマで、桐野が白クマだったが、いつのまにか相手が入れ換わり、私が鍬を白クマの頭にぶちあてると、真っ赤な鮮血が迸り、脳天の白い骨が見えたので、私は急に白クマが可哀想になった。2/28

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

引越しをした。現地につくと段ボールから出された荷物が全部家の前に並んでいる。驚いた。机も椅子も本もピアノもお皿もまるでその空き地が居住空間であるかのように配列されているので、パソコンに向かって日記を書いていると、雨が降って来た。3/30

島崎藤村の身内の何回忌だというので、その生地を訪れた私だったが、そこは山奥の薄が茫々としげる草原の真ん中の一軒屋で、まわりには誰も住んでいなかった。平屋の八畳間には大きなテーブルだけがどかんと置かれていた。3/29

黒光りがする頑丈な古材のテーブルには、私の右に見事な白髪の島崎藤村、まん前には壮年の森鴎外、左にはまだ若さが残る夏目漱石が座っていたが、彼らの顔は逆光でよく見えない。藤村の手には子供の作文か悪戯描きのような紙片があった。3/29

「君は何駅で降りたのかい」と尋ねると、鷗外が「某駅だ」と答えた。それぞれ違う駅からここへ来たらしい。すると藤村が、「なるほど漱石君は一つ先の駅を降りてまず墓参りをしてからここへやって来たというわけだ。そういうコースがあるとは私も思いつかなかったな」といって愉快そうに笑うのだった。3/29

その町の寄り合い所には、意見を異にして敵対する2つのグループ全員が、手に手に武器を携えて結集していた。はじめのうちは荒あらしい言葉の応酬だったが、誰かが誰かを殴ったのを皮切りに、たちまち白刃がきらめき、弾丸が飛び交う阿鼻叫喚の巷と化した。3/29

集英社やマガジンハウスの編集者が集まって、なにやら懸命に企画案をプレゼンしているのだが、おびに短したすきに長し、で行き詰った私たちは、テーブルを離れて午後のコーヒーを飲みにいった。3/26

後楽園ホールで開催される「ばちかぶり」の雲古ライヴに行こうと、彼女と一緒に水道橋の改札口を出ようとしたら、三角形の頂点にあたる場所に、黒メガネをかけたチンピラが立ちはだかって通せんぼうをするので、一発でノシてやった。3/25

西武グループの御曹司のはずなのに、テレビや週刊誌でしか知らない立派な顔をした堤一族が勢ぞろいした大会議の中で、私は蒼ざめた顔付きで黙り込んでいるしかなかった。3/24

大震災のために横倒しになった路線バスが、公園の中に倒れ込んでいたので、カルテットのメンバーである私たち4人は、その内部の狭い空間を活用して、練習したりミニコンサートを開いたりしているのだった。3/23

地下鉄に乗ろうと下降していくと、道はまるで大蛇の巣穴のようにどんどん大きくなり、また丸くなって地下へ地下へと降りてゆく。不安に駆られた私は携帯を掛けたが通じず、仕方なくほぼ垂直に落ち込む真っ暗な道を落ちていった。3/22

ある会社に飛び込み営業を掛けて、出てきた若い女性社員の下着を脱がせて、その場でなにしようとしていたら、アメリカ人のおっさんが「スミマセンガ」と道を聞くので、彼女とつがったまま廊下に出て、「あっちだよ」と教えると、「サンキュウ」といって立ち去った。3/22

医学生の私は、男性の死者たちのペニスを解剖して、そこに刻まれている彼らの末期の言葉、すなわち「金言」を書きとめ、遺族に教えると共に私の博士論文の糧としていた。3/22

私は歌舞伎のチケットを買いに来たのだが、大きなビルヂングのどのフロアに売り場があるのか分からず、エレベーターが止まるたびに外へ出ようとするのだが、すぐに扉が閉まってしまい、結局買うことが出来なかった。3/21

善行を施す度にその人の評価は高まり、彼が住んでいる石川島を見下ろす超高層マンションの彼の住処は上へ上へとあがってゆき、とうとう最上階のペントハウスに到達したのだが、今では避雷針の直下の小屋に住んでいる。3/21

敵鑑からの集中砲火を浴びて、30数発の砲弾に見舞われながらも、私が搭乗している戦艦は、無数の損傷を蒙りつつも奇跡的に運行に支障はなく、毎時20ノットで疾走しているのだった。3/20

ファシストたちが罪なき市民をほうりこんでいる収容所の中で、私は普段の習慣を改めることができず、取締官の目を盗んで、夜な夜なぐうたら日記をパソコンにアップしているのだった。3/20

小中高大学と、何も勉強らしいことをしないで卒業し、会社に入っても同じような状態で呆然と過ごしていたが、そこを追い出されてからは、少し勉強を始めたけれども、それがとんでもなく遅すぎたのだった。3/19

自殺未遂の青年に、少年の私が「どうして死のうと思ったの?」と尋ねたら「いずれ君にも分かるさ」と答えたが、まもなく死んでしまった。やがて私が彼と同じ年になった時、私も自殺してしまったのだが、その時になって、初めて彼の言葉の意味が分かった。3/18

午後6時ごろになってようやく電気が来たので、店の照明を調整したり、電気仕掛けのPOPを動かしたり、BGMを掛けたりすることが出来るようになった。3/17

肝心の商品がよくないうえに販売網に破綻が生じているというのに、宣伝広告を強化すればこの危機を突破できると説くM部長の頑固な能天気を嫌って、私たちは全員で休暇を取ってピクニックに行った。3/16

震災による停電がようやく回復してきたので、それまで天井を向いていたショップの照明の向きを変えて真下にしたら、売り場の雰囲気が明るく楽しいものへと一変した。3/15

夜遅くまで残業をしていて腹が減った。中野坂上の駅前広場のようなところの店でなにが出来ると聞いたら、カレーライスとランチの炒め直ししかダメだというので屋台のラーメンを探すことにした。3/14

大名行列の先頭を歩いていた侍が、突然大刀を抜きはなって、後続の武士たちを斬りつけながら、中央の駕籠に向かって殺到してくる姿が目に入った。3/13

今日明日のオケの演奏曲目が、ハイドンとモザールの後期交響曲をそれぞれ3曲だというのに、指揮者は現れず、なんのリハーサルもないので、私たちはだんだん不安に駆られてきた。3/12

その若い女性は英国大使館の窓口担当だったが、彼女が黙って右側の席に座ると、左の席から窓の外に出てくる英国国旗が、まるで音声付のロボットのように、英国の観光案内を始めるのだった。3/11

朝日新聞の歌壇に自作の短歌が掲載されているかどうかを確かめようと、作品を書き込んだパネルを持った私は、往来を通行する人々に見境なしに尋ねたのだが、みんな怯えた表情で逃げ出すのだった。3/10

去年は17歳、今年は同じイタリア人だが20歳の女性と弧島でひと夏を過ごすことになった私だが、他にすることもないので、朝から晩まで幾たび性交に及んでも、ついにそれを最後まで貫くことができないのだった。3/9

東京ドームでファッションショーがあり、イケダノブオと一緒に見物していると、隣の席の男が「ちょっとやってみませんか」と言って、リトマス試験紙のようなものを持ってきて私の胸に張ると、「あなたガンですね」と宣告したので、愕然とした。3/7

なんでもさる引取り屋が息子を引き取ってくれることになったので、準備万端を整えて業者が来るのを待っている間に、彼は何杯も何杯もカレーライスをお代わりするのだった。3/6

鈴木、杉本の2人のリーダーに導かれた我らのチームは、勝抜きゲームに勝利した。なんでも御馳走してやるというので、今では貴重品となったウナギのかば焼きに舌鼓をうっていると、いつのまにか奇麗どころが膝の上に乗っているのだった。3/5

次から次へと山海珍味が目の前に並んだが、私の胃腸は最新のハイテク技術でこんとろーるされていたので、どんどん退治していった。3/4

中学校の中川という女性音楽教師の下宿に招かれた国語教師の私は、彼女がショパンの「小犬のワルツ」を弾いている背後から抱き締めて、その張り切ったお椀形の両の乳房をゆるゆると揉みしだいた。3/3

雪は次第に解けはじめていたが、まだ人間ピラミッドは確固とした形態を維持していたので、私はその一角に潜り込んで次の大震災に備えることにした。3/2

私は貧しくてお金がないので、さる富豪の家の前の道路の下にある地下室に住まわせてもらっていたが、そこは日の光こそ差さないが、広くて静かで、なかなか快適な環境だった。3/1

 

西暦2014年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

テレビ局に入社した私は、上司の命令で全国津津浦浦を経巡ってその土地に生きる人々の暮らしぶりを紹介する番組を作り続けていたのだが、東京本社の人間は、もはやそんな私のことなど忘れ果てたらしく、何年経っても音沙汰無しだった。4/30

暴力団の武装勢力と対峙していた僕たちは、だいぶ消耗していたが、ふだんはあんなに柔和な高山公平くんが激しくアジっているのを聞くと、「よーし、ひとふんばりしてみようじゃないか」と、腹の底から勇気が湧きおこってくるのだった。4/28

久しぶりに会社の広報誌を見たら、全然聞いたこともない連中が、会社とも世の中とも関係のない不可解な記事や対談やアホ莫迦な感想を吐き散らしているので、担当の前田さんにその訳を聞いたら、「上司が狂ってしまったからどうしようもないの」と言って項垂れた。4/27

広告のコンセプトも全体のデザインもコピーの書体と級数までもが決定しているというのに、肝心要のキャッチフレーズがまだ出来上がっていないので、関係者全員がコピーライターである私の方を見詰めているのだが、まったくのノーアイデアなのだった。4/26

彼らの物づくりのレベルはかなりいい加減で、個性も創意工夫も感じられなかったが、そのときは私はあえて駄目だしをせず、鷹揚に若いスタッフの労をねぎらった。4/25

私たちが所属していた自由市民軍は、みなおいぼればかりだったので勝手気儘にふるまったために、正規軍の連中は眉をひそめていたのだが、いざ戦闘となると楽しみながら戦い、しかも強いのだった。4/24

ボロボロの飛行艇を修理しなければならない。たくさんの硬貨を入れて大量のコンクリートを機に注入すると、いっぺんに崩壊する危険があるので、わたしは100円玉をちびちび投入しながら、愛機を慎重に修理していった。4/23

昨日診察してもらった病院が地震で倒壊したというので、知人の安否を確かめにいったところ、運悪くまたしても崩落が起こって瓦礫の山に呑みこまれてしまったのだが、そんな私を助けだしてくれたのは昔の恋人だった。4/21

イケダノブオが「パリに持ってゆきたいのでいい映画を推薦してください」と頼むのでいろんな映画を見まくったがない。知り合いの若い女性がある中国映画を推薦するのでこれにしようかと思ったが、それは彼女を思いのままに操っているリーチンチンの仕掛けと分かった。4/20

フォノグラムの尾木さんが、いきなり悪魔の歌を歌い始めたので驚いていると、誰かが「あの人は最近悪魔に心臓を抜かれてしまったので、ああやって本物のオペラ歌手を目指しているんですよ」と教えてくれた。4/20

商品企画室のA子と打ち合わせしていたら、彼女の上司の山口君がいきなりA子と企画室のなかの噂話をはじめた。しばらく我慢していたが延々とやっているので、「おいおい、君たち失礼じゃないか。こっちが打ち合わせしていたんぜ」と文句を言ったが、2人とも知らん顔だ。4/19

横町に面した家の奥の部屋には、着物をきてサルカニ合戦のお面をかぶった若い女が、左端でぶらぶらしながら、じっと往来を見詰めている。部屋には小さな裸電球がついているだけで、1つの家具もなかった。4/18

「私は広告を出す代わりに、売れない画家の絵を買っているんですよ」と、その右翼の総会屋は小学館のロビーで豪快に笑うのだった。4/17

吉兆の残飯を毎日食べて飢えをしのいでいた松田君は、遂に奴隷の身を脱して自由の天地に羽ばたいたのだった。4/17

リュクサンブール駅前のカフェに入ったら、昨日スイスで会ったばかりのゴダールがコーヒーを飲みながら独語の原書でギョエテを読んでいたので「ムッシューゴダール、昨日は大変お世話になりました」と挨拶すると、突然奇妙な東洋人に名前を呼ばれた彼は、一瞬怯えた顔つきになりながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。4/16

死ぬべき日を迎えていた私の前に、突然蓮池君が蹌踉とした姿で現れて、「広葉の」という大著を世に出したので、これを読んで感想を述べてから死んでくれ、と嘆願且つ強要するものだから、とうとうその日は死ぬることができなかった。4/16

事故死した若林君のバラバラの死体は、4つの茶色い断片になって保存されていたのだが、それらがひとつずつ白昼の下に引き出され、バチンバチンと組みたてられていくと、若林君はたちまち生者となって蘇った。4/15

巴里に滞在していたら、息子の知り合いだという触れ込みで、全然知らない3人の若者が、入れ替わり立ち替わり私の部屋を訪ねてくるのだった。4/14

1985年に私の新居が出来たが、それは1本の巨大な楠を斧で切り倒し、鑿で刻んで作られた手造りの家だった。4/14

南蛮から鉄砲が渡来した種子島に、西洋服の第1号も渡来していたというので、それを見物に行ったら、船着き場の浜辺にお洒落な白いケープが置かれている。記念に持ち帰ろうとしたら、某アパレルメーカーが既に買い取った後だった。4/13

マーラーの交響曲第5番のすべての音符を、広大な正方形の舛の外に押し出すゲームの最終勝利者は、奴隷から解放されるというので、私たちは闘技場の中を必死に駆けずり回った。4/14

30坪ばかりの狭い敷地に、我が家のS型と隣の藤井家のF型の2つの住宅ユニットが相次いで到着したのだが、お互い勝手に組み立てを開始したので、もはやなにがどこやら収拾がつかない大騒動になってしまった。4/12

「原ジョージ」という名義でアメリカ企業の株券を持っていたら、どういう風の吹きまわしか無茶苦茶に値上がりして億万長者になってしまったので、大阪支店の仲間たちがお祝いしてくれることになった。4/11

超有名役者が出演するというので人気沸騰の歌舞伎公演のチケットを買おうと、私は夜も寝ないでパソコンの前に座り込み、ネット販売の時間がやってくるのを待っているのだった。4/11

アメリカでアメリカ車を買おうとしていたら、セールスマンが「まずクレジットカードを自分に預けろ」というので「冗談じゃない、お前はいったいどういう奴なんだ」と押し問答しているうちに、朝になった。4/10

自転車で保谷ヶ谷まで行こうとしたのだが、横浜駅の近所の小汚い一角で、路はおろか方角すら分からなくなってしまった。仕方なく自動販売機に自転車を寄せかけていたら、子供たちがやってきて、「ジュースを買うからどけてくれ」と騒ぐのだった。4/9

佐藤愛子さんが愛猫の青木愛子を亡くして涙にくれているので、「猫じゃなくて犬ですけどうちの愛犬ムクを霊界から呼び出してお貸ししましょうか?」と提案したのだが、にべもなく却下された。4/9

偉大なるお笑い芸人が亡くなったというので、朝から晩までテレビは追悼番組をやっているのだが、誰ひとり「笑っていいとも」とは言わなかった。4/8

NHKのアホ莫迦会長が、「朝9時半に君が代を斉唱しない者は全員解雇する」と宣言したので、これに対抗すべく、わが社の会長は「会社でいつもソーラン節を踊っていない者は、即解雇する」と宣言した。4/8

イタリア語なんて全然分からないのに、ヴェルディのオペラの字幕製作を依頼された私は、公演が終了するとただちに収録映像を再生し始めたが、そこへ指揮者が飛び込んできて、「腹が減ったから飯を食いに行こう」と手を引っ張るのだった。4/7

ABそれぞれ50人からなるチームが、完全原始人生活に挑んだのだが、3か月後に現地を訪れてみると、両チームともほとんど生き残った者はいなかった。4/6

リゾートホテルの労働者たちは、大幅賃上げを要求して無期限ストライキに突入していたのだが、仲間割れが起こって殴り合いも始まってしまったので、団結がぐずぐずに崩れ去り、お決まりの敗北を喫してしまったのだった。4/5

道路混雑を規制する会議に出たのだが、会議がポンポコ狸踊りを始めてしまったので、とうてい結論など出やしないのだった。4/5

「こんなに広告の出校があるんだから、パブも宜しくね」と誰かがリクエストしたら、婦人画報の戸川さんは「ハハハハ、また冗談ばっかり」と例によって豪快に笑い飛ばすのだった。4/5

全身黒ずくめのそのオバハンと、ちょっとしたことから言いあいになってしまった。会合が始まって司会者が挨拶しているというのに、そのオバハンが後ろを振り向きながら、また私の悪口を言いだしたので、私も応酬を開始すると会場は騒然となった。4/4

どこかの寄り合いでおいらは連れの席を取っていたのだが、あとからやって来たヤクザが「そこは俺の席だ」と難癖をつけやがったので、最初はしたでに出ていたおいらも、すぐに切れてしまって、彼奴をあっというまにボコボコにのしてやった。4/3

図書館に行ったが、平日の真昼間だというのに、誰もいない。仕方なく「誰かいませんか?」と大声を出すと、暗い奥の方から割烹着をきたおばさんが出てきたので「お茶を下さい」と頼んだらハイと答えたきり、いつまで経っても姿を現さない。4/2

軍事演習という名目で隣国のアパリティアに進駐したわが軍団は、ここで進撃をとどめるべしという慎重論と、さらにアンゴラ国まで東進すべしという積極論が激しく対立したために、進軍を停止せざるをえなかった。4/1

 

 

 

もっとも高い塔の歌~聖カルロス・クライバーの音楽

音楽の慰め 第4回

 

佐々木 眞

 

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20世紀を代表する天才(天才的にあらず真の天才なりき)指揮者、カルロス・クライバー(1930年-2004年)が亡くなって、この7月で12年になります。

先日彼の数少ない独グラモフォン録音をあつめた12枚組のCDを改めて聞いてみたのですが、さしたる感興を覚えなかったのはどうしてでしょうか。ライヴにおけるあの光彩陸離たる輝きをもういちどこの手に取り戻すためには、CDより映像作品のほうがいいのかもしれません。

ということで、思い立って3本のビデオを鑑賞してみました。うち2本はドキュメンタリー、1本はライヴ収録の演奏です。

まずは「ロスト・トゥー・ザ・ワールド」。これは惜しまれつつ瞑目した史上最高の指揮者の一人の生涯の軌跡を、関係者の証言で辿った音楽ドキュメンタリーです。
証言者のなかには、バイエルンのオペラ劇場での凡庸な同僚、ウォルフガング・サバリッシュなども登場し、ちょっと辛口のコメントを吐いたりしていますが、それでも彼は余りにも神経質なクライバーを終始擁護し、激励した親切な人でした。

指揮者のリッカルド・ムーティやミヒャエル・ギーレン、演出家のオットー・シェンクなどの証言者の大半が、彼を「神が地上に遣わした音楽の天使」などと大仰に褒め称えていますが、それがあながち誇大な表現であるとも言い切れない奇跡的な演奏を、実際に彼は1986年の人見講堂におけるベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章などで繰り広げたのでした。

そしてその真価は、このドキュメンタリーの通奏低音のようにして流れている、80年代のバイロイト音楽祭におけるワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル映像において、鮮烈に刻印されています。

とりわけ終曲の「愛の死」のクライマックスを、視聴してみてください。
誰もが頭が空っぽになり、肌に粟が生じてくるようなエクスタシーの現前は、いかにもこの不世出の指揮者の独壇場で、このような芸術の高みに登った音楽家は古来そう多くはなかっただろう、と思わせるような素晴らしさです。

このような演奏を可能にしたのは、彼の頭の中で鳴る音楽の独創性と、それを現実の音に置き換えていく彼の練習の際の「言葉の力」であることは明白で、リハーサルで彼が繰りだす卓抜な比喩の誘導によってオーケストラの音楽がどんどん変わっていくありさまを、私たちはこのドキュメンタリーにおいても再確認することができます。

しかしそれは、いつもうまくいくとは限らない。
ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番のリハーサルを行っているとき、「この箇所はテレーズ、テレーズと歌ってください」という彼の指示を、第2バイオリンの心ない奏者たちは、「いやマリー、マリーでいいのでは」などとあざ笑い、あえて無視しようとします。

すると激高したクライバーは、懸命に引き留めるコンサートマスターのゲルハルト・ヘッツェル(1992年の夏にザルツブルクで登山中に墜落死した私の大好きなヴァイオリニスト)の手を振り払って、そのまま空港に直行してミュンヘンに帰ってしまいます。(彼は、毎日帰りの飛行機の予約を入れていたそうです。)

といった按配で、これはクライバーのファンならずとも見どころ満載のドキュメンタリーといえましょう。

原題は「I am lost to the world」で、これはマーラーのリュッケルト歌曲集の中の「私はこの世に忘れられ」からの引用と思われますが、音楽にあまりにも高い完成度を求めたために、もはや普通の演奏に甘んじることができず、急速に指揮台から遠ざかっていった晩年の天才指揮者の孤独を象徴するようなタイトルではあります。

*

次はもうひとつの原題は「Traces to Nowhere」、邦題では「目的地なきシュプール」という名のドキュメンタリーで、2010年にクライバー生誕80周年を記念してオーストリアで製作されました。エリック・シュルツという人が演出して、やはり不世出の天才指揮者の軌跡を辿っています。

出演はブリギッテ・ファスベンダー、ミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンク、マンフレート・ホーニク、プラシド・ドミンゴ、アレクサンダー・ヴェルナーなどの指揮者や歌手や演出家、評伝作家のほかに、南ドイツ放響のフルートやピッコロ奏者、メイクの女性までがクライバーを懐かしく偲んでいます。

そうして、これまでいっさいマスコミに顔を出さなかった彼の実姉ヴェロニカ・クライバーが特別出演して「死ぬまで彼は寂しい男の子でした」と語るとき、天界と人界をサーカスの綱渡りのように渡りながら去っていった男の後ろ姿に、一筋の微光が差すようでした。

ここでも素晴らしいのは、南ドイツ放響との喜歌劇「こうもり」のリハーサル風景で、楽員に対して音楽のために全身全霊を捧げることを求め、バトンを天に向け、「まだ見ぬ音を勝ち取るために戦ってください」、「8分音符にニコチンを浸してください」などと訴える、若き日のクライバーの姿が胸を打ちます。

やがて守旧派の奏者を心服させたマエストロは、歌いに歌い、いまや音楽と音楽家は完全にひとつに溶けあって、この世ならぬ至上の時、法悦の時へと参入していくのですが、さてこれまでいったい他のどの指揮者が、このような音楽の奇跡を成し遂げたというのでしょうか。

無数のオペラと交響曲、管弦楽曲とオペレッタを自家薬籠中に収めていたにもかかわらず、父を尊敬するあまり、エーリッヒが録音したか、あるいは楽譜を残していた曲以外は演奏しようとしなかった息子クライバー。その父エーリッヒを超える技術と感性を持っていたにもかかわらず、常に父に引け目を感じていたクライバー。

父と並ぶ完璧さを求めようとするあまり、とうとう演奏が無限の苦行と化してしまったこの悲劇の天才は、愛する妻スタンカが眠るスロベニアへと、死への逃避を敢行したのでした。

*

最後は1991年のウイーン・フィル演奏会のライヴ映像です。

これはモーツァルトのハ長調K.425(通称リンツ)とブラームスのニ長調Op.73の2つの交響曲が楽友協会ホールで演奏されたもので、1993年にレーザーディスクで発売されましたが、現在はDⅤDになっています。

リンツの第1楽章ではクライバーの動きが緩慢であまりやる気がなく、見ているほうが心配になりますが、第2、第3楽章になると徐々にエンジンがかかります。

この曲は弦と管が同じ旋律を交互に繰り返す箇所が多いのですが、マエストロはその都度当事者にこのメロディをよく聴くように指示しているのが印象的で、両翼にヴァイオリンを配置した楽器編成が、その楽想と演奏の効果を高め、第三楽章ハ長調四分の三拍子のメヌエットを聴いていると、さながら天国にあるような心地です。

クライバーのモーツァルト録音は、この曲のほかに変ロ長調K.319の録音がありますが、おそらく生前に完璧にレパートリーに入れていたはずの主要交響曲とオペラを聴けなかったことは、残念無念の一語に尽きます。

さてプログラム後半のブラームスになると、我らが主人公の顔つきも一変し、彼の全盛時代を彷彿とさせるそのダイナミックな指揮振りに圧倒されます。

しかし第一楽章アレグロ・ノン・トロッポ、第二楽章アダージョ・ノン・トロッポ、第三楽章アレグレット・グラチオーソまでは、金管楽器の咆哮などはいっさい聴かれず、例えば第三楽章でチェロのピッチカートに乗ってオーボエが独奏する箇所など、さきほどのハ長調K.425(リンツ)と同様の管と弦の協奏、掛け合いがオケの腕の見せ所となりますが、クライバーの指揮は、この両者に対する強弱のコントラストのつけかたがとてもデリケイトなのです。

他の凡庸な指揮者、例えば小澤征爾が同じウィーン・フィルを指揮した同じ2番シンフォニーの同じ箇所では、楽譜の四分の四拍子を四分の二拍子くらいの前のめりで慌ただしく振っているために、ブラームスの音楽の緊密な内部構造、その極度に内省的なハーモニーの美しさなどは、急行列車に黙殺された礫岩のように置いてけぼりにされてしまいます。

「そんなに急いでどこ行くの?」という外面的な勢いだけの内容空疎なブラームスに堕すのですが、緩徐楽章のピアニッシモの超絶的な美しさをここまで深掘りしてみせたマエストロは、クライバー以外にはチェリビダッケあるのみ。フルトベングラーも、クレンペラーも、カラヤンも、バーンスタインも、これほど恐るべきニ長調は演奏できませんでした。

しかしさしものウィーン・フィルも、最終楽章のアレグロ・コン・スピリートに突入すると、すでに疲労困憊の極に達しており、獅子奮迅のクライバーが鬼神も啼けとばかりにコーダの絶叫を命じても、笛吹けど踊らずのポンポコリンの狸たち!

ああついに世界一、二を争うトップオーケストラも、天才指揮者の脳裏で鳴り響いている前人未踏のブラームスの大歓喜を音化できず、無情にも終局を迎えるのでした。

ですからこのブラームスの演奏は、彼らが「実際に音にできた音楽」によってではなく、むしろ「演奏しようとして果たせなかった未聞の音、不可能の音楽の暗示」によって偉大とされるべき演奏と評すべきなのでしょう。

 

地上では行き場失いしクライバー眠れよわれらの記憶の底に 蝶人

 

 

 

水無月の歌

Voice Of Yoshimasu~吉増剛造の語りによる「我が詩的自伝」を読んで

 

佐々木 眞

 

 

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これは詩人吉増剛造が物語る、いわゆるひとつの波乱万丈の人生と、その創造の秘密であるが、近頃これくらい面白い読みものもあまりないだろう。

それは本書の折り返しで、当年とって77歳の文化功労者が、かのアインシュタインの真似をしてアッカンベーをしてみせる写真を見れば、一目瞭然だろう。

あなたが、「素手で焔をつかみとれ!」という気恥ずかしい副題をつけられたこの本を読み始めても、あなたの期待は裏切られないだろう。だろう、だろう。

そこには、この人物が、それぞれのエポックを代表するような、錚々たる人物と次々に遭遇しながら、切磋琢磨し、おのれの人生と芸術を築き上げて、今日の大をなしてゆく事の次第が、初めは処女の如く、終わりは龍虎の如き勢いで、鼻息も荒々しく、縷々陳述されているのである。であるん。

彼の藝術的受容のキーポイントになっているのは、どうやら「声」らしい。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

例えば太宰治や柿本人麻呂や芭蕉、アレン・ギンズバーグの詩歌や散文には、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディランに通じる生々しい声があって、これが心の奥底にまっすぐに届く、というのは、私のような門外漢でもたやすく追体験できる。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

そのドーンとやって来る声=「内臓言語」は、彼が大きな影響を受けたと語っている聖句やエミリー・ディキンソンの詩、キェルケゴールの言葉、そして一休宗純の書にもどこか通じている、父母未生以前の原初的で普遍的な炎、のようなものなのだろう。

そして彼はこの炎を自分のものにするために、心身を常に「非常時」に置き、原初的で普遍的な歌や声や踊りを宣揚するだけでなく、愛妻マリリア選手由来の“即席シャーマン”となって、それらに限りなく憑依するばかりか、夫子自身がそれらの発火源(詩魂の火の玉!)になろうと悪戦苦闘しているようだ。

したがって彼にとっての詩的活動とは、幾たびも、また幾たびも詩魂の火の玉となって、この宇宙の創造主に体当たりせんとする特攻機のZigZag&螺旋運動、詩的テロルそのものであり、人はその軌跡を「作品」と称しているに過ぎない。
この間の事情をば、不肖わたくしめの詩で翻訳するなら、

『見よ東海の空あけて 旭日高く輝けばァ、
今日も我らがGozo選手は単機Zero戦を駆って、紺碧の空の果て、言語も枯れる真空地
帯の極北を目指し、離陸していくゥ。

かつてニーチェが「人間とは乗り越えられるべき何かである」(佐々木中訳)と定義したように。

かつて「ゔぁれりー」が、「風立ちぬいざ生きめやもォ」と歌いながら「えらんゔぃたーる」の彼方へと飛翔したように。

そしてまた、かつてセーレン・オービエ・キェルケゴールが喝破した「反復とは繰り返しではなく、瞬間毎に生き直すことである」を実践するがごとくに』

ということになろうか。だろうか。そうだろうか。

それでは、肝心の吉増剛造の詩の値打はどうなのかと問われたら、私は「あれらは出口なお刀自ではなく、出口王仁三郎が代筆した「大本神諭」のようなもので、その価値を論じてもあまり意味はない」と答えるだろう。だろう。

それよりも「詩人は、すべからく詩作の内部で生きるほかはない。爾余は“半死にの余生”ということになるが、それもさして悪いものではない」というのが、私の吉増剛造観である。であーる。

余談ながら本書を読んでいちばん感嘆したのは、著者が多摩美で「詩論」講座を受け持ったときに、ホテルに泊まり込んで200名のレポートを全部読んで、一人ひとりに全部違う出題をしたというエピソードであった。

こういう離れ業は、学生と教育への愛と興味と誠実さがなければ、やりたくてもなかなか出来ないものである。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第13回「五月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 
 

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1981年5月30日 土曜
宮澤清六氏から頂戴した宮澤賢治の「貝の火」を読む。

1982年5月30日 日曜
藤沢にて第9回自閉症連続講演会を開催し盛会なりき。東大の太田昌孝先生を講師に招き、聴衆約200名。併せて神奈川県域総会も開催する。

1983年5月30日 月曜 快晴
サミット閉幕す。Addenda演出を野田氏に決める。次男が仲間と燕の巣を叩き落としたので妻、担任の小林先生謝る。子の弱さが問題なり。

1984年5月30日 水曜 くもり
六本木のスタジオAbiでAddendaテレビCM建設会社編を撮影。深夜、宣伝会議の答案の添削をする。

1985年5月30日 木曜 はれ あつい
池袋サンシャインにて「チェーンストアフェア85」をみる。この頃三半規管がおかしい。地軸がずれる。

1986年5月30日 金曜 雨
新橋TCCで「モロン」をみる。SFカルトお笑い映画なり。ぴあにて「インディアン・キャバレー」をみる。インド女流監督によるドキュメンタリー映画なり。

1987年5月30日 土曜 くもり
会社休んで次男の授業参観。教師は高見順の「われは草なり」を題材に詩学講義を行ったが、こんなの子供には無理だろう。

1988年5月30日 月曜 はれ
エミリオ・エステベスの「WITHDOM」、エリック・ロメール「喜劇と諺シリーズ」の「友達の恋人」。いかにもありそうな話をいかにもありそうに描き出す才人ロメールならではの佳作なり。

1989年5月30日 火曜 にわか雨
3日続けてのにわか雨、そして雷雨。早くも夏か。デパートは消費税のあおりで売上が落ち込む。博報堂はじめて来社。余、身体弱りつつあり。企画の仕事に悩む。

1990年5月30日 水曜
「フンクイの少年」。侯孝賢の初期の自伝的映画なり。夜イケダノブオ氏の御馳走になる。

1991年5月30日 木曜 晴
会社休む。長崎雲仙は溶岩流で人々が逃げ惑っている。「弁明」「クリトーン」などでソクラテス最後の日々を読み感銘を受ける。新会社ディレク発足。

1992年5月30日 土曜 くもり後雨
会社休む。長男は材木座の散髪屋で髪を刈ってもらう。この家にも自閉症の同級生がいる。

1993年5月30日 日曜 ふったりくもったり
朝、長男の定期券を駅まで買いに行く。「杜詩」とシューベルトのCD2枚買う。雨上がりにムクと太刀洗まで散歩。父母が散歩のついでに我が家にやって来る。鎌倉古寺地図を見る。

1994年5月30日 月曜 雨のち晴
久しぶりに会社へ行く。佐野ちゃんは実家に帰ってぐずぐずしていたら、母親に怒られたそうだ。小坂、清水はギャラアップしたが、俺は去年と同じだ。妻は長男の要請で、遥々高野山の麓の本屋まで行く。ただそれだけでまた鎌倉まで遥々戻ってくるのである。

1995年5月30日 火曜 くもり
大阪出張。帰りに奈良に寄って国立博物館の日本仏教美術名宝展を見る。空海、最澄、聖徳太子の真筆、平家写経、吉祥天女像など素晴らしき限りなり。ついでに東大寺大仏、二月堂、三月堂をみて夜10時半帰宅す。

1996年5月30日 木曜 くもり
雨の予報なれど雨降らず。会社休みで静養す。今週長男はゆりの木ホームにステイする。ムクと太刀洗散歩。父具合悪く義姉吐く。義妹宅でもめる。

1997年5月30日 金曜 晴
会社に妻と次男より電話あり。次男のカメラ、マニュアルに出来るか否かの問い合わせなり。

1998年5月30日 土曜 陰 湿度高し
昨夜妹より身の上相談あり。失業率4・1%と過去最高。米国並みなり。パキスタンが再度核実験を行う。

1999年5月30日 日曜 快晴
素晴らしき5月の好天なり。次男がスパゲティを作ってくれる。いつものタラコではなく新作也。妻と長男「ゆうあいピック」より日焼けして帰宅。ムクのダニを50匹ほど取って瓶に入れたり。

2000年5月30日 月曜 晴 暑い!
午前、六本木シノヤマ事務所の傍の渡辺君の会社を訪ねる。webサイトの仕事をしているとか。午後、集英社にメンズノンノの石井さんを訪ねる。ロードショウ誌の田中洋子副編集長を紹介してもらう。

2001年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
ムクと散歩。テングチョウ、ジャコウアゲハ、アオスジアゲハを見る。小柳、内田氏より電話。内田氏にレイアウト依頼す。本日より文芸社にとりかかる。講談社オブラからファックス届く。

2002年5月30日 木曜 はれ
鎌倉早見学園で講義。女の子休みで学生1人のみ。妻と海岸近くのレストランでフランス料理を食べる。もう海で泳いでいる人がいた。歯痛と戦いながら、文芸社リライト終了す。

2003年5月30日 金曜 はれ
文化講義第8回目。商業施設について喋ったが、途中で時間になった。新橋アシェット婦人画報社に鴨沢さんを訪ねる。元気そうなり。「夕映えの道」をみる。

2004年5月30日 日曜 はれ あつし
文芸社やる。原田さんに原稿のデジタル化を依頼す。妻、長男と熊野神社まで歩いたが、蒸し暑くさながら夏日のごとし。

2005年5月30日 月曜 雨
文化講義。EUは25カ国なのに23しかないと指摘され、赤面す。ルーマニアとブルガリアが抜けていた。双子山親方(元貴乃花)ガンで死ぬ。55歳なりき。

2006年5月30日 火曜 腫れたり曇ったり
工芸大、藤沢に住む映像科の女の子が駆けこんできたが、橋本氏にバトンタッチして帰る。日本、ドイツとの練習試合で引き分ける。今村昌平死す、79歳。

2007年5月30日 水曜 雨
南長崎のカウンタックに青池夫妻、母、妻と次男のグループ展を見にゆく。2点の写真が1枚8.5万。買ってやってもよいのだが、買わずに帰る。

2008年5月30日 金曜 くもり
工芸大、若干名。疲れた。7月29日から休みが取れないと知り、妻怒る。

2009年5月30日 土曜 くもり時々雨
妻と一緒にNHKの共同アンテナのちらしを配って歩く。積立金から3万円払い戻すという。

2010年5月30日 日曜 くもり
沖縄普天間基地問題で署名を拒否した福島大臣を罷免した民主党連立政権から、社民党が離脱。文芸社アップ。

2011年5月30日 月曜 雨のちくもり
文化講義2連発。

2012年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
午前中に湿生花園を訪ね、4時に箱根から帰宅す。

2013年5月30日 木曜 くもり時々小雨
妻と大和へ行き、ニトリでベッド、無印で机と椅子を買い、6月9日に入所施設に納品してもらうことにした。

2014年5月30日 金曜 はれ
文芸社アップ。すぐに次の依頼ありしが、労賃あまりにも安すぎるので断る。

2015年5月30日 土曜 快晴
太刀洗で例年のごとく大量のルリシジミ発生。白いサラシナショウマの花もあちこちで咲いている。

2016年5月30日 月曜
今宵も森戸橋でヘイケボタル乱舞す。
月初シューマンの歌曲を思いながら「美しい5月」という詩を書いたのだが、安倍蚤糞の御蔭で「醜い5月」となり果てた。
この男はみずからが能天気に実行した経済政策が破綻し、なんの成果も上がらないので、それをなんとか責任転嫁しようとして、なんとサミットで「世界経済はリーマンショック前と同じくらい危機にある」などと異常な脳内妄想を公言して他国の首脳から気狂い扱いされたのみならず、3本の矢がみな折れて消費税アップの公約すら果たせないという醜態を演じている。
あまつさえ「謝罪なんかしなくてもいいからともかく来て下さい」と拝み倒してオバマ大統領の広島訪問を実現したことを、まるで鬼の首でも取ったように大騒ぎして、沖縄の邦人女性殺害の責任追及や日米行政協定の見直しなど、すっかり忘れ果てているようだ。
彼奴は「二匹目のどぜう」よろしく7月に選挙に打って出るようだが、こんな子供だましの手品に騙されるほど愚かな民草ではないことを思い知らされるに違いない。

 

陰謀は悉く破れ皐月尽 蝶人