夢は第2の人生である 第7回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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ある村に住んでいたフランス人が、さる老人の死に際して不適切な発言をしたというので難詰され、酷い村八分に遭っていた。村人は彼の謝罪と訂正を我慢強く待っていたが、彼はけっしてその発言を取り消そうとはしなかった。7/1

2種類の文書がある。文書その1を読んでいると、それはいつのまにか文書その2の内容とダブってくる。文書その2からはじめても、まったく同じようになる。しかし2つの文書の内容は、明らかに異なっているのだった。7/2

台所と風呂場の改装をしよう、ということになって2つの工務店に見積もりを出させようとしたのだが、2店ともそんなことはやったことがないという。発注を受けたらただちに作業にかかって、終われば請求書を出すと言うのであきれ果てた。7/3

突然姿を現したのは、旧友のオオブチユウタだった。彼はその隣にいるヤグチキヨコという女を紹介した。その名前に聞き覚えはなかったが、しばらくその顔を見詰めているうちに私の昔の想い人だったことに気付いたが、彼女は私のことをすっかり忘れているようだ。7/4

世界王族会議で某国の某皇太子が、「今日からは同じ礼服でパーティに出ることにする。その都度新規に購入していた礼服は、わが国の零細非常勤講師諸君を支援するために寄付する」と力強く宣言してくれたので、私は枕に涙を流した。

朝眼をさますと、私は1冊の小説も書いていないのに芥川賞を受賞していた。周囲の人がいままでとは違う尊敬のまなこで見詰めてくるので、私もそれが気になって不自然な態度しかとれない。それより早く次回作という名の本当の処女作を書かなければ、と私は焦った。7/6

「待て待て、いまスイッチをひねっては危ないよ」と2回警告したにも関わらず、彼女がうっかりやってしまったために、町で評判の3人娘とその美貌の母親は、ガス爆発の哀れな犠牲になってしまったのだった。7/7

母親とちょっとしたいさかいを起こしたのが引き金になって、私はあろうことか家族全員を殺害してしまった。それから素知らぬ顔をして職場に着き、いつもどおりにビデオの編集作業をやっているのだった。13/7/9

戦争の真っ最中なのに、弾丸が飛び交う都会のど真ん中の田んぼに苗を植えているわたし。このままではヤバイのではないかとうろたえているのに、わが相棒は平然として植え直しに熱中しているのだった。7/10

総務部のA君と打ち合わせを終え、私たちは永代橋の支店に向かったのだが、若くて壮健なA君の脚は早く、あっと言う間に姿が見えなくなった。懸命に跡を追っていると道はいつか巨大なダムになり、私がぬるぬるした壁にしがみつきながら下を見ると、A君の小さな後ろ姿が見えた。

私には樋口一葉に似た美貌で盲目の代書人がつねに張り付いていて、私が例えば「薔薇は薔薇薔薇である」とか「林檎は勇気凛々」とか「憂鬱の欝!」とか口走ると、素早く矢立てをとって短冊に墨書してくれるのである。

座席指定の寝台列車に誰かが寝ているので、「ここは私の席だよ」と注意したが、タヌキ寝入りをしてとぼけているので、私はそやつのそっ首を両手でつかんで座席の外に放り出したら、あっけなく死んでしまった。7/16

「箱根八里」を歌いながら、男たちはツキノワグマを解体していた。7/17

私たちはそのためにではなく、泊まるところがないのでその安ホテルの1室に入ったのだが、どういうわけか途中でそういうことをしてみようという感じになったのであるが、例によって私の精神的肉体的な都合で駄目になってしまって、誠に申し訳ないことだった。7/20

北欧のどこかの国を訪れていると、3人のそれぞれタイプの異なる少女が私に関心を持ったらしく、近づいてきて「寝よう」と誘うので寝ようとするのだが、私は不能の身ゆえに最後まで役割を果たすことができず、彼女たちは不満そうに離れてゆくのだった。7/23

それが愛する弟であると知りながら、私は馬に跨ったまま鋭利な鉄器を頭上に大きく振りかざし、気合いもろとも振り下ろし、後を見届けようともしないで駆け去った。
ああ、いつかはやるだろうと思っていたことを私はやってしまった。終生忘れることのできない心の傷がそのあとに残った。7/24

突如戦争が勃発してしまったので、なんでもその場で即座に右か左かを裁く国際移動即席裁判官は、あちらこちらの前線のみならず、この海水浴場でひっぱりだこだった。

観光とは「光を観る旅」という意味だが、同文社の前田さんが引率するこのたびの旅行団には、私の家族や親戚も加わって、いつか見たどこか懐かしい場所、まだ見たこともない不思議な土地を次々に訪ねていた。7/29

 

 

 

 

あけまして、ぎっくり

根石吉久

 

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1月6日。

また、ぎっくり腰だ。
一年の計は元旦にありとは、嫌なことを言うものだ。今年の元旦は、12月にやったぎっくり腰が悪化した日だった。ただ寝ているしかなかった。

何度か炬燵で書いてみようとしたが、痛くて駄目なので、寝ながら、iPhone で書くことにした。

寝ていると前兆のようなものがあったとわかる。わかるのはいつもぎっくり腰をやった後である。あれかと思い当たるのだが、あるいはそんなものはいつでもみつかるものなのかもしれない。体を動かせなくなって、とにかく寝ているしかなくなり、過去の数日を思い巡らせていれば、何かしら前兆のようなものは見つかるのかもしれない。
しかし、今回はそれがなかったのだ。うんこ座りというか、ヤンキー座りみたいな格好をしたら、いきなり来た。

思い切り大雑把な言い方をする方が原因がわかる。体の冷えだ。これだけはいつも見つかる。今回もそれはあった。寒かったから、ストーブの前でうんこ座りにしゃがんだのだった。
うんこ座りと言っているのは、和式便器を使うときの姿勢なので、だんだん通じなくなっていく言い方かもしれない。駅などで、ヤンキーがうんこ座りをしていた頃があったが、最近は見かけない。ヤンキー座りというのも通じなくなっていけば、あの座り方をどう言えばいいのか。野糞座りか。
年末も近くなって、うんこというか、ヤンキーというか、野糞というか、その座り方をしただけで来た。ただそれだけだった。体に力を入れたわけではない。簡単に壊れた。

起きたときに、すでに寒かったのだ。体が縮こまって、筋が硬くなっていたのだろう。

安い焼肉を食っていて、歯で筋が噛み切れないときがある。出刃包丁で微塵切りにすれば食えるのだろうが、そういう肉はうまくないので、そんな工夫をしてもしょうがない。
自分の尻の肉を掌でつかんで、人食い人種もこのケツは食えまいと思うことがある。顎がくたびれて口の動きを止めるか、不味いと顔を顰めて吐き出すだろう。そのくらい筋が硬く縮まっているときがある。そういう時は、体の芯の方に寒気がある。

子供のころから、血行が悪かった。小学校2年の時に、小児リウマチというのをやり3ヶ月ほど入院した。あれも血行が悪いせいだったのかもしれない。
リウマチというのをネットで調べてみたら、今でも原因がよくわかっていないらしい。学芸会の劇の役をやらされて、連日冬の体育館で練習させられたせいだと自分では思っている。冷えても時間が短かければまだいいのだが、どこにどう身を置いても駄目だという感じで冷えていった感覚は今でも覚えている。しかし、他の生徒は入院したわけではないから、やはり私が特に冷えやすかったのだろう。体もクラスで一番小さかった。
私の兄弟は、私以外は人並み以上に背がある。体が冷えると訴える者もいない。私一人が体が小さいのは、冷えで縮こまってしまったのかと思う。
ちなみに、親父の兄弟は9人いたそうだ。生き残ったのは3人で、他は子供の頃に死んでしまったそうだ。親父は末っ子だから、詳しいことは親父も知らないのかもしれない。話したがらないことは、こちらも訊かない。貧乏だったということだろう。子供は冬の寒さで死んだのではないかと、なんとなく思っている。

女房は土佐の生まれだ。私と東京で知り合い、長野に住むようになった年、初雪を見て雪だあと喜んではしゃいだ。今では土佐でもドカ雪が降ったりする変な天候があるが、女房が育った頃は、年に一度か二度、あるいは全然降らないくらいのものが雪だったらしい。女房が見ている雪を見て、「こんなもの」と私が吐き捨てるように言ったので、女房は顔が一瞬凍りついた。
芯に冷えが出来がちな私には、長野の冬は端的に凶悪なものだ。盆地の底冷えがきつい。年寄りが死ぬのも、底冷えした日の朝が多い。私は今では盆地の底冷えをはっきりと憎んでいる。

去年の夏頃、セルフ整体のことを書いたが、セルフ整体をやっても、筋が硬くなってしまっているときはまるで効かない。そこで、試しに自己流のストレッチングをやってみた。
寝床の中で仰向けに寝たまま、膝小僧を手で持って胸の方に軽く引く。これは代表的な腰痛体操だが、自己流では引く力をごく弱くする。筋が緩んでくると、膝小僧が胸に少し近づくが、このとき手に力を入れて胸の方に引いたりしない。どこかにピンと張った感じが生じたら、逆に張ったところを緩めるように膝小僧の位置をわずか戻す。ピンと張る前くらいの位置を探す。そうやってさぐりながら、90秒くらい同じ姿勢を保ってから、ゆっくりと脚を伸ばす。
これを初めてやった日は、よほど血行の悪かった日なのか、体に血が流れ始めるのがはっきりわかった。いつも下半身ばかり冷える感じがあるが、腰周りに血が流れると冷えが弱まる感じがある。筋も柔らかくなり、やたらにあくびが出る。人喰い人種もこのケツなら喰えるかなと思う。脇腹などを自然と伸ばしたくなるが、その場合も筋が張る寸前の位置を探りながら同じ姿勢を保つ。張った感じになったら少し戻してやる。
血が通うようになってからセルフ整体をやると、筋と肉が分離したみたいな筋の硬い感じはなくなり、痛みと気持ちよさが半々、あるいは痛み4分気持ちよさ6分くらいの感覚が生まれる。筋が硬くなっているときは、その感覚は生まれない。

1月7日

炎症が治まってから、歩くのは割と早く出来た。一進一退があるが、調子のいいときはすたすたと歩ける。普通に歩けるので、もう直ったのかと思うことがある。しかし、炬燵が駄目だ。炬燵にあたって30分もすると、辛くてじっとしていられなくなってくる。なんだ、まだ壊れたままじゃないかとがっかりして、寝床に入る。
歩けるので庭で軽いものを動かすくらいのことは出来る。今日は、薪ストーブの焚き付けにするものを屋根のあるところに何回か移動させた。夕方、風が冷たくなってきた頃、なんとなく腰の具合が悪くなった。国民温泉に行き、お湯に三度浸かったらよくなった。
昨日も同じような感じだった。夕飯を炬燵で食べているときに辛くなったので、松代温泉に行き、ぬるいお湯に長く浸かったら、帰りには痛みがなくなっていた。
炎症にまではならないが、小さくぎくっとなるズレのようなものは、徐々に減ってきている。このズレは何なのだろう。ズレの後、違和感があるが大事にはならない。伸びたりして、変な方に行っていた筋が戻る動きだろうか。炎症を起こさないので、寝込んだり杖が必要になったりすることはない。しかし、ズレがあったときの感覚は、ぎっくり腰をやったときの感覚とそっくりなので、こいつが生じるようになり始めた頃は、またやったかと思い、目の前が暗くなるような気がした。しかし、なんともない。違和感はあるが、歩けたりはする。機械に喩えれば、歯車の歯が擦り減って、ギアが噛み合わなくなったようなことなのかとも思う。そういうことだとすると、この先はますますヤバイ。サボらずに、また歩くことを始めた方がいい。腹も出てきている。

炬燵が駄目なので、寝床で書くしかない。iPhone なら左手一つで持ち、右手一つというか、右手の中指一本で書ける。キーボードがなくても、苦にならなくなってきた。ゆっくりやればいいだけのことだ。
ぎっくり腰のことなんかやたら書いても、ぎっくり腰をやったことのない人には、さぞかし退屈なことだろう。というより、途中で読むのを放り出してしまうだろう。申し訳ない。私は今はぎっくり腰のことしか関心がない。
原稿が遅れたのも申し訳ない。
養生します。

 

 

 

 

渡辺洋 新詩集「最後の恋 まなざしとして」について

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月)を鞄にいれて持ち歩いていた。

小さな本なのですぐに読んでしまえると思っていた。
そして、この詩集について、何かしら感想のようなものを書けるだろうと思っていた。

それが、随分と厳しい本なのだということに行きあたった。

「最後の恋」を「最後の恋 まなざしとして」としてしまうあたりが、渡辺洋さんは知識人だなあと思ってしまっていた。わたしだったら「最後の恋」とするだろうし、実際に「最後の恋」を体験し「最後の恋」に「まなざしとして」という装飾はしないだろうと思っていた。

だが、渡辺洋さんの「最後の恋」は、すでに失われた恋なのだ。
しかも徹底的に失われた恋なのだった。

 

美しいものが目をとじている街を
心の底が抜けそうになっても歩きまわって
この世界に生まれて生きる違和感を手ばなさずに
ラブレターのような詩を書こう

(美しさって
思い出せるかぎりの世界の向こうから不意にやって来る
心には思い出せない何かなんじゃない?

笑い声が聞こえた気がして
ふり返っても誰もいない四月

一人はにかんでいない人に向かって微笑む

 

「最後の恋 まなざしとして」の部分を引用してみました。
「美しさ」も「恋」も「世界の向こうから不意にやって来る」ものなのでしょう。
そのことにあらためて気付いて詩人はモノクロームの世界で微笑むでしょう。

そのように一人で淋しく微笑んでいる人を見たことがあります。
自分もそうだったかもしれない。
すでに失われた恋を語るのはとても苦しいし厳しいなあと思ってしまいます。

「何度でもはじまる歌」という詩を全文を引用してみます。

 

何度でもはじまる歌

僕を何物でもない物にしてしまう言葉で書かれた街で
(それとも僕を書き終わってしまった?
からからになった心の地面で
からだをふるわせながら響きはじめる
三十年、四十年前の歌に感謝しよう
小学生のときから何度も読むたびに涙してしまう
けなげな子どもたちとやわらかい心を失わなかった大人たちが
心をかわしあうケストナーさんの小説『飛ぶ教室』にも
愛することでここまで来れたのだから
何度でも僕を書きはじめるために
僕と世界を呼ぶように
誰もいなくなった世界に向かって微笑もう
からっぽの光くずになっても

 

 

ここに書かれる「僕」は渡辺洋さんなのでしょうか?

「最後の恋 まなざしとして」にも書かれていましたが、
「心の底が抜けそうになっても歩きまわって」いる「僕」がいて、「からからになった心の地面」の「僕」がいる。その「僕」からみられた世界は「僕と世界を呼ぶように/誰もいなくなった世界に向かって微笑もう/からっぽの光くずになっても」と歌われている。「世界」は誰もいなくなった「僕」でしょう。そして微笑むでしょう。

とてもナイーブな「僕」がいて「世界」がある。

 

 

ナイーブさ

積み重ねてきた噓の重さで
世界の底が抜けそうになっても
僕は急がない
もっとこわれなければ
この世界をおおう透明で巨大な暴力を
批判できる言葉を
僕のなかに呼びおこすために

何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする
心にはやさしさのはじまりがある
そのやさしさの間違いを
(たとえば誰かを傷つけたり排除したり
見つめながら心をきたえていく
何度ふみにじられても
種をまいて咲く花のような
まなざしに少しでも近づこうと

詩は古くて細い道
きみという一人に辿りつくための
何度も間違えては
身をよじるように曲がりくねって上っていく

 

 

「ナイーブさ」という詩の部分を引用してみました。

「何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする/心にはやさしさのはじまりがある」「僕」がいて、「種をまいて咲く花のような/まなざしに少しでも近づこうと」するナイーブな「僕」がいます。

渡辺洋さんにとって「詩」は「古くて細い道」を「身をよじるように曲がりくねって上っていく」その先に、「きみ」として現れるものなのでしょう?

わたしもかつて渡辺洋さんのように「詩」を遠くにあるものと思っていました。
絶対的な到達できない場所にあるものと思っていました。

でも、本当にそうなのかなとも思えるようになってきました。
「詩」はそのように曲がりくねって上っていった先の遠くにあるものとは思えなくなってきました。

「詩」はもっと身近に既にあるのではないでしょうか?
「詩」は既にあり、わたしたちが「詩」を見るか、見ないかだけなのではないでしょうか?

詩をそのように「既にあるもの」と感じますと、
例えば、渡辺洋さんの「Sketches #8」に登場するマリーを詩は支えられるようにも思えるのです。

 

 

#8

マリーがこわれていくのを誰もとめられなかった
救いを求めていない相手を人は救えないのさ
何かができるんじゃないかと思っていた僕も
意表をつくネガティブでつよい反応に
心の病気がぶり返しそうになって近づけなかった

地震のあとマスクをかけてはずさなくなったマリー
当たりちらすようにキーボードをたたくマリー
他人のちょっとしたミスに声をあらげるマリー
歩道でかたまったように立ちつづけていたマリー

 

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」を深夜に読みはじめて朝となりました。

朝には、遠く西の山が空に浮かび小鳥たちが鳴きはじめます。
今朝も、小鳥たちが鳴いていました。

最後に渡辺洋さんの「贈りうた ー 画家のNさんに」という小さな詩をひとつ引用して終わりたいとおもいます。

 

絵を描いていると静かさが
私のなかに浮かんでくる
何かが沈黙するのではなく
生まれてくる静かさが
私のなかにはりつめて
私を絵のなかに誘い込もうとする
描きおわりたくない
色と線のなかに溶け込んでしまいたい
気がつくと私は絵を通り抜けて
生まれた家の前に立っていた

 

 

 

※詩は全て渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月30日初版発行)から引用させていただきました。

 

 

 

夢は第2の人生である 第6回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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私は女性の勝気な部下のパワハラにあってろくろく自分が出せず、仕事が出来ないでいたのだが、幸い彼女が別のセクションの課長に抜擢されたのでようやく安堵することが出来たのだった。6/1

肝心の商品はろくろく写っておらず、しかもぐちゃぐちゃに汚れていたので大枚ウン百万円を投入した龍宝部長は怒り狂って「こんなタイアップ広告に金なんか払わない。電通に行って取り戻して来い」と叫んだ。

大和市のファミリーナ宮下に行って息子の入所準備をしている私。しかしテレビのケーブルをつなごうとしても駄目だし、ベッドを動かそうとしても駄目だ。ということはいまここに居る私は実体のない幽霊のような私ということだ。

昔の女が出てきて昔のように付き合おうとするのだが、昔と同じようなところでつっかえてしまい、すらすらと時間が経過してゆかない。「ということは他の女よりも濃密な時間を体験しているわけだから、これは自分にとって大事な意味を持つ女なのだ」と考えてみたのだが、どうも無理があるようだ。

打ち上げられたロケットに白い幅広スカートをつけたマリリン・モンローが乗っかっていて、そのスカートの下からカメラで覗くと、なにやら奇妙な物が写っているようなので、スタッフ一同が眼を皿のようにしてアップして覗きこむのだが、やはりよく分からない。6/8

「こんな時間なのに支店に出張しても大丈夫かい。宿泊とか食事の手配は出来ているのかね」と親切に上司が心配してくれるのだが、私はそんな手配はまったくやっていないにもかかわらず、ともかく現地へ行けばなんとかなるだろうと、たかを括っていた。6/10

若手の校正記者が「もし」という見出しをゴシック体でつけた。見出しの下にキャプションも記事もなく、何枚かの写真があるだけなので、「おい、こんな訳の分からん見出しはやめろ」と怒鳴ったが、新米はどうして私に怒られたのか理解できず不服そうだった。

アンカレッジ経由でパリに飛ぶ双発プロペラ機が墜落し、大勢の犠牲者が出たが、その中には当時の音楽や舞踏、スポーツ、芸能、服飾等の関係者が含まれていた。飛行機会社が営む盛大な葬儀の式中で私の眼を釘付けにしたのは、ある長身の黒衣の美女だった。

町内会が主催する後期高齢者対象の葬儀練習会を覗いてみたら、司会者の指示通りに各自が遺影や位牌やお骨を作法通りに並べてお経を唱えたりしていたが、それにも飽きた彼らが、呑めや歌えやのドンチャン騒ぎをしている間に、遺骨がひっくり返ってごちゃ混ぜになってしまった。6/13

トライするチャンスはまだあと一回は残っているというのに、私は妙な自信と余裕からその最後の機会に試技しないで、腕組みをしながら、他の競技者の様子を窺っているのだった。6/14

新宿の文化学園大学の研究室を訪れて、知り合いのK教授と将棋をしていたら、どんどん負け将棋になり、私の王将は、盤を逃れて北へ北へと逃げのび、気が付いたら北極海の氷の上で「詰めろ」をかけられていたのだった。

NYのJC社の担当者(彼女は東伏見の下宿のオバさんそっくりの容貌をしていた)が、製品カタログの説明をえんえんと繰り返す。私は退屈し切って、目の前でケラケラ笑い転げている2人のギャルと早く遊びに行きたいと願っているのだが、彼女の国際電話は一向に終わらない。

ダサイ自社製品をキシン・シノヤマは文句もいわずにビシバシ撮って、スタイリストは「それなりに見られるような写真が出来上がったとおっしゃっていましたよ」とケータイで請け合ったが、それでも不安に駆られた私は、シノヤマ・カメラマン事務所兼スタジオがある六本木に向かった。6/17

私は日本人で初めてのジバンシーのデザイナーになった。そこで早速開口一番「今シーズンは色は変えるが、基本的なスタイルは変えないでいこう」と主張したのだが、スタッフたち全員がブーと叫ぶのだった。

井上君も大道君もなぜか尻ごみして居なくなったために、独り残された私が、ラジオのDJ役を務めることになってしまった。しかし実際問題としてはどうしたらよいのだろう。私は途方に暮れていつまでもマイクロフォンの前に立っていた。6/19

おんぼろの我が家をゴミ収集に出そうとしているのだが、なかなかうまくいかない。家全体に荒縄をかけ、そいつをごろんごろん引っ張りながら、いつものゴミ置き場までどうやって移動させればいいんだろうと、私はいたく悩んでいた。6/20

いよいよ開戦まであと4日に迫ったので、私は「それまでに家族と一緒に食事をする」、「東京を散歩する」、「遺書を書く」、「妻と心ゆくまで語り明かす」、という4つをやっておこうと思い、すぐに東京行きの電車に乗った。いわばこの世の見おさめである。6/21

都心に近づいたが、灯火管制で、ここが新橋なのか銀座なのか良く分からない。ビルの谷間に莫迦田大学のアホ馬鹿学生が河童のように集まって奇声を上げているのを、涼しい顔をした藤原新という役者が、チャリンコに乗って見物していた。6/21

一晩中だだッぴろいスタジオの中で、若い裸の男がくねくねと踊っている。私が眠ってしまうと、男は踊るのをやめるのだが、ふと眼が覚めると、また踊りだす。そんな調子でいつしか夜明けを迎えてしまった。6/22

戦争が近づいてきたので、政府は資源確保のために各家庭の高級貴金属類を徴収している。熱心な協力者には戸主の徴兵を免除するという特典がついているので、1日3回と決められた受付窓口は、担当者の気を引こうと肌も露わな女たちで大混雑していた。6/23

お菓子の店を出さなければならない。売り場の中心はやはり人気実力ナンバーワンのA社にやらせるほかはないが、私はB社を応援したいので、A社のシルバー版を作ることを勧めていたら、C社の可愛らしい女子がさかんに迫って来た。

いつでも抱こうと思えば抱ける状態になって、その小さく白い娘はすべてを私に委ねたようになって身を寄せてくるが、彼女に性欲をまったく感じられない私は、彼女をそんな無視するように冷たくあしらうほかはなかったが、そんな2人の姿を鋭く見ている男の姿があった。6/25

あまり美しくない、というかほとんど醜い顔をした中年の女が、私の寝床に滑りこんできて、私の背中から両手を伸ばして胸や性器をもてあそぶのであるが、私は今膀胱が満杯で、便所に行きたいと思っていたところだし、そもそも彼女と性交をする体力も気力もないので、なんとかこの苦難から逃げようと身をよじった。6/26

徴兵された人間は思いのほか少数で、兵士の大多数は甲種と乙種に別れている戦闘ロボットたちだった。前者はかなり日本語を理解するが後者はほとんど分からないので、私たちは往生した。こんな連中と一緒では戦争なんてできやしない。6/27

私たちが住む田舎町にやってきたプロデューサーが、私たち仲良し4人組のうちの誰かを映画に出してやるという。タクちゃんが選ばれそうだというので、新しいシャツを買い込んだりしたが、結局最終的にはだれも選ばれず、プロデューサーは町を去った。6/29

大津波に追われた私たちが最後に逃げのびたのは富士山の頂上だった。見渡す限り黄濁した海上に激しく雨が降り注ぎ、生き物の姿はなにも見えない。波立つ海水は足元にまでひたひたと押し寄せた。

ふと気がつくと大勢の人間をぎゅうぎゅう詰めに乗せた小さなボートがこちらに近づいてくる。まるでノアの箱舟のようだ。「おおい、2人ならまだ乗れるぞ」と船長が呼びかけたが、私は首を振った。
水も食料もないボートに乗っても助かる見込みはない。6/30

 

 

 

 

安直ピザ屋開業宣言

根石吉久

 

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この間の冬の終わりに、屋根だけあって壁のないごく簡単な物置からいきなりチェーンソーがなくなった。おかしいなと思ったら、薪割り機もなくなっていた。薪はほぼ一冬分作った後だった。
薪割り機はともかく、チェーンソーは夏でも使うかもしれないなと思った。杏の木を切ってくれと人に頼まれたままになっていたし、切ることになっていた桑の木もあった。
この桑の木は、畑の近くにある。人が桑の木の根元に対してえらく力を入れて仕事をしていた。すぐ脇を通って、軽トラを止め、何をしてるのか聞いたら、帯状に樹皮を剥いで木を枯らすのだと言う。固まって生えている五、六本全部やるつもりだという。枯らした木を何かに使う予定があるかと聞いたら、葉が茂って畑に陽が当たらなくなるから枯らすだけだとのこと。
直径で20センチ程度の木だから、チェーンソーで切れば簡単に片がつく。俺が切り倒して片付けましょうかと言うと、やってくれるかと言う。すぐはできないけど、そのうちってことでいいということになった。
枯らして立ったままにしておくつもりだったのは、切り倒したものを見つかると、国土交通省の河川パトロールに怒られるんじゃないかと思ったからだと、近所の畑の人は口を開いた。もし、あんたがみつかった時に、あんたが怒られてくれるかと言うので、いいですよと返事をした。文句を言われるんなら俺が文句を言われるのでいいと請け負った。
しかし、チェーンソーがないんでは仕事ができない。請け負ったのをいつまでもやらないでおくわけにもいかないと思ったので、ネットでゼノアの「こがる」というのを注文した。
チェーンソーは注文して二、三日したら到着したが、ダンボールの箱を開ける気にならず、部屋の隅に置いたままにしておいた。春が終わり夏が終わり、秋まで終わってしまった。いよいよまた薪をいじらなければならない季節になった。
義理の弟から電話があり、二トン車一台分の木があるが要るかと言うので、要る要ると言ったら三十分後にどさどさとダンプカーから家の脇に落としてくれた。全部ケヤキで、こりゃあ大変だと思った。一番太いやつは、直径で一メートル近い。配達に来た宅配便の人がケヤキを見て、百年くらい経っているだろうと言った。
翌日、「こがる」というやつのダンボールを開けて、ガイドバーとチェーンを取り付けてネジを締めた。こんな小さいチェーンソーで、あのケヤキを始末できるのか。
「こがる」というのは、よく果樹農家が使っている。評判はよくて、なかなか具合がいいというのを何度か聞いたことがある。もう歳も歳だし、小型で軽いチェーンソーがいいかと思い、「こがる」を買ってみたのだったが、いきなりもらったものが直径一メートルもあるケヤキだった。
ケヤキは堅い。
力の入れ方がこれまで使ってきたものと違うので、最初はとまどったが、機械に教わりながら慣れていくと、刃が新しいせいもあるだろうが、ざくざくと切れる。なにより具合がいいのは、スイッチの位置だった。握っていたハンドルから手を動かさなくてもスイッチが切れる。
単純なところをよく考えてある。
土や石のある近くまで切って、いったんチェーンソーを止めて、木から抜くのに片手で簡単に持ち上がるのも楽だった。丸太をほぼ切ったところでやめて、裏返して切り離すことは多いから、スイッチの位置がいいだけでどれほど楽になるか。片手で丸太からチェーンを抜けるだけでどれほど楽になるか。チェーンを抜きながら、もう片方の手で丸太を裏返せる。
一番太いケヤキは、周りに他の大物が転がっているので、まだ片づかないが、やれるとメドがついた。一番でかいやつを眺めて、うん、やれると頷いた。

ケヤキを片付けたら、次は請け負ってからやらないで放っておいた桑だ。

「こがる」が急に可愛いと思えた。機械を可愛いと思ったのは初めてだ。なにしろ小さい。全長で30センチくらいの感じがするが、いくらなんでもそんなに小さくはないだろう。しかし、使っているとそんな感じだ。

小型で軽いからといって、危ない機械は危ない機械だ。腕や脚がなくなるだけの大怪我に結びつくことはいくらでもありうる。「こがる」をキガルに扱ってはいけない。しかし、取り回しが楽だと、その分安全度が増す。年寄りにはいい。

チェーンソーのタンクに二度ガソリンを入れて、燃料を使い終わったらその日の作業をやめる程度に使うと、翌日にひどく疲れが残るということもない。気をつけて使えば、体力がなくても十分に使える。
薪屋をやって、よそ様の家の分まで薪を作るとかいうことになれば別だが、自分の家の一台の薪ストーブで焚く分の薪、つまり自家用の薪を作るには、こいつが一番いいんじゃないか。
私のところには薪ストーブが二台あり、塾がある日は二台焚くが、このチェーンソー一台でストーブ二台分の薪を用意することはできる。使い始めてまだ二日だが、勘で、できるな、と思っている。林業で使い連続的に大木を切り倒すようなことをするのでなければ、こいつで十分だ。
石釜用の薪だって、これ一台あれば運搬が楽だ。石釜を熱くするために最初にセガを焚く予定だが、材木屋に持参して、材木屋の敷地内で軽トラに積むのに具合のいい長さにセガを切るのにもいい。

「こがる」の出来の良さに励まされたということだろうが、ようやく薪割り機を買う気になってきた。
両方とも盗まれて、俺はそうとうフテクサレていたんだなと思った。

石釜で焼き芋を焼いて、焼き芋屋になろうと思っていた。

数年前の脳梗塞の続編なのかどうか、夏に脳虚血発作というのをやり、また入院した。その前に、ぎっくり腰で動けなくなった。チェーンソーや薪割り機を盗まれたあたりから、踏んだり蹴ったりが続いた。

焼き芋にする芋もろくに穫れなかった。

石釜でピザを何回か焼いてみた。スーパーに売っている二百円台のやつを買ってきて焼いてみたら意外にうまい。脳梗塞をやっているので、やたらにピザなんか食ってはいけないので、焼いてみるたびに少しだけ食ったのだが、これ、いけるんじゃねえかと言うと、女房が食べながら上等上等と言う。
焼き芋屋をやる前にピザを焼いて売るか。ピザ屋といえば、自分のところで生地を捏ねたり、イースト菌にこだわって生地を膨らませたりするものだと思っていたが、日本水産のマルガリータでいいじゃないか。安直ピザだ。
捏ねるところからやって、いいバランスをつかまえるまで本格的にやる気がないのは、私にも女房にも娘にも孫にも、揃いも揃って、あるだけの人数全部が、あんまり料理のセンスはないからだ。遊びで自家用に作るのなら、そのうちにやってみてもいいが、スーパーで買ってきた日本水産のマルガリータのバランス以上のものが、そんなに簡単に作れるとは思っていない。
石釜で焼いたピザがうまいのは、石釜と薪のせいだ。そこそこであるはずの日本水産マルガリータでも、食べた人が「うまい!」と声を出すのは、日本水産の手柄もあるだろう。しかし、石釜と薪の手柄が大きいと我田引水したいところだ。遠赤外線がどうのこうのと理屈を言えば言えるが、電気やガスのオーブンで焼いたものとの一番の違いは、木が燃えて煙が流れ、煙がつけてくれる味だと思う。軽いスモーク味がチーズや肉などといいバランスを作るのだろうと思う。
焼き芋屋だと冬の間だけの商売だしな、とも思った。焼き芋は焼けるまでに四十分から一時間くらいかかるしな、とも思った。焼き芋はお客さんが来る時には焼けていなければ駄目だが、ピザだとうまくやれば十分から十五分くらいで焼ける。そのくらいならなんとかお客さんは待ってくれるのではないか。それは、お客さんから注文をもらってから焼き始めることができるということだ。ということは、売れ残りが出ないということだ。ピザからやるのがいいんじゃないか。

焼き芋屋をやるのは、売れ残りを食べさせる鶏を飼い始めてからだ。ちゃんと畑で芋が穫れるようになってからでいい。放射能検査を芋一つずつに施してない千葉・茨城の芋を焼く気にはなれない。

ネットで冷凍ピザというのを調べた。賞味期限は一年だとあった。
スーパーで売っているものは、冷凍ピザではなく冷温ピザが多い。簡単に言えば、冷凍庫に保存するものか、冷蔵庫に保存するものかの違いである。
スーパーではよくピザを安売りしている。賞味期限が近づくと安売りするのだ。これを買ってきて、すぐ冷凍してみた。冷温ピザを勝手に冷凍してみた。これで実質的な賞味期限はぐんと延びる。
冷温ピザを冷凍したら食ってまずいのかどうか。二週間くらい冷凍庫の中に放っておいてから石釜で焼いてみた。
いけるじゃないか。食えるよ。食えるよっていうか、普通に冷温ピザを焼いたようになるよ。っていうか、うまいよ。
コツは、冷凍したピザを焼く前に、こちんこちんになったピザを裏返して、生地の裏を水で濡らすだけのことだ。後は凍ったままのピザをちんちんに熱くした石釜にそのまま入れて焼いてしまう。味が悪くなることはない。まあ、私の味覚のセンスはどうってことはないレベルだが、どうってことはないレベルにおいて、あくまでも私はとってもおいしいと思う。

果たして、通用するかどうか。

というのは、六百円の値段をつけるつもりなのだ。スーパーの安売りはねらわず、なるべく新しいものを買ってきて冷凍するとして、ピザの定価と冷凍の電気代と車のガソリン代で三百円くらいになるとおおざっぱに見積もる。その倍額の六百円の根拠は、石釜で薪を焚いた分の労賃なのだ。薪を焚く労賃と薪を作っておく労賃なのだ。

セガを材木屋から運んでくる時はチェーンソーを使うが、チェーンソーで切ったところに隣接して10センチくらいは微量だが機械油が付着する。だから、ストーブ用の薪の長さ分五十センチは切り離して薪ストーブ用の薪にする。石釜に使うものは、すべて丸鋸の刃を上向きに取り付けた台で切る。これだと機械油が木に付着することはない。
つまりは、チェーンソーで切った薪と、丸鋸の刃で切った薪を別に積むということになる。そういう手間まで含めて、スーパーで買ってくる安直ピザ一枚で三百円いただこうという魂胆なのである。

石釜で薪を焚き、高いピザ(千円以上もする)を食わせるピザ屋はあるが、チェーンソーの機械油が薪に付着することまで考えているところはない。今の時代に普通に作った薪で焼いたピザだと、ごく微量ではあるものの、客は機械油を食うことになる。
自家用に屋根に載せた太陽光パネルで丸鋸の刃はいくらでも回る。薪割り機も動く。中部電力に売る電気が減るだけだ。中部電力とはなるべく金のつき合いをしたくない。まだ原発を動かそうとしている会社だ。今のところ、夜に使う電気のバッテリー代わりに使うだけの会社だ。糞食らえ、東京電力、九州電力、それと、中部電力。

自宅で作った電気で、機械油の付いていない薪はいくらでも作れる。

安直ピザ、果たして、通用するかどうか。

うまくいけば焼き芋屋になれる。

どうぞ、世間の優しい皆様、私を焼き芋屋にして下さい。

 

 

 

夢は第2の人生である 第5回

佐々木 眞

 

西暦2013年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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破壊され尽くしたビルの中にはさまざまな機械部品のジャンクがいたるところに転がっていたので、私はそれらをひとつずつ廃墟の中から拾いあげ、時間をかけて超精巧な最新型の機械式時計に再生していると、真っ赤な夕焼けの空で烏がカアカアと鳴いた。

会社の社員旅行でほとんどの連中が昨日から出払っていたが、私はA子と一緒に朝から2人切りでやり残した仕事を片付けていると、夕方になってフジテレビのB子がやって来て私たちを意味ありげに見るので、「俺たちはそういう関係ではないよ」と力説しているところへ社員たちが帰って来た。

居間のテレビを見ていたら、突然市川中車がやってきて「おお、おおお」とみずからの演技に酔いしれている。うるさくてかなわないのでいい加減にしてくれと注意しようとしたら、横合いから耕君がガツンと一発お見舞いしたので、中車はのびてしまった。13/5/4

小川町で都電を降りて坂道を登り、スタインウエイのショールームの前までやってくると、もう息が切れた。見るとアポロンだか、ダビデだかの像を真似た素っ裸の男が、そこいらの会社の人間広告塔になって突っ立っている。13/5/5

人体が全体として突っ立っているだけではなくて男性の性器もひどく突っ立っているので、「君きみ、そんなものを公衆の面前で見せものにすると、猥褻物陳列罪でおまわりに捕まってしまうぞ、早く仕舞っておけ」と注意した。

すると、アポロン男はなぜかおねえ言葉になって、「いえねえあなた、あたしだってこんな恥ずかしいこたあやりたかあないんですよ。だけど社長から、こんな恰好で朝から晩までずっと立ってろと命令されたものだから、仕方なくここに棒立ちになってるんですよ」と泣き言をいう。

「それにね、いちばん重いのがこの体の真ん中のやつ。こいつが勝手に立ち上がるもんだから、重くって重くって仕方がないの。ねえ、お客さん、あたしはこんなもんもう要らないから、あなた持ってってくださらない。まだまだお役に立ちますよ」

そう言いながらアポロン男は「あそこ」を根元からポッキリともぎとって、いきなり私のカバンの中に放り込んだので、父の遺品のカバンはずっしりと重くなった。

それから私は大きなビルが立ち並ぶ学生街の中を歩いて行くと、見覚えのある大学の講堂でコンサートをやっていたが、バンドが演奏している音楽が詰まらなかったので、私はすぐに会場のホールを出た。

ふと右手を見ると、東京駅にあるような煉瓦でできた巨大な水の無い100mプールがあったが、もうずいぶん長く使われた形跡はなかった。
左手にはやはり重厚な煉瓦で組まれた便所があったので、それを使おうとしたが高さ1mくらいの煉瓦の上に乗らないと用を足せないので、諦めて外に出た。

すでにとっぷりと暮れた黄昏の街を歩きだすと、狭い通路の左側のはるか谷底のような位置に大学の広い体育館があり、それに続いてぼんやりとしたあかりで照らしだされた教室があり、白髪の老教授の講義を聴いている数名の学生の姿があった。

さらに進んで行くとまた大きなホールがあり、そこでは韓国か北朝鮮かは分からないが朝鮮の人たちがなにかの記念式典を開催しているようだった。
いつのまにやら会場に引っ張り込まれた私が演壇に目をやると、司会者の男性が朝鮮語、日本語、英語の順でなに説明していたが、なんのことやらさっぱり分からない。

しばらくしてから席を立って帰ろうとすると、出口にいたおばさんが、「はいお土産。お米2つと大根2本」と言いながら大きな荷物を私に押しつけたので、一生懸命に断ったのだが、でっぷりと肥ったその女性はどうしても許してくれない。

仕方なく私は5キロの米袋2つとぶっとい練馬大根2本を左右にぶらさげて駅まで歩き始めたのだが、予期せぬ荷物は歩くほどにだんだん身に重くなっていった。

私はニコンのカメラを首からぶら下げていたが、季節はちょうど冬のはじめだったので、ウールの重いコートを一着に及んでいた。歩くうちに二組の米と大根セットはどんどん重みを増し、私のか弱い心臓は早鐘のように動悸を打った。

そのとき私は、隣家の堤さんから頼まれた重い荷物をかかえながら駅まで急行した父が、心筋梗塞に襲われ担ぎ込まれた病院で七〇歳で身罷ったことをはしなくも思い出し、「土産より命が大事」ということにようやく気付いた。

まずは荷物の半分を路上に残し、私は帰路を急いだが、面妖なことに歩けども歩けどもめざす駅に着かない。今にも倒れるのではないかと我が身を案じつつ、全身汗まみれで私はようやく駅前に辿りついた。

そのとき私は、自分が、米も、大根も、カメラも、父の遺品のカバンさえどこかへ投げ捨て、ただ一本の長い棒だけをしっかりと握りしめていることに、はじめて気付いた。
良く見るとそれは「八重の桜」で黒木メイサが振りまわしていた長刀だった。13/5/5

ある日のこと、大工事が行われて奥深い地下になってしまったお茶の水駅の近くで昼飯を食おうとレストランを探した。
丸顔のイタリア人シェフが「ステーキランチは8500円」というので、他を探したがもうどこも営業をやっていない。

仕方がないので電車に乗ろうとしたが、ポケットの中には初乗り130円のチケットと50円玉しかない。しかもそのチケットはだいぶ以前のものなので、いま使えるものだか分からないし、50円ではどこにも行けないので私は途方に暮れた。

ライターの女性と私は、京都のあるお寺へ向かった。取材は彼女にまかせて内部をぶらぶら歩いていると、広く薄暗く猛烈に暑い部屋のあちこちで男女が立ったまま抱擁して呆然としている。私は一瞬歓喜仏ではないかと疑ったが、まぎれもなく生きた男と女のからみあいなのだ。

しかしよく見ると、男あるいは女が一人で棒立ちになってその姿かたちが熱で溶解している姿もあった。いったいここはどういう部屋なのか。もしかすると彼らは即神仏の途上にあるのかもしれない。

おそるおそる広間から後退した私は、ライターと合流して寺男の案内で別の小さな寺院に向かった。ここは門が高いのでよじ登って入るしかない。寺には中年の艶めかしい女性とその娘がしゃがんで遊んでいる。

尿意に駆られたライターが慌てて便所を探したが、間に合わなかったとみえて少し離れたところでしゃがんで用を足すと、それが近くを流れている小川の流れに乗ってここまで流れてきた。

街が一斉に茶色になりキナ臭くなり、いよいよ蜂起の時がやって来たかに見受けられたが、わが統領は出口なおを気どってか、屑拾いに身をやつし、みすぼらしい小屋に吊るしたハンモックに身を横たえながら、「まだだ、まだだ」と待機の姿勢を崩そうとはしなかった。

いよいよ戦争が始まるというのでパリから帰国した橋本画伯を尋ねようと、私は小田急の新宿駅に向かったのだが、改札口に至る階段は国防軍の武器、弾薬、軍事物資の一時的な物置場と化しており、乗客たちはそれらの上を必死でよじ登りながら行き来しているのだった。

空襲警報が鳴りB29の大編隊が押し寄せてきた。
ゼロ戦に乗った海軍上等兵の私は、霞ヶ浦霞から飛び立ったが、エンジントラブルで離脱した。が、友軍機は体当たりを敢行し、敵2機を道ずれに自爆して海上に散華した。

私は彼女の夢を記したレポートを読みながら、どこが私の夢で、どこからが彼女の夢なのかをお互いに論じあっていたのだが、だんだん訳が分からなくなって、私はまた夢の世界へと戻っていったのだった。

その方形の躯体の内部では、黒いマレー人の男性と白い中国人の女性の数多くの顔が光り輝きながらゆっくりと移動していて、その顔の中の眼が時折私をチラチラと見るのであった。

久しぶりに白水社のフランス語教科書を開いてみると、最初の頁にはダで終わる単語がたくさん並んでいたので、私は少しく奇異に感じたが、ナンダ、オランダ、ミランダなどとおずおず発音していった。

課の全員が、部屋のあちらこちらにある封筒に貼られた未使用の切手を探して回ったが、なかなか見つからない。この切手がないと故障した課のパソコンを修理に出すことができないので、私たちは朝から晩まで夢中になって探し回った。

私が作った講義テキストを見ながら2人の学生が、「こんな内容なら簡単に単位が取れちゃうわね」とほざいていたので、私が「いやいや君たちが思っているほど甘くはないよ、チチチ」と呟いたら、彼らは怪訝そうに私を見た。

私はヤナイ氏というライターのいる小さな雑誌社にあこがれていたのだが、なんとか見習いとしてそこに潜り込むことができた。
その夜はチャーリー・パーカーの公演があり、舞台に向かって左側の座席は満員だったが、右側はかなりの空席があった。ヤナイ氏が右に移動してもいいぞというので私たちはそうした。

開演の時間が迫ってくると、私たちのすぐ傍をチャーリー・パーカーとその仲間たちがぞろぞろと通り過ぎ、そのまま舞台に登って演奏が始まった。

「そうですか。ここは私に任せてください」、というと、イチロー選手は見えない標的に狙い定め、鋭いスイングでバットを一撃すると、爆弾の入った大きなボールは見事敵陣のど真ん中に命中したのだった。13/5/20

私の家は水屋で、お向かいの店も同業だったが、私の家と違って向かいの店主は店員たちに絶対に水を飲ませない。「これは大事な商品やさかい、おまえたちにガブガブ呑まれたらわやや」とか言って夏の盛りにも呑ませないので、大勢の店員がどんどん倒れていた。5/22

いよいよ4人乗りのF1レースが始まった。私の車には水屋の娘をはじめシビル・シェパードなど細身の美女たちが乗ったが、ライヴァルの車には石ちゃんやデブで醜い伊集院なんとかたちがどかどか乗り組んでいたので、レースは私たちの圧勝だった。

海を渡ってライヴァル会社との交渉に臨もうとした私たちは、その夜ライヴァル社が枕元に送り込んで来た2人の特別慰安婦の魅力に負けてしまったために、翌朝から始まった熾烈な遣り取りに太刀打ちできず一敗地に塗れてしまった。5/23

上司のところに派遣されたのは正真正銘の女性だったそうだが、私の部屋に忍んできたのは女を装った美貌の男性だった。けれどもそいつが男であることは私にはなかなか分からず、「あっ、こいつは男じゃない女だ」と思ったときには、もうなにもかもが遅すぎたのだった。

水野社長がなぜか裸踊りをはじめると、部下たちは最初はあっけにとられて呆然と見詰めていたが、やがて自分たちもワイシャツを脱ぎ、ネクタイを取り去ってやけくそのようにラアラア歌いながら「えんやとっと踊り」をはじめた。5/24

ヨーロッパの田舎町で、齢老いたピアニストが亡くなった。
彼は世界中に名が売れた実力のある演奏家であったが、自分の生家で死を迎えようと戻った翌日に、ベートーヴェンの協奏曲第4番の出だしを弾きながら静かに息絶えた。5/25

ロンドンのトラファルガー広場のような広場で、親子が見せものを見物しているが、実際は彼ら自身が見せものになっていて、そこではシャツ1枚で冬の極寒にどこまで耐えられるかの実験が行われているのだった。5/26

夢の中で夢の記憶装置箱が2個転がっていたので、再生してみると、だいたいは私の記憶通りなのだが、ところどころ食い違っていたり抜け落ちていたりしているので、夢の記憶そのものと2つの記憶箱の内容のどれが正しいのか、夢の中で私は迷っているのだった。5/27

私は宝くじの1等賞を引き当てたらしい。金額は正章が1億円で副賞の2500万円がおまけにつくのだという。しかし宝くじなんか最近は買ったこともなかったのに、いったいどうして当選したのだろうと私は怪しんだ。13/5/29

最近どうも人気がいまいちだということで、東洋人の私がなぜだかジバンシーのクリエイティブ・ディレクターに選ばれてしまった。
自分ながらに考えて昨シーズンとは色柄デザインを変えつつブランド独自のテーストはいじらなかったのだが、スタッフはどうも不満のようだ。5/30

 

 

 

おおじしぎ

 

木村和史

 
 

9月4日 004

 

雪どけのころに北海道に渡り、初雪が降るころまで温泉分譲地の一画でひとりで家をつくるという生活を開始してまもなく、周辺に動物たちが多いことに気づいた。
分譲地にはすでに20数軒の家が建っていて、定住している人は半分くらい。あとは本州から避暑などでやって来る人や、別荘として利用している近隣の町の人たちで、しかもほとんどの敷地が数百坪前後の広さがあるので、もともとが北海道生まれとはいえ東京生活の方がずっと長いわたしの目に、人が少なくて緑と動物が多いと映るのは当然かも知れない。

まだ売れていない区画もたくさんあって、分譲会社が草刈りに入ったあと以外は雑草が伸び放題になっているし、わたしの敷地の目の前には小さな林もある。大型の動物は無理かも知れないが、小型の動物たちが居住する空間はいっぱいありそうだ。
一年目はテントで寝泊まりしていたので、とくに外の気配に敏感だった。リタイアした人たちが多いせいか、近隣の人びとの夜は早い。家の灯りが小さくしぼんでしまったあと、暗闇のどこかからなにか分からない物音がときどき聞こえてくる。一瞬緊張はするものの、どこかになにかがいるような気配の正体をつきとめるのは難しい。闇とはそういうものだとすぐに諦めて、東京生活のときよりずっと早い眠りにわたしも落ちていく。

朝3時を過ぎると、前の林で小鳥たちがにぎやかにさえずり始める。何種類もの鳴き声が重なっているので、聴くというより浴びる感じだ。後を追うように太陽が昇ってテントが炙られると、わたしもゆっくり眠ってなどいられない。夜更かしをすることもないので早起きは苦にならないが、それにしても追い立てられるようにテントを這い出すことになる。

小鳥たちに負けず、夜が早い近隣の人たちの朝も早い。まだ暗いうちからヘッドランプをつけて犬を散歩させている女性がいるし、夏には、6時半頃になるともう草刈り機の音が聞こえてくる。ほぼ半年間雪に閉ざされ、地面も凍っていて、外の仕事がほとんどできないのだから、残りの半年と貴重な昼の時間を目一杯活用しようという気持はよくわかる。というより、ここではそれが自然で、理にかなった日常なのだろう。

ここら辺で大型の動物を見かけることは滅多にないが、立派な角を持った大きな鹿が、近所の庭に彫像のように立っていてびっくりさせられたことがある。町道の反対側の、池のある雑木林のあたりにはタンチョウ鶴の夫婦が棲んでいて、時期になると子供を連れて歩いている。山の麓の友人のところでは、庭の切り株に新しい熊の爪痕があるのを発見して以来、夜になって庭に出るのは慎重になったそうだが、さいわいなことに、この近くに出没したという話はまだ聞かない。

目につくのはやはり、小鳥たちが圧倒的に多い。二年目の夏には、セキレイが材木の山の隙間に巣をつくって五羽の雛を孵したし、四年目あたりから物置小屋の軒先で、雀が年中子育てをするようになった。寒い季節になると、餌箱にゴジュウカラやコガラなどが、次から次へとやってくる。一人暮らしをしている隣りのおじさんのログの壁にキツツキが止まって、コンコン突ついていることもある。

いつの夏だったか、この世のものとも思われない、か細くて美しい鳴き声がどこからか聴こえてきたことがあった。賑やか過ぎるほどの、いつもの小鳥たちの鳴き声とは全然違う。仕事の手をとめて耳を澄まし、声のする方にそっと歩いて行くと鳴き声は止んでしまい、植木の根元を歩いている一羽の小鳥と一瞬目を合わせたけれども、その鳥が声の主だったのかどうか、結局分からずじまいだった。いつかまたあの美しい声を聴いてみたいと思っているのだが、その後一度も巡り会えていない。

夏の夜になると、前の林で一羽の鳥がひと晩中、よく通る声で、光をまき散らすように鳴き続ける。その鳥が一羽で舞台に立って、夏の夜を演出しているようなものだ。遠くから、それにこたえてもうひとつの鳴き声が聞こえてくるときもある。何年も経ってふと気がついたのだが、その鳥には縄張りがあって、その一画にはおそらく牡の、その鳥が一羽しかいないということなのだろう。

小型の動物では、エゾリスがたまに姿を見せる。来るときは毎日ほぼ同じ時間に、敷地の隅の植木に吊してある小鳥用の餌箱に押し入って、ひまわりの種を食べ散らかして去って行く。それがどうしてか、ぱたっと来なくなることがある。近所の人も同じようなことを言っていたから、あちこち順番に巡り歩いているのかも知れない。隣のおじさんが露天風呂に浸かっていたら、突然、子リスが6匹、頭の回りを駆け回ってびっくりさせられたことがあったという。そんなところでも巣作りをしているようだ。

テント生活に入って間もないころ、林の暗闇の向こうから、もの悲しい笛のような鳴き声が、遠くなったり近くなったりしながら、あっちからもこっちからも聞こえきたことがあった。テント生活は、得体のしれない物音にいつも包まれているようなものだが、さすがに大がかりな得体の知れなさだったので、翌日、隣のおじさんに訊いてみると、群れを離れた若い牡の鹿たちだという。もの悲しいどころではなく、威勢良くどこかへ繰り出す途中だったのかも知れない。二十歳過ぎまで北海道にいたのだから、鹿の鳴き声など、どこかで聴いていて不思議じゃないと思うのだが、記憶に残っていない。車であちこち走り回るような時代じゃなかったせいもあるだろう。晩年のこれから、あらためて故郷の北海道を学ぶことになりそうだ。

わたしはまだ目撃したことがないが、小さな犬を連れて一日に何回も散歩している女性が、三本足の大きな狐がここら辺を縄張りにしていると教えてくれた。朝早い時間に遭遇することがあるという。

10月下旬に本格的な霜が降りて、6畳の寝泊まり小屋がようやくできあがり、テントの寝床を移動して、屋根の下で布団にくるまれる喜びをかみしめていたとき、朝起きると外に脱いでおいたサンダルが見あたらない。あたりを探してみると、霜で真っ白に濡れた隣地の草むらに、ずたずたに食いちぎられているのが見つかった。そのとき、三本足の狐のことを真っ先に思い浮かべた。わたしがこの地に住みつこうとしていることに苛立ったか、わたしを脅して立ち退かそうとしたか、とにかく何かのメッセージのように思えた。サンダルと戯れただけではなさそうな気がする。野生のミンクが鶏を襲ったりもしているようなので、三本足の狐のせいにするのはまったくの濡れ衣かも知れない。しかし犯人が誰であれ、メッセージはわたしの心に残った。以前は一面にリンドウの花が咲いていたという緑豊かな草地を、盛り土で覆ってしまったのだから、侵入者としてのわたしの方がむしろ罪が重い。次から次へとトラックがやってきて、草地が土の山で埋められていくのを眺めながら、たしかに躊躇いを感じないではなかった。本格的な霜の季節の寒さと、寝泊まり小屋をなんとか形にした喜びで、狐に対するわたしの罪悪感はすぐに打ち消されてしまったけれども。

近所の家々を眺めていると、あそこには日常があって、わたしのところには日常がないと感じることがある。必要に迫られた幾つかのことを追いかけているうちにその日が終わり、変わりやすい天気や、朝晩の気温の変化などと向き合う日々を重ねているうちに、いつのまにか季節が移っていく。家の形というのは、日常生活がそこにある証明みたいなものかも知れない。テントの薄い生地一枚だと日常生活を囲いきれず、漏れてしまうのだろうか。わたしのテント暮らしはどちらかというと、分譲地の住人たちの家よりも、木の上の小鳥のねぐらや、枯れ草の中のネズミの寝床により近かったような気がする。雨になりそうな気配を感じると、大慌てで道具を片付けシートの覆いをかける。片付け終わったとたんに雨が降り出すという芸当もできるようになり、誰かに向かって自慢したくなるような、つまらない満足感を味わうこともあった。

テント暮らしは一年で卒業したものの、7年目になる現在も諸般の事情により、まだ母屋の建たない不便な小屋暮らしを続けている。そのあいだに最初の意気込みが徐々に変化して、分譲地の中の家々に伍するような、そこそこまっとうな家を一目散に目指しているとはいえない感じになっている。家づくりが遅々として進まないあいだに、暮らしの方が先に育ってしまったようなのだ。

それにしても、家づくりを開始した一年目は特別に風が強かった。わたしのところは風の通り道になっているらしく、常設した大型のテントがばたばたと煽られて、いまにも飛ばされそうになる。しかも、強風の日が何日も続く。張り綱が切れるか、支柱が折れるか、テントごと飛ばされるか不安で仕方がない。

それで急遽、風よけのための囲いをつくることにした。もったいないと思ったが、寝泊まり小屋のために仕入れた貴重な角材を掘っ立て柱に流用して、そこに野地板を胸の高さほどに打ち付ける。テントのペグの位置に合わせて柱を立てたので、囲いの形はいびつだし、野地板もあとで剥がして使えるように、端を切りそろえないでなるべく長いまま使った。突きつけに張った板は乾くと隙間だらけになるけれども、風が弱まってくれればそれでよかった。秋に寝泊まり小屋ができあがったら、どうせ撤去される運命なのだから。

ところが、この囲いがまるで役に立たない。相変わらずテントは煽られ、ぎしぎしと支柱がきしむ。なんとかしたいが、ちゃんとしたものに作り直すほどの建造物ではないし、かといって壊してしまうのもなんだかもったいない。

結局、テントを撤去して、かわりに自動カンナ盤を囲いの中に持ち込み、作業空間として利用することにした。風の強い日に盛り土の上で自動カンナ盤を使うと、鉋屑が隣地まで飛ばされていって、掃除をするのが大変だった。雑草だらけの空き地とはいえ、知らんぷりをするわけにもいかない。カンナ屑が囲いの中で止まってくれると、片付けるのが楽になる。そんなわけで寝泊まりは、囲いの外に張り直した、風に強い小さなテントの中ですることになった。

このときにいったん机に戻って、年間計画をじっくり練り直すべきだったかも知れない。新しく何かを作ることと、作ったものを壊して無にすることは、まったく性質の違う作業になる。精神の健康のためには、どうせ壊すのだから、などと考えてはいけなかったようだ。前だけを向いて、前にだけ進む。

立ち止まって想を練るのは、じつは、頭の調子がよくないわたしにはどうも苦手だ。40歳のときにトラックに撥ねられて以来、不自由になっている心身の問題が幾つかある。不完全な想のまま体を動かして形をつくり、その形を眺めて次の不十分な想を描き、また体を動かすというのが、いつのまにかわたしの方法になっていた。できないことはできない。できない人にはできない。わたしの中でこのことはずっと葛藤であり続けているのだけれども、同時に、徒に悲観する必要のない、むしろそちらの方向に前向きになっていい可能性にも見えているようだ。

珍しく風のない、穏やかに晴れた日だった。囲いの中でコンビニの弁当を食べていると、カラスが飛んできて、掘っ立て柱の上に止まった。すぐ目と鼻の先だ。何メートルもない。当然、弁当が狙いだろうと思って、唐揚げをひとつ箸でつまんで地面に投げてあげた。カラスに意地悪すると仕返しされるという話が頭をよぎった。追い払うのがちょっと怖かったのかも知れない。まぢかで見ると、黒光りした羽根と、太くてがっしりした嘴がなかなかの迫力だ。

すぐにでも唐揚げを咥えて、飛んで行ってしまうだろうと思ったのだが、カラスは動かない。悠然としていて、うっすら笑みを浮かべているようにさえ見える。おそらく、鋭い眼光くらいは走らせただろう。でも、唐揚げに気持を動かされた気配は、わたしには少しも見てとれなかった。

カラスと根気よく気持のやりとりをする余裕が、このときのわたしにはなかったようだ。朝早くから暗くなるまでの力仕事に体がまだ慣れていなかったし、朝晩の寒さともいちいち対峙する感じだ。近所の人が半袖姿でふらっとやってきても、わたしはジャンパーを着込んでいる。東京で痛めた手指の関節がしくしくするので、バケツに温泉のお湯をためてときどき手を温める。手術した膝に、脚立の上り下りがこたえる。意気込みで紛れているとはいえ、この先のことも不安がないとはいえない。変な話かも知れないが、これから建てようとしている家が徐々に形になって通りすがりの人たちの目に触れることを想像すると、なんだか気持が臆してしまう。舞台の上で家を建てているような恥ずかしさを感じるのだった。

カラスを無視して黙々と弁当を食べ続けていると、羽根を打つ音がして、見ると、カラスが飛び立とうとしている。来たときと同じように突然、どこかへ飛んで行ってしまった。唐揚げに興味がなかったはずはない。わたしの目の前では手を出しづらかったのだろう。おそらく、あとでこっそり戻って食べるつもりに違いない。そう思ったけれども、仕事の邪魔になるので、弁当の容器と一緒に唐揚げも捨ててしまった。戻ってきたときにカラスはきっとわたしに騙されたと思うだろうな、気が変わりやすい奴だと思うだろうな、などと考えながら。

カラスと至近距離で向き合ったのは、それが最初で最後だった。もしかしたら、カラスの真の狙いは弁当ではなくて、わたしという新参者を観察することにあったのかも知れない。餌が目当てなら、離れた場所から様子を窺って、わたしが現場を離れた隙にかすめて行くとか、もっと巧妙に立ち回る方法があったような気がする。わたしが危険な存在か、害の無い存在か、仲間たちを代表して下調べに来たということも考えられる。隣りのおじさんの話では、近所のカラスは4羽で、みな兄弟なのだそうだ。

しかしここ来てまず真っ先に目に入ったのは、空をばりばりと雷のような音をたてて落下してくる鳥だった。子供のころ、故郷の空で同じ鳥を見たことがあった。50年も経って、あの鳥にまた巡り会えるなんて思ってもみなかった。家の裏の広大なキャベツ畑に、モンシロチョウの群れが舞い、雲雀が畑と青空のあいだを昇ったり降りたりしている時代だった。夕焼け空をカラスの大群が裏山に帰って行き、軒先のあちこちにオニグモの大きな巣がかかっていた。あらゆる光景が、少年のわたしの目に新鮮に映っていた。なかでもその鳥は、生まれて10年足らずの少年のわたしを特別に驚かせるものだった。

どこか知らない遠くからやってきて、短い夏のあいだ、けたたましい羽音をたてて高い空を飛び回り、秋になるといつのまにかどこかへ行ってしまう。わたしの記憶では、その鳥は一羽で、本物の雷のようにばりばりと音をたてて、空を裂くように落下してくるのだった。

ここでは、あの鳥が何羽もいて、昔に比べると小柄になったように見える。空を引き裂く音も昔の印象よりはずっと穏やかだ。でも間違いなくあの鳥だった。ここにまだ、わたしの少年時代が消えずに残っている。懐かしい感じがした。同時に、あらためてわたしの少年時代を失おうとしているような、せつない気持もこみあげた。

故郷の町にいたのは18歳のときまでだが、その鳥の記憶はなぜか少年時代に限られている。環境の変化かなにかで、故郷からその鳥がいなくなったか、高校に進んで内面に沈潜してしまったわたしが、滅多に空を見上げなくなってしまったか、とにかくなんという名前の鳥なのか知ることもないまま、高校を卒業すると同時にわたしは故郷を離れたのだった。

調べてみると、その鳥の名はオオジシギというらしい。通称カミナリシギとあるから間違いないだろう。春に、はるばるオーストラリアから飛んできて、恋人を見つけ、子育てをして、夏が終わるころにまたオーストラリアまで8000キロの旅をして帰っていくという。一日中空を飛び回ることなど、なんでもないのかも知れない。

北海道の夏は、じりじりと炙られるようだ。実際の気温以上に暑く感じるのは、空気がきれいなせいではないかと思う。おそらく紫外線を遮る塵の層が薄いのだろう。太陽に炙られ、カミナリシギのけたたましを羽音を頭から浴びながら、土運びなどの仕事をしていると、暑さが何倍にも感じられる。夜中に空を飛び回るカミナリシギの羽音で目を覚ますこともある。夏のあいだ、一日のうちのどの時間にも、空にカミナリシギがいる。カミナリシギが滞在しているあいだ、その羽音と鳴き声から逃れることは難しい。電信柱に止まってひと休みしているように見えるときも、ずうちくずうちく金属的な鳴き声だけは止むことがない。草むらに降りているのを見かけることがあるのは、図鑑の説明によると、その長い嘴でミミズなどを食べているようだ。
三年目、雨が降り続いて気温の低い夏になった。さすがのカミナリシギも元気がなくて、鳴き声も弱々しく、電柱の上の姿も凍えているようで痛々しく見えた。

その翌年、カミナリシギの姿を近くでほとんど見かけなかった。前の夏の寒さで伴侶を見つけられなかったか、子育てに失敗したか、オーストラリアまで帰れなかったか、とにかくなにか尋常でない事態が生じたのだと思う。

この地では、何年も大丈夫だった木が突然枯れたりすることがよくある。わたしのところでも、ホームセンターで買ったプルーンの木と、隣りのおじさんにもらった銀ドロの木が、植えて数年後に枯れてしまった。飢えた野ねずみに根を囓じられたり、ハスカップやプラムの芽を鹿に食べられて全滅したという話も聞く。植物も動物も、厳しい寒さとぎりぎりのところで戦っている。あんなにタフに見えるカミナリシギも、毎年同じように生きられるわけではないのだろう。

季節の変化とともに目を楽しませてくれるいろいろな動物たちも、のどかで平和な暮らしをしているとは言えないようだ。巣立った5羽の雛たちが、小屋の屋根をぱたぱた走り回って飛ぶ練習をしていたセキレイも、無事に子供を育てられたのはこれまでに二度だけで、あとは、なにものかに巣を壊されたり、親の羽が散らばっていたり、卵だけが巣のなかに残されていたり、順調でないときの方が多い。卵を抱くのに疲れたらしいセキレイが材木の上に出てきて、片方の羽根と片方の脚を交互に伸ばして骨休みをしている姿を目にすると、思わずカラスが近くにいないか見回してしまう。雀の巣も、うっかり安易な場所に作ると、雛が大きくなった頃を狙っているとしか思えないカラスに一斉に襲撃される。

動物たちを眺めながら暮らしていると、一年は長いと感じる。テント生活から始まって小屋生活にまで辿り着いたものの、母屋がなかなか建たない暮らしを続けているあいだに、一年ごと全力で生き抜いている動物たちの姿が少しずつ見えてきた。わたしも、順調な生活にばかり照準を合わせようとしないで、日々変化する自分にもっと注意深く目を向けて生きていく必要があるようだ。

 

 

 

タンコロ、セガ、鶏、芋

 

根石吉久

 

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書きたいものというものがない。
やるべきことはうじゃうじゃある。
今回は、やり残してあること、今後やるべきことを書き並べて、冬越しの準備の準備くらいに役立ててしまうことにする。

どうやら、一年の区切りというのは、私の場合は正月とか春の初めにあるわけではない。木を切り倒すとか、切り倒したものを切ってタンコロにするとか、タンコロを割って薪にする作業が始まると年が改まるのだ。だいたい11月の初めがその時期である。いじる薪は、直近の冬に焚くものではない。一年後の冬に焚く分をいじり始める。

薪割機を盗まれたことがやはり相当のショックだったのだと思う。盗まれてから、薪割は一度もやっていない。
故障したのを直すのに、長野の外れまで二度往復し、ようやく直って自宅に持ち帰ったらすぐに盗まれた。
チェーンソーも一緒に盗まれたので、しばらくぐずぐずしてから、ネットでゼノアの「こがる」というのを買った。こっちは買ったきり、ダンボール箱を開けてない。半年以上、新品のまま放置してある。そろそろ、箱を開けて機械を取り出さなくてはならない。

泥棒よ。おまえさんは知ったこっちゃないだろうが、こっちはほんとにやる気がなくなった。

今年の春、おやじの田の隅を借りて作ったビニールハウスの骨を解体した。やる気がなくても、やらなければならないことはある。そのとき、木の切れ端が出たから、台に丸鋸を逆さに取り付けたもので木を切った。丸鋸をとりつける台は市販のものだが、それを載せる台は木で自作した。自分の体が立った高さで、木を丸鋸の刃にあててジャーンと切れるようにした。丸鋸を固定して、木の方を動かして切るのだ。
作ったのは昔のことだ。昔のことでも、安直で手軽なグッドアイディアは覚えているものだ。もう10年以上使っている。市販の鉄製の台は、30年以上使っている。丸鋸が動かなくなったので、3年ほど前に新調した。
一週間前、この台で長く放置しておいた板状の木を切った。梅雨の雨の中に放置したので、腐りかけた木がかなりある。それでも、割った木ではなく、切った木だけでも11月の寒さくらいならしのげるかもしれない。しかし、これを焚いてしまうと、焼き芋を焼く分はない。

薪も要るが、焼き芋屋の看板を作らなくてはならない。なんだか新しい看板を掲げる元気が出ない。
屋号なし。「焼き芋」という文字だけを掲げることにする。
塾の看板はある。夜に蛍光灯が灯る60センチ四方くらいの中古の看板がもらえたので、それを取り付ける鉄の柱を親類の業者に立ててもらった。夜になると「英語 素読舎」と灯る。その鉄の柱に「焼き芋」と書いた板を取り付けてしまおうと思う。

去年、石釜を作った。この釜でピザを何回か焼いた。ピザと焼き芋の両方を焼けるように設計したつもりだったが、どちらかと言えばピザ用にできてしまった。
ドラムカンを切断して作った焼き芋用の釜もある。これは5年ほど前に作ったものだ。こっちの方が芋を焼くにはいい。これを稼働させることにする。去年作った石釜はセガで熱くしておいて、ドラムカンで焼いた芋を保温するのに使えばいい。先にドラムカンの釜で芋を焼き始めてから、石釜を暖めるための火を焚き始めればいい。

そうなると、セガが大量に要ることになる。松のヤニが燃えた臭いが芋に移らないかと心配したが、ドラムカンの釜は火室で燃えた空気が釜を通らず、そのまま煙突へ行く。熱がドラムカンの尻を焼くだけで、ドラムカンの中を煙が通ることはない。燃料がセガで済むなら、体が楽だ。なあに、セガを切るだけなら量を作れる。

セガはたいがいベイマツだ。ベイマツと呼んでいる松は、アメリカだけでなく、カナダやロシアからも来る。筏状に組んだものを海に浮かべて船で引っ張ってくるらしい。

セガと呼んでいるものは、丸太から柱を切り出したときに出る端材のことである。丸いから丸太だが、そこから四角の柱を切り出すと半月状の端材が出る。
昔は風呂を焚くのに、わずかな金を払って材木屋から買ったものだが、今は産業廃棄物扱いになっている。
「里山資本主義」という本で、セガで発電している材木屋の話を読んだが、小さい材木屋は発電用の設備を持つこともできない。しかし、製材すればセガは出る。だから、軽トラックでもらいに行くと、いくらでももらえる。
焼き芋と取り合わせるべきものはセガだ。

また看板のことがアタマにちらちらする。
屋号なし、「焼き芋」という文字だけの看板にするのはそれでいいが、夜の客のために裸電球をぶらさげようかと思う。どうせ、午前中は店は開かないのだ。夜中に、英語の教材を作らなければならないから、午前中は起きられない。

裸電球は20個くらいぶら下げれば、それだけで目を引く。それとも、一つだけの裸電球の方が寂しくていいか。
今年、屋根に発電パネルを載せたので、裸電球の電気くらいは後から増やすことはできる。

問題は芋だ。
苗を買って畑で作ってみたが、どれほども穫れていない。
ぎっくり腰でひと月以上、脳虚血発作の入院でひと月以上、畑に行かなかった。ぎっくり腰と脳虚血発作の間も、ぼうっとして、我が身が使い物にならず、畑に行かなかった。従って、梅雨の間と夏の間、全然行かなかった。その間に、草が伸びた。
ポリマルチをしたので、サツマイモが完全に草に覆われるというまでにはならなかったが、通路に生えて畝に伸びた草とサツマイモの葉が混在した。陽が十分に当たらなかったせいか、掘っても芋がろくにない。まだ掘りあげず、土の中にある分が多いが、これまで掘りあげた様子からすると期待できない。孫が友達を何回か連れてくれば、みんな食ってしまう程度の量だろう。

芋を買わなければならないのか。それが問題だ。
千葉や茨城の芋は放射能を吸っているかもしれない。国はまともな検査態勢を作らなかったので、野菜類にどれだけの放射能があるかは闇の中だ。誰がどれだけ放射能を体に入れるかはロシアンルーレットだ。山陰方面の芋もスーパーでみかけたが高い。どうすればいいのか。

まだ、鶏を飼ってない。それも問題だ。
売れ残った芋は、鶏の餌にしようと思っていたのだ。

だいぶ酒が入った。
山形の英語の生徒さんから送ってもらった「男山 純米 大吟醸 澄天」。うまい。
飲みながら書けば、文章というものはだらけるだろう。
だらけて問題があるか。
ない。

問題は、鶏を飼ってないことと、芋が穫れないことだ。
だけども、問題は、傘がない、と井上陽水が歌った。傘がないのは、軽トラをコンビニの入口近くに駐めて、店内にすばやく飛び込めばいい。軽トラは傘になる。この傘は電気で走らせたいが、まだ自動車メーカーが、電気で走る軽トラを作っていない。三菱だったか、一社あるだけ。

屋根のパネルで発電した電気を中部電力に渡さず、バッテリーに蓄電したい。自宅で発電する量は、自分で使う量の倍以上あるので、バッテリーに蓄電できれば車を走らせることもできるだろう。電力会社とは縁を切りたい。電力会社は法律に甘やかされて腐っている。

鶏を飼ってないのは、中村登さんが死んじゃったからだ。
ツイッターとフェイスブックをほぼ同時に始めたら、中村さんと連絡が取れ、昔の「季刊パンティ」という雑誌を取ってあるかと聞かれた。あるだけ郵送したら、中村さんの弟さんが飼っている烏骨鶏の卵をいっぱい送ってくれた。
烏骨鶏飼おうかなと中村さんに言ったら、弟さんに卵を孵してくれるように頼んでもらえることになった。雛が孵ったら、雛をもらいに埼玉まで軽トラで行くことになっていた。鶏小屋を作るのが遅れたので、まだ親鶏に卵を抱かせるのは待ってくれと中村さんに伝えてまもなく、中村さんが亡くなったと佐藤さんから電話をもらった。

葬式には行かなかった。その人が死んだと納得できない時、行かなくてもとがめられない葬式には行かない。鶏小屋を作るのも放置した。納得できないので放置したのかどうかも納得できない。鶏小屋なんか作らないぞ。だから鶏がいないぞ。だから、売れ残りの焼き芋を食わせる鶏がいないぞ。中村さんもいないんだな、と、納得しようとしている。まだやってる。

「季刊パンティ」は、奥村さんと中村さんと私とでやっていたのだった。まさかなあ。奥村さんも中村さんも俺より先に死ぬとは。なんとなく人間が脆弱なので、俺が先に死ぬと思っていたのになあ。

「猩々蠅」は、俺改め私が、でしゃばって出版するつもりでいた。
ネット上に書かれたものなので、一年の年末から年始に向かって読むようになってしまっているのを、年始から年末に向かって読むように整序したかった。縦書きで読めるようにもしたかった。やりかけたが、脳梗塞のせいで両方ともできなくなった。なんだか気力がなくて、何もしたくない。他の印刷もしなかったら、印刷機を貸してくれていた事務機屋が「もう貸しておくわけにはいかない」と言いだし、印刷機を持って行ってしまった。

でも、本ができた。
奥さんの節さんの骨折りで、私の望んでいたことがすべて適えられた。縦書きで、年始から年末に向かって読める。
十年以上にもわたって書かれたものなので、分厚い本になった。このところ、この本ばかり読んでいる。ときどき、声をたてて笑う。生きていた奥村さんがいる。奥村さんの声が聞こえるように思うことが何度もある。

節さん、お役に立てず、済みませんでした。奥村さんが死んだことも、本が出て納得しはじめました。

ぐずぐずしている。
本当に焼き芋屋は始まるのだろうか。
セガの確保、ドラムカン釜と石釜の分担のバランス、そっち方面は問題がない。
そうか、いろいろ考えなくてはならないんだな。家の中のストーブと、芋を焼くためのドラムカン釜と、芋保温用の石釜と、3つ焚くのかと今わかった。焼き芋屋をやるんなら、今年の冬は忙しいぞ、と、それが今わかった。

セガの処理は見通しが立つ。セガがあれば大丈夫だ。端材だから、新しい木でもじきに乾く。

そうじゃない、問題は、鶏だ、芋だ。忙しい。
鶏だ芋だと、騒いでいるだけだというのが、もしかしたら問題だ。忙しいと言ったって、騒ぐのに忙しいだけじゃないかという思いが生じると、しゅんとなる。なるほどなあと思う。しゅんとなって、心が落ち着くように原稿を書き始めたわけではないが、なるほどなあと思う。書くということも、ヤクニタツんだなあ、と。

ヤクニタタナイからイインダと思っていたのに。
まあしかし、ひるがえって、要するに、火を焚きたいだけか。

 

 

 

夢は第2の人生である 第4回

佐々木 眞

 

西暦2013年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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眉目秀麗な彼は、若者を代表して「風次郎」役に選ばれた。
この共同体のトップモードをさし示すという重要かつ誇らしい役目だ。

私は彼の補佐役をおおせつかり、丘の頂上に据え付けられたインカ帝国の祭壇のような席に座ると、古代の共同体の家や畑がアリのように小さく見渡せた。

全身紫ずくめの奇妙な恰好をした「風次郎」はすっくと立ち上がり、「これが俺たちの新しい制服だあ!」と叫ぶと、しばらくしてその声は、こだまになって帰ってきた。

絢爛豪華な着物の裾から手を入れて、豊かな乳房を鷲づかみすると、彼女は厳しい目で私を睨みつけたが、かといって、自分から逃れようとはしないのだった。

まだ春だというのに、夏型の大きなヒョウモンチョウが、原っぱをゆらゆら漂っている。この品種らしからぬ緩慢な動きだ。しかも巨大なヒョウモンの翅の上に別の種類の小型のヒョウモンチョウが乗っている。

私がなんなくその2匹のヒョウモンチョウを両手でつかまえ、これはもしかして2つとも本邦初の新種ではないかと胸を躍らせていると、半ズボン姿の健君も別の個体を捕まえて、うれしそうに私に見せにきた。

それは確かにヒョウモンチョウの仲間には違いないが、いままでに見たこともない黄金色に輝いており、国蝶のオオムラサキを遥かに凌駕するほどの大きさに、興奮はいやがうえにも高まるのだった。

私たちはバタバタと翅を動かしてあばれる巨大な蝶を、懸命に両手で押さえつけていたのだが、それはみるみるうちにさらに大きな昆虫へと成長したので、もはや彼らを解放してやるほかはなかった。

しかし巨大蝶は逃げようとせず、その長い触角をゆらゆらと動かし、「さあ私のこの柔らかな胴体の上にまたがってみよ」、とでも言うように、その黒い瞳で私たち親子をじっと見詰めたので、まず半ズボン姿の健ちゃんが、ひらりと巨大蝶の巨大な胴体の上にまたがった。

息子に負けじと私も別の巨大蝶にまたがり、そのずんぐりとした黒い胴体をつかんでみると、あにはからんや、それはくろがねのような強度を持っていた。

私たちがそれぞれの大きなヒョウモンチョウに騎乗したことを確かめると、2匹の巨大な蝶はゆっくりと西本町の子供広場から離陸し、狭い盆地を一周すると、見はるかす下方の片隅に、見慣れた故郷の街や家や寺や山、銀色の鱗に輝く由良川の流れが見えた。

それから巨大な蝶は、猛烈なスピードで故郷の街を遠ざかり、波がさかまく海をわたり、大空の高みを力強く飛翔しながら成層圏に達し、そこからまた猛烈なスピードで下降した。

ぐんぐん地表がちかづいたので、よく見るとそれは教科書の写真で見たことのある万里の長城だった。気がつくと巨大蝶の姿は消え、私たち二人だけが大空の真ん中にぽっかりうかんでいる。私たちは思わず手と手を握り合った。

しかし墜落はしない。無事に飛行は続いている。私たちはそのまま元来た空路をたどって故郷に帰還すると、そこには仲間の巨大蝶が勢ぞろいしていた。
その後蝶たちは、住民の飛行機としての役目を半年間にわたってつとめたのちに、南に帰っていった。

私は岡井隆ゼミに出ている学生なのだが、前回は風邪で欠席したので今日の内容が全然わからない。先生がもう一人の女子学生に動詞の活用や終止形について親切に教えている姿を、私は妬ましく見詰めていた。

私が生まれて初めて撮った映画「福島原爆」は、青空に放り投げられた無数の魚たちの骨がレントゲン写真のように透けるシーンから始まる。
1945年3月11日、米軍のB29特別爆撃機は、東京に投下するはずの原爆を誤ってこの地に投下したのだった。

当然現地ではその後の広島・長崎と同様の凄まじい惨禍をもたらしたが、幸か不幸かそこは無人の海岸だったので、当事者である米軍と日本軍、近くに住む一握りの人々を除いて広く知られるところにはならなかった。

それは恐らく日米両政府の陰謀によるもので、彼らはこの大事件を知る者がいないことを利用して長い年月に亘って秘密を隠ぺいしていたが、はからずもこのたびの震災による放射能流失で恐るべき実態が明るみに出されたのだった。

大学1年生の私が文学部へ行こうとすると、法学部の2人の学生が「そっちじゃない、こっちだ」と無理矢理別の路へ連れてゆこうとする。
しばらく成り行きにまかせていた私だったが、腹に据えかねてそのうちの強引な一人を押し倒し、ボコボコにしてやると、そいつは動かなくなってしまった。

私たちはさまざまな外界の現実音を採録してから、このスタジオに集まった。
お互いにその音をダビングしあって新しい電子音楽を創造しようと試みているのだが、A子だけはなかなかその複写を許そうとしなかった。

夢の中でやっと会えたというのに、A子ときたら昔とおんなじことをいうのだ。
「ダメダメ、でも奥さんと別れる気があるなら私に触れてもいいわ。」

広報課長と部下の女性が、その企業の重要な記者発表をどちらが行うのかで微妙な駆け引きを演じていた。
実力と自信のある女性は、自分ですべてを担当したいのだが、無能な管理職がそれを阻止しようと、しきりにいやがらせをするのだ。

ラスカルという名のロシア男は、自分は音楽と体操のたいそうな名人であると吹聴しながら、私を小馬鹿にするように見詰めた。

知り合いの女性が企画したダンテの「神曲」の煉獄観光ツアーが好評だというので、私も参加させてもらった。
原作を(もちろん翻訳で)読んだ時にはじつに退屈な脅迫による宣教本に過ぎないと思って馬鹿にしたものだが、実際に現地を訪れると大迫力で興奮した。

流行の最先端をゆくこのデザイン事務所で、あろうことかシラミが大繁殖。
あれやこれやの方法で駆除しようと試みたが、どうしても出来なかったので、スタッフ全員が地下の暗渠に投げ込まれ、東京湾の藻屑と消えた。

その囚人が不敬な言葉を吐きだす度に、その巨人は自分の目や耳にガムテープを張って見ざる聞かざるを決め込むのだが、それは怒りに駆られた彼が、囚人をひねり殺してしまわないためだった。

我ながらいい短歌が出来たと思ったので、いちど毎日新聞に投稿しようと思った。けれども私は毎日は取っていない。急いで近くのミニストップに行ってみると、ほとんどがスポーツ新聞で、私の大嫌いな産経と読売はあったが毎日も東京もなかった。

私の狭い家の中には、なぜだか広告代理店の人間がいっぱい押しかけてくるので、いつも牛ぎゅう詰めになっている。
その大半が私の知らない顔だが、電通の長谷川という男は良く知っていて、いつでも挨拶を交わす仲なのだが、その長谷川がときどき白い犬に変身してしまうので困る。

東北から北海道を制覇するんだということになり、おじに率いられてわたしも新幹線に乗り込んだのだが、途中で検札に引っかかった。
切符をおじに預けていた私は、途中の駅でつまみだされ、全員集合に間に合わなかったのだが、それはおじの陰謀だったのかもしれない。

ようやく青森につくと、私はおじの運転するロールスロイスに乗せられた。
おじは大通りで車を停めると、交差点の向こうにそびえる教会堂に向かって巨大な鏑矢を射た。それはひゅるひゅると音を立てながら飛んでいき、鐘楼に突き刺さった。

砂漠の族長が私たちに与えたのは、真っ白い包帯でグルグル巻きにされた2つの物体だった。その包帯を時間をかけて解いていくと、ひとつからは人間の姿かたちをしたきらめく黄金、もうひとつからはいままで映画の中でも見たことが無いようなイスラム風の絶世の美女が姿を現した。

演奏会の度にステージに立って、「私たちを警察に突き出して、「あいつらはもしかして殺人犯ではないか」と報知してほしい。そうすれば3人とも無罪であることが明明白白になるから」と聴衆に告げているのだが、笑うばかりで誰もそうしようとはしないので、いつまで経っても私たちの心は晴れないのだった。

ついさきおととい、髪も髭もぼうぼうぼうできたない乞食のような中年男が、ヴェネチアの運河のほとりをほっつき歩いていた。
ところがまさにその男が、今朝のミラノでのMTGにトム・フォードのスーツを一着におよんで、にこやかに私の右手を握ったので驚いた。

広場には大勢の人たちが集まっていたが、彼らの表情には不安の色が浮かんでいた。
そこで一計を案じた私は、仲間のドイツ人たちと一緒に広場に乗りこんで、彼らを落ち着かせようとした。
身軽なドイツ人の若者は、音楽に合わせてマイケル・ジャクソンを凌駕する完璧な幽体移動の必殺技を繰りだすと、次第に暗欝な雰囲気が崩れて笑顔が戻って来た。

そこではいままさにアジア、いな世界最大の万博が開催されており、広大な会場には自然館と商品館の2つの球形のパビリオンが並んでいた。
自然館はそのまま地球の7つの大陸がそっくり内蔵されており、商品間で買い物をした大勢の客たちは、レジを終えるまでに数時間も待たされていた。

久しぶりに妻君と旅行に出かけたが、同じ車両の中に彼女に会わせたくない女性が2人も乗り合わせていることが分かったので、私はもはや旅行気分などどこかへ吹き飛び、戦々恐々として目を泳がせているのだった。

会社の図書室に配属された私が、その狭い部屋に行くと、山口君の姿が見えない。
きょろきょろ探していると、彼と事務の女性の2人が、狭い部屋に山積みされた雑誌類の上に机を置いて執務していたので、「ここは図書室なのだろう。誰か借りに来るのかい」と尋ねたが、誰も一度も来ないという。

国家教育局に続いて、国家映画局の統制がはじまった。
どんな映画も、あの暗黒の1940年代と比べてもハンパなく検閲されている。
本編のみならず予告編や広告の映像やキャッチフレーズについても、官憲の気狂いじみたきびしい統制が繰り返されるので、私は映画界から逃走することにした。

客の要望に応えてクラシック音楽を流している純喫茶を訪ね、私はフルトヴェングラーが指揮する「トリスタンとイゾルデ」をリクエストするのだが、どの店に行っても第3幕第3場でイゾルデが歌う「愛の死」の箇所のレコードが無い。
もうすぐ朝がやってくるので私は焦った。

中国本土を侵略中の皇軍兵士を慰安すべく、私たちはサーカスのキャラバンを組んであちこちを巡業していた。そのとき突然敵が来襲し、銃弾が飛んできた。
私はとっさに私がひそかに好いている女性のほうを見ると、彼女は巧みな宙返りで敵弾を避けていた。

そろそろ死期が近づいてきたことが分かったので、私はそのためにあらかじめ準備していた眺めの良い場所にやってきた。
ところが緊急時に使用するための人工臓器が無くなっているので、きょろきょろ周囲を見回すと、悪戯そうな瞳の若い女と目が合った。

電車から降りて無人の改札口を出たところで、前を行く白いチョゴリを着た若い女が幼女と共に道端の渓流に飛び込むのを目撃した。
私は一瞬躊躇したがザブリと川に飛び込み、まず少女を救い、次いでぐったりとなった女を胸に抱いて水から引きあげた。

蒼白の女は、眉が細く美しい容貌をしていた。
私が「しっかりせよ」と声を掛けても目を開かず、一言も発しないので、盲目かつ聾であることが分かった。
娘とも妹ともおぼしき少女の泣き声だけが、白昼の荒野に響いていた。

「ほら、ほら、ほら」と言いながら、みんなは吉田君からもらった異様に大きな林檎を私に見せつけた。
きっと私の分は無いのだろう。
悲しい気持ちに沈む私の傍を、思いがけず昔の思い人が通り過ぎていった。
なにも言わないで。

私の両側には、2人の女が横たわっていた。
これって前に読んだ村上春樹の小説とおなじシチュエーションだなあ、と思ったのだがそれ以上なにも起こらず、朝になると誰もいなかった。

追い詰められた私たちは、階段を登ろうとしたが、その階段は途中で終わっていたので、階段のたもとまで下って、階段の左の脇道を進もうとしたのだが、そこでにっちもさっちもいかなくなってしまった。
私の顔の前に彼女の顔があった。ので余儀なく私は彼女を抱いた。

金曜日の朝、渡辺派がいよいよ私を粛清しようとしている気配を察知した私は、大聖堂めざして急な坂道を駆けのぼった。

無人の大聖堂をいっさんに駆け抜け、私はその裏道を急いだが、どうも誰かが私の跡をつけているようだ。
真っ暗な小道をひた走りに走ると、いつのまにか異人街に辿りついた。教会では大柄な人々がクリスマス・キャロルを歌っている。

明日は大学試験の初日だというのに、僕たちは夜遅くまで夢中になって話しこんでいた。色々な地方からやって来た受験生の中には、女性体験の豊富な若者もいて、僕らは目を輝かせて、いつまでも彼のレポートに耳を傾けたのだった。

市役所の広報課長はわけがわからぬ男だった。
市に有利な情報だけをマスコミに流そうとして経済、社会、健康、人口、衛生、文化、教育などにかんするありとあらゆるデータの、おのれに有利な部分だけを取り出して、それをごった煮にして公表するのだった。

集英社の編集者に採用された私は、辣腕のヴェテランスタッフたちから軽侮されながら仕事を続けていたが、とうとう編集をクビになって、書籍の荷造り係りに降格されてしまった。
しかしそれでも私は、「なにくそ啄木だって朝日新聞の校正係で妻子を養っていたんだ」と、流星群が降り注ぐ九段坂の夜空を見上げたのだった。

 

 

 

ジョルディ・サバール

加藤 閑

 

 

サント・コロンブ

サント・コロンブⅡ

 

休日の朝は、たいてい最初にどのCDをかけようかと、棚を物色することからはじまる。バッハを選ぶことが多いのだが、きょうは久しぶりにサバールをかけた。ひところよく聴いたサント・コロンブの「2台のヴィオールのための合奏曲集」。ジョルディ・サバールがヴィーラント・クイケンとふたりで演奏している。サント・コロンブは17世紀フランスの作曲家だが、伝記的事実はほとんどわかっていない。ヴィオールの独奏曲と二重奏曲がかなりの数残っているだけだ。録音もそれほど多くはないのだろう。わたしはこの二人の演奏でしか聴いたことがない。(もちろんカタログには何点か他の演奏家の録音がある)
ディスクは2枚あって、1枚は1976年の録音、もう1枚のTomeⅡは1992年の録音である。実に16年の開きがある。前者と後者とでは、二人の演奏家のクレジットの順が入れ替わっている。すなわち、1枚目はヴィーラント・クイケンが上になっているが、2枚目はジョルディ・サバールが上になっている。1970年代といえば、古楽演奏が世界的に注目され始めた時期で、ヴィーラントは二人の弟シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン)とバルトルト・クイケン(フルート)とともにクイケン兄弟として、グスタフ・レオンハルト、フランス・ブリュッヘン、アンナー・ビスルマらとともにその中心にいた。年齢も3歳ほどサバールより上になる。しかし、2枚目の出た1992年には、サバールはエスぺリオンⅩⅩを率いる新しい古楽演奏の旗手として注目されていた。だからCDの表記もサバールが上になっているのだろう。
当時、プレーヤーに乗せるのは圧倒的にTomeⅡの方が多かった。それを当時は2枚のディスクに収められた曲の違いだろうと思っていた。自分の好みに合った曲想のものが2枚目の方に多く収められているのだろうと。だが、きょうほんとうにしばらくぶりに2枚を続けて聴いてみると、曲の違い以上に演奏の質が異なっていることに気がついた。音楽を表現する音色に艶があって伸びやかだし、演奏の構成がずっと深みのあるものになっている。
わたしは音楽に対する感覚が優れているわけでもないし、ディスクを聴いて二人の演奏を聴き分けられるほどの明敏な耳を持っているわけでもない。だからこれはまったくわたしの想像にすぎないのだけれど、この音楽の深まりは、多くをサバールの演奏家としての成長に負っているような気がする。ヴィーラントもすぐれた演奏家だとは思うし、演奏にも後進の指導にも誠実さを感じさせる。しかし、みずからエスぺリオンⅩⅩという演奏団体を組織して、15世紀の音楽からベートーヴェンまで演奏しようというサバールのような才気には乏しいのではないか。
しかしながら、実を言うとわたしはエスぺリオンⅩⅩをほとんど聴いていない。デュ・コロワのファンタジー集とベートーヴェンの「英雄」くらいだろうか。ベートーヴェンは非常に明るい演奏で面白いと思ったが、記憶にはあまり残らなかった。個人的には、この人はヴィオールの演奏家という印象が強い。さきほど触れた、サント・コロンブの2枚のディスクの間の成長も、ヴィオール演奏家として1978年から83年にわたって録音された、トン・コープマンらと組んだマラン・マレのヴィオール曲集の演奏によるところが大きいのではないかと思う。これは5枚のCDになっていてサバールの代表作になっている。
ただ聴く分には作曲家として成熟しているマレの作品の方が面白い。けれどサント・コロンブ、特に第2集の方は美しい悲しみに満ちている。人は人生のどんな時間も取り返すことはできないということを告げるような悲しみに。
ディスクの価値の判断は、他の演奏にはないものを聴けるという点にある。その意味でいつまでも持っていたいと思うCDと言える。