おおじしぎ

 

木村和史

 
 

9月4日 004

 

雪どけのころに北海道に渡り、初雪が降るころまで温泉分譲地の一画でひとりで家をつくるという生活を開始してまもなく、周辺に動物たちが多いことに気づいた。
分譲地にはすでに20数軒の家が建っていて、定住している人は半分くらい。あとは本州から避暑などでやって来る人や、別荘として利用している近隣の町の人たちで、しかもほとんどの敷地が数百坪前後の広さがあるので、もともとが北海道生まれとはいえ東京生活の方がずっと長いわたしの目に、人が少なくて緑と動物が多いと映るのは当然かも知れない。

まだ売れていない区画もたくさんあって、分譲会社が草刈りに入ったあと以外は雑草が伸び放題になっているし、わたしの敷地の目の前には小さな林もある。大型の動物は無理かも知れないが、小型の動物たちが居住する空間はいっぱいありそうだ。
一年目はテントで寝泊まりしていたので、とくに外の気配に敏感だった。リタイアした人たちが多いせいか、近隣の人びとの夜は早い。家の灯りが小さくしぼんでしまったあと、暗闇のどこかからなにか分からない物音がときどき聞こえてくる。一瞬緊張はするものの、どこかになにかがいるような気配の正体をつきとめるのは難しい。闇とはそういうものだとすぐに諦めて、東京生活のときよりずっと早い眠りにわたしも落ちていく。

朝3時を過ぎると、前の林で小鳥たちがにぎやかにさえずり始める。何種類もの鳴き声が重なっているので、聴くというより浴びる感じだ。後を追うように太陽が昇ってテントが炙られると、わたしもゆっくり眠ってなどいられない。夜更かしをすることもないので早起きは苦にならないが、それにしても追い立てられるようにテントを這い出すことになる。

小鳥たちに負けず、夜が早い近隣の人たちの朝も早い。まだ暗いうちからヘッドランプをつけて犬を散歩させている女性がいるし、夏には、6時半頃になるともう草刈り機の音が聞こえてくる。ほぼ半年間雪に閉ざされ、地面も凍っていて、外の仕事がほとんどできないのだから、残りの半年と貴重な昼の時間を目一杯活用しようという気持はよくわかる。というより、ここではそれが自然で、理にかなった日常なのだろう。

ここら辺で大型の動物を見かけることは滅多にないが、立派な角を持った大きな鹿が、近所の庭に彫像のように立っていてびっくりさせられたことがある。町道の反対側の、池のある雑木林のあたりにはタンチョウ鶴の夫婦が棲んでいて、時期になると子供を連れて歩いている。山の麓の友人のところでは、庭の切り株に新しい熊の爪痕があるのを発見して以来、夜になって庭に出るのは慎重になったそうだが、さいわいなことに、この近くに出没したという話はまだ聞かない。

目につくのはやはり、小鳥たちが圧倒的に多い。二年目の夏には、セキレイが材木の山の隙間に巣をつくって五羽の雛を孵したし、四年目あたりから物置小屋の軒先で、雀が年中子育てをするようになった。寒い季節になると、餌箱にゴジュウカラやコガラなどが、次から次へとやってくる。一人暮らしをしている隣りのおじさんのログの壁にキツツキが止まって、コンコン突ついていることもある。

いつの夏だったか、この世のものとも思われない、か細くて美しい鳴き声がどこからか聴こえてきたことがあった。賑やか過ぎるほどの、いつもの小鳥たちの鳴き声とは全然違う。仕事の手をとめて耳を澄まし、声のする方にそっと歩いて行くと鳴き声は止んでしまい、植木の根元を歩いている一羽の小鳥と一瞬目を合わせたけれども、その鳥が声の主だったのかどうか、結局分からずじまいだった。いつかまたあの美しい声を聴いてみたいと思っているのだが、その後一度も巡り会えていない。

夏の夜になると、前の林で一羽の鳥がひと晩中、よく通る声で、光をまき散らすように鳴き続ける。その鳥が一羽で舞台に立って、夏の夜を演出しているようなものだ。遠くから、それにこたえてもうひとつの鳴き声が聞こえてくるときもある。何年も経ってふと気がついたのだが、その鳥には縄張りがあって、その一画にはおそらく牡の、その鳥が一羽しかいないということなのだろう。

小型の動物では、エゾリスがたまに姿を見せる。来るときは毎日ほぼ同じ時間に、敷地の隅の植木に吊してある小鳥用の餌箱に押し入って、ひまわりの種を食べ散らかして去って行く。それがどうしてか、ぱたっと来なくなることがある。近所の人も同じようなことを言っていたから、あちこち順番に巡り歩いているのかも知れない。隣のおじさんが露天風呂に浸かっていたら、突然、子リスが6匹、頭の回りを駆け回ってびっくりさせられたことがあったという。そんなところでも巣作りをしているようだ。

テント生活に入って間もないころ、林の暗闇の向こうから、もの悲しい笛のような鳴き声が、遠くなったり近くなったりしながら、あっちからもこっちからも聞こえきたことがあった。テント生活は、得体のしれない物音にいつも包まれているようなものだが、さすがに大がかりな得体の知れなさだったので、翌日、隣のおじさんに訊いてみると、群れを離れた若い牡の鹿たちだという。もの悲しいどころではなく、威勢良くどこかへ繰り出す途中だったのかも知れない。二十歳過ぎまで北海道にいたのだから、鹿の鳴き声など、どこかで聴いていて不思議じゃないと思うのだが、記憶に残っていない。車であちこち走り回るような時代じゃなかったせいもあるだろう。晩年のこれから、あらためて故郷の北海道を学ぶことになりそうだ。

わたしはまだ目撃したことがないが、小さな犬を連れて一日に何回も散歩している女性が、三本足の大きな狐がここら辺を縄張りにしていると教えてくれた。朝早い時間に遭遇することがあるという。

10月下旬に本格的な霜が降りて、6畳の寝泊まり小屋がようやくできあがり、テントの寝床を移動して、屋根の下で布団にくるまれる喜びをかみしめていたとき、朝起きると外に脱いでおいたサンダルが見あたらない。あたりを探してみると、霜で真っ白に濡れた隣地の草むらに、ずたずたに食いちぎられているのが見つかった。そのとき、三本足の狐のことを真っ先に思い浮かべた。わたしがこの地に住みつこうとしていることに苛立ったか、わたしを脅して立ち退かそうとしたか、とにかく何かのメッセージのように思えた。サンダルと戯れただけではなさそうな気がする。野生のミンクが鶏を襲ったりもしているようなので、三本足の狐のせいにするのはまったくの濡れ衣かも知れない。しかし犯人が誰であれ、メッセージはわたしの心に残った。以前は一面にリンドウの花が咲いていたという緑豊かな草地を、盛り土で覆ってしまったのだから、侵入者としてのわたしの方がむしろ罪が重い。次から次へとトラックがやってきて、草地が土の山で埋められていくのを眺めながら、たしかに躊躇いを感じないではなかった。本格的な霜の季節の寒さと、寝泊まり小屋をなんとか形にした喜びで、狐に対するわたしの罪悪感はすぐに打ち消されてしまったけれども。

近所の家々を眺めていると、あそこには日常があって、わたしのところには日常がないと感じることがある。必要に迫られた幾つかのことを追いかけているうちにその日が終わり、変わりやすい天気や、朝晩の気温の変化などと向き合う日々を重ねているうちに、いつのまにか季節が移っていく。家の形というのは、日常生活がそこにある証明みたいなものかも知れない。テントの薄い生地一枚だと日常生活を囲いきれず、漏れてしまうのだろうか。わたしのテント暮らしはどちらかというと、分譲地の住人たちの家よりも、木の上の小鳥のねぐらや、枯れ草の中のネズミの寝床により近かったような気がする。雨になりそうな気配を感じると、大慌てで道具を片付けシートの覆いをかける。片付け終わったとたんに雨が降り出すという芸当もできるようになり、誰かに向かって自慢したくなるような、つまらない満足感を味わうこともあった。

テント暮らしは一年で卒業したものの、7年目になる現在も諸般の事情により、まだ母屋の建たない不便な小屋暮らしを続けている。そのあいだに最初の意気込みが徐々に変化して、分譲地の中の家々に伍するような、そこそこまっとうな家を一目散に目指しているとはいえない感じになっている。家づくりが遅々として進まないあいだに、暮らしの方が先に育ってしまったようなのだ。

それにしても、家づくりを開始した一年目は特別に風が強かった。わたしのところは風の通り道になっているらしく、常設した大型のテントがばたばたと煽られて、いまにも飛ばされそうになる。しかも、強風の日が何日も続く。張り綱が切れるか、支柱が折れるか、テントごと飛ばされるか不安で仕方がない。

それで急遽、風よけのための囲いをつくることにした。もったいないと思ったが、寝泊まり小屋のために仕入れた貴重な角材を掘っ立て柱に流用して、そこに野地板を胸の高さほどに打ち付ける。テントのペグの位置に合わせて柱を立てたので、囲いの形はいびつだし、野地板もあとで剥がして使えるように、端を切りそろえないでなるべく長いまま使った。突きつけに張った板は乾くと隙間だらけになるけれども、風が弱まってくれればそれでよかった。秋に寝泊まり小屋ができあがったら、どうせ撤去される運命なのだから。

ところが、この囲いがまるで役に立たない。相変わらずテントは煽られ、ぎしぎしと支柱がきしむ。なんとかしたいが、ちゃんとしたものに作り直すほどの建造物ではないし、かといって壊してしまうのもなんだかもったいない。

結局、テントを撤去して、かわりに自動カンナ盤を囲いの中に持ち込み、作業空間として利用することにした。風の強い日に盛り土の上で自動カンナ盤を使うと、鉋屑が隣地まで飛ばされていって、掃除をするのが大変だった。雑草だらけの空き地とはいえ、知らんぷりをするわけにもいかない。カンナ屑が囲いの中で止まってくれると、片付けるのが楽になる。そんなわけで寝泊まりは、囲いの外に張り直した、風に強い小さなテントの中ですることになった。

このときにいったん机に戻って、年間計画をじっくり練り直すべきだったかも知れない。新しく何かを作ることと、作ったものを壊して無にすることは、まったく性質の違う作業になる。精神の健康のためには、どうせ壊すのだから、などと考えてはいけなかったようだ。前だけを向いて、前にだけ進む。

立ち止まって想を練るのは、じつは、頭の調子がよくないわたしにはどうも苦手だ。40歳のときにトラックに撥ねられて以来、不自由になっている心身の問題が幾つかある。不完全な想のまま体を動かして形をつくり、その形を眺めて次の不十分な想を描き、また体を動かすというのが、いつのまにかわたしの方法になっていた。できないことはできない。できない人にはできない。わたしの中でこのことはずっと葛藤であり続けているのだけれども、同時に、徒に悲観する必要のない、むしろそちらの方向に前向きになっていい可能性にも見えているようだ。

珍しく風のない、穏やかに晴れた日だった。囲いの中でコンビニの弁当を食べていると、カラスが飛んできて、掘っ立て柱の上に止まった。すぐ目と鼻の先だ。何メートルもない。当然、弁当が狙いだろうと思って、唐揚げをひとつ箸でつまんで地面に投げてあげた。カラスに意地悪すると仕返しされるという話が頭をよぎった。追い払うのがちょっと怖かったのかも知れない。まぢかで見ると、黒光りした羽根と、太くてがっしりした嘴がなかなかの迫力だ。

すぐにでも唐揚げを咥えて、飛んで行ってしまうだろうと思ったのだが、カラスは動かない。悠然としていて、うっすら笑みを浮かべているようにさえ見える。おそらく、鋭い眼光くらいは走らせただろう。でも、唐揚げに気持を動かされた気配は、わたしには少しも見てとれなかった。

カラスと根気よく気持のやりとりをする余裕が、このときのわたしにはなかったようだ。朝早くから暗くなるまでの力仕事に体がまだ慣れていなかったし、朝晩の寒さともいちいち対峙する感じだ。近所の人が半袖姿でふらっとやってきても、わたしはジャンパーを着込んでいる。東京で痛めた手指の関節がしくしくするので、バケツに温泉のお湯をためてときどき手を温める。手術した膝に、脚立の上り下りがこたえる。意気込みで紛れているとはいえ、この先のことも不安がないとはいえない。変な話かも知れないが、これから建てようとしている家が徐々に形になって通りすがりの人たちの目に触れることを想像すると、なんだか気持が臆してしまう。舞台の上で家を建てているような恥ずかしさを感じるのだった。

カラスを無視して黙々と弁当を食べ続けていると、羽根を打つ音がして、見ると、カラスが飛び立とうとしている。来たときと同じように突然、どこかへ飛んで行ってしまった。唐揚げに興味がなかったはずはない。わたしの目の前では手を出しづらかったのだろう。おそらく、あとでこっそり戻って食べるつもりに違いない。そう思ったけれども、仕事の邪魔になるので、弁当の容器と一緒に唐揚げも捨ててしまった。戻ってきたときにカラスはきっとわたしに騙されたと思うだろうな、気が変わりやすい奴だと思うだろうな、などと考えながら。

カラスと至近距離で向き合ったのは、それが最初で最後だった。もしかしたら、カラスの真の狙いは弁当ではなくて、わたしという新参者を観察することにあったのかも知れない。餌が目当てなら、離れた場所から様子を窺って、わたしが現場を離れた隙にかすめて行くとか、もっと巧妙に立ち回る方法があったような気がする。わたしが危険な存在か、害の無い存在か、仲間たちを代表して下調べに来たということも考えられる。隣りのおじさんの話では、近所のカラスは4羽で、みな兄弟なのだそうだ。

しかしここ来てまず真っ先に目に入ったのは、空をばりばりと雷のような音をたてて落下してくる鳥だった。子供のころ、故郷の空で同じ鳥を見たことがあった。50年も経って、あの鳥にまた巡り会えるなんて思ってもみなかった。家の裏の広大なキャベツ畑に、モンシロチョウの群れが舞い、雲雀が畑と青空のあいだを昇ったり降りたりしている時代だった。夕焼け空をカラスの大群が裏山に帰って行き、軒先のあちこちにオニグモの大きな巣がかかっていた。あらゆる光景が、少年のわたしの目に新鮮に映っていた。なかでもその鳥は、生まれて10年足らずの少年のわたしを特別に驚かせるものだった。

どこか知らない遠くからやってきて、短い夏のあいだ、けたたましい羽音をたてて高い空を飛び回り、秋になるといつのまにかどこかへ行ってしまう。わたしの記憶では、その鳥は一羽で、本物の雷のようにばりばりと音をたてて、空を裂くように落下してくるのだった。

ここでは、あの鳥が何羽もいて、昔に比べると小柄になったように見える。空を引き裂く音も昔の印象よりはずっと穏やかだ。でも間違いなくあの鳥だった。ここにまだ、わたしの少年時代が消えずに残っている。懐かしい感じがした。同時に、あらためてわたしの少年時代を失おうとしているような、せつない気持もこみあげた。

故郷の町にいたのは18歳のときまでだが、その鳥の記憶はなぜか少年時代に限られている。環境の変化かなにかで、故郷からその鳥がいなくなったか、高校に進んで内面に沈潜してしまったわたしが、滅多に空を見上げなくなってしまったか、とにかくなんという名前の鳥なのか知ることもないまま、高校を卒業すると同時にわたしは故郷を離れたのだった。

調べてみると、その鳥の名はオオジシギというらしい。通称カミナリシギとあるから間違いないだろう。春に、はるばるオーストラリアから飛んできて、恋人を見つけ、子育てをして、夏が終わるころにまたオーストラリアまで8000キロの旅をして帰っていくという。一日中空を飛び回ることなど、なんでもないのかも知れない。

北海道の夏は、じりじりと炙られるようだ。実際の気温以上に暑く感じるのは、空気がきれいなせいではないかと思う。おそらく紫外線を遮る塵の層が薄いのだろう。太陽に炙られ、カミナリシギのけたたましを羽音を頭から浴びながら、土運びなどの仕事をしていると、暑さが何倍にも感じられる。夜中に空を飛び回るカミナリシギの羽音で目を覚ますこともある。夏のあいだ、一日のうちのどの時間にも、空にカミナリシギがいる。カミナリシギが滞在しているあいだ、その羽音と鳴き声から逃れることは難しい。電信柱に止まってひと休みしているように見えるときも、ずうちくずうちく金属的な鳴き声だけは止むことがない。草むらに降りているのを見かけることがあるのは、図鑑の説明によると、その長い嘴でミミズなどを食べているようだ。
三年目、雨が降り続いて気温の低い夏になった。さすがのカミナリシギも元気がなくて、鳴き声も弱々しく、電柱の上の姿も凍えているようで痛々しく見えた。

その翌年、カミナリシギの姿を近くでほとんど見かけなかった。前の夏の寒さで伴侶を見つけられなかったか、子育てに失敗したか、オーストラリアまで帰れなかったか、とにかくなにか尋常でない事態が生じたのだと思う。

この地では、何年も大丈夫だった木が突然枯れたりすることがよくある。わたしのところでも、ホームセンターで買ったプルーンの木と、隣りのおじさんにもらった銀ドロの木が、植えて数年後に枯れてしまった。飢えた野ねずみに根を囓じられたり、ハスカップやプラムの芽を鹿に食べられて全滅したという話も聞く。植物も動物も、厳しい寒さとぎりぎりのところで戦っている。あんなにタフに見えるカミナリシギも、毎年同じように生きられるわけではないのだろう。

季節の変化とともに目を楽しませてくれるいろいろな動物たちも、のどかで平和な暮らしをしているとは言えないようだ。巣立った5羽の雛たちが、小屋の屋根をぱたぱた走り回って飛ぶ練習をしていたセキレイも、無事に子供を育てられたのはこれまでに二度だけで、あとは、なにものかに巣を壊されたり、親の羽が散らばっていたり、卵だけが巣のなかに残されていたり、順調でないときの方が多い。卵を抱くのに疲れたらしいセキレイが材木の上に出てきて、片方の羽根と片方の脚を交互に伸ばして骨休みをしている姿を目にすると、思わずカラスが近くにいないか見回してしまう。雀の巣も、うっかり安易な場所に作ると、雛が大きくなった頃を狙っているとしか思えないカラスに一斉に襲撃される。

動物たちを眺めながら暮らしていると、一年は長いと感じる。テント生活から始まって小屋生活にまで辿り着いたものの、母屋がなかなか建たない暮らしを続けているあいだに、一年ごと全力で生き抜いている動物たちの姿が少しずつ見えてきた。わたしも、順調な生活にばかり照準を合わせようとしないで、日々変化する自分にもっと注意深く目を向けて生きていく必要があるようだ。

 

 

 

タンコロ、セガ、鶏、芋

 

根石吉久

 

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書きたいものというものがない。
やるべきことはうじゃうじゃある。
今回は、やり残してあること、今後やるべきことを書き並べて、冬越しの準備の準備くらいに役立ててしまうことにする。

どうやら、一年の区切りというのは、私の場合は正月とか春の初めにあるわけではない。木を切り倒すとか、切り倒したものを切ってタンコロにするとか、タンコロを割って薪にする作業が始まると年が改まるのだ。だいたい11月の初めがその時期である。いじる薪は、直近の冬に焚くものではない。一年後の冬に焚く分をいじり始める。

薪割機を盗まれたことがやはり相当のショックだったのだと思う。盗まれてから、薪割は一度もやっていない。
故障したのを直すのに、長野の外れまで二度往復し、ようやく直って自宅に持ち帰ったらすぐに盗まれた。
チェーンソーも一緒に盗まれたので、しばらくぐずぐずしてから、ネットでゼノアの「こがる」というのを買った。こっちは買ったきり、ダンボール箱を開けてない。半年以上、新品のまま放置してある。そろそろ、箱を開けて機械を取り出さなくてはならない。

泥棒よ。おまえさんは知ったこっちゃないだろうが、こっちはほんとにやる気がなくなった。

今年の春、おやじの田の隅を借りて作ったビニールハウスの骨を解体した。やる気がなくても、やらなければならないことはある。そのとき、木の切れ端が出たから、台に丸鋸を逆さに取り付けたもので木を切った。丸鋸をとりつける台は市販のものだが、それを載せる台は木で自作した。自分の体が立った高さで、木を丸鋸の刃にあててジャーンと切れるようにした。丸鋸を固定して、木の方を動かして切るのだ。
作ったのは昔のことだ。昔のことでも、安直で手軽なグッドアイディアは覚えているものだ。もう10年以上使っている。市販の鉄製の台は、30年以上使っている。丸鋸が動かなくなったので、3年ほど前に新調した。
一週間前、この台で長く放置しておいた板状の木を切った。梅雨の雨の中に放置したので、腐りかけた木がかなりある。それでも、割った木ではなく、切った木だけでも11月の寒さくらいならしのげるかもしれない。しかし、これを焚いてしまうと、焼き芋を焼く分はない。

薪も要るが、焼き芋屋の看板を作らなくてはならない。なんだか新しい看板を掲げる元気が出ない。
屋号なし。「焼き芋」という文字だけを掲げることにする。
塾の看板はある。夜に蛍光灯が灯る60センチ四方くらいの中古の看板がもらえたので、それを取り付ける鉄の柱を親類の業者に立ててもらった。夜になると「英語 素読舎」と灯る。その鉄の柱に「焼き芋」と書いた板を取り付けてしまおうと思う。

去年、石釜を作った。この釜でピザを何回か焼いた。ピザと焼き芋の両方を焼けるように設計したつもりだったが、どちらかと言えばピザ用にできてしまった。
ドラムカンを切断して作った焼き芋用の釜もある。これは5年ほど前に作ったものだ。こっちの方が芋を焼くにはいい。これを稼働させることにする。去年作った石釜はセガで熱くしておいて、ドラムカンで焼いた芋を保温するのに使えばいい。先にドラムカンの釜で芋を焼き始めてから、石釜を暖めるための火を焚き始めればいい。

そうなると、セガが大量に要ることになる。松のヤニが燃えた臭いが芋に移らないかと心配したが、ドラムカンの釜は火室で燃えた空気が釜を通らず、そのまま煙突へ行く。熱がドラムカンの尻を焼くだけで、ドラムカンの中を煙が通ることはない。燃料がセガで済むなら、体が楽だ。なあに、セガを切るだけなら量を作れる。

セガはたいがいベイマツだ。ベイマツと呼んでいる松は、アメリカだけでなく、カナダやロシアからも来る。筏状に組んだものを海に浮かべて船で引っ張ってくるらしい。

セガと呼んでいるものは、丸太から柱を切り出したときに出る端材のことである。丸いから丸太だが、そこから四角の柱を切り出すと半月状の端材が出る。
昔は風呂を焚くのに、わずかな金を払って材木屋から買ったものだが、今は産業廃棄物扱いになっている。
「里山資本主義」という本で、セガで発電している材木屋の話を読んだが、小さい材木屋は発電用の設備を持つこともできない。しかし、製材すればセガは出る。だから、軽トラックでもらいに行くと、いくらでももらえる。
焼き芋と取り合わせるべきものはセガだ。

また看板のことがアタマにちらちらする。
屋号なし、「焼き芋」という文字だけの看板にするのはそれでいいが、夜の客のために裸電球をぶらさげようかと思う。どうせ、午前中は店は開かないのだ。夜中に、英語の教材を作らなければならないから、午前中は起きられない。

裸電球は20個くらいぶら下げれば、それだけで目を引く。それとも、一つだけの裸電球の方が寂しくていいか。
今年、屋根に発電パネルを載せたので、裸電球の電気くらいは後から増やすことはできる。

問題は芋だ。
苗を買って畑で作ってみたが、どれほども穫れていない。
ぎっくり腰でひと月以上、脳虚血発作の入院でひと月以上、畑に行かなかった。ぎっくり腰と脳虚血発作の間も、ぼうっとして、我が身が使い物にならず、畑に行かなかった。従って、梅雨の間と夏の間、全然行かなかった。その間に、草が伸びた。
ポリマルチをしたので、サツマイモが完全に草に覆われるというまでにはならなかったが、通路に生えて畝に伸びた草とサツマイモの葉が混在した。陽が十分に当たらなかったせいか、掘っても芋がろくにない。まだ掘りあげず、土の中にある分が多いが、これまで掘りあげた様子からすると期待できない。孫が友達を何回か連れてくれば、みんな食ってしまう程度の量だろう。

芋を買わなければならないのか。それが問題だ。
千葉や茨城の芋は放射能を吸っているかもしれない。国はまともな検査態勢を作らなかったので、野菜類にどれだけの放射能があるかは闇の中だ。誰がどれだけ放射能を体に入れるかはロシアンルーレットだ。山陰方面の芋もスーパーでみかけたが高い。どうすればいいのか。

まだ、鶏を飼ってない。それも問題だ。
売れ残った芋は、鶏の餌にしようと思っていたのだ。

だいぶ酒が入った。
山形の英語の生徒さんから送ってもらった「男山 純米 大吟醸 澄天」。うまい。
飲みながら書けば、文章というものはだらけるだろう。
だらけて問題があるか。
ない。

問題は、鶏を飼ってないことと、芋が穫れないことだ。
だけども、問題は、傘がない、と井上陽水が歌った。傘がないのは、軽トラをコンビニの入口近くに駐めて、店内にすばやく飛び込めばいい。軽トラは傘になる。この傘は電気で走らせたいが、まだ自動車メーカーが、電気で走る軽トラを作っていない。三菱だったか、一社あるだけ。

屋根のパネルで発電した電気を中部電力に渡さず、バッテリーに蓄電したい。自宅で発電する量は、自分で使う量の倍以上あるので、バッテリーに蓄電できれば車を走らせることもできるだろう。電力会社とは縁を切りたい。電力会社は法律に甘やかされて腐っている。

鶏を飼ってないのは、中村登さんが死んじゃったからだ。
ツイッターとフェイスブックをほぼ同時に始めたら、中村さんと連絡が取れ、昔の「季刊パンティ」という雑誌を取ってあるかと聞かれた。あるだけ郵送したら、中村さんの弟さんが飼っている烏骨鶏の卵をいっぱい送ってくれた。
烏骨鶏飼おうかなと中村さんに言ったら、弟さんに卵を孵してくれるように頼んでもらえることになった。雛が孵ったら、雛をもらいに埼玉まで軽トラで行くことになっていた。鶏小屋を作るのが遅れたので、まだ親鶏に卵を抱かせるのは待ってくれと中村さんに伝えてまもなく、中村さんが亡くなったと佐藤さんから電話をもらった。

葬式には行かなかった。その人が死んだと納得できない時、行かなくてもとがめられない葬式には行かない。鶏小屋を作るのも放置した。納得できないので放置したのかどうかも納得できない。鶏小屋なんか作らないぞ。だから鶏がいないぞ。だから、売れ残りの焼き芋を食わせる鶏がいないぞ。中村さんもいないんだな、と、納得しようとしている。まだやってる。

「季刊パンティ」は、奥村さんと中村さんと私とでやっていたのだった。まさかなあ。奥村さんも中村さんも俺より先に死ぬとは。なんとなく人間が脆弱なので、俺が先に死ぬと思っていたのになあ。

「猩々蠅」は、俺改め私が、でしゃばって出版するつもりでいた。
ネット上に書かれたものなので、一年の年末から年始に向かって読むようになってしまっているのを、年始から年末に向かって読むように整序したかった。縦書きで読めるようにもしたかった。やりかけたが、脳梗塞のせいで両方ともできなくなった。なんだか気力がなくて、何もしたくない。他の印刷もしなかったら、印刷機を貸してくれていた事務機屋が「もう貸しておくわけにはいかない」と言いだし、印刷機を持って行ってしまった。

でも、本ができた。
奥さんの節さんの骨折りで、私の望んでいたことがすべて適えられた。縦書きで、年始から年末に向かって読める。
十年以上にもわたって書かれたものなので、分厚い本になった。このところ、この本ばかり読んでいる。ときどき、声をたてて笑う。生きていた奥村さんがいる。奥村さんの声が聞こえるように思うことが何度もある。

節さん、お役に立てず、済みませんでした。奥村さんが死んだことも、本が出て納得しはじめました。

ぐずぐずしている。
本当に焼き芋屋は始まるのだろうか。
セガの確保、ドラムカン釜と石釜の分担のバランス、そっち方面は問題がない。
そうか、いろいろ考えなくてはならないんだな。家の中のストーブと、芋を焼くためのドラムカン釜と、芋保温用の石釜と、3つ焚くのかと今わかった。焼き芋屋をやるんなら、今年の冬は忙しいぞ、と、それが今わかった。

セガの処理は見通しが立つ。セガがあれば大丈夫だ。端材だから、新しい木でもじきに乾く。

そうじゃない、問題は、鶏だ、芋だ。忙しい。
鶏だ芋だと、騒いでいるだけだというのが、もしかしたら問題だ。忙しいと言ったって、騒ぐのに忙しいだけじゃないかという思いが生じると、しゅんとなる。なるほどなあと思う。しゅんとなって、心が落ち着くように原稿を書き始めたわけではないが、なるほどなあと思う。書くということも、ヤクニタツんだなあ、と。

ヤクニタタナイからイインダと思っていたのに。
まあしかし、ひるがえって、要するに、火を焚きたいだけか。

 

 

 

夢は第2の人生である 第4回

佐々木 眞

 

西暦2013年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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眉目秀麗な彼は、若者を代表して「風次郎」役に選ばれた。
この共同体のトップモードをさし示すという重要かつ誇らしい役目だ。

私は彼の補佐役をおおせつかり、丘の頂上に据え付けられたインカ帝国の祭壇のような席に座ると、古代の共同体の家や畑がアリのように小さく見渡せた。

全身紫ずくめの奇妙な恰好をした「風次郎」はすっくと立ち上がり、「これが俺たちの新しい制服だあ!」と叫ぶと、しばらくしてその声は、こだまになって帰ってきた。

絢爛豪華な着物の裾から手を入れて、豊かな乳房を鷲づかみすると、彼女は厳しい目で私を睨みつけたが、かといって、自分から逃れようとはしないのだった。

まだ春だというのに、夏型の大きなヒョウモンチョウが、原っぱをゆらゆら漂っている。この品種らしからぬ緩慢な動きだ。しかも巨大なヒョウモンの翅の上に別の種類の小型のヒョウモンチョウが乗っている。

私がなんなくその2匹のヒョウモンチョウを両手でつかまえ、これはもしかして2つとも本邦初の新種ではないかと胸を躍らせていると、半ズボン姿の健君も別の個体を捕まえて、うれしそうに私に見せにきた。

それは確かにヒョウモンチョウの仲間には違いないが、いままでに見たこともない黄金色に輝いており、国蝶のオオムラサキを遥かに凌駕するほどの大きさに、興奮はいやがうえにも高まるのだった。

私たちはバタバタと翅を動かしてあばれる巨大な蝶を、懸命に両手で押さえつけていたのだが、それはみるみるうちにさらに大きな昆虫へと成長したので、もはや彼らを解放してやるほかはなかった。

しかし巨大蝶は逃げようとせず、その長い触角をゆらゆらと動かし、「さあ私のこの柔らかな胴体の上にまたがってみよ」、とでも言うように、その黒い瞳で私たち親子をじっと見詰めたので、まず半ズボン姿の健ちゃんが、ひらりと巨大蝶の巨大な胴体の上にまたがった。

息子に負けじと私も別の巨大蝶にまたがり、そのずんぐりとした黒い胴体をつかんでみると、あにはからんや、それはくろがねのような強度を持っていた。

私たちがそれぞれの大きなヒョウモンチョウに騎乗したことを確かめると、2匹の巨大な蝶はゆっくりと西本町の子供広場から離陸し、狭い盆地を一周すると、見はるかす下方の片隅に、見慣れた故郷の街や家や寺や山、銀色の鱗に輝く由良川の流れが見えた。

それから巨大な蝶は、猛烈なスピードで故郷の街を遠ざかり、波がさかまく海をわたり、大空の高みを力強く飛翔しながら成層圏に達し、そこからまた猛烈なスピードで下降した。

ぐんぐん地表がちかづいたので、よく見るとそれは教科書の写真で見たことのある万里の長城だった。気がつくと巨大蝶の姿は消え、私たち二人だけが大空の真ん中にぽっかりうかんでいる。私たちは思わず手と手を握り合った。

しかし墜落はしない。無事に飛行は続いている。私たちはそのまま元来た空路をたどって故郷に帰還すると、そこには仲間の巨大蝶が勢ぞろいしていた。
その後蝶たちは、住民の飛行機としての役目を半年間にわたってつとめたのちに、南に帰っていった。

私は岡井隆ゼミに出ている学生なのだが、前回は風邪で欠席したので今日の内容が全然わからない。先生がもう一人の女子学生に動詞の活用や終止形について親切に教えている姿を、私は妬ましく見詰めていた。

私が生まれて初めて撮った映画「福島原爆」は、青空に放り投げられた無数の魚たちの骨がレントゲン写真のように透けるシーンから始まる。
1945年3月11日、米軍のB29特別爆撃機は、東京に投下するはずの原爆を誤ってこの地に投下したのだった。

当然現地ではその後の広島・長崎と同様の凄まじい惨禍をもたらしたが、幸か不幸かそこは無人の海岸だったので、当事者である米軍と日本軍、近くに住む一握りの人々を除いて広く知られるところにはならなかった。

それは恐らく日米両政府の陰謀によるもので、彼らはこの大事件を知る者がいないことを利用して長い年月に亘って秘密を隠ぺいしていたが、はからずもこのたびの震災による放射能流失で恐るべき実態が明るみに出されたのだった。

大学1年生の私が文学部へ行こうとすると、法学部の2人の学生が「そっちじゃない、こっちだ」と無理矢理別の路へ連れてゆこうとする。
しばらく成り行きにまかせていた私だったが、腹に据えかねてそのうちの強引な一人を押し倒し、ボコボコにしてやると、そいつは動かなくなってしまった。

私たちはさまざまな外界の現実音を採録してから、このスタジオに集まった。
お互いにその音をダビングしあって新しい電子音楽を創造しようと試みているのだが、A子だけはなかなかその複写を許そうとしなかった。

夢の中でやっと会えたというのに、A子ときたら昔とおんなじことをいうのだ。
「ダメダメ、でも奥さんと別れる気があるなら私に触れてもいいわ。」

広報課長と部下の女性が、その企業の重要な記者発表をどちらが行うのかで微妙な駆け引きを演じていた。
実力と自信のある女性は、自分ですべてを担当したいのだが、無能な管理職がそれを阻止しようと、しきりにいやがらせをするのだ。

ラスカルという名のロシア男は、自分は音楽と体操のたいそうな名人であると吹聴しながら、私を小馬鹿にするように見詰めた。

知り合いの女性が企画したダンテの「神曲」の煉獄観光ツアーが好評だというので、私も参加させてもらった。
原作を(もちろん翻訳で)読んだ時にはじつに退屈な脅迫による宣教本に過ぎないと思って馬鹿にしたものだが、実際に現地を訪れると大迫力で興奮した。

流行の最先端をゆくこのデザイン事務所で、あろうことかシラミが大繁殖。
あれやこれやの方法で駆除しようと試みたが、どうしても出来なかったので、スタッフ全員が地下の暗渠に投げ込まれ、東京湾の藻屑と消えた。

その囚人が不敬な言葉を吐きだす度に、その巨人は自分の目や耳にガムテープを張って見ざる聞かざるを決め込むのだが、それは怒りに駆られた彼が、囚人をひねり殺してしまわないためだった。

我ながらいい短歌が出来たと思ったので、いちど毎日新聞に投稿しようと思った。けれども私は毎日は取っていない。急いで近くのミニストップに行ってみると、ほとんどがスポーツ新聞で、私の大嫌いな産経と読売はあったが毎日も東京もなかった。

私の狭い家の中には、なぜだか広告代理店の人間がいっぱい押しかけてくるので、いつも牛ぎゅう詰めになっている。
その大半が私の知らない顔だが、電通の長谷川という男は良く知っていて、いつでも挨拶を交わす仲なのだが、その長谷川がときどき白い犬に変身してしまうので困る。

東北から北海道を制覇するんだということになり、おじに率いられてわたしも新幹線に乗り込んだのだが、途中で検札に引っかかった。
切符をおじに預けていた私は、途中の駅でつまみだされ、全員集合に間に合わなかったのだが、それはおじの陰謀だったのかもしれない。

ようやく青森につくと、私はおじの運転するロールスロイスに乗せられた。
おじは大通りで車を停めると、交差点の向こうにそびえる教会堂に向かって巨大な鏑矢を射た。それはひゅるひゅると音を立てながら飛んでいき、鐘楼に突き刺さった。

砂漠の族長が私たちに与えたのは、真っ白い包帯でグルグル巻きにされた2つの物体だった。その包帯を時間をかけて解いていくと、ひとつからは人間の姿かたちをしたきらめく黄金、もうひとつからはいままで映画の中でも見たことが無いようなイスラム風の絶世の美女が姿を現した。

演奏会の度にステージに立って、「私たちを警察に突き出して、「あいつらはもしかして殺人犯ではないか」と報知してほしい。そうすれば3人とも無罪であることが明明白白になるから」と聴衆に告げているのだが、笑うばかりで誰もそうしようとはしないので、いつまで経っても私たちの心は晴れないのだった。

ついさきおととい、髪も髭もぼうぼうぼうできたない乞食のような中年男が、ヴェネチアの運河のほとりをほっつき歩いていた。
ところがまさにその男が、今朝のミラノでのMTGにトム・フォードのスーツを一着におよんで、にこやかに私の右手を握ったので驚いた。

広場には大勢の人たちが集まっていたが、彼らの表情には不安の色が浮かんでいた。
そこで一計を案じた私は、仲間のドイツ人たちと一緒に広場に乗りこんで、彼らを落ち着かせようとした。
身軽なドイツ人の若者は、音楽に合わせてマイケル・ジャクソンを凌駕する完璧な幽体移動の必殺技を繰りだすと、次第に暗欝な雰囲気が崩れて笑顔が戻って来た。

そこではいままさにアジア、いな世界最大の万博が開催されており、広大な会場には自然館と商品館の2つの球形のパビリオンが並んでいた。
自然館はそのまま地球の7つの大陸がそっくり内蔵されており、商品間で買い物をした大勢の客たちは、レジを終えるまでに数時間も待たされていた。

久しぶりに妻君と旅行に出かけたが、同じ車両の中に彼女に会わせたくない女性が2人も乗り合わせていることが分かったので、私はもはや旅行気分などどこかへ吹き飛び、戦々恐々として目を泳がせているのだった。

会社の図書室に配属された私が、その狭い部屋に行くと、山口君の姿が見えない。
きょろきょろ探していると、彼と事務の女性の2人が、狭い部屋に山積みされた雑誌類の上に机を置いて執務していたので、「ここは図書室なのだろう。誰か借りに来るのかい」と尋ねたが、誰も一度も来ないという。

国家教育局に続いて、国家映画局の統制がはじまった。
どんな映画も、あの暗黒の1940年代と比べてもハンパなく検閲されている。
本編のみならず予告編や広告の映像やキャッチフレーズについても、官憲の気狂いじみたきびしい統制が繰り返されるので、私は映画界から逃走することにした。

客の要望に応えてクラシック音楽を流している純喫茶を訪ね、私はフルトヴェングラーが指揮する「トリスタンとイゾルデ」をリクエストするのだが、どの店に行っても第3幕第3場でイゾルデが歌う「愛の死」の箇所のレコードが無い。
もうすぐ朝がやってくるので私は焦った。

中国本土を侵略中の皇軍兵士を慰安すべく、私たちはサーカスのキャラバンを組んであちこちを巡業していた。そのとき突然敵が来襲し、銃弾が飛んできた。
私はとっさに私がひそかに好いている女性のほうを見ると、彼女は巧みな宙返りで敵弾を避けていた。

そろそろ死期が近づいてきたことが分かったので、私はそのためにあらかじめ準備していた眺めの良い場所にやってきた。
ところが緊急時に使用するための人工臓器が無くなっているので、きょろきょろ周囲を見回すと、悪戯そうな瞳の若い女と目が合った。

電車から降りて無人の改札口を出たところで、前を行く白いチョゴリを着た若い女が幼女と共に道端の渓流に飛び込むのを目撃した。
私は一瞬躊躇したがザブリと川に飛び込み、まず少女を救い、次いでぐったりとなった女を胸に抱いて水から引きあげた。

蒼白の女は、眉が細く美しい容貌をしていた。
私が「しっかりせよ」と声を掛けても目を開かず、一言も発しないので、盲目かつ聾であることが分かった。
娘とも妹ともおぼしき少女の泣き声だけが、白昼の荒野に響いていた。

「ほら、ほら、ほら」と言いながら、みんなは吉田君からもらった異様に大きな林檎を私に見せつけた。
きっと私の分は無いのだろう。
悲しい気持ちに沈む私の傍を、思いがけず昔の思い人が通り過ぎていった。
なにも言わないで。

私の両側には、2人の女が横たわっていた。
これって前に読んだ村上春樹の小説とおなじシチュエーションだなあ、と思ったのだがそれ以上なにも起こらず、朝になると誰もいなかった。

追い詰められた私たちは、階段を登ろうとしたが、その階段は途中で終わっていたので、階段のたもとまで下って、階段の左の脇道を進もうとしたのだが、そこでにっちもさっちもいかなくなってしまった。
私の顔の前に彼女の顔があった。ので余儀なく私は彼女を抱いた。

金曜日の朝、渡辺派がいよいよ私を粛清しようとしている気配を察知した私は、大聖堂めざして急な坂道を駆けのぼった。

無人の大聖堂をいっさんに駆け抜け、私はその裏道を急いだが、どうも誰かが私の跡をつけているようだ。
真っ暗な小道をひた走りに走ると、いつのまにか異人街に辿りついた。教会では大柄な人々がクリスマス・キャロルを歌っている。

明日は大学試験の初日だというのに、僕たちは夜遅くまで夢中になって話しこんでいた。色々な地方からやって来た受験生の中には、女性体験の豊富な若者もいて、僕らは目を輝かせて、いつまでも彼のレポートに耳を傾けたのだった。

市役所の広報課長はわけがわからぬ男だった。
市に有利な情報だけをマスコミに流そうとして経済、社会、健康、人口、衛生、文化、教育などにかんするありとあらゆるデータの、おのれに有利な部分だけを取り出して、それをごった煮にして公表するのだった。

集英社の編集者に採用された私は、辣腕のヴェテランスタッフたちから軽侮されながら仕事を続けていたが、とうとう編集をクビになって、書籍の荷造り係りに降格されてしまった。
しかしそれでも私は、「なにくそ啄木だって朝日新聞の校正係で妻子を養っていたんだ」と、流星群が降り注ぐ九段坂の夜空を見上げたのだった。

 

 

 

ジョルディ・サバール

加藤 閑

 

 

サント・コロンブ

サント・コロンブⅡ

 

休日の朝は、たいてい最初にどのCDをかけようかと、棚を物色することからはじまる。バッハを選ぶことが多いのだが、きょうは久しぶりにサバールをかけた。ひところよく聴いたサント・コロンブの「2台のヴィオールのための合奏曲集」。ジョルディ・サバールがヴィーラント・クイケンとふたりで演奏している。サント・コロンブは17世紀フランスの作曲家だが、伝記的事実はほとんどわかっていない。ヴィオールの独奏曲と二重奏曲がかなりの数残っているだけだ。録音もそれほど多くはないのだろう。わたしはこの二人の演奏でしか聴いたことがない。(もちろんカタログには何点か他の演奏家の録音がある)
ディスクは2枚あって、1枚は1976年の録音、もう1枚のTomeⅡは1992年の録音である。実に16年の開きがある。前者と後者とでは、二人の演奏家のクレジットの順が入れ替わっている。すなわち、1枚目はヴィーラント・クイケンが上になっているが、2枚目はジョルディ・サバールが上になっている。1970年代といえば、古楽演奏が世界的に注目され始めた時期で、ヴィーラントは二人の弟シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン)とバルトルト・クイケン(フルート)とともにクイケン兄弟として、グスタフ・レオンハルト、フランス・ブリュッヘン、アンナー・ビスルマらとともにその中心にいた。年齢も3歳ほどサバールより上になる。しかし、2枚目の出た1992年には、サバールはエスぺリオンⅩⅩを率いる新しい古楽演奏の旗手として注目されていた。だからCDの表記もサバールが上になっているのだろう。
当時、プレーヤーに乗せるのは圧倒的にTomeⅡの方が多かった。それを当時は2枚のディスクに収められた曲の違いだろうと思っていた。自分の好みに合った曲想のものが2枚目の方に多く収められているのだろうと。だが、きょうほんとうにしばらくぶりに2枚を続けて聴いてみると、曲の違い以上に演奏の質が異なっていることに気がついた。音楽を表現する音色に艶があって伸びやかだし、演奏の構成がずっと深みのあるものになっている。
わたしは音楽に対する感覚が優れているわけでもないし、ディスクを聴いて二人の演奏を聴き分けられるほどの明敏な耳を持っているわけでもない。だからこれはまったくわたしの想像にすぎないのだけれど、この音楽の深まりは、多くをサバールの演奏家としての成長に負っているような気がする。ヴィーラントもすぐれた演奏家だとは思うし、演奏にも後進の指導にも誠実さを感じさせる。しかし、みずからエスぺリオンⅩⅩという演奏団体を組織して、15世紀の音楽からベートーヴェンまで演奏しようというサバールのような才気には乏しいのではないか。
しかしながら、実を言うとわたしはエスぺリオンⅩⅩをほとんど聴いていない。デュ・コロワのファンタジー集とベートーヴェンの「英雄」くらいだろうか。ベートーヴェンは非常に明るい演奏で面白いと思ったが、記憶にはあまり残らなかった。個人的には、この人はヴィオールの演奏家という印象が強い。さきほど触れた、サント・コロンブの2枚のディスクの間の成長も、ヴィオール演奏家として1978年から83年にわたって録音された、トン・コープマンらと組んだマラン・マレのヴィオール曲集の演奏によるところが大きいのではないかと思う。これは5枚のCDになっていてサバールの代表作になっている。
ただ聴く分には作曲家として成熟しているマレの作品の方が面白い。けれどサント・コロンブ、特に第2集の方は美しい悲しみに満ちている。人は人生のどんな時間も取り返すことはできないということを告げるような悲しみに。
ディスクの価値の判断は、他の演奏にはないものを聴けるという点にある。その意味でいつまでも持っていたいと思うCDと言える。

 

 

 

豊島ゆきこ歌集「りんご療法」について

 

 

写真-275

 

 

大風が近づいているのでこの休日の海は少し荒れていた。
休日には静岡に帰って海を見ている。

以前は小舟を浮かべて一人釣り糸を垂れていたが、
東北の震災以来、舟は出していない。

海というのは荒々しいときがある。
ヒトの手に負えないときがある。

小舟で浮かんでいると小舟が木の葉のように思える時がある。
春の海などは突然に荒れるので怖い目に会う。

大風のときに小舟で海に出るなどは、馬鹿者だろう。
自然は恐ろしい。

大風の近づいている休日の夕方に、
窓から西の山に日が暮れて空気が青くなるのを見ていた。
ラ・モンテ・ヤングのインド音楽のようなピアノを聴いていたのだった。

そして、豊島ゆきこさんという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめていた。だいたい女性は苦手だ。女性はわたしにはわからない生き物なのだ。その女性の書いた短歌というものを読みはじめてみたのだった。

 

夏に逝きし胎の児あればいきいきと電車で遊ぶこの子を眺む
「おさかなの死」を尋く吾子に世をめぐるいのちを話すさんまほぐしつつ
夢のなか魚となれるか熟睡の子の手の先がひらひらするは

 

やわらかい触手のようなことばたちであるなあと、
思ったところで犬のお風呂を仰せつかり、犬とお風呂に入って、それからビールを飲み、焼酎を飲み、ソファーで犬と寝てしまった。深夜に目覚めて、部屋にもどり、もう一度、この豊島ゆきこという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめたのだ。大風の雨がはげしく降っている。

 

ものかげに水引の花咲くような秋の一日も店を守れり
画家になる夢の代はりに亡き祖父が育てし店よその店を継ぐ
疲れ果て着のまま眠るわが顔よりそつと眼鏡をはづす指あり
つやつやのりんごたくさんスライスし煮詰むればたのし りんご療法

 

どうもこの女性はわたしの理解がとどかない女性とは異なるかもしれないと思いはじめたのだった。普遍性が底にある、といったら良いのだろうか、利他的な基準があり信頼に足る、といったらいいのだろうか。うまく言えないのだが・・・・。

 

亡き祖父にその手を曳かれ夏に逝きし児もこの年の祭見に来よ
生涯を捧げし店の玻璃越しに山車をみていき死のまへの祖父
火に焼かれ槍に突かるる迫害を畏れぬ<神>を人ら持ちしか
つみぶかきもの女にてたはむれに十字架を飾る、心臓をかざる

 

どうも、死のほうからこの世をみている構えがあるのである。
死が底にあるのだろう。大切なものを失ってみてはじめてこの世が見えてくるのだろう。かなしみは簡単には埋まらない。
ますます、雨が強くなってきた。明日は新幹線が動かないかもしれない。

 

玻璃一枚隔てて人の営みのすこし向こうに水仙の伸ぶ
自らの手になる般若心経の書のある居間に眠るごと逝きし
秋の日のはかなきものは夏目雅子写真集なるたわわの乳房
ヨルダンかガンジスか仄暗きその河周作がいま渡りゆく
野分けのあとの陽差しまろまろ頬に受け花をかかげて死者に逢いにゆく
枇杷の花あえかに咲ける帰り道みづみづとわが細胞は呼吸す
丸ごとのキャベツざくつと切るときにしぶき立つ霧明快に生きむ
生老病死もなき世界青み帯ぶる画像のなかをマリオが跳ねる
その姿みにくけれども眼のやさし子育て恐竜マイアサウラは
かなしみは億年のちも変わらざり牙剥きて肉食竜が草食竜おそふ
はじめて「花」に逢いたる恐竜の恍惚いかに白亜紀の末
いつもいつも小首傾げてわれを見る十姉妹よとほき記憶伝えよ
葉を刻み相撲放送聞きをればとほき夕べの祖父母の気配

 

どうもこの女性はに大きなものに行きあたっているように思える。
大きなものとはかつてブッタが行きあたったものと近しいだろう。
この世界の無常ということか。この世界はまるごと流れているのだろう。
おんなも、性も、血縁も、まるごと流れていて、あてにできないのだろう。

 

グラビアの中のキッチン輝けど世にあらぬもの良妻も賢母も
斎場のさくら二本ひんやりと咲き満ちてをり見るひとなしに
八重ざくら青葉のなかに咲きいでてゴッホ的なる塊をかかぐ
ぢりぢりと灼けつく夏の道ひとつ地図なきままに歩みはじめぬ

 

大変に厳しい場所にこの豊島ゆきこさんという女性は佇っていると思えます。
大変に厳しいからこそ女性でありつつ女性をを越えて大いなるものの傍に佇っているのだろうと思います。

雨がすこし優しくなりました。
朝、新幹線が動いていたらわたしは勤めに出かけていきます。

 

 

 

トヤン父子

 

根石吉久

 

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結局何をやってきたのだろうとときどき思う。

若いとき、詩を書いたことがあったが、あれは詩だったんだろうか。もしかしたら、日本語を使った語学みたいなもんじゃなかったんだろうか。日本語で何か書いてみる練習みたいなことをしたんじゃないだろうか。

大学に入った頃に、自分が文章を書けないことに気が付いたのだった。書いてみると、書きたいことと言葉になっていくものとが、ずれる。いまだ言葉にならないもの、言葉にならずにもがくものと、実際に言葉になっていくものとが、ずれる。ずれるというより、もっと差がでかい。時によっては、うらはらじゃないかと思うくらいに違うものが出てくる。
一致することがあるのかと思った。学校じゃ、思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとか言っていたような気がするが。
考えたとして、考えたものはもう言葉になっているのか。言葉以前のものか。その両者が混ざり合ったものか。どうも混ざり合っている。ときどき言葉の断片みたいなものが動くが、シンタックスは待機状態であり、言葉の断片以外に動くものは、「充実したからっぽ」みたいなものだけだ。まだ言葉にならないが、言葉になる直前のもの、もがくもの。
言葉になろうとするものは動きはするようだ。この状態で思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとかはありえない。
「充実したからっぽ」をどう言葉に変換させるのかがあるだけだ。変換させるとき、「充実したからっぽ」がどこかを通る。どこを通るのか。
「充実したからっぽ」は、言葉というより言葉の芽みたいなものだ。まだ具体的な言葉ではない。同語反復みたいだが、からっぽというのは、言葉としてからっぽなのだ。具体的な言葉ではないから「からっぽ」なので、何かに充ちていたり、もがいたりする。
それが、どこかを通るようだ。一番わかりやすい言い方は、意識の浅いところ、中間のところ、深いところという3つくらいの層を言ってみることだ。あくまでも便宜的にそう言ってみるだけで、本当のところは何を(どこを)通るのかよくわからない。
新聞記事などを読むと、こういうものは意識の浅いところを通っただけの文章だなと思う。意識のもっとも深いところを通った言葉は、詩の言葉ではないだろうか。それよりもっと浅いところに、各種散文の言葉の出所があるのではないだろうか。
浅いところを通った言葉ほど、言語に攫われている。「人攫い」という言い方があるが、言語による「言葉攫い」が行われるのだ。新聞記事などを読んでいるとそう思う。言語は、シンタックスであり、構造であり、規則であり、言葉にとっての死でもある。
法律の条文などを読んでみれば、そこに言葉を感じることはない。こりゃあ、言語にすっかりやられた後の何かだと思う。用語が普通には目にしないようなものだから難しそうに、偉そうに見せかけているが、言葉としては最下等のものだ。その下等な質を水で薄めると、パターンに犯された新聞記事その他ができる。
この種の文は、「充実したからっぽ」が何かを通ったものだということはない。それが、あらかじめない。最初から、シンタックスや構造が記者に「書かせている」。記者は自分が書いているつもりなのかもしれないが、書かせられているのだ。新聞記事特有のシンタックスや構造やパターンというものがあり、それらが記者に「書かせている」のだ。何の事件について書こうと、もう最初からなにごとかが決まり切っているのだ。
新聞記者たちが、記者クラブという名前だったか、どこやらに集まって、警察の発表をそのまま記事にしてしまうのは、新聞記事の性質に根がある。言葉から遠く、言語に近い新聞記事の書記の性質には、疑う力を奪い、うすら馬鹿を作るものがある。記者をも読者をもうすら馬鹿にしてしまう性質がある。
新聞記者がうすら馬鹿にならないためには、記事を書くかたわらで、たとえ発表しない手記のようなものでも、意識の深みを通る言葉を書き続ける作業を手放すわけにはいかないのだが、不毛な忙しさの中でそれを確保する者の数はまるで少ないだろう。圧倒的にうすら馬鹿の数が多くなるだろう。

やっぱり、書こうとしたものとは別のものを書いている。書き始めた時、新聞記事のことなど書くつもりはまったくなかったのに、新聞記事のことなど書いている。そういうことが起こるのは、私の場合は、考えに枝葉が生えるからだ。生えたら繁茂させてしまうからだ。
やはり、書かされているのか。

学校で作文を書かされたことはあるが、いやいやながら何か書いた。何を書いたかすべて忘れた。書きたくて書いたわけではないから、何を書いてもよそごとというか、他人事というか、他人になって何か書いていたのだと思う。なんとなくこんなふうに書けば、よい子でいられるのだという感じだけはあって、作文を書いている間は、他人としてのよい子をやっていたのだと思う。しかし書いたものは、すべて忘れた。

一つ思い出した。
小学校の何年の時かは忘れたが、炬燵で宿題の作文を少し書いて、全然字数が足りなくて、続けて書くことがなくて、困っていた。親父がどういうわけかのぞき込んで、「俺が書いてやる」と言ったのだった。そんなことは前にも後にもない。親父は私の勉強なんかに興味を持ったことはなく、宿題だの作文だのにも関心はなかったのに、その日だけは違った。いや、その日だって、私の宿題や作文に興味があったのではなく、私が書きかけたものが牛についてのことだったからだ。
その頃、家では牛を飼っていた。乳牛ではなく、農耕用の牛だった。田植えの前に田の土を起こすのに、牛に鍬を引かせたのだ。牛のことはぼんやりと覚えている。全身が黒に近い茶色だったような気がする。
牛の出産の時のことの方が、牛の姿よりよく覚えている。祖母と母がお湯をわかして、大量のぬるま湯を作ったりしていたのは、生まれる牛の子を洗うためだったのかどうか。親牛の尻から(尻だと思っていた)子牛が下半身だけ出ている状態のことも覚えている。獣医も来ていて、大人の男二人で、子牛の体を持ってひっぱり出そうとしていたのも覚えている。ちょっくら出てこなくて、男二人は汗をかいて本気だった。なんとか無事にひっぱり出すと、子牛は小さい牛だった。かわいいと思った。
子牛はすぐ立てたのだったかどうか。しばらくは藁の上にでも寝ていたのだったかどうか。なんだかよろよろしているが、立っている子牛を見た覚えがあるような気がする。よろよろとして、やっと立っていた感じを覚えているような気がする。大人たちが子牛の体を洗ってやっているのを見た覚えがないから、祖母たちが作ったぬるま湯は母牛の膣を拭いてやるためだったのかどうか。私は人間のやる仕事をろくに見ていなかった。生まれてきたものが小さいのに完全な牛であるのを見ていただけだった。かわいいと思った。
子牛が雄だったら、子牛が売られていく。子牛が雌だったら、親牛が売られていく。とにかく、家には雌を残す。また子を産ませるために雌を残す。
作文には、親牛が売られた日のことを書いたのか。親牛が売られてからそんなに日数は経っていなかっただろう。
牛の世話は親父がしていたのだろう。餌をやり、糞の始末をやり、土手草を食わせるために、朝と夕に、家と土手の間を往復する時は、鼻輪につないだ細綱を親父が持って、牛が歩くのに合わせて、一緒に歩いたのだろう。だろう、だろうとやたら書いてしまったが、親父が牛と一緒に歩いているのを見た覚えがないのだ。見た覚えがないのに、親父と牛が一緒に歩く速度はわかるのだ。
子供の頃、私は「トヤンとした子供」だったそうだ。トヤンとした状態は、ぼうっとしている、放心状態になっている、心ここにあらずの状態であるということである。そのせいかどうか、とにかくいろいろのことをどんどん忘れた。とにかく、ほとんどのことが後に残らないのだ。残るわけがない。トヤンとしている子供には、外部というものが入ってこないのだ。入ってこないものを忘れることはできない。だからどんどん忘れたというのは、仮構された記憶であって、実際はただただぼうっとしていたということなのだろう。ぼうっとしている子供には、自分がぼうっとしているという自覚もないので、幼少の自分や小学校時代の自分というものは、ゆらめくかげろうそのものだ。意識に閉じこめられて、ただゆらめいていたのだ。何かよっぽどせつないことでもあったのか。
記憶というものは、果たして一つ二つと数えられるものかどうかわからないが、もし数えられるなら、私は人々の標準と比べて、圧倒的に数が少ないと思う。
今は、歳をとって、脳梗塞をやったり、脳虚血発作をやったり、そんなものをやらなくても、人の名前を忘れたり、階段を降りていく途中で、なにをしに階段を降りているのだかわからなくなったり、もうやたらと忘れたり、ものがわからなくなったりするが、子供の頃から、なにもかもどんどん忘れていくことは着実にやっていたのだ。仮構でもいい。とにかく私はどんどん忘れた。つまり世の中のことを忘れていた。
作文だって、唯一覚えているのは、その内容や文章ではない。私が書きかけていたものをのぞき込んだ親父が、俺が書くと言ったので、びっくりしたから、そのびっくりしたことを覚えているのだ。作文を覚えているのではなく、作文にかかずらった親父を覚えているのだ。

そうじゃなくて、あれは最後の牛が売られた時だったのかもしれない。いつからか、家には牛がいなくなった。あの時がその時だったのではないか。
子牛が生まれた後、親牛が売られたのなら、さびしい気持ちはあっても、子牛の世話をすることで紛れただろう。あれは、子牛が生まれた後に売られたのではなく、牛を飼うのをやめた時のことだったのかもしれない。そういう暮らしの変化なども、私はものごとに関連づけて覚えるということがないのだった。
いずれにせよ、親父はさびしかったのだ。長年牛と暮らして、牛がいなくなって、さびしかったのだ。だから、私の書きかけの作文を読んで、「俺が書いてやる」と言い出したのだ。書きたかったのだ。
今になって思えば、親父は私の作文を書いてよかったのだ。書きたい人が書くのが一番だ。私は書きたくはなく、どちらかと言えばおっくうでいやだったのだから、親父が書くのがなによりである。
それからまた一週間とか二週間がたった。学校の教室で、先生が私の名前を言い、いい作文だとほめてくれた。そうだろうと私は思った。親父は書きたくて書いたのだから、いい作文を書いたに違いない。親父が書いた作文を読んだのか読まなかったのか、それさえ私は覚えていない。牛が車に積まれて行ってしまったのか、他人に鼻輪を引かれて歩いて行ったのか、それさえ私は覚えていない。その両方がイメージとして記憶になっているのであり、どっちかと決める手がかりがない。
親父は何を書いたのか知らないが、字の手癖はどうしたのだろう。トヤンとした子供が書くような幼い字を親父が書けたはずはない。親父が別の紙に書いたのを、私が作文用のノートに書き写したのか。親父が口述するのを私が筆記したのか。しかし、そんな複雑なことをした記憶もない。なんにせよ、私はその作文を読んだ覚えがないのである。よくやったぞ、とうちゃん、とは思ったが、作文自体には興味はなく、何がどう書かれていたのかが全然わからないのである。
親の心というものは、子供にはわからないものである。
だいたい小学校3年か4年の頃だったと思うが、3年生なら3年生が、牛が売られていく日に何を見て、どう思ったかを親父は創作したのだろう。そういう創作をやって、淋しさを紛らわせたのだろう。わけもわからないほど激怒して怒鳴りつけるとき以外は、感情というものは見せないのである。
息子の作文の代筆をやった親父も親父だが、その作文を褒められて、自分が褒められたかのように、へへへなどと言っていた息子も息子である。
それが学校時代を通じて、作文について私が覚えている唯一のことだ。作文はたくさん書かされた覚えはあるが、ものの見事にすっからかんである。

私は19歳の時に、語学をやった。語学ばかりやっていた。半年ばかり、世界史の暗記をやり、それだけで大学に入った。国語というのもあったが、ほとんど何もやらなかった。高校の頃、国語だけはできて、廊下に名前が張り出されたりした。どうしてだろうと考えたら、思ったことを書かないからだなと気づいた。設問者がどう書かせたがっているのかを考えて、こういうふうに書かせたいんだろうと思って書くと点がいいのだった。自分の考えを書くのではない。設問者の考えを書くのだ。ある日、俺はいやなやつじゃねえかと思った。文章そのものを読んでるんじゃなくて、いや、それもやることはやるが、何よりも設問者の腹を読んでるだ。ろくなもんじゃねえ。自分をそう思った。自他共にそうであると思うので、今でも国語の点が取れるようなやつはろくなもんじゃねえと思うのである。

あの頃、語学がなんであんなに面白かったのだろう。
四六時中英語をやっていた。寝て起きて、英語をやって寝るという感じで、一日に15時間くらいやっていたんじゃないだろうか。半年以上かかったが、代々木ゼミナールという予備校の模試で、3万人中3番くらいになった。半年前までは、3流受験校の250人中240番くらいだったのだから、面白がってやると、がらっと変わってしまうもんなんだなと思った。
語学が面白かったのは、イメージが面白かったのだ。
英単語一つでも、日本語を媒介にしてイメージを作り、イメージを独在させて日本語を脱ぎ捨てるようにしていると、こういうものって初めて出会うな、というものがやたらにある。つまりは、イメージというものが作れるということ、作ってみるとそれまで知らなかった珍しいものができるということ、それが面白かったのだ。こういう言語を使う人たちのアタマの中は、こんなふうに動くのかということもうすらぼんやりとだが推測できる。これは、全然違うな。こんなふうな考え方で何か考えたことは全然ないな、こりゃ面白い、全然違うので面白いと、面白がってやっていたら、どんどん点があがったということで、英語をやっている間は大学入試のことは忘れていることが多かった。大学入試で要求されることがないようなこともやった。今から考えるとずいぶんおかしな音も混じっていたのだが、口の動きを鍛え込むようなことをやった。大学入試用に限定しないでやったら、結果的に大学入試用の点が伸びたので、本当にやったことは、面白がるということだけだった。

その後、大学に入って、自分は文章が書けないんだなとわかったのだった。それがわかったのは、語学をやったせいだと思っている。語学をやらなかったら、新聞記者かなんかになって、与太を書き散らしたかもしれない。言語に書かされるコトバをコトバだと欺いて、欺いていることにすら気づかず、欺かれていたかもしれない。お利口なあいつらのように。

言語は死だ。
幼少時にその死を内在させてしまうのが人間だ。
いや、そこから言葉が芽吹くかどうかだ。
人間は姿形のことじゃない。芽吹きのもがき。それが言葉にならないまま、発芽玄米のように食われてしまっても、芽吹きがもがいている時間は、そこに人間がいる。

学校の勉強がよくできたようなやつには、意識の表層だけをさっさと流れる言葉もどきを書くものが多い。

親父は、何を創作したのだったか。
創作したのだったら、ずいぶん手の込んだことをやったことになるが、あの親父にそれができたのか。
親父がとうてい学校の勉強ができたとは思えない。
なにしろ、激怒する時以外は、大人のくせにトヤンとしているのだ。はしこさがまるでないので、お袋は時に地団駄踏むようにくやしがった。

言語は欺く。言語は導く。
やってみなければ、言葉が芽吹くかどうかはわからない。
私は親父のことなど書く気は全然なかった。
いつのまにか書いていた。
牛のことも。

さて、タイトルを考えよう。
考えた通りに素直に書いてみよう。
一度くらいは、先生に言われた通りやってみなければ。

 

 

 

夢は第2の人生である 第3回

佐々木 眞

 

西暦2013年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

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中国の戦地で孤立した私たちは、手榴弾を投げ尽くしてしまった。しかたなく地の果てまで逃亡すると、雪が激しく降って来た。その場にうずくまって雪がやむのを待ったが、しばらくして、私はとうとう梶上等兵になった。

「さっきまでお前が見ていた夢を、全部思い出すんだ。吐き出すんだ」と、どこかで誰かが怒鳴っていたので、私は目が覚めた。

いつか行ったことがある懐かしい場所。その遠い思い出の場所に限りなく近づきながらも、私はいつまでたっても、そこにたどり着くことができないのだった。

おいらは、あいつが憎らしくて殺したんだけど、牢屋に入ったら、国はロシアン・ルーレットで、おいらたちを殺すんだ。たまったもんじゃあないぜ。と死刑囚の私は呟いた。

返品してくれよ、こんな欠陥商品を作りやがって。しかもせっかく修理したのに、また故障しやがって。なにが「日本を代表する世界のトップ・メーカー」だ。社長を出せ、社長を!

いくたびも、またいくたびも快楽の絶頂に達した吉行和子と藤竜也の絶叫で、わたしは朝まで寝られなかった。

私たちは、しばらく東シナ海をさまよっていたが、やがて同乗していた2人の若者は、言葉も上達したので大陸に残り、私は母国に帰還することにした。

私が乗り組んでいる潜水艦の艦長は、ちょっと変わった人物で、いつもなにやらブツブツ繰り返し言っている。注意して耳を傾けると、「大好きだお、真理ちゃん」と呟いているのだった。

訓練の時にも「敵艦見ゆ、大好きだおお、真理ちゃん」、「魚雷発射、大好きだお、お真理ちゃん」と号令をかけるので、部下から馬鹿にされながらも愛されていた。

艦長は、「水兵は体を鍛えておかねばならぬ」という信念のもと、狭い艦内を、陸上競技場にみたて、私たちを全力で疾走させるのだった。

さてその日は、母港の地元民を艦に招待する日だったが、艦長は、いきなり若くてきれいな女性の手をつかんで艦内に連れ込み、みずからあちこち案内して回った。

艦長は、魚雷の格納庫の傍に彼女を引っ張り込んで、「ほらほら、これが水雷だ。こいつで敵さんのどてツぱらに、風穴を開けるのだ」と言いながら、いきなりチュウしてしまった。

もうこれで何年になるのだろう。私は教団の責任者として、毎日新幹線で東京と大阪を往復しているのだが、精も根も尽き果てた。「教祖」などとあがめられ、奉られても、その実態は一個のでくのぼうに過ぎなかったのである。

学校の卒業旅行は、英国風のグランクルーズだったが、中東だかアフリカあたりで、私は集団から脱落してしまった。ここはいったいどこなんだ。チュニジア? それともアルジェリア? 見たこともない風景が広がり、やたら暑い。

暑い砂の上に横たわっていると、奇妙な形をしたこれまでに見たこともない大中小のリスがやってきて、食べ残しのパンをむさぼり食っている。と、その時、黄色くて巨大な、そして異様に美しい網目ニシキヘビが、リスたちの背後でとぐろを巻いた。

私はある地方都市で、市の広報誌の編集をまかされていたが、その仕事を、ロスの私立探偵フィリップ・マーロウの捜査と意識的に勘違いし、紫のキャデラックに乗っていたので、さまざまなトラブルを引き起こすことになった。

私が下宿していたのは、ちょっと色っぽい元美人の姥桜だったが、これが、事あるごとに私に首を突っ込んでくるのだった。

ローマの皇帝が、その教戒師である私にこう語った。「6人の男女をとらまえて牢屋に入れて、「男は全員明日ライオンと闘え」と命じると、その前夜までには、3つのカップルが誕生している」、と。

私が王国から略奪した3つの玉手箱は、セピア色に塗り替えられた。私はジェットコースターの先頭に第一の玉手箱を置いてこれに跨り、「さあ発車するのだ!」と号令をかけたが、玉手箱には車輪がないことと、私の2人の美貌の部下が、第2、第3の玉手箱に無事に跨っているかどうかを、始終気に掛けていた。

しかし幸いなことに、その不安は杞憂であった。私は安心してジェットコースターの突進に身を任せていたが、それがあまりにも天空高く登りすぎたためか、突如玉手箱もろとも地上めがけて真っ逆さまに転落した。

そして猛烈なスピードで地表に激突するまさにその瞬間に、私はもはや玉手箱の中身になんの関心もなく、2人の美少女にも全く欲望を覚えていないことがわかった。

私は神保町の金ペン堂主人の薫陶を受け、長年の研鑽の末に、ずば抜けた性能を誇る万年筆を1本2千円で製造することに成功した。それから私は、腐女子2名の支援よろしくこれを1本2万円でネット販売したので、ほんのいっときだけは大儲けしたのだった。

私は、喉の奥に生えているジャックの豆の木にぶらさがりながら、どこまでも、どこまでも降りていった。

「26歳の美人秘書付きのオフィスを、無料で貸してあげるけど、使いませんか?」とある親切な方が申し出てくださったので、私は大川のほうに向かった。オフィスの近くに、見慣れない2人の男が待ち受けていて、私を無理矢理銀座に連れて行こうとする。

仕方なくいいなりになって見知らぬバアに入り、飲めないジャックダニエルを一口だけ舐めていたが、トイレに行く振りをして、7うまく脱出することに成功した。

銀座の地下は、ものすごく深いところに地下鉄を含めた何層もの広大な地下通路が走っていて、それが大川の向こうまで走っていることを、私は初めて知った。恐らく東京の地下には、地上を上回る交通網がすでに敷かれているのだろう。

やっとこさっとこ前のオフィスに入っていくと、26歳の美人秘書の代わりに、62歳くらいのおばさんが一人ぽつねんと座っていた。

私の嫁入り先は、古い封建的な約束事が根強く息づいている地方だった。はじめは大人しくしていた私だったが、歳月の経過とともにだんだん本領を発揮して、ある日、思い切って謎めいた埃だらけの部屋を開けた。

まるで江戸時代のような畳の奥座敷には、虫に食われた帳簿が何冊も並べられていて、数人の男が会計の実務に従事していた。彼らは私を見ると驚いたが、帳簿を見た私が、たちまちこの家の危機的な収支状況を把握したのを知ると、さらに驚きを新たにしたようだった。

第2の部屋、第3の部屋と次々に私が秘密の部屋を開けはなっていくと、誰かの注進でそれを聴きつけた夫が、まるで青髭公よろしく目をギョロリと大きく見開いた。

 

 

 

ミエスチラフ・ホルショフスキのベートーヴェン

 

加藤 閑

 

ホルショフスキ1

ホルショフスキ2

 

「カザルスホール・ライブ」で夙に有名なミエスチラフ・ホルショフスキには、その前の年1986年7月にプラド音楽祭で行なったライブ録音がある。このときホルショフスキは94歳だった。カザルスの伴奏者だった彼は、その後長きにわたって忘れられた存在だったが、1983年のオールドバラ音楽祭に出演したことによって、再評価の気運が高まった。カザルスホールのオープンに招聘され、かつて演奏をともにしたカザルスの名を冠したホールとあって、95歳の高齢にもかかわらず来日した。このとき(12月9日、11日の2日間)の演奏は音楽史に残る名演として語り継がれている。
ホルショフスキは1993年まで生きるが、1991年10月の演奏会が最後の舞台となった。オールドバラ音楽祭の1983年から8年の間に行なわれた演奏会の多くはライブ録音として発売されているし、ノンサッチレーベルに数枚のスタジオ録音を残している。ノンサッチがクラシックを出すのは珍しいが、そのCDはいずれも名演である。

プラド音楽祭のライブは、フランスのリランクス(LYRINX)というレーベルから出ている。収録曲は次の通り。

モーツァルト ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
ドビュッシー 子供の領分
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第15番ニ長調「田園」Op28
ショパン 即興曲Op.38(ママ)

ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタのうちでわたしが現在もっとも気に入っている曲は、ここに収められている第15番のソナタだ。「田園」という表題がついているが、もちろん作曲家本人がつけたのではないし、交響曲第6番とも関係はない。この曲、ほかのベートーヴェンの曲にありがちな盛り上がりに大いに欠けている。聴き手の気持ちに関係なくぐいぐい引き付けるような強靭なところがない。それがとてもよい。「悲愴」や「熱情」だけがベートーヴェンではないのだ。
15番は、アラウの1980年代、晩年の録音がすばらしい。彼は20年ほど前の1960年代にもベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音しているが、そちらの15番とはまったく違う。肩の力が抜けていて、同型のリズムが一定の速度で流れていくようなこの曲にまことに合っている。このアラウの演奏を聴くと、バックハウスもグルダもちょっと考え違いをしているじゃないかと言いたくなってしまう。
しかし、このホルショフスキのプラド音楽祭の録音は別だ。80歳代半ばのアラウよりも10歳ほど上の年齢での演奏なのに、驚くほどみずみずしい。ホルショフスキの魔法のような音楽かもしれない。演奏時間は他の奏者に比べて決して遅くない。高齢になるとふつうは演奏時間は長くなるものだが、これはむしろ短い方だろう。それなのにちっとも速いとは感じない。音楽のことをよくわかった演奏家がゆったりと調べを奏でているという趣がある。聴いてみると随所でルバートをかけているのがわかるが、それがまったく嫌味ではなく、この音楽の最上の解釈はこうだと示されているような気持ちになる。

歳をとるというのはほんとうに難しいものだ。自分が年齢を重ねるに連れて、なおさらそれが実感としてわかるようになってくる。音楽家は歳をとるに連れて味わい深い滋味のある演奏をする人も少なくはないが、ホルショフスキはその中でも音楽演奏家として最良の歳のとり方をしたのではあるまいか。成熟というようなありきたりの言葉では説明できない、もっと複雑である意味神秘的な到達を見せた稀有の例と言える。
同じ盤に収められたモーツァルトもドビュッシーも名演。最後のショパンの即興曲は、第2番なので作品番号は36のはずだが、CDには38と表記されている。フランスやイタリアのCDにはときどきこういうことがある。

 

 

 

 

NEO CEDAR に支えられて

 

根石吉久

 

 

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また助かった。

脳虚血発作で、救急車で病院に運ばれたが、100時間くらい点滴を打ちっぱなしにしている間に、梗塞は起こらなかった。多分100時間の点滴は、血を洗濯したのだと思う。虚血発作は、脳の血管にどろどろした血が詰まりかけたのではないか。なんとか詰まらないで流れたのではないかと医者は言った。
入院の後半の点滴は、血が固まりにくくなる薬とコレステロール値を調整する薬に変わったらしく、午前中に二袋、夜9時過ぎから午前0時頃までの二袋になった。

奥村さんに書かなくてはならない礼状を書いてない。山根さんに書かなくてはならない礼状を書いてない。中島さんの原稿をネットに掲載してない。英語のレッスンの「二人一枠維持基金」の8月の入出金をやってない。浜風文庫の原稿を書いてない。やらなければいけないことが山のようになっている。目をつむるように、鉄砲玉のように畑に行く。
草を干物にして土に入れたところが、土がほっこりと軟らかくなっている。手のひらで動かすだけで軽く土が動き、糸状菌が埋めておいた太い草の茎にびっしりと白く食いついている。軟らかい。煙草をストップされた体が、かろうじてなぐさめられる。

煙草をやめようとしている。英語のレッスンがなければ煙草はやめられると人に言ったことがある。いらつくのだ。英語でなく他の言語だったらこんなにもいらつくことはないのじゃないかと思う。英語が産業の召使い用に使われることが多い言語だからか。強者の言語だからか。世界一の巨額な金をどぶに流す言語だからか。いらついて、英語の流行の中で「語学だ」とわめいたのだった。英語をやるっていうのは、語学をやることだとわめいたのだが、当たり前じゃないかと言われただけだった。当たり前じゃないかと言う人が、実際に英語を始めると、「聴き流すだけで使えるようになる」などという濁流に簡単に呑まれてしまうのを見たりするのだった。

磁場を欠くこと 投稿者:根石吉久 投稿日:2014年 8月30日(土)19時16分53秒

語学の本来の形は、磁場の磁力を欠いて、個の意識という点のような場で行われることがその一切であること。

このことによって、語学が扱う言語は「死物としての言語」である。
語学の当初からその規定は決してまぬがれることはない。

語学は、死物を蘇らせる行いなのである。
当初から、死物を扱う行いなのである。

生きた英語!

そんなものは語学の場にありはしない。
まるでそんなものがあるかのように思わせられて、幻を追う者たちばかりが大勢いる。

語学の真骨頂は、「蘇らせる」ということにある。

生きた英語!
磁場を欠いて、そんなものがどこにあるというのか。
語学が扱う素材は、印刷物であり複製音声にすぎない。

「蘇らせる」ことの後に、「生きた英語」が生まれるなら生まれるのである。
個において「蘇らせる」プロセスを欠いて、「生きた英語」が印刷物や複製音声で手に入れられると考えるとは!
英語漬けは英語馬鹿を生むだけじゃないか。

「生きた英語」というまやかし。
ここから一切の英語回りの迷信が発生する。

語学 投稿者:根石吉久 投稿日:2014年 8月30日(土)19時25分39秒

語学が扱う言語は、あらかじめびっしりと死んでいる。
それを蘇らせる力は、個におけるイメージの励起だけだ。
理解は媒介されるものにすぎない。
語にせよ、語句にせよ、語法にせよ、文法にせよ、あらゆるものをイメージとしてしまう架空の暴力的な行為。それが語学だ。

異言語の磁場は、そこをくぐった者を待っているのである。

以上は、語学論の掲示板『大風呂敷』から。
昨夜、レッスン前に殴るように書き付けた。それをここへ転写する(一部、書き換えと削除)。迷信を殴っても手応えはない。

NEO CEDAR を一本もらって火をつける。柿崎君は芋の葉っぱだと言うが、製品名にある CEDAR は杉などの針葉樹のことだ。パッケージにはどんな植物の葉っぱなのかは書いてない。「吸煙し、せきを鎮め痰を出やすくする薬です」という注意書きは書いてある。「成分および分量(一本分)」というところに、塩化アンモニウム、安息香酸、ハッカ油、カンゾウエキス、添加物として香料、その他2成分などと書いてあり、数字が書いてあるだけだ。

煙草のニセモノとしてこれを吸うのだが、けっこう気が紛れる。

深夜のコンビニで柿崎君に会って、NEO CEDAR を教えてもらった。コンビニの店先で、柿崎君はニコチンがよくないのだと力説した。タールは embalming といって、ミイラを保存したりするのに使われるくらいで、腐敗菌を寄せ付けないから体にいいのだと言う。柿崎君は NEO CEDAR を長いこと吸っていると言う。
死体を保存するのと生きている体では違うだろうと反論したりしない。うんうんと言って、柿崎君の力説を聞いていた。もしかすればそうかもというくらいにココロノカタスミで思う。柿崎君は、NEO CEDAR のことは本当は教えたくないようだった。アメリカンドラッグと他にもう一つの薬局にしか置いてなくてあまり入荷しない。入荷したものもすぐに売れてしまって買えないことが多いそうだ。

体にいいかどうかより、とにかく気が紛れる。喫「ニコチン」ではないが、喫「煙」であることには変わりはない。火をつけ口にくわえて吸う一連の動作は煙草を吸うのとまったく同じだ。だから気が紛れるのだろう。煙草のニセモノだが、喫「煙」としてはホンモノである。それに安い。吸っていた煙草は410円だが、NEO CEDAR は280円。一本吸っている時間も、すかすかの煙草の倍はある。葉っぱの密度があるせいだろう。

昨日は NEO CEDAR だけで昼間明るい間は紛れた。
夜、英語のレッスンに入る前に煙草を1本吸い、レッスン中にもう一本吸った。煙草の本数は激減している。入院前は一日に20本入りのパッケージ一つは吸っていたが、退院後10日経ってもパッケージにまだ二本くらい残っている。一日1パッケージが十日に1パッケージくらいになった。
これでやっていけるものかどうか。とにかく英語のレッスンの5時間あるいは6時間ぶっとおしの間に煙草の一本は要る。レッスンが済めば、NEO CEDAR で気は紛れる。

げろを吐くように、語学論と称するものを10年ほど書いた。レッスンを夜中の0時頃に終えて、ネット上の掲示板に向かい朝まで何か書くようなことを10年ほど続けた。ビールを飲みながら朝まで書いていたから、言葉もアルコールに漬かっているものが多い。
脳梗塞も脳虚血発作も、そんな生活に根があるのかもしれない。今は発作的にたまに書くだけになった。

げろがげろのままに放置されている。整理することも、まとめることもできないだろう。せめて、少しは見通しがよくならないかと思っているが時間がない。
小川さんが、「らくださんと根石さんの掲示板上のやりとりがわかりやすいので、そこを抜き出して独立した記事にしてみる」と言ってくれた。そういう作業をしてくれる人にお願いするしかない。

鉄砲玉のように、畑に行きたいのだ。
畑にしゃがんで、草だらけの草を刈り、出てきた土を手で掘り、その軟らかさに触っていたい。何が穫れなくても、かろうじてなぐさめられる。ただその辺に生えている草を使うだけで、土が人間用になっていく。それが確認できれば、なぐさめられる。

また最初からやり直しだが、それはそれでいい。
ここ数年で一番ひどい草だ。草ぼうぼうとはこのことだ。
しかし、これをどうすればいいかはわかっている。
ぎっくり腰と脳虚血の発作で、草とのいたちごっこに負けただけだ。どうすればいいかはわかっている。
草ぼうぼうの畑を見て、宮崎さんは「もうこうなれば駄目だな」と言った。宮崎さんも百姓育ちだ。「そんなことはない」と私は言った。俺は言った。草は刈ればいい。刈って干せばいい。干物になったら土に埋めればいい。この草ぼうぼうの中のどことどこにほっこりしている土があるか、俺はわかっている。
やり方はわかっている。

ぎっくり腰と脳虚血。
ただそれだけのことだ。

春にやったことの失敗は、生ごみ処理用に売っているポリエチレンの黒い袋を、土の上に広げて端を土に埋めたことだった。農家のマルチングと同じことをしたのが失敗だった。草の根がポリエチレンを突き抜けて、土とシートを縫ったようにしてしまうことを知らなかった。
シートは簡単にめくれるようにしておかなければならない。簡単にめくれて、簡単に草の干物を土に入れられるようにしておかなければならない。
草の干物を土に入れたら、その上にただシートを広げるだけでいい。シートの端は土に埋めなくていい。端を埋めないと風が吹けば、シートは舞い上がってしまう。だから、シートの上に刈った青草を散らして置く。青草は乾いてシートに貼り付いたようになる。それだけで強風が来ても舞い上がるようなことはなくなる。やり方はわかっている。手が足りないだけだ。

そんな馬鹿なことをやらないで、機械を使って耕せばいいとおやじは言った。
草を細断せず全草のまま土に入れるので、機械を使っても、草が機械の刃にからまり、機械は止まってしまう。機械は使えない。
もみがらなら機械を使っても大丈夫だが、朝暗いうちからあちこちの精米所からもみがらを集めなければならない。すでにやっている人がいるから競争になる。その競争はやりたくないし、夜中過ぎたころ寝る習慣だから無理だ。
だったら化学肥料か。

農薬漬け、化学肥料漬けの野菜を作るくらいなら、買って食ったほうがましだと俺は言った。
おやじは黙ってしまった。
俺も黙ってしまった。
立って話して、そんなふうになったとき、黙って煙草を一本渡したことがあった。土に座って、黙って二人で煙を吹かすのだ。山を見たりして。黙って。

煙草のニセモノの NEO CEDAR を吸うことに文句はない。
野菜のニセモノがいやなんだ。
一般に出回っているスーパーの野菜はニセモノだらけだ。見映えだけはいいのだが、野菜の味がしないものが出回っている。

久保田大工は、はだしで畑をやっていた。昔、大工仕事の足場から落ちたそうだ。歩くときは体をこごめて歩くが、畑の中では、四つんばいに這って草を取っていた。靴を履かないのは土を這うのに邪魔なのだろう。隣の畑なので、ときどき二人で土に腰を降ろして話をした。
タマネギが余るから持っていかないかと久保田大工が言った。もらいますと俺が言った。
もらったタマネギはまるまると太っていたが、半分使って、余った半分を台所にそのままにしておいたら、切ったところが真っ黒になった。3日ほどでそうなった。気持ちが悪いので捨てた。間違いなく農薬のせいだと思った。
自分で作ったタマネギは、まだ土がよくできていなかったので小ぶりだが、切ったところが黒く変色するようなことはなかった。一週間も経つと乾いて少し色が変わる。だけど、白いままだ。
久保田大工は、好意で俺にタマネギをくれたのだ。
好意でくれたタマネギを捨てなければならないのがつらかった。
つらいが、気持ちが悪い。まっくろになる。売っているタマネギでも、あれほど急激に変色するものはない。
まさかタマネギのせいではあるまいが、久保田大工は俺にタマネギをくれた年に死んでしまった。

脳梗塞の薬を飲むのと、まっくろに変色するタマネギを食うのとどちらが体に悪いか。わからない。たばこを吸うのと、英語のレッスンをしていらつくのとどっちが体に悪いか。これもわからない。ほんとうにわからない。

やたら救急車を呼ぶわけにはいかない。
ひとまずは NEO CEDAR だろう。

変色しない百姓仕事見習い募集中。

 

 

 

夢は第2の人生である 第2回

 

佐々木 眞

 

西暦2013年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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オフィスではいつも課長と私と部下の3人が同じところに並んでいたのに、ふと気がつくと上司がいない。あたりをきょろきょろ探すと、遥か彼方にたった一人で座っていた。

 

球場では難民救済のためのイベントが行われていた。遠くから小さな箱に向かって阪神のバース選手と札幌芸大の吉田君がボールを投げる。狭いスポットにうまく入れば大成功というわけだが、わたしにはその勇気がなかった。

 

荒波が打ち寄せる真っ暗な洞窟に降りて行くと、そこでは大勢の若い男女がお面をかぶって乱れ騒いでいた。誰かが私を手招いている。

 

私はロシアのスホイ戦闘機を4機抑留した。なぜか、どのようにしてかは、自分でも全然分からないのだが……。その結果わが国に亡命することに決めたパイロットたちを、私は大阪の寄席に連れて行った。

 

空からぐんと突き出している険しい階段を上っていくと「森本主義者」と書いた哲学者の家があった。どうやら2人の年老いたインテリゲンちゃんが住んでいるらしい。

 

そのうちの白い髭をはやしたおじいさんが、「これが入場券だよ。好きなのを取りな」と言って差し出した白い布の上には、赤、青、翠、黄色などで彩られた美しい鼈甲のような飾りが乗せられていた。

 

ようやく戦争が終わったので、私は氷結したランチを解凍してもらったのだが、その中から見知らぬ男の死体が出てきたので、ギャッと驚いた。

 

懐かしい山紫水明の故郷のはずなのに、それはどこかが根本的に変わってしまったようだった。しかし相変わらず渓流には清らかな水が走り、森や原っぱにはさまざまな花が咲いていた。

 

草原の1本道をずんずん進んで行くと、巨大な白いハスの花にとまった白いゴマダラチョウが、大きな翅をゆらゆらさせていた。

 

私は会社員で、ある製品の企画会議に出席していた。黒板には誰が書いたのか「アメリカン・ファンタジー」という英語が大書してある。あまりにも下らない会議なので「忘れ物を取って来ます」と言っていったん帰宅してから出直すと、もう電車がなかった。

 

さてどうしようか、家に帰ろうか、それとも歩いてでも会社に行こうかと駅前で考えこんでいると、暗闇の中でギラリと光る眼があった。ハアハアと喘ぎながら涎を垂らしている狼犬の口は毒々しい赤だった。

 

私の仕事に脇からイチャモンをつける上司。これは間違いなくパワハラだ。そこで私が「これはおいらの仕事だ。お前さんは大人しく引っ込んでろ!」と怒鳴ったら、その声で目が覚めてしまった。

 

若く美しい女をベッドの上に押し倒すと、にわかに欲情が湧きおこって来たので、おもむろに伝家の宝刀を抜こうとしたが、見つからない。必死で探していると、なんとダリの「記憶の固執」の柔らかい時計の隣にぶら下がっていた。

 

オペラハウスのバルコニーの隣の席に、工藤さんが椿姫のヴィオレッタのような衣装でちらと顔をのぞかせた。「あら貴方、お元気だったの?」と工藤さんが尋ねたので、私は懐かしくなって「君こそ元気なの?」と尋ねたら、彼女は「生きてしあればと」いうアリアを小さな声で歌うのだった。

 

自分でもそれと知らないうちに、私は探偵オペラに出ていたらしい。第1幕と第2幕では女性が主人公であったが、突如「三一致の法則」やそれまでの正常な展開が否定され、ちょうどベートーヴェンの「第九」の歌いだしのような形で、私が進み出るのだった。

 

「こういう短歌を詠むといいわよ」という人がいて、ああそうかなあと思いつつ一晩中考えていたが、けっきょく完成しなかった。その中身は私が丹精込めて世話したカエルの産卵の話なのだが、さてどうしたものかなあ。

 

貧乏な私は、当時ある上司と部屋をシェアしていた。その部屋の壁面は床から天井まですべて無数のノートブックで埋め尽くされており、他の壁面も数多の文庫本によってことごとく埋め尽くされていた。

 

外出から帰った私が、このアパートのトイレに駆け込んで用を足そうとしていたら、もう一人の別の今中という名の上司が、無理矢理オマルに跨って用を足そうとする。文句を言おうとしたが、彼も下痢のようだ。結局私たちは1つの便器をお尻合わせで使用した。

 

私は北海道の新聞社に入社した。先輩が歓迎会をしてくれるというので、一緒に会場に向かおうとしていたのだが、駅で電車を待っている間に見失ってしまった。仕方なく帰宅しようとしたら、北嶋氏から携帯に電話が入り、駅の反対側の居酒屋で待っているという。

 

あたしはフランソワ。きょう学校で校長先生から3万フランもらった。学校の評価基準が変わり、出席・成積・体育のほかに徳育という項目がつけ加わり、あたしのママが死んだ友人のお墓に毎月お花を捧げてお祈りしていることが分かったからだって。

 

あたしはフランソワ。毎日登校すると、入り口で体を横向きにして懸垂しながら腕の力だけでよじ登り、門番が居る部屋に入ろうとするのだけど、いつも失敗する。すると門番が飛んできて、あたしの体を下から抱きかかえて入れてくれるの。

 

あたしはフランソワ。きのう友達の男の子5人がパルチザンに志願して銃を持って学校から出て行った。今朝登校してから窓を開けたら、真っ白いアルプスの山のいろんな所に5つの黒い点が動いていたわ。

 

突然「すぐに来てほしい」という電話が泣き声混じりでかかってきて、しかたなくその部屋を訪れると、私の全身が白い芙蓉のような顔の下にある2つの深紅の小さな穴の中にどんどん引きずり込まれていき、またしても取り返しがつかない事態が引き起こされるのだった。

 

「ほんとうに私がいちばん好きなの」と女が訊ねる。「私よりもあの女が好きなんでしょう、もうあの女と寝たんでしょう」と、なおも追及してくる。ああいやだいやだ、これだからいやなんだと、私は夢が早く覚めてくれることを願った。

 

こんな半島の南端にもスタジオがあるのだった。そこではサーファーの若者を主役にしたコマーシャルが撮影中だった。今ふうのきざなディレクターが「よおし、君ここでOK!ボッケイ!と叫んでくれ」と注文するのを、私はうんざりしながら傍観していた。

 

私が懸命に秘匿していた資料や物件がどんどん明るみに出て、周囲の疑惑が一身に集まって来たので、私は潔くすべてを告白して罪をつぐなうことに決めた。

 

うざったい女どもが、私の邪魔をする。堪忍袋の緒が切れた私は、まず右手の拳銃で右側の女たちを殺しはじめたが、今度は左側の女たちが逃げ出し始めたので、左手で別の拳銃を取り出してバンンバン撃ち始めた。これでいいのら。

 

私はその日に生涯最後の時を迎えた北の王グスタフだった。忠臣どもに遺訓を残らず伝え寝台に美姫を招き、膝に乗せて事に及ぼうとした途端、私はプロレスのセコンドとなって、デブでダメなポンコツレスラーのアドバイスに声をからしていた。「いいか、ゴングが鳴ったらいきなりキンタマキック3連発だ。そうすりゃやあいつも参るだろう。おいお前、聴いているのか!」

 

「ああそうなの、じゃああなたの名前で私がサインすれば、いくらでも交際費が使えるってわけね」と見覚えの無い女がほざいた。

「るせえ、もうもう」と喚きながら私が拳銃をぶっぱなすと、朱に染まって父が斃れた。返す刀で弟にもぶっ放すと、倒れながら彼の父親譲りの牛のように大きな紅い瞳がかすかに頬笑んだように見えた。

 

真夜中に「きゃああ!」という絶叫が聞こえた。女か子供か、はた魔女か?

 

私の教団には「一の山」と「二の山」があって、私は一日おきにそれらを訪問し、宿泊していた。夜になるとその山の宿舎には謎の女が忍び込んでくるのだった。

 

昼と夜の間の境目にはまりこんだ私は、いまが夜なのか昼なのかを考えようとしたが、その考え自体が昼間のものだか夜のものなのか分からなくなってしまった。

 

ピアノの上に女を乗せて膝を割ると、女とピアノが大小高下さまざまな音を鳴らしはじめたので、これはまるでジョン・ケージの音楽のようだと私は思った。

 

清らかな水が流れ、桃の花があちこちで咲いているその里では、上の句や歌に下の句や歌を付けるとただで食事が出できたり、出来栄えによっては無料で旅館に泊めてくれるのだった。

 

会社に「女帝」が乗り込んできたために、今までのように自由にタクシーを使えなくなった。しかし私は最寄りの駅までは10分も歩かねばならない。地下鉄に乗ろうと急いでいると部下の女性が誰かと脇道で接吻していたので驚いたが、放置して通り過ぎた。

 

私は地方の王に仕える書記官として、その一族の事績を細大漏らさずパソコンに登録し記録に残しておかねばならなかった。しかし日々次々に起こる行事や事件をどのような書式で記録するべきかについて頭を痛め、いまだにその形式を見いだせずにいた。

 

通勤中のリーマンたちを背後から急襲したのは、国家警察だった。彼らは必死に逃げる私たちを大通りの向こうの広い公園に追い込んだ。公園は頑丈なロープで区画され、私たちは現行天皇制や憲法などへの賛否別に分かたれたブースへ閉じ込められた。