豊島ゆきこ歌集「りんご療法」について

 

 

写真-275

 

 

大風が近づいているのでこの休日の海は少し荒れていた。
休日には静岡に帰って海を見ている。

以前は小舟を浮かべて一人釣り糸を垂れていたが、
東北の震災以来、舟は出していない。

海というのは荒々しいときがある。
ヒトの手に負えないときがある。

小舟で浮かんでいると小舟が木の葉のように思える時がある。
春の海などは突然に荒れるので怖い目に会う。

大風のときに小舟で海に出るなどは、馬鹿者だろう。
自然は恐ろしい。

大風の近づいている休日の夕方に、
窓から西の山に日が暮れて空気が青くなるのを見ていた。
ラ・モンテ・ヤングのインド音楽のようなピアノを聴いていたのだった。

そして、豊島ゆきこさんという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめていた。だいたい女性は苦手だ。女性はわたしにはわからない生き物なのだ。その女性の書いた短歌というものを読みはじめてみたのだった。

 

夏に逝きし胎の児あればいきいきと電車で遊ぶこの子を眺む
「おさかなの死」を尋く吾子に世をめぐるいのちを話すさんまほぐしつつ
夢のなか魚となれるか熟睡の子の手の先がひらひらするは

 

やわらかい触手のようなことばたちであるなあと、
思ったところで犬のお風呂を仰せつかり、犬とお風呂に入って、それからビールを飲み、焼酎を飲み、ソファーで犬と寝てしまった。深夜に目覚めて、部屋にもどり、もう一度、この豊島ゆきこという女性の「りんご療法」という歌集を読みはじめたのだ。大風の雨がはげしく降っている。

 

ものかげに水引の花咲くような秋の一日も店を守れり
画家になる夢の代はりに亡き祖父が育てし店よその店を継ぐ
疲れ果て着のまま眠るわが顔よりそつと眼鏡をはづす指あり
つやつやのりんごたくさんスライスし煮詰むればたのし りんご療法

 

どうもこの女性はわたしの理解がとどかない女性とは異なるかもしれないと思いはじめたのだった。普遍性が底にある、といったら良いのだろうか、利他的な基準があり信頼に足る、といったらいいのだろうか。うまく言えないのだが・・・・。

 

亡き祖父にその手を曳かれ夏に逝きし児もこの年の祭見に来よ
生涯を捧げし店の玻璃越しに山車をみていき死のまへの祖父
火に焼かれ槍に突かるる迫害を畏れぬ<神>を人ら持ちしか
つみぶかきもの女にてたはむれに十字架を飾る、心臓をかざる

 

どうも、死のほうからこの世をみている構えがあるのである。
死が底にあるのだろう。大切なものを失ってみてはじめてこの世が見えてくるのだろう。かなしみは簡単には埋まらない。
ますます、雨が強くなってきた。明日は新幹線が動かないかもしれない。

 

玻璃一枚隔てて人の営みのすこし向こうに水仙の伸ぶ
自らの手になる般若心経の書のある居間に眠るごと逝きし
秋の日のはかなきものは夏目雅子写真集なるたわわの乳房
ヨルダンかガンジスか仄暗きその河周作がいま渡りゆく
野分けのあとの陽差しまろまろ頬に受け花をかかげて死者に逢いにゆく
枇杷の花あえかに咲ける帰り道みづみづとわが細胞は呼吸す
丸ごとのキャベツざくつと切るときにしぶき立つ霧明快に生きむ
生老病死もなき世界青み帯ぶる画像のなかをマリオが跳ねる
その姿みにくけれども眼のやさし子育て恐竜マイアサウラは
かなしみは億年のちも変わらざり牙剥きて肉食竜が草食竜おそふ
はじめて「花」に逢いたる恐竜の恍惚いかに白亜紀の末
いつもいつも小首傾げてわれを見る十姉妹よとほき記憶伝えよ
葉を刻み相撲放送聞きをればとほき夕べの祖父母の気配

 

どうもこの女性はに大きなものに行きあたっているように思える。
大きなものとはかつてブッタが行きあたったものと近しいだろう。
この世界の無常ということか。この世界はまるごと流れているのだろう。
おんなも、性も、血縁も、まるごと流れていて、あてにできないのだろう。

 

グラビアの中のキッチン輝けど世にあらぬもの良妻も賢母も
斎場のさくら二本ひんやりと咲き満ちてをり見るひとなしに
八重ざくら青葉のなかに咲きいでてゴッホ的なる塊をかかぐ
ぢりぢりと灼けつく夏の道ひとつ地図なきままに歩みはじめぬ

 

大変に厳しい場所にこの豊島ゆきこさんという女性は佇っていると思えます。
大変に厳しいからこそ女性でありつつ女性をを越えて大いなるものの傍に佇っているのだろうと思います。

雨がすこし優しくなりました。
朝、新幹線が動いていたらわたしは勤めに出かけていきます。

 

 

 

トヤン父子

 

根石吉久

 

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結局何をやってきたのだろうとときどき思う。

若いとき、詩を書いたことがあったが、あれは詩だったんだろうか。もしかしたら、日本語を使った語学みたいなもんじゃなかったんだろうか。日本語で何か書いてみる練習みたいなことをしたんじゃないだろうか。

大学に入った頃に、自分が文章を書けないことに気が付いたのだった。書いてみると、書きたいことと言葉になっていくものとが、ずれる。いまだ言葉にならないもの、言葉にならずにもがくものと、実際に言葉になっていくものとが、ずれる。ずれるというより、もっと差がでかい。時によっては、うらはらじゃないかと思うくらいに違うものが出てくる。
一致することがあるのかと思った。学校じゃ、思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとか言っていたような気がするが。
考えたとして、考えたものはもう言葉になっているのか。言葉以前のものか。その両者が混ざり合ったものか。どうも混ざり合っている。ときどき言葉の断片みたいなものが動くが、シンタックスは待機状態であり、言葉の断片以外に動くものは、「充実したからっぽ」みたいなものだけだ。まだ言葉にならないが、言葉になる直前のもの、もがくもの。
言葉になろうとするものは動きはするようだ。この状態で思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとかはありえない。
「充実したからっぽ」をどう言葉に変換させるのかがあるだけだ。変換させるとき、「充実したからっぽ」がどこかを通る。どこを通るのか。
「充実したからっぽ」は、言葉というより言葉の芽みたいなものだ。まだ具体的な言葉ではない。同語反復みたいだが、からっぽというのは、言葉としてからっぽなのだ。具体的な言葉ではないから「からっぽ」なので、何かに充ちていたり、もがいたりする。
それが、どこかを通るようだ。一番わかりやすい言い方は、意識の浅いところ、中間のところ、深いところという3つくらいの層を言ってみることだ。あくまでも便宜的にそう言ってみるだけで、本当のところは何を(どこを)通るのかよくわからない。
新聞記事などを読むと、こういうものは意識の浅いところを通っただけの文章だなと思う。意識のもっとも深いところを通った言葉は、詩の言葉ではないだろうか。それよりもっと浅いところに、各種散文の言葉の出所があるのではないだろうか。
浅いところを通った言葉ほど、言語に攫われている。「人攫い」という言い方があるが、言語による「言葉攫い」が行われるのだ。新聞記事などを読んでいるとそう思う。言語は、シンタックスであり、構造であり、規則であり、言葉にとっての死でもある。
法律の条文などを読んでみれば、そこに言葉を感じることはない。こりゃあ、言語にすっかりやられた後の何かだと思う。用語が普通には目にしないようなものだから難しそうに、偉そうに見せかけているが、言葉としては最下等のものだ。その下等な質を水で薄めると、パターンに犯された新聞記事その他ができる。
この種の文は、「充実したからっぽ」が何かを通ったものだということはない。それが、あらかじめない。最初から、シンタックスや構造が記者に「書かせている」。記者は自分が書いているつもりなのかもしれないが、書かせられているのだ。新聞記事特有のシンタックスや構造やパターンというものがあり、それらが記者に「書かせている」のだ。何の事件について書こうと、もう最初からなにごとかが決まり切っているのだ。
新聞記者たちが、記者クラブという名前だったか、どこやらに集まって、警察の発表をそのまま記事にしてしまうのは、新聞記事の性質に根がある。言葉から遠く、言語に近い新聞記事の書記の性質には、疑う力を奪い、うすら馬鹿を作るものがある。記者をも読者をもうすら馬鹿にしてしまう性質がある。
新聞記者がうすら馬鹿にならないためには、記事を書くかたわらで、たとえ発表しない手記のようなものでも、意識の深みを通る言葉を書き続ける作業を手放すわけにはいかないのだが、不毛な忙しさの中でそれを確保する者の数はまるで少ないだろう。圧倒的にうすら馬鹿の数が多くなるだろう。

やっぱり、書こうとしたものとは別のものを書いている。書き始めた時、新聞記事のことなど書くつもりはまったくなかったのに、新聞記事のことなど書いている。そういうことが起こるのは、私の場合は、考えに枝葉が生えるからだ。生えたら繁茂させてしまうからだ。
やはり、書かされているのか。

学校で作文を書かされたことはあるが、いやいやながら何か書いた。何を書いたかすべて忘れた。書きたくて書いたわけではないから、何を書いてもよそごとというか、他人事というか、他人になって何か書いていたのだと思う。なんとなくこんなふうに書けば、よい子でいられるのだという感じだけはあって、作文を書いている間は、他人としてのよい子をやっていたのだと思う。しかし書いたものは、すべて忘れた。

一つ思い出した。
小学校の何年の時かは忘れたが、炬燵で宿題の作文を少し書いて、全然字数が足りなくて、続けて書くことがなくて、困っていた。親父がどういうわけかのぞき込んで、「俺が書いてやる」と言ったのだった。そんなことは前にも後にもない。親父は私の勉強なんかに興味を持ったことはなく、宿題だの作文だのにも関心はなかったのに、その日だけは違った。いや、その日だって、私の宿題や作文に興味があったのではなく、私が書きかけたものが牛についてのことだったからだ。
その頃、家では牛を飼っていた。乳牛ではなく、農耕用の牛だった。田植えの前に田の土を起こすのに、牛に鍬を引かせたのだ。牛のことはぼんやりと覚えている。全身が黒に近い茶色だったような気がする。
牛の出産の時のことの方が、牛の姿よりよく覚えている。祖母と母がお湯をわかして、大量のぬるま湯を作ったりしていたのは、生まれる牛の子を洗うためだったのかどうか。親牛の尻から(尻だと思っていた)子牛が下半身だけ出ている状態のことも覚えている。獣医も来ていて、大人の男二人で、子牛の体を持ってひっぱり出そうとしていたのも覚えている。ちょっくら出てこなくて、男二人は汗をかいて本気だった。なんとか無事にひっぱり出すと、子牛は小さい牛だった。かわいいと思った。
子牛はすぐ立てたのだったかどうか。しばらくは藁の上にでも寝ていたのだったかどうか。なんだかよろよろしているが、立っている子牛を見た覚えがあるような気がする。よろよろとして、やっと立っていた感じを覚えているような気がする。大人たちが子牛の体を洗ってやっているのを見た覚えがないから、祖母たちが作ったぬるま湯は母牛の膣を拭いてやるためだったのかどうか。私は人間のやる仕事をろくに見ていなかった。生まれてきたものが小さいのに完全な牛であるのを見ていただけだった。かわいいと思った。
子牛が雄だったら、子牛が売られていく。子牛が雌だったら、親牛が売られていく。とにかく、家には雌を残す。また子を産ませるために雌を残す。
作文には、親牛が売られた日のことを書いたのか。親牛が売られてからそんなに日数は経っていなかっただろう。
牛の世話は親父がしていたのだろう。餌をやり、糞の始末をやり、土手草を食わせるために、朝と夕に、家と土手の間を往復する時は、鼻輪につないだ細綱を親父が持って、牛が歩くのに合わせて、一緒に歩いたのだろう。だろう、だろうとやたら書いてしまったが、親父が牛と一緒に歩いているのを見た覚えがないのだ。見た覚えがないのに、親父と牛が一緒に歩く速度はわかるのだ。
子供の頃、私は「トヤンとした子供」だったそうだ。トヤンとした状態は、ぼうっとしている、放心状態になっている、心ここにあらずの状態であるということである。そのせいかどうか、とにかくいろいろのことをどんどん忘れた。とにかく、ほとんどのことが後に残らないのだ。残るわけがない。トヤンとしている子供には、外部というものが入ってこないのだ。入ってこないものを忘れることはできない。だからどんどん忘れたというのは、仮構された記憶であって、実際はただただぼうっとしていたということなのだろう。ぼうっとしている子供には、自分がぼうっとしているという自覚もないので、幼少の自分や小学校時代の自分というものは、ゆらめくかげろうそのものだ。意識に閉じこめられて、ただゆらめいていたのだ。何かよっぽどせつないことでもあったのか。
記憶というものは、果たして一つ二つと数えられるものかどうかわからないが、もし数えられるなら、私は人々の標準と比べて、圧倒的に数が少ないと思う。
今は、歳をとって、脳梗塞をやったり、脳虚血発作をやったり、そんなものをやらなくても、人の名前を忘れたり、階段を降りていく途中で、なにをしに階段を降りているのだかわからなくなったり、もうやたらと忘れたり、ものがわからなくなったりするが、子供の頃から、なにもかもどんどん忘れていくことは着実にやっていたのだ。仮構でもいい。とにかく私はどんどん忘れた。つまり世の中のことを忘れていた。
作文だって、唯一覚えているのは、その内容や文章ではない。私が書きかけていたものをのぞき込んだ親父が、俺が書くと言ったので、びっくりしたから、そのびっくりしたことを覚えているのだ。作文を覚えているのではなく、作文にかかずらった親父を覚えているのだ。

そうじゃなくて、あれは最後の牛が売られた時だったのかもしれない。いつからか、家には牛がいなくなった。あの時がその時だったのではないか。
子牛が生まれた後、親牛が売られたのなら、さびしい気持ちはあっても、子牛の世話をすることで紛れただろう。あれは、子牛が生まれた後に売られたのではなく、牛を飼うのをやめた時のことだったのかもしれない。そういう暮らしの変化なども、私はものごとに関連づけて覚えるということがないのだった。
いずれにせよ、親父はさびしかったのだ。長年牛と暮らして、牛がいなくなって、さびしかったのだ。だから、私の書きかけの作文を読んで、「俺が書いてやる」と言い出したのだ。書きたかったのだ。
今になって思えば、親父は私の作文を書いてよかったのだ。書きたい人が書くのが一番だ。私は書きたくはなく、どちらかと言えばおっくうでいやだったのだから、親父が書くのがなによりである。
それからまた一週間とか二週間がたった。学校の教室で、先生が私の名前を言い、いい作文だとほめてくれた。そうだろうと私は思った。親父は書きたくて書いたのだから、いい作文を書いたに違いない。親父が書いた作文を読んだのか読まなかったのか、それさえ私は覚えていない。牛が車に積まれて行ってしまったのか、他人に鼻輪を引かれて歩いて行ったのか、それさえ私は覚えていない。その両方がイメージとして記憶になっているのであり、どっちかと決める手がかりがない。
親父は何を書いたのか知らないが、字の手癖はどうしたのだろう。トヤンとした子供が書くような幼い字を親父が書けたはずはない。親父が別の紙に書いたのを、私が作文用のノートに書き写したのか。親父が口述するのを私が筆記したのか。しかし、そんな複雑なことをした記憶もない。なんにせよ、私はその作文を読んだ覚えがないのである。よくやったぞ、とうちゃん、とは思ったが、作文自体には興味はなく、何がどう書かれていたのかが全然わからないのである。
親の心というものは、子供にはわからないものである。
だいたい小学校3年か4年の頃だったと思うが、3年生なら3年生が、牛が売られていく日に何を見て、どう思ったかを親父は創作したのだろう。そういう創作をやって、淋しさを紛らわせたのだろう。わけもわからないほど激怒して怒鳴りつけるとき以外は、感情というものは見せないのである。
息子の作文の代筆をやった親父も親父だが、その作文を褒められて、自分が褒められたかのように、へへへなどと言っていた息子も息子である。
それが学校時代を通じて、作文について私が覚えている唯一のことだ。作文はたくさん書かされた覚えはあるが、ものの見事にすっからかんである。

私は19歳の時に、語学をやった。語学ばかりやっていた。半年ばかり、世界史の暗記をやり、それだけで大学に入った。国語というのもあったが、ほとんど何もやらなかった。高校の頃、国語だけはできて、廊下に名前が張り出されたりした。どうしてだろうと考えたら、思ったことを書かないからだなと気づいた。設問者がどう書かせたがっているのかを考えて、こういうふうに書かせたいんだろうと思って書くと点がいいのだった。自分の考えを書くのではない。設問者の考えを書くのだ。ある日、俺はいやなやつじゃねえかと思った。文章そのものを読んでるんじゃなくて、いや、それもやることはやるが、何よりも設問者の腹を読んでるだ。ろくなもんじゃねえ。自分をそう思った。自他共にそうであると思うので、今でも国語の点が取れるようなやつはろくなもんじゃねえと思うのである。

あの頃、語学がなんであんなに面白かったのだろう。
四六時中英語をやっていた。寝て起きて、英語をやって寝るという感じで、一日に15時間くらいやっていたんじゃないだろうか。半年以上かかったが、代々木ゼミナールという予備校の模試で、3万人中3番くらいになった。半年前までは、3流受験校の250人中240番くらいだったのだから、面白がってやると、がらっと変わってしまうもんなんだなと思った。
語学が面白かったのは、イメージが面白かったのだ。
英単語一つでも、日本語を媒介にしてイメージを作り、イメージを独在させて日本語を脱ぎ捨てるようにしていると、こういうものって初めて出会うな、というものがやたらにある。つまりは、イメージというものが作れるということ、作ってみるとそれまで知らなかった珍しいものができるということ、それが面白かったのだ。こういう言語を使う人たちのアタマの中は、こんなふうに動くのかということもうすらぼんやりとだが推測できる。これは、全然違うな。こんなふうな考え方で何か考えたことは全然ないな、こりゃ面白い、全然違うので面白いと、面白がってやっていたら、どんどん点があがったということで、英語をやっている間は大学入試のことは忘れていることが多かった。大学入試で要求されることがないようなこともやった。今から考えるとずいぶんおかしな音も混じっていたのだが、口の動きを鍛え込むようなことをやった。大学入試用に限定しないでやったら、結果的に大学入試用の点が伸びたので、本当にやったことは、面白がるということだけだった。

その後、大学に入って、自分は文章が書けないんだなとわかったのだった。それがわかったのは、語学をやったせいだと思っている。語学をやらなかったら、新聞記者かなんかになって、与太を書き散らしたかもしれない。言語に書かされるコトバをコトバだと欺いて、欺いていることにすら気づかず、欺かれていたかもしれない。お利口なあいつらのように。

言語は死だ。
幼少時にその死を内在させてしまうのが人間だ。
いや、そこから言葉が芽吹くかどうかだ。
人間は姿形のことじゃない。芽吹きのもがき。それが言葉にならないまま、発芽玄米のように食われてしまっても、芽吹きがもがいている時間は、そこに人間がいる。

学校の勉強がよくできたようなやつには、意識の表層だけをさっさと流れる言葉もどきを書くものが多い。

親父は、何を創作したのだったか。
創作したのだったら、ずいぶん手の込んだことをやったことになるが、あの親父にそれができたのか。
親父がとうてい学校の勉強ができたとは思えない。
なにしろ、激怒する時以外は、大人のくせにトヤンとしているのだ。はしこさがまるでないので、お袋は時に地団駄踏むようにくやしがった。

言語は欺く。言語は導く。
やってみなければ、言葉が芽吹くかどうかはわからない。
私は親父のことなど書く気は全然なかった。
いつのまにか書いていた。
牛のことも。

さて、タイトルを考えよう。
考えた通りに素直に書いてみよう。
一度くらいは、先生に言われた通りやってみなければ。

 

 

 

夢は第2の人生である 第3回

佐々木 眞

 

西暦2013年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

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コンスタンツエ (2)

 

中国の戦地で孤立した私たちは、手榴弾を投げ尽くしてしまった。しかたなく地の果てまで逃亡すると、雪が激しく降って来た。その場にうずくまって雪がやむのを待ったが、しばらくして、私はとうとう梶上等兵になった。

「さっきまでお前が見ていた夢を、全部思い出すんだ。吐き出すんだ」と、どこかで誰かが怒鳴っていたので、私は目が覚めた。

いつか行ったことがある懐かしい場所。その遠い思い出の場所に限りなく近づきながらも、私はいつまでたっても、そこにたどり着くことができないのだった。

おいらは、あいつが憎らしくて殺したんだけど、牢屋に入ったら、国はロシアン・ルーレットで、おいらたちを殺すんだ。たまったもんじゃあないぜ。と死刑囚の私は呟いた。

返品してくれよ、こんな欠陥商品を作りやがって。しかもせっかく修理したのに、また故障しやがって。なにが「日本を代表する世界のトップ・メーカー」だ。社長を出せ、社長を!

いくたびも、またいくたびも快楽の絶頂に達した吉行和子と藤竜也の絶叫で、わたしは朝まで寝られなかった。

私たちは、しばらく東シナ海をさまよっていたが、やがて同乗していた2人の若者は、言葉も上達したので大陸に残り、私は母国に帰還することにした。

私が乗り組んでいる潜水艦の艦長は、ちょっと変わった人物で、いつもなにやらブツブツ繰り返し言っている。注意して耳を傾けると、「大好きだお、真理ちゃん」と呟いているのだった。

訓練の時にも「敵艦見ゆ、大好きだおお、真理ちゃん」、「魚雷発射、大好きだお、お真理ちゃん」と号令をかけるので、部下から馬鹿にされながらも愛されていた。

艦長は、「水兵は体を鍛えておかねばならぬ」という信念のもと、狭い艦内を、陸上競技場にみたて、私たちを全力で疾走させるのだった。

さてその日は、母港の地元民を艦に招待する日だったが、艦長は、いきなり若くてきれいな女性の手をつかんで艦内に連れ込み、みずからあちこち案内して回った。

艦長は、魚雷の格納庫の傍に彼女を引っ張り込んで、「ほらほら、これが水雷だ。こいつで敵さんのどてツぱらに、風穴を開けるのだ」と言いながら、いきなりチュウしてしまった。

もうこれで何年になるのだろう。私は教団の責任者として、毎日新幹線で東京と大阪を往復しているのだが、精も根も尽き果てた。「教祖」などとあがめられ、奉られても、その実態は一個のでくのぼうに過ぎなかったのである。

学校の卒業旅行は、英国風のグランクルーズだったが、中東だかアフリカあたりで、私は集団から脱落してしまった。ここはいったいどこなんだ。チュニジア? それともアルジェリア? 見たこともない風景が広がり、やたら暑い。

暑い砂の上に横たわっていると、奇妙な形をしたこれまでに見たこともない大中小のリスがやってきて、食べ残しのパンをむさぼり食っている。と、その時、黄色くて巨大な、そして異様に美しい網目ニシキヘビが、リスたちの背後でとぐろを巻いた。

私はある地方都市で、市の広報誌の編集をまかされていたが、その仕事を、ロスの私立探偵フィリップ・マーロウの捜査と意識的に勘違いし、紫のキャデラックに乗っていたので、さまざまなトラブルを引き起こすことになった。

私が下宿していたのは、ちょっと色っぽい元美人の姥桜だったが、これが、事あるごとに私に首を突っ込んでくるのだった。

ローマの皇帝が、その教戒師である私にこう語った。「6人の男女をとらまえて牢屋に入れて、「男は全員明日ライオンと闘え」と命じると、その前夜までには、3つのカップルが誕生している」、と。

私が王国から略奪した3つの玉手箱は、セピア色に塗り替えられた。私はジェットコースターの先頭に第一の玉手箱を置いてこれに跨り、「さあ発車するのだ!」と号令をかけたが、玉手箱には車輪がないことと、私の2人の美貌の部下が、第2、第3の玉手箱に無事に跨っているかどうかを、始終気に掛けていた。

しかし幸いなことに、その不安は杞憂であった。私は安心してジェットコースターの突進に身を任せていたが、それがあまりにも天空高く登りすぎたためか、突如玉手箱もろとも地上めがけて真っ逆さまに転落した。

そして猛烈なスピードで地表に激突するまさにその瞬間に、私はもはや玉手箱の中身になんの関心もなく、2人の美少女にも全く欲望を覚えていないことがわかった。

私は神保町の金ペン堂主人の薫陶を受け、長年の研鑽の末に、ずば抜けた性能を誇る万年筆を1本2千円で製造することに成功した。それから私は、腐女子2名の支援よろしくこれを1本2万円でネット販売したので、ほんのいっときだけは大儲けしたのだった。

私は、喉の奥に生えているジャックの豆の木にぶらさがりながら、どこまでも、どこまでも降りていった。

「26歳の美人秘書付きのオフィスを、無料で貸してあげるけど、使いませんか?」とある親切な方が申し出てくださったので、私は大川のほうに向かった。オフィスの近くに、見慣れない2人の男が待ち受けていて、私を無理矢理銀座に連れて行こうとする。

仕方なくいいなりになって見知らぬバアに入り、飲めないジャックダニエルを一口だけ舐めていたが、トイレに行く振りをして、7うまく脱出することに成功した。

銀座の地下は、ものすごく深いところに地下鉄を含めた何層もの広大な地下通路が走っていて、それが大川の向こうまで走っていることを、私は初めて知った。恐らく東京の地下には、地上を上回る交通網がすでに敷かれているのだろう。

やっとこさっとこ前のオフィスに入っていくと、26歳の美人秘書の代わりに、62歳くらいのおばさんが一人ぽつねんと座っていた。

私の嫁入り先は、古い封建的な約束事が根強く息づいている地方だった。はじめは大人しくしていた私だったが、歳月の経過とともにだんだん本領を発揮して、ある日、思い切って謎めいた埃だらけの部屋を開けた。

まるで江戸時代のような畳の奥座敷には、虫に食われた帳簿が何冊も並べられていて、数人の男が会計の実務に従事していた。彼らは私を見ると驚いたが、帳簿を見た私が、たちまちこの家の危機的な収支状況を把握したのを知ると、さらに驚きを新たにしたようだった。

第2の部屋、第3の部屋と次々に私が秘密の部屋を開けはなっていくと、誰かの注進でそれを聴きつけた夫が、まるで青髭公よろしく目をギョロリと大きく見開いた。

 

 

 

ミエスチラフ・ホルショフスキのベートーヴェン

 

加藤 閑

 

ホルショフスキ1

ホルショフスキ2

 

「カザルスホール・ライブ」で夙に有名なミエスチラフ・ホルショフスキには、その前の年1986年7月にプラド音楽祭で行なったライブ録音がある。このときホルショフスキは94歳だった。カザルスの伴奏者だった彼は、その後長きにわたって忘れられた存在だったが、1983年のオールドバラ音楽祭に出演したことによって、再評価の気運が高まった。カザルスホールのオープンに招聘され、かつて演奏をともにしたカザルスの名を冠したホールとあって、95歳の高齢にもかかわらず来日した。このとき(12月9日、11日の2日間)の演奏は音楽史に残る名演として語り継がれている。
ホルショフスキは1993年まで生きるが、1991年10月の演奏会が最後の舞台となった。オールドバラ音楽祭の1983年から8年の間に行なわれた演奏会の多くはライブ録音として発売されているし、ノンサッチレーベルに数枚のスタジオ録音を残している。ノンサッチがクラシックを出すのは珍しいが、そのCDはいずれも名演である。

プラド音楽祭のライブは、フランスのリランクス(LYRINX)というレーベルから出ている。収録曲は次の通り。

モーツァルト ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
ドビュッシー 子供の領分
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第15番ニ長調「田園」Op28
ショパン 即興曲Op.38(ママ)

ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタのうちでわたしが現在もっとも気に入っている曲は、ここに収められている第15番のソナタだ。「田園」という表題がついているが、もちろん作曲家本人がつけたのではないし、交響曲第6番とも関係はない。この曲、ほかのベートーヴェンの曲にありがちな盛り上がりに大いに欠けている。聴き手の気持ちに関係なくぐいぐい引き付けるような強靭なところがない。それがとてもよい。「悲愴」や「熱情」だけがベートーヴェンではないのだ。
15番は、アラウの1980年代、晩年の録音がすばらしい。彼は20年ほど前の1960年代にもベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音しているが、そちらの15番とはまったく違う。肩の力が抜けていて、同型のリズムが一定の速度で流れていくようなこの曲にまことに合っている。このアラウの演奏を聴くと、バックハウスもグルダもちょっと考え違いをしているじゃないかと言いたくなってしまう。
しかし、このホルショフスキのプラド音楽祭の録音は別だ。80歳代半ばのアラウよりも10歳ほど上の年齢での演奏なのに、驚くほどみずみずしい。ホルショフスキの魔法のような音楽かもしれない。演奏時間は他の奏者に比べて決して遅くない。高齢になるとふつうは演奏時間は長くなるものだが、これはむしろ短い方だろう。それなのにちっとも速いとは感じない。音楽のことをよくわかった演奏家がゆったりと調べを奏でているという趣がある。聴いてみると随所でルバートをかけているのがわかるが、それがまったく嫌味ではなく、この音楽の最上の解釈はこうだと示されているような気持ちになる。

歳をとるというのはほんとうに難しいものだ。自分が年齢を重ねるに連れて、なおさらそれが実感としてわかるようになってくる。音楽家は歳をとるに連れて味わい深い滋味のある演奏をする人も少なくはないが、ホルショフスキはその中でも音楽演奏家として最良の歳のとり方をしたのではあるまいか。成熟というようなありきたりの言葉では説明できない、もっと複雑である意味神秘的な到達を見せた稀有の例と言える。
同じ盤に収められたモーツァルトもドビュッシーも名演。最後のショパンの即興曲は、第2番なので作品番号は36のはずだが、CDには38と表記されている。フランスやイタリアのCDにはときどきこういうことがある。

 

 

 

 

NEO CEDAR に支えられて

 

根石吉久

 

 

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また助かった。

脳虚血発作で、救急車で病院に運ばれたが、100時間くらい点滴を打ちっぱなしにしている間に、梗塞は起こらなかった。多分100時間の点滴は、血を洗濯したのだと思う。虚血発作は、脳の血管にどろどろした血が詰まりかけたのではないか。なんとか詰まらないで流れたのではないかと医者は言った。
入院の後半の点滴は、血が固まりにくくなる薬とコレステロール値を調整する薬に変わったらしく、午前中に二袋、夜9時過ぎから午前0時頃までの二袋になった。

奥村さんに書かなくてはならない礼状を書いてない。山根さんに書かなくてはならない礼状を書いてない。中島さんの原稿をネットに掲載してない。英語のレッスンの「二人一枠維持基金」の8月の入出金をやってない。浜風文庫の原稿を書いてない。やらなければいけないことが山のようになっている。目をつむるように、鉄砲玉のように畑に行く。
草を干物にして土に入れたところが、土がほっこりと軟らかくなっている。手のひらで動かすだけで軽く土が動き、糸状菌が埋めておいた太い草の茎にびっしりと白く食いついている。軟らかい。煙草をストップされた体が、かろうじてなぐさめられる。

煙草をやめようとしている。英語のレッスンがなければ煙草はやめられると人に言ったことがある。いらつくのだ。英語でなく他の言語だったらこんなにもいらつくことはないのじゃないかと思う。英語が産業の召使い用に使われることが多い言語だからか。強者の言語だからか。世界一の巨額な金をどぶに流す言語だからか。いらついて、英語の流行の中で「語学だ」とわめいたのだった。英語をやるっていうのは、語学をやることだとわめいたのだが、当たり前じゃないかと言われただけだった。当たり前じゃないかと言う人が、実際に英語を始めると、「聴き流すだけで使えるようになる」などという濁流に簡単に呑まれてしまうのを見たりするのだった。

磁場を欠くこと 投稿者:根石吉久 投稿日:2014年 8月30日(土)19時16分53秒

語学の本来の形は、磁場の磁力を欠いて、個の意識という点のような場で行われることがその一切であること。

このことによって、語学が扱う言語は「死物としての言語」である。
語学の当初からその規定は決してまぬがれることはない。

語学は、死物を蘇らせる行いなのである。
当初から、死物を扱う行いなのである。

生きた英語!

そんなものは語学の場にありはしない。
まるでそんなものがあるかのように思わせられて、幻を追う者たちばかりが大勢いる。

語学の真骨頂は、「蘇らせる」ということにある。

生きた英語!
磁場を欠いて、そんなものがどこにあるというのか。
語学が扱う素材は、印刷物であり複製音声にすぎない。

「蘇らせる」ことの後に、「生きた英語」が生まれるなら生まれるのである。
個において「蘇らせる」プロセスを欠いて、「生きた英語」が印刷物や複製音声で手に入れられると考えるとは!
英語漬けは英語馬鹿を生むだけじゃないか。

「生きた英語」というまやかし。
ここから一切の英語回りの迷信が発生する。

語学 投稿者:根石吉久 投稿日:2014年 8月30日(土)19時25分39秒

語学が扱う言語は、あらかじめびっしりと死んでいる。
それを蘇らせる力は、個におけるイメージの励起だけだ。
理解は媒介されるものにすぎない。
語にせよ、語句にせよ、語法にせよ、文法にせよ、あらゆるものをイメージとしてしまう架空の暴力的な行為。それが語学だ。

異言語の磁場は、そこをくぐった者を待っているのである。

以上は、語学論の掲示板『大風呂敷』から。
昨夜、レッスン前に殴るように書き付けた。それをここへ転写する(一部、書き換えと削除)。迷信を殴っても手応えはない。

NEO CEDAR を一本もらって火をつける。柿崎君は芋の葉っぱだと言うが、製品名にある CEDAR は杉などの針葉樹のことだ。パッケージにはどんな植物の葉っぱなのかは書いてない。「吸煙し、せきを鎮め痰を出やすくする薬です」という注意書きは書いてある。「成分および分量(一本分)」というところに、塩化アンモニウム、安息香酸、ハッカ油、カンゾウエキス、添加物として香料、その他2成分などと書いてあり、数字が書いてあるだけだ。

煙草のニセモノとしてこれを吸うのだが、けっこう気が紛れる。

深夜のコンビニで柿崎君に会って、NEO CEDAR を教えてもらった。コンビニの店先で、柿崎君はニコチンがよくないのだと力説した。タールは embalming といって、ミイラを保存したりするのに使われるくらいで、腐敗菌を寄せ付けないから体にいいのだと言う。柿崎君は NEO CEDAR を長いこと吸っていると言う。
死体を保存するのと生きている体では違うだろうと反論したりしない。うんうんと言って、柿崎君の力説を聞いていた。もしかすればそうかもというくらいにココロノカタスミで思う。柿崎君は、NEO CEDAR のことは本当は教えたくないようだった。アメリカンドラッグと他にもう一つの薬局にしか置いてなくてあまり入荷しない。入荷したものもすぐに売れてしまって買えないことが多いそうだ。

体にいいかどうかより、とにかく気が紛れる。喫「ニコチン」ではないが、喫「煙」であることには変わりはない。火をつけ口にくわえて吸う一連の動作は煙草を吸うのとまったく同じだ。だから気が紛れるのだろう。煙草のニセモノだが、喫「煙」としてはホンモノである。それに安い。吸っていた煙草は410円だが、NEO CEDAR は280円。一本吸っている時間も、すかすかの煙草の倍はある。葉っぱの密度があるせいだろう。

昨日は NEO CEDAR だけで昼間明るい間は紛れた。
夜、英語のレッスンに入る前に煙草を1本吸い、レッスン中にもう一本吸った。煙草の本数は激減している。入院前は一日に20本入りのパッケージ一つは吸っていたが、退院後10日経ってもパッケージにまだ二本くらい残っている。一日1パッケージが十日に1パッケージくらいになった。
これでやっていけるものかどうか。とにかく英語のレッスンの5時間あるいは6時間ぶっとおしの間に煙草の一本は要る。レッスンが済めば、NEO CEDAR で気は紛れる。

げろを吐くように、語学論と称するものを10年ほど書いた。レッスンを夜中の0時頃に終えて、ネット上の掲示板に向かい朝まで何か書くようなことを10年ほど続けた。ビールを飲みながら朝まで書いていたから、言葉もアルコールに漬かっているものが多い。
脳梗塞も脳虚血発作も、そんな生活に根があるのかもしれない。今は発作的にたまに書くだけになった。

げろがげろのままに放置されている。整理することも、まとめることもできないだろう。せめて、少しは見通しがよくならないかと思っているが時間がない。
小川さんが、「らくださんと根石さんの掲示板上のやりとりがわかりやすいので、そこを抜き出して独立した記事にしてみる」と言ってくれた。そういう作業をしてくれる人にお願いするしかない。

鉄砲玉のように、畑に行きたいのだ。
畑にしゃがんで、草だらけの草を刈り、出てきた土を手で掘り、その軟らかさに触っていたい。何が穫れなくても、かろうじてなぐさめられる。ただその辺に生えている草を使うだけで、土が人間用になっていく。それが確認できれば、なぐさめられる。

また最初からやり直しだが、それはそれでいい。
ここ数年で一番ひどい草だ。草ぼうぼうとはこのことだ。
しかし、これをどうすればいいかはわかっている。
ぎっくり腰と脳虚血の発作で、草とのいたちごっこに負けただけだ。どうすればいいかはわかっている。
草ぼうぼうの畑を見て、宮崎さんは「もうこうなれば駄目だな」と言った。宮崎さんも百姓育ちだ。「そんなことはない」と私は言った。俺は言った。草は刈ればいい。刈って干せばいい。干物になったら土に埋めればいい。この草ぼうぼうの中のどことどこにほっこりしている土があるか、俺はわかっている。
やり方はわかっている。

ぎっくり腰と脳虚血。
ただそれだけのことだ。

春にやったことの失敗は、生ごみ処理用に売っているポリエチレンの黒い袋を、土の上に広げて端を土に埋めたことだった。農家のマルチングと同じことをしたのが失敗だった。草の根がポリエチレンを突き抜けて、土とシートを縫ったようにしてしまうことを知らなかった。
シートは簡単にめくれるようにしておかなければならない。簡単にめくれて、簡単に草の干物を土に入れられるようにしておかなければならない。
草の干物を土に入れたら、その上にただシートを広げるだけでいい。シートの端は土に埋めなくていい。端を埋めないと風が吹けば、シートは舞い上がってしまう。だから、シートの上に刈った青草を散らして置く。青草は乾いてシートに貼り付いたようになる。それだけで強風が来ても舞い上がるようなことはなくなる。やり方はわかっている。手が足りないだけだ。

そんな馬鹿なことをやらないで、機械を使って耕せばいいとおやじは言った。
草を細断せず全草のまま土に入れるので、機械を使っても、草が機械の刃にからまり、機械は止まってしまう。機械は使えない。
もみがらなら機械を使っても大丈夫だが、朝暗いうちからあちこちの精米所からもみがらを集めなければならない。すでにやっている人がいるから競争になる。その競争はやりたくないし、夜中過ぎたころ寝る習慣だから無理だ。
だったら化学肥料か。

農薬漬け、化学肥料漬けの野菜を作るくらいなら、買って食ったほうがましだと俺は言った。
おやじは黙ってしまった。
俺も黙ってしまった。
立って話して、そんなふうになったとき、黙って煙草を一本渡したことがあった。土に座って、黙って二人で煙を吹かすのだ。山を見たりして。黙って。

煙草のニセモノの NEO CEDAR を吸うことに文句はない。
野菜のニセモノがいやなんだ。
一般に出回っているスーパーの野菜はニセモノだらけだ。見映えだけはいいのだが、野菜の味がしないものが出回っている。

久保田大工は、はだしで畑をやっていた。昔、大工仕事の足場から落ちたそうだ。歩くときは体をこごめて歩くが、畑の中では、四つんばいに這って草を取っていた。靴を履かないのは土を這うのに邪魔なのだろう。隣の畑なので、ときどき二人で土に腰を降ろして話をした。
タマネギが余るから持っていかないかと久保田大工が言った。もらいますと俺が言った。
もらったタマネギはまるまると太っていたが、半分使って、余った半分を台所にそのままにしておいたら、切ったところが真っ黒になった。3日ほどでそうなった。気持ちが悪いので捨てた。間違いなく農薬のせいだと思った。
自分で作ったタマネギは、まだ土がよくできていなかったので小ぶりだが、切ったところが黒く変色するようなことはなかった。一週間も経つと乾いて少し色が変わる。だけど、白いままだ。
久保田大工は、好意で俺にタマネギをくれたのだ。
好意でくれたタマネギを捨てなければならないのがつらかった。
つらいが、気持ちが悪い。まっくろになる。売っているタマネギでも、あれほど急激に変色するものはない。
まさかタマネギのせいではあるまいが、久保田大工は俺にタマネギをくれた年に死んでしまった。

脳梗塞の薬を飲むのと、まっくろに変色するタマネギを食うのとどちらが体に悪いか。わからない。たばこを吸うのと、英語のレッスンをしていらつくのとどっちが体に悪いか。これもわからない。ほんとうにわからない。

やたら救急車を呼ぶわけにはいかない。
ひとまずは NEO CEDAR だろう。

変色しない百姓仕事見習い募集中。

 

 

 

夢は第2の人生である 第2回

 

佐々木 眞

 

西暦2013年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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オフィスではいつも課長と私と部下の3人が同じところに並んでいたのに、ふと気がつくと上司がいない。あたりをきょろきょろ探すと、遥か彼方にたった一人で座っていた。

 

球場では難民救済のためのイベントが行われていた。遠くから小さな箱に向かって阪神のバース選手と札幌芸大の吉田君がボールを投げる。狭いスポットにうまく入れば大成功というわけだが、わたしにはその勇気がなかった。

 

荒波が打ち寄せる真っ暗な洞窟に降りて行くと、そこでは大勢の若い男女がお面をかぶって乱れ騒いでいた。誰かが私を手招いている。

 

私はロシアのスホイ戦闘機を4機抑留した。なぜか、どのようにしてかは、自分でも全然分からないのだが……。その結果わが国に亡命することに決めたパイロットたちを、私は大阪の寄席に連れて行った。

 

空からぐんと突き出している険しい階段を上っていくと「森本主義者」と書いた哲学者の家があった。どうやら2人の年老いたインテリゲンちゃんが住んでいるらしい。

 

そのうちの白い髭をはやしたおじいさんが、「これが入場券だよ。好きなのを取りな」と言って差し出した白い布の上には、赤、青、翠、黄色などで彩られた美しい鼈甲のような飾りが乗せられていた。

 

ようやく戦争が終わったので、私は氷結したランチを解凍してもらったのだが、その中から見知らぬ男の死体が出てきたので、ギャッと驚いた。

 

懐かしい山紫水明の故郷のはずなのに、それはどこかが根本的に変わってしまったようだった。しかし相変わらず渓流には清らかな水が走り、森や原っぱにはさまざまな花が咲いていた。

 

草原の1本道をずんずん進んで行くと、巨大な白いハスの花にとまった白いゴマダラチョウが、大きな翅をゆらゆらさせていた。

 

私は会社員で、ある製品の企画会議に出席していた。黒板には誰が書いたのか「アメリカン・ファンタジー」という英語が大書してある。あまりにも下らない会議なので「忘れ物を取って来ます」と言っていったん帰宅してから出直すと、もう電車がなかった。

 

さてどうしようか、家に帰ろうか、それとも歩いてでも会社に行こうかと駅前で考えこんでいると、暗闇の中でギラリと光る眼があった。ハアハアと喘ぎながら涎を垂らしている狼犬の口は毒々しい赤だった。

 

私の仕事に脇からイチャモンをつける上司。これは間違いなくパワハラだ。そこで私が「これはおいらの仕事だ。お前さんは大人しく引っ込んでろ!」と怒鳴ったら、その声で目が覚めてしまった。

 

若く美しい女をベッドの上に押し倒すと、にわかに欲情が湧きおこって来たので、おもむろに伝家の宝刀を抜こうとしたが、見つからない。必死で探していると、なんとダリの「記憶の固執」の柔らかい時計の隣にぶら下がっていた。

 

オペラハウスのバルコニーの隣の席に、工藤さんが椿姫のヴィオレッタのような衣装でちらと顔をのぞかせた。「あら貴方、お元気だったの?」と工藤さんが尋ねたので、私は懐かしくなって「君こそ元気なの?」と尋ねたら、彼女は「生きてしあればと」いうアリアを小さな声で歌うのだった。

 

自分でもそれと知らないうちに、私は探偵オペラに出ていたらしい。第1幕と第2幕では女性が主人公であったが、突如「三一致の法則」やそれまでの正常な展開が否定され、ちょうどベートーヴェンの「第九」の歌いだしのような形で、私が進み出るのだった。

 

「こういう短歌を詠むといいわよ」という人がいて、ああそうかなあと思いつつ一晩中考えていたが、けっきょく完成しなかった。その中身は私が丹精込めて世話したカエルの産卵の話なのだが、さてどうしたものかなあ。

 

貧乏な私は、当時ある上司と部屋をシェアしていた。その部屋の壁面は床から天井まですべて無数のノートブックで埋め尽くされており、他の壁面も数多の文庫本によってことごとく埋め尽くされていた。

 

外出から帰った私が、このアパートのトイレに駆け込んで用を足そうとしていたら、もう一人の別の今中という名の上司が、無理矢理オマルに跨って用を足そうとする。文句を言おうとしたが、彼も下痢のようだ。結局私たちは1つの便器をお尻合わせで使用した。

 

私は北海道の新聞社に入社した。先輩が歓迎会をしてくれるというので、一緒に会場に向かおうとしていたのだが、駅で電車を待っている間に見失ってしまった。仕方なく帰宅しようとしたら、北嶋氏から携帯に電話が入り、駅の反対側の居酒屋で待っているという。

 

あたしはフランソワ。きょう学校で校長先生から3万フランもらった。学校の評価基準が変わり、出席・成積・体育のほかに徳育という項目がつけ加わり、あたしのママが死んだ友人のお墓に毎月お花を捧げてお祈りしていることが分かったからだって。

 

あたしはフランソワ。毎日登校すると、入り口で体を横向きにして懸垂しながら腕の力だけでよじ登り、門番が居る部屋に入ろうとするのだけど、いつも失敗する。すると門番が飛んできて、あたしの体を下から抱きかかえて入れてくれるの。

 

あたしはフランソワ。きのう友達の男の子5人がパルチザンに志願して銃を持って学校から出て行った。今朝登校してから窓を開けたら、真っ白いアルプスの山のいろんな所に5つの黒い点が動いていたわ。

 

突然「すぐに来てほしい」という電話が泣き声混じりでかかってきて、しかたなくその部屋を訪れると、私の全身が白い芙蓉のような顔の下にある2つの深紅の小さな穴の中にどんどん引きずり込まれていき、またしても取り返しがつかない事態が引き起こされるのだった。

 

「ほんとうに私がいちばん好きなの」と女が訊ねる。「私よりもあの女が好きなんでしょう、もうあの女と寝たんでしょう」と、なおも追及してくる。ああいやだいやだ、これだからいやなんだと、私は夢が早く覚めてくれることを願った。

 

こんな半島の南端にもスタジオがあるのだった。そこではサーファーの若者を主役にしたコマーシャルが撮影中だった。今ふうのきざなディレクターが「よおし、君ここでOK!ボッケイ!と叫んでくれ」と注文するのを、私はうんざりしながら傍観していた。

 

私が懸命に秘匿していた資料や物件がどんどん明るみに出て、周囲の疑惑が一身に集まって来たので、私は潔くすべてを告白して罪をつぐなうことに決めた。

 

うざったい女どもが、私の邪魔をする。堪忍袋の緒が切れた私は、まず右手の拳銃で右側の女たちを殺しはじめたが、今度は左側の女たちが逃げ出し始めたので、左手で別の拳銃を取り出してバンンバン撃ち始めた。これでいいのら。

 

私はその日に生涯最後の時を迎えた北の王グスタフだった。忠臣どもに遺訓を残らず伝え寝台に美姫を招き、膝に乗せて事に及ぼうとした途端、私はプロレスのセコンドとなって、デブでダメなポンコツレスラーのアドバイスに声をからしていた。「いいか、ゴングが鳴ったらいきなりキンタマキック3連発だ。そうすりゃやあいつも参るだろう。おいお前、聴いているのか!」

 

「ああそうなの、じゃああなたの名前で私がサインすれば、いくらでも交際費が使えるってわけね」と見覚えの無い女がほざいた。

「るせえ、もうもう」と喚きながら私が拳銃をぶっぱなすと、朱に染まって父が斃れた。返す刀で弟にもぶっ放すと、倒れながら彼の父親譲りの牛のように大きな紅い瞳がかすかに頬笑んだように見えた。

 

真夜中に「きゃああ!」という絶叫が聞こえた。女か子供か、はた魔女か?

 

私の教団には「一の山」と「二の山」があって、私は一日おきにそれらを訪問し、宿泊していた。夜になるとその山の宿舎には謎の女が忍び込んでくるのだった。

 

昼と夜の間の境目にはまりこんだ私は、いまが夜なのか昼なのかを考えようとしたが、その考え自体が昼間のものだか夜のものなのか分からなくなってしまった。

 

ピアノの上に女を乗せて膝を割ると、女とピアノが大小高下さまざまな音を鳴らしはじめたので、これはまるでジョン・ケージの音楽のようだと私は思った。

 

清らかな水が流れ、桃の花があちこちで咲いているその里では、上の句や歌に下の句や歌を付けるとただで食事が出できたり、出来栄えによっては無料で旅館に泊めてくれるのだった。

 

会社に「女帝」が乗り込んできたために、今までのように自由にタクシーを使えなくなった。しかし私は最寄りの駅までは10分も歩かねばならない。地下鉄に乗ろうと急いでいると部下の女性が誰かと脇道で接吻していたので驚いたが、放置して通り過ぎた。

 

私は地方の王に仕える書記官として、その一族の事績を細大漏らさずパソコンに登録し記録に残しておかねばならなかった。しかし日々次々に起こる行事や事件をどのような書式で記録するべきかについて頭を痛め、いまだにその形式を見いだせずにいた。

 

通勤中のリーマンたちを背後から急襲したのは、国家警察だった。彼らは必死に逃げる私たちを大通りの向こうの広い公園に追い込んだ。公園は頑丈なロープで区画され、私たちは現行天皇制や憲法などへの賛否別に分かたれたブースへ閉じ込められた。

 

 

 

 

内田光子

 

加藤 閑

 

 

内田光子モーツァルト20番(旧盤)

内田光子モーツァルト20番(旧盤)

 

内田光子モーツァルト20番(新盤)

内田光子モーツァルト20番(新盤)

 

去年(2013年)の11月21日、京都西本願寺北舞台で演能があった。演目は「清経」で、シテは当代きっての名手、喜多流の友枝昭世。一般公開の舞台ではなかったが、その模様は12月22日にNHK教育テレビで放映された。

能「清経」は、平家の将来をはかなんで入水した平清経(重盛の三男)が、妻の前に現れてその有様を語り修羅道に落ちた苦しみを見せるというもので、世阿弥の真作とされている。筋立ても詞章もしっかりしており、抒情味溢れる人気曲である。

この日友枝昭世は、その抒情的な側面をいっそう際立たせる演技をしてみせた。清経のクセは、入水の様子を詳しく語って聞かせる長大なもの(本格の二段グセ)になっている。その途中、船の舳板に立って横笛を吹く場面に入る前に思い切って長い間をとった。ここは確かに見せどころなので見所(観客)の注目を集めたいところだ。しかし、「清経」は何回か観ているけれど、これほど大きな間ははじめて体験した。当然そのあとの、笛を吹き、今様を歌って身投げに至る動き(心の動きも含めて)は強調されて観る者に迫ってくる。

 

内田光子の弾き振りのモーツァルト(ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466、2010年クリーブランド管弦楽団)を聴いていて、第三楽章の繰り返しのところの間があまりに大きかったので、この「清経」のことを思い出した。内田光子はもっとも日本人らしくない日本人だけれど、その「間」の扱い方をみていると非常に日本的と感じることがあると書いていた人がいるのを覚えている。そのときは面白い見方だと思ったし、今回「清経」を思い出したことを考えると、わたしの中にも内田光子の「間」と能の「間」に近しいものがあるという思いがあるのだろう。

実際、武満徹なども「間」とか「さわり」が日本の音楽に固有の美意識だということをくりかえし発言している。彼の場合は、そこに自分の音楽のアイデンティティーを求めていたという事情もあるように思う。琵琶や尺八をソロ楽器として書いた「ノヴェンバー・ステップス」その他の曲をはじめ、その指向はやがては雅楽を書く方向に向かう。武満徹の雅楽「秋庭歌一具」は一種土着的な雅楽の響きを西洋音楽の語法で洗練させた傑作だと思うが、彼が死の床で聴く最後の音楽が「マタイ受難曲」だったという話は、彼の音楽の根が彼自身の種々の発言以上に西洋音楽の土壌に伸びていたことを窺わせる。

 

そう思うと、内田光子の「間」もどれほど日本的と言ってよいのかと思ってしまう。そもそも「間」というものがそんなに日本固有のものなのか。誰だって何か重要なことを言おうとかしようとかする前は、言葉を飲み込んで息をつめる。それは半ば生理的なものだ。それを「間」といって意識化してきた歴史があるので、日本的な美意識の代表のように言われるのだろう。

もともと、内田光子という人は意識的に音楽をつくり、きわめて恣意的な演奏をする人だという印象が強い。もう十何年前になるが、先ほどのモーツァルト、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466の旧録音(ジェフリー・テイト指揮、イギリス室内管弦楽団、1985年)を初めて聴いたとき、他の誰とも違うモーツァルトという印象が消えなかった。それがテイト指揮のオーケストラと不思議と調和しているように思ったのだ。新録音は内田光子が自らオーケストラの指揮をとっているが、テイト盤にあった調和の心地よさのようなものはあまり感じられない。ふたつの録音を聴くと、別のものが出会うから調和があるのだと気づかされる。

 

やはり何年か前に、クリスティアン・ツィマーマンがピアノもトゥッティも思い通りの音楽にしたいと、みずから団員を集めてオーケストラを組織し、ショパンのふたつの協奏曲を録音して話題になったことがあった。(ショパン、ピアノ協奏曲第1番、第2番、クリスティアン・ツィマーマン、ピアノ・指揮、ポーランド祝祭管弦楽団、2000年)

内田光子も弾き振りをしているが、オーケストラの音楽づくりはものすごく独特というのではない。むしろオーソドックスな解釈と言える。それなのに、例えばシューベルトの「即興曲集」のCDを聴くと、内田光子の演奏はとても恣意的な音楽になっている。これは世評の高い録音だけれど、あまりにも内田光子の主張が全面に出ていて息苦しいほどだ。この曲に関しては、昔からツィマーマンの弾いたディスクが好きだった。さりげないと言ってよいほどの、清潔ささえ感じさせるような自然な音楽の流れ、それでいてツィマーマン以外の誰の演奏でもない。

同じシューベルトの最後のピアノ・ソナタ。(変ロ長調、D960)これも評判のよいディスクだし、わたしも内田光子の最良の録音のひとつかと思う。それでも何がいちばん印象にのこっているかというと、第1楽章の左手のトリルの驚くべき強さなのだった。もちろん美しい部分は多いのだが、このトリルに関してはなにか美しい体の動物に思いもかけず生じた瘤を見たような感覚が後々まで尾を引いた。

内田光子の演奏に対するこだわりは大きい。そのこだわりが曲とマッチすると非常に力のある音楽となるが、もともと個的なこだわりを普遍的な演奏にするために彼女が払う努力は相当なものに違いない。

 

最後にもう一つ、内田光子の素敵なディスクに触れておきたい。シェーンベルクのピアノ協奏曲(作品42、指揮ピエール・ブーレーズ、クリーブランド管弦楽団、2000年)を中心に、新ウィーン楽派のベルクやヴェーベルンのピアノ曲を収めたもの。ヴェーベルンの曲にもっとも惹かれたが、それはきっとわたしの好み。20世紀音楽をほとんど聴かないわたしに、これらの曲や演奏を比較して何かを言う力はない。かつて、クァルテット・イタリアーノがこれらの作曲家たちの弦楽四重奏の作品集を出したことがあったが、そのときもやはりヴェーベルンに惹かれた。ヴェーベルンには深い闇と黎明を暗示する沈黙がある。内田光子の弾くヴェーベルンにも沈黙がある。それがときとしてあの「間」にとても似ていると感じられるのは、沈黙も多く抒情と抒情の間に存在するからだ。しかし、内田光子の演奏は、このふたつは別のものだということを雄弁に語っている。

 

 

 

 

 

肩こり腰痛持ちの紳士淑女のために

根石吉久

 

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参った。ぎっくり腰がよくならなかった。畑は草ぼうぼうになった。畑の土に草を干物にしたものを入れて土を作っていたが、ぎっくり腰でぶらぶらしていた間に、例のごとく草を使って草を育てている状態になった。草の干物を入れた場所は生えている草の背丈が他の場所と全然違う。見事な草だ。人の背丈どころではない。近くに立てば、大きく見上げるほどの草が育った。おお、すごい、と見上げた。何度見ても見事だ。
先月もぎっくり腰のことを書いたはずだと思い、「浜風文庫」を読んでみたが、梅雨入り後まもなくしてやったぎっくり腰は、何月何日にやったのか書いてなかった。「二週間寝た」と書いてあるから、7月の初めにすでに2週間以上経っていたことはわかる。6月の初旬にやったんじゃなかったか。
今、8月2日に入ったところだが、6月にやったぎっくり腰がいったん治ってから、何度も小さいのを繰り返したので、つい2週間ほど前までよくならなかった。
6月に2週間寝た後、7月の初めには立ったり歩いたりはしていたのだが、簡単に軽いやつをやるようになってしまった。畑に1回行って3日ほど寝ているようなことを2度繰り返した。もう完全に癖になってしまったのだなと思った。一晩寝て歩けるような小さいやつをやった時も、畑に行くとまたもう一度軽いぎっくり腰をやったりする。そんなのは何回あったのか、もうわからなくなった。

草ぼうぼうというか、ジャングル状態というか、見事な草の林を見て、いよいよ畑がやれない体になったのかと思った。

腰は何がどうなっているのかわからなかった。軽いのをやって翌日起きても、ものを持ち上げるようなことができない。怖くて駄目なのだ。車の乗り降りもゆっくりゆっくりやった。軽いぎっくり腰をやるのが、日課のようになってしまったのだった。

セブンイレブンで、「体の痛みの9割は自分で治せる」(鮎川史園・PHP文庫)というのを立ち読みした。よさそうな気がしたので買った。これはよさそうなだけでなく、実際によかった。買ってよかった。よかったわ、あなた、と淑女に言ってもらいたい。
この本のセルフ整体術と名付けられているやり方で体をいじり始めてから、小さいぎっくり腰を繰り返すことが止まったのであった。徐々によくなり、草を刈ってから腰を伸ばすのも怖くなくなってきた。

腰が痛いとか肩が痛いというような痛みを治すやり方が書いてあるのだが、やるべきことは簡単なものだ。
例えば、腰が痛いのであれば、腰や腰の周りのあちこちを指の腹で押してみる。脚の付け根や尻などを自分の手の親指や他の指で押してみると、ひりひりする痛みやツーンと響く痛みが生じる場所がみつかる。ズーンとくる重量級の痛みがみつかることもある。
筋肉が固く緊張していたり、細い筋みたいなものが腫れたみたいになっているところが痛い。ここをこの角度から押すと一番痛いなというところを、その角度でぐりぐりと押す。ぐりぐりと大きな動きで押すところもあるし、小さくクリクリと押すところもある。小さい脂の固まりみたいな感触のところはクリクリと押す。

10回ほどぐりぐりやクリクリして、押して痛い状態のまま、足先が向いている方向を変えてみたり、膝を曲げてみたり、首を傾げてみたり、背中を曲げてみたり、いろいろに体を動かして、痛みがなくなるか軽くなる姿勢を探すのである。こうやると痛みがなくなるなという姿勢が見つかったら、その姿勢のまま90秒間、形を固定して動かないでいるのである。

足首や首をほんのわずか傾けるだけで痛んだり痛みが消えたりする場所が見つかることがある。

痛みが消える格好が、痛む筋肉がゆるむ格好なのである。それを90秒保つ。緊張していた筋肉をゆるめるのだ。

何もしないでいると90秒というのは結構長い、格好が崩れないようにしながら、iPhone の画面を見ていたりすることもあるし、何もしないで長い時間が経過するのを味わうこともある。
時間を測るのは、軽トラの中なら勘でやるし、自宅のベッドの上だったら、キッチンタイマーを使って測ったりする。勘でやっても40秒から60秒程度なら割と正確に測れる。90秒にするには、1分は経ったなという感覚があってから、しばらくおまけを付け足してやるのである。

英語のレッスンで、生徒の音がたるんだ状態になっているのを指摘し、「ゆるめない!」というような指示を厳しく申し渡したりしているくせに、自分ではもうあちこちの筋肉をゆるめっぱなしにゆるめている。どこがどういう名前の筋肉なのかは全然知らないが、一つずつゆるめ、数多くの筋肉をゆるめる。

軽いぎっくり腰を繰り返した後に始めたせいか、押すと、もうやたらあちこちが痛かった。痛い場所はすぐ見つかったが、翌日はまた違うところが押すと痛くなった。隠れていたものが、浮いて出てくるような感じがあった。実際は同じ場所を押しているのかもしれないので、それほどでもないのかもしれないが、初めの三日くらいで、数十カ所も痛い場所を見つけたような気がした。

痛みが消えるか軽くなる格好を90秒保ったら、ゆっくりと押して痛かったときの格好に戻す。ゆるめていた筋肉に急に力を入れないようにしながら戻す。その筋肉を使わないで戻せればその方がいい。
元の格好に戻ったら、最初に痛みを見つけたときのように、同じ場所を指の腹で押してぐりぐりやってみる。痛みが軽くなっていれば、その場所の治療は終わり。同じように痛むようなら、もう一度同じことをする。

痛みが軽くなっていたら、他の痛む場所を探して同じことをする。

要約すれば、以下の通り。

指で押して痛いところを探す。
指の腹でぐりぐり(くりくり)する。
指の腹で押したまま痛みが消えるか軽くなる体の格好を探す。(見つかったら、指は体から離してよい)
その格好を90秒保つ。
指で押して痛かった時の格好に戻す。(ゆるめていた筋肉をなるべく使わないで戻す)
指で押して再度ぐりぐりさせ、痛みが軽くなっていることを確認する。

指で押して痛いところを探すとか、指の腹でぐりぐりするというようなことは、この本を買う前からやっていた。痛いところには自然に手が伸びるものだ。人にやってもらったこともある。
土方をやっている人に体を揉んでもらったとき、「ああ、これだ」とその人が言った。私はと言えば、「ひえええ、痛いいい、痛いけど気持ちいいいい」と叫んでしまう。その人がぐりぐりしているところに、凝りがあるのが自分でもわかった。細い筋などにできている凝りは、固めのきょときょとした脂みたいな感触がある。実際に脂であるかどうかは知らない。脂みたいな感触のところではなく、しっかりした太い筋肉などは、張っていたり棒のように固くなっていたりする。
押すと痛い場所は、骨のそばや、太い筋肉のそばにみつかりやすい。

人にやってもらったり、自分でやったりして、痛いところを指の腹でぐりぐりさせるのは知っていた。ここまでは、多くの人も知っていることだろう。
本で初めて知ったのは、押して痛い状態で、痛みが消えたり軽くなる体の格好を探すということだった。知らなかった。

ぐりぐりさせた後、筋肉を弛緩させることを知らなかったのである。

その後もう一度ぐりぐりさせるのは、鍼を打ってもらう場合、鍼の先生が、鍼の先を軽く動かしてしばらく放置し、鍼を抜いてから、その場所を指の腹でぐりぐりするのと同じことだろう。そうやってその場所に血がめぐりやすくするのだ。これも鍼を打ってもらいに鍼灸院に通ったことがあるので知っていた。

90秒、筋肉をゆるめっぱなしにするということを知らなかったのだ。そして、これが効くのだと思う。鍼を打つのと同じくらい効く。畑の草もだいぶ刈った。軽いぎっくり腰を繰り返していたときの何倍も仕事ができる。草の干物をかなり土に混ぜ込むことができた。

娘や女房にもやってみろと言っているのだが、彼女たちはやろうとしない。長年一緒に暮らしてきているので、彼女たちは私を信用しないことに決め込んでしまっているのだ。私はそれほど信用できない人間なのである。

馬鹿だねえ。やってみて駄目なら駄目と言えばいいのだ。決め込みということは恐ろしい。やだねえ。決め込むことに決め込んでいるのである。恐ろしいねえ。

読者の皆様におかれましては、どうぞお試しあれと申し上げておきますぞ。

このところ寝不足が続いておりますので、今回はたったこれだけ書いて、明日の暑さに備えさせていただきます。頓首。
と、ここまで書いて寝た。もうそれだけでゲンコーにするつもりだった。
夜中3時頃に寝て、よく寝た気がして起きたら午後の3時だった。飯屋でこの時間に開いているところはほとんどない。4時で店を閉めるが、4時までは飯が食えるキャロルに行った。休みだった。かっぱ寿司しかない。かっぱ寿司に戻って、サーモンとイカを攻めた。「本気の炙り」とかいうのがあり、サーモンはいろんな炙りがある。トロサーモンの炙りが、炙りが浅くてうまい。イカはソデイカ、マイカ、アオリイカだったか、3つ食った。サーモンはまずチリの養殖ものだし、イカにはストロンチウムが蓄積されないとフェイスブックで読んだから、サーモンとイカを食うことが多くなった。
カツオのヅケも食ったが、太平洋で穫れる回遊魚を食うときは、放射能を食うつもりで食う。店内放送が「さまざまな品質管理をやっている」と放送している。何が品質管理かと言えば、日本で穫れた魚はホームページで県名まで明らかにしているというだけのことだ。
以前は、店内に魚の名前とその魚が捕れた海の名前を書いて張り出してあった。マグロのところを見たら、「太平洋」と書いてあった。あんたねえ、福島第一原発のすぐ脇の海も「太平洋」なんだぜ。

かっぱ寿司の店内放送は、国が決めた100ベクレル以下なら安全なのだと言っているにすぎない。はっきりとそういう数字を言わないで言っているにすぎない。何県で穫れた魚でも、漁港がその県にあるというだけのことだ。その県の陸地の上を海の魚が泳いでいたわけはない。県名を明らかにして何がなんだというのだ。
野菜のように、その県の土地で栽培するわけでもない。福島以外は安全だなどということがあるわけはない。魚は泳ぐし、回遊するのだ。だから、食うことはロシアンルーレットだ。回転寿司を回転する寿司のどれが実弾なのかわからない。どの県の漁港にあがった魚なのかをホームページに公表してあるからといって、なんで「安心」なのかわからないままとにかく食う。

無意味な放送をかっぱ寿司に行くたびに聞かされる。胸くそが悪くなる。お茶を飲む。

お茶を飲み、ガリを囓り、かっぱ寿司を出て、今日はコーヒーで休まずそのまま国民温泉に行った。セルフ整体をやり始めてから、温泉が気持ちよくなった気がする。先月、体調の「陰の極」というようなことを書いたが、セルフ整体を始めたら、「陰の極」を遠ざけておけるような気がするのだ。今のところ「陰の極」は一度も来ていない。

飯を食って、温泉で温まり、セブンイレブンの駐車場に駐めた軽トラの中で、コーヒーを飲みながらセルフ整体を40分くらいやった。それだけで、英語の仕事が始まる時間になってしまった。起きて、飯食って、温泉に入って、セルフ整体をやっただけだ。畑に行く時間はない。

頓首だ。英語のレッスンはさっき終わったが、頓首だ。
あんなに寝たのにまた眠い。
そうだ。つけ加えておかなければ。
セルフ整体がうまく体に届くと、眠りが深くなる。
であるからして、頓首。
来月再拝。

 

 

 

 

夢は第2の人生である 第1回

 

佐々木 眞

 

西暦2013年睦月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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ふと思い立って、昨年の1月から「夢日記」をつけはじめました。

ほとんど毎晩見る夢を、枕元の手帖にメモしておいて、朝一番にできるだけ忠実に再現したものなり。

いつのまにやらいっぱいたまったので、少し「風入」させて頂きます。

なおタイトルは、わが敬愛する仏蘭西の詩人ジェラール・ド・ネルヴァルの有名なお言葉をちょいと拝借しました。

ネルヴァルさん、許してね。

 

最近保守党の党首になった男から、自分のスピーチライターになってくれと執拗に頼まれたが、そもそも思想も主義主張もまるで正反対の人物なので、固辞し続けるうちに朝になった。13/1/3

オーストラリアでは革命が起こっていた。白人とアボリジニが激しい銃撃戦を繰り広げているが、その戦いの理由は判らない。どちらが革命派でどちらが反革命派なのかももちろん不明である。殺されないように逃げまわっているうちに朝が来た。1/3

それからわたしはようやく渋谷の大きな書店の入り口に辿りつき、そこに置いてあった汚れた布団を2つ折りにしてわたしの体を包み込むと、もう何があってもこのまま朝まで眠りこむぞ、と決意したのだった。1/4

私はとっくの昔に会社を辞めたはずなのに、当時の仲間が大勢集まってパーティを開いているようだ。事業部のリーダーがグラス片手にやってきて「あんさん、例の件どないなりましたか?」と尋ねる。はて、例の件とは何のことだろうか。1/5

そうだ忘れていた。吉本隆明にブランド宣伝の提灯持ちの本を書かせてくれるはずの講談社の鈴木編集長と大至急連絡を取らなければ、とんでもないものが世間に出てしまう。1/5

現場に駆けつけて見ると、想像以上の大混乱だった。 すでに暴徒と化した連中がてんでに武器を持って襲いかかって来たので、私はやむをえず腰にたばさんだコルトを取りだして先頭の男のどてっ腹めがけてぶちかますと、彼奴は朱に染まってその場に倒れた。 愉快だった。 1/6

急いで電車に飛び乗ると、国籍不明の奇妙な駅についた。線路の傍まで巨大な波が次々に押し寄せている。津波の前兆ではないかと私の身の毛はよだったが、誰も心配していないようだ。駅前ではボギーの極彩色の広告看板が「三つ数えろ!」と叫んでいる。1/6

ここはどこだか分からないが、どうやら私はがらがらの観光バスに乗って当地にやって来たらしい。しかし観光見物どころの騒ぎではない。なにやら怒り狂った連中がこちらに向かって走って来る。運転手が必死に押しとどめようとするのだが、バスの中に入ろうとしている。1/7

「これは乗り合いバスじゃない。券がなければ誰も乗れない全席指定の観光バスだ。」と運転手が怒鳴ったが、暴徒と化した彼奴等は耳を貸そうとしない。「指定席だかなんだか知らないがガラガラじゃないか。早く俺たちを乗せろ!」とまた怒鳴る。1/8

そこで俺はまたしても腰にたばさんだ愛用のコルトM1911を取りだして、バンバン撃ちまくると、彼奴等は蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったので、俺はアテネ五輪金メダルの北島康介のように「チョー気持ちいい」と叫んだのであった。1/9

昨夜の私はなぜだかリヤカーか人力車のようなものに乗って誰かから逃げていた。ここは中国? それともヴェトナムなのだろうか。ふと隣を見るとなんとイラストレーターの川村みづえさんだ。久しぶりなので挨拶しなきゃと思っていると、人力車はいきなり全速力で発車した。1/10

「みづえさん、どうしてこんなものに乗っているの?」と尋ねると「わたしもどうしてだか分からないの。それよりあなたは?」と聞かれても、私にだって分かるわけがない。1/11

フランスの郊外を走るローカル電車に乗っている。昼下がりにの車内は人もまばらだ。やっと駅についたので降りると世界中どこでも見かけるショッピングモールが駅前にそびえていた。入ると見知らぬ人が「お待ちしていました」と笑顔で迎えてくれるのだった。1/12

どうやら先方は私のことを知っているらしい。差し出された手を握るといきなり「例のシャツですが平織りにしますか、それとも綾織りで行きますか?」と聞かれた。いったいどういうことなのだろう? 1/13

この人が誰なのかは分からないが、恐らく服飾の世界の人であり、どうやら生地の問題でもめているらしいが、私にはなんのことやらさっぱり分からない。はてさてどう答えたものかと天を仰いだが、生憎太陽も星も見えなかった。1/14

するとその時、突然「平織り8割、綾織り2割で行きましょう。これがいちばん売れるんです」という声が聞こえたので、誰かと思ってその人物の顔をじっと見るとデザイナーの池田ノブオだった。1/15

私が荒れ地に巨大な木の枠をつくり、それを2階建て、3階建てへと拡大していると、人々がやって来て、「おおなんと素晴らしい。あなたは行く宛てのない難民のための住居をつくろうとしているのですね」と口々に言って握手を求めてきた。1/16

しかし私はそんなことは夢にも考えずに、ただ自分の夢の中でいたずらをしただけのことなのに、彼らはそれを勝手に拡大解釈して世間に触れまわっているのだ。1/17

昨日は大変だった。上司と組んで仕事をするのだが、その上司は「お前は仕事をしなくてもいいから、BGMにマーラーの交響曲を流してくれればいい」というのだ。1/18

法隆寺の沈香のような白壇の古木を11本並べておけば、馥郁たる芳香を放ちながらまるでCDラックのようにマーラーの交響曲を演奏してくれるという訳だが、その並べ方が難しい。1/19

また白壇の古木を9本ではなく11本というのは、マーラーの9つの交響曲のほかに「大地の歌」と未完の交響曲第10番も含まれているのだった。1/20

Twitterのツイートの欄にうなぎを入れ、そいつにチョイチョイ味付けをしてから私は自宅のメールアドレスに発送した。これで帰宅したら美味いかば焼きを食べることができる。1/21

ここはどこだ? たぶん中国の古い城塞だろう。私が大きな石積みの間の狭い道を登っていくと行き止まりとなり、そこから見下ろすと目がくらむような断崖絶壁だった。1/22

城塞の上からは遥か遠くにそびえる山々や平野を流れる川や、中国の古い様式の建物などがよく見えた。青い空の真ん中をさまざまな動物の形をした雲がゆるやかに流れている。1/23

疲れを癒しながらしばし絶景の鑑賞に耽っていた私は、自分の仕事を思い出して愛用のソニーの初代ビデオカメラを左の肩に乗せ、この素晴らしい景観を撮影しはじめた。これはちょっと重いが赤と緑の発色が鮮やかなのである。1/24

ふと気がつくと私から少し離れた所で、ソニーよりも大きなミッチェル撮影機がカタカタと音を立てながら回っている。昔映画の撮影によく使われた名機をひとりで操作しているのは頭の禿げたオッサンだった。1/25

よく見るとオッサンのとなりには、もうひとりもっと頭の禿げたオッサンが立っていて、ジタンを喫みながらミッチェルの回転に留意している。どこかで見た顔だと思っていたらゴダールとラウル・クタールの凸凹絶妙コンビだった。1/26

この至高の景色を前にしてゴダールがC’est Magnifiqueというかと思ったが、C’est mieuxといった。ゴダールたちと並んで撮影しながら私は限りなく幸福だった。1/27

センスの良くないデザイナーが示したレイアウトを前にしてウームと唸るわたし。明らかに彼奴は無能で悪しき表現物なのだが、ではどこをどう直せと具体的に言えないから困るのだ。1/28

私はおそらくモンゴルにいて、かなり高さのあるなんとか峠から大平原を見下ろしている。すると京マチ子似の白い着物姿の女性が、わたしに「どうしてもシェルタリングスカイに変えて頂かなくては困ります」と激しく迫るのだった。でも「シェルタリングスカイに変える」って、どういうこと?1/29

私が森の中で腰を下ろしていると、人々も思い思いに座っていたが、いきなり2匹の白い犬が1匹の黒い犬と喧嘩をはじめた。白い犬が黒に咬まれて悲鳴を上げているが誰も助けようとしない。人々がすがるような目で私を見るので、しかたなく「シロシロ」と呼ぶと、私のところに飛んで来た。1/30

ファニー・アルダンが夢の中で出てきて私に何か語りかけたのだが、ジュリア・ロバーツと同じくらい大きな口が動くのを見ていたので、彼女がなんと言うたのか忘れてしまった。1/31

 

 

 

 

ジャン・フォートリエ

加藤 閑

 

フォートリエ林檎1940-41

 

 

7月9日、東京ステーションギャラリーでジャン・フォートリエ展を観た。
フォートリエのことは何も知らないと言っていいほどだったのだが、なぜかこの展覧会の開催を知ったとき、これは見たい、いや見なければという気持ちが湧いた。
これまで図録などで見た何点かの作品の記憶と、誰だったか作者が思い出せないけれど「フォートリエの鳥」という題の詩があったはずだとか、アンフォルメルという今一つ自分の中で明確でない概念を確かめたい等、いくつかの思いが重なっていた。

この展覧会は大々的に宣伝されたものではなかったし、東京ステーションギャラリーもそれほどメジャーな美術館ではないのが幸いして、大きく混雑しているというようなことはない。なによりも、ほんとうにこれを見たいという人が一人(団体でなく)で来ていて、それが会場の雰囲気をよいものにしていたのも有難かった。
しかし、作品の質の高さは群を抜いていて、わたしが今年見た展覧会ではいちばん、もしかするとここ何年かでいちばんかもしれないと思うほどだった。優れた展覧会は会場に一歩足を踏み入れたときに感じるものがある。並んだ作品が醸し出す空気の厚みのようなものがあって自分はそこに入るのだという意識を覚える。かつて横浜美術館で開かれたセザンヌ展(1999)には圧倒的にそれがあった。フォートリエの作品を見ていくうちに、セザンヌ展の会場に立ったときの感覚が甦ってくるのを感じた。
もっと新しいところでは、同じ横浜美術館での松井冬子展(2011)にも少しだけれどそれがあった。というより、意図的にそれをつくろうとしてある程度成功したということだろうか。松井冬子展の最高傑作は池に映る桜の巨木を描いた「この疾患を治癒させるために破壊する」(デュラスの小説のようなタイトル)だが、展覧会を成功させるにあたってさらに重要な役割を果たしたのは、「ただちに穏やかになって眠りにおち」という、沼に沈んでゆく象の絵だった。わたしはそう確信している。これがはじめの方の部屋にあるからこそ、グロテスクな傾向の強いその他の多くの作品が絵画作品として実際よりも一段高められて見える。この絵を描いたこともそうだが、それ以上にここに展示したことに彼女の才能と見識を感じさせられた。

フォートリエ展に話をもどそう。林檎の絵がふたつあった。これがわたしにとって今回の展覧会のピークを成していた。展示としては、有名な「人質」のシリーズが中心なのだろう。会場を一巡すればわたしにもそういう印象がないわけではない。しかし、「人質」についてはレジスタンスとの関連で多くが語られているし、他の美術展に比べれば宣伝が少ないとはいうものの、展覧会の案内などではやはり中心作品として扱われているのは間違いない。するとどうしても、既視感というか、先入観にとらわれて絵の前に立つことになる。情報があるということは、必ずしも幸福な結果をもたらすものではない。

初期(1920年代)の具象から「人質」に至る作品はみなすばらしい。「森の中の男」をはじめとする油絵や、「左を向いて立つ裸婦」などのドローイング、どれも胃の中に石を投げ込まれるような絵だ。会場が静かなのもわかる気がする。目つきの悪い少女を描いた「セットの幼い娘」と題された油絵の前に立ったとき、唐突にルノワールの「ルグラン嬢の肖像」を思い出した。まったく対極にある絵なのに、鮮明に頭の中に画面が開かれた。その絵は2007年のフィラデルフィア美術館展で観たのだった。その愛らしさをわたしは何人かの友人に告げてまわった記憶がある。だが、この「セットの幼い娘」を同じように扱うことはできない。この絵からわたしが受け取っている情報は、わたしの中で極めて個人的に処理されていると思う。別の人が見ればその人なりの、また別の人が見れば別の見方で感得されるような作品なのだ。「ルグラン嬢」のように誰が見ても同じ愛らしさというのでは決してない。

フォートリエの作品は、すべてそのようにわたし一人に語りかけてくる。いや、語りかけるというようななまやさしいものではない。わたしの心の扉をこじ開けてはいってくるようだ。だから彼の絵から受ける感動は、瞬時に人生を生きなおすような衝撃がある。
一連の人物画を経て、果物などを描いた静物画の部屋にはいると、わたしの中につよくこみ上げてくるものがあった。描かれているのは梨や蒲萄、しかも筆致はぞんざいで緻密なものではないのに、わたしの深い感情をざわつかせた。そしてその正面に「林檎」の絵はあった。たまたま同じころ会場に入り、だいたい同じペースで進んできた男性が、この絵の前に立ったときほんとうに深く深く息を吐いたのが印象的だった。ものすごく個的にそれぞれの作品に対峙するような絵なのに、感銘は等しく訪れる。もう一つ、「醸造用の林檎」という、もはや林檎の形象をとどめていない絵があった。この二つの林檎があったからフォートリエは「人質」を描くことができた。それは疑いを容れない。先に二つの林檎がピークだと描いたのにはこの意味も含まれている。奇しくも15年前に訪れて生涯に何度めぐりあえるか分らない最高の展覧会と感じたセザンヌ展で、もっともわたしを捉えたのが「リンゴとオレンジ」という静物画の傑作だったのもなにかの符牒のようだ。

しかし、「人質」以後のフォートリエの作品をなぜアンフォルメルというのかはわからなかった。会場の途中でフォートリエがジャン・ポーランと語る短いビデオが放映されていて、フォートリエ自身が自分の作品を指して何度も「アンフォルメル」と言っているが、なんだか面倒だからそう言っておくかというように見えた。ただ、その中で「抽象は繰り返し繰り返し考えるが自分はそうではない」というようなことを言っていたのが興味深かった。ちょうどこの半月ほど前に東郷青児美術館で「オランダ・ハーグ派展」を見た。モンドリアンが4点来ていたので見に行ったのだが、「ダイフェンドレヒトの農場」という良い作品があった。もっとも、モンドリアンを見に来ようと思ったきっかけは、新聞で「夕暮れの風車」の図が紹介されていて、風車の背景となっている暮れゆく空が美しいと感じたからだ。その美しさは抽象を予感させる美しさだった。モンドリアンは有名な「樹」もそうだけれど、種明かしのように抽象への過程を作品でなぞってみせる。考えたかどうかは知らないが、思索的に見えるのは確かだ。それに比べるとフォートリエの方が直接的だ。樹や雲で抽象への道筋を示唆しようとするモンドリアンよりも、そのまま「林檎」や「人質」に入っていく。フォートリエは晩年の作品を、モンドリアンが「ブロードウェイ・ブギウギ」を描いたようには、描いていない。「アンフォルメル」とみんなが言うから名乗ってみたが、案外最初から最後まで、根は同じところにあったのかもしれない。