ジャン・フォートリエ

加藤 閑

 

フォートリエ林檎1940-41

 

 

7月9日、東京ステーションギャラリーでジャン・フォートリエ展を観た。
フォートリエのことは何も知らないと言っていいほどだったのだが、なぜかこの展覧会の開催を知ったとき、これは見たい、いや見なければという気持ちが湧いた。
これまで図録などで見た何点かの作品の記憶と、誰だったか作者が思い出せないけれど「フォートリエの鳥」という題の詩があったはずだとか、アンフォルメルという今一つ自分の中で明確でない概念を確かめたい等、いくつかの思いが重なっていた。

この展覧会は大々的に宣伝されたものではなかったし、東京ステーションギャラリーもそれほどメジャーな美術館ではないのが幸いして、大きく混雑しているというようなことはない。なによりも、ほんとうにこれを見たいという人が一人(団体でなく)で来ていて、それが会場の雰囲気をよいものにしていたのも有難かった。
しかし、作品の質の高さは群を抜いていて、わたしが今年見た展覧会ではいちばん、もしかするとここ何年かでいちばんかもしれないと思うほどだった。優れた展覧会は会場に一歩足を踏み入れたときに感じるものがある。並んだ作品が醸し出す空気の厚みのようなものがあって自分はそこに入るのだという意識を覚える。かつて横浜美術館で開かれたセザンヌ展(1999)には圧倒的にそれがあった。フォートリエの作品を見ていくうちに、セザンヌ展の会場に立ったときの感覚が甦ってくるのを感じた。
もっと新しいところでは、同じ横浜美術館での松井冬子展(2011)にも少しだけれどそれがあった。というより、意図的にそれをつくろうとしてある程度成功したということだろうか。松井冬子展の最高傑作は池に映る桜の巨木を描いた「この疾患を治癒させるために破壊する」(デュラスの小説のようなタイトル)だが、展覧会を成功させるにあたってさらに重要な役割を果たしたのは、「ただちに穏やかになって眠りにおち」という、沼に沈んでゆく象の絵だった。わたしはそう確信している。これがはじめの方の部屋にあるからこそ、グロテスクな傾向の強いその他の多くの作品が絵画作品として実際よりも一段高められて見える。この絵を描いたこともそうだが、それ以上にここに展示したことに彼女の才能と見識を感じさせられた。

フォートリエ展に話をもどそう。林檎の絵がふたつあった。これがわたしにとって今回の展覧会のピークを成していた。展示としては、有名な「人質」のシリーズが中心なのだろう。会場を一巡すればわたしにもそういう印象がないわけではない。しかし、「人質」についてはレジスタンスとの関連で多くが語られているし、他の美術展に比べれば宣伝が少ないとはいうものの、展覧会の案内などではやはり中心作品として扱われているのは間違いない。するとどうしても、既視感というか、先入観にとらわれて絵の前に立つことになる。情報があるということは、必ずしも幸福な結果をもたらすものではない。

初期(1920年代)の具象から「人質」に至る作品はみなすばらしい。「森の中の男」をはじめとする油絵や、「左を向いて立つ裸婦」などのドローイング、どれも胃の中に石を投げ込まれるような絵だ。会場が静かなのもわかる気がする。目つきの悪い少女を描いた「セットの幼い娘」と題された油絵の前に立ったとき、唐突にルノワールの「ルグラン嬢の肖像」を思い出した。まったく対極にある絵なのに、鮮明に頭の中に画面が開かれた。その絵は2007年のフィラデルフィア美術館展で観たのだった。その愛らしさをわたしは何人かの友人に告げてまわった記憶がある。だが、この「セットの幼い娘」を同じように扱うことはできない。この絵からわたしが受け取っている情報は、わたしの中で極めて個人的に処理されていると思う。別の人が見ればその人なりの、また別の人が見れば別の見方で感得されるような作品なのだ。「ルグラン嬢」のように誰が見ても同じ愛らしさというのでは決してない。

フォートリエの作品は、すべてそのようにわたし一人に語りかけてくる。いや、語りかけるというようななまやさしいものではない。わたしの心の扉をこじ開けてはいってくるようだ。だから彼の絵から受ける感動は、瞬時に人生を生きなおすような衝撃がある。
一連の人物画を経て、果物などを描いた静物画の部屋にはいると、わたしの中につよくこみ上げてくるものがあった。描かれているのは梨や蒲萄、しかも筆致はぞんざいで緻密なものではないのに、わたしの深い感情をざわつかせた。そしてその正面に「林檎」の絵はあった。たまたま同じころ会場に入り、だいたい同じペースで進んできた男性が、この絵の前に立ったときほんとうに深く深く息を吐いたのが印象的だった。ものすごく個的にそれぞれの作品に対峙するような絵なのに、感銘は等しく訪れる。もう一つ、「醸造用の林檎」という、もはや林檎の形象をとどめていない絵があった。この二つの林檎があったからフォートリエは「人質」を描くことができた。それは疑いを容れない。先に二つの林檎がピークだと描いたのにはこの意味も含まれている。奇しくも15年前に訪れて生涯に何度めぐりあえるか分らない最高の展覧会と感じたセザンヌ展で、もっともわたしを捉えたのが「リンゴとオレンジ」という静物画の傑作だったのもなにかの符牒のようだ。

しかし、「人質」以後のフォートリエの作品をなぜアンフォルメルというのかはわからなかった。会場の途中でフォートリエがジャン・ポーランと語る短いビデオが放映されていて、フォートリエ自身が自分の作品を指して何度も「アンフォルメル」と言っているが、なんだか面倒だからそう言っておくかというように見えた。ただ、その中で「抽象は繰り返し繰り返し考えるが自分はそうではない」というようなことを言っていたのが興味深かった。ちょうどこの半月ほど前に東郷青児美術館で「オランダ・ハーグ派展」を見た。モンドリアンが4点来ていたので見に行ったのだが、「ダイフェンドレヒトの農場」という良い作品があった。もっとも、モンドリアンを見に来ようと思ったきっかけは、新聞で「夕暮れの風車」の図が紹介されていて、風車の背景となっている暮れゆく空が美しいと感じたからだ。その美しさは抽象を予感させる美しさだった。モンドリアンは有名な「樹」もそうだけれど、種明かしのように抽象への過程を作品でなぞってみせる。考えたかどうかは知らないが、思索的に見えるのは確かだ。それに比べるとフォートリエの方が直接的だ。樹や雲で抽象への道筋を示唆しようとするモンドリアンよりも、そのまま「林檎」や「人質」に入っていく。フォートリエは晩年の作品を、モンドリアンが「ブロードウェイ・ブギウギ」を描いたようには、描いていない。「アンフォルメル」とみんなが言うから名乗ってみたが、案外最初から最後まで、根は同じところにあったのかもしれない。

 

 

 

佐藤時啓 写真展「光ー呼吸 そこにいる、そこにいない」について

 

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佐藤時啓の写真展「光ー呼吸 そこにいる、そこにいない」を恵比寿の東京都写真美術館でみて衝撃を受けてから、もう二週間ほどが過ぎてしまった。

 

Presence or Absence

 

この欧文が、写真展の図録の表紙に「型押し」されて刻み込まれていた。

「存在、または不在」と読めばよいのだろうか?

「光ー呼吸 そこにいる、そこにいない」とタイトルされた佐藤時啓の写真作品群の衝撃とはなんだったのか、この二週間、考えていた。

確かに、会場では、いきなり圧倒的な存在を感じた。
その作品のなかの圧倒的な存在をコトバで語ることが難しかった。

それは何なのかを考えていた。

会場の入口と出口に原発と円形石柱群の写真があった。
それらが糸口だろうと思われた。

入口では原発と円形石柱群の間に「ブロッコリー」が立っていた。
出口では原発と円形石柱群の間に「マヨネーズ瓶」が立っていた。

原発にも円形石柱群にもブロッコリーにもマヨネーズ瓶にも光は生まれていた。
作家が長時間露光でフィルムに刻んだ光の痕跡が生まれていた。

林のなかのブナの根元にも光は生まれていた。
また、海岸のテトラポットのまわりに光は生まれていた。そして都市の建造物のなかにも光の線は生まれていた。

わたしはその時かつて西井一夫が「暗闇のレッスン」という本で書いていたボルタンスキーの作品のことを思っていたのかもしれない。

アウシュビッツで亡くなったヒトたちの顔写真にライトが当てられている作品たち。

その無名であり、無数であり、圧倒的に不在である彼ら。

わたしたちはブロッコリーやマヨネーズ瓶とともに現在にいる。
そして現在とはアウシュビッツや第二次世界大戦やヒロシマやナガサキ、ミナマタや東日本大震災、フクシマを体験した現在である。

佐藤時啓の写真に感じた衝撃とは古代から現在まで連なる圧倒的な不在なのだと思われてきた。そこに圧倒的な不在の記憶が刻まれているのだ。

その無名であり、無数であり、圧倒的に不在である彼らは光であり、わたしたちとともにあり、わたしたちを支えているのだ。

佐藤時啓の写真作品は、圧倒的に不在であるものたちに寄り添うことで、現在のわれわれを支えようとする作品であると思う。

 

 

 

「何が閣議決定か。馬鹿らし。独裁ごっこだ。」と、フェイスブックに書いた夜に

根石吉久

 

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「閣議決定」という言葉を、この歳になってようやく覚えた。内閣のメンバーが集まって決定したことというようなことらしい。つまり、国会の議事を経ずに決定されたということである。
つい20分ほど前まで前日だったのだが、前日の夕方近く、集団的自衛権というものが閣議決定された。閣議で決定するものだから憲法の元で合法なはずだが、集団的自衛権が合法なのか違法なのかについて国会の議論は経ていない。
集団的自衛権を使えば、例えば、アメリカが他の国から攻撃されている場合、日本がアメリカと一緒になって攻撃する国と戦争することができるらしい。アメリカ本土でではない。どうせアメリカのことだ。いつだって、よその国に軍を送り、よその国で戦争をしているのだ。たいていは、アジアかアラブだ。

そこで日本の軍隊が戦争をする? なんのこっちゃ。

憲法に書いてあることを普通に読んでみれば、これは憲法と相容れない。
軍靴の音が聞こえるかといえば、私には今はまだ聞こえない。私が鈍くて、戦争を知っている年寄りたちはすでにその音を聞いているかもしれない。

私もすでに年寄りの仲間だが、ぎっくり腰の年寄りになってしまった。
話は急にぎっくり腰のことになる。

最初にぎっくり腰をやったのは、千曲川の河原でだった。家の中に猫のトイレを作るのに砂が必要だから、バイクで砂を運んでくるつもりででかけた。スコップで麻袋に砂を入れ、バイクの荷台に載せようとしたら、それまで感じたことのない痛みが背骨のあたりを雷の光のように走った。冠着山や三峯に黒い隈ができたように思った。河原が急に暗くなったようだった。

その時は何日くらい寝ていたのか覚えていない。

自宅自作をやっていた間は、相当重いものを持ち上げたりしたが、これも何回くらいぎっくり腰になったかを覚えていない。何度もやったことは確かで、なおりきらないうちに軽トラを運転して、軽トラのドアを開け、座、席か、ら下、りるとき、のつら、い感、覚は、その場、所と一緒、に、覚えて、い、る。  う。

夜中じゅう起きていて、昼頃起きるようなことが癖になっていて、これは今でもなおらないが、この寝起きのパターンと力仕事とがどうも相性が悪いらしい。
ぎっくり腰をやるのは、起きてからそれほど時間が経たないうちにやることが多い。

脳梗塞をやる前から、起きてから何時間もぼうっとしている状態から抜けないことは常態だった。ねぼけている状態が3時間も4時間も続くのだ。
昼に起きて飯を食って、自宅自作の現場に行き、高い足場の上に登ったりもしたのだが、現場仕事をやっていてもしばらくの間は、どうもぼんやりしていることがあった。丸鋸の刃が回る音で、神経だけが醒めてきて、体はまだ一部眠っているような状態でやっているのが常態になっていたように思う。
体がしゃきっとしてる時は、相当重いものを持ち上げたりしてもぎっくり腰になることはない。体が一部眠っているような、だるくて仕事に取りかかるのがいやだと思うようなときに、ちょっとした動きでぎくっとなる。一度やれば、3日ほどは寝たきりになり、トイレに行くのもつらい。体をほぼ普通に動かせるようになるまでに一週間、痛みがなくなるまでに二週間はかかることが多い。
40歳台から50歳台にかけて、語学論の掲示板を夜中じゅうやり、朝方眠ることを10年ほど続けたが、この間が一番ぎっくり腰をやった。頻繁にやるので、「俺はプロだ」と言ったことがあるが、自分ながら何のことだかわけがわからない。
どうもコンピュータの前に座って朝になるような生活と、体を使う仕事とは、そうとう相性が悪いらしいとだんだんわかってはきたのだ。

でかいやつもあれば小さいやつもある。小さいやつなら、3日ほど寝ていれば普通に体を動かせるようになるが、一番ひどかったのは、3ヶ月ほど痛みが取れなかったのがあった。歩いたりはできるのだが、痛みが取れず、医者に行っても変わらず、岡田幸文さんに電話でボヤいたら、岡田さんが雑誌の記事の腰痛体操をコピーして送ってくれた。その体操をしてみたら、体の中で何か動いた感じがあり、それきり痛みがなくなった。糸が何かにひっかかっていたのが外れたという感じだったのは、実際に神経という糸がひっかかっていて、それが外れたのじゃないだろうか。
仰向けに寝て、両腿が腹の上にくるようにし、両脚を折り、膝小僧を手で持って胸の方に軽く引いたままにし、しばらくそれを維持しているというだけで、体を大きく動かすような体操とは違う。それだけの動作が、この時はテキメンだった。医者に行き、牽引だの、赤外性で暖めるだのいろいろやってもらっても、痛みがとれずにいたのだが、腰痛体操を一回しただけで、すっと痛みがなくなったのにはびっくりした。
医者に行き、友達に教わった体操をしたらなおったと言うと、医者は嫌な顔をし、だったらその体操を続けろと言った。わざわざそんなことを言いにくるなという感じだった。参考になるかなと思ったので、痛みがとれたのにわざわざ行って話してあげたのに。

60歳を過ぎていたかどうか、60歳前後に、温泉に入っていてぎっくり腰をやった。何が原因かわからないので、感覚的にしか言いようがないが、どうも体の状態が陰の時と陽の時とがあるようで、ゆっくりと陰と陽の時期が交替しているようなのである。温泉に入るとそれがわかる。陽の時は、体の芯までお湯の温度が届く気がする。体が温まるのも、湯上がりに体を冷やすのも気持ちがいい。陰のときは、長くお湯につかっていられないし、長くつかっていられる時でも体の芯のほうに冷えたものがいつまでもある。温まった感じがしない。
温泉でぎっくり腰をやったのも、陰の時、あるいは陰の極の時だったのだろうと思う。お湯に入っていても、うそ寒い感じだった。湯口のお湯を飲もうと思って、カップを取ろうと、少し離れた位置から手を伸ばしたら、ぎくっと来た。どこで何が待ちかまえているか、わかったものではない。温泉でぎっくり腰をやったと言うと、人は笑う。信じない人もいる。馬鹿言うなとも言われた。

今年。梅雨に入る前、5月の晴れた日の日差しがきつい時はよく温泉に行った。2時から3時半頃まで温泉にいて、4時過ぎに畑へ行くということを晴れた日の日課のようにしていた。せっかく湯に入ってさっぱりして、また夕方汗をかくのが欠点だが、暑さよけにはいいアイディアだと自分では思っていたのだ。

梅雨に入って空気に湿気があるようになって、すぐに今年のぎっくり腰をやった。温泉から出て、そのまま畑に直行し、草を刈って立ち上がったら、ぎくっと来た。

二週間寝た。英語のレッスンの時だけ起きた。

どうも温泉で体を温めるのと、ぎっくり腰になるのが関係がある。起きて温泉に行っても、体は目をさまさない。逆にまた眠りに入ろうという態勢をとってしまうようだ。そういう状態の体で力仕事をしてぎっくり腰になるのは、起きて間もない時間にぎっくり腰をやったのと同じ原因なのではないか。それを激化しているようなものではないか。

陰の周期が来ている時、体がまだ寝ている、あるいは眠りに入ろうとしている時にぎっくり腰をやるのではないかと考えるようになった。神経と体は、ずれている。少なくとも私の場合は、ずれている。

いろいろやってみるが、今回は体の痛みが取れてから天狗山と呼んでいる公園へ通っている。天狗を信仰しているわけではない。
雑木のゆるい斜面の木を切り、桜を植えて公園にしたところだが、車道がつづら折りになっている。そのつづら折りを串刺しにするように、斜面を直登できるような散歩道ができている。ここを歩くと、斜面を一番きつい角度で登っていくので、ほぼ15分で息が切れ、呼吸が荒くなる。体に血がめぐるのがわかる。公園の一番高いところに着いたら、なだらかな車道のつづら折りを歩いて車を駐めたところまで降りてくる。降りてくる間に、呼吸は元に戻っていくが、その間に体が目を覚ます感覚がある。歩きながら、ああ、目を覚ましていくなあ、と思う。

隣町の戸倉で飯を食うことが多いので、飯の後、セブンイレブンでコーヒーを飲み、食休みしてから天狗山に行く。それで体が目を覚ました感覚を得てから畑に行く。これが今のところいいみたいだ。一度、小さく、体をしゃきっとさせるのはいいみたいだ。まことに小さな生活の知恵だ。

ぎっくり腰はつらい。本当にどうにもならないということを思い知らされる。寝返りが打てないとか、小さい咳をするだけで激震のように痛みが走るとか、椅子から立ち上がるのに1分も2分もかかるとか、その1分2分がとてつもなく長い時間に感じるとか、まあいろいろ言ってみるが、つらいのだ。もう俺は終わったんじゃないかと思ったことが何度もある。

今回のぎっくり腰は一度は痛みが取れたのだが、どうも不快感のようなものがすぐに復活する。
昨日、畑が暗くなりかけて仕事を切り上げたとき、軽トラに乗ってすぐに、集団的自衛権はどうなったんだと思い、iPhone のフェイスブックを立ち上げた。ニュースフィードに山本太郎の「無法者め!」というようなタイトルの記事があって、閣議決定がなされたのだと知った。

帰りの車の中で、そうだ、首相だとか大統領だとかやる人は、重いぎっくり腰を何度かやった人に限るという国際法を作るといいと思ったのだ。あんまりぴんぴんしてるような人が首相やら大統領やらやるもんじゃない。ぴんぴんしてるやつには資格がない。安倍の腹痛程度じゃ駄目だ。自分の体ひとつが自分で動かせない感覚を知ってる人がやるべき職だ。自分では動かせないが、他人にはなおさら動かせないのだ。女房だって駄目だ。自分でそうっと動かすしかない。机に両手を突いて、1分も2分もかけて、腰を30センチほどあげて、その後10秒くらいかけて、ゆっくりと腰を伸ばすような不自由こそが、外交ってものじゃないか。現実ってものがなければ、腰が痛ければ、痛い間は寝ている。俺はそうする。現実ってものがあるから、椅子に腰掛けなければならない。そしてなお、30センチ腰を上げる長い長い旅をしなければならない。安倍はこの旅を知らない。

国際法はまだまだの出来だ。法整備はできていないが、首相になりたい人や大統領になりたい人は、その前にぎっくり腰をやろう。
そうじゃないと、生活を思いやるということができないようなハンチク野郎が生活に迷惑をかけるのだ。

畑から帰る途中で、そんなことを思ったので、最初に集団的自衛権のことを書いたのだった。神経がひっかかるようにひっかかっている。腰痛体操ではどうにもならない。

ん?
集団的自衛権?
集団的の「的」って何だ?
自分の腰を撫でながらだが、近頃の日本語はどうもなまくらだと思う。

そういえば、フェイスブックに、次のようにも書いたのだった。

「解釈」!
そんなもの、学校の教室ででもやってろ。
「解釈」が直接的に生活に触ることは、犯罪者の直接性と同じものだ。

 

 

 

ミカラ・ペトリ

加藤 閑

 

 

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ミカラ・ペトリは10代はじめからコンサート活動を行なっている。最初の頃は家族(ハンネ・ペトリのチェンバロ、ダビッド・ペトリのチェロ)でミカラ・ペトリトリオを編成し、コンサートやレコーディングを行なっていた。しかし、突出した才能をかかえた家族が演奏を続けていくのは難しい。やがて多くの演奏家やオーケストラと共演するようになる。
そうした中で、ギター、リュート奏者であるラース・ハンニバルと出会い、1992年からデュオのコンサートを開始する。共演のディスクも発売された。1994年に「Souvenir」(邦題「愛の贈りもの」)を発表し、その3年後には「AIR」(邦題「G線上のアリア」)が出ている。この頃、ペトリとハンニバルは結婚しており、「愛の贈りもの」というタイトルや「AIR」のジャケットデザインにはそれが色濃く反映している。

「AIR」はわたしが買ったミカラ・ペトリの最初のディスクである。それまでにも、彼女が参加しているCDを手にしていることがあったかもしれないが、ミカラ・ペトリがいるということを意識したことはなかった。だが、「AIR」にはリコーダーの演奏家として強い存在感を示す女性がいた。ディスクはサティの「ジムノペディ1番」からはじまる。このCDがどれくらいペトリ自身の意向が入っているのか、ハンニバルの意見が反映されているのか、またプロデューサーや製作スタッフの意図がはたらいているのかはわからない。ただ、最初にサティをもってきた選曲だけを見ても、これまでとは違うリコーダーのディスクをつくろうという意欲が伝わってくる。
「ジムノペディ」は1番、3番、2番の順で使われている。あたかもこのディスクに集めた曲を要所々々で束ねるように最初と真ん中と終わり近くに配されている。このサティの曲がどちらかというと暗い色調を帯びているせいもあって、そのほかの曲の演奏がことのほか明るい。グリーグの「25のノルウェイの民謡と踊り」からの5曲などは当然としても、「悪魔のトリル」として有名なタルティーニのソナタ、ト短調も超絶技巧を極めるデモーニッシュな印象などさらさらなく、ただひたすら軽快で明るい。天衣無縫とはこういうことをいうのだろうか。こうしたところは、もっと以前の録音を聴いても変わらない彼女の特性と言える。

もうひとつ、このディスクの特徴は、全体にみなぎっている幸福感にある。わたしは演奏家の私生活の状態で演奏をとやかく言うのは極力排除したいと思っているが、手をつないで駆け出した二人の写真の白いジャケットも、天稟にさらに磨きをかけた明るいリコーダーの音色も、結婚式のアルバムを開くような香気に満ちている。ペトリはハンニバルに出会って、それまで演奏のことばかり考えて閉ざされていた自分が開放されたというようなことを言っている。ここに収められた曲はことごとくその幸せがあふれているような演奏だ。こう書くと情感に流れそうだけれど、それを引き締めてとどめているのが、3つの「ジムノペディ」とミカラ・ペトリの技術だと思う。正確な音程、揺るぎない運指は誰にも真似できない。バロック演奏の知識のなさや使用楽器の歴史的な曖昧さを指摘する人もいるようだが、無意味なことだ。学問としてオーセンティックな演奏を追求するのが無価値とは言わないが、ミカラ・ペトリはそういうところで音楽をしていない。

リコーダー奏者ミカラ・ペトリについて書けば、当然フランス・ブリュッヘンに触れなければならない。ミカラ・ペトリが登場するまでは、リコーダーといえばブリュッヘンだった。しかし、ミカラ・ペトリがリコーダー演奏の天才だとすれば、ブリュッヘンの才能は音楽そのものを構築していく方向に向かっている。彼は、ニコラウス・アーノンクールやグスタフ・レオンハルトとともに、バロック音楽を中心としたレパートリーの演奏を続けた後、世界中の優秀な古楽演奏家を集めて18世紀オーケストラを結成する。彼らの演奏は、その前に41番までの交響曲を70曲以上として全集を仕上げて当時の音楽界をあっと言わせたクリストファー・ホグウッドのモーツァルトを演奏面で凌駕していく。ブリュッヘンは古楽器や楽譜の検証を重視しながらも、それよりもさらに音のひびきや音楽性の高さに重きを置いた。それは1985年以降、矢継ぎ早に繰り出された録音を聴けば明らかだ。シューベルトのハ長調の大交響曲(D944)など、フルトヴェングラーの次に来る名演だと信じている。

ブリュッヘンとペトリと、録音している曲に重複はたくさんあるが、耳にしたときの心地よさはミカラ・ペトリが圧倒的に勝っている。かつて「リコーダーの妖精」として華々しくデビューし、いまもリコーダーの第一人者として広範なポピュラリティーを獲得しているのも頷ける。しかし、もう一度聴こうということになると、ブリュッヘン盤を選ぶことが少なくない。彼にとって古楽の研究は、そのまま自身の音楽を深めていくことにつながっていたように思える。18世紀オーケストラは毎年世界各国をまわるツアーに出る。最後にオランダに戻ってきて最後の公演を行ない、その録音をディスクにするという活動を繰り返していた。そんな彼らの傑作のひとつにモーツァルトの「レクイエム」の録音がある。
これはオランダではなく、日本各地でコンサートを行なった後、東京の最終公演が録音されたディスクだ。当日のコンサートのままに、「フリーメーソンのための葬送音楽」、「クラリネットとバセット・ホルンのためのアダージョ」そして「レクイエム」の順で納められている。全体に抑制された表現をとっているが、内に秘めた力が伝わってくる演奏になっている。「レクイエム」の間に歌われるグレゴリオ聖歌も典礼の雰囲気を高めていて、ブリュッヘンが常に音楽表現として最高のものを求めながら、古楽演奏を続けているのがわかる気がする。一度聴いたら胸の底の方にいつまでも沈んでいるような音楽になっていて、何度も繰り返し聴けるものではない。

 

 

 

 

収穫することにやぶさかではないが・・・

根石吉久

 

サツマイモ予定地
サツマイモ予定地

 
ブラウザに公開される「ページ」というのが、フェイスブック上に作れるらしいと分かり、一つ作っているうちに二つできてしまったのが二年ほど前のことだった。片方を、語学論と称してきたものを掲載するのに使うつもりだったが、井上陽水の my house のURLなどを貼り付けて遊んで、放置してしまった。もう片方は、使い途が思いつかなかったので、そっちもそのままにしてしまった。
今年、畑に出たのは二月の終わり頃だっただろうか。アイフォンで写真を撮って、畑からフェイスブックに送ってみた。アイフォンでは文章が書きにくいので、写真だけ送っておき、夜、英語の仕事が終わってから、ビールを飲みながら短い文章を書くことが多かった。ごく短いコメントは、畑でアイフォンで書くこともしたし、畑から帰る途中、コンビニの駐車場に車を駐め、コーヒーを飲みながら書くこともあった。

畑でサツマイモを作り、去年作った石釜で焼き芋を焼き、焼き芋屋になることを予定しているとフェイスブックに書いたら、山下徹さんが、今年の秋、焼き芋を買いに行くつもりだと書き込んでくださった。神戸から長野まで、焼き芋を買いに来てくださるというのである。山下さんが、私の焼き芋屋の最初のお客様になるのだろう。

何年か前、サツマイモを作り焼き芋を焼いたことはある。その時は、ドラムカンを改造した窯で作ったが、焼き芋はうまくできた。
そのとき芋を作った畑と今年は畑が違う。今年、サツマイモを植える予定のところは、ずっと草を生やして放置しておいたところであり、草の根が土の中にびっしりと広がっている。耕さずに、ノコギリ鎌で草の根を切るだけで、サツマイモの苗を植えるつもりでいたが、少しは鍬を入れないと駄目だろうか。あのままでは、草の根に縛られたようになり、芋がふくらむ場所がないのではないか。
前に遊んだ時とは、窯も違うし、畑も違う。畑が違うからできる芋も違うはずだ。焼き具合も違うはずだ。どうなるだろうか。
その後、山下さんはフェイスブックの違う写真にコメントして下さり、秋、奥様も同行する予定だと書かれた。ううむ。お二人で来られて、しかも、うまく芋ができてなかったら、芋を買ってきて焼いて、ごめんなさいと言うしかないなと思ったが、問題はそれだけではない。山下さんは、奥様に農業指導をして欲しいと書かれていたのだ。

考え込んでしまった。

考え込むと言っても、どうせ私のことだから、30秒ほど考え込むことをしただけなのだが、その後、畑にいて、喉に魚の骨がひっかかったようなこころの状態になっていた。気になって何度も思い出すのである。農業指導かあ、と思うのである。

俺はいったい何をしてきたのか、と思うのである。

実に様々なことをしてきた。一貫していたのは、農薬・化学肥料を使わないということだけで、その他に一貫していたことは思いつかない。土手草を使ったり、キノコ栽培後の廃菌床を使ったり、30センチもスコップで掘って廃菌床を敷き詰めてみたり、土手草を畝の上に敷き詰めてみたり、最近では、畑の通路の草を刈り、天気がよければ一日か二日、天日で乾かして草の干物を作り、それを5センチ、10センチ程度に浅く埋めて土とまぶしたり、とにかくいろいろやってきた。
その時々で、手応えがあると人に話したりもした。こうやるとこうなるということを話して、人様がそのやり方を採用してくれ、試してみてくれることもあった。そのことで、その人に迷惑をかけたかもしれない。
例えば、川口由一の方法を試したときだが、「草は刈ってその場に置く」ということを試したのだった。川口はその方法は「誰にでもできる」と言うのだが、とんでもないことだった。確かに「刈ってその場に置く」というだけのことなら、「誰にでもできる」。刈ればいいのだし、その場に置けばいいのだから、ぎっくり腰をやっているとか、体が動かせないとかでなければ、私にもできる。しかし、このやり方は、いつも注意深く畑を見ていなければならない。草によっては、新しく出てきた芽が、刈って置いたものを持ち上げてしまって、枯れ草の下がスカスカになったりする。草が土に触れていなければ、雨が降ってやんでも、すぐに乾いてしまう。そうなれば、草はなかなか土になっていかない。その場合には、伸びてきた新しい芽をもう一度刈るようなことをして草を弱らせ、刈られて枯れた草が土に接しているか、土にごく近いところにあるように直さなければならない。手間がかかる。
「刈ってその場に置く」という行為自体は「誰にでもできる」が、絶えず畑を見ていて、細かく手を入れていくことは誰にでもできるわけではない。私の場合は、英語の練習用の教材を新しく作り始めたり、去年のように庭に石釜を作り始めたりしてしまうと、畑に行くことは激減する。それが、そのままこの方法の失敗につながっていった。一言で言えば、専業で「草は刈ってその場に置く」のでなければ、まずほとんど失敗する。

部分的なことを人に話しても、うまくいくとは限らない。
しかし、部分的なことだけ聞いて、それを試してみてくれた人はいて、その人の元でも、私の失敗と同じことが起こった。つまり、ただ単に畑が草ぼうぼうになったということである。草を刈って、その場に置いて、その場で草を育てているだけになったのである。作業全体の中には、どれだけ畑に時間が使えるかということも含まれている。川口はそのことには触れず、「誰にでもできる」と言っている。だから、「とんでもない」なのである。

川口の方法の後、ネットで知ったのは炭素循環農法と言われているやつである。炭素循環農法でキノコの廃菌床を使う場合は、菌床に糸状菌がまだ生きているうちに畑の土の浅いところに混ぜる。
山にある腐葉土などをひっくり返してみると、枯れた小枝などが湿り、白い糸のような菌が枝に沿って伸びているのが見えることがある。この白い糸のようなものが糸状菌なのだが、キノコ栽培後の廃菌床の糸状菌を生きたまま土に混ぜ込むのは難しい。
キノコの栽培工場と打ち合わせをして、廃菌床が出る日に一挙に畑に混ぜなければ、「生きたまま」の糸状菌を使うことはできない。野積みにすれば、糸状菌は発酵熱で死んでしまうのだ。それに、キノコの栽培工場から出たばかりの廃菌床を、その日のうちに土に混ぜ込むには、私の方で浅耕できる中型以上の耕耘機を持っていなければできないが、私は持っていない。少しだけ試してみて、廃菌床を使うことはあきらめた。

炭素循環農法のもう一つの資材は、畑やその周りに生える草である。川口由一の「刈ってその場に置く」でも、草は使ってきたので、草を干物にして土に浅く埋める方法でやってみることにした。

なぜかわからないが、川口の「刈ってその場に置く」だと、ドバミミズが殖える。雨上がりなどに、土の中から出て這っていたミミズが、急に太陽に照らされ、土の下に逃げ遅れて死んでいるのを見ることがある。場合によっては20センチもあるような大型のミミズである。この辺ではドバミミズと呼んでいる。鯉釣りの餌に使える。

単にミミズと呼んでいるのは短いやつだ。シマミミズも縞のないやつもひっくるめてミミズと言っている。大きくても5センチ程度、鮒釣りなどに使うのは、3,4センチ程度のもので、堆肥の裾などに棲んでいる。最近では堆肥の山を見なくなったので、ミミズもあまり見なくなった。
ミミズは、有機物がよくこなれていない土、土を掘れば土が腐敗に傾いていて、土が臭いようなところにいる。

炭素循環農法では、「ミミズのいるような土はよくない土だ」と言っている。ここで言う「ミミズ」が、この辺で単にミミズと言っている短いミミズなら、それはその通りなのだが、ドバミミズのいる畑の土は臭わない。ドバミミズは、有機物がこなれて、浄化され、清浄になった土にいる。
有機物は積み上げると腐敗しやすい。だから堆肥の裾にはミミズがいるのだ。これが、炭素循環農法がけなしている「よくない土」だ。それはその通りだが、炭素循環農法は、ドバミミズのいる土のことがわかっていない。ブラジル生まれの農法のせいなのかどうかはわからない。

草などを浅く散らし、絶えず土に直射日光が当たらないようにする場合は、草と土の接するところで、腐敗の過程が生じないまま、草は土に変わっていく。発酵熱も出ない。これが、川口由一の方法がうまくいった場合に起こることだ。これだと、ミミズはいなくなり、ドバミミズが急激に増える。釣りの餌に欲しいときは、畝の草を刈る。ドバミミズは草が刈られる音が嫌いなのか、草の根の震動が土を震わせるのが嫌いなのか、土から出てきて人の目に見えるところを這う。やたら体をくねらせているので、あわてているのがわかる。ちょっと草を刈れば、簡単にいくつも拾えるくらいに出てくる。こういうふうになった土はいい土だ。変な臭いはまったくしないし、林の中にいるときのようなにおいがかすかにする。野菜も育ちさえすればうまい。

だから川口由一の方法はいいのである。いいのであるが、手間が馬鹿にならないのである。手間まで含めて、「誰にでもできる」と言っているのではないのである。くどいようだが。

川口の方法を試しているとき、女房をどやしつけたことがあった。女房が通路の草を根こそぎ抜いたから、どやしつけたのだ。「草は刈ってその場に置く」ということを試しているときだったし、それを試しているのだと女房に伝えてあったにもかかわらず、草を根こそぎにしたからどやしつけたのである。それをやられたのでは、実験ができない。
うちの女房は大変強情で、伝えるべきことを伝えてあっても、それを無視して、勝手に自分のやりたいようにやる。別に百姓仕事に限ったことではない。相手が考えていることを「汲む」ということをしないのだ。あるいは、表面的な論理しか「汲む」ことができないのだ。「草は刈ってその場に置く」はきわめて表面的な論理だが、その時は、それさえ汲まなかった。無視した。だからどやしつけた。
どやしつけたあたりから、女房は畑を手伝うことはしなくなった。今では、私が一人でやっている。

炭素循環農法は、草を「置く」のではなく、「混ぜる」。これは別に独自性を主張できるほどのことではない。農薬や化学肥料が普及するまでは、どこででもやっていたことだ。独自性を主張できるとすれば、草を刈って少し放置し、干物にすることと、その干物を土の浅いところに埋めるのだと言い、「浅いところ」を強調したことだ。

「干物」という言い方は、私が勝手に言っているのであり、炭素循環農法では「秋のもの」と言っている。
春や夏に刈った草も、日干しにして枯れてきたものは「秋のもの」だと言っている。炭素循環農法を広めるためにネットのユーチューブによく出てくる人は、最近の日本人は、「秋のもの」という言い方で言っていることが伝わらないとぼやいている。枯れ葉や枯れ草の「枯れた状態」のことを「秋のもの」と言っているのだが、そんなふうに情緒的に言う必要はない。春に刈って乾かしたものは「春のもの」だし、夏に刈って乾かしたものは「夏のもの」だ。どっちも「干物」だと言えばいいことだ。

今やっているのは、炭素循環農法から得たヒントにもとづいている。しかし、去年の半年ほど、つまり春から秋まで、石釜を作っていたので、畑に通えなかった。そのせいか、野菜がまずい。サラダで食べられるはずの葉物野菜が渋みが強すぎてまずい。これじゃあ駄目でしょ、と思った。

川口由一の方法とまったく両立しないものは、今年の3月半ば頃から着手したポリエチレンの黒マルチの使用である。ビニールやポリエチレンを使った農法を、長年にわたってしゃらくさいものとして眺めていたので、ポリエチレンのマルチをするのは、私としては、完全な敗北である。これが完全な敗北であることは、別の原稿に書いた。

黒マルチは炭素循環農法とは両立する。ユーチューブで講釈する人は、草を「秋のもの」にして、土の浅いところに埋めるということだけしゃべっているのだと思っていたが、マルチをすれば「もっといい」と言っているのをたまたま聞いた。
ちょっと待てよ。マルチは、土と空気を遮断する。そのことで棲みつく微生物はまるで違ってくるはずではないのか。「もっといい」程度の違いで済むのか。嫌気条件を作って、「もっといい」などというのなら、これまでどうして草の干物を土の浅いところに埋めると言ってきたのだ。土の浅いところとは、好気性の微生物が活動する場所ということではないのか。そういうことも気になったが、炭素循環農法はポリエチレンやビニールを使うことは気にしないのだなと思った。

近所にゴミの溶融炉が建設予定だと聞き、自分で持っていた印刷機でビラを刷り、バイクで一軒ずつ村や町の家の郵便受けにビラを配って歩いたことがある。塾に英語を習いに来る生徒が激減した。
ビラにプラスチックを燃やすなということを書いたこともあり、プラスチックやビニールやポリエチレンの「使用後の行き先」「使用後の処理法」が気になるようになった。炭素循環農法は、そんなことは気にしない。
私は、破れたポリエチレンのマルチは、新しいポリエチレンの袋に入れ、畑の通路に浅く埋めようと考えている。草が生えにくくする用途になら長く使える。今のところ、それ以外の使い途は思いつかない。土で汚れたポリエチレンを行政に渡そうが、農協に渡そうが、どうせ焼却するか溶融するかどっちかだと思っているから、行政にも農協にも渡す気はない。

どうにも気になるのが、今年の野菜がまずいということだ。去年一年、畑に通う日が少なかっただけで、こんなにまずくなるのかというくらいにまずい。畑に毎日のように出られなくても、たまには草の干物を土に入れていた。しかし、入れっぱなしで、一月後くらいに土と混ぜ、有機物と土がよく接触するようにする作業はさぼった。渋みはそのせいではないかと推測している。土はなまものだとか、土は生き物だという言い方は、近代科学からは違うと言われるだろう。近代科学以後では、土は肥料分を含む細かい鉱物に過ぎないのだ。しかし、その言い方は科学的に正確であるだけだ。
川口の方法でやるとドバミミズが急激に増えるというようなまったく別の信号を受け取っている場合には、土は生き物だという言い方は非常に正確な言い方だと思う。

黒マルチの他に今年始めたことは、えひめaiというものを使うことである。
以前、EMがはやったことがあるが、微生物や酵素のブレンドを作ることでは、えひめaiもEMも似たような考えにもとづいている。
EMは「有用微生物」の英語の頭文字だが、要するに自然界にいる微生物の中から優等生を集めブレンドしたものである。えひめaiとブレンド具合がどんなふうに違うのかはわからない。というのは、EMは製法が閉じられていて、EM菌というものを消費者が買わなければいけないようになっているからだ。製法が非公開で、その利権を世界救世教が買ったというような噂を聞いた。

えひめaiは、製法が公開されている。

えひめaiで使うのは、イースト菌、納豆、ヨーグルト、砂糖である。これらを一定の割合で混ぜ、35度の熱で24時間、急激に繁殖させる。イーストや枯草菌や乳酸菌が砂糖を餌に繁殖し、酵素やアルコール(微生物の糞)を作り出し、酵素やアルコールが、土中の微生物のうち有機物を発酵させる性質のものを活性化させるのだろうと考えている。
えひめaiの作り方は、ネットで「えひめai」を検索すれば出てくる。えひめaiの元になっているのは、スーパーで買えるような「微生物の優等生」だが、優等生は自然界にただ置かれると弱いものだ。微生物のまま土に混ぜても、おそらく自然界の微生物の餌になるだけだろう。だから、35度の熱で24時間繁殖させるようなプロセスは人工的に行わなければならない。
えひめaiを作ることは、発酵菌を繁殖させ、腐敗菌を抑えるような性質の酵素を作ることだろうと推測している。

黒マルチの下に、ジョウゴで月に一度くらい注入してみようと思っているが、今年の野菜の味の悪さはどうなるだろうか。良くなってくれ。今年の野菜はうまくない。つまり、まずい。

農薬や化学肥料を使わないことの他に、もうひとつ一貫していたことがあると気づいた。土が良くなるのか、悪くなるのかにはいつも興味があったが、収穫できるかどうかにはほとんど興味がなかったということが一貫していた。だから、土や草をいじっているだけで、なんにも穫れないことがあっても、それはそれほど気にならなかった。
百姓をするのは、野菜を「穫る」ことが目的だろう、と言われてもピンと来ない。「穫る」ことにやぶさかではないが、そんなに興味がないのである。それよりも、畝の草を刈るとドバミミズがどんどん這いだしてくるとか、草の干物を埋めようとして、土を浅くどかすとき、以前に埋めた草のせいで土がほっこり軟らかくなっているとか、土をどかすのに力が要らなくなっているということの方がずっと面白かったのだ。台所から出る生ごみを畑に持って行き、以前に生ごみと土を混ぜておいた山を割って、新しくて臭い生ごみをおしあけ、鍬で混ぜる。その時、えひめaiの数百倍液の水をかけてやると、生ごみのいやな臭いが消える。そういうことも面白かった。完全に腐敗の方向をたどり始めている有機物を、発酵の方向へ瞬時に転換させていることが、人間の嗅覚でもわかるのだ。

私は、広い意味でなら、発酵マニアの一人なのかもしれない。

発酵マニアの遊びであり、百姓仕事でも農業でもない。そういうふうに書いてみると、なんか、自分で、納得できる。自分がそういう者なので、山下さんの奥様に「農業講座」(徹さんの言葉だったと思う)はできないのだということがわかる。それを明らかにすることができれば、喉に骨がひっかかったようなこころの状態は、直るのではないか。

なにしろ、収穫を邪魔扱いしないまでも、目的とはしていないので、家族からは馬鹿にされっぱなしである。収穫するというだけのことなら、私よりも女房の方が上手なくらいだ。だから、女房は私を堂々と馬鹿にする。土佐のハチキンにつける薬はない。

こうしたらこうなったと言うことは、手間が許すかぎりなるべく公開していくつもりだが、同じようにやってみてわかったことは、やってみた方が公開して欲しい。私も参考にしたい。
自分が何をして来たのかということが、少しはっきりした。書いてみないと、はっきりしてこないものというものはあるものだ。

■フェイスブック「素読舎」

 

 

 

 

クララ・ハスキル

加藤 閑

 

20140518_クララハスキル表    20140518_クララハスキル裏

 

クララ・ハスキルにルートヴィヒスブルク・フェスティバルのライブ録音がある。(CLARA LHASKIL AT THE LUDWIGSBURG FESTIVAL, 11 APRIL 1953、MUSIC & ARTS 1994 )
これは素晴らしいディスクだ。ひとりのピアニストのライブを1枚のディスクに収めたものはたくさんあるけれど、コンサートの雰囲気を伝えつつ、なおかつその音楽から深い感銘を受けるディスクとなるとそう多くはない。ホルショフスキーの「カザルスホール・ライブ」やリヒテルの「ソフィア・ライブ」、リパッティの「ブザンソン告別コンサート」などを思い出す。ハスキルのこの録音はそれほど有名なものではないが、それらに伍して、あるいはそれ以上に強く心に残る。
クララ・ハスキルというと、一般的にはモーツァルト弾きというイメージが強いようだが、わたしは以前からそれには疑問を抱いてきた。この録音にはモーツァルトは1曲も含まれていない。しかし、彼女のモーツァルトの録音を聴いたときよりも印象は深い。土台、「モーツァルト弾き」という称号など、女性のピアニストが目立ってきたときに業界がつける当たり障りのないキャッチフレーズのようなものだ。リリー・クラウス、イングリット・ヘブラー、マリア・ジョアン・ピリス、内田光子等々、いずれもモーツァルト以外にも立派な演奏を残している。

第1曲のバッハ「トッカータ」ホ短調(BWV914)の出だしからしてほとんど尋常ではない。こんなに強いバッハがあるだろうか。とは言っても「トッカータ」の演奏自体が少なく、ピアノ演奏で手元にあるのはグールドの全曲盤くらいのものだ。それとはまったく違う。まったく違うというのをいつもはグールドの演奏について言っているのに、ここでは反対にグールドとはまったく違うと言わなければならない。
次いで、スカルラッティのソナタが3曲入る。バッハから続いて奏されるハ長調(L-457、K-132)も凄い演奏だ。スカルラッティのソナタでこれほど圧倒される音楽は他に知らない。
有名なロ短調のソナタ(L-33、K-87)も弾いているが、これはやや微温的。そのあとに来るベートーヴェン最後のソナタ(ハ短調、Op-111)がまた名演だ。これを聴くと、もしかしたらこの日のハスキルはここへ持ってくるために、バッハもスカルラッティも特別の密度を持って弾いたのかもしれないとさえ思えてくる。
この最後のピアノ・ソナタをベートーヴェンの最高のピアノ曲とする人もいるが、わたしには今ひとつピンと来ないものがあった。なにか聴いているうちに気持ちが他に行ってしまうようなところがあったのだ。しかし、この演奏はわたしを離してくれない。聴いているうちに身体の奥の方が重たくなって身動きがとれなくなるようだ。なんという悲しい音楽なのだろう。クララ・ハスキルの音楽は、わたしに生きること、人としてこの世に存在することの悲しさを教えてくれる。そして同時に、それが必ずしも不幸なことではないということも。

ほんのちょっと前まで、わたしは自分が死ぬということをまったく考えなかった。一つの物体として消滅するのは当然のことだが、こうして考えている自分がなくなることを信じられなかったのだ。しかし、昨年60歳になったことと、3人の友人を相次いで亡くしたことで、死が遠いものではないことを思い知らされた。それがあまりにも素直にわたしのそばにやってきたのには驚かざるを得ない。
クララ・ハスキルのこのディスクが今まで以上にわたしの気持ちの中に染み入ってくるのも、そうした自分の心のありようと無関係ではないのかもしれない。それでは、そのときの精神状態によって音楽に対する評価が変わってしまうと言われるだろう。だがわたしにとって音楽とはそういうものだ。いつも均質な心で音楽を聴いているとしたら、どんな素晴らしい音楽もひとに感銘を与えないだろう。今は、なによりもクララ・ハスキルのこの強い音楽を欲している。

■Clara Haskil at the Ludwigsberg Festival (11 April 1953)
Johann Sebastian Bach : Toccata in e BWV914
Domenico Scarlatti
Sonata in C L457
Sonata in E-flat L142
Sonata in b L33
Ludwig van Beethoven : Piano Sonata No.32 in c Op.111
Robert Schumann : Variations on the name “Abegg”
Claude Debussy : Etudes No.10 No.7
Maurice Ravel : Sonatina

CDは、古いライブ音源などを紹介しているアメリカの「MUSIC & ARTS」から出ているが現在は廃盤らしい。先ごろ、ユニバーサルからクララ・ハスキル・エディションという17枚組のCDボックスが出た。クララ・ハスキル(1890-1965)の没後50周年を記念したアルバムで、彼女の録音を多く出していたPGILIPS(現DECCA)をはじめ、DG(ドイツ・グラモフォン)、WESTMINSTER の録音を網羅しているが、この「ルートヴィヒスブルク・フェスティバル」の録音は含まれていない。

 

 

 

 

ガソリンは昨日入れたのか。今日か。

根石吉久

 

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風邪をひいた。風邪の場合は、なぜ「ひく」と言うのだろうか。風邪に「かかる」とも言うのだろうか。風邪を「ひく」という場合、どこから「ひく」のだろうか。「たす」とか「ひく」とかの「ひく」ではないのだろう。引っ張ってくるの「ひく」か。なんにも知らないのである。
先ほど、軽トラにガソリンを入れたのは昨日だったのか、今日だったのか思い出そうとして、まったく決められなかった。そのとき、蚊がプーンというような音をたてて、顔のそばを動いた。そうだ。さっき立ち上がったのは、電気で蚊を殺すために無臭のガスを出すキンチョーノーマットだかなんだかのスイッチを入れるためだったのだ。さっき立ち上がって、何をするんだか忘れ、座ったばかりなのだ。座って、こうして字を書いたら、キンチョーノーマットだかのスイッチだったと思い出した。再度立ち上がり、スイッチを入れて来ようかどうか、と書いているが面倒くさがっているのがわかる。
軽トラにガソリンを入れたのが、昨日だったか今日だったかを決めたい。どうしてもというわけではないが、「のどごし生」350ミリリットルを一挙に飲んだオツムで、果たして思い出して決められるのかどうか、試してみる価値があるかどうか。
決めるためには、今現在から徐々にゆっくりと時間をさかのぼっていく方法がいいのではないか。今ここにいる前は、国民温泉に浸かっていたというような大雑把な思い出し方ではなく、国民温泉を出発し、今ここ(自宅)に至るまでの途中で、ファミリーマートで「のどごし生」を買ったとき、二十歳前の可愛い女の店員が、カードを俺に返しながら、汚いものに触らないように細心の注意を払っているのを気づかれないようにしているのに、客の俺は気づいたが、俺が自分で見ても、ジャンパーの袖口が実に汚いのであった。というようなことまでも思い出すのがいいのではないか。
赤いちゃんちゃんこを来て、鎮座とかしたいのだが、させてもらえないので、オレンジ色のジャンパーを着ている。
オレンジ色のジャンパーだから汚れが目立つ。毎日のように畑で土をいじるときに着ていたから、袖口まわりがしっかりと土の色で汚れまくっている。国民温泉から出たばかりでやたら額に汗をかくので、大粒の汗をジャンパーの袖口でぬぐい、その腕でそのままカードを渡したので、畑の土で汚れた袖口が汗の水でてらてら濡れていたのであることまでも思い出すのがいいのではないか。うむ、女の子は、汚いものに触らないように細心の気を配ったほうがいい。もっともだ。それが、国民温泉から今ここまで来る途中にあった「もっともなこと」だ。が、それくらいしかなかった。風邪のせいだろうと思うが、気を緩めると簡単によろめくので、車に乗ってファミリーマートを出発し、自宅までたどりつくのもけっこうきつい長旅だったと思えば思えなくもないようなものだった。が、それでも、それくらいしかなかった。車の運転自体は覚えていないものなのだ。女の子の思惑というのは覚えていられるものなのだ。
国民温泉から今ここへ、という流れではなく、今ここからファミリーマート経由で国民温泉へと、時間をさかのぼって、しかもなるべく細かくさかのぼって、汚いものに触らないようにしていた「みずみずしい女の子の指」が、白くて細くてきれいだったことなども漏らさず思い出すように努力しながら、さらにさかのぼっていけば、軽トラにガソリンを入れたのが今日なのか昨日なのかが確かめられるのではないか。

それにしても、イメージというものはその本性として、純化されるものなのだ。ガソリンのことなんかどうでもいいんじゃねえのかよ。どうでもいいんだが、ほんとうにわからない。指はきれいだった。さきほども書いた通り、「確かめて確かにした」ところで、「そうかそうかで終わり」なので、確かめる価値があるかないかはとにかく、わけがわからない。いや確かめようがない。いや確かめられる。またファミリーマートに行けば、きれいな指を見るのだ。きれいだなと思えば、瞬時に、とてつもなく果てしなくきれいになる。ガソリンをいれたのはいつか、と夾雑物としての疑問がまぎれても、夾雑物は払拭されて、白い指が確かなイメージになる。店を出ようとした。俺の前の透明な自動ドアが開く。指がきれいだったと思った。一瞬に、イメージはきれいにしたくてきれいにしてしまう。俺? 俺じゃない。イメージの本性が勝手に純化するということをする。アメリカも日本も中国も国家はきちがい。国家こそイメージでできている。長いものが、人々のイメージを巻き取る。長たらしい舌のようなもの。人もきちがいになり、生活を壊してまで、イメージのために生きる。イメージは恐ろしい。白い指はどこまでも白い。与えられるな。自分で作れ。作れない間は、白い指がきれいになるのに、どれほど時間というものが要らないかを微細に見るがいい。指じゃねえ。どれほど時間が要らないかをだ。そこが淵。どれほど時間が要らないかというイメージの挙動を見るのは、時間をかけて自分でイメージを作るやつだけなのか。

せっかくの原稿だ。後はまた元。

で、ここまで書いたところを読み直してみようとして、背中をソファーとかいうものにもたせかけ、画面を眺め、指が鼻の穴あたりに行き、左手の指で、親指と人差し指とで、鼻毛に触り、鼻毛が鼻の穴の出口まで出てきていて、「つまめばつまめて、よればよれる」ことに気づき、ハサミを取りに立ち上がって、ついでにキンチョーノーマットのスイッチを入れてくれば、一挙両得だとほくそえんでいた。まだ、立ち上がれない。面倒だ。ハサミとキンチョーノーマットは遠い。俺はぐずなのだ。ぐずにおいても、イメージの純化は速い。恐ろしい。

長旅ごくろうさまでしたというほどでもないさ。立ってから座るまで、多分20秒くらいなもんだった。馬鹿か、じゃない、早まるな、ATOK。「馬鹿蚊」とさっきのプーンを馬鹿よばわりして、長旅どうのこうのとごくろうにもアタマに浮かんだアイデヤを字にして書いて、ちったあ気のきいたことを書いたつもりの数分で、ここまで書いたのだ。馬鹿蚊、キンチョーノーマットのスイッチを入れてやったぞ、ぬふぁは、ということを書こうとして書いたのだ。一匹しか来なかったが、皆殺しだぞ。キンチョーノーマットだ。毒だ。
その後、プーンは来ない。俺は今ここにいる。ここは自宅という場所だということになっている。馬鹿蚊はどこにいたってそこが自宅。刺すことが生活。どこにいたって、その生活のところへ、毒は届く。地上何メートルのところにいるのか。GLから基礎が40センチは見える。そこからブロックを11段積んだから、2メートル20センチがブロック壁。臥梁が30センチ。その上に土台が4寸角の角材で12センチ。その高さから12ミリ合板。ミリ計算だと、400+2200+300+120+12で、どのくらいか。2900+132だ。大したことない。地上から3メートルちょいのところにある電気炬燵にあたっているのだ。人体とふるさとの土だけを見れば、宙に浮いているのだ。さとうさんから原稿催促いただいた今月今夜、今年の5月1日夜9時36分、「旅に出る」。

軽トラで帰ってきたことは間違いない。国民温泉に軽トラで行き、ファミリーマートに軽トラを駐めたのだ。いや、そうじゃない。帰ってきたことの中を出かけようとしているのに、駄目だ、酔っぱらいは。いつまでたっても、国民温泉から自宅への流れに引き戻される。旅に出よう。
国民温泉まで一挙に行こう。国民温泉にはどこを通って行ったのか。セブンイレブンからだ。セブンイレブンでは、ピザ風のパンとエクレアとかいう白いクリームの入ったパン状のものをコーヒーで食った。セブンイレブンから国民温泉に直行したのではない。セブンイレブンから観世温泉に行き、駐車場がマンパイだったので、ムラタクンチの前を通り、国民温泉に行ったのだ。国民温泉は駐車のアキがあったので、国民温泉に入った。そのアキだが、「アキができたんだな」と思った。セブンイレブンに行く前に、国民温泉の前を通っているからだ。国民温泉にアキがないか最初に見て、アキがないから観世温泉かと思い、甘いものが食いたいなと思ったから、セブンイレブンに行ったのだ。で、セブンイレブンから観世温泉、駐車場マンパイ、ムラタクンチの前、国民温泉へと戻って行ったのだ。その戻っていった時間の流れは、お湯でのんびりと伸び、国民温泉から自宅へと、途中、俺はふらついているのであったが、そのお湯で弛緩した伸びの中を無理矢理さかのぼって、先ほどはセブンイレブンまでさかのぼることができた。
国民温泉の前を一度通ったにせよ、セブンイレブンには、どこから行ったのか。どこからセブンイレブンに行ったのかを思い出さないと、どこかへさかのぼれない。旅が途切れてしまう。
絶壁かと思ったが、ファミリーマートじゃないか。今日3回、同じファミリーマートへ行ったんじゃないのか。女の子の指が白くてきれいだと思ったのは、3回のうちの1回目じゃないのか。1回目煙草。2回目コーヒー。3回目「のどごし生」じゃないか。二回目コーヒーと三回目「のどごし生」の間に、セブンイレブンおよび国民温泉、これは確かだ。
二回目のコーヒーで異常に汗が出たのだろう。風邪のせいだと思ったが、シャツがぐっしょりしたので、お湯に入る前にこんなに汗をかいたんじゃ、脳梗塞をやった体には危ないなと思い、ファミリーマートを出て、国民温泉の前でセブンイレブンに行こうと思い、甘いパンと甘くないパンをコーヒーLで食べたのだ。温泉に入れば、湯口から温泉が飲めるが、その前にファミリーマートのコーヒーSとセブンイレブンのコーヒーLで水分を補給したのだ。
ファミリーマート2回目から3回目の間に国民温泉がはさまり、わかってきた。ファミリーマート1回目と2回目の間にいったん帰宅している。その前に、畑からファミリーマート1回目への移動がある。
ファミリーマート1回目と2回目の間の帰宅は、畑で穫れたレタスとチマサンチュのおろぬきを娘に渡すためだった。お湯に入って帰宅したんでは、今日の夕飯に食べられないからと思ったのだ。それでファミリーマート1回目、帰宅、ファミリーマート2回目という流れができたのだ。(せっかく今日穫れたものを持ち帰ったのに、お湯から帰ってきてみたら、どうやらまた外食したらしく、レタスとチマサンチュは食ってないらしい。俺の娘だが、あの女の娘でもあるからな。)
ファミリーマート一回目と畑の間に、土手下の道を軽トラで走ったのではないか。どこを通って、まるで別の道のファミリーマートにいたのだろうと考えたら、土手下の道を田んぼ中の道へ逸れたのも思い出した。逸れてから、どこをどう通ったのかが思い出せない。と書いたら思い出した。まっすぐ行けばセンボヤナギ(千本柳)だと思っていたら、T字路のつきあたりだったから、左折したらまたT字路のつきあたりだったから、コブネヤマのお墓の縁を右折して、さてどうしたのか。畑からセブンイレブンに行くのによく使う道だが、気がついたらファミリーマートにいたのだ。思い出せない。
1回目のファミリーマートの前は畑だったのはほぼ間違いない。これは2度目の畑だ。1度目の畑で、袋を開いて作った黒マルチを2枚、畝にかぶせたら、雨が来た。風邪のことも考えて切り上げ、オオヒノバンキンへ行った。1度目の畑を切り上げた直後は、オオヒノバンキンへ行くことは考えず、着ているものが湿ってしまったから、セブンイレブンのコーヒーを飲んで一時的に体を温めようとした。田んぼ中の道を軽トラで走っていて、オオヒノバンキンが見えた。最近、薪割り機とチェーンソーを盗まれた、がっかりしたという話をしようと思ったのは、オオヒノバンキンのタダッシャンの弟が薪仲間だからだ。薪仲間といっても、一緒に薪を作ったりするわけではなく、二名で各自勝手に薪を作るだけだが、タダッシャンの弟も薪ストーブを焚いていて、会えば、まずたいていは薪の話をしている。正確には、薪話仲間なのである。ナガノコウギョーへ勤めていた人が、会社から出る廃品を利用して作ったエンジンの薪割り機を見せてもらった。車の塗装の仕事を中断させ、その上、お茶をもらって、体が少し温まった。オオヒノバンキンは人がよく寄る工場で、今日も人が次々と来て、四つほどある椅子が全部埋まって、また人が来た。また来るわと言い、オオヒノバンキンを出た。お宮の脇の細い道を通った覚えがないから、多分、オオヒノショウカイの前を通って、多分、セブンイレブンへ行こうと思っていたのだ。そしたら、陽が射して明るくなって、景色が急に暖かそうになった。もう一回畑に行って、黒マルチの続きをやろうかなと迷い、やりたくなった。畑に戻り2度目の畑となったのだ。1度目と2度目で、合計4枚のマルチを土にかぶせた。
さて、1度目の畑からオオヒノバンキン経由、2度目の畑まではわかったが、1度目の畑へはどこから行ったのか。今日のことであっても、ずいぶん昔のことなので、この辺からが思い出せない。休憩を兼ねて、書くのをやめて、少し時間をかけて思い出そうとしてみる。

キャロルにいたなあ。キャロルには、嫌いな市会議員がいたなあ。サバを煮たやつと、大根おろしと、タマネギを水にさらしたやつと、味噌汁を食った。綿半にいたら、雨が降ってきたが、その話を店のおば(あ)ちゃんにしたなあ。この店にくる途中で雨が切れた。道路も濡れていなかった。さっきの雨は、綿半に降らせた雲が通ったんだろう。でもすぐに止んだねと話したから、綿半からキャロルに行ったのだ。行く途中にファミリーマートがあるが、多分寄っていない。「さっきの雨」の話の時、綿半に降った雨とキャロルに降った雨を直接に比較していた。だから、ファミリーマートへは寄っていないはずだ。途中で雨が切れたのも、ちょうどファミリーマートあたりだったから、ファミリーマートに寄っていたら、ファミリーマートに降った(ほとんど降らなかった)雨を覚えているはずだが、道路が急に乾いた道路になったことしか覚えていない。ファミリーマートには寄っていない。
日に3度ファミリーマートに寄って、その他に1回はファミリーマートの前を通り過ぎている。1回目のファミリーマートの前にはどこにいたのか。それを棚に載せたままにしておいて、今はキャロルの前は綿半だったということを確かめておこうと思って、綿半、キャロル、第1回目ファミリーマートじゃないかと思いついた。そうだよ。
飯を食った後は、いつもコーヒーを飲むのが習慣のようになっている。文書の初めに戻って、「1回目」を検索文字にして検索して出てきたところに次の文がある。

「今日3回、同じファミリーマートへ行ったんじゃないのか。女の子の指が白くてきれいだと思ったのは、3回のうちの1回目じゃないのか。1回目煙草。2回目コーヒー。3回目「のどごし生」じゃないか。」

これは間違いかもしれない。今日、「煙草を買うのを忘れた」と思ったことがある。煙草が2回目ではないか。
すでに書いたものは訂正しない。
どうやら、1回目コーヒー、2回目煙草、3回目「のどごし生」らしい。3回目「のどごし生」は、国民温泉の後で、湯上がりに飲みたくなった順序をはっきり覚えているので、これは間違いない。

軽い寒気が持続しているが、ここまで炬燵で書いていたら、炬燵の熱で体が温まり、人体は温かいにもかかわらず、芯に軽い寒気があるという状態になっている。飲めば飲めるな。飲めば飲めるが飲むのか。軽い寒気と軽い喉の渇きがあるが、飲むか飲まないか。めっそうもない、さとうさんへ渡す原稿のシッピツ途中だぞ、めっそうもないという思いもあるのである。だが、飲みながら書くというのはネットをやって癖になってしまっている。迷う。そして不意に、何に迷っていたのかがわかる。飲みながら書いてはならないのではないかと迷うのではなく、ローソンまで歩いて行ってくるのが面倒なので、立ち上がろうかどうしようか迷うのであった。
体力的には、ほぼ電池切れの状態で、ブンショーにノリが全然なくなっている。電池が切れている。飲んだ方がいいのではないだろうか。書き始める前に「のどごし生」350ミリリットルを飲んでいて、酔いが少し残っていて、車で買いにいけない。少し腰が寒いが、歩けばこの寒さは取れるかもしれない。行ってこよう。歩きながら、1回目のファミリーマートの前にどこにいたのかをもう一度考えよう。考えるというか、思い出すというか、気持ちを整えてみよう。ひとまず、綿半、キャロルで飯、1回目ファミリーマートコーヒーだとすると、1度目ファミリーマートと2度目ファミリーマートの間は、俺はどこにいたのか。そこがまったく記憶が空白である。今日も少しの間、まだらぼけがあったのか。いや、今がまだらぼけだ。1度目ファミリーマートの間は、1度目畑、オオヒノバンキン、2度目畑だ。考えてこよう。そもそも、自宅から綿半へは直行したのだったかどうか。そこが靄がかかっている。現在、5月2日、0時41分。
今立ち上がろうとして、国民温泉から帰宅したときに、汗が気持ち悪くて、脱いだ下着が炬燵の脇にあることに気づいた。気づいて触った。水で冷たい。2度目のファミリーマートの時に、これは異常だと思うほどぐっしょり汗が出たんじゃなかったのか。コーヒー一杯でこんなに汗が出ると思ったのだから、2度目のファミリーマートでもコーヒーは飲んでいる。2度目では、煙草とコーヒーを買ったのかもしれない。ともかく、今からローソンで「のどごし生」を買ってきて、これを最初から読んでみることにする。
立ち上がったら、部屋の隅に「キリン一番搾り」500ミリリットルの蓋をあけてない缶があった。おととい、タテオと飲んだとき、飲みきれなくてタテオに持って行けと言ったが、タテオが「ええ、いい、いい」と置いていったやつだ。冷えてはいないがぬるいというほどでもない。
ローソンへ行かなくて済んだ。

さて、読み直す。

さて、読み直した。午前2時7分。なんでそんなに時間が経ったのだ。あっという間に2時間くらい経つことがある。
読んでいる途中、文書の最後に戻り、以下のものをメモした。

ファミリーマート1度目と2度目の間に、2度畑。
2度の畑の間にオオヒノバンキン。

それはわかっている。その前だ。ファミリーマート1度目の前に、キャロル、その前に綿半。綿半でテツに会った。ミキオにバーベキューやりに来いと俺が連絡することになった。その前だ。また霧だ。

1度目ファミリーマートから1度目の畑へ行くまでに、どこをどう通ったかがまるで思い出せない。それより前に、自宅から綿半まで、どこをどう通ったのか、まるで思い出せない。

そもそも、綿半へは自宅から直行したのかどうか。ガソリンを入れてから綿半へ行ったのか。戸倉のローソンの駐車場を斜めに横切って、信号を回避したのは、昨日だったのか今日だったのか。

今日というか、日付が変わってからなら昨日というか、その前半が思い出せない。だから、ガソリンスタンドへ行ったのが、昨日なのか今日なのか、まだわからない。

書いている途中で、ガソリンの件に関しては、解決策がみつかっている。軽トラの中に、ガソリンの領収書がある。それを見れば、そこにガソリンを買った日付がある。ガソリンを買った日付はそれでわかるが、一日の半分がもうろうとしていることについては、もうろうとしていることがわかるだけだ。

一日の前半がもうろうとしていてわからないことがわかった。一点をみつめるようになって、じっと考える。どうしても思い出せない。靄の中に絶壁の岩があるみたいだ。
「キリン一番搾り」500ミリリットルの後はもっと駄目だ。これから領収書を見てくる。

ない。領収証がない。
5月1日のも、4月30日のもない。
4月27日のが二枚もある。川中島と戸倉でガソリンを入れている。まるで覚えがない。と書いたら思い出した。多分4月27日、孫と孫の友達を連れて、信州新町へジンギスカンを食いに行く途中、川中島でガソリンを入れた。戸倉で入れた覚えはない。それなのに戸倉でガソリンを入れた領収書がある。
わけがわからない。俺はいったい何をしたのだ。
あっ、そうか。信州新町へは、軽バンで行ったから、その間に女房か娘が軽トラを使っていれば、ガソリンを補給したこともありうる。軽バンに入れたガソリンの領収書は、さっき財布から出して、軽トラに常備している紙カップの領収書入れに入れたのだった。領収書の容れ物は別々だった。

冷静になればわかることもあるが、日常は謎に満ちている。半日前がとてつもなく遠い日がある。いや、そんな日ばかりなのじゃないのか。こんなふうに検証してみようとすることは普段はないから。結局、わからなかった。靄に包まれて、旅は終わった。終わってみたら、迷子だった。
風邪のせいにしておこう。

 

 

 

川崎芳枝詩集「未明 燃えて」について

 

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しばらく前に、川崎真素実さんからお母様の詩集「未明 燃えて」を送っていただいた。

真素実さんに仕事の関係でお会いしたときに、お母様の詩集のことにを伺い、真素実さんのお母様の詩集というものを読んでみたいと思い、お願いして送っていただいた。

奥付には2013年12月に土曜美術社出版販売から発行されていて、はじめての詩集であり、石原吉郎さんや嵯峨信之さん、西一知さんに師事されていることが書かれていた。

これが現在の詩のカタチなのだろうか?
茫洋として掴まえられないコトバたちがならんでいる。

「きざし」という詩まで読み継いで、
なんとなく川崎芳枝さんという詩人のコトバの場所がわかってきたと思えた。

 

きざし

咲きはじめた朝顔をかぞえる
のどかな日
晴れわたる空に高くうかぶ

誰ひとり いない

忘れていた時を思い出したように
突然 とめどなく落ちる涙

光は内から発すると気づいた時
抱きしめたかった

やわらかくなる
まわりから溶けていく

夢に近いところで
もうひとつ 花がひらく

 

 

「きざし」という詩を全文引用させていただきました。

なぜ、誰ひとりいないのか、
なぜ、突然とめどなく涙が落ちるのか、
なぜ、光は内から発するのか、

それは、これらのコトバが夢に近いところで語られているからだと思いました。
この詩をよんでこの詩人のコトバの場所がすこし理解できそうだと思った。

わたしたちは夢をみる。
わたしも夢をみる。
多くは忘れてしまうがたまに憶えている夢もある。

憶えている夢は不思議なリアリティを持っている。

夢は欠落を持ちながらひかり輝く欠片のようだ。
夢は、欠落しているからこそひかり輝くだろう。

誰ひとりいないところに「ワタシ」がいて、もうひとつの花がひらく場所だろう。
そこに、コトバが影のように揺れるだろう。

もうひとつ、「できることは 何もない」という詩がある。

 

できることは 何もない

あなたから投げられた石のつぶてを
胸にうけて
大きくえぐられた空洞

あなたの絶望を前に
それでも立っている 不思議
二本の足が ふるえている

かみ合わないことばが
いくつもはじけて 消えていく

ふるえているという
それだけの かすかな希望

あなたに出会った
許されてここに在る
ただそれだけ

 

 

「できることは 何もない」という詩の全文です。

ここに書かれている「あなた」とは誰なのだろう?
神だろうか?
恋人なのだろうか?

わたしはその「あなた」から投げられた石のつぶてを胸に受けて、
胸に大きな空洞ができているのである。

ひどいめにあわされているのに、
あなたに出会った、許されてここに在る、
と書かれている。

この「あなた」は果てしない者なのだろう。

この場所からコトバを書くことは難しいだろう。
なぜなら果てしない者にたいしてコトバは必要ないからだ。

ゆるされてここに在る、ただそれだけ、なのだ。

ヒトは、その場所では、祈るか、うなり声をあげるか、小鳥のように囀るしかないだろう。

「川岸」という詩があります。

 

 

川岸

渓流のなかの岩に
風にあおられた蝶が ふと舞いおりる
白という安らかさをまとって 止まる

(中略)

うすい陽は
すみきった川面にひろがり
そこに 無数の蝶が乱舞する
まぼろしをみる

届かない もっと深く
小石を投げいれる

夕もやに沈む 青い流れになるまで
せせらぎの音をきく

 

また、「未明 燃えて」という詩のなかで、このように語られています。

 

見知らぬ人がゆっくりとふりむく
(何も残さなくていい)
とおりすぎる風に
ひっそりとした日々が
今日もまた 燃えあがる

 

 

ここに「あなた」と呼ばれる者への言葉があるだろう。

そこはもうひとつの花がひらく場所だろう。
コトバは影のように揺れるだろう。

その場所では、祈るか、うなり声をあげるか、小鳥のように囀るしかない。

 

 

 

「アイ・ウェイウェイ スタイル」について

 

 

写真 2014-04-20 9 31 19

 

牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)を読んだ。
副題に「現代中国の不良(ヒーロー)」とある。

帯には「現代中国のポッップアイコンであり、民主化・公民運動の旗手であるアイ・ウェイウェイ。つねに軽やかで型にはまらず真摯かつ奇抜なアイデアで世界をあっと言わせるこの男は、中国当局の要注意人物であり、若者たちのヒーローである。」
と書かれている。

表紙には髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えているアイ・ウェイウェイの写真が使われている。

彼は北京オリンピックで有名となった北京国家体育場「鳥の巣」スタジアムをヘルツォーク&ムーロンとともに設計するが政府のプロパガンダに利用されたとして開会式など北京オリンピック関連の催しなどへ参加を拒否し、また開会式の演出をした映画監督のスピルバーグや張芸謀らを中国政府に協力したとして批判したという。

彼は中国のアーティストであり、中国の民主化、公民運動の代表的な存在だという。

文化大革命時代には、近代中国の代表的な詩人であった父とともに下放され、新疆ウィグル自治区などで公衆便所の掃除などの強制労働をさせられる父のもとで社会から蔑視される家庭に育ったという。それから北京電影学院に入学、星画会に参加、ニューヨークのパーソン・オブ・デザインなどで学び、詩人ギンズバーグらと交流したのだという。

ニューヨークでは、ダダ、マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホルなどの影響を受けたのだろう。ワールド・トレード・センター前で撮影された1985年の厳力とならんだ全裸の写真は、若くチャーミングにみえる。

この本を読んでいくと、この作家の生まれてから現在までの見たもの体験したものがこの作家の作品に正直に反映されていると思う。おそらく新疆ウィグル自治区や北京、ニューヨークでは過酷な体験をしたに違いない。また、過酷な体験の中の人々をこの作家は見てきたに違いない。苛烈で過酷な現実のなかでは信じてよいものと信じてはいけないものが混沌としている。その混沌のなかから真実を見つけ出してこの作家は生き延びてきたのだと思う。

それは表紙のこの作家の写真を見れば解る。

髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えている。ファインダーは覗いていない。デジタルカメラを武器であるかのように片手で突き出して、裸眼でこちらを見据えている。

たしかに現代の不良であろう。

だがこの不良は中国現代アートと民主化運動に最初から参加し、2011年の逮捕拘留にいたる作品と行動を展開していった。「まともな事を言い、まともな行動を取れば反政府と見なされ、逮捕される」という中国共産党の「極権主義」を自ずから暴いてみせたのだという。

わたしは『アイ・ウェイウェイ スタイル』というこの本を読んで、この作家は「スタイル」ではなく「思考」がすべてだと思った。

唐突だが、アイ・ウェイウェイは、詩人であり、「利休」だと思った。
直感でそう思った。

以下、この本のなかから一部を引用します。

写真について (牧陽一 訳)

写真は狡猾で危険な媒体であり、意味であり、どこまでもある希望の盛大なる宴会であり、超えることのできない絶望の陥穽である。写真は最終的には真実を記録し表現することはできない。写真は現れた真実性で真実を押し開き、現実を私たちからさらに遠くへつれていく。

東洋人は審美的態度において別の可能性に傾いている。彼らはこれまで人の芸術活動が認識の手段だと考えたことがない。あるいはこの命題にはさして興味がなくて、認識過程自体の方法、認識の方法を表現することが認識の最終的な本質だと思っている。この本質は心の中では世界がどのようなものかということであって、いわゆる外界の真実はずっと心理的で情緒的で、不確定で、削り出すことができない、唯心唯我的だ。そうであるならば、自己に対する認識、自己の内心の体験への認知はいっそう困難で面白いのではないだろうか?

写真 (牧陽一 訳)

写真が技術と記録の原始的状態から離脱する時、写真はただ瞬間の状態から事実の可能性へと転換する。この転換が写真を人の活動にさせ、別の意味を含有させ、それは存在のみとなる。生きているのは疑いのない事実にすぎず、つくることはこの事実と真実の関係のないまた別の事実であり、両者は奇跡の発生を期待している。それは意義にたいする新たな質疑の提出である。写真は仲介物として、生活と感知活動を、絶えず見知らぬ世界でのあがきの中へと推しこんでいく。

ここで語られていることがこのアイ・ウェイウェイという作家の真実であると思う。

アートは「意義にたいする新たな質疑の提出」なのだ。
アートはこの世のどこにでも誰にでもみつけられる困難な「奇跡」だろう。

このことは「利休」の実践とおなじだとわたしには思われたのだ。

「思考」のリアリティに、真実があり、アートがあるのだ。
コトバで言い難いが、そこに生と死の体験が加担しているのだ。

アイ・ウェイウェイの作品には、われわれの生があり死があるのだ。
作品の表面で微細に生と死が振動しているのだ。

アイ・ウェイウェイはインタビューのなかで以下のような発言をしています。
以下、この本のなかから一部を引用します。

2011年3月 インタビュアー:Art Press(坂本ちづみ 訳)

生活の中心は表現に対する渇望だ。芸術の独特な所は、その形式、色調、風格すべてが天賦の才能であることにあり、それは守らなければならない。芸術の創作にはいろいろな方法があるが、真実の生活の条件を特に心を留め、その中に自分の身をおかなくてはいけない。もし必要であれば憤怒を表現すべきだ。芸術は日常の生活を表現するが、生活自体「私は誰か」と私に告げることがさらに重要だ。私はいかなる時もこの一点を理解している。おそらくこれが私と他のアーティストの最大の相違点だろう。多くの人は表現する前に、すでに自分がどのような人になりたいかを決めている。しかし私は違う。実際の行動を通してしか、私はいったい誰なのか、どこから来たのか、どこに向かうのかわからないのだ。

アメリカに行って、パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入った。でもおそらく私の尋常でない経歴のためだろう、そこでの理性主義的制約に適応するのが難しかった。70年代末から21世紀の最初まで、ほぼ30年の時間をかけて、やっと自分がいったい何を必要とし、何をしたいのかがやっとわかるようになった。その時期、私はほとんど創作していない。心の底ではすでに芸術を放棄していた。アーティストになる夢を捨てていた。実は重要で、面白い事だが、そう思うことで私はとても楽になった。

私はもともと政治とプライベート、個人の日記を区別していない。そういう厳格な区別は私には向いていない。私はそういう人間だ。目にしたいものを見るし、したいことをする。とても単純だ。私は私とこの世界のおかれている環境とをこう定義しているーーーー風、空気、太陽。私の生命は一個の統一体であり、それを分割することはできない。

独裁者が何を一番恐れているかを発見した。彼らは自由なコミュニケーションを恐れ、異なる意見と観点を死ぬほど恐れている。自己表現は犯罪だとみなす。唯一自己表現だけはコントロールする方法がないからだ。私は監獄で時間と空間の極限状態を経験し、そこで理解した。私のようなアーティストの存在が彼らにとってどんなに危険か。そして彼らが私に活動させない原因もわかった。

彼らはいったい何を恐れているのか?監獄で、こういう問題がずっと私の脳裏からはなれなかった。個人の自由を勝手に踏みにじり、人命を軽視するという基盤の上に、いかに今の政権が築き上げられているかを理解した。

私の父は二十歳で監獄に入れられ、二十年下放させられていた。一人の詩人として、父はかつて栄誉と賞賛があった。しかし父も国家の敵とみなされ、非常な苦痛をなめた。父は自分の声望を利用して少しでも利益を得る事に反対していた。父は死ぬ前、私達に「シンプルに生活するのだ。その他の事は忘れなさい」と言って励ましてくれました。父の経験がそういう結論を出させた。私の考えとはかなり違う。私は名声を利用して抑圧されている人のために声をあげてもいいと思う。しかし名声を利用してその他のものと引き換えにしようというのは恥ずべきことだと思う。若者が情報を得る事を阻止することによって、若者の幸せを奪うなら、私は傍観しているわけにはいかない。人々が知識を得るのを阻止し、若者の生命を枯らせる。これは犯罪行為であり、その行為を阻止しない人は共犯者だ。

 

ながい引用になってしまいました。

牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)という本をここ2週間ほど鞄のなかにいれて持ち歩いて、電車の中や喫茶店や自分の部屋や、いろいろな時間と場所で読み継いでみて、この本は私にとって大切の本となった。

ここには「アイ・ウェイウェイ」という作家の存在の奇跡がありました。

アイ・ウェイウェイ 本人は自分の事を「特別優れたよい人間でもなく、いくらか面白いことをする髭を生やしたデブに過ぎない」と語っている。

 

 

 

五嶋みどり

加藤 閑

 

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何年か前に、五嶋みどりがバッハの無伴奏のCDを出した。ソナタの2番(BWV1003)1曲だけだったけれど、それまでバッハの録音がなかったので結構話題になった。その後、みどりは2012年に全国の教会や寺院で無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを弾くツアーを行なったことを最近知った。いつかは全曲盤が出るかもしれないが、多分本人はそういうことにあまり積極的ではないのだろう。(実際、知名度に比べて彼女のディスコグラフィーはあまりにも寂しい。)
みどりの無伴奏はゆったりしている。何かを強く訴えるというのではなく、自分の中の音楽をできるだけ自然に音にして行きたいというような演奏だ。バッハの無伴奏と言えばシェリングを思い出すが、あのバッハ演奏の規範となるような隙のない演奏とはまったく違う印象を受ける。これはみどりに限ったことではなく、ヒラリー・ハーンや庄司紗矢香など、最近の女性のバッハの演奏は、ずいぶん風通しの良い自由なものになってきた。

そのうえ、五嶋みどりのバッハは、本人にそういう意図があるのかどうかはわからないけれども、聴く人を慰藉する音楽になっている。そしておそらくは彼女自身をも慰藉しているのではないかと思わせる演奏だ。鬱病や拒食症で苦しんだ時代があったようだが、あるいはそういうことも影響しているのかもしれない。
日本人はなぜか自国の演奏家に辛い。同じように国際的に活躍している者を比べたとき、根拠もなく日本人演奏家を低く見る。それなのに、海外で評価された者を高く買わないというおかしな風潮もある。しかし五嶋みどりはまぎれもなく現代世界最高のヴァイオリニストの一人である。

たとえば、みどり10代のときに録音された、パガニーニの「24のカプリース」全曲はいまでもこの作品の最高の録音だと思う。随所にみなぎる音楽性は比類がない。超絶技巧を要求される無伴奏曲だが、バッハの無伴奏に比べると、精神性や芸術的価値に劣るというのが定説だろう。しかし、五嶋みどりで聴く限りそういう印象はまったくない。冷たい刃物を思わせるような音の線。パールマンにはこういうところはない。ヴァイオリンの録音を聴いて背筋が寒くなったのは後にも先にもこのディスクだけだった。シェリングのバッハにも比肩しうる録音だと思っている。