川崎芳枝詩集「未明 燃えて」について

 

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しばらく前に、川崎真素実さんからお母様の詩集「未明 燃えて」を送っていただいた。

真素実さんに仕事の関係でお会いしたときに、お母様の詩集のことにを伺い、真素実さんのお母様の詩集というものを読んでみたいと思い、お願いして送っていただいた。

奥付には2013年12月に土曜美術社出版販売から発行されていて、はじめての詩集であり、石原吉郎さんや嵯峨信之さん、西一知さんに師事されていることが書かれていた。

これが現在の詩のカタチなのだろうか?
茫洋として掴まえられないコトバたちがならんでいる。

「きざし」という詩まで読み継いで、
なんとなく川崎芳枝さんという詩人のコトバの場所がわかってきたと思えた。

 

きざし

咲きはじめた朝顔をかぞえる
のどかな日
晴れわたる空に高くうかぶ

誰ひとり いない

忘れていた時を思い出したように
突然 とめどなく落ちる涙

光は内から発すると気づいた時
抱きしめたかった

やわらかくなる
まわりから溶けていく

夢に近いところで
もうひとつ 花がひらく

 

 

「きざし」という詩を全文引用させていただきました。

なぜ、誰ひとりいないのか、
なぜ、突然とめどなく涙が落ちるのか、
なぜ、光は内から発するのか、

それは、これらのコトバが夢に近いところで語られているからだと思いました。
この詩をよんでこの詩人のコトバの場所がすこし理解できそうだと思った。

わたしたちは夢をみる。
わたしも夢をみる。
多くは忘れてしまうがたまに憶えている夢もある。

憶えている夢は不思議なリアリティを持っている。

夢は欠落を持ちながらひかり輝く欠片のようだ。
夢は、欠落しているからこそひかり輝くだろう。

誰ひとりいないところに「ワタシ」がいて、もうひとつの花がひらく場所だろう。
そこに、コトバが影のように揺れるだろう。

もうひとつ、「できることは 何もない」という詩がある。

 

できることは 何もない

あなたから投げられた石のつぶてを
胸にうけて
大きくえぐられた空洞

あなたの絶望を前に
それでも立っている 不思議
二本の足が ふるえている

かみ合わないことばが
いくつもはじけて 消えていく

ふるえているという
それだけの かすかな希望

あなたに出会った
許されてここに在る
ただそれだけ

 

 

「できることは 何もない」という詩の全文です。

ここに書かれている「あなた」とは誰なのだろう?
神だろうか?
恋人なのだろうか?

わたしはその「あなた」から投げられた石のつぶてを胸に受けて、
胸に大きな空洞ができているのである。

ひどいめにあわされているのに、
あなたに出会った、許されてここに在る、
と書かれている。

この「あなた」は果てしない者なのだろう。

この場所からコトバを書くことは難しいだろう。
なぜなら果てしない者にたいしてコトバは必要ないからだ。

ゆるされてここに在る、ただそれだけ、なのだ。

ヒトは、その場所では、祈るか、うなり声をあげるか、小鳥のように囀るしかないだろう。

「川岸」という詩があります。

 

 

川岸

渓流のなかの岩に
風にあおられた蝶が ふと舞いおりる
白という安らかさをまとって 止まる

(中略)

うすい陽は
すみきった川面にひろがり
そこに 無数の蝶が乱舞する
まぼろしをみる

届かない もっと深く
小石を投げいれる

夕もやに沈む 青い流れになるまで
せせらぎの音をきく

 

また、「未明 燃えて」という詩のなかで、このように語られています。

 

見知らぬ人がゆっくりとふりむく
(何も残さなくていい)
とおりすぎる風に
ひっそりとした日々が
今日もまた 燃えあがる

 

 

ここに「あなた」と呼ばれる者への言葉があるだろう。

そこはもうひとつの花がひらく場所だろう。
コトバは影のように揺れるだろう。

その場所では、祈るか、うなり声をあげるか、小鳥のように囀るしかない。

 

 

 

「アイ・ウェイウェイ スタイル」について

 

 

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牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)を読んだ。
副題に「現代中国の不良(ヒーロー)」とある。

帯には「現代中国のポッップアイコンであり、民主化・公民運動の旗手であるアイ・ウェイウェイ。つねに軽やかで型にはまらず真摯かつ奇抜なアイデアで世界をあっと言わせるこの男は、中国当局の要注意人物であり、若者たちのヒーローである。」
と書かれている。

表紙には髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えているアイ・ウェイウェイの写真が使われている。

彼は北京オリンピックで有名となった北京国家体育場「鳥の巣」スタジアムをヘルツォーク&ムーロンとともに設計するが政府のプロパガンダに利用されたとして開会式など北京オリンピック関連の催しなどへ参加を拒否し、また開会式の演出をした映画監督のスピルバーグや張芸謀らを中国政府に協力したとして批判したという。

彼は中国のアーティストであり、中国の民主化、公民運動の代表的な存在だという。

文化大革命時代には、近代中国の代表的な詩人であった父とともに下放され、新疆ウィグル自治区などで公衆便所の掃除などの強制労働をさせられる父のもとで社会から蔑視される家庭に育ったという。それから北京電影学院に入学、星画会に参加、ニューヨークのパーソン・オブ・デザインなどで学び、詩人ギンズバーグらと交流したのだという。

ニューヨークでは、ダダ、マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホルなどの影響を受けたのだろう。ワールド・トレード・センター前で撮影された1985年の厳力とならんだ全裸の写真は、若くチャーミングにみえる。

この本を読んでいくと、この作家の生まれてから現在までの見たもの体験したものがこの作家の作品に正直に反映されていると思う。おそらく新疆ウィグル自治区や北京、ニューヨークでは過酷な体験をしたに違いない。また、過酷な体験の中の人々をこの作家は見てきたに違いない。苛烈で過酷な現実のなかでは信じてよいものと信じてはいけないものが混沌としている。その混沌のなかから真実を見つけ出してこの作家は生き延びてきたのだと思う。

それは表紙のこの作家の写真を見れば解る。

髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えている。ファインダーは覗いていない。デジタルカメラを武器であるかのように片手で突き出して、裸眼でこちらを見据えている。

たしかに現代の不良であろう。

だがこの不良は中国現代アートと民主化運動に最初から参加し、2011年の逮捕拘留にいたる作品と行動を展開していった。「まともな事を言い、まともな行動を取れば反政府と見なされ、逮捕される」という中国共産党の「極権主義」を自ずから暴いてみせたのだという。

わたしは『アイ・ウェイウェイ スタイル』というこの本を読んで、この作家は「スタイル」ではなく「思考」がすべてだと思った。

唐突だが、アイ・ウェイウェイは、詩人であり、「利休」だと思った。
直感でそう思った。

以下、この本のなかから一部を引用します。

写真について (牧陽一 訳)

写真は狡猾で危険な媒体であり、意味であり、どこまでもある希望の盛大なる宴会であり、超えることのできない絶望の陥穽である。写真は最終的には真実を記録し表現することはできない。写真は現れた真実性で真実を押し開き、現実を私たちからさらに遠くへつれていく。

東洋人は審美的態度において別の可能性に傾いている。彼らはこれまで人の芸術活動が認識の手段だと考えたことがない。あるいはこの命題にはさして興味がなくて、認識過程自体の方法、認識の方法を表現することが認識の最終的な本質だと思っている。この本質は心の中では世界がどのようなものかということであって、いわゆる外界の真実はずっと心理的で情緒的で、不確定で、削り出すことができない、唯心唯我的だ。そうであるならば、自己に対する認識、自己の内心の体験への認知はいっそう困難で面白いのではないだろうか?

写真 (牧陽一 訳)

写真が技術と記録の原始的状態から離脱する時、写真はただ瞬間の状態から事実の可能性へと転換する。この転換が写真を人の活動にさせ、別の意味を含有させ、それは存在のみとなる。生きているのは疑いのない事実にすぎず、つくることはこの事実と真実の関係のないまた別の事実であり、両者は奇跡の発生を期待している。それは意義にたいする新たな質疑の提出である。写真は仲介物として、生活と感知活動を、絶えず見知らぬ世界でのあがきの中へと推しこんでいく。

ここで語られていることがこのアイ・ウェイウェイという作家の真実であると思う。

アートは「意義にたいする新たな質疑の提出」なのだ。
アートはこの世のどこにでも誰にでもみつけられる困難な「奇跡」だろう。

このことは「利休」の実践とおなじだとわたしには思われたのだ。

「思考」のリアリティに、真実があり、アートがあるのだ。
コトバで言い難いが、そこに生と死の体験が加担しているのだ。

アイ・ウェイウェイの作品には、われわれの生があり死があるのだ。
作品の表面で微細に生と死が振動しているのだ。

アイ・ウェイウェイはインタビューのなかで以下のような発言をしています。
以下、この本のなかから一部を引用します。

2011年3月 インタビュアー:Art Press(坂本ちづみ 訳)

生活の中心は表現に対する渇望だ。芸術の独特な所は、その形式、色調、風格すべてが天賦の才能であることにあり、それは守らなければならない。芸術の創作にはいろいろな方法があるが、真実の生活の条件を特に心を留め、その中に自分の身をおかなくてはいけない。もし必要であれば憤怒を表現すべきだ。芸術は日常の生活を表現するが、生活自体「私は誰か」と私に告げることがさらに重要だ。私はいかなる時もこの一点を理解している。おそらくこれが私と他のアーティストの最大の相違点だろう。多くの人は表現する前に、すでに自分がどのような人になりたいかを決めている。しかし私は違う。実際の行動を通してしか、私はいったい誰なのか、どこから来たのか、どこに向かうのかわからないのだ。

アメリカに行って、パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入った。でもおそらく私の尋常でない経歴のためだろう、そこでの理性主義的制約に適応するのが難しかった。70年代末から21世紀の最初まで、ほぼ30年の時間をかけて、やっと自分がいったい何を必要とし、何をしたいのかがやっとわかるようになった。その時期、私はほとんど創作していない。心の底ではすでに芸術を放棄していた。アーティストになる夢を捨てていた。実は重要で、面白い事だが、そう思うことで私はとても楽になった。

私はもともと政治とプライベート、個人の日記を区別していない。そういう厳格な区別は私には向いていない。私はそういう人間だ。目にしたいものを見るし、したいことをする。とても単純だ。私は私とこの世界のおかれている環境とをこう定義しているーーーー風、空気、太陽。私の生命は一個の統一体であり、それを分割することはできない。

独裁者が何を一番恐れているかを発見した。彼らは自由なコミュニケーションを恐れ、異なる意見と観点を死ぬほど恐れている。自己表現は犯罪だとみなす。唯一自己表現だけはコントロールする方法がないからだ。私は監獄で時間と空間の極限状態を経験し、そこで理解した。私のようなアーティストの存在が彼らにとってどんなに危険か。そして彼らが私に活動させない原因もわかった。

彼らはいったい何を恐れているのか?監獄で、こういう問題がずっと私の脳裏からはなれなかった。個人の自由を勝手に踏みにじり、人命を軽視するという基盤の上に、いかに今の政権が築き上げられているかを理解した。

私の父は二十歳で監獄に入れられ、二十年下放させられていた。一人の詩人として、父はかつて栄誉と賞賛があった。しかし父も国家の敵とみなされ、非常な苦痛をなめた。父は自分の声望を利用して少しでも利益を得る事に反対していた。父は死ぬ前、私達に「シンプルに生活するのだ。その他の事は忘れなさい」と言って励ましてくれました。父の経験がそういう結論を出させた。私の考えとはかなり違う。私は名声を利用して抑圧されている人のために声をあげてもいいと思う。しかし名声を利用してその他のものと引き換えにしようというのは恥ずべきことだと思う。若者が情報を得る事を阻止することによって、若者の幸せを奪うなら、私は傍観しているわけにはいかない。人々が知識を得るのを阻止し、若者の生命を枯らせる。これは犯罪行為であり、その行為を阻止しない人は共犯者だ。

 

ながい引用になってしまいました。

牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)という本をここ2週間ほど鞄のなかにいれて持ち歩いて、電車の中や喫茶店や自分の部屋や、いろいろな時間と場所で読み継いでみて、この本は私にとって大切の本となった。

ここには「アイ・ウェイウェイ」という作家の存在の奇跡がありました。

アイ・ウェイウェイ 本人は自分の事を「特別優れたよい人間でもなく、いくらか面白いことをする髭を生やしたデブに過ぎない」と語っている。

 

 

 

五嶋みどり

加藤 閑

 

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何年か前に、五嶋みどりがバッハの無伴奏のCDを出した。ソナタの2番(BWV1003)1曲だけだったけれど、それまでバッハの録音がなかったので結構話題になった。その後、みどりは2012年に全国の教会や寺院で無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを弾くツアーを行なったことを最近知った。いつかは全曲盤が出るかもしれないが、多分本人はそういうことにあまり積極的ではないのだろう。(実際、知名度に比べて彼女のディスコグラフィーはあまりにも寂しい。)
みどりの無伴奏はゆったりしている。何かを強く訴えるというのではなく、自分の中の音楽をできるだけ自然に音にして行きたいというような演奏だ。バッハの無伴奏と言えばシェリングを思い出すが、あのバッハ演奏の規範となるような隙のない演奏とはまったく違う印象を受ける。これはみどりに限ったことではなく、ヒラリー・ハーンや庄司紗矢香など、最近の女性のバッハの演奏は、ずいぶん風通しの良い自由なものになってきた。

そのうえ、五嶋みどりのバッハは、本人にそういう意図があるのかどうかはわからないけれども、聴く人を慰藉する音楽になっている。そしておそらくは彼女自身をも慰藉しているのではないかと思わせる演奏だ。鬱病や拒食症で苦しんだ時代があったようだが、あるいはそういうことも影響しているのかもしれない。
日本人はなぜか自国の演奏家に辛い。同じように国際的に活躍している者を比べたとき、根拠もなく日本人演奏家を低く見る。それなのに、海外で評価された者を高く買わないというおかしな風潮もある。しかし五嶋みどりはまぎれもなく現代世界最高のヴァイオリニストの一人である。

たとえば、みどり10代のときに録音された、パガニーニの「24のカプリース」全曲はいまでもこの作品の最高の録音だと思う。随所にみなぎる音楽性は比類がない。超絶技巧を要求される無伴奏曲だが、バッハの無伴奏に比べると、精神性や芸術的価値に劣るというのが定説だろう。しかし、五嶋みどりで聴く限りそういう印象はまったくない。冷たい刃物を思わせるような音の線。パールマンにはこういうところはない。ヴァイオリンの録音を聴いて背筋が寒くなったのは後にも先にもこのディスクだけだった。シェリングのバッハにも比肩しうる録音だと思っている。

 

 

 

この文明はどこへ行っちまうんだか

根石吉久

 

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もうひとつ敗北する。
畑に黒マルチを使うことを決めた。
そのことが敗北なのであるが、それを敗北だと、もし人に話したとしても、何言ってんの? と言われてしまう可能性がある。黒マルチを使う人たちは何の抵抗も持たずにヘーキでそれを使ってきた。それを使うことが何で敗北なんだ? どの点が敗北なんだ? と言われてしまったら、うまく返事ができない。いつもそうだ。うまく返事ができず、後で考えて、こう言うべきだったのかなどと思ったりする。たいていいつも後の祭りなのだ。

と、いきなり結論が出たが、ここまで、千曲川本流のそばで書いた。軽トラの助手席に脚を投げだし、ドアに背をもたせて、pomera で書いた。

さっきまで畑にいた。生ごみと土を混ぜる場所を今年から畑の隅に決めたので、生ごみを土と混ぜた。その後、黒マルチを1メートルほど枯れ草を混ぜた土の上にかぶせた。腹が減ったので、平和橋を渡り、姨捨に登る道の入り口に近い中華料理屋で五目あんかけ焼きそばを食べた。テレビが春の高校野球をやっていた。外の方が暖かいので、早めに外に出た。店の入り口の両脇に、店の奥さんが手をつけはじめた春のガーデニングが途中のままになっていた。やりかけていて開店の時間になってしまったのだろう。植えた花の株元が新しい水で濡れていた。
セブンイレブンでコーヒーと菓子を買い、千曲川の本流のわきまで土手を降りてきた。

起きたのは11時頃だったか。起きて、脱糞し、トイレのドアを閉め、家の中を何かの用で歩いたり、靴下をはいたりした。娘がテンパって、いやな声をたてて孫に命令したりしている。とにかく軽トラに乗るのだと思い、軽トラに乗ったら、気の向くままに畑まで運転して、手袋をした手で土をいじっていた。
じきに空腹、じきにあんかけ焼きそば、じきにコーヒーとお菓子を持って千曲川の川原。

川原はうららかである。軽トラの窓を開けておいても、今日は寒くない。雲雀の声はここ何年も聴いていない。雲雀がいなくなった。平和橋の上を車が走っているのが見える。車が走る音は聞こえない。ここに着いた時、軽トラのエンジンを止めたら、急に瀬音が聞こえた。瀬音だけになった。正面の飯縄山の上半分が平和橋に削られてしまって見えない。

セブンイレブンでコーヒーを買って、お金を払いながら、敗北のことを書こうかなと思ったのだった。何度もこれは敗北だとは思ったのだ。しかし、気が散って、敗北のことに意識がとどまらない。ちょっと書きかけて、すぐ違うことを書いてしまう。
そうだ。山道へ入ろうか。
さとうさんから「原稿は?」の連絡があったのだ。充電しようとして、iPhone を家のベッドの上に置いてきてしまったから読めないが、充電しようとしたときに、さとうさんから連絡が来ていることを iPhone の画面が表示したのだ。多分、フェイスブックで連絡をくれたのだ。ああそうか、月が変わったのだなと思った。

山道に入って、日当たりのあるところに軽トラを止めて、浜風文庫の原稿を書こうかなと思ったのだったが、行くなら大岡の方か。まだ大岡の方は何の花も咲いていないだろう。それでもいい。少しの日当たりがあれば、軽トラの中は快適だ、と思って、軽トラの荷台に割った薪を積んだままだということを思い出した。
薪を小屋に積み、荷を軽くしなければ、山道で余計なガソリンを使うだけだ。では、原稿を書く前に、山道に入る前に、小屋に薪を積む前に、帰宅する前に、食後の一休みを切り上げなければならない。その前に、これを書くのを中断しなければならない。
ちょっと川を見ることにする。おとといの雨でササニゴリに濁っている。鴨が流れに流されて遊んでいる。たばこを一本吸ってからエンジンをかけようか。誰に同意を求めているのか。自分か。

庭の隅に止めた軽トラの荷台から薪小屋の前まで薪を放り投げ終わるのに20分ほど。小屋の中に積み上げるのに同じくらい。小一時間で終わる。
軽トラに乗り、交差点に来るたびに、まっすぐ行くか曲がるか、曲がるならどっちに曲がるか、一瞬迷い、一瞬後、適当に突っ切ったり曲がったりして、結局、トッ坂を登った。トッ坂を登りきって下がったところにある製材所に車を駐め、昔セガをもらいに来た者だけど、今でももらえますかね、と訊いた。ああもちろんとの返事がもらえた。また今度来ますと言って、エンジンをかけた。
竹房に行ってみようかと思っていたが、途中軽井沢方面に曲がり、枝道に入り、チェーンソーを回して杉を切っていたおやじさんに、軽トラに乗ったまま窓を開けて話しかけた。雑木もらえないですかねと言うと、倒してあるのもすでに行き先があると言う。以前は、倒した雑木をそのまま林に放置して腐らせていることが多かった。県(?)が始めた森林税とかいうものが動き始めたせいか、里山も少し手入れがよくなってきた。薪ストーブが普及し始めたせいもあるのか、雑木の行き先がある。いいことだ。俺は千曲川のアカシアを切ればいいやと思う。おやじさんに別れ、また太い道に戻る。途中、また迷い、高野という村への道に入る。村を抜け、村の背後の丘を登ると、景色が開け、丘の上には畑が広がっていた。ため池の土手に軽トラを駐車。
高野の裏にはこんなに空が広がる場所があるのか。昔からこの地形で、畑になる前の広がりが野だったら、高野という村の名前はぴったり地形通りだが、地形と関係があるのかないのか。

急に眠くなる。我慢だ、我慢。

黒マルチを使うのは敗北だと書いたが、黒マルチの利点はある。いや、利点があるから人々は黒マルチを使っているのだ。
まず最初に気づいたのは、マルチを使うと土が乾かないから、種蒔きした後、動き出した芽が乾いて死んでしまうことが少ないことだった。水やりをしなくてもたいていは大丈夫だ。これはやってみるまで考えもしなかったことだった。やってみて、なるほどと思ったことだった。

土と混ぜた有機物が微生物に食われるプロセスは、マルチをかぶせるのとかぶせないのとでは違うはずだ。そもそも棲みつく微生物が違ってくるはずだと思う。風が直接土に当たらないから、気体となって空中に逃げる養分というものもほぼなくなる。養分が土から抜けにくくなるだけで、その後の発酵のプロセスも違ってくるはずだ。養分が雨水と一緒に土の中に沈むことも極端に少なくなるはずだ。マルチをしなければ抜けるはずのものが抜けないのだから、生き残る微生物の種類は違ってくる。
きわめて大ざっぱな分類をするなら、好気発酵よりも嫌気発酵に傾くだろう。作物の株元はマルチに穴があいているので、土の中と大気の底が完全に遮断されるわけではないが、マルチの下は圧倒的に嫌気発酵に適した条件になるはずだ。
好気発酵や嫌気発酵の好気とか嫌気とは、酸素の有無(多少)の違いを言うので、気体の有無や多少のことではない。「気」という語で空気の中の酸素を言っている不正確な近代日本語単語だ。こういう語はブンガクテキであってもらわない方がいい。
嫌気発酵が利点となるかどうかはわからないが、マルチのすぐ下まで地中から登ってくる水が、発酵を持続させ微生物の世代交代を促し続けることはまったくの利点となる。一番期待しているのは、地中から登った水がマルチ直下で水蒸気になろうとしてなれず、また土に戻される作用がもたらすものだ。地温が上がることと相俟って、土が変わるスピードはあがるはずだ。
春、空気が乾き土が乾く日が続くと種蒔きで失敗することが多かったが、その失敗率はぐんと減る。それはマルチをしてすぐにわかった。水やりの手間が省けることを考えると、マルチをする手間は惜しいものではない。その後は、作物を覆ってしまう草の発生を阻止できるのだから、手間をかけるだけの価値はある。
嫌気発酵に傾くことは推定できるだけで、実際のことはマルチの下だけで起こるから見えない。マルチを取り払っても見えない。微生物がやっていることは、人間の目に見えない。見ても見えない。間接的にわかるだけだ。

炭素循環農法というのをネットで調べたことがあったが、土の表層に近いところに有機物を混ぜ続けるというもので、基本は昔の普通の農法と変わりはない。炭素循環農法がはっきり言い切ったことは、5センチとかせいぜい10センチくらいのごく浅いところに有機物を混ぜ続けるということである。それまでの有機農法でこれを言い切ったものはない。
川口由一の農法は、有機物(草)を土の上に置き続けるというものだが、その祖型は福岡正信にある。福岡のものは、藁や麦藁を長いまま田んぼに撒くいうものだ。
炭素循環農法が福岡や川口を越えたところは、ごく浅いところに有機物を混ぜることによって、有機物と土の接触面を最大化したところにある。微生物が有機物を食いやすくしたのだ。
有機物を土に混ぜるなどということは、昔から人がやってきたことだ。昔の普通の農法である。だから、繰り返して言うが、炭素循環農法が独自に確立したことは、有機物を表層に近いところにだけ入れるというところにある。それだけは、他の有機農法が言葉にできなかったことだ。
炭素循環農法は手間がかかる。これはこの農法の欠点だ。
手間をかけないということを農の思想にまでした点では、福岡正信が今でも他を圧するチャンピオンのままだ。しかし、まずたいていの人が耐えることができないほど、福岡の思想は気が長い。大百姓の持つ広い田畑がその背後にある。だから、有機物と土(微生物)の接触面が極端に小さいような農法も、それでいいと考えることができたし、それで収穫量が確保できるまでやれた。
有機物がどれだけ乾きやすいかということで言えば、福岡、川口のやり方は乾きやすい。しかし、「自然がすることにゆだねる」という思想に、つまり自然の時間の速度に従うという古くからの農の思想に従順である。雨の多い日本の気候にも則っている。
炭素循環農法は、福岡や川口の方法ほどではないが、それでも土が乾きやすい。種蒔きや苗が幼い時期には不利である。その点を黒マルチは解決してしまう。

福岡には確信がある。麦一粒だって、人間が作るのではない、自然が作るのだという福岡の言葉には、確かなものがある。
だけど、どこからが自然でどこからが人為なのか。福岡が粘土団子にいろいろな作物の種を混ぜ、適当に草の中にそれを放り投げる様子は、YouTube で見ることができるが、一つの団子に何の種を混ぜるかを決めるのは福岡であり、草の中に立ち、どこに投げるかを決めるのも福岡である。人間の感覚、人間の思考がそれを決めるのだから、そこまでは人為以外のものではない。
福岡の言う「自然」も、川口の言う「自然」も、粘土団子を放った直後からのプロセスを決定するもののことである。要約すれば、川口も福岡も「人事を尽くして天命を待つ」と言っているだけだ。そして俺は、それに何の文句もない。
人事を尽くすプロセスにおいて、福岡の方が川口より遊んでいるという違いはある。福岡の大人ぶりは、人事を尽くすにも遊びながら尽くすところにある。川口は病気から有機農法に入り、福岡も病気が契機だった。福岡の病気は明日死ぬかもしれぬほどのもの、生死の境をさまようものであり、福岡は病気というよりも、むしろ「死から」、あの農法の方へ歩いて行ったのだろう。大百姓の出だということもあるが、死から始まった農法だというところに福岡独特の遊びやひょうきんがある。ゆったりしている。

高野で少し書いて、車を動かそうとして池の向こう側に人がいるのに気づいた。車で行き、この池は魚を釣っても怒られないかと訊く。村の中に漁業組合があり、組合で鯉を放流しているが、鮒くらいなら釣っていけないこともないと言う。ブラックバスもいますかと訊いたら、いるとのこと。
高野から軽井沢へ。軽井沢入り口で右折、小花見池へ。この池も向こう岸まで行ったことがないので車で行ってみる。林の中に道を開いてあるが、どれもすぐに行き止まりになる。別荘地として売りに出すのに付けただけの道だとわかった。
逆戻りし、信州新町の方へ降りる。町が近づくにつれ、暗くなってきた。腹が減ったので、ジンギスカンを食いに行くかと思っていたが、新町に着いて蕎麦屋の看板を見て蕎麦を食う。味はまあまあ。少しうまい。払うとき、金が足りなくて、近くのセブンイレブンまで金を降ろしに行ってくると言ったら、女の人が困ったような顔をした。初めての店なので、「何か置いていきますか」と言ったら、店の旦那さんが「大丈夫だ」と言った。食い逃げしそうではないと見てくれたのだ。ありがとう。歩いてセブンイレブンまで行き、歩いて店まで戻った。
新町から篠ノ井のコーヒー哲学まで、国道19号をノンストップ。帰り道が長く、山の中の道ばかりずいぶん走ったのだと思う。ここまではコーヒー哲学篠ノ井店、ここからも同店で。

店の電灯が暗く、バックライトのない pomera で書くのは少しつらい。客が他にいないので、電灯の明るい方のテーブルに移る。

黒マルチは農業用のポリエチレンが0.02ミリで一番薄い。(ポリマルチという言い方があるので、ポリエチレンだと思っていたが、ポリエステルじゃないよな? 自信がない。それぞれの違いもわからない。)
主に生ごみをごみとして行政に渡すための黒い袋もスーパーで売られていて、こちらは0.04ミリ厚。袋状だから、切らずに使えば、二枚重なった状態で土を覆うので一番丈夫。切り開けば、90センチ×160センチのシートになり、これ一枚分に種を蒔き、一日のひと仕事分にするのに具合が良い。家庭菜園をやり、黒マルチに抵抗がない人にはお薦めできる。

ビニールハウスのビニールやマルチのポリエチレン(?)を見て、しゃらくさいと思ったり、こざかしいと思ったりしてきたのだ。それで極度に貧弱な収穫量の有機(勇気)農法を続けてきたのだ。こざかしいと思ってきたものを使うのだから、これは敗北である。敗北は敗北としてはっきりさせなければならないが、どこまで敗北するのか。今でも農薬や化学肥料は使う気はない。

黒マルチを使うところまで敗北する。

この問題は、ごみ問題につながっている。

千曲市は汚れたプラスチックを燃やすごみとして出すようなでたらめな指示を住民に出している。100円寿司に置いてあるようなわさび入りの小さいプラスチックみたいなものから始まって、汚れたプラスチックになると最初からわかっており、燃やすごみとしてしか処理のやりようがないものの生産を国が野放しにしてあるのがおかしい。
家で、破れて使えなくなった長靴が可燃ごみ用の袋につっこんであるのを見て、いったい何やってんだと女房に文句を言ったら、使えなくなった長靴は汚れたプラスチック(可燃ごみ)に分類しないと、ごみ収集車が受け付けてくれないのだと女房が言った。おかしい。
そういうプラスチックや合成ゴムの処理法を禁じないと、ごみ処理場の近くの住民は処理後の気体を吸わなければならない。そこに子供も生まれてくる。
国に抗議することを決議しようとするような議員は、千曲市に一人だっていない。腰抜けのお上意識ばっかりだ。
そういう国なのだから、天皇家で国に文句を言えばいいと思う。この国の山河が汚れる、と。放射能もやめてくれと「請願」すればいいと思う。天皇家が「請い」「願う」からといって、誰も文句は言わないだろう。どうなんだろう、右翼の皆さん。

私が生まれた村は、今住んでいる村の隣村だが、そこに大型のごみ焼却溶融炉を建設する予定があると知り、自分で印刷したビラを一軒ずつ配って歩くようなことをしたことの元に、「汚れたプラスチックは燃えるごみ」などというでたらめがあったからだ。
これはまた原発の問題につながっている。ごみの溶融炉は、目に見えるほどの煙は出さない。煙突上部の見た目はきれいだ。福島第一原発みたいに、バクハツなんかしちまうと無惨なものだが、バクハツしなければ、いくら放射能を垂れ流しても、原発も見た目はきれいだ。美しくはないが、不気味ではあるが、見た目はきれいだ。
説明会に出れば、行政は安全だ安全だと繰り返す。裏で町や村の有力者に金をつかませる手法は、溶融炉建設も原発の炉の建設も同じだそうだ。

汚い。

柔らかいプラスチックを作るために原料の石油に何を混ぜるのか。固いプラスチックを作る場合はどうか。色はどんな物質によって着けてあるのか。プラスチックなどの合成化学製品の中には、うぞうむぞうの物質が含まれている。それが1000度を超えるような高温の炉の中でどんな化学変化を起こすのかなど、誰も解明することはできない。この化学変化の元になる物質が「うぞうむぞう」だからだ。何が何度のときにどの順番で炉に投げ込まれるかは「わからない」。厳密に考えれば、物質と物質の出会いとそれらの合成や変化は、つまり何が新たに生成するかは、まったく未知のことがらであるはずだ。それなのに、安全だ安全だと繰り返す行政の太い神経はまったくしゃらくさい。近代初期のしゃらくさセンスのままだ。

「わからない」というのが、ひとまずの唯一の正しい科学的な言い方だ。わからないのだ。誰にもまだわかっていないのだ。
原発の後処理が、廃棄物(放射能の固まり)を土の中に埋めるしかないくらいのことがわかっているだけだ。やめてくれ。やめろ。やめやがれ。

「これっぱかしのものを食うのに、こんな大量のプラスチックごみが出るのはおかしいぜ」と女房に最初に言ったのは、30歳頃のことではなかったか。スーパーができ、八百屋や魚屋がつぶれ、なんでもかんでもプラスチックやビニールに入って売られるようになった頃のことで、それからもう30年も経つ。そして、事態は悪くなっているばかりだという感じだ。出水の後の千曲川の川原に行くと、流されてきたプラスチックやビニールが散乱してひどいもんだ。あれも「汚れたプラスチック」なのか。千曲市を流れる千曲川の川原のプラスチックもビニールも散乱したままだ。溶融炉のことを安全だ安全だと言い続けてきた千曲市環境課は、あれだけのプラスチックやビニールや合成ゴムをみんな「溶融」するのかよ。能なしども。

そう思ってきたので、農業用の黒マルチを横目に見ては、しゃらくさいと思ってきたのだ。
単に栽培のことだけ考えれば、種に水をやることの手間が省けるし、春になっても地温がなかなか上がらない善光寺盆地の畑の地温をあげてくれるし、畝に草が生えて作物を覆ってしまうのを防いでくれるし、後は嫌気発酵がうまくいってくれれば文句のつけようがない資材だ。しかし、使った後の黒マルチを、行政や農協が業者に渡した後にどんな処理がされているのかは闇の中である。少なくとも私は何がどう処理されるのかまったく知らない。

歳に勝てない。
私は敗北する。
そして、敗北すると決めてから、使った後の黒マルチをどう使うかを本気で考え始めた。
薄いポリエチレンに泥や土が付くから使った後のマルチは重くなる。破れたポリエチレンのシートを新しいポリエチレンの袋に入れれば、重さが着いて風に飛ばされにくくなるのではないか。古くなったポリエチレンのシートを「重さとして使う」ことで何か不都合なことは出てくるだろうか。中に入れたものが袋から飛び出して散乱しないようにするにはどうすればいいんだろうか。
そんなことばかり考えているのである。
各種プラスチックや合成化学製品が、それぞれどう処理されているのか、空気や水を汚しているのかいないのか。そういうことがわからなければ、しろうととして、そんなことばかり考えるしかない。

便利なんだか不便なんだか。この文明はどこへ行っちまうんだか。闇に突入しているのか。

主義主張も糞もない。
川は本当に汚れた。
経団連。金の亡者ども。
おまえらこそ、放射能をたんとかぶれ。
なんで、東北の人たちがかぶらなければならない?

誘致に賛成した東北の亡者は別だが。

 

 

 

マリア・ジョアン・ピリス 他

加藤 閑

 

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(一)
このあいだサントリーホールでマリア・ジョアン・ピリスのピアノを聴いた。(3月7日)
この日のプログラムは、シューベルトの「4つの即興曲」D.899、ドビュッシーの「ピアノのために」休憩をはさんで、シューベルト最後のピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960、アンコールは、シューマンの「予言の鳥」(森の情景から)というもの。
ピリスは、1991年にドイツ・グラモフォンから出たモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集で注目を集めた。それまでにもモーツァルト弾きとしてそれなりの評価はあったようだけれど、わたしはこのディスクではじめて聴いた。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタというと、昔からグリュミオーとハスキルの盤が有名で、わたしもレコードの頃からそれを聴いていた。だが、ピリスがオーギュスタン・デュメイと組んで録音した新しいディスクは、清新なうえに気品を備えた演奏で世界的に大変好評だった。以後、この二人はヴァイオリン・ソナタの名曲を次々に録音する。ブラームスはこのデュオの代表盤の一つとなったし、グリーグは演奏のイメージを一新した。ベートーヴェンの全集も出た。チェロのジャン・ワンを加えてトリオの演奏も発表した。相前後して、ショパンの夜想曲全集やシューベルトの即興曲などソロの録音も出たが、いずれも記憶に残る演奏だった。
その後、ここ何年かはいっときほど積極的にピリスを聴かなかったように思う。ピリスに限らず、常に新譜に目を凝らすような関心の持ち方をしなくなってきた。ピリスの演奏で比較的最近買ったのは5年ほど前に出た2枚組のショパンアルバムくらい。おそらく彼女の新譜のリリースも一時ほどではないのだろう。
たまたま新聞で、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番を中心としたピアノ・リサイタルの広告を見て、急に聴きたくなった。この曲、ピリスはかなり前にエラートに録音していたが、わたしにはそれほど印象に残るものではなかった。しかし、今回は再録音してのコンサート、しかも新しいディスクは聴いていないので、楽しみにして会場に向かった。
結果は、期待を裏切らないものだった。ドビュッシーは苦手なので何とも言えないけれど、シューベルトは即興曲もソナタも曲のよさを充分に引き出した気持ちの良い演奏だった。演奏家には、曲の趣向や持ち味を生かして最良の演奏をしようという人と、曲趣よりも自分の音楽観や演奏スタイルを優先する人とがあるように思うが、ピリスはどちらかというと前者のタイプ。そのピリスが、即興曲のCDを明らかに後者のタイプと思われるリヒテルに献呈している。
ピリスの『即興曲集』は1998年2枚組で発売された。シューベルトのこの曲は、それぞれ4曲のD899、D935が1枚にカップリングされることが多いが、ピリスはD915「アレグレット」とD946「3つのピアノ曲」(遺作)を加えて2枚にして発表した。(D946はあまり演奏されないけれどなかなか聴き応えのある曲) そうした曲の選択、構成だけでなく、タイトルの付け方やブックレットの内容までピリスの意向が強く反映していると思われる。
このCDには「Le Voyage Magnifique」(素晴らしい旅)というタイトルがあり、表紙を開くとリヒテルへの献辞がある。ピリスはこのディスクを、死んで間もないスヴャトスラフ・リヒテルに捧げているのだ。そして右のページには「私は旅人である」というリヒテル自身の言葉が添えられている。さらにページを繰ると、フランスの作家イヴ・シモンの小説「すばらしい旅人」の引用が断章のように綴られている。
意図的につくられているとは思うが、どれほどの明確な意図があったかはわからない。人生は旅であり、音楽を生きる人も旅人なのだ。あのリヒテルも自分を旅人と言っているし、自分が奏でる音楽も、演奏する自分やそれを聴く聴衆を旅へと誘う力を持っている……。リヒテルとピリスの「旅」は微妙に違う。リヒテルは自分の音楽活動を含めた精神のありようを、さすらう旅人のようだと言っているのだろう。対してピリスは、そのリヒテルや自分にはできない「旅」への憧憬を表そうとしているように思える。
リヒテルはWandererという言葉を使っている。するとやはり、シューベルトのD760「さすらい人幻想曲」(Wandererfantasie)を思い出さざるを得ないし、他ならぬリヒテルの演奏が耳にひびいてくる。ただし、ピリスがそういうことを意識していたかどうかはわからない。
当然ながら、ピリスの弾く「ピアノ・ソナタ第21番」はリヒテルの演奏とはまったく違う。リヒテルの、第一楽章のゆったりしたテンポには、胸の底に降りていくような陰鬱さがつきまとう。それがこの音楽にある凄みを与えている。ピリスにはそうした凄みはない。そのかわり、もっと情感に満ちた日常の充足がある。ここで日常と言ったのは、暗い面も明るい面も(あるいは悲しみも喜びも)人の営みの範囲のなかにあるという意味。自分が依然よりもそうした演奏を好むようになっていると思うし、ピリスのこの日の演奏にはそれゆえの強さも備わってきたという実感があった。

(二)
音楽というのは、他のものに代え難い喜びをもたらすものだと思うけれど、反面人間の精神を支配し、変節させる大きな力を持っている。先日車のラジオからベートーヴェンの第5交響曲ハ短調作品67が流れてきた。ちょうど始まったばかりで、第一楽章の誰もが知っている主題が聞こえた。
いまさら書くことでもないけれど、ベートーヴェンの音楽は聴く者をぐいぐいと引きずり込むような構成になっていて、われわれを否応なく音楽のなかに連れて行く。それに抗うことは難しい。旋律もリズムも揺るぎない力で心身を捕え、最初は違和感を覚えていた者も、やがては音楽に浸る法悦のなかに落ち込んでいくようだ。
途中で車を止めたので、このときの指揮者やオーケストラが誰だったかはわからない。しかし、わたしは1947年5月25日、ティタニアパラストで行われたフルトヴェングラー復帰公演を思い出した。曲はエグモント序曲、交響曲第6番、第5番というオールベートーヴェンプログラム。ナチス協力の嫌疑で演奏活動を禁じられたフルトヴェングラーが、ようやく許されて公演ができるようになった最初のコンサートだった。
聴衆は熱狂的な拍手でこの指揮者を迎えた。拍手、拍手。手が痛くなるほどの拍手を続けるその日の聴衆のなかには、必ずやヒトラーの演説に拍手した人間がいたに違いない。彼らは、いまやナチスを憎む民衆の一人として、音楽を愛する一人としてここに来ている。自分に対する疑いもなく今日の音楽の感動に打ち震えている。熱狂とは何と恐ろしいものかと心底思ってしまう。しかしそれは他ならぬ自分自身かもしれないのだ。
わたしもこの日のライブ録音を何度も聴いた。感動的な素晴らしい演奏だと繰り返し思った。だが感動、エモーションとはいったい何なのだろう。「わたし」を変えてしまうほどの感動、わたしの精神を揺すぶり、わたしの言葉を奪ってしまう感動。
感動に身を任せることの陶酔感はえも言われぬものだ。そしてそれがときには人を前進させる原動力になることもよくわかる。しかしわたしは恐ろしい。この恐怖はどこから来るのだろう。
第5交響曲(いみじくもそれは後世の人のつけた『運命』の名で呼ばれる)の持っている力が恐ろしいのではなく、それを聴いて我を忘れるかもしれない自分を恐れているように思えてならない。人間には多かれ少なかれみなそういう要素があると思うから怖ろしい。

(三)
ちょうどいま(3月16日午後10時15分)、テレビで水戸室内管弦楽団のコンサートの録画を放送している。ベートーヴェンの第4交響曲変ロ長調作品60。指揮をする小澤征爾は歳をとったため、一つの楽章が終わるたびに椅子に腰かけてほんの少しだが休憩をとる。音がなっている間は溌剌とした音楽とそれを指揮する小澤征爾があるのだが、腰をおろす彼の姿が映し出されると一人の抜け殻のような老人の姿となる。演奏は決して悪くない。もう80歳近いのだろうけど、音楽の呼吸は若々しいし彼特有のはなやぎがある。
この公演は、今年1月の水戸室内楽団の定期のはずで、その前の曲(メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」)は中年の女性が指揮をした。ナタリー・シュトウッツマンである。メゾ・ソプラノの歌手として一時さかんにコンサートを行ない、オペラにも出演し、たくさんのCDを出していたが、現在は指揮もするらしい。彼女も、シューマンの歌曲集を出していたころは、素晴らしくチャーミングで美しい女性だったが、指揮をする横顔は頬が窪み皺が刻まれている。ベートーヴェンが終わって、今は彼女の昨年のコンサートの模様が映されていて、シューマンの「詩人の恋」が流れている。歌は素敵だし、中年とはいえ歌詞に寄り添う表情は魅力的だ。しかし、15年前のジャケットの写真を知っていると、時の残酷さを思わずにいられない。
クラシックのレコードやCDはたいてい演奏家の顔写真が使われる。音楽ファンは気に入った演奏家の録音を長い期間にわたって聴くことが多いので、演奏家の老いてゆく姿を見続けることになる。白髪を刈り込んだ皺だらけのポリーニの顔なんか見たくなかったのに、こればかりは仕方がないことだ。
今回のピリスのコンサートのポスターを見たときも同じことを感じた。DENONでモーツァルトのソナタの最初の録音を出していたころの、ボーイッシュな少女のような彼女から、あまりにも遠くにきてしまったようだ。もちろん音楽家に、年齢とともに変わる容姿のことをあげつらうのは馬鹿げたこと。老いを云々するなら、まずわたし自身が鏡の前に立つべきだった。
今年も春がやってきた。昔は秋が好きだったのに、歳をとるに連れて春がいいと思うようになった。まわりにもそういう人が多い。じきに桜も咲く。そして、また芭蕉の句を口にする。

さまざまの事おもひ出す桜かな

 

 

 

 

ギャクリツが面白かったのだ

根石吉久

 

撮影:根石吉久

以前、山本かずこさんと電話で話していたとき、山本さんが、お茶の席ではっきりとものを言うのはよくないことだと言われたのを覚えている。

ずけずけとものを言うと、よほど気心の知れた人どうしならともかく、相手の気持ちを害することがある。私はこの点が駄目で、よくやってしまうが、田舎者ということなんだろうと思っている。私が田舎者であることはまた別に書くとして、今は私のずけずけは棚にあげておく。
山本さんがお茶の席では「はっきりとものを言うのはよくない」と言われたのは、ずけずけがよくないというだけのことではない。言葉を明瞭に発音するのもよくないことだと言われたと思う。茶室というところでは、やたら照明が効いて、ものがすべてよく見えるというのがよくないのと同じよう に、言葉の音の輪郭もやたらくっきりしているのはよくないのだろう。それは場にそぐわないのだ。
これは茶室という場の性質なのか、日本人の性質なのか、日本語の性質なのかと、その後考えた。いまだよくわからない。
テレビのニュースで報道するとか、学校の教室で、考えや意見を言う場合は「はっきりと言わないのでよくわからない」というふうな文句が出やすいだろう。しかし、日本語でふつうに人と話すときには、特にはっきり言うというようなことに気を使うことはないだろう。(私が今、ことさらにはっきりと口を動かして日本語をしゃべるのは、脳梗塞をやったせいだ)

言葉が伝わるかどうかではなく、心が伝わりさえすればいいのだ。どこの国だって基本的にはそうだが、日本は特にそうだ。どうしても以心伝心という語を思い浮かべてしまう。以心伝心に価値がある。日本では言葉はそのための補助的なものにすぎない。言葉は断片である方が、よく心を伝えたりする。
英語の語学屋から見ると、この日本人の、あるいは日本語の性質は、茶室の外側にも容易に見つかる。日本人の日常の中にその価値(以心伝心)があるのが見える。
日本人が二人で話しているのを近くで聞いているときに、言葉がはっきりしないので何を話しているのかわからないことがある。特に内緒話をしているのではなくてもそういうことがある。当人どうしは、それで十分に話ができているのだということはわかる。

そうすると、日本語の元には「むつごと」があるのじゃないかと、一挙に仮説を立てたくなる。
むつごとを言うときに、しっかりとはっきりと明瞭に発音するのはバカである。私はバカなのか、むつごとが下手である。あるいは、私がバカに分類され
るお人なのでむつごとが下手なのである。だいたいが、たいがいの女には、トンチンカンな奴だと思われ、実際にそうだから困る。そういうことを言う女は、しっかりしたやつらが多く、実に嫌なやつらである。
で、つらつら思うに、日本人一般は、思いの外、むつごとが上手なのではないか。いやあ、あんなもの、わからんぜ、男は黙ってサッポロビールとか言ってるが、ビールを飲んじゃったら、後はむつごとが上手だったりしてさ。と、かように仮説的妄想はふくらんで、はたまたしぼむ。
なんでしぼむ?
むつごとを言うときに、しっかりとはっきりと明瞭に発音するのはバカである、とちゃんとしたことを言った後で、女のことなんか書くからだ。そんなことして、ろくなことはない。
しぼんだところが、こういうふうに文章を書きつらねる場所なのだろうか。あるいは、語学屋の業(ごう)なのだろうか。

話を急に変えるべきだ。

小川さんという奈良にお住まいの方が、素読舎のコーチをやっておられる。英検1級や通訳ガイド資格をお持ちで、いうなれば日本で作った英語ではトップクラスの実力をお持ちの方で、新聞社が主催する英語教室の講師をやっておられる。
「音づくり」については、小川さん自身が私からレッスンを受けたいと申し出られた。私は緊張したが、小川さんはもうずいぶんと長いことレッスンを受けておられる。レッスンでは、いわゆる「音読」をしてもらうのだが、ある時からレッスンが先に進まなくなった。そこにどういう問題があるのか、私は長いことわからなかった。私の側にいつももどかしさのようなものがあり、しかし何がどうであるからもどかしいのかわからなかった。
今年の正月、パソコンに向かっていて、思いついたことを「紙に」メモした。
「口を大きめに使って、引き締める」と書いた。そしたら、次にメモすべきものがほぼ自動的に浮かんだ。「口の動きを浅くしないでつなげる」と書いた。
この時、小川さんの顔を思い浮かべていたのではない。塾の生徒の顔を思い浮かべていたのでもない。誰と特定できない、無数の日本人の顔を思い浮かべていたのだと言えばそう言えると思う。
この二つのメモを机の前に張って、メモを見ながら正月明けのレッスンを始めた。その後、小川さんの顔を思い浮かべた。そうか、解けたぞ、と思ったのだった。

あくまでも英語との対比であるが、日本語の音は平板である。口の筋肉を動かすのに使うエネルギー消費はとても少ない。省エネという観点から見れば一級品の言語だと思うが、これは英語の練習をするのに非常に不利な条件になる。これは日本語と英語というふうに、言語と言語を対比させたのだが、もう一つ別の対比がある。実際に言葉として使う場面と、あくまでも言語修得の練習の場面との対比がある。二つの性質の違う対比があり、それらが関連しあうので、ことは面倒になる。
言語と言語の対比で、口の筋肉のエネルギー消費に関して、日本語は省エネ型言語だと言い、英語はエネルギー多消費型だと言ったところで、実際に言葉として使われる場面ではすぐに反証のようなものが飛び出してくる。日本語でどなりつけるのと、英語でささやくのとでは、明らかに日本語の方がエネルギー多消費型になる。日本語はこうだ、英語はこうだなどと、そんなこと一概に言えないよ、となる。

しかし、語学屋としてはっきり感じ続けてきたものがある。日本人の口の筋肉は英語で育った人の口の筋肉と比べたら、はるかにパワーがないということである。
これは、オーストリアで生まれ、ドイツ語で育ち、渡米、10年以上アメリカ在住の後、日本に来た男と悪友みたいなつき合いになり、ある日、私の家で炬燵にあたって喧嘩をしたときにはっきりわかったことである。
英語で喧嘩したのだが、どうも顔に風が当たるのであった。炬燵板の上を風が吹いてくる。ははあ、と思った。こやつのドイツ語で育った口の筋肉が風を起こしているんだと思い、喧嘩を少しの間忘れてしまった。語学屋的感嘆を言っても通じやしないので、お前の口のバネはすごいなとは言わなかった。論理は大したことないが、口のバネはすごいと思ったのだ。喧嘩の脈絡を離れて、こちらが気抜けしたようになったのがわかったのか、喧嘩は口喧嘩以上の大事にはならなかった。そして、何で喧嘩したのかは忘れてしまった。
ドイツ語育ちで、英語に渡ったやつの口の筋肉のバネについては忘れることができない。あいつは、福島第一原発の事故の直後、家族全員でオーストリアに行ってしまった。もう、あいつと喧嘩もできない。東電よ、電力会社どもよ、お前らが何を壊したのかわかっているのか。

パワーがなくたって英語は使える。英語を使う場面では、そんなにやたらパワーが必要なわけではないと言う人もいるだろう。「私は喧嘩はしないし」と。それならそれはその通りだ。
パワーがないと困るのは、練習の場面、語学の場面なのである。パワーの有無によって、インプットの深度が違ってしまうのである。あるいは、音の安定性がまるで違ってしまうのである。
音の安定性についてはわかりやすい。個々の音の繊維を備えて、その強弱まで備えて、同じ調子でいくらでも同じ文が言えるかどうかで安定性を測ることができる。
インプットの深度というのがわかりにくい。しかし、結果の方から見ると見えやすい。文まるごとがひとつのものとして口の動きに乗るかどうか、つまり、アウトプットが簡単に成り立つかどうかで測ると、インプットの深度が十分であるかどうかがわかる。
このインプットの深度という観点は、私が読みあさった限りにおいて、どんな英語のハウツウ本にもなかった。おそらく今もない。

先日、経済的な理由のためにレッスンをやめざるを得ないという生徒さんに最後のレッスンをした。小さいお子さんを育てているお母さんである。この生徒さんは、私が正月に書いたものをよく理解してくれた。「口を大きめに使って引き締める」と「口の動きを浅くしないでつなげる」を両立させる練習を自分で継続していくつもりだと言われた。
私はなぜそういう方針が必要なのかということを話した。口を大きめに使って引き締め、音が安定したら、動きを浅くしないでつなげる。その後の段階がある。それは、「どんどん(あるいは、がんがん)、口を動かし、音を圧縮する」である。
これはレッスンでは扱えない。
レッスンでこれをやれば、30分のレッスンで文を一つか二つしか扱えないようなことになってしまう。生徒が自分でやるべきものとして、この三段階目があるのだと言った。しょせん、語学なんて90パーセント以上が自分でやることですからね。10パーセント未満のところに、何をどうするかという「やり方」の問題があるんで、そこがトンチンカンな人はとても多いから、このレッスンの存在理由があると、いつも言っていることも言った。 レッスンは、生徒に三段階目をやれるところまで連れていく。だけど、三段階目をやるかどうかは、生徒次第なのである。
「で、ここからは損得の話で、まあ、あんまり品のない話ですがね」と前置きした。
三段階目ですね。がんがん口を動かして、音を限度まで圧縮すると、覚えようとしなくても覚えてしまう。頭が暗記するのとはまったく違って、「口 の動きとして覚えてしまう」。だから、文がまるごとすぐに口に乗るようになる。つまり、アウトプットができるレベルのインプットができたことにな る。そこまでやっちゃうのが、絶対に得です。そこまでやらないと、絶対に損です」。
「文まるごとが、楽に口に乗るようになっていると、その文は変形させることも楽にできます。単語を入れ替えて別の文にしたり、時制を変換したりするのも楽にできるようになります。文法の理屈なんかは、とても楽に了解できるようになります。だから、自動的にアウトプットに転じるようなインプットをするのが絶対に得です。語学には『絶対に得』ってものはあるんです。だけど、多くの人たちが『絶対に得』という練習領域に入らない。だか ら、損をし続けています」というふうな、損得の話をした。そうとうに手前味噌なことも言った。
そんな話も、正月にメモしたものを普段のレッスン時に何度も見ていたからできたのだった。
その頃に、小川さんの停滞がどんな形をしているかも見えてきたのだった。長いことわからなかったものが、ようやく見えてきたのだった。
それは、初心者や中級者と同じ問題が上級者にもあるということだった。それは中級であるとか上級であるとかは関係なく、日本語で育った平板な音がベースにあるということだった。それに意識的でないと、何をどうすることで音を鍛え込むのかに意識的になれないことでもあった。
具体的には、「引き締める」と「つなげる」の二律背反を二律背反のままに放っておくのではなく、二つを「両立」させてしまう必要があることに意識的ではないのである。下手な命名をすれば、上級者の場合は二律両立がメインテーマとなるべきなのだが、それが正面の問題になっていないのである。
これは小川さんに限った話であるはずはないと思った。英検1級を持っている人を例にとれば、その8割以上の人に小川さんの「音の問題」は当てはまるだろうと思った。9割以上かもしれない。

なぜ意識的でなければならないのか。それは、なぜ長いこと「磁場」と言い続けてきたのかというのと同じことだ。
こんなふうに音を鍛え込む必要があるのは、英語の「磁場」がないからだ。あるのは、英語にとっては強力な酸性雨となる「日本語の磁場」だけで、 「英語の磁場」がないからだ。
「磁場」に生きていれば、「磁場の磁力」がインプットを助けてくれる。日本に生きていれば、それがないどころか、「日本語の磁場」は、少しくらいの練習の成果を短時間に真っ赤に錆び付かせてしまうくらいに強力なのだ。少し練習した程度の英語は、みんな日本語が「引きずり降ろしてしまう」。
だから、あの自動的にアウトプットに転じるまでのインプットの質が必要なのだ。逆に言えば、英語の「磁場」があれば、そこまでのものは必要ないのである。

日本で英語をやるということは、茶室の静けさ、以心伝心の補助でしかない言葉、明瞭さの排除などに逆らうことだ。いや、そんなところにとどまらない。
日本語の自然な生理そのものに逆らうことなのだ。
19歳の頃、アメリカ文化にはまるで興味がなかった私が、なんで英語のインプットにはのめりこんだのか。日本語の自然な生理に逆らうことで初めて私に生じる欧米系の思考が面白かったのだ。文明や文化の元になっている言葉そのものが面白かったのだ。
吉本隆明の使った言葉で「逆立する」という語がある。読みが正しいのかどうかわからないが、私は「ギャクリツする」と読んできた。語学が面白かったのは、ギャクリツするのが面白かったのだ。もしも万が一、私が語学の地平で正立してるのなら、今日まで生きてきた過程の全体が、いきなりギャクリツしちまうじゃないか。
ギャクリツしてるのは、逆に語学的行為そのものだろうと考えたのは、語学でメシを食い始めて以後のことだ。
ああ、ほんとにギャクリツしてる、と眺めるのも面白かったのだ。どっちが正立なのか、どっちがギャクリツなのか。世間では「たかが語学」だ。だけど、正立、ギャクリツは、どっちもどっちだの関係でシーソーみたいに揺れるときがある。脳梗塞をやった私の、日常のめまいのように、世界がゆらゆらしたのだ。

それがなければ、語学なんかやりはしなかっただろう。

 

 

屑だなと思った2月2日

根石吉久

 

薪割り

 

タナカさんが芝の上で坊やと遊んでいた。長野の2月2日、真冬だが、芝の上でタナカさんと坊やが遊んでいた。ありうることなんだな、天気がよかったからな、と、2月3日、朝4時40分に思う。俺は駄目だな。2月に枯れ芝の上で遊ぶのは俺はもう駄目だなと思う。

2月2日午後2時頃のタナカさんちの枯れた芝。タナカさんと坊やが枯れた芝の庭にいたことを思い、ありうることなんだなと2月3日、朝4時40分、いや、もう50分。

タナカさんちの庭先で、口からでまかせを言った。「これだけど、うーんと、長野県交通災害、うーんと、共済って。交通事故の保険みたいなやつ。6日の日に、また俺、回って、入る人の申込書とお金集めて歩くんだけど。中に説明のチラシあるから読んでもらえばわけるけど。6日の日にまた来るけど」みたいなことを言った。でまかせだというのは、何をどう言おうかとあらかじめ何も考えてなくてしゃべっているからでまかせだというのだが、そこでほぼ定型ができた。二軒目三軒目から、定型でしゃべる。

屑だと思いながらのことだった。
毎回同じことを言う。屑だと思い、同じことを言う。

「長野県交通災害共済の加入申込書ですが、6日の日に申込書とお金を集めに回ります。市報の中に説明書がありますので、よろしくお願いします」みたいな定型。その時によって、多少の違いはあるが、定型はあって、違いは定型との違いに過ぎない。屑だなと思いながら、一軒一軒で定型を言う。こんなもの、市の職員がやればいい。金は市に納めろというのだから、県と市がグルになって、常会長にやらせている。説明書と申込書を配布するくらいはやってもいいさ。申し込みたい人は市に電話するなりして、後は市と個々の家の間でやればいいじゃないか。
チャイムを押す。「どなたですか」とチャイムのスピーカーから声が出てくる。「常会長の根石です」と言う。奥さんとか旦那さんが出てくる。定型をしゃべる。屑だなと思っている。2月2日に申込書を配って、6日に申込書と金を集めて歩き、その日では具合が悪い人がいれば猶予の何日かを設け、潮時を判断して金融機関か市役所に行って金を納め、各戸分の領収印をもらい、また常会の中を回って領収書を配って歩くのだ。交通災害共済だけで、3回も回らなければならない。屑だ。
2月2日2時頃から、竹林の湯のチラシ、講演会のチラシ、議会だより、公民館報、シルバーセンターニュース、社協だより、ネット上での確定申告のやり方の説明書、健康ニュース「お持ちですか?おくすり手帳」、忍たま忍太郎キャラクターショー&キッズコンサートのチラシ、いもじや新聞などを一部ずつ重ね市報にはさみ込む作業を始めたが、それに1時間以上かかっている。途中で、交通災害共済の申込書と金を回収して歩く日を決めちゃった方がいいなと思ったから、パソコンを立ち上げた。
「常会員各位 平成26年2月2日 長野県交通災害共済申込書の回収について 交通災害共済申込書と関連のチラシを、市報その他と一緒に、いったん各戸に配布します。2月6日の午後と夜を使って、申込書を回収する予定です。この回収日にお留守になる等、都合が悪い方は、272-××××、または090-4181-××××へお電話いただきたくお願い致します。夜に仕事をしている関係上、金曜、土曜、日曜、月曜の夜は回収にうかがうことができません。事情をおくみ取りいただき、ご協力をお願いします。」というものを35部印刷した。挟み込みの途中まで済んだ分に、プリンタで刷ったものを追加し、また各種チラシ等の丁合をとり、市報にはさむことを継続。

そうか。タナカさんちの枯れた芝の上でタナカさんと坊やが遊んでいたのは、2時過ぎということはないな。1時過ぎに白藤で蕎麦を食って、帰宅してすぐに丁合を始めたのだが、途中でプリンタで通知みたいなものを印刷しているのだから、最初の家のタナカさんちへ行ったのは、3時を過ぎていたかもしれない。
チャイムを押しても誰も出てこない家もある。その場合は、交通災害共済の申込書を市報に挟み込み、郵便受けに入れ、次の家に行く。人が出てくれば、定型文を言う。屑だ。なんで屑だと思うのか。とにかく、いきなり、屑だという思いが胸に湧く。

つまりこうか。きのう、薪割り機が故障したのだ。だから、今日はチェーンソーを回したかったのだ。

薪割り機には、油圧で丸太を押すために移動する鉄の四角の固まりがあるが、それが二箇所で二本の丸棒に溶接されている。溶接の片方が剥げてとれたのは、もう2週間以上前だった。明らかに、溶接の仕事の質が悪いのだとわかった。無理な力がかかり、丸棒が曲がってしまったとかいうのではない。単純に溶接の質が悪いから、丸棒の形はそのままで、溶接で変形した鉄の部分が「剥げた」あるいは「とれた」状態だ。薪を鉄の固まりに当てる角度を工夫すると、一箇所しか丸棒とつながっていない状態でも薪は割れた。片方の溶接が弱く、もう片方の溶接は頑丈につながっているのだとわかる。ぎいぎいという音ときいきいという音の混じった不快な音を我慢して、2週間の間に3度ほど薪を割った。それが昨日いよいよ止まってしまった。ぎいという音をたてて、薪割り機の鉄の固まりが動かなくなった。
孫に手伝わせて、薪割り機を軽トラックに載せた。長野の外れの吉沢金物店まで行く。途中近道をしようとして、住宅街へ迷い込み、ふらふらしてまた国道に出た。金物店に着き、薪割り機を見せると、店の人もすぐ溶接が弱く「とれた」のだとわかってくれた。保証は効かないと言われる。それはわかっていると応え、「部品の金は払うが、修理の手間賃は払いたくない」と言う。吉沢金物店の人は、「メーカーに強く言っておきます」と言ってくれた。こういう話がすぐに通じるのは気持ちがいい。しばらく油圧のオイルを見てないから、オイルを足しておいてもらいたいと注文を追加した。わかりましたと、店の人が荷札にそれをメモし、機械にくくりつけた。見通しがよくていい。ごたごたすることはないだろうなと思う。つまり、手応えがある。「急ぎますか」と聞かれる。「急がない。この機械が使えない間は、チェーンソーで木を切る仕事をやってればいいから、急いでもらわなくても大丈夫だ」と応える。具体的に修理に必要な時間が一週間程度になるか二週間程度になるかわからないと言っているのだとわかるし、3ヶ月、半年先のことを言っているのではないのだともわかる。「急ぎますか」だけでそれがわかる。話がぽんぽんと通じるのが気持ちがいい。
いつ頃からか、日本語で話が通じなくなることが増えているという気がする。明らかにメーカーの仕事の質が悪い場合でも、メーカー側に立つ店があったりもする。あるいは、今回の件で言えば、修理を3ヶ月も半年も放置しておいて、「急がないと言ったじゃないか」と言い出す店員がいたりすることだって、今時はありうるのだ。何かが崩れてしまっている。
吉沢金物屋で、「一週間か二週間程度の話ですよね」なんてことは言わなかった。言おうか言うまいかなんて迷うこともなかった。そんな考えは、今これを書いているから出てきた考えで、吉沢では考えなかった。「急ぎますか」。「急がない」。要点はそれだけだ。男は黙ってサッポロビールだ。

翌日、白藤で蕎麦を食いながら、市報配布をやらなければいけないな、やだな、と思った。やだな、だけど、やらなければいけないな、と思った。丁合をとるのに1時間、配るのに1時間もあればいい。夕方にはチェーンソーのエンジンがかかるかどうか調べることができるだろうと思ったが、交通災害共済の申込書などというものがあったので、いつも通りの丁合1時間配布1時間では済まなくなった。通知を書き、プリンターで印刷しなければならないということも出てきた。各戸で、申込書の回収の日をなるべく口で伝えることも出てきた。

途中で、今日中にチェーンソーを調べることはできなくなるかもしれないと思った。実際にその時間がないとわかり始めた頃から気持ちがつまらなくなっていった。

俺は、チェーンソーを回したかったのだ。ギィーンと音をたてて、あの腐れ校長の首をチェーンソーで一瞬に落とす幻なんか胸に秘めてみたかったのだ。木くずを飛ばす乙女心だわ、うふん、てなもんや三度笠! それができなくなった。

一軒ずつ配布物を配りながら、定型文を言いながら、屑だと思った。本来、市が自分でやるべきことを常会長にやらせていやがる。屑。ごたごた言うと、やたら時間がとられるから言わないが、ここに書き記すことはする也。

災害共済の申込書には、一軒ずつその家の世帯主の名前が印刷されている。どの家にもまったく同じものを配ればいいのではない。郵便受けにまったく同じものを投げ入れるだけでは済まない。その家専用の申込書を束から一枚ずつ抜いて渡さなければならない。市報や議会だよりなど読まない家もあるはずだ。わが家も読まない。つまらないから。ただ市報に挟んでおくだけではまずいだろう。一軒ずつチャイムを押して人に会えれば、6日にまた来ると、じかに話した方がいいだろう。だからそうした。常会35軒を回り終わったらぐったり疲れた。帰宅したら6時過ぎていて、塾の仕事に遅刻した。帰宅するまで、屑だという思いが持続した。

夜10時頃、村田君と塾の会計をする日だが、疲れたので次回に回してもらう。
昼間、白藤で蕎麦を食っている時だっただろうか。フェイスブックのメッセージで、さとうさんからこの原稿の催促があった。それはやる。だけど、ちょっと休みたいと思い、布団に横になったら、そのまますぐ眠ってしまった。
朝方4時に目が覚めて、台所に行ってコーヒーを淹れ、炬燵に戻って書き始めた。ぼんやりしながら書いていたら、少しアタマがはっきりしたような気がした。ここまで書いたらまたタルンでいる。
脳に酸素がうまく行かないのだろうか。
また脳梗塞予防の薬は飲んだ方がいいのだろうか。もう3ヶ月くらい飲んでいない。

 

 

今夜、車のラジオでデュファイのミサ曲を聴いた。

加藤 閑

 

蓮根

 

今夜、車のラジオでデュファイのミサ曲を聴いた。

わたしは仕事の関係上、週の大半を茨城の土浦で暮らしている。土浦は日本一のれんこんの産地だ。この絵のれんこんは、数年前武井農園の奥さんからいただいた。わたしが絵を描いていることを知って、絵になりやすいように葉っぱを一枚つけて掘り出してくれたのだ。その夜のうちに絵を描いた。あの頃の方が今よりよほど早く描けた。まだ少しは若かったのと、あれこれ迷ったりせずに集中できた。

ミサは「キリエ」から「アニュス・デイ」に移っている。

わたしは毎日れんこん畑の中の道を走る。この道はわたしが土浦に来るようになる直前に開通した道だ。最初の年(もう十五年以上も前のことになる)はとても雨が多かった。4月から通勤がはじまったのだが、なんだか来てすぐに梅雨になったような感じだった。この道路もできたばかりで、車の通行も今よりずっと少なかった。毎日のように雨が降っていたので、両側のれんこん畑と道路がほとんど境がないように水浸しになった。そこで不思議なものを見た。

道のあちこちに小ぶりの魚のようなものが横たわっている。白い腹の方を上にして、中にはなまなましく血の赤い色が見えることもある。魚が道路に打ち上げられるほど雨が降ったのだろうか。

雨に煙ってひろがる関東平野に、白い生き物の死骸が点々とある中をわたしは走った。雨が風景からあたう限り色彩を洗い流してしまって、視界はほとんど無彩色と言ってよい。その中に血の色のまじる白い物体の鮮烈さ。

デュファイのミサは、もともと彼が若いときに書いた祝婚歌「目を覚ましなさい」を基にしているらしい。だからこのミサも「目を覚ましなさい」と呼ばれるとのこと。それを聴いていて、なぜか十数年前の水に覆われた陰鬱な光景を思い出していた。

何日かして、あの白い腹を見せて横たわっているのは、実はヒキガエルだということがわかった。道路ができたことなど、蛙の預り知らぬこと。以前は行ったり来たりしていた道路の反対側にちょっと出かけてみるかとばかり道の上に出たところを車にはねられ、あえなき最期を遂げたのだった。

しかし、今夜古風な合奏を伴なうミサを聴いて思い出したあの白い死骸が、どうしても魚に思えてならない。そんなことがあるはずはないことは分っている。分っていながらここは雨の日には魚が道路に打ち上げられる夢の中の町のようで、わたしはいつまでも目的地にたどり着けずにさまよっているのだった。

 

 

 

踏ん切りがつかないままの新年

根石吉久

 

反英語フリーク「大風呂敷」
反英語フリーク「大風呂敷」

 

2014/01/03

午後1時半頃、飯を食いに出る。白藤は5日まで休み。舞鶴でざる蕎麦。舞鶴で女房に会った。職場では、時間をずらして昼飯にしているとのこと。
正月という気がしない。何が欠けているから正月という気がしないのか。年末に道路は混んだし、八幡のお宮に人出はあった。それでも、正月が来るのだとか、正月が来たのだという気がしない。
準備が簡単になったからなのか。12月31日、原信というスーパーで買った寿司を食べながら、紅白を見てつまらないと言った。少したって、テレビが除夜の鐘を鳴らした。近所の寺の鐘も鳴った。眠くなったと言って、家族は眠った。
これが正月だという集約点のようなものがないからだろうか。無意識に迎えた数まで入れると、62回は正月を迎えたはずであり、その間に「これが 正月だ、正月とはこのことだ」という正月のイメージの核が自分の中に、いつの間にか形成されてはいるだろう。そして、そのイメージの核に照らし合 わせると、現実の正月が、こんなのは正月じゃないという感じになるのだろうか。

昔、くわえ煙草をして煙をあげながら、「ああ、煙草が吸いたい」と思ったことがあった。本当に煙草がうまいと思うことがたまにある。煙草を吸いながら、体は「こんなのは煙草じゃない」と判定していたのか。いちいちそんなことを意識したわけではなく、気がついたら、煙草をくわえながら「ああ、煙草が吸いたい」と思っていたのだった。
今年の正月もそんな具合なのだろうか。秘密保護法案というろくでもないものが制定されたからか。どこが正月かと、「体が」判定しているのか。およそ、正月なんてものとは違う、と。

舞鶴でざる蕎麦を食べて、セブンイレブンでコーヒーを飲みながら、軽トラの中で以上の分を書き、観世温泉で湯につかり、帰宅して薪ストーブを焚き、うそうそしてから、二階の炬燵にあたった。pomera をパソコンにつないで、炬燵でこれを書いている。以下のものは、1月1日の夜、パソコンで書いたものだが、どうせ読めば気が滅入る。気が滅入る状態で書いていたことを、薄く覚えている。

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2014年になった。
1月1日。夜10時37分。

さとうさんが書かせてくれているこのエッセイは、「続きもの」でないのが気が楽だ。前回の話とは何の関係もないことを書いていいのだから、その点で気が楽だ。語学論ということになるとそうもいかない。前回書いたものと何の関係もないことを書いてはいけないというルールはないが、前回書い たものの発展形にするとか、前回書いたものをもっとわかりやすく砕くとか、前回書いたものと何の関係もないように見えても、前回書いたものに触発 されているとか、なんらかの関係において、前回書いたものと関係がある。そうでないといけないような気がしている。だから、私が書くもののうち で、語学論は「続きもの」なのである。登場する人の相互に反応が起こるネット上の掲示板では別だが、語学論そのものはゆっくりと進んできたので、 少し書いては長く中断するようなことをやってきた。だから、自分でも「続きもの」だとはわからないようなことになっている。

最初に書いた「英語のやっつけ方」という黄色い冊子は、3日か4日で書いた。これは、立て続けに書いたという意味では、「続きもの」であるが、 多分、書く前に項目を立てたのだろう。書いているうちに、次に書くべきものが出てくるというふうなのが「続きもの」としてのあるべき姿だと思っているが、「英語のやっつけ方」はそうではない。

その後、どんなきっかけで小学館の大西さんという編集者が連絡をくれたのかわからなくなってしまったが、自宅自作を始めるより前のことだったという気がする。「小学6年生」という学習雑誌の終わりの方に、親が読むためのページがあり、そこに二回連続で何か書けと、大西さんが電話をくれたのだった。それは二回で終わりなので、「続きもの」というほどのことはないが、その時に大西さんに3日か4日で立て続けに書いた「英語のやっつけ 方」という冊子をさしあげたのだと覚えている。

大西さんは、地名辞典を何年もかけて編集し、全国あちこちを訪れ資料を集めたりした人だが、地名辞典ができあがった後は「コロコロ」という小学 生向けマンガ雑誌の編集部に移った。大変だな、全然違うところへ行くんだなと思った。大西さんは、ときどき「コロコロ」を送って下さった。さらに その後、小学館が文庫を出すことが決まり、文庫の編集部に移られた。
「長いこと編集者をやってきたけど、地名辞典のときは、学者さんやお役人さんとばかりつきあってて、みんな固いんだよね。「コロコロ」に描いている人は、マンガは描けるが文章は書かないし、一般向けの文章を書く人をあまり知らないんだよ。文庫を企画するのには、困るんだよ。根石さんが自分で作った語学のやつ、俺にくれたやつね、あれ、文庫にしてみたらどうかと思ってるんだ。」
小学館文庫が出始めた頃、そんなふうなことを大西さんが言われたことがあった。それから何年もたって、本当に「英語のやっつけ方」を文庫にするという連絡をくれた。タイトルは大西さんの案で、「英語どんでん返しのやっつけ方」に変わった。自分で作った「英語のやっつけ方」は、数十ページの薄い冊子だったので、文庫にするには分量が足りなかった。その数年前に知り合って、隣町の戸倉で「素読舎戸倉分室」をやっていた村田君と話をし て、話をテープ起こしし、ページ数を増やすことにした。実際に話したことが元になってはいるのだが、後から書き加えた部分が多かった。

本が売れない時代になってきていて、単行本は大手出版社でも1500部とか2000部刷ってアタリをとり、イケルと踏んだら5000とか1万とか、あるいは大当たりし始めているものだったら、数万部とかの刷り増しをやるということを人に聞いていたが、私のような無名の者が書いたものでも、小学館文庫はいきなり1万5千部刷った。大丈夫かいなと思っていたが、数ヶ月でほぼ売り切ったということだった。目をつけてくれた大西さんに 迷惑をかけることにならなくてよかったと思っていたら、お金を80万円もくれた。こんなことは後にも先にもないだろうと思った。後にも先にもなかった。

「英語のやっつけ方」やら「英語どんでん返しのやっつけ方」と言うと、いわゆるハウツウものだと思われることは最初から承知のうえだった。自分で作った「英語のやっつけ方」は、自分でもハウツウもののつもりで書いた。しかし、ハウツウものになりきれてはいないところがある。ハウツウものになりきれていない、あるいはハウツウものをはみ出している部分を、その後、インターネットの掲示板を開設した時に、「語学論」と名付けたのだっ た。

ネットの掲示板は、ネットにつないでいる人には誰にでも開かれている。掲示板の名前は「大風呂敷」にしたが、公序良俗に反するとかで、図書館のコンピュータからはアクセスできないようになっているということは、後で松岡祥男さんから聞いた。
どこが公序良俗に反するのかというと、どうでもいいようなことなのである。要するに、「馬鹿か」とか、「顔洗って出直して来い」というようなノノシリが多発されるとか、当時の言葉で言うと「すぐ炎上する掲示板」だというのが、公序良俗に反する理由なのである。
松岡さんは、「大風呂敷」が図書館からアクセスできないようになっているのは「名誉」だと言ってくれた。私も「名誉」だと思った。ついでに思い出した。亡くなった中村登さんは、多分「イエローブック」という雑誌の座談会の中で、「図書館で、本がずらっと並んでるのを見るとウンコが出たくなる」と発言していたと覚えている。よくわかる話だと思った。私は中村登は「筋肉の詩人」だと思っているが、図書館内部の光景は、中村登の内臓の 筋肉にまで反応を起こさせる光景なのである。不随意筋まで動くような異様なものである。整然と整理されていればいるほど異様だ。血反吐を吐くのと同列の言葉も、整然と整理されてしまうのだ。

私が作った語学論用の掲示板は、荒しが入ったり、主催者がいちばん炎上したりした。十年ほどの間、一晩中起きていて掲示板に書くというような日々が続いた。ほとんど毎晩、ビールを飲みながら書くので、数年やっていたら腹が出てきた。
オーストリア産まれで、アメリカ経由で日本に来たウドという男と知り合いになった頃のことだが、私が自分の腹を叩きながら、「ビールを飲みなが ら掲示板に書くので、こんなに腹が出てきた」と言ったら、ウドは、「その腹は金がかかっている。大事にしろ」と片目をつむりながら言った。

60歳になる少し前だったと思うが、脳梗塞をやった。ある日、英語のレッスンをやっている時に、口がうまく動かないとはっきり思った。以前か ら、動かしにくいと感じることがときどきあったが、その日は違う気がした。動かしにくさが違う気がした。医者に行って、CTスキャンの結果、脳梗塞だと診断され、そのまま入院になった。症状は、口が動かしにくいということ以外に出なかった。口の動かしにくさが悪化していくこともなかった。 脳の血管が詰まったのだが、運がよかったと言えばよかったのだ。

その頃から掲示板「大風呂敷」に書くのがめっきり減った。掲示板に書くことを基本的にやめ、夜中の散歩を始めた。出ていた腹が1年ほどでひっこんだ。
掲示板は設置したままにしたので、書きたい人は誰が書いてもいいのだが、書く人もほとんどいなくなった。私が書くものに「そんな難しい言い方で なくて書けないのか」と文句を言った人には、もっと易しい言い方で書けるなら書いてみてもらいたいもんだと思っていたが、その人も書きはしないのだった。

脳梗塞の影響としては、口が動かしにくい時があるという以外は、その後も特に出ていない。今でも、英語のレッスンの時に、口が動かしにくいときがあるが当時ほどではない。
ただ、語学屋という仕事にとっては、口が動かしにくいというのは非常に困る。生徒に「もっと口の動きを引き締めろ」などと指示するのだが、引き締まった口の動きで、なめらかに口を動かすということが、自分でできなくなっている。
スポーツの監督とかコーチとかいう人たちがいる。自分ではもう激しくプレイすることはできないが、監督やコーチならできるので、監督やコーチをやっている。私が今やっているのもそれと同じようなものだ。
「口の動きを引き締めろ」と生徒に言う。自分ではそれができない。しかし、「引き締まった口の動き」がどういうものかははっきり見えているのである。生徒がたまたま実現したときに、ただちに「それだ!」と言うことはできる。
「それだ!」と何度か言っていると、いい動きが根付き始める。 しっかりと根付くと、生徒にも「引き締まった口の動き」の型が見え始める。脳梗塞をやった後でも、そのプロセスを形成することはまだできるのである。

素読舎には、コーチは私以外に二人いるが、まだ二人とも生徒の口に「いい動きを根付かせる」ことができない。コーチ自身の発音は、一般的なレベルはとうに抜け出ているが、「学校の犠牲者」を抜け出ているわけではない。生徒が「学校の犠牲者」になるのを食い止めることがまだできない。

磁場論と音づくり論が私が「大風呂敷」でやったものだが、そういう「語学論」は、日本ではまだ認知されていない。
私が「語学論」という言い方をし始めた頃、インターネットで「語学論」を検索語として検索してみたことがあった。「英語学」とか「ドイツ語学」 という語は以前からあり、検索してヒットしたものの中に「英語学論文」というのがあった。「英語学・論文」ということであり「英・語学論・文」ではない。
試しに先ほどまた検索してみた。今でも「語学論」と言っているサイトはないようだ。「語学論」という語をずっと使っているのは、素読舎関係の ホームページや掲示板だけのようだ。

「語学論」がないことによって、日本人の欧米系の言語習得がどれほどの損をこうむっているのかはかり知れない。例えば英語だが、英語関係の書籍、英語関係の学校の回りに動く金は、日本の yen が世界一の額だと聞いたことがある。今でもそうなのかどうか。多分そうなのじゃないかと思う。
英語の回りに世界一の規模の金が動き、多分、金の額が実質的な効果をもたらさないことの規模も世界一なのだ。
それは突き詰めれば、日本に「語学論」という領域がまともに成立していないせいだ。「磁場」でなければ手に入らないものが手に入ると思い、自分 を放送やら映画やら歌やらで「英語漬け」にするような奇態がなくならないのも、「語学論」がまともに成立していないからだ。

一例だが、もう20年近くもNHKの語学放送を聴き続けている人を知っている。この人は放送を欠かさず聴き続けている。お金はほとんどテキスト代にしか使っていないので、英会話学校に通うほどの大損はないものの、その人の語学放送の使い方に未来はないと私は考えている。聴き続けるのが趣味だというのなら何の文句もないのだが、聴き続けることで語学的成果を得ようと考えているのであれば、その点に関しては未来はない。そもそも語学というものがまるで立ち上がってくることがないのだ。ただ聴いているだけなのである。歌番組じゃないんだから、と思う。
そうであるならば、語学が立ち上がらないと言うのであるならば、ひるがえって、語学が立ち上がるとはどういうことなのかをはっきりさせなければ ならない。それをやれば、それが「語学論」になるはずなのだ。

NHKの語学放送を20年近く聴き続けている人に向かって、「語学が全然立ち上がっていないよ」と直言するのが「語学論」なのである。そして、 そんなものが「語学論」であるなら、「語学論」は最初から多くの人から嫌われる宿命にある。少なくとも「大風呂敷」という掲示板に書いていた頃は、人から嫌われるのを承知でやっていたとは言える。

掲示板「大風呂敷」に書かないようになってから、そうじゃないかもしれないなと思うこともあった。
「語学が立ち上がっていない」と言うのではなく、語学を立ち上げるには、こうすればいいのだと言う方がいいのではないか、と。だけど、それは やってはみたのだ。「英語のやっつけ方」だって、「英語どんでん返しのやっつけ方」だって、こうすればいいということを言ったものなのだ。だけ ど、人々はそこに普遍性を読んでくれなかった。何か変わった一方法を言っているだけだと読まれた。そんなはずはないと私は思っているのだ。音を立 体化するとか、イメージの生起と音、あるいはイメージの生起と文字を「同時化」するのだという言い方は他のものと代置できない。
イメージの発生時、「磁場」を一切アテにできないのが、日本における欧米系の言語習得だから、イメージは「自分が自分に対して」「意識という場だけで」作るしかないのだということだって他の言い方で言いようがない。

「回転読み」だとか「電圧装置」だとかいう言い方にこだわる気はない。それは、「語学には繰り返しが必要だ」という言い方でもいいし、「イメージと音を一体化する」という言い方でもいい。そういうことにはこだわりは持っていない。

やはり、私の言葉の癖が強いのがいけないらしい。

私も、NHKの語学放送を聴き続けている人に向けて、「そのやり方に未来はない」とは直言できなかった。生身でつきあう人に対して、その人と「語学論」によって直接的に関係を結んだら、その人との関係の総体がぶっこわれるのは目に見えていた。我の強い人が思い込んでしまったことにやたらに口を出すもんじゃない。
「継続は力なり」と言うが、力にならない継続もある。

生身でのつきあいの平面で避けたものを、掲示板では避けなかった。その結果、「馬鹿か」も出てきたし、「顔洗って出直して来い」も飛び出したのだった。なんでわざわざそんな損をするような言い方をするのだという忠告は何度も聞いたが、こちらこそそう言いたかった。なんでわざわざ損をする ようなことを放っておくのかと言いたくなることばかりだった。NHKやら中学・高校の授業やら、英会話学校やら、澄ました顔をしてやっているそれらの全部が駄目だと言いたくなった。言いたくなったので言ったのである。

日本全体が、英語一つでどれだけの損をしているかわからない。「語学論」がないからだ。これに関しては、文部科学省と大学に責任がある。原子力村と同じように、英語の回りにも「御用学者」がうろうろしているのだろう。

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以上が、この正月に書いたものである。
なんで語学のことなんか書いたのかと言うと、少し前に「大風呂敷」に語学論めいたものを書き、それを facebook に転写するということをしたからである。
「続きもの」をまたやろうかという気になったときに書いたのだった。それが尾を引いていて、ふんぎりがつかないから、多分、話がそっちへ流れたのである。

いつもよりずっと長い原稿になってしまうが、ネット上への掲載なら、さとうさんの迷惑にはならないだろうと思い、以下に「大風呂敷」に書いたも のを転写させていただく。少し書き足したところがある。

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..1.なぜ「磁場」と言ってきたのか

13/12/25 投稿者:根石吉久 投稿日:2013年12月25日(水)22時46分57秒 編集済

『「磁場」に入り、種のまま持ち続けたものから芽が出ればいいのである。たてつづけにめまぐるしくイメージがどんどん脱皮を繰り返すというよう なことも起こるはずだ。それが「磁場」であり、「磁場」でしか起こらないことだ。』

上に引用したのは、掲示板「大風呂敷」の過去ログからの私の文だと思われる。

素読舎の語学論の多くが、「音づくり論」と「磁場論」に言葉を費やしたものだ。

書いてみようと思ったのは「磁場論」そのものではなく、なぜ「磁場」という語が素読舎の語学論に必要だったかについてだったので、古いテキスト ファイルに「磁場」という検索語で検索をかけたら、たまたまこの文にぶつかったというにすぎない。「大風呂敷」の過去ログ全体を「磁場」という検索語で検索すれば、おびただしい文がみつかるだろうと思う。引用したものは、その欠片みたいなものである。

なぜ(英語の・日本語の)「磁場」というような言い方をわざわざしてきたのかについて書いておこうと思ったのである。

例えば「英語圏」という語がある。「あの人は英語の磁場にいた人だ」という言い方よりも、「あの人は英語圏で生活した人だ」という言い方の方が わかりやすい。だから、わざわざ(英語の)「磁場」などと言わなくてもいいではないか、「英語圏」でいいではないかという意見があるだろうと思 う。しかし、私には「英語圏」という言い方を使ったのでは言えないものがあったのである。
「磁場」という語を使い始めた時、「磁場」という言い方 でないと切り開くことのできない地平を予感していたのだと言ってもいい。
「磁場の磁力が働く」というような言い方は可能であるが、「語圏の圏力が働く」という言い方では何のことかわからない。「磁場の磁力が働く」と いうような言い方は随所に必要だったので、「磁場」という語が必要になったのだ。

私は語学屋であるので、語学をやる立場から、例えば「英語圏」と呼ばれている場所を見る。語学屋であるから、語学特有の性質について考える。考えるときに、「磁場」という場に、語学にはない性質を見つけることができれば、そのことで逆に語学とはどういう行為であるかを照らし出すことがで きる。そういう場合にも、「語圏」ではうまく考えられない気がした。「磁場」あるいは、「磁場の磁力」というふうに物理学用語で比喩的に言う方が 考えが先に行ける気がしたのだった。

語学を考える途中で、「みつけたぞ」と思ったものは、「当事者性」だった。
語学になく、「磁場」にあるものは、「当事者性」だと言っていい。

「当事者性」が磁力を帯びるのだ。

具体的に例を出すほうがいいだろう。例えば、日本語の新聞を読んでいる場合に(英語でも同様に説明可能だが、日本人には日本語の「磁場」を意識 して欲しい)、これまでの考えを当てはめれば、二つのまったく異なる読み方がある。

新聞に、明日の東京の天気は雨だろうという記事があったとする。その「明日」、亡くなった友人の葬式があり、それに列席する予定の人を想定して みる。駅から式場までタクシーを使うべきか、歩いても行けるかどうかを葬式に列席する「当事者」として悩んだと想定してみる。列席すべき「当事 者」であるから、インターネットで式場の周りの地図を探し、歩いて行くこともできそうだから、傘は絶対に持っていかなくてはならないなとか、読んだ新聞記事そのものからどんどん離れて、実際にやらなければならないことを考え、判断し、準備するだろう。それが「磁場」の中にいるということな のである。それが、「当事者」が「磁場の磁力」の中を生きるということであり、磁力を帯びるということである。

これと根底からして違う新聞の読み方が、語学の教材として読む読み方である。

例えば、アメリカ人が語学の教材として、明日の東京の天気は雨だろうという記事を読むとする。単に目で読むだけでなく、しゃべるのに使える語法 がここにあると思い、「明日の東京の天気」という具合に「の」で名詞をつなげていく語法を習得しようと思い、繰り返しその文を口で唱えてみるとい うことをしたとする。これは「練習」である。だから、音もなるべく日本人が発音するように発音してみようと努力するだろう。
この語学的な場面では、このアメリカ人にとって、明日という日に、東京に雨が降るかどうかはどうでもいいことなのである。そんなことよりも、日 本語の「の」の使われ方に慣れることの方に意識の力を注ぐべきことになっているのである。つまり、自分の行動や判断に直結する「当事者性」はここ にはまったくないと言っていい。「当事者性皆無」というものが、語学の場面なのである。現実に対する芝居のような位置にいるのである。ままごとの ような位置と言ってもいい。

語学をどれだけ激しくやっても、大量にやっても、そこには「当事者性」というものはない。

この語学の場面に当事者がいるとすれば、「当事者」を想定し、それを意識において演じる当事者がいるだけである。それは、現実の場面で、へたな 言い方をしたら、ただちに危険にさらされるかもしれない人が持つ「切実さ=当事者性」のようなものをまったく欠いている。
語学の真の場所は、意識である。意識に「想定された当事者」をどう演じればうまく演じたことになるかという架空の世界があるだけなのである。それは天然自然の中に置かれた人間の意識と同じくらい架空のものである。
そこにも架空の世界の「当事者」はいるが、その「当事者」は想定されたものとして意識の内部にいるだけであり、「足が地についた場所」に身体ごといるわけではない。

それが語学である。すべては想定されたものであり、イメージされたものであるにすぎない。場所は「磁場」ではなく、意識である。

「磁場の当事者性」と「語学で行使される意識」は、吉本隆明の語を借りれば、まったく「逆立している」。

「語学の場=意識」と「磁場に足をつけて生きる意識=当事者性」との間には、目も眩むような巨大なクレバスがある。日本人が英語をしゃべるよう になるということは、このクレバスをまたぎ超えるようなことである。あるいは跳び越えるようなことである。こちら側は、個の意識だけの世界、向こう側は場における当事者になる世界である。「目も眩むような巨大なクレバス」は大げさな言い方ではない。

という具合に、語学というものを考えてきたので、「英語圏」なんかという言い方では、とても考えを先に進めることはできなかったのである。

「磁場」あるいは「磁場の磁力」、あるいは「当事者性」というわずかな語を使えば、英会話学校に通っても、なぜ英語をしゃべれるようにならないかを私は説明することができる。

今回もまた、語学論をやる常として、ビールを飲みながらやったので、すでに言葉にアルコールが回る寸前になっている。英会話学校不能論は次回に やることとする。

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■素読舎 反英語フリーク「大風呂敷」
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs?BD=7&CH=5

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クロッカス

 

加藤   閑

 

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いちばん新しい絵は、枯葉の中のクロッカス。こういう、枯葉や小さな枯枝の落ちた場所が自分は好きなのだなと思う。もういくつもこういう景色を描いた。 今年のわたしの三大事件は、古川ぼたるさんの死、山画廊主人山満代さんの死、そして小中学校の同級生 だった海洋大学教授中村宏の死。現象的には個展をしたとかいうこともあったけれど、死がかれらを連れ去った衝撃が大きい。何か、 自分の領地に訳のわからない力が襲いかかり、ごっそり地面を抉りとっていってしまったという感じだ。冥福を祈るなどという余裕は ない。しかし、今年のこの連続した近しい人の死は、これからはこうしたことが次々に起こるのだぞという予言のようにも思える。