マリア・ジョアン・ピリス 他

加藤 閑

 

写真 2014-03-17 0 02 15

 

(一)
このあいだサントリーホールでマリア・ジョアン・ピリスのピアノを聴いた。(3月7日)
この日のプログラムは、シューベルトの「4つの即興曲」D.899、ドビュッシーの「ピアノのために」休憩をはさんで、シューベルト最後のピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960、アンコールは、シューマンの「予言の鳥」(森の情景から)というもの。
ピリスは、1991年にドイツ・グラモフォンから出たモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集で注目を集めた。それまでにもモーツァルト弾きとしてそれなりの評価はあったようだけれど、わたしはこのディスクではじめて聴いた。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタというと、昔からグリュミオーとハスキルの盤が有名で、わたしもレコードの頃からそれを聴いていた。だが、ピリスがオーギュスタン・デュメイと組んで録音した新しいディスクは、清新なうえに気品を備えた演奏で世界的に大変好評だった。以後、この二人はヴァイオリン・ソナタの名曲を次々に録音する。ブラームスはこのデュオの代表盤の一つとなったし、グリーグは演奏のイメージを一新した。ベートーヴェンの全集も出た。チェロのジャン・ワンを加えてトリオの演奏も発表した。相前後して、ショパンの夜想曲全集やシューベルトの即興曲などソロの録音も出たが、いずれも記憶に残る演奏だった。
その後、ここ何年かはいっときほど積極的にピリスを聴かなかったように思う。ピリスに限らず、常に新譜に目を凝らすような関心の持ち方をしなくなってきた。ピリスの演奏で比較的最近買ったのは5年ほど前に出た2枚組のショパンアルバムくらい。おそらく彼女の新譜のリリースも一時ほどではないのだろう。
たまたま新聞で、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番を中心としたピアノ・リサイタルの広告を見て、急に聴きたくなった。この曲、ピリスはかなり前にエラートに録音していたが、わたしにはそれほど印象に残るものではなかった。しかし、今回は再録音してのコンサート、しかも新しいディスクは聴いていないので、楽しみにして会場に向かった。
結果は、期待を裏切らないものだった。ドビュッシーは苦手なので何とも言えないけれど、シューベルトは即興曲もソナタも曲のよさを充分に引き出した気持ちの良い演奏だった。演奏家には、曲の趣向や持ち味を生かして最良の演奏をしようという人と、曲趣よりも自分の音楽観や演奏スタイルを優先する人とがあるように思うが、ピリスはどちらかというと前者のタイプ。そのピリスが、即興曲のCDを明らかに後者のタイプと思われるリヒテルに献呈している。
ピリスの『即興曲集』は1998年2枚組で発売された。シューベルトのこの曲は、それぞれ4曲のD899、D935が1枚にカップリングされることが多いが、ピリスはD915「アレグレット」とD946「3つのピアノ曲」(遺作)を加えて2枚にして発表した。(D946はあまり演奏されないけれどなかなか聴き応えのある曲) そうした曲の選択、構成だけでなく、タイトルの付け方やブックレットの内容までピリスの意向が強く反映していると思われる。
このCDには「Le Voyage Magnifique」(素晴らしい旅)というタイトルがあり、表紙を開くとリヒテルへの献辞がある。ピリスはこのディスクを、死んで間もないスヴャトスラフ・リヒテルに捧げているのだ。そして右のページには「私は旅人である」というリヒテル自身の言葉が添えられている。さらにページを繰ると、フランスの作家イヴ・シモンの小説「すばらしい旅人」の引用が断章のように綴られている。
意図的につくられているとは思うが、どれほどの明確な意図があったかはわからない。人生は旅であり、音楽を生きる人も旅人なのだ。あのリヒテルも自分を旅人と言っているし、自分が奏でる音楽も、演奏する自分やそれを聴く聴衆を旅へと誘う力を持っている……。リヒテルとピリスの「旅」は微妙に違う。リヒテルは自分の音楽活動を含めた精神のありようを、さすらう旅人のようだと言っているのだろう。対してピリスは、そのリヒテルや自分にはできない「旅」への憧憬を表そうとしているように思える。
リヒテルはWandererという言葉を使っている。するとやはり、シューベルトのD760「さすらい人幻想曲」(Wandererfantasie)を思い出さざるを得ないし、他ならぬリヒテルの演奏が耳にひびいてくる。ただし、ピリスがそういうことを意識していたかどうかはわからない。
当然ながら、ピリスの弾く「ピアノ・ソナタ第21番」はリヒテルの演奏とはまったく違う。リヒテルの、第一楽章のゆったりしたテンポには、胸の底に降りていくような陰鬱さがつきまとう。それがこの音楽にある凄みを与えている。ピリスにはそうした凄みはない。そのかわり、もっと情感に満ちた日常の充足がある。ここで日常と言ったのは、暗い面も明るい面も(あるいは悲しみも喜びも)人の営みの範囲のなかにあるという意味。自分が依然よりもそうした演奏を好むようになっていると思うし、ピリスのこの日の演奏にはそれゆえの強さも備わってきたという実感があった。

(二)
音楽というのは、他のものに代え難い喜びをもたらすものだと思うけれど、反面人間の精神を支配し、変節させる大きな力を持っている。先日車のラジオからベートーヴェンの第5交響曲ハ短調作品67が流れてきた。ちょうど始まったばかりで、第一楽章の誰もが知っている主題が聞こえた。
いまさら書くことでもないけれど、ベートーヴェンの音楽は聴く者をぐいぐいと引きずり込むような構成になっていて、われわれを否応なく音楽のなかに連れて行く。それに抗うことは難しい。旋律もリズムも揺るぎない力で心身を捕え、最初は違和感を覚えていた者も、やがては音楽に浸る法悦のなかに落ち込んでいくようだ。
途中で車を止めたので、このときの指揮者やオーケストラが誰だったかはわからない。しかし、わたしは1947年5月25日、ティタニアパラストで行われたフルトヴェングラー復帰公演を思い出した。曲はエグモント序曲、交響曲第6番、第5番というオールベートーヴェンプログラム。ナチス協力の嫌疑で演奏活動を禁じられたフルトヴェングラーが、ようやく許されて公演ができるようになった最初のコンサートだった。
聴衆は熱狂的な拍手でこの指揮者を迎えた。拍手、拍手。手が痛くなるほどの拍手を続けるその日の聴衆のなかには、必ずやヒトラーの演説に拍手した人間がいたに違いない。彼らは、いまやナチスを憎む民衆の一人として、音楽を愛する一人としてここに来ている。自分に対する疑いもなく今日の音楽の感動に打ち震えている。熱狂とは何と恐ろしいものかと心底思ってしまう。しかしそれは他ならぬ自分自身かもしれないのだ。
わたしもこの日のライブ録音を何度も聴いた。感動的な素晴らしい演奏だと繰り返し思った。だが感動、エモーションとはいったい何なのだろう。「わたし」を変えてしまうほどの感動、わたしの精神を揺すぶり、わたしの言葉を奪ってしまう感動。
感動に身を任せることの陶酔感はえも言われぬものだ。そしてそれがときには人を前進させる原動力になることもよくわかる。しかしわたしは恐ろしい。この恐怖はどこから来るのだろう。
第5交響曲(いみじくもそれは後世の人のつけた『運命』の名で呼ばれる)の持っている力が恐ろしいのではなく、それを聴いて我を忘れるかもしれない自分を恐れているように思えてならない。人間には多かれ少なかれみなそういう要素があると思うから怖ろしい。

(三)
ちょうどいま(3月16日午後10時15分)、テレビで水戸室内管弦楽団のコンサートの録画を放送している。ベートーヴェンの第4交響曲変ロ長調作品60。指揮をする小澤征爾は歳をとったため、一つの楽章が終わるたびに椅子に腰かけてほんの少しだが休憩をとる。音がなっている間は溌剌とした音楽とそれを指揮する小澤征爾があるのだが、腰をおろす彼の姿が映し出されると一人の抜け殻のような老人の姿となる。演奏は決して悪くない。もう80歳近いのだろうけど、音楽の呼吸は若々しいし彼特有のはなやぎがある。
この公演は、今年1月の水戸室内楽団の定期のはずで、その前の曲(メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」)は中年の女性が指揮をした。ナタリー・シュトウッツマンである。メゾ・ソプラノの歌手として一時さかんにコンサートを行ない、オペラにも出演し、たくさんのCDを出していたが、現在は指揮もするらしい。彼女も、シューマンの歌曲集を出していたころは、素晴らしくチャーミングで美しい女性だったが、指揮をする横顔は頬が窪み皺が刻まれている。ベートーヴェンが終わって、今は彼女の昨年のコンサートの模様が映されていて、シューマンの「詩人の恋」が流れている。歌は素敵だし、中年とはいえ歌詞に寄り添う表情は魅力的だ。しかし、15年前のジャケットの写真を知っていると、時の残酷さを思わずにいられない。
クラシックのレコードやCDはたいてい演奏家の顔写真が使われる。音楽ファンは気に入った演奏家の録音を長い期間にわたって聴くことが多いので、演奏家の老いてゆく姿を見続けることになる。白髪を刈り込んだ皺だらけのポリーニの顔なんか見たくなかったのに、こればかりは仕方がないことだ。
今回のピリスのコンサートのポスターを見たときも同じことを感じた。DENONでモーツァルトのソナタの最初の録音を出していたころの、ボーイッシュな少女のような彼女から、あまりにも遠くにきてしまったようだ。もちろん音楽家に、年齢とともに変わる容姿のことをあげつらうのは馬鹿げたこと。老いを云々するなら、まずわたし自身が鏡の前に立つべきだった。
今年も春がやってきた。昔は秋が好きだったのに、歳をとるに連れて春がいいと思うようになった。まわりにもそういう人が多い。じきに桜も咲く。そして、また芭蕉の句を口にする。

さまざまの事おもひ出す桜かな

 

 

 

 

ギャクリツが面白かったのだ

根石吉久

 

撮影:根石吉久

以前、山本かずこさんと電話で話していたとき、山本さんが、お茶の席ではっきりとものを言うのはよくないことだと言われたのを覚えている。

ずけずけとものを言うと、よほど気心の知れた人どうしならともかく、相手の気持ちを害することがある。私はこの点が駄目で、よくやってしまうが、田舎者ということなんだろうと思っている。私が田舎者であることはまた別に書くとして、今は私のずけずけは棚にあげておく。
山本さんがお茶の席では「はっきりとものを言うのはよくない」と言われたのは、ずけずけがよくないというだけのことではない。言葉を明瞭に発音するのもよくないことだと言われたと思う。茶室というところでは、やたら照明が効いて、ものがすべてよく見えるというのがよくないのと同じよう に、言葉の音の輪郭もやたらくっきりしているのはよくないのだろう。それは場にそぐわないのだ。
これは茶室という場の性質なのか、日本人の性質なのか、日本語の性質なのかと、その後考えた。いまだよくわからない。
テレビのニュースで報道するとか、学校の教室で、考えや意見を言う場合は「はっきりと言わないのでよくわからない」というふうな文句が出やすいだろう。しかし、日本語でふつうに人と話すときには、特にはっきり言うというようなことに気を使うことはないだろう。(私が今、ことさらにはっきりと口を動かして日本語をしゃべるのは、脳梗塞をやったせいだ)

言葉が伝わるかどうかではなく、心が伝わりさえすればいいのだ。どこの国だって基本的にはそうだが、日本は特にそうだ。どうしても以心伝心という語を思い浮かべてしまう。以心伝心に価値がある。日本では言葉はそのための補助的なものにすぎない。言葉は断片である方が、よく心を伝えたりする。
英語の語学屋から見ると、この日本人の、あるいは日本語の性質は、茶室の外側にも容易に見つかる。日本人の日常の中にその価値(以心伝心)があるのが見える。
日本人が二人で話しているのを近くで聞いているときに、言葉がはっきりしないので何を話しているのかわからないことがある。特に内緒話をしているのではなくてもそういうことがある。当人どうしは、それで十分に話ができているのだということはわかる。

そうすると、日本語の元には「むつごと」があるのじゃないかと、一挙に仮説を立てたくなる。
むつごとを言うときに、しっかりとはっきりと明瞭に発音するのはバカである。私はバカなのか、むつごとが下手である。あるいは、私がバカに分類され
るお人なのでむつごとが下手なのである。だいたいが、たいがいの女には、トンチンカンな奴だと思われ、実際にそうだから困る。そういうことを言う女は、しっかりしたやつらが多く、実に嫌なやつらである。
で、つらつら思うに、日本人一般は、思いの外、むつごとが上手なのではないか。いやあ、あんなもの、わからんぜ、男は黙ってサッポロビールとか言ってるが、ビールを飲んじゃったら、後はむつごとが上手だったりしてさ。と、かように仮説的妄想はふくらんで、はたまたしぼむ。
なんでしぼむ?
むつごとを言うときに、しっかりとはっきりと明瞭に発音するのはバカである、とちゃんとしたことを言った後で、女のことなんか書くからだ。そんなことして、ろくなことはない。
しぼんだところが、こういうふうに文章を書きつらねる場所なのだろうか。あるいは、語学屋の業(ごう)なのだろうか。

話を急に変えるべきだ。

小川さんという奈良にお住まいの方が、素読舎のコーチをやっておられる。英検1級や通訳ガイド資格をお持ちで、いうなれば日本で作った英語ではトップクラスの実力をお持ちの方で、新聞社が主催する英語教室の講師をやっておられる。
「音づくり」については、小川さん自身が私からレッスンを受けたいと申し出られた。私は緊張したが、小川さんはもうずいぶんと長いことレッスンを受けておられる。レッスンでは、いわゆる「音読」をしてもらうのだが、ある時からレッスンが先に進まなくなった。そこにどういう問題があるのか、私は長いことわからなかった。私の側にいつももどかしさのようなものがあり、しかし何がどうであるからもどかしいのかわからなかった。
今年の正月、パソコンに向かっていて、思いついたことを「紙に」メモした。
「口を大きめに使って、引き締める」と書いた。そしたら、次にメモすべきものがほぼ自動的に浮かんだ。「口の動きを浅くしないでつなげる」と書いた。
この時、小川さんの顔を思い浮かべていたのではない。塾の生徒の顔を思い浮かべていたのでもない。誰と特定できない、無数の日本人の顔を思い浮かべていたのだと言えばそう言えると思う。
この二つのメモを机の前に張って、メモを見ながら正月明けのレッスンを始めた。その後、小川さんの顔を思い浮かべた。そうか、解けたぞ、と思ったのだった。

あくまでも英語との対比であるが、日本語の音は平板である。口の筋肉を動かすのに使うエネルギー消費はとても少ない。省エネという観点から見れば一級品の言語だと思うが、これは英語の練習をするのに非常に不利な条件になる。これは日本語と英語というふうに、言語と言語を対比させたのだが、もう一つ別の対比がある。実際に言葉として使う場面と、あくまでも言語修得の練習の場面との対比がある。二つの性質の違う対比があり、それらが関連しあうので、ことは面倒になる。
言語と言語の対比で、口の筋肉のエネルギー消費に関して、日本語は省エネ型言語だと言い、英語はエネルギー多消費型だと言ったところで、実際に言葉として使われる場面ではすぐに反証のようなものが飛び出してくる。日本語でどなりつけるのと、英語でささやくのとでは、明らかに日本語の方がエネルギー多消費型になる。日本語はこうだ、英語はこうだなどと、そんなこと一概に言えないよ、となる。

しかし、語学屋としてはっきり感じ続けてきたものがある。日本人の口の筋肉は英語で育った人の口の筋肉と比べたら、はるかにパワーがないということである。
これは、オーストリアで生まれ、ドイツ語で育ち、渡米、10年以上アメリカ在住の後、日本に来た男と悪友みたいなつき合いになり、ある日、私の家で炬燵にあたって喧嘩をしたときにはっきりわかったことである。
英語で喧嘩したのだが、どうも顔に風が当たるのであった。炬燵板の上を風が吹いてくる。ははあ、と思った。こやつのドイツ語で育った口の筋肉が風を起こしているんだと思い、喧嘩を少しの間忘れてしまった。語学屋的感嘆を言っても通じやしないので、お前の口のバネはすごいなとは言わなかった。論理は大したことないが、口のバネはすごいと思ったのだ。喧嘩の脈絡を離れて、こちらが気抜けしたようになったのがわかったのか、喧嘩は口喧嘩以上の大事にはならなかった。そして、何で喧嘩したのかは忘れてしまった。
ドイツ語育ちで、英語に渡ったやつの口の筋肉のバネについては忘れることができない。あいつは、福島第一原発の事故の直後、家族全員でオーストリアに行ってしまった。もう、あいつと喧嘩もできない。東電よ、電力会社どもよ、お前らが何を壊したのかわかっているのか。

パワーがなくたって英語は使える。英語を使う場面では、そんなにやたらパワーが必要なわけではないと言う人もいるだろう。「私は喧嘩はしないし」と。それならそれはその通りだ。
パワーがないと困るのは、練習の場面、語学の場面なのである。パワーの有無によって、インプットの深度が違ってしまうのである。あるいは、音の安定性がまるで違ってしまうのである。
音の安定性についてはわかりやすい。個々の音の繊維を備えて、その強弱まで備えて、同じ調子でいくらでも同じ文が言えるかどうかで安定性を測ることができる。
インプットの深度というのがわかりにくい。しかし、結果の方から見ると見えやすい。文まるごとがひとつのものとして口の動きに乗るかどうか、つまり、アウトプットが簡単に成り立つかどうかで測ると、インプットの深度が十分であるかどうかがわかる。
このインプットの深度という観点は、私が読みあさった限りにおいて、どんな英語のハウツウ本にもなかった。おそらく今もない。

先日、経済的な理由のためにレッスンをやめざるを得ないという生徒さんに最後のレッスンをした。小さいお子さんを育てているお母さんである。この生徒さんは、私が正月に書いたものをよく理解してくれた。「口を大きめに使って引き締める」と「口の動きを浅くしないでつなげる」を両立させる練習を自分で継続していくつもりだと言われた。
私はなぜそういう方針が必要なのかということを話した。口を大きめに使って引き締め、音が安定したら、動きを浅くしないでつなげる。その後の段階がある。それは、「どんどん(あるいは、がんがん)、口を動かし、音を圧縮する」である。
これはレッスンでは扱えない。
レッスンでこれをやれば、30分のレッスンで文を一つか二つしか扱えないようなことになってしまう。生徒が自分でやるべきものとして、この三段階目があるのだと言った。しょせん、語学なんて90パーセント以上が自分でやることですからね。10パーセント未満のところに、何をどうするかという「やり方」の問題があるんで、そこがトンチンカンな人はとても多いから、このレッスンの存在理由があると、いつも言っていることも言った。 レッスンは、生徒に三段階目をやれるところまで連れていく。だけど、三段階目をやるかどうかは、生徒次第なのである。
「で、ここからは損得の話で、まあ、あんまり品のない話ですがね」と前置きした。
三段階目ですね。がんがん口を動かして、音を限度まで圧縮すると、覚えようとしなくても覚えてしまう。頭が暗記するのとはまったく違って、「口 の動きとして覚えてしまう」。だから、文がまるごとすぐに口に乗るようになる。つまり、アウトプットができるレベルのインプットができたことにな る。そこまでやっちゃうのが、絶対に得です。そこまでやらないと、絶対に損です」。
「文まるごとが、楽に口に乗るようになっていると、その文は変形させることも楽にできます。単語を入れ替えて別の文にしたり、時制を変換したりするのも楽にできるようになります。文法の理屈なんかは、とても楽に了解できるようになります。だから、自動的にアウトプットに転じるようなインプットをするのが絶対に得です。語学には『絶対に得』ってものはあるんです。だけど、多くの人たちが『絶対に得』という練習領域に入らない。だか ら、損をし続けています」というふうな、損得の話をした。そうとうに手前味噌なことも言った。
そんな話も、正月にメモしたものを普段のレッスン時に何度も見ていたからできたのだった。
その頃に、小川さんの停滞がどんな形をしているかも見えてきたのだった。長いことわからなかったものが、ようやく見えてきたのだった。
それは、初心者や中級者と同じ問題が上級者にもあるということだった。それは中級であるとか上級であるとかは関係なく、日本語で育った平板な音がベースにあるということだった。それに意識的でないと、何をどうすることで音を鍛え込むのかに意識的になれないことでもあった。
具体的には、「引き締める」と「つなげる」の二律背反を二律背反のままに放っておくのではなく、二つを「両立」させてしまう必要があることに意識的ではないのである。下手な命名をすれば、上級者の場合は二律両立がメインテーマとなるべきなのだが、それが正面の問題になっていないのである。
これは小川さんに限った話であるはずはないと思った。英検1級を持っている人を例にとれば、その8割以上の人に小川さんの「音の問題」は当てはまるだろうと思った。9割以上かもしれない。

なぜ意識的でなければならないのか。それは、なぜ長いこと「磁場」と言い続けてきたのかというのと同じことだ。
こんなふうに音を鍛え込む必要があるのは、英語の「磁場」がないからだ。あるのは、英語にとっては強力な酸性雨となる「日本語の磁場」だけで、 「英語の磁場」がないからだ。
「磁場」に生きていれば、「磁場の磁力」がインプットを助けてくれる。日本に生きていれば、それがないどころか、「日本語の磁場」は、少しくらいの練習の成果を短時間に真っ赤に錆び付かせてしまうくらいに強力なのだ。少し練習した程度の英語は、みんな日本語が「引きずり降ろしてしまう」。
だから、あの自動的にアウトプットに転じるまでのインプットの質が必要なのだ。逆に言えば、英語の「磁場」があれば、そこまでのものは必要ないのである。

日本で英語をやるということは、茶室の静けさ、以心伝心の補助でしかない言葉、明瞭さの排除などに逆らうことだ。いや、そんなところにとどまらない。
日本語の自然な生理そのものに逆らうことなのだ。
19歳の頃、アメリカ文化にはまるで興味がなかった私が、なんで英語のインプットにはのめりこんだのか。日本語の自然な生理に逆らうことで初めて私に生じる欧米系の思考が面白かったのだ。文明や文化の元になっている言葉そのものが面白かったのだ。
吉本隆明の使った言葉で「逆立する」という語がある。読みが正しいのかどうかわからないが、私は「ギャクリツする」と読んできた。語学が面白かったのは、ギャクリツするのが面白かったのだ。もしも万が一、私が語学の地平で正立してるのなら、今日まで生きてきた過程の全体が、いきなりギャクリツしちまうじゃないか。
ギャクリツしてるのは、逆に語学的行為そのものだろうと考えたのは、語学でメシを食い始めて以後のことだ。
ああ、ほんとにギャクリツしてる、と眺めるのも面白かったのだ。どっちが正立なのか、どっちがギャクリツなのか。世間では「たかが語学」だ。だけど、正立、ギャクリツは、どっちもどっちだの関係でシーソーみたいに揺れるときがある。脳梗塞をやった私の、日常のめまいのように、世界がゆらゆらしたのだ。

それがなければ、語学なんかやりはしなかっただろう。

 

 

屑だなと思った2月2日

根石吉久

 

薪割り

 

タナカさんが芝の上で坊やと遊んでいた。長野の2月2日、真冬だが、芝の上でタナカさんと坊やが遊んでいた。ありうることなんだな、天気がよかったからな、と、2月3日、朝4時40分に思う。俺は駄目だな。2月に枯れ芝の上で遊ぶのは俺はもう駄目だなと思う。

2月2日午後2時頃のタナカさんちの枯れた芝。タナカさんと坊やが枯れた芝の庭にいたことを思い、ありうることなんだなと2月3日、朝4時40分、いや、もう50分。

タナカさんちの庭先で、口からでまかせを言った。「これだけど、うーんと、長野県交通災害、うーんと、共済って。交通事故の保険みたいなやつ。6日の日に、また俺、回って、入る人の申込書とお金集めて歩くんだけど。中に説明のチラシあるから読んでもらえばわけるけど。6日の日にまた来るけど」みたいなことを言った。でまかせだというのは、何をどう言おうかとあらかじめ何も考えてなくてしゃべっているからでまかせだというのだが、そこでほぼ定型ができた。二軒目三軒目から、定型でしゃべる。

屑だと思いながらのことだった。
毎回同じことを言う。屑だと思い、同じことを言う。

「長野県交通災害共済の加入申込書ですが、6日の日に申込書とお金を集めに回ります。市報の中に説明書がありますので、よろしくお願いします」みたいな定型。その時によって、多少の違いはあるが、定型はあって、違いは定型との違いに過ぎない。屑だなと思いながら、一軒一軒で定型を言う。こんなもの、市の職員がやればいい。金は市に納めろというのだから、県と市がグルになって、常会長にやらせている。説明書と申込書を配布するくらいはやってもいいさ。申し込みたい人は市に電話するなりして、後は市と個々の家の間でやればいいじゃないか。
チャイムを押す。「どなたですか」とチャイムのスピーカーから声が出てくる。「常会長の根石です」と言う。奥さんとか旦那さんが出てくる。定型をしゃべる。屑だなと思っている。2月2日に申込書を配って、6日に申込書と金を集めて歩き、その日では具合が悪い人がいれば猶予の何日かを設け、潮時を判断して金融機関か市役所に行って金を納め、各戸分の領収印をもらい、また常会の中を回って領収書を配って歩くのだ。交通災害共済だけで、3回も回らなければならない。屑だ。
2月2日2時頃から、竹林の湯のチラシ、講演会のチラシ、議会だより、公民館報、シルバーセンターニュース、社協だより、ネット上での確定申告のやり方の説明書、健康ニュース「お持ちですか?おくすり手帳」、忍たま忍太郎キャラクターショー&キッズコンサートのチラシ、いもじや新聞などを一部ずつ重ね市報にはさみ込む作業を始めたが、それに1時間以上かかっている。途中で、交通災害共済の申込書と金を回収して歩く日を決めちゃった方がいいなと思ったから、パソコンを立ち上げた。
「常会員各位 平成26年2月2日 長野県交通災害共済申込書の回収について 交通災害共済申込書と関連のチラシを、市報その他と一緒に、いったん各戸に配布します。2月6日の午後と夜を使って、申込書を回収する予定です。この回収日にお留守になる等、都合が悪い方は、272-××××、または090-4181-××××へお電話いただきたくお願い致します。夜に仕事をしている関係上、金曜、土曜、日曜、月曜の夜は回収にうかがうことができません。事情をおくみ取りいただき、ご協力をお願いします。」というものを35部印刷した。挟み込みの途中まで済んだ分に、プリンタで刷ったものを追加し、また各種チラシ等の丁合をとり、市報にはさむことを継続。

そうか。タナカさんちの枯れた芝の上でタナカさんと坊やが遊んでいたのは、2時過ぎということはないな。1時過ぎに白藤で蕎麦を食って、帰宅してすぐに丁合を始めたのだが、途中でプリンタで通知みたいなものを印刷しているのだから、最初の家のタナカさんちへ行ったのは、3時を過ぎていたかもしれない。
チャイムを押しても誰も出てこない家もある。その場合は、交通災害共済の申込書を市報に挟み込み、郵便受けに入れ、次の家に行く。人が出てくれば、定型文を言う。屑だ。なんで屑だと思うのか。とにかく、いきなり、屑だという思いが胸に湧く。

つまりこうか。きのう、薪割り機が故障したのだ。だから、今日はチェーンソーを回したかったのだ。

薪割り機には、油圧で丸太を押すために移動する鉄の四角の固まりがあるが、それが二箇所で二本の丸棒に溶接されている。溶接の片方が剥げてとれたのは、もう2週間以上前だった。明らかに、溶接の仕事の質が悪いのだとわかった。無理な力がかかり、丸棒が曲がってしまったとかいうのではない。単純に溶接の質が悪いから、丸棒の形はそのままで、溶接で変形した鉄の部分が「剥げた」あるいは「とれた」状態だ。薪を鉄の固まりに当てる角度を工夫すると、一箇所しか丸棒とつながっていない状態でも薪は割れた。片方の溶接が弱く、もう片方の溶接は頑丈につながっているのだとわかる。ぎいぎいという音ときいきいという音の混じった不快な音を我慢して、2週間の間に3度ほど薪を割った。それが昨日いよいよ止まってしまった。ぎいという音をたてて、薪割り機の鉄の固まりが動かなくなった。
孫に手伝わせて、薪割り機を軽トラックに載せた。長野の外れの吉沢金物店まで行く。途中近道をしようとして、住宅街へ迷い込み、ふらふらしてまた国道に出た。金物店に着き、薪割り機を見せると、店の人もすぐ溶接が弱く「とれた」のだとわかってくれた。保証は効かないと言われる。それはわかっていると応え、「部品の金は払うが、修理の手間賃は払いたくない」と言う。吉沢金物店の人は、「メーカーに強く言っておきます」と言ってくれた。こういう話がすぐに通じるのは気持ちがいい。しばらく油圧のオイルを見てないから、オイルを足しておいてもらいたいと注文を追加した。わかりましたと、店の人が荷札にそれをメモし、機械にくくりつけた。見通しがよくていい。ごたごたすることはないだろうなと思う。つまり、手応えがある。「急ぎますか」と聞かれる。「急がない。この機械が使えない間は、チェーンソーで木を切る仕事をやってればいいから、急いでもらわなくても大丈夫だ」と応える。具体的に修理に必要な時間が一週間程度になるか二週間程度になるかわからないと言っているのだとわかるし、3ヶ月、半年先のことを言っているのではないのだともわかる。「急ぎますか」だけでそれがわかる。話がぽんぽんと通じるのが気持ちがいい。
いつ頃からか、日本語で話が通じなくなることが増えているという気がする。明らかにメーカーの仕事の質が悪い場合でも、メーカー側に立つ店があったりもする。あるいは、今回の件で言えば、修理を3ヶ月も半年も放置しておいて、「急がないと言ったじゃないか」と言い出す店員がいたりすることだって、今時はありうるのだ。何かが崩れてしまっている。
吉沢金物屋で、「一週間か二週間程度の話ですよね」なんてことは言わなかった。言おうか言うまいかなんて迷うこともなかった。そんな考えは、今これを書いているから出てきた考えで、吉沢では考えなかった。「急ぎますか」。「急がない」。要点はそれだけだ。男は黙ってサッポロビールだ。

翌日、白藤で蕎麦を食いながら、市報配布をやらなければいけないな、やだな、と思った。やだな、だけど、やらなければいけないな、と思った。丁合をとるのに1時間、配るのに1時間もあればいい。夕方にはチェーンソーのエンジンがかかるかどうか調べることができるだろうと思ったが、交通災害共済の申込書などというものがあったので、いつも通りの丁合1時間配布1時間では済まなくなった。通知を書き、プリンターで印刷しなければならないということも出てきた。各戸で、申込書の回収の日をなるべく口で伝えることも出てきた。

途中で、今日中にチェーンソーを調べることはできなくなるかもしれないと思った。実際にその時間がないとわかり始めた頃から気持ちがつまらなくなっていった。

俺は、チェーンソーを回したかったのだ。ギィーンと音をたてて、あの腐れ校長の首をチェーンソーで一瞬に落とす幻なんか胸に秘めてみたかったのだ。木くずを飛ばす乙女心だわ、うふん、てなもんや三度笠! それができなくなった。

一軒ずつ配布物を配りながら、定型文を言いながら、屑だと思った。本来、市が自分でやるべきことを常会長にやらせていやがる。屑。ごたごた言うと、やたら時間がとられるから言わないが、ここに書き記すことはする也。

災害共済の申込書には、一軒ずつその家の世帯主の名前が印刷されている。どの家にもまったく同じものを配ればいいのではない。郵便受けにまったく同じものを投げ入れるだけでは済まない。その家専用の申込書を束から一枚ずつ抜いて渡さなければならない。市報や議会だよりなど読まない家もあるはずだ。わが家も読まない。つまらないから。ただ市報に挟んでおくだけではまずいだろう。一軒ずつチャイムを押して人に会えれば、6日にまた来ると、じかに話した方がいいだろう。だからそうした。常会35軒を回り終わったらぐったり疲れた。帰宅したら6時過ぎていて、塾の仕事に遅刻した。帰宅するまで、屑だという思いが持続した。

夜10時頃、村田君と塾の会計をする日だが、疲れたので次回に回してもらう。
昼間、白藤で蕎麦を食っている時だっただろうか。フェイスブックのメッセージで、さとうさんからこの原稿の催促があった。それはやる。だけど、ちょっと休みたいと思い、布団に横になったら、そのまますぐ眠ってしまった。
朝方4時に目が覚めて、台所に行ってコーヒーを淹れ、炬燵に戻って書き始めた。ぼんやりしながら書いていたら、少しアタマがはっきりしたような気がした。ここまで書いたらまたタルンでいる。
脳に酸素がうまく行かないのだろうか。
また脳梗塞予防の薬は飲んだ方がいいのだろうか。もう3ヶ月くらい飲んでいない。

 

 

今夜、車のラジオでデュファイのミサ曲を聴いた。

加藤 閑

 

蓮根

 

今夜、車のラジオでデュファイのミサ曲を聴いた。

わたしは仕事の関係上、週の大半を茨城の土浦で暮らしている。土浦は日本一のれんこんの産地だ。この絵のれんこんは、数年前武井農園の奥さんからいただいた。わたしが絵を描いていることを知って、絵になりやすいように葉っぱを一枚つけて掘り出してくれたのだ。その夜のうちに絵を描いた。あの頃の方が今よりよほど早く描けた。まだ少しは若かったのと、あれこれ迷ったりせずに集中できた。

ミサは「キリエ」から「アニュス・デイ」に移っている。

わたしは毎日れんこん畑の中の道を走る。この道はわたしが土浦に来るようになる直前に開通した道だ。最初の年(もう十五年以上も前のことになる)はとても雨が多かった。4月から通勤がはじまったのだが、なんだか来てすぐに梅雨になったような感じだった。この道路もできたばかりで、車の通行も今よりずっと少なかった。毎日のように雨が降っていたので、両側のれんこん畑と道路がほとんど境がないように水浸しになった。そこで不思議なものを見た。

道のあちこちに小ぶりの魚のようなものが横たわっている。白い腹の方を上にして、中にはなまなましく血の赤い色が見えることもある。魚が道路に打ち上げられるほど雨が降ったのだろうか。

雨に煙ってひろがる関東平野に、白い生き物の死骸が点々とある中をわたしは走った。雨が風景からあたう限り色彩を洗い流してしまって、視界はほとんど無彩色と言ってよい。その中に血の色のまじる白い物体の鮮烈さ。

デュファイのミサは、もともと彼が若いときに書いた祝婚歌「目を覚ましなさい」を基にしているらしい。だからこのミサも「目を覚ましなさい」と呼ばれるとのこと。それを聴いていて、なぜか十数年前の水に覆われた陰鬱な光景を思い出していた。

何日かして、あの白い腹を見せて横たわっているのは、実はヒキガエルだということがわかった。道路ができたことなど、蛙の預り知らぬこと。以前は行ったり来たりしていた道路の反対側にちょっと出かけてみるかとばかり道の上に出たところを車にはねられ、あえなき最期を遂げたのだった。

しかし、今夜古風な合奏を伴なうミサを聴いて思い出したあの白い死骸が、どうしても魚に思えてならない。そんなことがあるはずはないことは分っている。分っていながらここは雨の日には魚が道路に打ち上げられる夢の中の町のようで、わたしはいつまでも目的地にたどり着けずにさまよっているのだった。

 

 

 

踏ん切りがつかないままの新年

根石吉久

 

反英語フリーク「大風呂敷」
反英語フリーク「大風呂敷」

 

2014/01/03

午後1時半頃、飯を食いに出る。白藤は5日まで休み。舞鶴でざる蕎麦。舞鶴で女房に会った。職場では、時間をずらして昼飯にしているとのこと。
正月という気がしない。何が欠けているから正月という気がしないのか。年末に道路は混んだし、八幡のお宮に人出はあった。それでも、正月が来るのだとか、正月が来たのだという気がしない。
準備が簡単になったからなのか。12月31日、原信というスーパーで買った寿司を食べながら、紅白を見てつまらないと言った。少したって、テレビが除夜の鐘を鳴らした。近所の寺の鐘も鳴った。眠くなったと言って、家族は眠った。
これが正月だという集約点のようなものがないからだろうか。無意識に迎えた数まで入れると、62回は正月を迎えたはずであり、その間に「これが 正月だ、正月とはこのことだ」という正月のイメージの核が自分の中に、いつの間にか形成されてはいるだろう。そして、そのイメージの核に照らし合 わせると、現実の正月が、こんなのは正月じゃないという感じになるのだろうか。

昔、くわえ煙草をして煙をあげながら、「ああ、煙草が吸いたい」と思ったことがあった。本当に煙草がうまいと思うことがたまにある。煙草を吸いながら、体は「こんなのは煙草じゃない」と判定していたのか。いちいちそんなことを意識したわけではなく、気がついたら、煙草をくわえながら「ああ、煙草が吸いたい」と思っていたのだった。
今年の正月もそんな具合なのだろうか。秘密保護法案というろくでもないものが制定されたからか。どこが正月かと、「体が」判定しているのか。およそ、正月なんてものとは違う、と。

舞鶴でざる蕎麦を食べて、セブンイレブンでコーヒーを飲みながら、軽トラの中で以上の分を書き、観世温泉で湯につかり、帰宅して薪ストーブを焚き、うそうそしてから、二階の炬燵にあたった。pomera をパソコンにつないで、炬燵でこれを書いている。以下のものは、1月1日の夜、パソコンで書いたものだが、どうせ読めば気が滅入る。気が滅入る状態で書いていたことを、薄く覚えている。

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2014年になった。
1月1日。夜10時37分。

さとうさんが書かせてくれているこのエッセイは、「続きもの」でないのが気が楽だ。前回の話とは何の関係もないことを書いていいのだから、その点で気が楽だ。語学論ということになるとそうもいかない。前回書いたものと何の関係もないことを書いてはいけないというルールはないが、前回書い たものの発展形にするとか、前回書いたものをもっとわかりやすく砕くとか、前回書いたものと何の関係もないように見えても、前回書いたものに触発 されているとか、なんらかの関係において、前回書いたものと関係がある。そうでないといけないような気がしている。だから、私が書くもののうち で、語学論は「続きもの」なのである。登場する人の相互に反応が起こるネット上の掲示板では別だが、語学論そのものはゆっくりと進んできたので、 少し書いては長く中断するようなことをやってきた。だから、自分でも「続きもの」だとはわからないようなことになっている。

最初に書いた「英語のやっつけ方」という黄色い冊子は、3日か4日で書いた。これは、立て続けに書いたという意味では、「続きもの」であるが、 多分、書く前に項目を立てたのだろう。書いているうちに、次に書くべきものが出てくるというふうなのが「続きもの」としてのあるべき姿だと思っているが、「英語のやっつけ方」はそうではない。

その後、どんなきっかけで小学館の大西さんという編集者が連絡をくれたのかわからなくなってしまったが、自宅自作を始めるより前のことだったという気がする。「小学6年生」という学習雑誌の終わりの方に、親が読むためのページがあり、そこに二回連続で何か書けと、大西さんが電話をくれたのだった。それは二回で終わりなので、「続きもの」というほどのことはないが、その時に大西さんに3日か4日で立て続けに書いた「英語のやっつけ 方」という冊子をさしあげたのだと覚えている。

大西さんは、地名辞典を何年もかけて編集し、全国あちこちを訪れ資料を集めたりした人だが、地名辞典ができあがった後は「コロコロ」という小学 生向けマンガ雑誌の編集部に移った。大変だな、全然違うところへ行くんだなと思った。大西さんは、ときどき「コロコロ」を送って下さった。さらに その後、小学館が文庫を出すことが決まり、文庫の編集部に移られた。
「長いこと編集者をやってきたけど、地名辞典のときは、学者さんやお役人さんとばかりつきあってて、みんな固いんだよね。「コロコロ」に描いている人は、マンガは描けるが文章は書かないし、一般向けの文章を書く人をあまり知らないんだよ。文庫を企画するのには、困るんだよ。根石さんが自分で作った語学のやつ、俺にくれたやつね、あれ、文庫にしてみたらどうかと思ってるんだ。」
小学館文庫が出始めた頃、そんなふうなことを大西さんが言われたことがあった。それから何年もたって、本当に「英語のやっつけ方」を文庫にするという連絡をくれた。タイトルは大西さんの案で、「英語どんでん返しのやっつけ方」に変わった。自分で作った「英語のやっつけ方」は、数十ページの薄い冊子だったので、文庫にするには分量が足りなかった。その数年前に知り合って、隣町の戸倉で「素読舎戸倉分室」をやっていた村田君と話をし て、話をテープ起こしし、ページ数を増やすことにした。実際に話したことが元になってはいるのだが、後から書き加えた部分が多かった。

本が売れない時代になってきていて、単行本は大手出版社でも1500部とか2000部刷ってアタリをとり、イケルと踏んだら5000とか1万とか、あるいは大当たりし始めているものだったら、数万部とかの刷り増しをやるということを人に聞いていたが、私のような無名の者が書いたものでも、小学館文庫はいきなり1万5千部刷った。大丈夫かいなと思っていたが、数ヶ月でほぼ売り切ったということだった。目をつけてくれた大西さんに 迷惑をかけることにならなくてよかったと思っていたら、お金を80万円もくれた。こんなことは後にも先にもないだろうと思った。後にも先にもなかった。

「英語のやっつけ方」やら「英語どんでん返しのやっつけ方」と言うと、いわゆるハウツウものだと思われることは最初から承知のうえだった。自分で作った「英語のやっつけ方」は、自分でもハウツウもののつもりで書いた。しかし、ハウツウものになりきれてはいないところがある。ハウツウものになりきれていない、あるいはハウツウものをはみ出している部分を、その後、インターネットの掲示板を開設した時に、「語学論」と名付けたのだっ た。

ネットの掲示板は、ネットにつないでいる人には誰にでも開かれている。掲示板の名前は「大風呂敷」にしたが、公序良俗に反するとかで、図書館のコンピュータからはアクセスできないようになっているということは、後で松岡祥男さんから聞いた。
どこが公序良俗に反するのかというと、どうでもいいようなことなのである。要するに、「馬鹿か」とか、「顔洗って出直して来い」というようなノノシリが多発されるとか、当時の言葉で言うと「すぐ炎上する掲示板」だというのが、公序良俗に反する理由なのである。
松岡さんは、「大風呂敷」が図書館からアクセスできないようになっているのは「名誉」だと言ってくれた。私も「名誉」だと思った。ついでに思い出した。亡くなった中村登さんは、多分「イエローブック」という雑誌の座談会の中で、「図書館で、本がずらっと並んでるのを見るとウンコが出たくなる」と発言していたと覚えている。よくわかる話だと思った。私は中村登は「筋肉の詩人」だと思っているが、図書館内部の光景は、中村登の内臓の 筋肉にまで反応を起こさせる光景なのである。不随意筋まで動くような異様なものである。整然と整理されていればいるほど異様だ。血反吐を吐くのと同列の言葉も、整然と整理されてしまうのだ。

私が作った語学論用の掲示板は、荒しが入ったり、主催者がいちばん炎上したりした。十年ほどの間、一晩中起きていて掲示板に書くというような日々が続いた。ほとんど毎晩、ビールを飲みながら書くので、数年やっていたら腹が出てきた。
オーストリア産まれで、アメリカ経由で日本に来たウドという男と知り合いになった頃のことだが、私が自分の腹を叩きながら、「ビールを飲みなが ら掲示板に書くので、こんなに腹が出てきた」と言ったら、ウドは、「その腹は金がかかっている。大事にしろ」と片目をつむりながら言った。

60歳になる少し前だったと思うが、脳梗塞をやった。ある日、英語のレッスンをやっている時に、口がうまく動かないとはっきり思った。以前か ら、動かしにくいと感じることがときどきあったが、その日は違う気がした。動かしにくさが違う気がした。医者に行って、CTスキャンの結果、脳梗塞だと診断され、そのまま入院になった。症状は、口が動かしにくいということ以外に出なかった。口の動かしにくさが悪化していくこともなかった。 脳の血管が詰まったのだが、運がよかったと言えばよかったのだ。

その頃から掲示板「大風呂敷」に書くのがめっきり減った。掲示板に書くことを基本的にやめ、夜中の散歩を始めた。出ていた腹が1年ほどでひっこんだ。
掲示板は設置したままにしたので、書きたい人は誰が書いてもいいのだが、書く人もほとんどいなくなった。私が書くものに「そんな難しい言い方で なくて書けないのか」と文句を言った人には、もっと易しい言い方で書けるなら書いてみてもらいたいもんだと思っていたが、その人も書きはしないのだった。

脳梗塞の影響としては、口が動かしにくい時があるという以外は、その後も特に出ていない。今でも、英語のレッスンの時に、口が動かしにくいときがあるが当時ほどではない。
ただ、語学屋という仕事にとっては、口が動かしにくいというのは非常に困る。生徒に「もっと口の動きを引き締めろ」などと指示するのだが、引き締まった口の動きで、なめらかに口を動かすということが、自分でできなくなっている。
スポーツの監督とかコーチとかいう人たちがいる。自分ではもう激しくプレイすることはできないが、監督やコーチならできるので、監督やコーチをやっている。私が今やっているのもそれと同じようなものだ。
「口の動きを引き締めろ」と生徒に言う。自分ではそれができない。しかし、「引き締まった口の動き」がどういうものかははっきり見えているのである。生徒がたまたま実現したときに、ただちに「それだ!」と言うことはできる。
「それだ!」と何度か言っていると、いい動きが根付き始める。 しっかりと根付くと、生徒にも「引き締まった口の動き」の型が見え始める。脳梗塞をやった後でも、そのプロセスを形成することはまだできるのである。

素読舎には、コーチは私以外に二人いるが、まだ二人とも生徒の口に「いい動きを根付かせる」ことができない。コーチ自身の発音は、一般的なレベルはとうに抜け出ているが、「学校の犠牲者」を抜け出ているわけではない。生徒が「学校の犠牲者」になるのを食い止めることがまだできない。

磁場論と音づくり論が私が「大風呂敷」でやったものだが、そういう「語学論」は、日本ではまだ認知されていない。
私が「語学論」という言い方をし始めた頃、インターネットで「語学論」を検索語として検索してみたことがあった。「英語学」とか「ドイツ語学」 という語は以前からあり、検索してヒットしたものの中に「英語学論文」というのがあった。「英語学・論文」ということであり「英・語学論・文」ではない。
試しに先ほどまた検索してみた。今でも「語学論」と言っているサイトはないようだ。「語学論」という語をずっと使っているのは、素読舎関係の ホームページや掲示板だけのようだ。

「語学論」がないことによって、日本人の欧米系の言語習得がどれほどの損をこうむっているのかはかり知れない。例えば英語だが、英語関係の書籍、英語関係の学校の回りに動く金は、日本の yen が世界一の額だと聞いたことがある。今でもそうなのかどうか。多分そうなのじゃないかと思う。
英語の回りに世界一の規模の金が動き、多分、金の額が実質的な効果をもたらさないことの規模も世界一なのだ。
それは突き詰めれば、日本に「語学論」という領域がまともに成立していないせいだ。「磁場」でなければ手に入らないものが手に入ると思い、自分 を放送やら映画やら歌やらで「英語漬け」にするような奇態がなくならないのも、「語学論」がまともに成立していないからだ。

一例だが、もう20年近くもNHKの語学放送を聴き続けている人を知っている。この人は放送を欠かさず聴き続けている。お金はほとんどテキスト代にしか使っていないので、英会話学校に通うほどの大損はないものの、その人の語学放送の使い方に未来はないと私は考えている。聴き続けるのが趣味だというのなら何の文句もないのだが、聴き続けることで語学的成果を得ようと考えているのであれば、その点に関しては未来はない。そもそも語学というものがまるで立ち上がってくることがないのだ。ただ聴いているだけなのである。歌番組じゃないんだから、と思う。
そうであるならば、語学が立ち上がらないと言うのであるならば、ひるがえって、語学が立ち上がるとはどういうことなのかをはっきりさせなければ ならない。それをやれば、それが「語学論」になるはずなのだ。

NHKの語学放送を20年近く聴き続けている人に向かって、「語学が全然立ち上がっていないよ」と直言するのが「語学論」なのである。そして、 そんなものが「語学論」であるなら、「語学論」は最初から多くの人から嫌われる宿命にある。少なくとも「大風呂敷」という掲示板に書いていた頃は、人から嫌われるのを承知でやっていたとは言える。

掲示板「大風呂敷」に書かないようになってから、そうじゃないかもしれないなと思うこともあった。
「語学が立ち上がっていない」と言うのではなく、語学を立ち上げるには、こうすればいいのだと言う方がいいのではないか、と。だけど、それは やってはみたのだ。「英語のやっつけ方」だって、「英語どんでん返しのやっつけ方」だって、こうすればいいということを言ったものなのだ。だけ ど、人々はそこに普遍性を読んでくれなかった。何か変わった一方法を言っているだけだと読まれた。そんなはずはないと私は思っているのだ。音を立 体化するとか、イメージの生起と音、あるいはイメージの生起と文字を「同時化」するのだという言い方は他のものと代置できない。
イメージの発生時、「磁場」を一切アテにできないのが、日本における欧米系の言語習得だから、イメージは「自分が自分に対して」「意識という場だけで」作るしかないのだということだって他の言い方で言いようがない。

「回転読み」だとか「電圧装置」だとかいう言い方にこだわる気はない。それは、「語学には繰り返しが必要だ」という言い方でもいいし、「イメージと音を一体化する」という言い方でもいい。そういうことにはこだわりは持っていない。

やはり、私の言葉の癖が強いのがいけないらしい。

私も、NHKの語学放送を聴き続けている人に向けて、「そのやり方に未来はない」とは直言できなかった。生身でつきあう人に対して、その人と「語学論」によって直接的に関係を結んだら、その人との関係の総体がぶっこわれるのは目に見えていた。我の強い人が思い込んでしまったことにやたらに口を出すもんじゃない。
「継続は力なり」と言うが、力にならない継続もある。

生身でのつきあいの平面で避けたものを、掲示板では避けなかった。その結果、「馬鹿か」も出てきたし、「顔洗って出直して来い」も飛び出したのだった。なんでわざわざそんな損をするような言い方をするのだという忠告は何度も聞いたが、こちらこそそう言いたかった。なんでわざわざ損をする ようなことを放っておくのかと言いたくなることばかりだった。NHKやら中学・高校の授業やら、英会話学校やら、澄ました顔をしてやっているそれらの全部が駄目だと言いたくなった。言いたくなったので言ったのである。

日本全体が、英語一つでどれだけの損をしているかわからない。「語学論」がないからだ。これに関しては、文部科学省と大学に責任がある。原子力村と同じように、英語の回りにも「御用学者」がうろうろしているのだろう。

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以上が、この正月に書いたものである。
なんで語学のことなんか書いたのかと言うと、少し前に「大風呂敷」に語学論めいたものを書き、それを facebook に転写するということをしたからである。
「続きもの」をまたやろうかという気になったときに書いたのだった。それが尾を引いていて、ふんぎりがつかないから、多分、話がそっちへ流れたのである。

いつもよりずっと長い原稿になってしまうが、ネット上への掲載なら、さとうさんの迷惑にはならないだろうと思い、以下に「大風呂敷」に書いたも のを転写させていただく。少し書き足したところがある。

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..1.なぜ「磁場」と言ってきたのか

13/12/25 投稿者:根石吉久 投稿日:2013年12月25日(水)22時46分57秒 編集済

『「磁場」に入り、種のまま持ち続けたものから芽が出ればいいのである。たてつづけにめまぐるしくイメージがどんどん脱皮を繰り返すというよう なことも起こるはずだ。それが「磁場」であり、「磁場」でしか起こらないことだ。』

上に引用したのは、掲示板「大風呂敷」の過去ログからの私の文だと思われる。

素読舎の語学論の多くが、「音づくり論」と「磁場論」に言葉を費やしたものだ。

書いてみようと思ったのは「磁場論」そのものではなく、なぜ「磁場」という語が素読舎の語学論に必要だったかについてだったので、古いテキスト ファイルに「磁場」という検索語で検索をかけたら、たまたまこの文にぶつかったというにすぎない。「大風呂敷」の過去ログ全体を「磁場」という検索語で検索すれば、おびただしい文がみつかるだろうと思う。引用したものは、その欠片みたいなものである。

なぜ(英語の・日本語の)「磁場」というような言い方をわざわざしてきたのかについて書いておこうと思ったのである。

例えば「英語圏」という語がある。「あの人は英語の磁場にいた人だ」という言い方よりも、「あの人は英語圏で生活した人だ」という言い方の方が わかりやすい。だから、わざわざ(英語の)「磁場」などと言わなくてもいいではないか、「英語圏」でいいではないかという意見があるだろうと思 う。しかし、私には「英語圏」という言い方を使ったのでは言えないものがあったのである。
「磁場」という語を使い始めた時、「磁場」という言い方 でないと切り開くことのできない地平を予感していたのだと言ってもいい。
「磁場の磁力が働く」というような言い方は可能であるが、「語圏の圏力が働く」という言い方では何のことかわからない。「磁場の磁力が働く」と いうような言い方は随所に必要だったので、「磁場」という語が必要になったのだ。

私は語学屋であるので、語学をやる立場から、例えば「英語圏」と呼ばれている場所を見る。語学屋であるから、語学特有の性質について考える。考えるときに、「磁場」という場に、語学にはない性質を見つけることができれば、そのことで逆に語学とはどういう行為であるかを照らし出すことがで きる。そういう場合にも、「語圏」ではうまく考えられない気がした。「磁場」あるいは、「磁場の磁力」というふうに物理学用語で比喩的に言う方が 考えが先に行ける気がしたのだった。

語学を考える途中で、「みつけたぞ」と思ったものは、「当事者性」だった。
語学になく、「磁場」にあるものは、「当事者性」だと言っていい。

「当事者性」が磁力を帯びるのだ。

具体的に例を出すほうがいいだろう。例えば、日本語の新聞を読んでいる場合に(英語でも同様に説明可能だが、日本人には日本語の「磁場」を意識 して欲しい)、これまでの考えを当てはめれば、二つのまったく異なる読み方がある。

新聞に、明日の東京の天気は雨だろうという記事があったとする。その「明日」、亡くなった友人の葬式があり、それに列席する予定の人を想定して みる。駅から式場までタクシーを使うべきか、歩いても行けるかどうかを葬式に列席する「当事者」として悩んだと想定してみる。列席すべき「当事 者」であるから、インターネットで式場の周りの地図を探し、歩いて行くこともできそうだから、傘は絶対に持っていかなくてはならないなとか、読んだ新聞記事そのものからどんどん離れて、実際にやらなければならないことを考え、判断し、準備するだろう。それが「磁場」の中にいるということな のである。それが、「当事者」が「磁場の磁力」の中を生きるということであり、磁力を帯びるということである。

これと根底からして違う新聞の読み方が、語学の教材として読む読み方である。

例えば、アメリカ人が語学の教材として、明日の東京の天気は雨だろうという記事を読むとする。単に目で読むだけでなく、しゃべるのに使える語法 がここにあると思い、「明日の東京の天気」という具合に「の」で名詞をつなげていく語法を習得しようと思い、繰り返しその文を口で唱えてみるとい うことをしたとする。これは「練習」である。だから、音もなるべく日本人が発音するように発音してみようと努力するだろう。
この語学的な場面では、このアメリカ人にとって、明日という日に、東京に雨が降るかどうかはどうでもいいことなのである。そんなことよりも、日 本語の「の」の使われ方に慣れることの方に意識の力を注ぐべきことになっているのである。つまり、自分の行動や判断に直結する「当事者性」はここ にはまったくないと言っていい。「当事者性皆無」というものが、語学の場面なのである。現実に対する芝居のような位置にいるのである。ままごとの ような位置と言ってもいい。

語学をどれだけ激しくやっても、大量にやっても、そこには「当事者性」というものはない。

この語学の場面に当事者がいるとすれば、「当事者」を想定し、それを意識において演じる当事者がいるだけである。それは、現実の場面で、へたな 言い方をしたら、ただちに危険にさらされるかもしれない人が持つ「切実さ=当事者性」のようなものをまったく欠いている。
語学の真の場所は、意識である。意識に「想定された当事者」をどう演じればうまく演じたことになるかという架空の世界があるだけなのである。それは天然自然の中に置かれた人間の意識と同じくらい架空のものである。
そこにも架空の世界の「当事者」はいるが、その「当事者」は想定されたものとして意識の内部にいるだけであり、「足が地についた場所」に身体ごといるわけではない。

それが語学である。すべては想定されたものであり、イメージされたものであるにすぎない。場所は「磁場」ではなく、意識である。

「磁場の当事者性」と「語学で行使される意識」は、吉本隆明の語を借りれば、まったく「逆立している」。

「語学の場=意識」と「磁場に足をつけて生きる意識=当事者性」との間には、目も眩むような巨大なクレバスがある。日本人が英語をしゃべるよう になるということは、このクレバスをまたぎ超えるようなことである。あるいは跳び越えるようなことである。こちら側は、個の意識だけの世界、向こう側は場における当事者になる世界である。「目も眩むような巨大なクレバス」は大げさな言い方ではない。

という具合に、語学というものを考えてきたので、「英語圏」なんかという言い方では、とても考えを先に進めることはできなかったのである。

「磁場」あるいは「磁場の磁力」、あるいは「当事者性」というわずかな語を使えば、英会話学校に通っても、なぜ英語をしゃべれるようにならないかを私は説明することができる。

今回もまた、語学論をやる常として、ビールを飲みながらやったので、すでに言葉にアルコールが回る寸前になっている。英会話学校不能論は次回に やることとする。

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■素読舎 反英語フリーク「大風呂敷」
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs?BD=7&CH=5

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クロッカス

 

加藤   閑

 

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いちばん新しい絵は、枯葉の中のクロッカス。こういう、枯葉や小さな枯枝の落ちた場所が自分は好きなのだなと思う。もういくつもこういう景色を描いた。 今年のわたしの三大事件は、古川ぼたるさんの死、山画廊主人山満代さんの死、そして小中学校の同級生 だった海洋大学教授中村宏の死。現象的には個展をしたとかいうこともあったけれど、死がかれらを連れ去った衝撃が大きい。何か、 自分の領地に訳のわからない力が襲いかかり、ごっそり地面を抉りとっていってしまったという感じだ。冥福を祈るなどという余裕は ない。しかし、今年のこの連続した近しい人の死は、これからはこうしたことが次々に起こるのだぞという予言のようにも思える。

 

 

書斎が行きたいところ

根石吉久

 

書斎

 

それほど広くはない畑で、草だけを使って野菜を作る実験ばかりしてきた。実際、実験ばかりであり、ろくに野菜は穫れてはいない。草は毎年豊作 で、草を作っているのか野菜を作っているのかわからない。周りの畑に来る人たちもわからないらしく、口に出しては言わないが、いったい何をやって いるんだろう 続きを読む

朽ちた枝 キャベツ

加藤 閑

 

朽ちた枝

朽ちた枝

わたしの最初の個展は2007年4月。6年半以上前、四日市の山画廊で行なった。
魚住陽子の個人誌『花眼』の表紙にこの絵を描いたのが、思いもかけず八島正明先生に評価していただき、山画廊を紹介していただいた。女主人の満代さんは、どこの馬の骨とも知れないわたしの個展を開くのを承諾してくれた。その後もわたしが絵を描き続けていられるのは、このとき自分の絵をひとに見てもらうことができたという手応えによるところが大きい。山さんには、どんなに感謝しても感謝しきれない。
その山満代さんが昨日未明に亡くなった。わたしより4つも若いのに。
「朽ちた枝」を彼女にはじめて見せたとき、わたしは枝を流れた時間が描きたかったと言った。満代さんは、もっといろいろなかたちで時間を描けるといいですねと言った。
しかし、今となってはもう彼女との時間を持つことはできない。
今年4月に、この画廊では3度目となる個展をした。その最終日に三千魚さんから、ぼたるさんの訃報の電話をもらったのだった。
今年はその前に同級生が二人亡くなっている。
大事なひとが次から次へと向こう側に行ってしまう、そんな歳に自分もなったのだなと、思わずにいられない。

 

キャベツ

キャベツ

このところ、雑誌の仕事が続き、いきおい写真をモチーフにして絵を描いてしまうことが多い。このあいだ、なにか実際にある「モノ」を描いてみたいと強く思い、家にあったキャベツを描いてみた。何でもないものをごろんと描きたい…と口の中で言って、ぼたるさんの傑作「ごろん」が立ち上ってきた。

 

 

嘘のような

 

根石吉久

 

たごさくえーご宣言
たごさくえーご宣言

 
免許証を調べたら、昭和43年5月30日に二輪免許を取っている。ネットで昭和43年を調べたら1968年だが、月日が誕生日以前だから16歳の時だ。高校の山岳部に入っていたので、山道具を買う金を作るためにバイクで新聞配達を始めたことを思い出した。一年ほど無免許で配達していたら、親父が心配して免許をとれと言った。そうか、あの頃の俺は朝を知っていたのか、と思う。もう何十年も昼頃に起きているので、朝を知らない体になってしまっている。
無免許で乗っていたのはバイクだけで、昭和60年7月23日に普通免許を取っている。今の免許証に「中型」と印字されているのがそれだろう。昭和60年は1985年で、計算機で計算すると33歳の時だ。免許を取った直後に、ロンドンに行ったことをなぜか一緒に覚えている。ロンドンには 一ヶ月半いただけだが、帰ってきてすぐ車に乗り始めたのなら、33歳の時だし、もう少し時間がたってからなら34歳の時だろう。すぐ乗り始めたか どうかを覚えていない。

そうか、「たごさくえーご宣言」を調べればいい。書類の山を引っかき回して「たごさくえーご宣言」をみつけ、奥付を見たら1986年2月20日に発行されている。それでいくと、ロンドンにいたのは1985年の夏だ。
「たごさくえーご宣言」は、ロンドン滞在のために用意されたお金が少し余ったので、ロンドンにいる間に書いておいたメモみたいなものを見なが ら、当時発売されたばかりのワープロ専用機を使って版下を作り、知り合いの印刷屋さんに頼んで冊子にしてもらったものだ。「田子作英語宣言」のつ もりでつけたタイトルだったが、「たごさく、えー、御宣言」だと読んだ人がいた。「えー」というのは、御宣言をするにあたって、偉ぶって、咳払い なんかをしながらの「えー」だろう。そんなつもりじゃなかったのだぞよ。

ロンドンに行くことになったのは、自分の意思からではなかった。借家の隣のサダオサンが、ある日「飲みに来い」と私に言った。酒を飲み始めたら、サダオサンがロンドンへ行けと私に言ったのだ。いや正確にはロンドンへ、ではなく、「俺の息子に英語を教えているやつがアメリカにもイギリス にも行ったことがないようじゃいけない。だから行って来い。どっちでもいいからとにかく行って来い」とサダオサンは言った。「じゃあ、イギリスが いいかな」と迷ってから私は言った。「金は俺が集めてやる」とサダオサンが言った。「行くのなら、全額を塾生の父兄に負担してもらうのではなく、半分は自分の金で行きたい」と私は言い、サダオサンは承知してくれた。
その後、サダオサンは塾生の親に手紙を書いてくれ、親達に集まってもらい、「素読舎のオッシャンに外国に行かせたいので、いくらでもいいので無 理のないように少しずつお金を出してもらえないか」という話をしてくれた。お金はサダオサンから、まとめて受け取ったので、誰がどれだけ出してく れたかなどの内訳はわからない。後から推測したのだが、あの時、サダオサンはかなりの部分を一人で負担してくれたのではなかったか。サダオサン一人が「金は俺が出してやる」と言えば、私が負担に感じると思って、塾生の親たちに声をかけてくれ、みんなが出し合ったようにしてくれたのではな かったか。サダオサンは何も言わなかったし、私もお礼の他は何も言わなかった。今でも内訳は知らない。

サダオサンは私をオッシャンと呼んだ。長野のこのあたりでは、オッシャンは、中年の男を呼ぶときの呼び方で、およそ三十を過ぎたあたりの男に使 うことが多い。早くても、二十代後半くらいにならないとオッシャンと呼ばれることはない。それまではアンシャンであり、それ未満ならコドモあるい はガキだ。
私は二十代後半でオッシャンと呼ばれた。今では大人の生徒の方が多いくらいだが、英語塾をやり始めた頃の生徒は中学生ばかりで、彼らからすれ ば、二十代だろうが十分に歳は離れており、私は十分にオッシャンだったのだ。
オッシャンはたいてい年上の男を呼ぶのに使うが、サダオサンは私より10歳以上も年上だった。サダオサンは自分の息子(コウスケ)が私を呼ぶ呼 び方を真似て、私をオッシャンと呼び、可愛がってくれた。
塾をやっていた部屋の入口に下駄箱がなく、塾生の靴が脱ぎ散らかしてあるのを見た時、サダオサンは下駄箱を買ってやると言ったが、そういうとき に私はかたくなに固辞した。その気性を知っているので、ロンドン行きに際しては、塾生の親たちに声をかけて、みんなが出し合った金の形を作ってくれたのではないだろうか。サダオサンは口は悪かったが、なぜか私を可愛がってくれた。

書きだした時、免許証を見て免許取得の年を調べたのは、近頃、軽トラの中が喫茶室だということを書こうとして、そういえば俺はいつから車に乗っているのだろうと思ったからだった。免許を取った直後くらいにロンドンに行ったような記憶があるので、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調 べ、中身をちょっと読んだら、サダオサンを思い出したのだ。

ミッドナイト・プレスが出してくれた「根石吉久の暮らしの手帳」にサダオサンが出てくるので、少し引用する。と書いて、「買いなさいと私は言っ た」というタイトルのやつを全部引用しちまうかと思った。サダオサンは、このエッセイでは、初めの方に出てくる「近所の旦那さん」だ。

買いなさいと私は言った

車に乗り始めてから七年になる。その間に五台に乗った。思えば屑屋のような七年だった。しょっぱかった。
最初の軽自動車は八千円だった。これは非常にでこぼこしていたが、よく走った。
次の普通車は友達からもらった。穴だらけで、錆びていた。八丈島を走ってた車で、潮風にやられていた。穴にガムテープを貼って、ペンキを塗っていたら、近所の旦那さんが来た。車を見るなり、だめだあ、と言った。こんなものだめだあ、こんなものに何したってだめだあ、腐ってるじゃねえ か、と旦那さんは言うのだった。
車に乗っている人にはなんとなく、いくつかの派がある。ヨンク派とか、ス
ピード派とかいうのがなんとなくある。ヨンク派には、さらにドロミチ派 とシティ派があり、スピード派にはオンゾウシ派やボーソー派がある。私はデコボコ派とガムテープ派をひとりでやってきた。
次のニッサンキャラバンもデコボコ派だった。よく悪路で砂をほじってタイヤを空回りさせた。それを私は蹴とばした。キャラバンを蹴とばす悲しさ は、私をついにヨンク派にしたと思う。
だから次はジープだった。これもまたよく錆びていた。川原の石ころだらけのところを走り回る。顎ががくがくする。子供がすごいと声をあげる。
私は言った。「これがジープだ」
子供が言った。「これがジープか」
泥にはまってカメノコになり、抜けられなくなったことがあった。子供が言った。「もう乗らない」路肩が崩れて車体が千曲川本流の上に傾いたことがあった。奥様が言った。
「もう乗らない」
ヨンク派もひとりでやらなくてはならないらしかった。
ヨンクを過信してはならないのである。沼にずぶずぶともぐりこんだり、仰向けになって空に腹を見せている場合は、四輪駆動車はしっかりと駆動のかかった四輪で空回りするようである。
去年、奥様が勤めに出るためにアルトを買った。これは駄目だった。通勤の途中で止まってしまうのだ。奥様はこんなのはいやだと言った。それに、 スパイクタイヤが禁止になるから、乗り換えるならヨンクがいいと言った。
奥様は土佐の生まれなので、信州の雪道を非常にこわがる。雪道で少しくらい車がお尻を振って走っても、うふん、少し色っぽいかしらと思っていれ ばいいのだが、奥様は少しでもお尻を振るのはいやだと言うのである。そんなことはとんでもないことだと言うのである。ヨンクがいい、ヨンクなら大 丈夫と奥様は言った。四輪駆動の車なら雪道も滑らないとどこかで聞いてきたものらしかった。
私の顔がほころびそうになる。顔の筋肉をたてなおして私は言う。ヨンクだってつるつるのところでブレーキを踏めば滑るぜ。
え、嘘!と、奥様が言う。四輪駆動の車は絶対に滑らないと思っていたらしい。滑るんなら、ヨンクを買っても仕方がないかと奥様が迷った。いやい や待て待て、早合点してはいけない。そりゃあヨンクでも滑るとはいうものの、二輪駆動とは断然違う。発進の空回りはないし、尻の振り方も小さい。 雪の坂道発進にはうんと強いのだ。通勤の万葉橋の土手は、信号の手前が坂道ではないか。
しかも川風が吹いて道がかちんかちんに凍るところだ。ヨンクか、そうだ、ヨンクがいいだろう。ヨンクの軽ならジムニーだな、うんうん、と私は言った。実は四駆の軽で、乗用車タイプがいくらでもあるが、ヨ ンクの軽を買うなら何が何でもジムニーがよいのである。それはもう誰に聞いたところで、私に聞いてみればジムニーである。私に聞きなさい。
大切な奥様が出勤にお使いになるヨンクである。ちゃんとしたヨンクでなければいけない。そして今度はしょっぱい車でなくて、程度のいいのを買うことがよいのである。そうではないだろうか。その通りである。
またしても中古車ではあるが、ターボ付きで八十万円のがみつかった。これまでの五台分を合計しても、まだ三十万円もおつりのくる額だ。奥様の半 年分の給料である。しかし奥様は勤めて十ヵ月になる。買ってよいのである。買うべきだ。買いなさいと私は言った。
そして、ジムニーが来た。
ターボがはたらくと、軽とは思えない。坂に強い。小さいから細い林道や農道へどんどんはいって行ける。こういう車を朝と夕方だけ通勤に走らせる だけではやはりよくない。ジムニーの軽くワイルドなフットワークをきちんと評価してあげなければいけない。悪路走行の能力を認めてあげなければい けない。だから夜には私がお借りする。
うふふふとエンジンが回る。むふふふとターボが回る。乗り心地は乗用車というわけにはいかない。しかしちゃんとしたヨンクだからそれは仕方がな いことである。
うがががが、跳ねる、跳ねる。
(midnight press 11. 1992.5.31)

ジムニーは三台乗ったが、どうやら最初に買ったジムニーがこの80万円のものだったらしい。私が最初にツーサイクルのジムニーに乗り、妻に フォーサイクルのジムニーを奨めたのだと思っていたが、記憶違いらしい。このエッセイにはツーサイクルのジムニーは出てこない。妻が買ったジムニーについては、サダオサンも「こんなもの何したって駄目だあ」とは言わなかった。待てよ。サダオサンが亡くなってから、もう何年になるのだ?
あの頃は、まだサダオサンも元気でいたというふうに覚えているのだが、コウスケに今度確認してみなければならない。免許証で免許取得の年月日を調べたり、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調べたりしているうちに、サダオサンの面影が切れ切れに浮かび、その胴間声を思い出していた。

軽トラのことを書こうと思い、「軽トラが喫茶室」というタイトルを最初に考えたのだが、まるで違うことを書いてしまった。もう締め切りを過ぎてしまったので、軽トラのことはまた今度ということにさせてもらう。
サダオサンはずいぶん前に亡くなった。今の私はサダオサンが亡くなった歳より上になるのだろうか、今でも下なのだろうか。やっぱり亡くなったんだなと、今はようやく納得している。私は人が亡くなったことを納得するのに時間がかかる。そのことに気付いたのは、私が中学1年の時に祖母が亡く なったときだった。頭は「バアヤンは死んだ」と知っているのだが、気持ちが納得しなくて、バアヤンはまだその辺にいるような気がしていた。それが 続いた。
最近のことで言えば、奥村真さんの死と中村登さんの死だ。奥村さんの方は納得しかけてきた感じだが、中村さんのことはまだ納得できていない。昨日だったか、中村さんは死んだのかと、軽トラを運転しながら思っていた。「季刊パンティ」の同人で、生き残っているのが私だけだということになるのが、どうも嘘のような気がしてならない。

 

 

そういうふうになっている?

 

根石吉久

 

ファミリーマートの駐車場
ファミリーマートの駐車場

 

千曲川にかかる平和橋を渡ると、八幡というさびれた町がある。稲荷山という別のさびれた町まで行く途中にガソリンスタンドがあったがつぶれた。 給油機がひとつだけのごく小さな個人経営のスタンドだった。八幡は山の裾の町なので、車で山に登る日などに、軽トラのメーターを見て、ガソリンが 少ないと1000円分追加してから登るような使い方をしてきた。そんなケチな客ばかりが寄ったからというわけでもないだろうが、つぶれてしまっ た。一方、国道18号では篠ノ井橋に近いところでひとつ、戸倉でひとつつぶれ、埴生小学校に近いところで新しくひとつ開店した。つぶれたのも開店 したのも、それほど小さな店ではないが、つぶれていくのは個人経営、開店するのはチェーン化された店という流れはあるようだ。

チェーン化されたものの代表格はコンビニだろう。ガソリンスタンドは減っていくが、コンビニは増えている。家から車で5分くらいのところに、7 軒もある。開店したりつぶれたりするが、少しずつ増えている。つぶれた店はセブンイレブンが多い。本部からの締め付けがきついのだと噂に聞いた。 つぶれたセブンイレブンから車で1分くらいのところに別のセブンイレブンができたりしているが、ローソン、ファミリーマートなど他のチェーンの店 が増えているので、チェーンとチェーンの競争が激しくなり、セブンイレブン本部からの各店舗への締め付けが多少弱まったのだろうか。最近はコンビ ニはつぶれなくなってきている。

コンビニはよく使う。かっぱ寿司で放射能寿司を食った後、国道18号をはさんだ向かいのセブンイレブンで100円のコーヒーを飲む。驚いたな あ、あんな小さい子供にロシアンルーレットの回転寿司を食わせている、などと思いながらコーヒーを飲む。放射能寿司の後のひと休みだが、戸倉の キャロルというスナックで昼飯を食べた日は、ファミリーマートで120円のコーヒーを淹れてから、車で千曲川の土手を越え、川原に近いところで川 原を眺めて飲む。ここしばらく出水がなく、川原は夏まで草に覆われていて、川原石が見えなかった。さきごろの台風で、川原が洗われ、また川原石が 広がっている。
セブンイレブンのコーヒーは「放射能寿司のコーヒー」であり、ファミリーマートのコーヒーは、「川原のコーヒー」であるが、その他にも畑の行き 帰りに寄るローソンのコーヒー、つまり「野良仕事コーヒー」がある。静岡茶から放射能が検出されたと聞いた時から、ペットボトルのお茶を一人で飲 むことはあるが、家では飲まなくなった。家には孫がいる。

お茶を飲まないわけではないが、コーヒーが多くなった。

毎日、ほぼ昼頃起きる。起きて30分くらいしたら第一食目を食いに出て、食べた後、コンビニの駐車場や千曲川の川原で食休みするというのがほぼ 習慣になっている。そのコーヒーに煙草が伴う。コーヒーと煙草は相性がよく、両方あるとうれしい。30分くらいぼんやりする。
その後、車のエンジンをかけて、「仕事」で使う道具や材料を買いに綿半(ホームセンター)に寄ったりする。今は、煉瓦で窯を作っているので、煉 瓦やセメントを買ったりする。「仕事」というように括弧をつけるのは、お金にならない仕事だからだ。なるべくお金が出ていかないようにすることに は役にたっているが、お金が入って来るわけではない。塾以外でお金を得ようとする試みはいくつかやったが、すべて失敗した。借金をしなかったか ら、破産もしなかっただけだ。今度の窯で焼き芋を焼いて売るという計画で、私の生涯における賭けは最後だろう。
家を自作したのも、収入が不安定だったからだが、なるべくお金が出ていかないように暮らしたかったこともある。家の自作は13年もかかったが、 借金はしないで済んだ。収入が少なくても、出て行くお金が少なければ暮らしていける。この考えは根本的なところで妻の考えと合わず、よく喧嘩の元 になった。妻はお金に不自由しない家に育ったのだ。お互いにいちいち言い返すので、仲が悪い。ついでだから言うが、妻は土佐の女だ。金に不自由しなかったのでも、ハチキンはハチキンだ。

脳梗塞をやったので、煙草はやめなければいけないと医者に言われているが、やめられない。英語の仕事をやめればやめられるかもしれないが、その 仕事を続けている限りはやめられない。自分一人で英語をやっているのであればやめられるかもしれない。相手(生徒)がいて英語を扱う時、一時的に 強度のストレスが襲うことがあり、そこが乗り越えられない。襲ったストレスに身をまかせれば、相手をどなることになり、生徒は激減する。だからやめられない。
ビールは毎日飲む。ビールに関しては、医者のいいつけを守っている。医者は量を減らせと言うのである。やめろとまでは言わない。
ビールもコンビニで買うことが多い。冷蔵庫に買いだめしておくと、短期間にみんな飲んでしまうので、値段が高くても一本ずつコンビニまででかけ て買う。わざわざ不便にしておかないと、あるだけ飲んでしまう傾向がはっきりとあるので、わざわざ不便にしておくのである。
ビールと煙草とコーヒー。これがコンビニで買うもののほとんどである。このうち、ビールか煙草を買うと、レジに置いてある液晶画面に「20歳以 上ですか」というような意味の疑問文が出て、「はい」という文字を客がタッチするように言われる。初めて見たときは、なんだこれ?と思いながら、 つい押してしまった。ビールや煙草を買うたびに、「20歳以上ですか?」「はい」をやっていたら、だんだん不快感が強くなってきた。私は62歳に なっており、どこからどう見てもじいさんである。自分では、じじいと言っている。
ある日、「俺がじじいだってのは、見りゃすぐわかることだろ?」とローソンの店員に言った。「お客様にタッチしていただくようになっております」と店員は言った。「一目でじじいだとわかるこんなじじいが、自分で自分の年齢を確認しなきゃならないってどういうことなんだ」とじじいの私は 言った。つべこべ言うと、必ずつべこべ言い返す店員だと、「じゃあ要らねえよ」と言い、品物をレジのテーブルに置いたまま店を出てくることが続い た。その頃から、液晶画面の「はい」ボタンを押すことを一切やめた。
「俺が19歳だとか20歳だとか言い張ったら、おまえさん、俺を信用するのか。俺がどこからどう見たってじじいだってことは、見てすぐわかるよな。19と言おうがハタチだと言おうが21だと言おうが、俺が嘘を言ってることはすぐわかることだ。60過ぎのじじいがハタチを過ぎてるってこと も世界の常識だ。わかりきったことじゃないか。双方でわかりきっているのに、なんでじじいが自分で自分の年齢を確認しなきゃならないんだ。歳は毎 年変わるから、俺もときどき忘れる。だけど、俺が61のじじいなのか62のじじいなのかを思い出そうとしたって、この店にも警察にも何の関係もな い。俺の年齢確認はコンビニじゃ何の役にも立たねえんだよ。客だって、財布の中の小銭を数えたり、カードで支払うか小銭で間に合うか迷ったり、間 違えて病院のカードを出しかけて戻して、ポンタカードを引っ張っり出そうとしたり、カードが財布の角にひっかかってすぐ出てこなかったり、カード を差し出したり受け取ったり、5ポイント獲得したのかと思ったり、ポンタカードを財布に入れてすぐまた楽天カードを出したり、やることはいっぱい あるんだ。このくそ忙しいときに、どう見たってじじいだってはっきりしている俺が、「20歳以上ですか」「はい」なんてやってられるか。前はハタ チ前で年齢を詐称している疑いがある客には、免許証とか出させて確認していたんだろう? それでいいじゃないか。その手間を省いて、こんな馬鹿な ことを客にやらせるんなら、酒も煙草も売ることをやめちまえ。客がいやがっていると本部にちゃんと伝えろよ。」
それだけくどくど言われて、むっとした顔をして、やりにくそうに腕を伸ばし、「馬鹿はいボタン」を押す店員もいた。
今では、近所のコンビニのほとんどが、何も言わなくても、店員が黙って「馬鹿はいボタン」を押すようになったが、私がつべこべ言うと、つべこべ 言い返す店員もまだ生き残っている。「あのじじいはボタン押さねえぜ」ということが、アルバイトの間で伝承されないのだろう。
つべこべ言い返す連中が言うことは決まっている。「そういうふうになっている」である。そんなことはこっちもわかっている。本部が「そういうふ うになっている」のだ。「馬鹿はいボタン」を考えた本部が、「馬鹿はい本部」なのだということくらいはわかっている。この店のせいじゃない。しか し、「馬鹿はい本部」が決めたことに、「そういうふうになっている」と従うだけでなく、「馬鹿はいボタン」を押さない俺に、「変わったやつ」「変 なやつ」という視線を向けてよこすのは、「馬鹿はい本部」の馬鹿がしっかり感染してしまった馬鹿以外のものではない。高校生くらいの若いアルバイ トに感染馬鹿が多いことがわかり、暗い気持ちになったことが何度もある。若いやつらが、ものごとはもう決まったことでできているのだと思っているのだ。
「そういうふうになっている」なのである。

感染馬鹿はテレビに出てくる東京電力の社員に多くいた。「馬鹿はい本部」の言いなりであるだけでなく、その「はい」がくだらないことを疑うこと がないのだ。「馬鹿はい」どもの集合体である東京電力に、事故収拾の能力はない。東京電力だけではない。日本の役所の中には国家公務員だろうが、 地方公務員だろうが、「馬鹿はい」に感染した痴呆コームインがうじゃうじゃいる。「頭のいい馬鹿」は、今や量産されている。頭がいいと言ったとこ ろで、テストで点がとれるというだけのことなのだ。元のところは、コンビニのアルバイトの高校生の感染馬鹿と変わりはない。

昨日の夜、亀の湯に行き、帰りにファミリーマートに寄って煙草を買った。少し前から気付いていたのだが、ファミリーマートは「20歳以上です か」「はい」をやらなくてもよくなった。徳間にファミリーマートが開店したばかりの頃は、画面にタッチしろと言われたことがあった。こちらから 「年齢確認は店の側がやってください」と言ったことが二度ほどあったが、そのうちに何も言われなくなった。
昨日、「この店は、煙草を買うのに客が自分で年齢確認をするってことはしなくてもよくなったんですね」と訊いてみた。
「こちら側(店員が押すキーボード)に、店員が押すボタンがあるんです。お客様の画面タッチは意味がないです。19歳の人が「はい」のボタンを押せば、店は売ってしまいますから」
コンビニの店員から「あれは意味がない」という言葉を初めて聞いた。そうだ。意味がないのだ。60を過ぎて脳梗塞をやったじじいが、意味がない ことをやれと言われ続けたのだ。「20歳以上ですか」「はい」。馬鹿みたいだ。

「セブンイレブンやローソンはいまだにやってますが」
「もうじきあのシステムはなくなります」
そうか。なくなるのか。なんでそこまで知っているのか訊くのを忘れたので、今日、ローソンで訊いてみた。そしたら、ローソンの機械にも店員のい る側に店員が押せるボタンがあることがわかった。
「店員が20歳以上だとわかってボタンを押しているんなら、客が画面にタッチする必要がどこにあるんですか」
「店員とお客様と両方で押して、二重に確認をとっているわけです」
そんなもの二重にしたところで、19歳の老けたやつが「20歳以上ですか」に「はい」とタッチしたら、一発破れる。馬鹿みたいだ。
「このシステムは終わるとファミリーマートで聞いたんですが」
「運転免許にICチップが埋め込まれていますが、免許証をかざせば年齢確認ができるようなシステムがまもなくできあがります」

おい。60過ぎたじじいが運転免許をかざして、自分がハタチ過ぎだと相変わらず証明しなくちゃならないってのか? 一目見ればわかるってことを 馬鹿にしてないか。自明性ってことを馬鹿にしてないか。そういうことを馬鹿にするローソンは、自分の馬鹿確認をしてるのか?
店員やってるのは人間だろうと思う。それなのにロボットみたいに、客に画面にタッチしろと言い続けたのだ。システムが変わったら、運転免許を機械にかざせと言うと言うのか。

20歳未満に煙草が買えないようにするのは、青少年の健康のためだというのが建前だというのはわかっている。しかし、自分が「馬鹿はい」になっていることを疑うことを知らない青少年が結構多くいる。よほどそのことの方が問題だ。馬鹿みたいだ。

「馬鹿はい」を作り出すのは、支配側にとっては利益があるのだろう。
政治が「戦争やるぞ」と言い出せば、「はい」だもんな。「自衛隊はアメリカ軍に合流するぞ」と言えば、「はい」だもんな。「そういうふうになっている」だもんな。
日本が「馬鹿はい」だらけになったら、みんな死んじまうのも、それはそれでいい。それもオツなもんだろう。