書けば、形になる。

── わたしを育ててくれた洋楽への短い考察

 

今井義行

 
 

プロローグ

詩は、それまでの、或いは現在の、作者の体験から生まれてくるものだと思うけれど、そして、それは概ね作者の読書体験であることが多いように思うけれど。わたしも或る程度は読書体験はしてきたものの、わたしは読書がどうにも苦手なので、その内容は殆ど忘れてしまった。

それでは、わたしが何から影響を受けてきたのかというと小学生から現在に至るまでの、洋楽鑑賞だと思う。ただし、わたしは洋楽鑑賞マニアではないので、有名なミュージシャンについてしか語ることはできない。それでも、「書けば、形になる。」と信じてエッセイとして、書き残しておくことにした。(登場するミュージシャンの名前は順不同。また、わたしの記憶に基づいた記述であるため、間違いがあるかもしれない。)

 

● ローリング・ストーンズについて。

言わずと知れたビートルズと並ぶイギリス出身のバンド。だけれど、ブルース・ベースの曲が、あまりにもキャッチーでないため高校生まで、その良さが殆ど分からなかった。

ところがなぜか大学生になってから、そのグニャグニャしたグルーヴに、すっかり飲み込まれてしまった。

アルバムは1960年代末からの「レット・イット・ブリード」から1976年の「女たち」までは名盤続きで、1枚に絞り込むなどできない。

ちなみに有名な「スタート・ミー・アップ」を含む1980年の「刺青の男」は、過去に録音した曲の寄せ集めであるため、かなり大味で名盤とは言えない。

ところで、ギタリストにミック・テイラーが在籍していた時代が、ローリング・ストーンズの最盛期だったことはよく言われることだ。ミック・テイラーが脱退した後、誰が後任になるかについてジェフ・ベックという噂が出た。ジェフ・ベックを見かける度に「吐きそうになる」と言っていたキース・リチャーズの発言からして、さすがにそれはないだろうと思ってはいたが、まあ無事に後任ギタリストは人柄も穏やかだと言われるロン・ウッドに収まった。ロン・ウッドならバンド内の不和も和らげられるだろうから最適だと思った。

ところでバンドの最年長のチャーリー・ワッツは常々「ローリング・ストーンズは会社のようなもの。わたしはローリング・ストーンズの社員なんだよ。」と言っていた。そのチャーリー・ワッツがミック・ジャガーを激しく殴りつけたことがあるという。ミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに向かって「俺のドラマー。」と言ったからだ。チャーリー・ワッツはミック・ジャガーの傲慢に向かって「2度とわたしのことを、俺のドラマーなんて呼ぶな。呼んだらタダじゃおかない!」と叫んだのだ。

もう10年に1度くらいしかオリジナル・アルバムをリリースしなくなってしまったローリング・ストーンズだけれど、現在ニュー・アルバムを制作中だと聞く。ローリング・ストーンズは、どこまで転がり続けるのだろう?わたしは、ローリング・ストーンズは解散などせずに、自然消滅していくような気がしている・・・。

 

● マイケル・ジャクソンについて。



マイケル・ジャクソンは、ソロ・アーティストして、群を抜いて大成功を治めたミュージシャンであると思う。わたしは、マイケル・ジャクソンが、本当に好きである。

1970年代後半に、「オズの魔法使い」が原作で、黒人キャストだけで制作された「ウィズ」というミュージカル映画があり、音楽監督はクインシー・ジョーンズだった。主役のドロシー役は、ちょっと歳の行き過ぎたダイアナ・ロスで、そして、かかし役がその頃10代後半だったマイケル・ジャクソンだった。

映画は、ブリキマンやライオンやかかしたちが踊りながら去っていく場面で終わるのだが、マイケル・ジャクソンが演じるかかしのダンスだけが突出していて驚かされたものだ。

多くの人たちが、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンを見出したと思っているようだが、実際はその逆で、ソロ・アーティストとして低迷していたマイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズに「僕の音楽プロデューサーになってくれないか?」と持ちかけたのが、事の始まりだ。そこには、マイケル・ジャクソンの目利きぶりが、早くも、顕著によく現れている。

その後は、誰もが知っての通り、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という大ヒット・アルバムが続くが、わたしは、そのどれもが嫌いである。殊に世界で5000万枚を売り上げ、今でも売れ続けているという「スリラー」は、とても嫌いだ。

「スリラー」が大ヒットした1984年当時は、MTVが台頭してきた時代であり、視覚的に誰もがマイケル・ジャクソンを観られるようになっていた。マイケル・ジャクソンのパフォーマンスが神がかっていた事もあるが、また黒人アーティストとして初めて白人アーティストのエドワード・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーを起用した事もあるが、とにかく歌詞が幼稚過ぎた。それが5000万枚ものセールスを挙げたというのは、子どもから高齢者までが楽しめる音造りと内容だったからではないだろうか?

わたしがマイケル・ジャクソンを本当に天才だと思ったのは、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズの手を離れて制作した「デンジャラス」からである。このアルバムでは、もの凄くお金をかけて錚々たるサウンド・クリエイターを掻き集めて制作された作品である事は明白だったが、そして並のミュージシャンだったならば、彼らの操り人形となってしまうところだが、マイケル・ジャクソンの場合は例外的にそのような事は超越していた。このアルバムでは、錚々たるサウンド・クリエイターと天才マイケル・ジャクソンとがぶつかり合う奇跡的な作品となっていた。

そして「デンジャラス・ツアー」の出来がまた素晴らし過ぎるものだった。人類にでき得る最高のものを創出したと言える。
ところで、マイケル・ジャクソンは、見れば明白だと言うのに、何故「自分は、整形などしてはいない」と否定し続けたのだろうか?人間誰しも老化していくというのにそれに徹底的に抗ったという事なのだろうか?天才のする行為は本当に不可解という他ないが、マイケル・ジャクソンの顔が段々と崩れていくのには揶揄されても仕方のないようなところもあった。
マイケル・ジャクソンが50歳を迎えたとき、マイケル・ジャクソンはロンドンのアリーナでコンサートをすると記者会見をして、「THIS IS IT!!(やるぞ!!)」と大きな意欲を見せた。ところが、その後、マイケル・ジャクソンは急逝してしまい、ロンドンでのアリーナ・コンサートは、無くなってしまった・・・マイケル・ジャクソンのこの死には諸説あるようだけれども、わたしは「暗殺」だと思っている。マイケル・ジャクソンを生かしておいてはならないという巨大な謎の勢力が、確かに存在していたに違いないと思うのだ。


 

●クイーンについて。

クイーンは、フレディ・マーキュリーのエイズによる45歳という若き死を以って神格化されたバンドだという評価が固まっているようだが、本当にそうなのだろうか?クイーンは確かに巧いバンドなのだが、リアル・タイムで中学生の頃からクイーンのアルバムを聴き続けていた者には、どうにも違和感がある。

クイーンの人気は日本から火がついたもので、クイーンのメンバーも大の日本びいきであり、またメンバーのルックスも良かったので、とにかく女子中学生の間で爆発的にアイドルとして人気が出た。当時のアイドル・ロック・バンドを中心に発行されていたミュージック・ライフの人気ランクでは常にクイーンの各メンバーが首位を独走していたのを覚えている。それ故、男子のロック・ファンからは、クイーンを聴いている奴らは情けないという事になってしまいわたしと妹は、密かにクイーンを聴いていた・・・

クイーンのアルバムでは、あまりにも有名な「ボヘミアン・ラプソディ」を含むサード・アルバム「オペラ座の夜」が最高傑作と言われているようだが、それにはあまり異論はないのだけれど「オペラ座の夜」は多彩な種類の音楽から成り立っているためロック・アルバムとしての最高傑作を挙げるとすれば、ヒット曲「キラー・クイーン」を含む、セカンド・アルバムの「シアー・ハート・アタック」ではないかと思う。このアルバムでは、ブライアン・メイのギター、ロジャー・テイラーのドラムス、ジョン・ディーコンのベース、フレディ・マーキュリーのヴォーカル、その全てが絡み合って、見事なロック・アルバムになっていると思う。
フレディ・マーキュリーの45歳でのエイズによる早逝は、「早すぎる才能の死を悼む。」という論調、或るいは「可哀そう。」という論調も含まれていたと思うが、わたしは、前者の論調には同意するものの「可哀そう」という見方には、大変な違和感を覚えてしまう。
わたしは、フレディ・マーキュリーの人生の選択肢には、2つあったように思われる。1つ目は「ファンのためにも、ヴォーカリストとして末永く歌い続ける。」という事、もう1つは「性的嗜好として個人的な男色家としての人生を愉しみ切る。」という事。フレディ・マーキュリーは後者を選択したという事だ。セーフ・セックスなど一切心がけず、あくまでナマでの性行為に没頭し、エイズに感染したという事は、アナル・セックスを好み、精液を直腸に注ぎ込まれる事に至福の喜びを感じたという事で、そのセックスには微塵の後悔などなかっただろう。わたしは、この事についてはフレディ・マーキュリーに拍手を送りたい気もちだ。

わたしが社会人になった1986年は、アメリカからエイズが上陸した年で、「せっかくこれからセックスを愉しもうと思っていたのに、すっかり水を差されてしまった。」という落胆でいっぱいだった。この事は、つまり自分で自分の命を守ろうとする事であり、数十年経って、今やコロナ禍で世界は大騒ぎ。わたしには、表現活動を続けていきたいという願いがあるにしても、マスク着用、手指のアルコール消毒、手洗い、うがいの励行・・・というように、未だ自分の命を守るために、ちまちまと努力しているわけである。必要な事なのかもしれないが、何だか情けない人生を送ってきてしまったような気も何処かに持っているような気もする・・・

フレディ・マーキュリーは、ヴォーカリストとしても素晴らしかったと思うけれど、自分の人生を例え短命でもきっちり謳歌したという点で、尊敬に値すると、わたしは思うのだ。


 

● カーペンターズについて。


わたしが小学校4年生のときに、自分のお小遣いで初めて買った洋楽のレコードが、カーペンターズの「シング」だった。本当は「イエスタデイ・ワンス・モア」のシングルが欲しかったのだけれど、売り切れだった。1973年当時の日本は、空前のカーペンターズ・ブームで湧いていて、武道館での来日公演のチケットの申し込みはビートルズを超えたと大きな話題になっていた事をよく覚えている。もちろん本国アメリカでもヨーロッパ各国でもカーペンターズは大人気だった。

カーペンターズは、作曲家バート・バカラックの流れを汲むアーティストで、1969年のデビュー以来、プロデューサー兼アレンジャーの兄リチャード・カーペンターとヴォーカルの妹のカレン・カーペンターと共にハーモニーの美しいカーペンターズ・サウンドを造形していき、セカンド・アルバムに収録されていた「遥かなる影」のビルボード・チャート1位をきっかけに、アルバムのリリースを重ねていくごとにそのサウンドは洗練されていき、多忙なツアーの合間に制作されたとはとても思えないアルバム「ナウ・アンド・ゼン」でそのサウンドと人気は頂点を極めた。何よりアルト・ヴォイスが大変に魅力的で英語の教材にもなったというカレン・カーペンターのヴォーカルの魅力がカーペンターズ・サウンドの中核を成していたのは確かだが、リチャード・カーペンターのカレン・カーペンターのヴォーカリストとしての才能を活かし切るプロデューサー兼アレンジャーの仕事振りも実に的確なものだった。あまりにも有名な「イエスタデイ・ワンス・モア」が弱冠20歳のカレン・カーペンターの歌唱力で発表された事には今でも驚きを禁じを無い。

リチャード・カーペンターは常々カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」のだと語っていたのだが、その意味は、後にファンが知る事となった・・・
ポップ・グループが避ける事のできない人気の少しづつの凋落も、アルバム「ナウ・アンド・ゼン」の発表後、3年振りにリリースされた「ホライゾン」あたりから明確になっていった。このアルバムからは明るい曲調の「プリーズ・ミスター・ポストマン」がシングル・カットされ、見事にビルボード・チャートの1位に輝き、そのポップ・サウンドとしての出来栄えは実に素晴らしかったものの、それまでのカーペンターズの魅力が、片思いの女性の心情を切々と歌い上げる事の魅力が中核を成していたにも関わらず「プリーズ・ミスター・ポストマン」は万人狙いとも言えるファミリー・レストラン的なヒット曲として成功してしまったため、その後が続かなくなり、人気の凋落が始まってしまった。そして、若すぎるカレン・カーペンターの拒食症による1983年の32歳での若すぎる死は、カーペンターズ・サウンドの終わりを告げるには、あまりにも凄惨過ぎた。

後に日本で制作されたテレビ・ドラマ「未成年」では、カーペンターズの「青春の輝き」という曲が主題歌として用いられ、テレビ局には「カーペンターズのニュー・アルバムはいつ発売されるですか?」「カーペンターズの来日公演は、いつ行われるのですか?」という問合せが殺到して、カーペンターズのベスト・アルバムは瞬く間にオリコン・チャートを駆け上がり、200万枚もの売り上げを記録して、社会現象にまでなってしまった。アメリカのビルボード・チャートではこの曲は25位でとどまっていてヒット曲にはならなかったのだが、この曲の日本での成功により、「青春の輝き」は、日本では「イエスタデイ・ワンス・モア」を超えるものとなった。
ここに、リチャード・カーペンターが公言していた、カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」という言葉が証明される事となった。未だに、少なくとも日本に於いては、カーペンターズの代表曲は「青春の輝き」であるとされ、いつまでも聴き継がれている。

 

● ビー・ジーズについて。


ビー・ジーズは1970年に日本で公開され、大ヒットとなった映画「小さな恋のメロディ」で用いられた「メロディ・フェア」や「若葉のころ」によって、白人ポップ・グループとして認識されていると思うのだが、その本質は白人ソウル・グループとしての才能にあると思う。やはり「小さな恋のメロディ」で用いられた「トゥ・ラヴ・サムバディ」という曲は、元々飛行機事故で亡くなってしまったオーティス・レディングに向けて制作されたものだったと言う。
その後、人気の浮き沈みを乗り越えながら、やはり大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の音楽を全面的に担当して、ファルセット・ボイスを駆使した独特のヴォーカル・スタイルで世界的にディスコ・ミュージックのブームを巻き起こす事となったわけだが、このときの音楽プロデューサーがアレサ・フランクリンの名盤「スピリット・イン・ザ・ダーク」を手掛けたアリフ・マーディンであった事は重要な事だ。

ビー・ジーズが1970後半にヒット曲を立て続けに発表した頃、そのファルセット・ヴォイスには賛否両論あったようだが、わたしはその後に登場する事となる若き日のプリンスの最初期のアルバムに見られたファルセット・ヴォイスにその影響が顕著に現れていると考えている。

また、ビー・ジーズは黒人アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっており、ダイアナ・ロスに提供された曲も、ディオンヌ・ワーウィックに提供された曲も、軒並み大ヒットを記録していた。
わたしは、ビー・ジーズの横浜アリーナに於ける来日公演を聴きに行ったが、初期のヒット曲からディスコ・ミュージック時代までの曲が立て続けに披露され、その1連の流れが全く違和感を感じさせなかった事に、やはりビー・ジーズは、白人ソウル・グループなのだという思いを確信した事を覚えている。

その後、ディスコ・サウンド・ブームの終焉とともに、また3人のメンバーの内、2人のメンバーが亡くなってしまった事により、ビー・ジーズは自然消滅した形になっているようだが、ビー・ジーズが世に送り出した楽曲の数々は、記録として残っているばかりではなく、人々の記憶に残るものとなっているように思う。


 

●ボブ・ディランについて。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した事は、まだ記憶に新しいところだが、ボブ・ディラン自身は受賞式には出席せず、代わりにパティ・スミスが受賞式に出席して、見事にボブ・ディランの「激しい雨が降る」を歌い上げ、人々に感銘を与えた事は記録に残る事だと思う。ボブ・ディランもパティ・スミスも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞には、ノーベル賞の話題作りだと気づいていたと思うのだが、パティ・スミスの受賞式への出席は、ボブ・ディランへのリスペクトそのものだったと言える。その頃、当のボブ・ディランは、劣化した声で「ネバーエンディング・ツアー」なるものを続けていたようで、アメリカの何処にいるのかもわからず、連絡がつかなかったようで、老境に達しながら「何をやっているんだ。」という具合で、気まぐれというか、何処か可愛らしいというか(笑)、実にしょうもない男ではある・・・

ボブ・ディランは、フォーク・ソングの先駆け、ウディ・ガスリーの影響を受けて、プロテスト・ソング「風に吹かれて」や「時代は変わる」などを発表して、フォークソング・ファンに熱狂的に迎えられたが、その後、歌の巧いモダン・フォーク・グループ、ピーター・ポール・アンド・マリーにより、それらの曲のメロディ・ラインがとても美しい事が認知され、ヒット曲にもなった。
1960年代半ば、ボブ・ディランがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変えて活動を始めたとき、かねてからのフォークソング・ファンからは激しい罵声を浴びる事となったのだが、そんなときにリリースされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」という6分近い曲は、全米で広く受け止められ、ボブ・ディランにとって、初のビルボード・チャートの1位を記録する事になったのだった。

フォークソング・シンガーがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変え、フォークソング・ファンから罵声を浴びるという現象は日本にも飛び火して、岡林信康や吉田拓郎がそのような体験をしたわけだが、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットしてしまった事により、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が受け容れられたように日本のフォーク・シンガーたちも一般に受け容れられる事になったのだった。

1978年にボブ・ディランが初の来日公演を行なったとき、演奏スタイルを次々に変えてしまうボブ・ディランは、派手なラスベガス・ショーのスタイルで演奏して、聴衆を戸惑わせた。そのとき聴衆の1人としてボブ・ディランの演奏に接した美空ひばりからは「岡林信康の方が遥かに良い」と言われる事ともなったのだった。その発言には、美空ひばりが岡林信康から2曲の作品を提供されていた事も関係していたといういきさつもあるのではないかとも思われる。

ボブ・ディランの活動の全盛期はビートルズをも嫉妬させたという、1960年代末のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」から1975年のアルバム「欲望」までとされ、殊に「血の轍」は最高傑作とされているようで、わたしはその事に何の異論はないけれども、わたしにとっての愛聴盤は地味なカントリー・アルバム「ナッシュビル・スカイライン」で、1曲目のカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュとの掛け合いによる曲も何の遜色もなく、見事なものとなっている。
デビューから現在に至るまで、ボブ・ディランのフォロワーは後を絶たないが、当のボブ・ディランは「ネバーエンディング・ツアー」で、今頃、アメリカの何処にいるのだろうか・・・?

 

●デヴィッド・ボウイについて。

2016年に(もう、そんなに経つのか)デヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかった。

10年ほどアルバムのリリースがなかったので、どうしたのか、と思ってはいたけれども「地球に落ちてきた男」とまで言われていたデヴィッド・ボウイでさえ、癌で69歳で亡くなってしまうのだな・・・とは漠然と思った。
リリースされたアルバムは殆ど買い揃え、デヴィッド・ボウイの生涯を辿ってきたわたしは、デヴィッド・ボウイから多くの事を学んできたように思う。
知っている人は多いと思うが、1972年に、「ジキー・スター・ダスト」というキャラクターを自らに与えてイギリスのグラム・ロックを牽引したデヴィッド・ボウイ。顔に独創的なメイクを施し、山本寛斎デザインの衣装に身を包み、そのパフォーマンスは多くのオーディエンスを虜にした。何よりもとにかく「1番初めに挑戦してみる。」というアーティストとしての姿勢に魅了された。

デヴィッド・ボウイは、そのような派手なパフォーマンスをしながらも、インタビューでは次のように答えている。「わたしは、ボブ・ディランのようなアーティストを目指している。あくまでアルバム・アーティストとして在り続けて、時々シングルのヒット曲を出すような・・・。」
実際デヴィッド・ボウイは、「アラディン・セイン」「ダイアモンドの犬」などとキャラクターを変え続けて、アルバムの名盤を本国イギリスを中心にリリースし、精力的にツアーを展開しながら、時々シングルのヒット曲を出すという姿勢を貫いた。

そんなデヴィッド・ボウイではあったが、尖鋭的なアルバムを発表したのは、アルバムの制作場所をベルリンに移したり、アメリカに移したり、また本国イギリスに移したりしながらアルバムを発表した1979年のアルバム「スケアリー・モンスターズ」までに限られている。

その後、デヴィッド・ボウイは1983年制作の大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演して、坂本龍一や北野武と共演したが、坂本龍一が映画音楽作曲家としてアカデミー賞を受賞したり、北野武が芸人から映画監督にも活動の場を広げていった事を考えると、デヴィッド・ボウイの俳優としての活動は凡庸であったと言わざるを得ない。
デヴィッド・ボウイは、再び活動の拠点をアメリカに移し、ヒット・アルバムの仕事人とまで言われたナイル・ロジャースのプロデュースのもと、「レッツ・ダンス」というダンス・アルバムをリリースして、そのアルバムはアメリカを中心に大ヒットしたが、その事は、アメリカでは、ダンサブルなアルバムでしか成功しないという事を証明してしまい、その後のアルバムはその2番煎じとなっていってしまい、尖鋭的であったデヴィッド・ボウイのサウンド造りの活動は、他のアーティストのダンサブルな音造りの後追いの形となってしまい、その事はおそらくデヴィッド・ボウイの死まで続いていったと思われる。
1度手を染めてしまったもので1度成功を得てしまうと、もう後戻りはできないという事をわたしは学んだ。
だからこそ、わたしは2016年にデヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかったのである。

 

● ビートルズについて。


20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンド、ビートルズの活躍振りに、異論を唱える人はまずいないだろう。リリースされたシングルは全て大ヒット、リリースされたアルバムは全て大ヒット。解散してから50年以上も経つというのに、デジタル・リマスターされた過去のアルバムその全てが今だにビルボード・チャートの上位を占めてしまう事などに於いても、このようなバンドはビートルズをおいて他に例がない。
また、10年に満たないその活動期間に於いて、リリースされるアルバムごとに、リスナーを毎回驚かすような進化が顕著だったという事も本当に大きな要素であるだろう。

そんなビートルズではあるのだけれども、わたしは、ビートルズに対しては、好きでも嫌いでもない。名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしがそのような感情を抱く1つの理由は、単純にそれらの曲に対してのわたしの趣味嗜好によるところが大きいと思う。

とはいえ例外的に、「イエスタデイ」「ペーパー・バック・ライター」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「レット・イット・ビー」などは、あるのだけれども・・・

名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしが好きでも嫌いでもないという感情を抱くもう1つの理由は、ビートルズが、そのキャリアに於いて、途中でライヴ活動を辞めてしまい、スタジオ・ワークにすっかり移行していってしまったという点にある。その環境の中で数々の傑作アルバムが制作されていったという事は分かるのだが、ビートルズが何故そのような選択をしていったかの理由については、彼らのファンではないわたしには分からない。

ローリング・ストーンズの大ファンであるわたしにとって、ローリング・ストーンズを好きなその最大の理由の1つは、ローリング・ストーンズがライヴ活動を重要視して、ロックの持つ昂揚感やスリリングさを非常に体現していた事にある。その点に於いて、わたしは、ビートルズに対して、何だか物足りさを感じてしまうのだ。
ビートルズがリリースしたアルバムの中でも、20世紀ポピュラー・ミュージックの金字塔と称される「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」については、各楽曲の質の高さ、各楽曲が緻密に制作されていった事などについて、十分に理解できるのだけれども、とにかく聴いていて、閉塞感が半端でなく、何だか窒息してしまいそうな感覚に、わたしは見舞われてしまうのだ。
このアルバムに影響されて、ローリング・ストーンズが「サタニック・マジェスティーズ」というアルバムを制作して、その出来栄えはなかなか良かったにも関わらず、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の出来栄えには遠く及ばなかった事、ビーチ・ボーイズの天才ブライアン・ウィルソンがスタジオに籠もって「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなアルバムを制作しようとしたあまり、精神疾患に罹患してしまった事などを考えると、いかに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムが秀でたものである事は分かるのだけれども・・・
また、ビートルズのおびただしい名曲の数々が、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの競合によって、緊張感高く制作された事も、非常にビートルズの稀な成功にとって関わっている事だろう。
ビートルズが解散してからのポール・マッカートニーとジョン・レノンのソロ活動にについても見るべきところは多くあるけれども、ビートルズ時代の稀な成功には遠く及ばない。
またビートルズ解散の理由について、オノ・ヨーコがビートルズの活動に割って入ったという事もしばしば指摘されるところだが、ビートルズのファンにとっては、オノ・ヨーコの存在は本当に邪魔で仕方なかった事も想像にかたくないのだが、わたしには、オノ・ヨーコは前衛アーティストとして見るべきところがとても多い人物だと感じられる。
いずれにしても、ビートルズが20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンドである事には変わりはないと、わたしは思っている。

 

*********************


 

書けば、形になる。書かなければ、思っているだけで終わってしまう。そのような気もちで、わたしは、このエッセイを書いた。

 

 

 

また旅だより 35

 

尾仲浩二

 
 

どうやら梅雨が明けそうな東京。
長い暗室作業が終わった。
コンタクトシートを見て選んだカットのネガを取り出す。
時計の修理の時に使う様なレンズを目に挟み、ネガに付いている埃を取る。
ネガフィルムをネガキャリアに挟み引伸機に入れる。
イーゼル上でトリミングを確認しルーペでピントを合わせる。
ポイントとなる部分にテストピースの印画紙を置き露光。
自動現像機にテストピースを挿入し、しばし待つ。
出てきたテストピースを水洗し乾燥機へ。
テストピースをチェックして露光時間と三色のフィルターを調整。
調整作業を幾度か繰り返し、落とし所を見つけ本番プリント。
色味、露光時間、見落としていた埃など調整して再度プリント。
この作業を暗室で25日ほど続けていた。
来週からは猛暑となるのだろうか。

2021年7月15日 東京中野にて

 

 

 

 

夢素描 15

 

西島一洋

 
 

野原(草叢)

 

牛蛙が鳴いている。
断続的にあちらから、こちらから。

断続的ではあるが、そのひとつひとつの声は、長い。

低いのもあるが、時折間違えたように、高いのもある。
高いというか、突っかかったようで、
間歇泉のように、不規則だ。

おそらく、一度だけ食べたことがある。
一度だけだ。
もうニ度と食べたくないと思ったわけでは無い。
普通にうまかった。
でも、食べるときに、あの声は聴こえなかった。
心の中でも聴こえなかった。

牛蛙の姿は知っている。
捕まえたこともある。
殿様蛙の色を鈍くしたような感じで、確かにデカイ。
これを見て食欲は湧かない。

牛蛙は本当に牛が鳴いているような声を出して鳴く。
低く、大きい。
夕刻というか、日没後の薄明かりのなかで、壮絶に鳴き合う。合唱ではないが、地から盛り上がったようなうねりがある。

でも、静かだ。
確かに鳴いていてうるさいはずなのに、静寂を感じてしまうのは何故だろう。
もとより、この声は無かったのではないか。
幻聴ではないか。

幻聴だ。
幻聴だ。
正しく幻聴だ。

耳鳴りみたいなものか。
大きくあくびをしよう。
できるだけゆっくりと。

肩が痛い。
腰も痛い。
膝も痛い。

風呂に入るか。
水風呂か、湯風呂かで迷う。
面倒なので、もう一度寝よう。

とっくに、牛蛙はいなくなった。

もう一度牛蛙の夢を見よう。
草叢を歩くところから。
いや、自転車でも良い。

牛蛙はもう居なくなった。
だから、声も無くなった。

もう一度、草叢だ。
夕暮れ。
といっても太陽はすでに沈んだ。
沈んだことに気がつかなかった。

遠くの方に、かろうじて薄明かりが見える。
どんよりと暗い。

草叢は、文字通り草の塊だ。
匂いがする。
草の匂いなのか、泥の匂いなのか。

蛙の声は無くなった。

やはり、草の匂いだ。
草の匂いが音を発している。

僕は自転車でその横を通り過ぎる。
草叢は塊になって、あちらこちらに散在している。

不思議と草叢の中に突入することはない。
礫層がむきでた黄土色の坂を上がると、不意に空が見えた。

そうか、まだ、いくらかは明るいのだ。
しかも、この中途半端な明るさが、ずっと続いている。

草叢は、遠い景色だ。
蛙の声はどうしたのだろう。
とんと、聴こえぬ。

草叢はとっくに集まって密談をしている。

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。

 

 

 

あきれて物も言えない 24

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた

 

24回目の5月には、なにを書こうとしていたのだったか?
5月の「あきれて物もいえない」を飛ばしてしまった。

“あきれて物も言えない 21 “では、わたしが毎日、詩を書くことについて、書いた。
2月だった。

“あきれて物も言えない 22 “では、モコと、女と、わたしの暮らしについて、書いた。
3月だった。

“あきれて物も言えない 23 “では、福島の原発汚染処理水の海洋放出ついて書いた。
4月だった。

書くべきことがないのはいつものことだった。
書くべきことがないということをいつもことさらに書いてきたのだった。

詩もそうだ。
はて、困ったと、いつも空を見上げて、書きはじめるのだった。

困ったなと、
あきれるところから書きはじめるのだった。

そして、
6月には、

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた。
ボックスCD「goodman 1984-6」の工藤冬里の音楽を聴いている。

絶句した。
あきれた。

工藤冬里もあの1980年代を生きていたのだったろう。
ほとんどすべては終わっていたように思えた時代だったろう。

絶句の後に、
工藤は、
ピアノの鍵盤を叩いたのだろう。
ギターの弦を爪弾いたのだったろう。

演奏中に電話が鳴ったりしている荻窪のGoodmanという場所で仲間たちと鍵盤を叩いたのだったろう。

わたしはいま、
工藤冬里の「僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)」に絶句する。

空0戦車の中でまどろんでいた
空0目覚めぬ見張りの鎧の中は血でいっぱい
空0血は戦車の内側に流れ出ていた
空0この辺り一帯は廃墟
空0ペリカンの上に空漠の測り網
空0やまあらしの上に荒漢の測り網が張り巡らされる
空0Singing’ with the harp
空0is prophesying my wars.
空0Singin’ with the harp
空0is prophesying the war. *

そして、「unknown Happiness ‘of’ the past(20 Feb 1985)」に絶句する。
そして、また、「guitar improvisation ‘86 7/3 at home」にも絶句する。

1980年代以降の資本主義は世界を平らに踏み潰していたのだったろう。
わたしもその時代を東京で生きていた。
わたしの知らなかった工藤冬里も荻窪のあたりで生きていたのだろう。
1980年代に「キャタピラー」というタイトルの詩をわたしも書いていただろう。
いま彼と彼の仲間たちの音楽を聴くと不自由の中での自由を感じることができるだろう。

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」には、
「パラレル通信」[ GO AHEAD,MAKE MY DAY 1987 5.1 ]という当時の冊子の複写が付録として付いてきていた。
そこには1985年当時の工藤冬里のテキストが資料として掲載されていた。

「私達はコード進行をその生み出す種々の実によって選びとり、更生することができます。決してそこから別の音楽様式が生まれる訳ではありませんが、私達はそのことによって音楽に対する平衡のとれた態度を示すことができます。高さも深さも私達にとって意味のないものになろうとしています。深い精神性なるものも他愛のない子供の歌も同じ平面で考えることができるようになります。それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

いま、新聞には疫病や、ワクチンや、非常事態宣言や、宣言の解除や、オリンピックや、オリンピックにおける政府と専門家との意見や、対立や、河合元法相の実刑判決や、原発汚染処理水の海洋放出や、ミャンマーのクーデターと市民への弾圧、香港リンゴ日報幹部の逮捕、イランの保守強硬派新大統領の誕生などなどの記事が掲載されています。

混乱した世界のなかで人々はどこに向かっているのでしょうか?

ここのところ工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」の音楽を聴きつづけていました。
工藤冬里の歌もこの世界の中にあります。

「それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

私達はあの時代の中で発声された工藤冬里の苦渋に満ちた”肯定的な声”を聴くことができます。
そこに小さな光が見えています。

 

夕方の西の山は灰色の雲の下に青く佇んでいます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかないのです。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 工藤冬里の”僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)”より引用しました。

 

 

 

また旅だより 34

 

尾仲浩二

 
 

2007年9月1日 チワワ鉄道でクリール
6:30 1日に2本しかない列車に乗りクリールを目指す。途中駅でトウモロコシの皮に包まったチマキのようなものを買う。蒸したクスクスの中に甘辛い何かが入っていた。冷房が効きすぎて辛いのでデッキに出る。大きく揺れると怖いが、風が気持ちいい。草原には黄色い花が一面に咲きそこに馬や牛が、駅が近づくと西部劇のような街が現れる。12:30 クリール到着。まずはホテルを探し荷物を置いて街へ。レストランのメニューを見ても分からないのでビーフステーキとビール。街外れのテントで古着の長袖シャツを買う。

9月2日 クリール
レンタサイクルで草原を走る。気持ちよく撮っていたら急に犬に吠えられ、すると数匹の犬があちこちから走ってきて必死に自転車で逃げる。知らぬ間に手の甲を虫に刺されひどく腫れてしまった。夕方の街は馬に乗った集団やバギーカーやトラックで大音響の音楽を流しながらのパレードが続く。部屋のテレビは母屋のチャンネルと連動しているようで勝手に次々と番組が変わる。酒屋で買ったワインはサングリアでとても甘かった。

9月3日 クリールからポサダ
手持ちのメキシコドルが少なくなったので銀行へ行くがCD故障でカウンターには長い列、諦めて12:30 の列車に乗る。険しい渓谷を走るのだが、脱線し転落した車両が時々見える。昨日案内所で勧められたポサダ駅で下車するが、降りたのは現地民の少女ひとりと僕だけで少女はすぐに山へ入っていってしまった。無人駅にはなんの案内もないので、仕方なく宿を探しに歩き出すが山道が続くだけで、心細くなっていたところに馬を3頭引いた親父が現れた。宿を尋ねると馬に乗ってついてこいと初乗馬。小さな集落に着き、農家の庭に建てられたコテージに泊まることに。夕方から激しい雷雨、テレビもなく馬のいななきと犬の遠吠えだけが聞こえるこんな所で一夜を過ごすとは。

 
写真展情報

尾仲浩二写真展「馬とサボテン」

中野・ギャラリー街道
6月18日より27日 金曜、土曜、日曜のみ開催

 

 

 

 

鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について

 

さとう三千魚

 
 

 
 

随分とそこにある。
何度か開いてみた。
何度も、開いてみてきた。

鈴木志郎康の写真集「眉宇の半球」を机の上に置いている。

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」と、
志郎康さんの「徒歩新聞」合本と詩集「わたくしの幽霊」と「攻勢の姿勢」などなどは、わたしの机の上に置いてある。

志郎康さんと、
わたしが鈴木志郎康という詩人のことを馴れ馴れしく呼ぶのは志郎康さんはわたしの先生だと思っているからなのだ。しかし鈴木志郎康という詩人は「先生」と自身を呼ばれるのが嫌いなので、わたしは志郎康さんと呼ぶのだ。

わたしは志郎康さんから東中野にある新日本文学会の木造の建物の詩の教室で1979年頃に詩を教わったのだった。

その頃、
志郎康さんから「徒歩新聞」という冊子をいただいていた。
赤瀬川原平さんの絵が表紙にある小さな薄い冊子だった。
また、わたしが持っている志郎康さんの詩集「わたくしの幽霊」の扉には志郎康さんのサインがある。
はじめて志郎康さんの詩集を購入してサインを書いてもらったのではなかったろうか。

さとうみちお様
 一九八〇年七月九日
      鈴木志郎康

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」が机の上に置いてある。
「眉宇の半球」は随分とわたしの机の上にありつづけた。

わたしは志郎康さんの「眉宇の半球」について書こうとしている。
このままこれらの志郎康さんの本はわたしの机の上で、わたし一人、開いて、見れれば良いではないかとも思ってしまうが、わたしは志郎康さんの本に出会い、開いて感じたことを書き留めようとしている。
志郎康さんに新しく出会い、志郎康さんを発見するためにわたしは言葉を書き留めようとしている。

写真集「眉宇の半球」は1995年12月1日に発行されている。
編集・発行者は津田基さん、発行所は株式会社モールと写真集の奥付に記されている。

1975年から1995年の間に魚眼レンズと呼ばれる180度の画角のレンズを使用しフィルムカメラで撮影されたモノクロの写真が纏められた写真集だ。
1975年から1995年というのは志郎康さんが40歳から60歳までの間、詩集「やわらかい闇の夢」を上梓した翌年から阪神・淡路大震災があった年までだ。志郎康さんの最初の妻の谷口悦子さんが1995年に亡くなっている。

表紙には志郎康さんの掌に包まれた八重桜の花の魚眼写真が使われている。
指が太いから志郎康さんの掌だとわかる。魚眼レンズの写真は円形に写され円の周りは黒くなるから写真部分が丸くトリミングされて表紙に配置されている。
巻末の写真メモには「1992年多摩美上野毛キャンパス。新入生ガイダンス合宿に出発する朝。」と記されている。
裏表紙には、これも志郎康さんの指だろう、紫陽花の花を太い指の手が摘もうとしている魚眼写真だ。
写真メモに「1993年自宅テラスで。」と記されている。

円周魚眼レンズの写真たちは世界が丸く切り取られている。
巻末にある志郎康さんの写真メモの一部を引用してみる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

「42 1993年7月札幌市。」

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「52 1990年広島市。」

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

「62 年月場所不明。」

「79 1990年西多摩郡檜原村、払沢の滝。」

「88 1992年8月江東区白河の渡辺洋さん宅での家族像。気分のいい夕方。」

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」

「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「96 1993年頃、自宅仕事場で。」

「97 1993年頃、自宅仕事場で。」

「98 1989年7時間半に及ぶ映画『風の積分』のフィルムの一部分のコマ。」

「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

「102 年月場所不明。」

頁数と志郎康さんの写真メモだけでは、写真がないからイメージが浮かばないだろう。わたしには写真集「眉宇の半球」があり、そのページを開いて写真の景色を見ることができる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

白鳥橋は飯田橋から江戸川橋に向かった首都高5号池袋線が神田川に沿って左に大きく曲がるところだろう。
神田川に丸い橋脚が垂直に立ち、淀んだ川の上に首都高が覆い被さっている。
首都高は戦後、1959年に工事が着手され1964年東京オリンピック開催前にはかなりの部分が開通している。

地方の農民など労働者の都市への出稼ぎや移動を加速させ首都高は完成されていったのだろう。

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

真ん中に電柱が真っ直ぐに天に伸びて空には電線が縦横に伸びていてその下の電柱の両脇に下町の木造日本家屋が犇めいて並んでいる。軒下には植木鉢が並んでいる。

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

1944年8月に山形の赤湯に学童疎開して栄養失調で脚気になり10月に東京の亀戸の家に戻り空襲にあったのだろう。3月の東京大空襲で焼け出されたという。写真には川に沿って土手が続き土手の向こうに日本家屋が低く連なっている。

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

代々木上原のJRのガード下のトンネルか?
蒲鉾のようにトンネルがありトンネルの向こうに道路が二股に分かれていてその上の空が明るい。

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

若い麻理さんが草多さんを抱いて表情がやわらかい。草多さんが笑っている。

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

木造の商店か、「ちとせ」という看板が入口の上に掛かっている。その前に若い麻理さんが立っている。

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

川の向こうに高層集合住宅が建っている。橋を男性が自転車で渡って行く。

「42 1993年7月札幌市。」

志郎康さんがホテルの部屋のベッドに服を着たまま横たわっている。
棚に置いたカメラでタイマーを使い撮ったのだろう。

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」
「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

ひとつは車窓から真っ直ぐに伸びた川と土手が撮されている。
もうひとつは車窓から撮されたトンネルの手前の鉄骨構造物と電線などが流れ去っている。

「52 1990年広島市。」

柵の向こうに原爆ドームがしらじらと佇んでいる。人がいない。

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

少年の野々歩さんが草むらで笑っている。山々が見える。

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

若い川口晴美さんが河畔の岩の上に腰を下ろして微笑んでいる。背景に川が流れている。

「62 年月場所不明。」
「102 年月場所不明。」

この二つの写真メモは「年月場所不明。」とだけ記されている。
写真メモの意味をなさない。
62頁の方の写真には背の高い野の花が繁茂していてその花々の向こうに農家の納屋のようなもが見える。
102頁の方の写真には枯れた葦原が風に薙ぎ倒されたような光景が画面の全面に広がり葦原の向こうに林が見えている。

どちらも写真の光景は円形に切り取られている。

志郎康さんはこの写真集に「魚眼映像は気持ちいい」というタイトルのエッセイを寄せている。

「魚眼の写真が気に入っている。単純に撮っていて面白い。中心を通る直線以外はすべて歪んでしまうというのも面白いが、対象との間に絶対的な距離が生じてくるというところがいい。たいてい写真というのは、撮る人の対象へのこだわりが出てくるわけで、そこが面白いとされるところなのだが、魚眼はそれとは逆に対象に対する無関心が出てくるところとなる。魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。

以前、『極私的魚眼抜け』という魚眼映画を作ったが、その時は魚眼レンズが対象世界を「中心」と「周辺」に置きかえてしまうということに気がついたのだったが、今度は『風の積分』をやってみて、「空洞」を作れるということに気がついてワクワクさせられた。

・・・中略・・・

つまり、「わたしの作品」だなんていえない。対象はまるまる自然の変化なんだから、当たり前のことだ。それをどう映像にするかというところに、「わたし」があるといっても、カメラがオートで撮っているのだから、「わたし」が立ち会っていることもなく、不在は不在である。でも、わたしがやったんだから、やった主としている。わたしがやっていて、わたしがいない。これが最高に気持ちがいいっていうことだとわかった。」

と志郎康さんは書いている。

“魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”

ということなのだ。

“わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”と書きながら、
しかし、魚眼レンズで志郎康さん自身を撮った写真が写真集の最後に続いている。

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」
「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「96 1993年頃、自宅仕事場で。」
「97 1993年頃、自宅仕事場で。」
「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

そこには志郎康さんが対象物のように素っ裸になって写し出されている。
にこりともしていない志郎康さんが写っている。

「街中を歩いても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合ったときに持てれば幸いである。」

そう、志郎康さんは写真集のあとがきに書いている。

この世界には人によって作られたイメージや言葉が溢れている。
それらのイメージや言葉は人を商品や貨幣や党派などに誘導するための効果が目指されたものだろう。
それらは人々を誘導するための嘘さえもを含んでいることだろう。

「そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係」と志郎康さんは魚眼写真のことを言っている。

「毒を盛って毒を制するような関係」とは詩や写真で我を無にして新しい我に至るということだろう。それは”無我”ということだろうか?

“無我”とは世界との関係のことだろう。
志郎康さんはそのことを”極私”と言った。
志郎康さんの”極私”は詩や写真の働きによって自己を世界に開いて自由になるということだ。

その”極私”をわたしも生きてみたいと思っている。

 

 

 

夢素描 14

 

西島一洋

 
 

 

雨が降っている。

川の中だ。
浅い川だ。
川岸も川底も全てコンクリートだ。
川幅は広い。
暗渠もある。

濁ってはいない。
透き通っているが、臭い。
汚泥の匂いだ。
糞尿の匂いだ。
強い消毒薬の匂いも混じっている。

全身裸で横たわると、流されていく。

川底はスルスルとしている。
滑らかだが、藻ではなく、汚泥の沈殿物が、うっすらと覆っている。
沈殿物の中には、ドロドロになった便所紙もある。
表面は、細い髪の毛のようなものが、流れに沿って揺らいでいる。

半身は水面(みずも)より上に出ている。
時折、全身が沈み、
川底に当たり、クルクルと回転されながら流される。

すこーし傾斜が強いところに出ると、スピードが出る。
といっても、時速40キロメートルくらいだ。

流されていると、建物があるはずなのに、見る余裕が無い。
せいぜい川岸まで程しか視界に入らない。
流されることに必死だからだ。
ただ、建物に囲まれている気配は十分にある。
建物は、全てモノクロームで、凸凹(でこぼこ)したバロック建築だ。

人の気配は全く無い。
ずーっと一人っきりで流されている。
川の中にも、川岸も、それらを囲むように林立しているだろうと思われる建物の中にも。
人の気配は無いのだが、虫のような気配があるのが不思議だ。
ただ、生命体ではない。

動かない虫だ。
死んでいるのではない。
ただ動かないだけだ。

動いているのは、川と僕一人だけだ。
あとは、きちんと見えてはいないが、
気配としては、じっとしている、というのを感じる。
それらは動いていないのに、それらの気配だけは感じる。

川幅の広いところに出た。
突然、虫の気配も、建物の気配も無くなった

空間というか、天空というか、空というか、何も無いというか、そのような気配が生じてきた。
何もないのに、あるという気配ではない。
何も無いという、そのものの気配なのだ。
言葉的には矛盾しているが、無という有が感じられるのだ。

怖くは無い。

この辺りに来ると、川は二股に分かれている。
上流から下流に向けて二股になるというのは、不自然ではある。
しかも、二股になることによって、水量も増える。
流れの勢いも増す。
これも不自然だ。

血管で言うと、静脈でも動脈でも無い。
静脈は、山から、小さな川が、徐々に一つになって海に流れ込むという態だ。
動脈は、津波のように川が海から逆流して、陸の奥に行くに従って分散していくという態だ。
そのどちらでもないのだ。

雨も強くなってきたが、音が無い、静かだ。
しかし突き刺さるような雨の力だ。
豪雨を超えてはいる。
視界は薄暗いが景色はハッキリしている。

二股のどっちかを選ぶ余裕も無く、僕は左の方の流れにぐいと引き寄せられた。

雨はまだ降っている。
まだ降っている。
いつまでも降っているので、
雨に飽きてしまった。

もう少しで、橋の下をくぐる。
木造の橋である。
木は腐ってカスカスだ。
崩れる寸前の太鼓橋だ。

僕が行くまで崩れずに、
ずーっと待っていてくれる。

おそらく。

 

 

 

夢の世界<夢はひとつか>

 

木村和史

 
 

 

若いころは、よく夢を見ていた。夢の世界と現実の世界は、わたしの中でそれほどはっきりとは分断されていなくて、夢の余韻を引きずったまま、午前中の半分くらいを過ごすこともまれではなかったような気がする。夢の話を熱心にノートに記録していた時期もある。書きとめようとするとたいてい、夢の余韻は手をすり抜けてしまうのだったが。とにかく若かったわたしにとって夢は、わたしとともにあって、わたしそのもののように生きているなにものかだった。

それが、いつのころからか、ほとんど夢を見なくなった。今はもう70歳になったので、振り返って正確に思い出すことはできないのだが、きっかけは40歳のときの交通事故にあったことは間違いないような気がする。3か月入院して、退院してからもしばらくのあいだ松葉杖の世話になっていた。骨が飛び出したり、折れたり、割れたりしたところは徐々にそれなりの動きを取り戻していったけれども、原因がはっきりしないまま、脳が異常に疲れやすくなってしだいに鬱のような状態になっていき、慢性的な頭痛や不眠に悩まされるようになった。

入院しているときに、それまで見たことがないような怪物が夢の中によく出てきた。若い頃に、入院していた友人がやはり怪物の夢の話をしていたことがあったので、麻酔とか点滴とかの薬物が影響していたのではないかと思う。

怪物が出てくる夢は、退院したあとほとんど見なくなったのだが、代わりに、絶望的な状況に追いつめられ、絶望的な気持ちになって目が覚める夢を見ることが多くなった。

「わたしを囲んでいる山々がいつのまにか火山に変化していて、足元の地面も、いつ爆発しても不思議じゃない危険な状態になっている。どこにも逃げ道はない。まもなくわたしは噴火に飲み込まれ、わたしのすべてが終わってしまう」「コンクリートの堰の上にひとりぽつんと立っている。堰は洪水に囲まれていて、すでに足元まで水が迫り、水かさはどんどん増している。どこもかしこもそんな状態で、洪水に呑み込まれ、押し流されるのを黙って待っているしかない」「戦国の時代。もうすぐ戦さが始まろうとしていて、わたしはすでに戦いの装束に身を包んでいる。刀も手に握っている。しかしそれは絶対に勝ち目のない戦さで、必ず敗北することが分かっている。戦いに出たら、わたしは殺される。それでも、刀を放棄して逃げ出すとか、なんとか助かる道はないだろうかと考える気持ちにはならない。殺されることに向かって吸い込まれるように気持ちが集中していく」「わたしはかつて殺人を犯した人間で、長いあいだうまく逃げ延びて来たのだが、まもなく犯行が露見して逮捕される。そして死刑の判決が下される。死刑になるという絶望感よりも、わたしは殺人を犯した人間だったという事実に直面して、すべてが塗りつぶされたような気分になる。」

平穏な日常生活の中では、どんなに気持が落ち込んでも、救いの道がひとつもないという状況は多くないような気がする。自分で見つけることができなくても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるかも知れない。ものの見方を少しでも変えることができれば、息がつける空間が開けることもあるだろう。何日か絶望して、気がついたら楽になっていた、ということもある。ところがわたしの悪夢は、すべてが閉ざされている。わたしの終わりがすぐ目の前に迫っていて、なすすべがない。ひたすら落下して、絶望するためだけの夢のようなのだ。

頭が疲れているときに絶望的な夢を見るということが、何年も後になって徐々に分かってきた。原因が分からなかった頭痛や鬱などの不調も、外れたままになっている肩の肩鎖関節のせいで、脳への血行が悪くなっていたせいらしいと気がついた。血行が悪い状態で集中して頭を使うと無理がかかるようなのだ。鎖骨に沿ってメスが入っているので頭痛になりやすいです、と医師にも言われていた。

事故から30年、70歳を過ぎてしまった今は、症状のそれなりのかわし方を身につけているつもりだが、骨が外れている状態は今も変わりなくて、絶望的な夢を見ることも無くなったわけではない。そのときは、ひたすら脳を休めるよう努める。絶不調だった40代のある日に、勉強はしない、のらりくらり生きる、治ったらまた勉強する、と決めてから、少しずつではあるが頭痛や鬱などの不安から離れていけたように感じている。

絶望的な夢を見ることはしだいに減っていったのだが、なぜか、普通の夢を見ることも少なくなった。毎日のように夢を見ていた頃と比べると、夢を見なくなったといってもいいくらいに減ってしまった。それでも、ふとしたはずみでという感じで、悪夢でも絶望的な夢でもない、普通の夢を見ることがある。

ところがその夢は、以前に見ていたわたしの夢のようではない。夢のなかでわたしが連れていかれる場所がことごとく、今まで見ていた夢のなかの風景と違っている。そこが実在するどこそこの街であったり、どこそこの駅であったりという認識はできるのだが、すっかり模様替えがされてしまっていて、実在する場所を想起させる手がかりがどこにも感じられない。今まで一度も来たことがない場所のようなのだ。しかもその風景は、夢を見るたびに変化するわけではなくて、繰り返し、変わってしまった同じ場所に連れていかれる。レールが切り替えられたみたいに、新しい夢の世界にしか行けなくなっている。今まで見ていた夢に、夢という特別な世界があったとすると、わたしの新しい夢もまた新しい夢の世界を持っていて、その夢の中でわたしは、今までの夢の中のようではないわたしを生きている。そして、新しい夢のなかのわたしは、わたし自身とぴったり重なっていないように感じられる。

生まれてからずっと見つづけてきたはずの夢の世界は、わたしの実際の人生からそう遠くへは離れられず、往来が許されているというか、そこでわたしはもう一度わたし自身を生きているといえるようななにものかだった。ところが新しい夢の世界はわたしとのつながりがどこか断ち切れていて、なじみのない景色のなかで、必ずしもわたしのすべてではないと感じられるわたしが生きている。おかしな言い方だが、夢のなかでわたしの本当の現実に戻っていけなくなってしまったのだ。
わたしは変わってしまった。体も精神状態も、怪我の回復とともに元に戻っていくものとばかり思い込んでいたわたしは、戻れないなにかを抱えてしまった。そうなってしまったことを受け入れられない無意識の気持ちがあって、退院してしばらく経ってからつきまとうようになった、それまで経験した覚えのない日常的な不安の陰のようなものも、そのあたりに原因があったのかも知れない。

事故から3年ほど経った頃だったと思う。血液の問題に詳しいある人に「親からもらった設計図はもう壊れています」と言われたことがある。

肉体の一部は壊れてしまって元には戻らないが、事故の痕跡はそれなりに修復されていく。傷跡や麻痺が残り、動きに違和感を感じたり、痛みが出るときもある。それでも、体はなんとか普通に使えるようになる。もう患者ではないし、松葉づえをついたり、脚を引きづったりという、修復工事中の看板はいつのまにか外される。でも、体の内部であらたに生じた変化は、その後もずっと続くことになる。

設計図が壊れているということは、壊れた設計図によって肉体が再生されているということだろうから、変化した肉体を受け入れて、変化したわたしを生きるしかないとその人は言いたかったのかも知れない。けれども、設計図が壊れているという言葉は、わたしの耳にそのまま素直には入ってこなかった。そのときのわたしは、壊れていない、元どおりのわたしとして生きようとする気持ちが強く、受け入れるべき現実を素通りさせていたのだと思う。

傷ついても、壊れても、わたしはわたし以外のなにものでもない。傷のない、壊れていないわたしが、わたしの中に変わることなく存在していて、回復は元のような肉体に戻っていく方向で進んでいく。そんなふうにどこかで信じていた。後遺症が残ります、年をとったらがたがたになります、と医師とリハビリの先生から言われていて、傷跡が消えないことも分かっていたのだが、不調の日々だったとはいえ40代のわたしは、立ち止まったり、うつむいて暗い気持ちになるにはまだ余力があり過ぎたようだ。わたしの肉体を、どうにかして以前のわたしの肉体に重ね合わそうとしていた。

わたしが変わってしまったことに気づこうとしない。以前のわたしがすでにひとつの幻想になっていることを理解せず、新しい自分を生きようともしていない。わたしがもう、以前のわたしではないということを、夢だけがちゃんと分かっていて、繰り返し教えてくれようとしていたのかも知れない。

人生はひとつながりにはつながっていない。どこかで切れる。一度ではなく、もしかしたら、気がつかないうちに何度も切れているのかも知れない。

それにしても、新しい夢の世界はいつまで経っても、どうしてわたしに馴染んでくれようとしないのだろうか。わたしにとって、わたしの人生はたったひとつで、わたしの夢の世界もたったひとつで、ふたつの世界はつかず離れず寄り添いながら、不思議な時間を織りなして来た。新しい夢の世界は、その流れに割り込んで来て、たったひとつのはずのわたしの人生から、たったひとつのはずだった夢の世界をどこかへ追いやってしまった。物心ついてからずっと寄り添っていた夢の世界を見失ってしまったわたしは、それほど先ではないわたしの最後の日がやってきたときに、わたしの人生を最初から最後まで歩き続けたと納得することができるのだろうか。