工藤冬里
キツネを見たらTally ho! と言おうと思っていたが今日狩られているのは私達なので私は駆除されることにした駆除されたのだ
軽トラでぎょうせん飴を売りにきていたので買ったむかしは朝鮮雨と言っているのだと思って
Where to vote every defilement of flesh and spirit
#poetry #rock musician
泰山木の分厚い中生代に夏は
依存のミトコンドリアを配置する
イスラエル産のグレープフルーツは買えないな
漢方にも合わないしね
no heaven
そこにいないというのはさびしいことだ
輪廻とか進化とかグレープフルーツ大のおにぎりにして
馬鹿らしいけど私は店長
ヒジャーブから覗く愛国
1989に壁が崩壊し、そのタイミングで
矢張りというかフェンタニルのゾンビサッカーが白粉の上塗り
そしてすれ違う殆どがスマホに目を落としていてヤバいと思う
たぶんゲームしながら運転してんじゃないかな
きっと酒も飲んでる
大五郎とか
予定説に陥って恨む状態から抜け出るには振り返ることが大事だった
他者としての水戸コンドリア
すこしこらしめてやりなさい!
#poetry #rock musician
上京したのが同じ頃で、早速というか「セチュアンの善人」も観に行ったし、本屋には目の前に内臓アルトーと背骨ブレヒトがいたし、いくつかの河原テント芝居にも出入りしていたのだから、僕らはいつか三丁目で串を抜いて平等にした七寸皿で劇団喰いしていたかもしれないのだ。
演劇が音楽の上にあるというのは最早自明のことだが、そのような立場にありながら音楽を使う演劇は音楽のインスピレーションの問題を背骨に関しても内臓に関しても棚上げしてきたように思う。その間に音楽は行くところまで行ってしまい、脳内インスピレーションを解体するところまで進んだ。
そうした冷酷なコロナ後の情況下で、正義感の強い一子さんの、シャンソンでもスペクタクルでもなく(「ひとりアームジーク」とも「水牛」とも少し違う)「ソング」が今更ながら「ソング以外」を刑事告訴してみせたのが本作である。プレカリアート・コンニャク・ベルカントは終わりを迎えた中央線の身体であり、倍音を旧世界に収監されたまま、獄窓から若かった頃の自分の腐乱死体が流れていくのを見る。僕らは串を抜いたうたの腐乱死体が流れていくのを見る。
#poetry #rock musician
打ち壊しは見えないがConfuciusは見える
サラ地も口座も見えないが長者を路頭に迷わせる良心は見える
見えるのはディスプレイ、見えないのはファクトリー
裁かるゝジャンヌ、
ブレッソンが嫌ったドレイヤーの見ようとした見えないもの
エロイカをバックに騎兵が展開する
ヤツデの葉見えない大塩平八郎
見えないローザ
見える結婚
〈それは私のこと
そしてそれはこの世のこと〉
見える
その方法
カエルを上って来させることまでは彼らも出来た
#poetry #rock musician
ミルクティーあると思えばある宇宙
リベラル左派生きているのか死んでいるのか分からない
マルタ何かの役に立ちたいと小枝を拾い
正義に咬まれた
旅行記1989〜
プノンペンで眼鏡は殺され
考えることをやめた光子が
生きているのか死んでいるのか分からない箱の中で
正義を咬まれた
#poetry #rock musician