下唇の効果

 

辻 和人

 
 

下唇を突き出した
気に入らないことがある時のコミヤミヤのサイン
こかずとんはまだお昼寝中だがコミヤミヤは覚めてしまった……
観音様みたいだった頬っぺの線が硬くなってしまった

見守ってくれてるかと思いきや
ああ、かずとんパパはテーブルに座って読書に夢中
ここでウィェーンと声をあげれば
かずとんパパは慌ててこちらにやってくる
「ウィェーン、ウィェェーン、イェェーン」
ほうら、本を放り出して椅子から立ち上がった
かがんだぞ、腕を伸ばしてくる
抱っこだ、抱っこ
しかも縦抱き、お腹がパパのお腹とくっついて気持ちいいー
ところがところがかずとんハパパ
どうしても続きが読みたいらしい
お部屋をぐるぐるしてるうち
ちょっと目をつむってみたら
途端にマットに向かってそろーりそろりと下降
寝かせる気だな
そうはさせるか
下唇突き出してやる
そうら
びくっとした
目をぱちくりさせて
タテタテ抱っこし直して
またお部屋ぐるぐる思案中
おっ、宙を見上げた
なんかいいこと思いついたか

抱っこ紐を取り出して
下唇突き出てるコミヤミヤをそおっと押し込む
コミヤミヤのお腹
かずとんパパのお腹
お腹とお腹がくっついた
そのままテーブルに移動
抱っこ紐のコミヤミヤと向かいあったまま
かずとんパパは読みかけのご本を開きます
突き出した下唇、ゆるゆる引いて
静かな眉とふっくふっくした頬っぺたが復活
観音様コミヤミヤ
タテタテ抱っこ紐に包まれて
あったかい、おやすみなさい

 

 

 

変奏曲的な関係の私たち

 

村岡由梨

 
 

もう何もかもから解放されたい
誰か助けて

私がそうノートに書き殴った次の日。
ヘルパーさんが見守る中、
義母は息を引き取った。
義母の誕生日のちょうど1日前だった。
今際の際、右眼から涙をひとすじ流したという。

草多さんは仕事を切り上げ、早めに帰宅し、
野々歩さんと私は一緒に上原に駆け付けた。
まもなく医師が到着し、
義母の両眼にペンライトをあてて
死亡確認がなされたけれど、私には信じられなかった。
今にも言葉がこぼれ落ちそうな黄色く乾いた口元。
うっすらと開いた眼で私を見ているようで

こわかった。
泣けない自分が後ろめたかった。
自分の気持ちを押し殺して
偽物の優しさでオムツをかえてきた。
偽物の優しさで
大好きな炭酸飲料を気の済むまで飲ませた。

そして今、水を含んだスポンジで
黄色く乾いた口元をそっと拭う優しさ
ただそれだけの優しさが私にはなかった。
骨と皮だけになった義母。
これ以上この人の何を怖がるの。
何を求めるの。何を責めようというの。

ふと、「人は亡くなった後1時間くらい聴力が残るらしい」
という流説を思い出して義母の枕元に座った。
ありがとうございました。と言うべきか。
ごめんなさい。と言うべきか。
義母の顔を見ていた。
やっぱり野々歩さんによく似ている。
自分の愛する人と風貌がそっくりな「この人」と
最後まで分かりあうことができなかったのは、なぜだろう。

野々歩さんのお父さんお母さんが亡くなって、
次は、野々歩さんと私の番だ。
私があの世へ行ってあなたに出くわしたら、
「あんたのことが大嫌いだった!」
「あんたが何と言おうと、野々歩さんは私のものなんだから!」
そう言って、横っ面を思い切り引っ叩かせてください。

憤慨したあなたはきっとこう言うでしょう。
「私だってアンタみたいな根暗、大嫌いよ!」
「私には志郎康さんがいるんだからね!このバカ女 !」     
そして、思い切り私を引っ叩き返すでしょう。
その後、気の済むまで引っ叩き合いしたら
一緒に大笑いしましょうよ。
野々歩さんも、志郎康さんも、
そんな私たちを見て、お腹が捩れるくらい笑うでしょう。

今頃、天国で笑顔のまりさんと志郎康さんは
ダンスでもしているんだろうな。
二人は、永遠に詩の中にいて
詩集を開けばいつでも笑顔を見せてくれるはず。

そういえば今日、空を見上げたら、雲ひとつない晴天だった。
野々歩さんを産んでくれて、ありがとうございました。

 

 

 

 

廿楽順治

 
 

最期になって
どうやらわたしはまた勤めに行くらしい

昨夜からの雨が
(つづいていて)

ひとびとは首を低くしながら
眠りを急いでいる

夜は何度わたりましたか
(正確に言ってみましょう)

そこでは大きな戦争のようなものが
ありましたか

最期の職場なのに
またおつりをまちがえている

ああ やっぱり
だいじな朝なのにあわないのだ

大きな戦争のようなものが
空で
あったから