廿楽順治
さとう三千魚さんから頂いたテーマは「老いて、詩を生きるということ」でした。あまり深く考えずにこのテーマで話をすることを承諾してしまいましたが、あらためて考えると、かなりいい加減な約束をしてしまったことに気づきました。
わたしはこのテーマ、つまり「老いて、詩を生きるということ」という言葉のひとつひとつについて、実際は何もまともに考えてきませんでした。どの言葉も自明のこととして、適当に使っていたことに、今さらながら気づきました。
「老い」とは
たとえば「老いて」という言葉。「老い」の現象についてはむろん知っています。自分は六四歳ですが、これは明らかに「老い」の範疇に入ります。でも、「老い」ということをまともに考えたことはあまりありませんでした。筋力が衰える、かつてできたことができなくなる、怒りっぽくなる、記憶があいまいになる、情熱がなくなる、そういったことについてはもちろん実感しています。しかし、それが「老い」ということでしょうか。老いに関する社会問題といわれるものも、自分にはだんだん身近になってきました。そうしたことについても、つまり「老後」という言葉についても、ふいに思い至ることもありますが、それでもどこかでまだ図々しくも三〇代後半くらいのつもりでいる気がします。
「老い」は時代で変わる?
昔の作家に源氏鶏太という人がいますが、この源氏鶏太の『定年退職』という小説を読むと、当時の定年年齢である五五歳の老年の暮らしが今とはかなり違うことがわかります。この小説は一九六二年から六三年にかけて朝日新聞で連載されました。小説の冒頭で、五五歳の定年を迎える主人公の同僚の血圧が少し高いという会話が出てきます。その同僚の少し高い血圧が上は一七〇、下が九八となっています。現在の基準で考えると、高齢者の数値としては確かにありえますが、五五歳という年齢を考えると、違和感があります。今なら、まだ若いのに高い、健康に注意しなさいと言われるところです。「老い」というのは一見普遍的な自然現象のようにも思えますが、時代や社会によってそのイメージが違ってくるんだろうと思います。
そういうわけでどうもこの「老い」という言葉の意味があらためて考えるとよくわかりません。いったい生物はみな本当に「老い」るのでしょうか。最近売れているようですが、小林武彦と言う人の『なぜヒトだけが老いるのか』という新書(講談社現代新書・二〇二三年)があります。これによると、動物で老後があるのはヒトの他はシャチとゴンドウクジラぐらいらしいです。たいていの動物は子孫を残せなくなると、パタッと死ぬ。だとすると、動物には普通、「老い」はない、ということになります。
もちろんここでは「老い」を動物の生態や「人類」という文脈で考えるつもりはありません。今日のテーマにあるように、あくまでも「老い」が詩にどう関わるのか、が問題になります。そうすると、「老い」は詩においてどういう現象となるのか、ということになります。一般的には「老い」は「衰え」と同じものとみなされるので、詩においては、詩の力の衰退というように解釈されると思います。若いときは記憶力と豊富な語彙を駆使し、とめどもなく連想に連想を重ね、饒舌に、かつ多量に言葉を生産する。それが生産力の衰えとともに寡黙になり、語彙は貧しくなり、素直になってくる。
「老い」のイメージ
もちろんこれは単純な図式です。実際の詩人の作品の変遷をみると、必ずしも「若さ」から「老い」へという単線的な図式は詩の指標として役に立たないのではないか、という思いが強くなります。近代以降の自由詩には、「若さ」に重きを置く、というバイアスがあって、そのために「老い」の詩を見えにくくしているのではないか、と考えています。これは個人的な印象なので、文学史的には違う、という見方があるかもしれません。しかし、通俗的なイメージの中では、自由詩は夭折者のもの、ということがずっと続いているのではないでしょうか。現代の自由詩は早い死を、象徴的な最高の価値としているように思えます。このバイアスがあまりに強いために、実際に詩を読むときに、人は詩人の本質的な年齢を無意識に基準にしているような気がします。若いのに力を感じさせないものは負である。逆に高齢なのに若々しい力があるものは正である、というように。ここでは実際の年齢は問題ではありません。年齢にもかかわらず、その「若さ」の含量が問題になっています。「現代詩」はある意味で若者の風俗現象なのではないかと思います。先日思潮社の小田久郎社長が亡くなった際、新聞では「谷川俊太郎さんや大岡信さんらを登用して、戦後の現代詩ブームを生んだ」と報道されていましたが、そのブームの当事者は「若者」のものであったろうと思います。
「老い」対「若さ」
もちろんこれは詩の世界だけの話ではありません
。ある時期から、「若さ」ということの価値が上昇してきたわけです。これがいったいいつからなのか、わたしによくわかりません。三浦雅士は『青春の終焉』というとても面白い評論で、文学の中の青春や青年の誕生を描いています。それによると、青年という括りの誕生は馬琴の『南総里見八犬伝』辺りまで遡るようです。その後、明治に「青春」という言葉が流行します。三浦雅士はさらに一九三〇年代と一九六〇年代の「青春」の類似性についても言及しています。要するに、「若さ」とか「青春」というのは近代にともなって普及した流行現象ということになるので、これをあまり普遍の原理とするわけにはいきません。
歴史学や民俗学などの研究をみれば、おそらく現在の「若さ」の様相はかなり相対化されるのではないかと思います。それは「老い」についても同様だと思います。「老い」はかつてのような価値としては、相等減衰しているのではないかと思います。さらに、「老い」の多様化ということは、同時に「若さ」の多様化とも連動しています。両者ともに、かつてのような対立図式のなかで自らの地位に安住できなくなってしまったように思えます。
詩の業界の「若さ」
しかし相変わらず他のジャンルと同じように、現代詩の世界は現在、「新しい」「若い」詩を発掘しようとしています。そのためにいくつもの賞や投稿の場所が設けられ、詩の更新が目指されます。これはひとつには出版業において、商品サイクルが求められていることに対応しています。ただ、詩が商品となった歴史はそれほど古くはない。小説は昭和初期の円本ブームによって、職業としての作家を生み出したようですが、詩人は残念ながら今に至るまで生業としては成立していません。職業の模倣として一部の出版社に支えられながら、「詩人」と呼ばれる人たちは自意識と社会上の公認の間を揺れながら存続しています。荒川洋治は一時「詩作家」と言っていたと思いますが、これは無理があります。
近代の文学史が出版事業と一対であることを考えるならば、「詩人」はこのあいまいな地位のなかで、文学史の更新と商品の新しさを期待されて、「若さ」という価値を負わせられている、ということになります。でも、これはそれほど根拠のあることなのでしょうか。
個人的な印象では、現代詩の「若さ」志向は、いわゆる「段階の世代」にも起因しているように思えます。学生運動が詩にもたらした影響はとても大きいと思います。また、その前史として「荒地派」の詩の動きがあります。『荒地』に掲載された有名な北村太郎の議論がありますが、そこでは先行世代の詩人が、戦中の状況を回想して詩の空白があったとした発言に、鋭い批判を突きつけています。戦争責任論については同じ「荒地」の同人で、吉本隆明が高村光太郎をやり玉にあげていますが、こうした若い世代が先行世代を突き上げる構図は、七〇年代くらいまでは続いていたように思えます。
しかし多数の若者が少数の老齢者に対峙するという、これまでの世代闘争のイメージは、現在ではかなり怪しくなってきています。この物語の背景にあった老若の人口比の逆転の問題が、周知のように近年では大きく前面に出てきているからです。ちょっと乱暴に言ってしまえば、六〇年代七〇年代の老若の図式は、単に若者の数が多かったために成立した物語ではなかったか、ということです。
「若さ」の風俗と詩
一九六八年に小松左京が発表した短編に「せまりくる足音」という近未来物のSF小説があります。これは一〇代や二〇代の若者が世界を支配し、高齢者を殺していくという近未来世界の話です。主人公は七八歳ですが、朝、生き残った老人向けのラジオで若者用語の情報を勉強して、若作りをして町へ出かけます。若者は日々言葉を短縮して感覚的に使うので、この流行に乗り遅れると、高齢者として発見されてしまうわけです。そこで、あらかじめラジオで若者の流行語を勉強して、若者がたむろする場所に出かけます。ところがそこに「詩人」があらわれて、事態が変わってしまい、結局彼は高齢者であることが発覚してしまいます。主人公が「詩人」と遭遇する場面はこんなふうに描かれています。
「なんなしーー意味なし」〝詩人″は手をおよがせていう。
「ワイワイコンマ、ワイコンマ……」
「から?」と娘はきく。
「それから……」〝詩人″は首をふる。「先、まだできてない」
「ワイワイコンマ、チューライカ……」
彼はつづける。どうせでたらめで、それでいいのだ.
「ワッ!」〝詩人″は奇声をあげる。「ヤック! イェック! ヨック!ーーヤッホウ! 君、すげ!ーー詩人!」
小説の中にはビックリマークが多用されていますが、もしかするとこれはその後一九七〇年に発行された吉増剛造の『黄金詩篇』あたりを予感しているのかもしれません。そういえば、このビックリマークは吉増が論じた明治の青年・北村透谷の詩篇にも出てくる記号です。この小説は、六八年当時の若者の現代詩を外野からみた印象なのかもしれません。
しかし、小松左京の物語の主人公を脅かした「詩人」は、現実のものとなっていません。というのも、未来を担う青少年の数が減少し、「迫りくる足音」としてははなはだ心許ない状況になっているからです。人口減少が進む現在では、かつての物語が崩壊しているように思えます。むしろ、今の「若い」世代は、多数者の高齢世代の下でマイノリティになっているような気がします。
「修辞的現在」と「若さ」対「老い」の図式
これはわたしの個人的な印象ですが、今の二〇代、三〇代の詩人には、六〇年代七〇年代の詩に対する憧れのようなものがある気がします。主体がない自分たちに対して、あの時代は主体があった、というようなイメージを持っているのでは、と思っています。
これはわたしもよくわかります。わたしが現代詩に接し始めた七〇年代の終わり頃、かなり多様な詩のスタイルが書かれていました。難解な詩もあれば、分かりやすい詩もあり、そのいずれにも古典と言っていいくらいの名作がありました。そうした詩には、戦後という時代や学生運動など、その世代を象徴するような社会的な出来事が背景にありましたが、一方でわたしたちの世代は、三無主義などと言われて、そのようなものは何もない世代と見られていました。この無の気分というのは、現在の若い世代でもどこかで継続されているように思えます。そういう視野からみると、先行世代の詩人たちの世界はすごくまぶしいわけです。
かつて吉本隆明の「修辞的現在」という文章が大きな反響を及ぼしました。現在では詩は修辞上の差異になってしまった、というような内容の議論でした。かなりインパクトのある状況把握で、北川透はこの議論を受けて、しかしわれわれはこの微細は差異に賭けていくしかない、というようなことを言っていました。戦後の社会や現実、思想との対峙によって誕生した「現代詩」の後で、われわれはもう消化試合のようなものを課せられているだけなのだ、という感覚を持ったことを覚えています。
でも今の若い世代は特にそういうことに敏感ではないと思いますし、そういう議論があったこともあまり知らないのではないかと思います。ただ、かつて現代詩が生き生きとしていた時代があった、ということは漠然と感じているのではないでしょうか。それに反して、わたしたちの現状はそうではない、という感覚はあると思います。
というわけで、現在ではかつてと違い「若さ」ということ、「老い」ということの多様化した様相が露骨になり、いかにもありそうなかつての「若さ」や「老い」というものが、書割の松のように嘘くさいものになってきています。もちろん、この嘘くささは今にはじまったものではなく、中世だろうと近代だろうと、本当はあったものだろうと思います。しかし今では、「若さ」対「老い」という「大きな物語」が崩壊してきたために、これまで見えにくかったリアルな多様性の様相が浮上してきた、ということではないでしょうか。
現代詩はそういった状況のなかで、「若さ」とか「老い」のきわめてリアルな様相に対応せざるを得なくなってきた、といえるかもしれません。もはやかつてのように「若さ」の詩、「老い」の詩を書くことは難しいだろうと思います。少なくとも、現在のリアルな詩を書こうとする場合、従来の「若さ」や「老い」では、どうにも芝居がかったものに見えてしまう、つまり「クサイ」わけです。しかし、「若さ」の現代詩は風俗としてのそれなりの蓄積があるので、多少「クサイ」ものでもやっていけます。
それに反して、「老い」の「現代詩」はそれほど確立されているようには見えません。わたしが「老い」の詩というのは、単に高齢者問題を素材にしたものではなく、現代詩を縛っているようにみえる「若さ」、それを価値に据えない詩のありかたのことです。
前置きが少し長くなりましたので、それではそろそろこの辺で、実際の詩を読んでいきたいと思います。
天野忠とずれ
今では「クサイ」ようにみえてしまう老いの詩を一つあげてみます。天野忠です。老年の詩というと、この詩人を連想する人は多いのではないかと思います。編集工房ノアの『続天野忠詩集』の一番最後に掲載してある詩を読んでみます。
オヤ
古い友人たちが傍へ来て
オヤ、君はまだ……
そんな顔をして
フッと消えることがある。
なにぶん
彼らは死者なので多くは云わない。
生きている他人は
そんな顔をしない。
しても丁寧なことばでくるむ。
「オヤ、ずいぶんお元気の様子で……」
おかげさまで、ヘイ、と私は頭を下げる。七十五歳。
自分の寂しい闇の中で
まあだだよ、と舌を出す。
個人的にはよい詩だと思っています。でも、今七五歳でこのような詩を書いても、天野忠よりも説得力は劣ってしまう気がします。現役バリバリの七五歳には、この詩のように古い友人の死者がやってきても、気づかないかもしれません。一方、重大な持病のある七五歳の人には、この詩はとてもよくわかるものだと思います。そういうわけで、今では七五歳ということで、簡単に老年の多様性を一括りにできません。
天野自身はどうだったでしょうか。「まあだだよ、と舌を出す」と最後に言っているところをみると、死者を少しからかっているようにも見えます。「老い」の図式を使ってちょっと遊んでいる、というようにも見えます。これはもちろん若い詩人には簡単に書けません。ただし、もしこれが人々が死に囲まれていた戦争中だったら違ってきます。いずれにしても、現在このような詩を若い人が書いた場合、嘘の詩ということになることは間違いありません。でも、それはそれで仮構の語り手を立てた詩として成立することはありえます。
少し意地悪い言い方をすると、天野忠は「老い」の語り手を演じているとみることもできます。天野の詩の語りは、素朴で正直、というイメージを持たれやすいと思いますが、私個人としてはちょっと疑っています。天野は若い頃、当時のモダニズム風の詩を書いていましたし、また一九六六年の五七歳の時には『動物園の珍しい動物』という虚構性の強い詩集を出しています。この詩集に収められた詩編は、「クラスト氏」という外国人の詩である、という前提になっていました。もちろんそこに書かれている詩は天野のものなので、天野とまったく無縁のはずはありませんし、天野の詩だといっても少しもおかしくありません。でも、詩のありようとしては、それは天野自身から少し離れたものとして提示されています。
今読んだ詩にも、自分から少し離れた詩のありよう、というのがどこかでベースになっているのではないか、と私は感じます。わざわざ「七五歳」と自分の年齢を詩に書き入れているあたりが怪しい。ここでの語りは「七五歳」のものだよ、と読み手に宣言しているわけです。それは逆にいえば、詩の語りはそれが宣言されていないと、年齢を無視して読まれてしまうかもしれない、ということです。
この宣言は、詩の上で自分を客体化していますが、自分を対象化することによって、詩は天野自身から少しずれていってしまいます。自分が自分を対象化するということは、自分が二重になることです。自分に対して、おまえは七五歳だと規定するもう一方の自分を産み出すことです。それによって、自分の中に差異を持ち込むことになります。
天野の特徴としてあげられるユーモアは、この、自分や対象から少し離れた視点をもつ、ということで生み出されている気がします。そもそもユーモアや笑いといったものは、対象にピタっと一致した真面目さに対して、ちょっとずれてしまうところにあります。
私の個人的な見方では、天野は「老い」の語り手を仮構しながら、「老い」自体にずれを持ち込んでいる。このずれがユーモアに連動している、ということになります。
粕谷栄市と迷宮
このずれた「老い」をもっと突き詰めた詩を読んでみたいと思います。粕谷栄市の「晩年」という詩です。これは『楽園』という最近の詩集に収められています。
晩年
若し、私が、八十歳を幾つか越した老人だったら、私
は、ある大きな港町に住んでいる。路地裏の古い一軒家
で、独り暮らしをしている。
若い頃から、倹約して貯めた金が少しはあるから、ま
あどうにか生きてはいられる。何もできないし、するこ
ともないから、相変わらず、古い服を着て、貧しい食事
をして、つましい日々をやり過ごしている。
そんな私にも楽しみはあって、それは、自分の住むこ
の町を、気ままに歩きまわることだ。もちろん、杖をつ
いて、やっと、覚束ない足を運んでいる始末だから、そ
んなに遠くには行けないはずだ。
が、それにしては、いろいろな場所で、思いがけない
出来事に出会うことが多い。ただ、年寄りの悲しさで、
一晩、過ぎると、その一切を忘れてしまっている。
誰にも、それを伝えられないのだ。たとえば、今日は、
埠頭に近い橋の上で、大勢の女たちに、丸裸にされ、足
蹴にされたあげく、汚い河に投げ込まれた。
ずいぶんと、ひどい目に遭ったのだ。だが、明日にな
れば、自分は、それも憶えていないに違いない。
たぶん、私が、八十歳を幾つか越した老人であること
も、あやふやだからだろう。かりに、そうだとしても、
足の弱い私が、坂の多いことで知られるその港町で、独
り暮らしをすることができるものだろうか。
全ては、私が耄碌して、本当のことが分からなくなっ
ているということなのだ。実は、私こそ八十幾つかのそ
の老人かもしれない。思えば、悲しい事実である。
いや、そうとばかりとはいえない。むしろ、その逆だ。
私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。
今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
る。深夜、満天の星の下のその港町では、家々のどの窓
にも、花のように、優しい灯がともっている。
*粕谷栄市 当年八十二歳
天野忠の二重化した語り手の「私」がここではさらに極限化されています。粕谷栄市の詩の愛読者であれば、語り手の「私」が夢の中の「私」、もうひとりの「私」について語る、というのはお馴染みのことです。ところが、このお馴染みの手法に、なぜかいつも読み手は魅せられてしまうわけです。
岩佐なをと「老い」のパロディ
この詩を含む詩集『楽園』は、昨年の現代詩人会の「現代詩人賞」を受賞しました。わたしはこの選考に参加したのですが、実は選考会の席上、この詩集と最後まで争った詩集がありました。岩佐なをさんの『たんぽぽ』です。この詩集も「老い」の詩です。もちろん悲哀がベースにあると思うのですが、にもかかわらず「老い」で遊んでいる、そういう印象が強くありました。粕谷栄市と同様、天野の詩をさらに先まで進めているわけです。でも、ちょっとあの世とこの世を簡単に往来しすぎているのではないか、という意見もあって、賞の方は最終的には粕谷栄市に決まりました。
岩佐さんの詩集『たんぽぽ』の中から詩をひとつ読んでみます。
責任
いとをかしの
暮れ方だった
かれこれ昭和も枯れて
外では行く手の景色もすけすけの頃
黒電話が
どすをきかせて鳴った
重いジュワッキをとると
耳を当てるところから声がした
あなたのお骨が出ましたから責任もって
引き取りに来てください。という
やるせない気分さ。
昔そこは一軒家の喫茶店だった、という
とり壊されて掘りおこされて
私が出た
部分的であったから極端に
責任を感じることもなかった
いい加減なサテンのあるじは自称詩人で
店自慢のブレンドコーヒーは
インスタントだった、という
少しは責任を感じろよ。
と読者諸氏は思われるかもしれない
ほら
また秋の暮だ
言葉はなにを肴に付け合わせて
雰囲気やこころもちを供するべきか
ここから先は長い夜
想い出にふけるにはもってこいだ
つらかったなぁ。
あの頃の心の日照り
骨の出たあたりは駐車場になるそうで
ほら
かなたの青山もゆるりと隠れた
夜の帳が下りてきたなら
利き手でひょいとかるく持ち上げて
くぐれば
弔い酒にちがいない
粕谷栄市の詩は、実を言うと私は少しふざけているのではないかと思うのですが、岩佐さんの場合はかなり確信犯です。近代の詩、もう少し大きく括れば近代の文学は、たいていは真面目ですが、そういう視点でみると岩佐なをの詩は、大げさにいうと近代に戦いを仕掛けているようにさえ見えます。「ジュワッキ」という言葉は、これはウルトラマンの声の「シュワッチ」のだじゃれだと思うのですが、そうした物言いが、突如出てくる。自由詩なんだから何をやってもかまわない、という感じです。しかも「死」を「いとをかし」の出来事として語っています。語り手はここでは幽霊ですが、どうやら「生」に対して責任を取ろうとしていません。このふざけ方は、見ようによっては天野忠のようなイメージとしての老人像を反転させ、さらにその先をパロディ的に描いたように受け取れます。
この二人の詩集をみると、現在では天野忠が描いたような「老人」の風景が、はたして詩としてどこまで耐えられるだろうか、という思いを強くします。
粕谷栄市の詩は、かつての老人のイメージを迷宮化して、別の世界を展開していますが、私を含め世の中の老人がみんなそのような世界を創り出せるわけではありません。かといって現在、天野忠のような「好々爺」風の演技をすることも難しい。では、現実の「老い」に見合ったようなものはないのか、ということになります。
そこで、天野忠や粕谷栄市、岩佐なをとは違うタイプの「老い」の詩人について、少し考えてみました。粕谷栄市や岩佐なをは読んですぐに分かるように、虚構性が強く、語りにメタレベルが仕掛けられています。そういう点では、通常私たちが考える一人称の「抒情詩」とは違います。
「老い」の一人称
だったらということで、一人称で詩を語る、というタイプで「老い」の詩人を考えてみました。もちろん現在の「老い」に見合う詩人、ということになりますので、単に典型的な「老い」を素材にした詩は対象外です。問題なのは、まさに「老いて」「詩を書く」ということを体現している詩人、ということになります。
当然、高齢で書いている詩人です。しかもその「詩を書くこと」の基準に「若さ」がない、ということが肝心です。といっても詩の「若さ」の定義自体があいまいなので、とても難しいところですが、ここでは私の独断でそうした「老い」の詩人を想定させてもらいました。対象はたくさんいますが、私がとりあえず選んだのは、「若さ」にありがちな未来への展望がなく、記憶と分かちがたくつながった「現在」しか語らないような詩人です。こういう詩人は、「老い」で遊ぶような視野はありません。粕谷栄市との違いで言えば、語り手自らを対象化するようなことがあまりない。なので、詩を語る「私」は詩のなかで基本的に二重化することがありません。
岡崎清一郎と破天荒
私がそこでまず思い浮かべたのは、少し前の人ですが、岡崎清一郎という詩人です。この人の詩を初めて読んだのは、たぶん高校生の頃だと思います。当時定期購読していた『現代詩手帖』で読みました。変な詩だなあ、というのが第一印象でした。この人は一九〇〇年、明治三三年の生まれです。亡くなったのは一九八六年で、私が二〇代半ばの頃、ということになります。ネットで経歴をみると、白秋に才能を見込まれたようです。村野四郎の詩誌『旗魚』にも参加しています。足利出身で地元の佐野中学、現在は高校のようですが、そこを中退して、太平洋洋画研究所に通っていた、とあります。岡崎の詩は、少し古いアンソロジーをみると大抵掲載されていますが、それだけではどうも作風が想像しにくいです。沖積舎から『岡崎清一郎全詩集』が出版されていますが、これは全五巻ありまして、とにかく饒舌で多作な人ですので、数編読んだくらいでは全体像がよくわかりません。かくいう私もまだ全詩篇を通読していません。今日紹介するのは、岡崎の最後の詩集『恋歌』ですが、これは現在国立国会図書館のデジタルライブラリーに会員登録すれば、パソコンやタブレットの画面で読むことができます。岡崎が七四歳の時に作られた詩集です。私の紹介ではおそらく岡崎の詩がどういうものなのか、全体がよく分からないと思いますので、もし興味があればぜび読んでみてください。
詩集『恋歌』から一篇読んでみます。「死」という詩です。この詩は詩集を代表するものというわけではなく、私が適当に選んだものです。適当というのは言い過ぎですが、詩集の中で比較的短めで朗読しやすい、ということと、今日の話のテーマである「老い」に関係しているという点で選びました。とにかく岡崎清一郎の詩は破天荒なので、どう選んだものか、自分でも途方に暮れてしまいます。では、読んでみます。
死
私は死んでしまいたい。
これとおもう場所がみわたらない。
なんであの叫びを発したか。
石は空からおちる。
どういう方法でからすむぎをかるか。
私を追いぬいていくひとがある。
異常な執念はどこから来たか。
石には凸物と凹物とがある。
場所をかえて本を開いて読む。
頭上に大きな花がゆれておる。
幽暗な影をつくり妖しくうつくしく
まもりの天使のようだ。
私の言葉はどもる。
むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい。
宗教は狂気の兆象(シルシ)。
相好をくずして笑ッてる者もある。
私はいそぎたい。
私はわからないん。
あべこべのまわりあわせはたえがたく
なげきは放恣にいつものようだ。
私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ。
私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。
伽藍のなかは地獄でありおしつぶされて狂気になる。
あたりはうッそうとしたレモン樹。
私はこれと思う場所がみわたらない。
私を誘拐してくれい。餌食にも。
私に麻痺を錯覚をひどいことをする鬼神を。
動悸うつ薔薇の動因をおおデモンを。
いやいや立ッたままの姿勢でこの奇妙なたえがたい硫黄のながれを。
そなたよ ともしびの下で読んでくだされい。
冒頭二行目に「みわたらない」とありますが、これは誤字でしょうか。でも、後半にも同じ語が繰り返されていますので、明らかに確信犯です。口語では「あ」が「わ」という音になることはありますが、話し言葉をそのまま写したのでしょうか。「わからないん」という言葉も出てきます。この末尾の「ん」というのは他の詩にも度々出てくるので、もしかすると方言かもしれません。足利弁というのがあるようで、先日ネットで足利弁の紹介サイトを見つけましたが、ただ、この語尾の「ん」のことはありませんでした。
もちろん、わたしは岡崎のこの文を方言かどうか判定したいわけではありません。岡崎は相当な読書家のようで、詩には多くの正式な書き言葉の語彙が出てきます。そうした難しい語と口語が自由に交差するのが岡崎の詩です。先ほど破天荒といったのはこういう語彙レベルでの混交のことも指しています。わたしたちは教育のなかで、文の表記などを統一することを教えられています。正規の文というのは、ブレのない表記と用語が前提です。そういう点では、岡崎の文は正規のものではありません。
ところで、試しにこの詩についてMicrosoftのCo-pilotという生成AIに鑑賞文を書かせてみました。生成AIは何かを考えるようなプログラムではなく、膨大なネット上のデータを参照して、確率的に文を生成させるもののようです。考えるのではなく、力業で自然文の模倣をするわけです。ですから、次の文はネットにある膨大な文の集合知が割り出した平均的な解答ということになります。読んでみます。
この詩は、非常に深い絶望感と混乱を描写しています。詩のタイトルである「死」は、そのテーマを象徴しています。以下は、この詩の鑑賞と解説です。
【詩のテーマ】
詩全体を通して、作者は自らの存在や感情に対する困惑と絶望を表現しています。「私は死んでしまいたい」という冒頭の一文から、強い死への願望が示されています。この絶望感は、作者が人生において満たされない何かを感じていることを暗示しています。
【イメージと象徴】
詩中のイメージや象徴は、読者に強烈な感覚を与えます。「石は空からおちる」というフレーズは、無秩序や突発的な出来事を示し、作者の混乱を反映しています。また、「大きな花がゆれておる」や「レモン樹」といった自然のイメージは、対照的に美しさと不安定さを同時に表しています。
【感情の表現】
作者は感情を直接的かつ強烈に表現しています。「むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい」や「宗教は狂気の兆象」といったフレーズは、内なる不安や狂気に対する恐れを描写しています。また、「私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ」といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています。
【結末】
詩の終わりに近づくにつれて、作者の絶望感はますます強くなり、「私を誘拐してくれい。餌食にも。」という一文で頂点に達します。このフレーズは、作者が自らの存在を否定し、他者に自分を委ねたいという強い願望を示しています。
この詩は、その強烈な感情と深い絶望感を通じて、読者に強い印象を残します。詩を通じて、作者が抱える内なる葛藤と苦悩を感じることができ、共感を呼び起こすと同時に、人生の深い問いかけを投げかけています。
どうでしょうか。なかなかよい鑑賞文ではないかと思います。これを少し書き直して学校のレポートに出したら、先生が見破るのはかなり難しい気がします。
ただ、これにはわたしが先ほど触れたような表記のブレなどはいっさい出てきません。あくまで意味やイメージの観点だけから文を生成させています。最後に「人生の深い問いかけを投げかけています」とありますが、こういうコメントはどの詩にも当てはまるものなので、言ってみれば鑑賞文にとっては万能の言葉です。その他にも、一見岡崎の言葉にそって解釈したような文がでてきますが、それらはよく考えてみると、他の作品でも通用するような言い回しとなっています。要するにこれが一般的な詩の鑑賞文の書き方における平均値ということになるわけです。しかし、これでは岡崎が自由に語るその姿は見えてきません。わたしは岡崎の詩から違和感を感じますが、それは意味やイメージには還元できないようなものです。もちろん、それを表記の問題だけに還元することもできません。
ちなみに、先日ネット上で、静岡県教育委員会が作成した「生成AIを利用するに当たって」という生徒向けの文書を見つけました。この文書には生成AIの適切でない使い方として、「詩や俳句の創作、音楽・美術等の表現・鑑賞など感性や創造性などが必要な場面において生成AIを安易に使い、そのまま利用する」という例が出ていまして、「感性や創造性などが必要な場面」というところが赤字になっています。でも、生徒自身の感性や創造性で、同様の鑑賞になった場合はどうするのでしょうか。わたしたちの「感性」や「創造性」と言われているものは果たして一様に個人の独特のものに基づいたものなのかどうか。それらは案外周囲に教育されたり、影響されたりするものだろうと思います。むしろ無条件に「感性」や「創造性」という観念的な用語を使ってしまう言い方に、わたしは生成AI風なものを感じてしまいます。おそらく生成AIは、みずからを利用する際の注意書きを、この文のように生成するのではないでしょうか。
それはともかくとして、生成AIは、「『私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ』といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています」と言っています。それはその通りなのですが、次の行で岡崎は「私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。」と書いています。これが「いいともかまわない」という言い方であれば、ネット上によくある詩と同じような印象を受けると思いますが、岡崎は「いいともかまいません」と少しおどけたような言い方を続けています。
この辺の文の乱れ方が岡崎の自由なところで、言い換えれば、確率や統計からみて割り出せないものではないかという気がします。現代詩では、こういう混乱を最初から目的として書かれる場合がありますが、これはこれで単調になりがちです。先ほど挙げた小松左京の小説に出てくる詩人の言葉を思えば分かると思いますが、そこではあえてでたらめ、正規の文にならないもの、それだけを志向しています。その志向は露骨です。そのために読み手にはその方法、法則が見えてしまう。そうなると、たちまち退屈になってしまいます。岡崎の場合は、どうもそれとは違う。文字通り恣意的なのです。しかし、作品としては大きな不調和を感じさせることなく、完成しています。ここには長年詩作を続けてきた岡崎の動物的なカン、といったものが働いているのかもしれません。
抒情を、「今」「ここで」「私が」「語る」ものとして考えると、岡崎の詩はもちろん抒情詩です。今、ここで、思いついたことを語っている。これらの複数の要素を統一しているのは、詩の上に現われる「岡崎清一郎」という人格です。俳句には「俳人格」ということを言う俳人がいるようですが、詩にも「詩人格」というのがありそうです。少しくらい表記や文が混乱していても、その「詩人格」自体は乱れない。詩を初めて書く人の詩が不自然に見えてしまうのは、まだこの「詩人格」がテクスト上で自分のものとなっていないからです。
この「詩人格」は、そう簡単には現象しません。スタイルとか個性とか言われるものはこの「詩人格」に由来していると思いますが、それが確保されるためには、試行錯誤と一定の経験や、訓練が必要になるように思います。「老い」はたぶんこういうところに関係してくるのではないでしょうか。「老い」の様相は多様ですが、しかしどの様相もそれが経験の集積や行為の繰り返しの結果であることに間違いはありません。そういう意味では、詩の「老い」はこの「詩人格」の形成と不可分だろうと思います。「詩人格」はいわゆる「ハビトゥス」の一種です。「ハビトゥス」は、「態度、外観、装い、様子、性質、習慣などを意味するラテン語」と『ブリタニカ国際大百科事典』にはありますが、この「ハビトゥス」が年齢を重ねてある水準に達すると、日本風に言えば、達人とか名人の境地になるのではないでしょうか。ここまでくると、他の詩人との比較はもうあまり意味を成さないわけです。先ほどの粕谷栄市詩集が現代詩人賞を取った際の選評で、わたしはこれはもう「粕谷栄市」というジャンルではないかというようなことを書きました。同じことは岡崎清一郎にも言えます。あるいはそれは草野心平でも同じかもしれませんし、他にもそういう言い方に値する詩人は数多くいます。
もちろん若い詩人にも個性的な人は多くいますが、しかしそれはどこかで「現代詩」というジャンルに色目を使っているようなところがあります。というか、ほとんどの人はこの「現代詩」、あるいはただの「詩」でもいいですが、そういう何か目に見えないけれども、どこかにありそうなプロトタイプ、あるいはそのプロトタイプの否定ということに縛られている。若い世代の詩人はあまり戦後以降の詩を知らない、という話も聞きますが、それにしても教科書や音楽、ドラマなどから知らないうちに植え込まれた現代の「詩」のイメージは持っているだろうと思います。しかし岡崎の場合、どうもわたしたちより自分勝手なんです。これは小松左京がイメージしたようなSFの詩人とは、似ているようで本質的に違う気がします。
岡崎は萩原朔太郎と同時代の人といってもいいと思いますが、そういう時代的なことを考えると、彼にとっては口語自由詩というもの自体が、わたしたちのようにまだ自明のものではなかった可能性があります。口語的な言い方、あるいはこなれた言文一致体の様相で、「私」のことを語る改行形式の文、というのは日本ではそれほど長い歴史を持っているわけではない、ということをわたしたちはつい忘れがちです。
西脇順三郎と語りの器
では次に岡崎同様、自分勝手な詩人をもうひとり挙げたいと思います。西脇順三郎です。紹介するまでもない有名詩人ですが、西脇は岡崎の六歳年上で、一八九四年、明治二七年生まれです。岡崎と同じように画家を目指していたようです。西脇もまた膨大な詩を書いています。西脇の詩で教科書に出てくるのは「(覆された宝石)のやうな朝」という冒頭で有名な「天気」とか、「雨」という短い詩だと思いますが、後記のものは一篇がかなり長く、饒舌な詩が多いです。最後の詩集は『人類』というものですが、考えようによってはかなり人を食った題名です。栞に書かれている吉岡実の文章によると、最初のタイトルは『人間』だったようです。この詩集は本文が二九五頁、詩は六六篇もある分厚い詩集です。ここから一篇を選ぶのは、岡崎の場合と同様、なかなか難しい。
どの詩も西脇の西洋文学の教養と、西脇本人の記憶や経験が入り混じっていて、しかも人名の読み方を故意に変えたり、カタカナ表記にしたりするなどの遊びに満ちています。この詩集では、「荒地」の詩人・木原孝一のことを「ボクゲン」とカタカナ表記にしています。晩年の西脇は中国の古典を研究していたようなのでその影響だとは思いますが、そのことを全く詩のなかでは説明されていませんので、初読では「ボクゲン」とは何のことか分かりません。それ以外にも日本語をカタカナで表記しますので、一見すると外国語のようにも見えてしまうような、おどけた書き方をしています。
詩の内容についても、日々の散歩や人との出会いを素材にしていることは見当が付くのですが、詩のなかでは古代のギリシャ人や様々な詩人などが思いつくままに登場するので、実際にあったどのようなことを語っているのかはよく分かりませんし、本人もそれを具体的に人に伝えようとはしていないようです。新倉俊一が西脇の全ての詩集に注をつけた『西脇順三郎全詩引喩集成』という本がありますが、これをみると部分的に何を下敷きにしているかは多少分かります。しかし、その背景が仮に分かったとしても、西脇の詩の面白さは、そのような意味の理解とは違うところにあるように思われます。
これは言ってみれば、「うわごと」の面白さではないでしょうか。岡崎もまた「うわごと」を言っているように私には思われますが、西脇の場合はその「うわごと」がさらに進行しています。ここでは「西脇順三郎」という語り手を核として、時間や記憶、東西の場所を超えたあらゆるものが恣意的に呼び込まれて逆巻いています。これらは「西脇順三郎」という点に対して、あたかもぞれも等距離のように配置されています。西脇の抒情の「今」「ここで」について言えば、彼の「今」は過去や記憶を含み、「ここで」は「今のここ」だけでなく、「記憶のなかのここ」も平等に含んでいます。西脇の語りにおいては、時空の遠近感はきわめて希薄になっている、と言ってもいいと思います。
また西脇の詩は、悪く言えば、金太郎飴のようにどれを読んでも同じように見えてしまいます。もちろんどの詩も違う素材、機会を素にしています。しかし、この違う物質や様々な出来事が反復して立ち現れては同じように消えていく、というのは私たちの日常世界ではむしろ当たり前のことのように思えます。西脇はこうしたことを世界の「淋しさ」であると同時に「諧謔」と捉えているのだろうと思います。これは近代人の感覚ではなく、西脇がよく持ち出す古代ギリシャ人の考え方に近いのかもしれません。そこでは時間は直線的ではなく、円環的になっています。そう考えると、「若さ」も「老い」も交代して現象する一要素に過ぎない、ということになります。商品価値としての新鮮さは、ここでは季節のように消えてはまた到来してくるもの、ということになります。詩の業界では、いつも違う詩、新しい詩を書くことがよいことだ、という価値観がよく言われ、これに反していつも同じスタイルを繰り返しているのは衰弱だ、という具合に批判されます。金太郎飴は確かに退屈ですが、でもどうして反復の退屈はいけないのか、とあらためて考えるとよく分からなくなります。先に挙げた粕谷栄市も悪く言えば金太郎飴の詩です。この金太郎飴への嫌悪感は、資本主義的な商品のサイクルに私たちが知らぬ間に洗脳されているだけのような気もします。
こうしたことへの反発を分かりやすく「東洋的」と括ってしまうことは簡単ですが、それでは生成AIが繰り出す平均的な知のようなものになるだけで、西脇の具体的な語りの諸相がみえてきません。
では詩集『人類』の中から、最後の第四章に収録されている「夏日」という詩を読んでみます。これは『西脇順三郎全詩引喩集成』によると、昭和五〇年、一九七五年に『あいなめ』という詩誌に発表されたもので、その時の副題は「金子光晴君の霊前に」というものでした。西脇はこのとき八一歳です。
夏日
パパーイ
なんという幻花だ
八月十四日正午近く
寺の帰り
シバゾノ橋の方へ歩いて行くと
地獄の火焔で麦わら帽子が
燃えあがりそうだ
目が時々くらんで
向こうから来る二人の青年が
隠元豆に見えたり
火葬場に行く編笠をかぶつた
杜甫のようにも見えてきた
いや金子光晴のように見えた
金網の柵に巻きついている
ヒルガホをつみとつて
この夏日の記念と思つて
「峰」の空箱に入れて
三田通りまで日影を渡つて行く
ようやくアンパン屋のとなりの
店にころがりこんで目をつぶり
葦の管からひやしコーヒーをすすりながら……
あの偉大な「永遠への放浪者」が
永遠と化合してから
一ヶ月半も過ぎてしまつた
幸い今日は一と月おくれの新盆だ
彼はもう地球の上で食べのこしを
あさつている人間ではないのだ
彼はまだ人間であつた時
芸術なんざたべのこしだと
私にある晩ささやいて
石に浮きぼりにした
すばらしいエイコーンの写真を
くれてたち去つた
オイモイ!
一読してカタカナが特徴的に使われているのが分かります。西脇は詩の冒頭にたびたび感嘆詞を置きます。ここでは冒頭に「パパーイ」とあり、最後に「オイモイ!」と書いていますが、これらはどちらもギリシャ語で「悲しみを表わす感嘆詞」だと新倉俊一は注記しています。「エイコーン」(これは英語でどんぐりのことで、道祖神の男根を表わしているようです)もそうですが、これらは外国語です。ところが、「シバゾノ」は日本語です。その他「ヒルガホ」や「アンパン」といったカタカナ表記もあります。カタカナ表記をすることで、日本語と外国語の境はあいまいになり、音のイメージが前面に出てきます。西脇は音によるダジャレのようなものをよく書きますが、そこでは外国語の教養がパロディ化されているようにも見えます。
現代詩はよくメタファー、隠喩が大事だと言われますが、そこでは視覚的なイメージをもとにした飛躍が重要視されています。一方で、音の類似から言葉が繰り出される詩法もありますが、これは換喩的なもので、日本の前近代の縁語で続いていくような文に近いようなものもあります。西脇はイメージや意味よりも後者の換喩的な言葉の連鎖を重要視しているように思われます。遠い物同士をぶつける、という俳句でいういわゆる二物衝撃を西脇は唱えているようですが、そのぶつける力は、視覚や意味だけではなく、音的なものを媒介にしている面もあるのではないでしょうか。だとすると、西脇の教養的な背後の意味をいくら探っても、その詩が現に今私たちに現象している面白さは、見えてきません。というか、それは見るものではなく、聴くべきものだということになります。もっとも、人間には「黄色い声」といったことがわかる「共感覚」というのがありますので、視覚か聴覚か、といった極端な選択はあまり意味を成さないでしょうし、それをやってしまうと逆に不自然で貧しいものになるかと思います。
この詩は金子光晴の葬儀から一ヶ月半くらい後までのことを素材にした機会詩で、西脇の詩によくあるように、「シバゾノ橋の方へ歩いて行く」という歩行の行為が発語のエンジンになっています。この歩行のリズムが次々とイメージや記憶や音を招き入れるわけです。詩はもちろん金子光晴への哀悼がテーマになっているのですが、詩は現実の個人の記憶を超えているように見えます。よくあるような感傷的な感慨はほとんど書かれていません。冒頭と最後に置かれた感嘆詞そのものが、まるでこの詩の中心であるようにすら思えます。感嘆詞は、「人類」にとって原初の言語である、ということかもしれません。
西脇と岡崎はともに饒舌な詩人です。この饒舌はイメージや意味がもちろん伴いますが、一方で饒舌に語る、その行為自体が目的となっているように見えます。岡崎の恣意性や西脇の原初的な感嘆詞は、この「語る」こととほとんど等価値です。彼らには、「乗り物」としての詩の「語り」こそが詩なのでしょう。これは先ほど触れたハビトゥスの極端なありようかもしれません。
石原吉郎と極限値
さて、時間も差し迫ってきましたので、最後にもうひとり岡崎や西脇とは違う「老い」の詩人について触れておきたいと思います。饒舌な詩人ではなく、逆に短い詩を書く「老い」の詩人です。その詩人は石原吉郎です。「老い」の詩人といっても、石原は天野や岡崎、西脇に比べるとかなり若くして亡くなっています。亡くなったのは一九七七年、六二歳のときで、今の私より年下です。亡くなった翌月の一二月には詩集『足利』が発行されています。又、翌年の二月には遺稿集ということで最後の詩集『満月をしも』が発行されています。
石原吉郎はご存じの通り終戦時にソ連の強制収容所・ラーゲリに収容され、一九五三年、八年に及ぶ抑留の末、帰国します。翌年五九年には現代詩手帖の前身である『文章倶楽部』に投稿を始めています。このとき三九歳です。その後の活躍はみなさんご存じかと思います。特に初期の詩「位置」は有名です。その中に「無防備の空がついに撓(たわ)み/正午の弓となる位置で」とあります。この「無防備の空」とは一体なんでしょう。この詩は短いもので、詩の背景となるようなことについては何も語られていません。キリストの磔刑の場面だと解釈する人もいますが、人によっていろいろな読み方ができるものになっています。
石原の詩には「位置」もそうですが、対句的な構成が多く出てきます。私としては、対句的なものの対峙する狭間に、石原の「位置」があったのではないかと思っています。それはかつてのシベリヤ抑留生活と、戦後日本に帰還した後の生活との狭間でもあります。石原吉郎については、ラーゲリ体験に直結させる理解の仕方がいちばん分かりやすいと思いますが、しかしよく考えるとそれは安直ではないかと思います。 石原はエッセーの中で戦後の日本で主体を回復させることが辛かった、と述べていますので、極限体験のトラウマからの回復過程が、むしろ詩人・石原吉郎を形成したと考えた方が自然です。その意味で詩人・石原吉郎を産んだのはシベリヤではなく、戦後日本だろうと思われます。
石原は一九五三年、ハバロフスクから舞鶴に向かう興安丸という船で帰還しますが、このとき甲板から青空をぼんやり見あげたことを短いエッセーに書いています。このシベリヤと戦後日本の間の途上の空が「無防備の空」ではないかと個人的には思っています。おそらくこのときが最も安堵できた「位置」にあったのではないでしょうか。
石原はその後遅れて戦後日本に参加しました。周囲と時間がずれているわけです。こうした周囲の時間とのずれが、自他を執拗に対峙させる石原の詩の難しさにつながっている気がします。しかし晩年にはこの詩の様相は、少し変化してきます。詩の素材にいかにも日本風のイメージが増えてきます。石原の死んだ年に刊行された詩集『足利』の、詩集名になった詩「足利」などが典型的な詩です。その「足利」を読んでみます。
足利
足利の里をよぎり いちまいの傘が空をわたった 渡
るべくもなく空の紺青を渡り 会釈のような影をまるく
地へおとした ひとびとはかたみに足をとどめ 大路の
土がそのひとところだけ まるく濡れて行くさまを ひ
っそりとながめつづけた
かなりかっこいい詩です。しかしここには、かつての石原吉郎を思わせる「対峙」の風景は出てきません。主体の回復に向けて、対峙の姿勢を取る人間はここにはいません。語りの視点は「姿勢」を取る身体を視界から外していて、まるい傘の濡れた影が移動する光景だけを見ています。空虚な風景といってもいいかと思いますが、でもこの空虚は先ほどいったシベリヤと戦後日本との狭間にあった「無防備の空」であるようにも見えます。この空虚、もしくは無防備さは極限値でもあり、その先には何もありません。
鮎川信夫と吉本隆明の対談集『詩の読解』(一九八五年・思潮社)で、吉本は石原の最後の頃の詩について、すごいと同時に病的だ、というように言っています。これは「戦後詩の危機」という章のなかでの発言ですが、この対談は終わりの方で当時の若い詩人、荒川洋治などの話題に移っていきます。もともとは『磁場』という詩誌に掲載された対談だったようですが、対談の元のタイトルは「石原吉郎の死・戦後詩の危機」となっていました。石原吉郎の晩年の詩の話が、当時の新しい詩人たちの課題と連動しています。言ってみれば鮎川や吉本の戦後詩と石原の詩はずれていて、むしろ次の世代の詩に近い、という認識のように思えます。実際に吉本の「修辞的な現在」では、石原の「足利」と荒川洋治の「水駅」が並んで論じられていました。石原吉郎は微妙な形で、「荒地」の戦後詩からはじかれているわけです。少し言い方を変えれば、鮎川や吉本とは違う老い方ということになります。しかしそれは詩として「病的」なのかどうか、という点は即断できない気がします。確かに死の間際の石原吉郎は奇行が目立っていたようですので、精神的に病んでいた可能性は高いですが、それが詩の判断と必ずしも関わるとは思えません。
先の西脇も岡崎も、石原とは違う様相ですが、やはり「病的」に思えます。西脇は三十代後半の時の「詩の消滅」(『超堅実主義詩論』一九二九年)という詩論で、「人間の消滅」と言っていますが、これも戦後詩的にみればやはり「病的」と言わざるを得ません。その詩論のなかで西脇は詩の進化過程を要約していますが、詩の最終段階のことをこう語っています。「人間の消滅と共に詩の消滅である。ランプが消された。しかし未だ恐らくカンガルーやサボテンの樹なんかは生きようとしてコセコセしている。哀れなものだ」。
詩は「生きている」こととしてあるのか、あるいは限りなく「ないこと」に近いのか、という議論はたぶん今後も尽きないでしょうし、わたしは今それについて判断する程の能力はありません。それはそれぞれの詩人の詩作で追求するほかない問題だと思います。
最後に吉本が「すごい」と言った石原吉郎の最晩年の短い詩を読んでみます。これは遺稿集の『満月をしも』にも収録されていません。「百ヘクタール」という詩で、一九七七年一二月に雑誌『ユリイカ』に掲載されたものです。
百ヘクタール
百ヘクタールの街へ
百ヘクタールの家屋を建てる
その百ヘクタールで
街と家屋は
まったく終わり
風と会話はその百ヘクタールの外側で
まったく終るだろう
まるでマンガのような光景です。この「街と家屋」の合体が、「足利」の「傘」でもあり、また石原吉郎という詩人格の全体でもある、ということだと思います。ふたつのものに挟まれてあった位置が、とうとうそれ自体で成立する。この極限値の可能性と限界が、石原吉郎の詩の語りの「老い」ということになります。
ただ、それを「老い」という言葉で語るべきどうかは、疑問です。もちろんそれは「若さ」ということではありません。ここに出現しているのは、わたしたちが詩を語る、ということの様々なありようのうちの極限のひとつ、ということです。
これまで挙げてきたものはわたし個人の恣意的な選択によるもので、作風も年代もばらばらの詩人たちです。これはあくまで、わたしの視野からみた「老い」と詩の関わりよう、ということになるのですが、いずれもかなり極端な事例で、プロトタイプになるようなものではありません。結局、それぞれがみずからの傾向にあわせて、詩の修行をするしかないということだと思います。もちろん、この修行は何かの境地に到達するためではなく、楽しいからする、あるいは、そうするしかないからするもの、ではないでしょうか。言ってみれば、持病みたいなものです。
結語 現代詩の洗脳?
ということで、この一連のとりとめもない話は終りにしますが、ここで気づかれたことがあると思います。女性の方はもうおわかりかと思いますが、この話にはひとりも女性詩人がでてこない、ということです。これはわたしが現代詩を男性の視点でしか考えてないという無意識の現われです。これはたぶん、日本の近代以降の詩が女性の視点を欠いている、ということの洗脳の結果でもあります。
※この論考は2025年1月26日(日)に「静岡県男女共同参画センター あざれあ」で開催された静岡県詩人会 主催、日本現代詩人会・静岡新聞社・静岡県文化協会 後援「ポエム・イン静岡2025」での廿楽氏の講演原稿を廿楽順治氏の許可を得て公開するものです。(さとう)