老いて、詩を生きるということ

 

廿楽順治

 
 

 

 さとう三千魚さんから頂いたテーマは「老いて、詩を生きるということ」でした。あまり深く考えずにこのテーマで話をすることを承諾してしまいましたが、あらためて考えると、かなりいい加減な約束をしてしまったことに気づきました。
 わたしはこのテーマ、つまり「老いて、詩を生きるということ」という言葉のひとつひとつについて、実際は何もまともに考えてきませんでした。どの言葉も自明のこととして、適当に使っていたことに、今さらながら気づきました。

 

「老い」とは

 たとえば「老いて」という言葉。「老い」の現象についてはむろん知っています。自分は六四歳ですが、これは明らかに「老い」の範疇に入ります。でも、「老い」ということをまともに考えたことはあまりありませんでした。筋力が衰える、かつてできたことができなくなる、怒りっぽくなる、記憶があいまいになる、情熱がなくなる、そういったことについてはもちろん実感しています。しかし、それが「老い」ということでしょうか。老いに関する社会問題といわれるものも、自分にはだんだん身近になってきました。そうしたことについても、つまり「老後」という言葉についても、ふいに思い至ることもありますが、それでもどこかでまだ図々しくも三〇代後半くらいのつもりでいる気がします。

 

「老い」は時代で変わる?

 昔の作家に源氏鶏太という人がいますが、この源氏鶏太の『定年退職』という小説を読むと、当時の定年年齢である五五歳の老年の暮らしが今とはかなり違うことがわかります。この小説は一九六二年から六三年にかけて朝日新聞で連載されました。小説の冒頭で、五五歳の定年を迎える主人公の同僚の血圧が少し高いという会話が出てきます。その同僚の少し高い血圧が上は一七〇、下が九八となっています。現在の基準で考えると、高齢者の数値としては確かにありえますが、五五歳という年齢を考えると、違和感があります。今なら、まだ若いのに高い、健康に注意しなさいと言われるところです。「老い」というのは一見普遍的な自然現象のようにも思えますが、時代や社会によってそのイメージが違ってくるんだろうと思います。
 そういうわけでどうもこの「老い」という言葉の意味があらためて考えるとよくわかりません。いったい生物はみな本当に「老い」るのでしょうか。最近売れているようですが、小林武彦と言う人の『なぜヒトだけが老いるのか』という新書(講談社現代新書・二〇二三年)があります。これによると、動物で老後があるのはヒトの他はシャチとゴンドウクジラぐらいらしいです。たいていの動物は子孫を残せなくなると、パタッと死ぬ。だとすると、動物には普通、「老い」はない、ということになります。
 もちろんここでは「老い」を動物の生態や「人類」という文脈で考えるつもりはありません。今日のテーマにあるように、あくまでも「老い」が詩にどう関わるのか、が問題になります。そうすると、「老い」は詩においてどういう現象となるのか、ということになります。一般的には「老い」は「衰え」と同じものとみなされるので、詩においては、詩の力の衰退というように解釈されると思います。若いときは記憶力と豊富な語彙を駆使し、とめどもなく連想に連想を重ね、饒舌に、かつ多量に言葉を生産する。それが生産力の衰えとともに寡黙になり、語彙は貧しくなり、素直になってくる。

 

「老い」のイメージ

もちろんこれは単純な図式です。実際の詩人の作品の変遷をみると、必ずしも「若さ」から「老い」へという単線的な図式は詩の指標として役に立たないのではないか、という思いが強くなります。近代以降の自由詩には、「若さ」に重きを置く、というバイアスがあって、そのために「老い」の詩を見えにくくしているのではないか、と考えています。これは個人的な印象なので、文学史的には違う、という見方があるかもしれません。しかし、通俗的なイメージの中では、自由詩は夭折者のもの、ということがずっと続いているのではないでしょうか。現代の自由詩は早い死を、象徴的な最高の価値としているように思えます。このバイアスがあまりに強いために、実際に詩を読むときに、人は詩人の本質的な年齢を無意識に基準にしているような気がします。若いのに力を感じさせないものは負である。逆に高齢なのに若々しい力があるものは正である、というように。ここでは実際の年齢は問題ではありません。年齢にもかかわらず、その「若さ」の含量が問題になっています。「現代詩」はある意味で若者の風俗現象なのではないかと思います。先日思潮社の小田久郎社長が亡くなった際、新聞では「谷川俊太郎さんや大岡信さんらを登用して、戦後の現代詩ブームを生んだ」と報道されていましたが、そのブームの当事者は「若者」のものであったろうと思います。

 

「老い」対「若さ」
 もちろんこれは詩の世界だけの話ではありません
。ある時期から、「若さ」ということの価値が上昇してきたわけです。これがいったいいつからなのか、わたしによくわかりません。三浦雅士は『青春の終焉』というとても面白い評論で、文学の中の青春や青年の誕生を描いています。それによると、青年という括りの誕生は馬琴の『南総里見八犬伝』辺りまで遡るようです。その後、明治に「青春」という言葉が流行します。三浦雅士はさらに一九三〇年代と一九六〇年代の「青春」の類似性についても言及しています。要するに、「若さ」とか「青春」というのは近代にともなって普及した流行現象ということになるので、これをあまり普遍の原理とするわけにはいきません。
 歴史学や民俗学などの研究をみれば、おそらく現在の「若さ」の様相はかなり相対化されるのではないかと思います。それは「老い」についても同様だと思います。「老い」はかつてのような価値としては、相等減衰しているのではないかと思います。さらに、「老い」の多様化ということは、同時に「若さ」の多様化とも連動しています。両者ともに、かつてのような対立図式のなかで自らの地位に安住できなくなってしまったように思えます。

 

詩の業界の「若さ」

 しかし相変わらず他のジャンルと同じように、現代詩の世界は現在、「新しい」「若い」詩を発掘しようとしています。そのためにいくつもの賞や投稿の場所が設けられ、詩の更新が目指されます。これはひとつには出版業において、商品サイクルが求められていることに対応しています。ただ、詩が商品となった歴史はそれほど古くはない。小説は昭和初期の円本ブームによって、職業としての作家を生み出したようですが、詩人は残念ながら今に至るまで生業としては成立していません。職業の模倣として一部の出版社に支えられながら、「詩人」と呼ばれる人たちは自意識と社会上の公認の間を揺れながら存続しています。荒川洋治は一時「詩作家」と言っていたと思いますが、これは無理があります。

 近代の文学史が出版事業と一対であることを考えるならば、「詩人」はこのあいまいな地位のなかで、文学史の更新と商品の新しさを期待されて、「若さ」という価値を負わせられている、ということになります。でも、これはそれほど根拠のあることなのでしょうか。
 個人的な印象では、現代詩の「若さ」志向は、いわゆる「段階の世代」にも起因しているように思えます。学生運動が詩にもたらした影響はとても大きいと思います。また、その前史として「荒地派」の詩の動きがあります。『荒地』に掲載された有名な北村太郎の議論がありますが、そこでは先行世代の詩人が、戦中の状況を回想して詩の空白があったとした発言に、鋭い批判を突きつけています。戦争責任論については同じ「荒地」の同人で、吉本隆明が高村光太郎をやり玉にあげていますが、こうした若い世代が先行世代を突き上げる構図は、七〇年代くらいまでは続いていたように思えます。
 しかし多数の若者が少数の老齢者に対峙するという、これまでの世代闘争のイメージは、現在ではかなり怪しくなってきています。この物語の背景にあった老若の人口比の逆転の問題が、周知のように近年では大きく前面に出てきているからです。ちょっと乱暴に言ってしまえば、六〇年代七〇年代の老若の図式は、単に若者の数が多かったために成立した物語ではなかったか、ということです。

 

「若さ」の風俗と詩

 一九六八年に小松左京が発表した短編に「せまりくる足音」という近未来物のSF小説があります。これは一〇代や二〇代の若者が世界を支配し、高齢者を殺していくという近未来世界の話です。主人公は七八歳ですが、朝、生き残った老人向けのラジオで若者用語の情報を勉強して、若作りをして町へ出かけます。若者は日々言葉を短縮して感覚的に使うので、この流行に乗り遅れると、高齢者として発見されてしまうわけです。そこで、あらかじめラジオで若者の流行語を勉強して、若者がたむろする場所に出かけます。ところがそこに「詩人」があらわれて、事態が変わってしまい、結局彼は高齢者であることが発覚してしまいます。主人公が「詩人」と遭遇する場面はこんなふうに描かれています。

 
「なんなしーー意味なし」〝詩人″は手をおよがせていう。
「ワイワイコンマ、ワイコンマ……」
「から?」と娘はきく。
「それから……」〝詩人″は首をふる。「先、まだできてない」
「ワイワイコンマ、チューライカ……」
彼はつづける。どうせでたらめで、それでいいのだ.
「ワッ!」〝詩人″は奇声をあげる。「ヤック! イェック! ヨック!ーーヤッホウ! 君、すげ!ーー詩人!」

 
 小説の中にはビックリマークが多用されていますが、もしかするとこれはその後一九七〇年に発行された吉増剛造の『黄金詩篇』あたりを予感しているのかもしれません。そういえば、このビックリマークは吉増が論じた明治の青年・北村透谷の詩篇にも出てくる記号です。この小説は、六八年当時の若者の現代詩を外野からみた印象なのかもしれません。
 しかし、小松左京の物語の主人公を脅かした「詩人」は、現実のものとなっていません。というのも、未来を担う青少年の数が減少し、「迫りくる足音」としてははなはだ心許ない状況になっているからです。人口減少が進む現在では、かつての物語が崩壊しているように思えます。むしろ、今の「若い」世代は、多数者の高齢世代の下でマイノリティになっているような気がします。

 

「修辞的現在」と「若さ」対「老い」の図式

 これはわたしの個人的な印象ですが、今の二〇代、三〇代の詩人には、六〇年代七〇年代の詩に対する憧れのようなものがある気がします。主体がない自分たちに対して、あの時代は主体があった、というようなイメージを持っているのでは、と思っています。
 これはわたしもよくわかります。わたしが現代詩に接し始めた七〇年代の終わり頃、かなり多様な詩のスタイルが書かれていました。難解な詩もあれば、分かりやすい詩もあり、そのいずれにも古典と言っていいくらいの名作がありました。そうした詩には、戦後という時代や学生運動など、その世代を象徴するような社会的な出来事が背景にありましたが、一方でわたしたちの世代は、三無主義などと言われて、そのようなものは何もない世代と見られていました。この無の気分というのは、現在の若い世代でもどこかで継続されているように思えます。そういう視野からみると、先行世代の詩人たちの世界はすごくまぶしいわけです。
 かつて吉本隆明の「修辞的現在」という文章が大きな反響を及ぼしました。現在では詩は修辞上の差異になってしまった、というような内容の議論でした。かなりインパクトのある状況把握で、北川透はこの議論を受けて、しかしわれわれはこの微細は差異に賭けていくしかない、というようなことを言っていました。戦後の社会や現実、思想との対峙によって誕生した「現代詩」の後で、われわれはもう消化試合のようなものを課せられているだけなのだ、という感覚を持ったことを覚えています。
でも今の若い世代は特にそういうことに敏感ではないと思いますし、そういう議論があったこともあまり知らないのではないかと思います。ただ、かつて現代詩が生き生きとしていた時代があった、ということは漠然と感じているのではないでしょうか。それに反して、わたしたちの現状はそうではない、という感覚はあると思います。
 というわけで、現在ではかつてと違い「若さ」ということ、「老い」ということの多様化した様相が露骨になり、いかにもありそうなかつての「若さ」や「老い」というものが、書割の松のように嘘くさいものになってきています。もちろん、この嘘くささは今にはじまったものではなく、中世だろうと近代だろうと、本当はあったものだろうと思います。しかし今では、「若さ」対「老い」という「大きな物語」が崩壊してきたために、これまで見えにくかったリアルな多様性の様相が浮上してきた、ということではないでしょうか。
 現代詩はそういった状況のなかで、「若さ」とか「老い」のきわめてリアルな様相に対応せざるを得なくなってきた、といえるかもしれません。もはやかつてのように「若さ」の詩、「老い」の詩を書くことは難しいだろうと思います。少なくとも、現在のリアルな詩を書こうとする場合、従来の「若さ」や「老い」では、どうにも芝居がかったものに見えてしまう、つまり「クサイ」わけです。しかし、「若さ」の現代詩は風俗としてのそれなりの蓄積があるので、多少「クサイ」ものでもやっていけます。
 それに反して、「老い」の「現代詩」はそれほど確立されているようには見えません。わたしが「老い」の詩というのは、単に高齢者問題を素材にしたものではなく、現代詩を縛っているようにみえる「若さ」、それを価値に据えない詩のありかたのことです。
 前置きが少し長くなりましたので、それではそろそろこの辺で、実際の詩を読んでいきたいと思います。

 

天野忠とずれ

今では「クサイ」ようにみえてしまう老いの詩を一つあげてみます。天野忠です。老年の詩というと、この詩人を連想する人は多いのではないかと思います。編集工房ノアの『続天野忠詩集』の一番最後に掲載してある詩を読んでみます。
 

   オヤ

 古い友人たちが傍へ来て
 オヤ、君はまだ……
 そんな顔をして
 フッと消えることがある。

 なにぶん
 彼らは死者なので多くは云わない。
 生きている他人は
 そんな顔をしない。

 しても丁寧なことばでくるむ。
 「オヤ、ずいぶんお元気の様子で……」

 おかげさまで、ヘイ、と私は頭を下げる。七十五歳。
 自分の寂しい闇の中で
 まあだだよ、と舌を出す。

 

 個人的にはよい詩だと思っています。でも、今七五歳でこのような詩を書いても、天野忠よりも説得力は劣ってしまう気がします。現役バリバリの七五歳には、この詩のように古い友人の死者がやってきても、気づかないかもしれません。一方、重大な持病のある七五歳の人には、この詩はとてもよくわかるものだと思います。そういうわけで、今では七五歳ということで、簡単に老年の多様性を一括りにできません。
 天野自身はどうだったでしょうか。「まあだだよ、と舌を出す」と最後に言っているところをみると、死者を少しからかっているようにも見えます。「老い」の図式を使ってちょっと遊んでいる、というようにも見えます。これはもちろん若い詩人には簡単に書けません。ただし、もしこれが人々が死に囲まれていた戦争中だったら違ってきます。いずれにしても、現在このような詩を若い人が書いた場合、嘘の詩ということになることは間違いありません。でも、それはそれで仮構の語り手を立てた詩として成立することはありえます。
 少し意地悪い言い方をすると、天野忠は「老い」の語り手を演じているとみることもできます。天野の詩の語りは、素朴で正直、というイメージを持たれやすいと思いますが、私個人としてはちょっと疑っています。天野は若い頃、当時のモダニズム風の詩を書いていましたし、また一九六六年の五七歳の時には『動物園の珍しい動物』という虚構性の強い詩集を出しています。この詩集に収められた詩編は、「クラスト氏」という外国人の詩である、という前提になっていました。もちろんそこに書かれている詩は天野のものなので、天野とまったく無縁のはずはありませんし、天野の詩だといっても少しもおかしくありません。でも、詩のありようとしては、それは天野自身から少し離れたものとして提示されています。
 今読んだ詩にも、自分から少し離れた詩のありよう、というのがどこかでベースになっているのではないか、と私は感じます。わざわざ「七五歳」と自分の年齢を詩に書き入れているあたりが怪しい。ここでの語りは「七五歳」のものだよ、と読み手に宣言しているわけです。それは逆にいえば、詩の語りはそれが宣言されていないと、年齢を無視して読まれてしまうかもしれない、ということです。
 この宣言は、詩の上で自分を客体化していますが、自分を対象化することによって、詩は天野自身から少しずれていってしまいます。自分が自分を対象化するということは、自分が二重になることです。自分に対して、おまえは七五歳だと規定するもう一方の自分を産み出すことです。それによって、自分の中に差異を持ち込むことになります。
 天野の特徴としてあげられるユーモアは、この、自分や対象から少し離れた視点をもつ、ということで生み出されている気がします。そもそもユーモアや笑いといったものは、対象にピタっと一致した真面目さに対して、ちょっとずれてしまうところにあります。
 私の個人的な見方では、天野は「老い」の語り手を仮構しながら、「老い」自体にずれを持ち込んでいる。このずれがユーモアに連動している、ということになります。

 

粕谷栄市と迷宮

 このずれた「老い」をもっと突き詰めた詩を読んでみたいと思います。粕谷栄市の「晩年」という詩です。これは『楽園』という最近の詩集に収められています。
 

   晩年

   若し、私が、八十歳を幾つか越した老人だったら、私
 は、ある大きな港町に住んでいる。路地裏の古い一軒家
 で、独り暮らしをしている。
   若い頃から、倹約して貯めた金が少しはあるから、ま
 あどうにか生きてはいられる。何もできないし、するこ
 ともないから、相変わらず、古い服を着て、貧しい食事
 をして、つましい日々をやり過ごしている。
   そんな私にも楽しみはあって、それは、自分の住むこ
 の町を、気ままに歩きまわることだ。もちろん、杖をつ
 いて、やっと、覚束ない足を運んでいる始末だから、そ
 んなに遠くには行けないはずだ。
   が、それにしては、いろいろな場所で、思いがけない
 出来事に出会うことが多い。ただ、年寄りの悲しさで、
 一晩、過ぎると、その一切を忘れてしまっている。
   誰にも、それを伝えられないのだ。たとえば、今日は、
 埠頭に近い橋の上で、大勢の女たちに、丸裸にされ、足
 蹴にされたあげく、汚い河に投げ込まれた。
   ずいぶんと、ひどい目に遭ったのだ。だが、明日にな
 れば、自分は、それも憶えていないに違いない。
   たぶん、私が、八十歳を幾つか越した老人であること
 も、あやふやだからだろう。かりに、そうだとしても、
 足の弱い私が、坂の多いことで知られるその港町で、独
 り暮らしをすることができるものだろうか。
   全ては、私が耄碌して、本当のことが分からなくなっ
 ているということなのだ。実は、私こそ八十幾つかのそ
 の老人かもしれない。思えば、悲しい事実である。
   いや、そうとばかりとはいえない。むしろ、その逆だ。
 私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。
   今も、目を瞑れば、私には、はっきりと、それが見え
 る。深夜、満天の星の下のその港町では、家々のどの窓
 にも、花のように、優しい灯がともっている。
 
     *粕谷栄市 当年八十二歳

 
 天野忠の二重化した語り手の「私」がここではさらに極限化されています。粕谷栄市の詩の愛読者であれば、語り手の「私」が夢の中の「私」、もうひとりの「私」について語る、というのはお馴染みのことです。ところが、このお馴染みの手法に、なぜかいつも読み手は魅せられてしまうわけです。

 

岩佐なをと「老い」のパロディ

 この詩を含む詩集『楽園』は、昨年の現代詩人会の「現代詩人賞」を受賞しました。わたしはこの選考に参加したのですが、実は選考会の席上、この詩集と最後まで争った詩集がありました。岩佐なをさんの『たんぽぽ』です。この詩集も「老い」の詩です。もちろん悲哀がベースにあると思うのですが、にもかかわらず「老い」で遊んでいる、そういう印象が強くありました。粕谷栄市と同様、天野の詩をさらに先まで進めているわけです。でも、ちょっとあの世とこの世を簡単に往来しすぎているのではないか、という意見もあって、賞の方は最終的には粕谷栄市に決まりました。
 岩佐さんの詩集『たんぽぽ』の中から詩をひとつ読んでみます。
 

   責任

 いとをかしの
 暮れ方だった
 かれこれ昭和も枯れて
 外では行く手の景色もすけすけの頃
 黒電話が
 どすをきかせて鳴った
 重いジュワッキをとると
 耳を当てるところから声がした
 あなたのお骨が出ましたから責任もって
 引き取りに来てください。という
 やるせない気分さ。
 昔そこは一軒家の喫茶店だった、という
 とり壊されて掘りおこされて
 私が出た
 部分的であったから極端に
 責任を感じることもなかった
 いい加減なサテンのあるじは自称詩人で
 店自慢のブレンドコーヒーは
 インスタントだった、という
 少しは責任を感じろよ。
 と読者諸氏は思われるかもしれない
 ほら
 また秋の暮だ
 言葉はなにを肴に付け合わせて
 雰囲気やこころもちを供するべきか
 ここから先は長い夜
 想い出にふけるにはもってこいだ
 つらかったなぁ。
 あの頃の心の日照り
 骨の出たあたりは駐車場になるそうで
 ほら
 かなたの青山もゆるりと隠れた
 夜の帳が下りてきたなら
 利き手でひょいとかるく持ち上げて
 くぐれば
 弔い酒にちがいない

 
 粕谷栄市の詩は、実を言うと私は少しふざけているのではないかと思うのですが、岩佐さんの場合はかなり確信犯です。近代の詩、もう少し大きく括れば近代の文学は、たいていは真面目ですが、そういう視点でみると岩佐なをの詩は、大げさにいうと近代に戦いを仕掛けているようにさえ見えます。「ジュワッキ」という言葉は、これはウルトラマンの声の「シュワッチ」のだじゃれだと思うのですが、そうした物言いが、突如出てくる。自由詩なんだから何をやってもかまわない、という感じです。しかも「死」を「いとをかし」の出来事として語っています。語り手はここでは幽霊ですが、どうやら「生」に対して責任を取ろうとしていません。このふざけ方は、見ようによっては天野忠のようなイメージとしての老人像を反転させ、さらにその先をパロディ的に描いたように受け取れます。
 この二人の詩集をみると、現在では天野忠が描いたような「老人」の風景が、はたして詩としてどこまで耐えられるだろうか、という思いを強くします。
 粕谷栄市の詩は、かつての老人のイメージを迷宮化して、別の世界を展開していますが、私を含め世の中の老人がみんなそのような世界を創り出せるわけではありません。かといって現在、天野忠のような「好々爺」風の演技をすることも難しい。では、現実の「老い」に見合ったようなものはないのか、ということになります。
 そこで、天野忠や粕谷栄市、岩佐なをとは違うタイプの「老い」の詩人について、少し考えてみました。粕谷栄市や岩佐なをは読んですぐに分かるように、虚構性が強く、語りにメタレベルが仕掛けられています。そういう点では、通常私たちが考える一人称の「抒情詩」とは違います。

 

「老い」の一人称

 だったらということで、一人称で詩を語る、というタイプで「老い」の詩人を考えてみました。もちろん現在の「老い」に見合う詩人、ということになりますので、単に典型的な「老い」を素材にした詩は対象外です。問題なのは、まさに「老いて」「詩を書く」ということを体現している詩人、ということになります。
 当然、高齢で書いている詩人です。しかもその「詩を書くこと」の基準に「若さ」がない、ということが肝心です。といっても詩の「若さ」の定義自体があいまいなので、とても難しいところですが、ここでは私の独断でそうした「老い」の詩人を想定させてもらいました。対象はたくさんいますが、私がとりあえず選んだのは、「若さ」にありがちな未来への展望がなく、記憶と分かちがたくつながった「現在」しか語らないような詩人です。こういう詩人は、「老い」で遊ぶような視野はありません。粕谷栄市との違いで言えば、語り手自らを対象化するようなことがあまりない。なので、詩を語る「私」は詩のなかで基本的に二重化することがありません。

 

岡崎清一郎と破天荒

 私がそこでまず思い浮かべたのは、少し前の人ですが、岡崎清一郎という詩人です。この人の詩を初めて読んだのは、たぶん高校生の頃だと思います。当時定期購読していた『現代詩手帖』で読みました。変な詩だなあ、というのが第一印象でした。この人は一九〇〇年、明治三三年の生まれです。亡くなったのは一九八六年で、私が二〇代半ばの頃、ということになります。ネットで経歴をみると、白秋に才能を見込まれたようです。村野四郎の詩誌『旗魚』にも参加しています。足利出身で地元の佐野中学、現在は高校のようですが、そこを中退して、太平洋洋画研究所に通っていた、とあります。岡崎の詩は、少し古いアンソロジーをみると大抵掲載されていますが、それだけではどうも作風が想像しにくいです。沖積舎から『岡崎清一郎全詩集』が出版されていますが、これは全五巻ありまして、とにかく饒舌で多作な人ですので、数編読んだくらいでは全体像がよくわかりません。かくいう私もまだ全詩篇を通読していません。今日紹介するのは、岡崎の最後の詩集『恋歌』ですが、これは現在国立国会図書館のデジタルライブラリーに会員登録すれば、パソコンやタブレットの画面で読むことができます。岡崎が七四歳の時に作られた詩集です。私の紹介ではおそらく岡崎の詩がどういうものなのか、全体がよく分からないと思いますので、もし興味があればぜび読んでみてください。
 詩集『恋歌』から一篇読んでみます。「死」という詩です。この詩は詩集を代表するものというわけではなく、私が適当に選んだものです。適当というのは言い過ぎですが、詩集の中で比較的短めで朗読しやすい、ということと、今日の話のテーマである「老い」に関係しているという点で選びました。とにかく岡崎清一郎の詩は破天荒なので、どう選んだものか、自分でも途方に暮れてしまいます。では、読んでみます。

 

   死

 私は死んでしまいたい。
 これとおもう場所がみわたらない。
 なんであの叫びを発したか。
 石は空からおちる。
 どういう方法でからすむぎをかるか。
 私を追いぬいていくひとがある。
 異常な執念はどこから来たか。
 石には凸物と凹物とがある。
 場所をかえて本を開いて読む。
 頭上に大きな花がゆれておる。
 幽暗な影をつくり妖しくうつくしく
 まもりの天使のようだ。
 私の言葉はどもる。
 むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい。
 宗教は狂気の兆象(シルシ)。
 相好をくずして笑ッてる者もある。
 私はいそぎたい。
 私はわからないん。
 あべこべのまわりあわせはたえがたく
 なげきは放恣にいつものようだ。
 私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ。
 私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。
 伽藍のなかは地獄でありおしつぶされて狂気になる。
 あたりはうッそうとしたレモン樹。
 私はこれと思う場所がみわたらない。
 私を誘拐してくれい。餌食にも。
 私に麻痺を錯覚をひどいことをする鬼神を。
 動悸うつ薔薇の動因をおおデモンを。
 いやいや立ッたままの姿勢でこの奇妙なたえがたい硫黄のながれを。
 そなたよ ともしびの下で読んでくだされい。

 
 冒頭二行目に「みわたらない」とありますが、これは誤字でしょうか。でも、後半にも同じ語が繰り返されていますので、明らかに確信犯です。口語では「あ」が「わ」という音になることはありますが、話し言葉をそのまま写したのでしょうか。「わからないん」という言葉も出てきます。この末尾の「ん」というのは他の詩にも度々出てくるので、もしかすると方言かもしれません。足利弁というのがあるようで、先日ネットで足利弁の紹介サイトを見つけましたが、ただ、この語尾の「ん」のことはありませんでした。
 もちろん、わたしは岡崎のこの文を方言かどうか判定したいわけではありません。岡崎は相当な読書家のようで、詩には多くの正式な書き言葉の語彙が出てきます。そうした難しい語と口語が自由に交差するのが岡崎の詩です。先ほど破天荒といったのはこういう語彙レベルでの混交のことも指しています。わたしたちは教育のなかで、文の表記などを統一することを教えられています。正規の文というのは、ブレのない表記と用語が前提です。そういう点では、岡崎の文は正規のものではありません。
 ところで、試しにこの詩についてMicrosoftのCo-pilotという生成AIに鑑賞文を書かせてみました。生成AIは何かを考えるようなプログラムではなく、膨大なネット上のデータを参照して、確率的に文を生成させるもののようです。考えるのではなく、力業で自然文の模倣をするわけです。ですから、次の文はネットにある膨大な文の集合知が割り出した平均的な解答ということになります。読んでみます。

 

 この詩は、非常に深い絶望感と混乱を描写しています。詩のタイトルである「死」は、そのテーマを象徴しています。以下は、この詩の鑑賞と解説です。
【詩のテーマ】
 詩全体を通して、作者は自らの存在や感情に対する困惑と絶望を表現しています。「私は死んでしまいたい」という冒頭の一文から、強い死への願望が示されています。この絶望感は、作者が人生において満たされない何かを感じていることを暗示しています。
【イメージと象徴】
 詩中のイメージや象徴は、読者に強烈な感覚を与えます。「石は空からおちる」というフレーズは、無秩序や突発的な出来事を示し、作者の混乱を反映しています。また、「大きな花がゆれておる」や「レモン樹」といった自然のイメージは、対照的に美しさと不安定さを同時に表しています。
【感情の表現】
 作者は感情を直接的かつ強烈に表現しています。「むなさわぎがして何物かによろぼいかかりたい」や「宗教は狂気の兆象」といったフレーズは、内なる不安や狂気に対する恐れを描写しています。また、「私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ」といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています。
【結末】
 詩の終わりに近づくにつれて、作者の絶望感はますます強くなり、「私を誘拐してくれい。餌食にも。」という一文で頂点に達します。このフレーズは、作者が自らの存在を否定し、他者に自分を委ねたいという強い願望を示しています。
 この詩は、その強烈な感情と深い絶望感を通じて、読者に強い印象を残します。詩を通じて、作者が抱える内なる葛藤と苦悩を感じることができ、共感を呼び起こすと同時に、人生の深い問いかけを投げかけています。

 

 どうでしょうか。なかなかよい鑑賞文ではないかと思います。これを少し書き直して学校のレポートに出したら、先生が見破るのはかなり難しい気がします。
 ただ、これにはわたしが先ほど触れたような表記のブレなどはいっさい出てきません。あくまで意味やイメージの観点だけから文を生成させています。最後に「人生の深い問いかけを投げかけています」とありますが、こういうコメントはどの詩にも当てはまるものなので、言ってみれば鑑賞文にとっては万能の言葉です。その他にも、一見岡崎の言葉にそって解釈したような文がでてきますが、それらはよく考えてみると、他の作品でも通用するような言い回しとなっています。要するにこれが一般的な詩の鑑賞文の書き方における平均値ということになるわけです。しかし、これでは岡崎が自由に語るその姿は見えてきません。わたしは岡崎の詩から違和感を感じますが、それは意味やイメージには還元できないようなものです。もちろん、それを表記の問題だけに還元することもできません。
 ちなみに、先日ネット上で、静岡県教育委員会が作成した「生成AIを利用するに当たって」という生徒向けの文書を見つけました。この文書には生成AIの適切でない使い方として、「詩や俳句の創作、音楽・美術等の表現・鑑賞など感性や創造性などが必要な場面において生成AIを安易に使い、そのまま利用する」という例が出ていまして、「感性や創造性などが必要な場面」というところが赤字になっています。でも、生徒自身の感性や創造性で、同様の鑑賞になった場合はどうするのでしょうか。わたしたちの「感性」や「創造性」と言われているものは果たして一様に個人の独特のものに基づいたものなのかどうか。それらは案外周囲に教育されたり、影響されたりするものだろうと思います。むしろ無条件に「感性」や「創造性」という観念的な用語を使ってしまう言い方に、わたしは生成AI風なものを感じてしまいます。おそらく生成AIは、みずからを利用する際の注意書きを、この文のように生成するのではないでしょうか。
 それはともかくとして、生成AIは、「『私は眩暈、からッぽ、そのとおりだ』といった自己評価は、自己否定と絶望感を如実に表しています」と言っています。それはその通りなのですが、次の行で岡崎は「私はおくびょう、愚痴、いいともかまいません。」と書いています。これが「いいともかまわない」という言い方であれば、ネット上によくある詩と同じような印象を受けると思いますが、岡崎は「いいともかまいません」と少しおどけたような言い方を続けています。
 この辺の文の乱れ方が岡崎の自由なところで、言い換えれば、確率や統計からみて割り出せないものではないかという気がします。現代詩では、こういう混乱を最初から目的として書かれる場合がありますが、これはこれで単調になりがちです。先ほど挙げた小松左京の小説に出てくる詩人の言葉を思えば分かると思いますが、そこではあえてでたらめ、正規の文にならないもの、それだけを志向しています。その志向は露骨です。そのために読み手にはその方法、法則が見えてしまう。そうなると、たちまち退屈になってしまいます。岡崎の場合は、どうもそれとは違う。文字通り恣意的なのです。しかし、作品としては大きな不調和を感じさせることなく、完成しています。ここには長年詩作を続けてきた岡崎の動物的なカン、といったものが働いているのかもしれません。
 抒情を、「今」「ここで」「私が」「語る」ものとして考えると、岡崎の詩はもちろん抒情詩です。今、ここで、思いついたことを語っている。これらの複数の要素を統一しているのは、詩の上に現われる「岡崎清一郎」という人格です。俳句には「俳人格」ということを言う俳人がいるようですが、詩にも「詩人格」というのがありそうです。少しくらい表記や文が混乱していても、その「詩人格」自体は乱れない。詩を初めて書く人の詩が不自然に見えてしまうのは、まだこの「詩人格」がテクスト上で自分のものとなっていないからです。
 この「詩人格」は、そう簡単には現象しません。スタイルとか個性とか言われるものはこの「詩人格」に由来していると思いますが、それが確保されるためには、試行錯誤と一定の経験や、訓練が必要になるように思います。「老い」はたぶんこういうところに関係してくるのではないでしょうか。「老い」の様相は多様ですが、しかしどの様相もそれが経験の集積や行為の繰り返しの結果であることに間違いはありません。そういう意味では、詩の「老い」はこの「詩人格」の形成と不可分だろうと思います。「詩人格」はいわゆる「ハビトゥス」の一種です。「ハビトゥス」は、「態度、外観、装い、様子、性質、習慣などを意味するラテン語」と『ブリタニカ国際大百科事典』にはありますが、この「ハビトゥス」が年齢を重ねてある水準に達すると、日本風に言えば、達人とか名人の境地になるのではないでしょうか。ここまでくると、他の詩人との比較はもうあまり意味を成さないわけです。先ほどの粕谷栄市詩集が現代詩人賞を取った際の選評で、わたしはこれはもう「粕谷栄市」というジャンルではないかというようなことを書きました。同じことは岡崎清一郎にも言えます。あるいはそれは草野心平でも同じかもしれませんし、他にもそういう言い方に値する詩人は数多くいます。
 もちろん若い詩人にも個性的な人は多くいますが、しかしそれはどこかで「現代詩」というジャンルに色目を使っているようなところがあります。というか、ほとんどの人はこの「現代詩」、あるいはただの「詩」でもいいですが、そういう何か目に見えないけれども、どこかにありそうなプロトタイプ、あるいはそのプロトタイプの否定ということに縛られている。若い世代の詩人はあまり戦後以降の詩を知らない、という話も聞きますが、それにしても教科書や音楽、ドラマなどから知らないうちに植え込まれた現代の「詩」のイメージは持っているだろうと思います。しかし岡崎の場合、どうもわたしたちより自分勝手なんです。これは小松左京がイメージしたようなSFの詩人とは、似ているようで本質的に違う気がします。
 岡崎は萩原朔太郎と同時代の人といってもいいと思いますが、そういう時代的なことを考えると、彼にとっては口語自由詩というもの自体が、わたしたちのようにまだ自明のものではなかった可能性があります。口語的な言い方、あるいはこなれた言文一致体の様相で、「私」のことを語る改行形式の文、というのは日本ではそれほど長い歴史を持っているわけではない、ということをわたしたちはつい忘れがちです。

 

西脇順三郎と語りの器

 では次に岡崎同様、自分勝手な詩人をもうひとり挙げたいと思います。西脇順三郎です。紹介するまでもない有名詩人ですが、西脇は岡崎の六歳年上で、一八九四年、明治二七年生まれです。岡崎と同じように画家を目指していたようです。西脇もまた膨大な詩を書いています。西脇の詩で教科書に出てくるのは「(覆された宝石)のやうな朝」という冒頭で有名な「天気」とか、「雨」という短い詩だと思いますが、後記のものは一篇がかなり長く、饒舌な詩が多いです。最後の詩集は『人類』というものですが、考えようによってはかなり人を食った題名です。栞に書かれている吉岡実の文章によると、最初のタイトルは『人間』だったようです。この詩集は本文が二九五頁、詩は六六篇もある分厚い詩集です。ここから一篇を選ぶのは、岡崎の場合と同様、なかなか難しい。
 どの詩も西脇の西洋文学の教養と、西脇本人の記憶や経験が入り混じっていて、しかも人名の読み方を故意に変えたり、カタカナ表記にしたりするなどの遊びに満ちています。この詩集では、「荒地」の詩人・木原孝一のことを「ボクゲン」とカタカナ表記にしています。晩年の西脇は中国の古典を研究していたようなのでその影響だとは思いますが、そのことを全く詩のなかでは説明されていませんので、初読では「ボクゲン」とは何のことか分かりません。それ以外にも日本語をカタカナで表記しますので、一見すると外国語のようにも見えてしまうような、おどけた書き方をしています。
 詩の内容についても、日々の散歩や人との出会いを素材にしていることは見当が付くのですが、詩のなかでは古代のギリシャ人や様々な詩人などが思いつくままに登場するので、実際にあったどのようなことを語っているのかはよく分かりませんし、本人もそれを具体的に人に伝えようとはしていないようです。新倉俊一が西脇の全ての詩集に注をつけた『西脇順三郎全詩引喩集成』という本がありますが、これをみると部分的に何を下敷きにしているかは多少分かります。しかし、その背景が仮に分かったとしても、西脇の詩の面白さは、そのような意味の理解とは違うところにあるように思われます。
 これは言ってみれば、「うわごと」の面白さではないでしょうか。岡崎もまた「うわごと」を言っているように私には思われますが、西脇の場合はその「うわごと」がさらに進行しています。ここでは「西脇順三郎」という語り手を核として、時間や記憶、東西の場所を超えたあらゆるものが恣意的に呼び込まれて逆巻いています。これらは「西脇順三郎」という点に対して、あたかもぞれも等距離のように配置されています。西脇の抒情の「今」「ここで」について言えば、彼の「今」は過去や記憶を含み、「ここで」は「今のここ」だけでなく、「記憶のなかのここ」も平等に含んでいます。西脇の語りにおいては、時空の遠近感はきわめて希薄になっている、と言ってもいいと思います。
 また西脇の詩は、悪く言えば、金太郎飴のようにどれを読んでも同じように見えてしまいます。もちろんどの詩も違う素材、機会を素にしています。しかし、この違う物質や様々な出来事が反復して立ち現れては同じように消えていく、というのは私たちの日常世界ではむしろ当たり前のことのように思えます。西脇はこうしたことを世界の「淋しさ」であると同時に「諧謔」と捉えているのだろうと思います。これは近代人の感覚ではなく、西脇がよく持ち出す古代ギリシャ人の考え方に近いのかもしれません。そこでは時間は直線的ではなく、円環的になっています。そう考えると、「若さ」も「老い」も交代して現象する一要素に過ぎない、ということになります。商品価値としての新鮮さは、ここでは季節のように消えてはまた到来してくるもの、ということになります。詩の業界では、いつも違う詩、新しい詩を書くことがよいことだ、という価値観がよく言われ、これに反していつも同じスタイルを繰り返しているのは衰弱だ、という具合に批判されます。金太郎飴は確かに退屈ですが、でもどうして反復の退屈はいけないのか、とあらためて考えるとよく分からなくなります。先に挙げた粕谷栄市も悪く言えば金太郎飴の詩です。この金太郎飴への嫌悪感は、資本主義的な商品のサイクルに私たちが知らぬ間に洗脳されているだけのような気もします。
 こうしたことへの反発を分かりやすく「東洋的」と括ってしまうことは簡単ですが、それでは生成AIが繰り出す平均的な知のようなものになるだけで、西脇の具体的な語りの諸相がみえてきません。
 では詩集『人類』の中から、最後の第四章に収録されている「夏日」という詩を読んでみます。これは『西脇順三郎全詩引喩集成』によると、昭和五〇年、一九七五年に『あいなめ』という詩誌に発表されたもので、その時の副題は「金子光晴君の霊前に」というものでした。西脇はこのとき八一歳です。

 

   夏日

 パパーイ
 なんという幻花だ
 八月十四日正午近く
 寺の帰り
 シバゾノ橋の方へ歩いて行くと
 地獄の火焔で麦わら帽子が
 燃えあがりそうだ
 目が時々くらんで
 向こうから来る二人の青年が
 隠元豆に見えたり
 火葬場に行く編笠をかぶつた
 杜甫のようにも見えてきた
 いや金子光晴のように見えた
 金網の柵に巻きついている
 ヒルガホをつみとつて
 この夏日の記念と思つて
 「峰」の空箱に入れて
 三田通りまで日影を渡つて行く
 ようやくアンパン屋のとなりの
 店にころがりこんで目をつぶり
 葦の管からひやしコーヒーをすすりながら……
 あの偉大な「永遠への放浪者」が
 永遠と化合してから
 一ヶ月半も過ぎてしまつた
 幸い今日は一と月おくれの新盆だ
 彼はもう地球の上で食べのこしを
 あさつている人間ではないのだ
 彼はまだ人間であつた時
 芸術なんざたべのこしだと
 私にある晩ささやいて
 石に浮きぼりにした
 すばらしいエイコーンの写真を
 くれてたち去つた
 オイモイ!

 
 一読してカタカナが特徴的に使われているのが分かります。西脇は詩の冒頭にたびたび感嘆詞を置きます。ここでは冒頭に「パパーイ」とあり、最後に「オイモイ!」と書いていますが、これらはどちらもギリシャ語で「悲しみを表わす感嘆詞」だと新倉俊一は注記しています。「エイコーン」(これは英語でどんぐりのことで、道祖神の男根を表わしているようです)もそうですが、これらは外国語です。ところが、「シバゾノ」は日本語です。その他「ヒルガホ」や「アンパン」といったカタカナ表記もあります。カタカナ表記をすることで、日本語と外国語の境はあいまいになり、音のイメージが前面に出てきます。西脇は音によるダジャレのようなものをよく書きますが、そこでは外国語の教養がパロディ化されているようにも見えます。
 現代詩はよくメタファー、隠喩が大事だと言われますが、そこでは視覚的なイメージをもとにした飛躍が重要視されています。一方で、音の類似から言葉が繰り出される詩法もありますが、これは換喩的なもので、日本の前近代の縁語で続いていくような文に近いようなものもあります。西脇はイメージや意味よりも後者の換喩的な言葉の連鎖を重要視しているように思われます。遠い物同士をぶつける、という俳句でいういわゆる二物衝撃を西脇は唱えているようですが、そのぶつける力は、視覚や意味だけではなく、音的なものを媒介にしている面もあるのではないでしょうか。だとすると、西脇の教養的な背後の意味をいくら探っても、その詩が現に今私たちに現象している面白さは、見えてきません。というか、それは見るものではなく、聴くべきものだということになります。もっとも、人間には「黄色い声」といったことがわかる「共感覚」というのがありますので、視覚か聴覚か、といった極端な選択はあまり意味を成さないでしょうし、それをやってしまうと逆に不自然で貧しいものになるかと思います。
 この詩は金子光晴の葬儀から一ヶ月半くらい後までのことを素材にした機会詩で、西脇の詩によくあるように、「シバゾノ橋の方へ歩いて行く」という歩行の行為が発語のエンジンになっています。この歩行のリズムが次々とイメージや記憶や音を招き入れるわけです。詩はもちろん金子光晴への哀悼がテーマになっているのですが、詩は現実の個人の記憶を超えているように見えます。よくあるような感傷的な感慨はほとんど書かれていません。冒頭と最後に置かれた感嘆詞そのものが、まるでこの詩の中心であるようにすら思えます。感嘆詞は、「人類」にとって原初の言語である、ということかもしれません。
 西脇と岡崎はともに饒舌な詩人です。この饒舌はイメージや意味がもちろん伴いますが、一方で饒舌に語る、その行為自体が目的となっているように見えます。岡崎の恣意性や西脇の原初的な感嘆詞は、この「語る」こととほとんど等価値です。彼らには、「乗り物」としての詩の「語り」こそが詩なのでしょう。これは先ほど触れたハビトゥスの極端なありようかもしれません。

 

石原吉郎と極限値

 さて、時間も差し迫ってきましたので、最後にもうひとり岡崎や西脇とは違う「老い」の詩人について触れておきたいと思います。饒舌な詩人ではなく、逆に短い詩を書く「老い」の詩人です。その詩人は石原吉郎です。「老い」の詩人といっても、石原は天野や岡崎、西脇に比べるとかなり若くして亡くなっています。亡くなったのは一九七七年、六二歳のときで、今の私より年下です。亡くなった翌月の一二月には詩集『足利』が発行されています。又、翌年の二月には遺稿集ということで最後の詩集『満月をしも』が発行されています。

 石原吉郎はご存じの通り終戦時にソ連の強制収容所・ラーゲリに収容され、一九五三年、八年に及ぶ抑留の末、帰国します。翌年五九年には現代詩手帖の前身である『文章倶楽部』に投稿を始めています。このとき三九歳です。その後の活躍はみなさんご存じかと思います。特に初期の詩「位置」は有名です。その中に「無防備の空がついに撓(たわ)み/正午の弓となる位置で」とあります。この「無防備の空」とは一体なんでしょう。この詩は短いもので、詩の背景となるようなことについては何も語られていません。キリストの磔刑の場面だと解釈する人もいますが、人によっていろいろな読み方ができるものになっています。
 石原の詩には「位置」もそうですが、対句的な構成が多く出てきます。私としては、対句的なものの対峙する狭間に、石原の「位置」があったのではないかと思っています。それはかつてのシベリヤ抑留生活と、戦後日本に帰還した後の生活との狭間でもあります。石原吉郎については、ラーゲリ体験に直結させる理解の仕方がいちばん分かりやすいと思いますが、しかしよく考えるとそれは安直ではないかと思います。 石原はエッセーの中で戦後の日本で主体を回復させることが辛かった、と述べていますので、極限体験のトラウマからの回復過程が、むしろ詩人・石原吉郎を形成したと考えた方が自然です。その意味で詩人・石原吉郎を産んだのはシベリヤではなく、戦後日本だろうと思われます。
 石原は一九五三年、ハバロフスクから舞鶴に向かう興安丸という船で帰還しますが、このとき甲板から青空をぼんやり見あげたことを短いエッセーに書いています。このシベリヤと戦後日本の間の途上の空が「無防備の空」ではないかと個人的には思っています。おそらくこのときが最も安堵できた「位置」にあったのではないでしょうか。
 石原はその後遅れて戦後日本に参加しました。周囲と時間がずれているわけです。こうした周囲の時間とのずれが、自他を執拗に対峙させる石原の詩の難しさにつながっている気がします。しかし晩年にはこの詩の様相は、少し変化してきます。詩の素材にいかにも日本風のイメージが増えてきます。石原の死んだ年に刊行された詩集『足利』の、詩集名になった詩「足利」などが典型的な詩です。その「足利」を読んでみます。

 

  足利

   足利の里をよぎり いちまいの傘が空をわたった 渡
 るべくもなく空の紺青を渡り 会釈のような影をまるく
 地へおとした ひとびとはかたみに足をとどめ 大路の
 土がそのひとところだけ まるく濡れて行くさまを ひ
 っそりとながめつづけた

 
 かなりかっこいい詩です。しかしここには、かつての石原吉郎を思わせる「対峙」の風景は出てきません。主体の回復に向けて、対峙の姿勢を取る人間はここにはいません。語りの視点は「姿勢」を取る身体を視界から外していて、まるい傘の濡れた影が移動する光景だけを見ています。空虚な風景といってもいいかと思いますが、でもこの空虚は先ほどいったシベリヤと戦後日本との狭間にあった「無防備の空」であるようにも見えます。この空虚、もしくは無防備さは極限値でもあり、その先には何もありません。
 鮎川信夫と吉本隆明の対談集『詩の読解』(一九八五年・思潮社)で、吉本は石原の最後の頃の詩について、すごいと同時に病的だ、というように言っています。これは「戦後詩の危機」という章のなかでの発言ですが、この対談は終わりの方で当時の若い詩人、荒川洋治などの話題に移っていきます。もともとは『磁場』という詩誌に掲載された対談だったようですが、対談の元のタイトルは「石原吉郎の死・戦後詩の危機」となっていました。石原吉郎の晩年の詩の話が、当時の新しい詩人たちの課題と連動しています。言ってみれば鮎川や吉本の戦後詩と石原の詩はずれていて、むしろ次の世代の詩に近い、という認識のように思えます。実際に吉本の「修辞的な現在」では、石原の「足利」と荒川洋治の「水駅」が並んで論じられていました。石原吉郎は微妙な形で、「荒地」の戦後詩からはじかれているわけです。少し言い方を変えれば、鮎川や吉本とは違う老い方ということになります。しかしそれは詩として「病的」なのかどうか、という点は即断できない気がします。確かに死の間際の石原吉郎は奇行が目立っていたようですので、精神的に病んでいた可能性は高いですが、それが詩の判断と必ずしも関わるとは思えません。
 先の西脇も岡崎も、石原とは違う様相ですが、やはり「病的」に思えます。西脇は三十代後半の時の「詩の消滅」(『超堅実主義詩論』一九二九年)という詩論で、「人間の消滅」と言っていますが、これも戦後詩的にみればやはり「病的」と言わざるを得ません。その詩論のなかで西脇は詩の進化過程を要約していますが、詩の最終段階のことをこう語っています。「人間の消滅と共に詩の消滅である。ランプが消された。しかし未だ恐らくカンガルーやサボテンの樹なんかは生きようとしてコセコセしている。哀れなものだ」。
 詩は「生きている」こととしてあるのか、あるいは限りなく「ないこと」に近いのか、という議論はたぶん今後も尽きないでしょうし、わたしは今それについて判断する程の能力はありません。それはそれぞれの詩人の詩作で追求するほかない問題だと思います。
 最後に吉本が「すごい」と言った石原吉郎の最晩年の短い詩を読んでみます。これは遺稿集の『満月をしも』にも収録されていません。「百ヘクタール」という詩で、一九七七年一二月に雑誌『ユリイカ』に掲載されたものです。
 

   百ヘクタール

 百ヘクタールの街へ
 百ヘクタールの家屋を建てる
 その百ヘクタールで
 街と家屋は
 まったく終わり
 風と会話はその百ヘクタールの外側で
 まったく終るだろう

 
 まるでマンガのような光景です。この「街と家屋」の合体が、「足利」の「傘」でもあり、また石原吉郎という詩人格の全体でもある、ということだと思います。ふたつのものに挟まれてあった位置が、とうとうそれ自体で成立する。この極限値の可能性と限界が、石原吉郎の詩の語りの「老い」ということになります。
 ただ、それを「老い」という言葉で語るべきどうかは、疑問です。もちろんそれは「若さ」ということではありません。ここに出現しているのは、わたしたちが詩を語る、ということの様々なありようのうちの極限のひとつ、ということです。
 これまで挙げてきたものはわたし個人の恣意的な選択によるもので、作風も年代もばらばらの詩人たちです。これはあくまで、わたしの視野からみた「老い」と詩の関わりよう、ということになるのですが、いずれもかなり極端な事例で、プロトタイプになるようなものではありません。結局、それぞれがみずからの傾向にあわせて、詩の修行をするしかないということだと思います。もちろん、この修行は何かの境地に到達するためではなく、楽しいからする、あるいは、そうするしかないからするもの、ではないでしょうか。言ってみれば、持病みたいなものです。

 

結語 現代詩の洗脳?

 ということで、この一連のとりとめもない話は終りにしますが、ここで気づかれたことがあると思います。女性の方はもうおわかりかと思いますが、この話にはひとりも女性詩人がでてこない、ということです。これはわたしが現代詩を男性の視点でしか考えてないという無意識の現われです。これはたぶん、日本の近代以降の詩が女性の視点を欠いている、ということの洗脳の結果でもあります。

 
 

※この論考は2025年1月26日(日)に「静岡県男女共同参画センター あざれあ」で開催された静岡県詩人会 主催、日本現代詩人会・静岡新聞社・静岡県文化協会 後援「ポエム・イン静岡2025」での廿楽氏の講演原稿を廿楽順治氏の許可を得て公開するものです。(さとう)

 

 

 

井手綾香 : stepping stonesを渡った先

 

長尾高弘

 
 

「井手綾香の選曲によるメッセージ?」という文章を書いてからもう2年もたった。その後も彼女の活動はチェックしてきた。でも、2021年3月から2022年7月までの1年4か月ほどは一気に飛んでしまってもよいだろう。この間にも彼女のライブはあったし、ネット配信されたものは見たが、私が書いているのは彼女が書いた曲の歌詞についてだ。もちろん、ひとりのファンとしては、彼女の曲のメロディ、歌詞とパフォーマンス全体を愛しているわけだが、仮に私に彼女の歌について何か言えることがあるとしたら、歌詞のこと以外にはない。新しい歌詞が出てこなければ、私には何も書けない。

2021年3月には10周年記念のセッションがあったが、2022年3月には11周年記念のセッションはなかった。それは不思議なことではないだろう。10周年は切りがいいけど、11周年はそうでもない。しかし、なんと7月になって11周年記念ライブが行われた(東京と宮崎。私は東京の配信を見た)。しかも、無観客だった上に30分で終わってしまった10周年とは異なり、観客を入れて約2時間、アンコールも入れて18曲を歌いきった。このライブで数年前にメジャーとの契約が切れ、事務所からも離れてフリーになったことや、一度は音楽を諦めかけて普通の会社に入り、インテリアの仕事をしていたことなどを公表し、このライブから本格的な活動を再開すると宣言した。そして、自主制作で新曲4曲を含むミニアルバムを作ったのでそれをその会場で販売すること、8月から翌年3月までゲストを迎えて毎月ライブを開催すること、初めてファンクラブを立ち上げて会員特別コンテンツを提供することなどを発表した。

私は配信で見ていたので、その場でミニアルバムを買うことはできなかったが、新しくオープンされた井手綾香ショップ( https://ideayaka.base.shop/ )で注文した(2023年6月8日現在、まだ買えるようだ)。カミングアウトするほどのことではないが、ファンクラブにも入った(誰のものであれ、ファンクラブというものに入ったのはこれが初めてだ)。当然ながら、CDには歌詞カードとクレジットがついている。ついに新しく話題にすべきネタが登場したわけだ。

 

アルバムのタイトルは『stepping stones』で、日本語で踏み石とか飛び石と呼ばれているもののことである。アルバムのジャケットにもS字形に並べられた踏み石の絵が描かれている。私は踏み石があるような家には住んだことがないが、妻の実家に行くと門から玄関までそういう石が並んでいるので、どうしてもそれを思い浮かべてしまう。大人でも大股で歩かないと次の石の上に乗れない。子どもなら、ぴょんぴょんと跳ねて渡るだろう。ほかの場所でも、踏み石というものはだいたいそんな感じに並べてあるのではないだろうか。stepping stonesという英語だと、このぴょんぴょんのイメージがぴったり合う。ちなみに、10周年コンサートのあと、初めて観客を入れて開く予定だったライブ(しかし、直前に緊急事態宣言が出て中止になってしまった)は、first stepというタイトルだった。アルバムタイトルには、前に進みたいという井手の気持ちが込められているような感じがした。

入っているのは、先ほども触れた新曲4曲と「ヒカリ」だが、5曲の配列からもなるほどstepping stonesなんだなと思わせるものがある。つまり、CDジャケットの絵のようにちょっと曲折したストーリーが隠されているように見えるのだ(前稿で取り上げた2020年のライブのセットリストのときと同じように)。ストーリーというよりも、芝居の幕、場のようなものの方が近いかもしれない。ただ、アルバムを買えば歌詞カードがついてくるが、歌ネット( https://www.uta-net.com/ )のようなサイトには自主制作アルバムの歌詞は掲載されていないので、ここでは一部を引用することしかできない。

1曲目は、前稿でもかなり大きく取り上げ、7月の11周年記念ライブでも歌われた「琥珀花火」である( https://www.youtube.com/watch?v=71S6zgqhu40 にPVと歌詞がある)。前稿では歌詞が完全にはわからないまま、夢破れて故郷に帰ってきた歌だと紹介したが、おおよそそういう内容であることは間違いないと思う。ただ、最後の部分で再起を誓っているという部分を聞き落としていたようだ。

 

2曲目の「オトナ」は、「報われない言い訳を/みんなでせーので言った/誰かのせい 時代のせい/誰も自分を褒めない」という冒頭からもわかるように、不遇な人々が集まって愚痴を言い合っている図である。「琥珀花火」で故郷に帰ってきた人の後日談のように感じられる。耳に残るのは、「誰も自分を褒めない」という言葉だ。「誰も自分を責めない」というのとは微妙にニュアンスが異なる。義務を果たせなかったというようなことではなくて、もっと充実した時間をつかめたはずなのに不完全燃焼に終わってしまったという後悔のことを言っているのだろうか。

3曲目の「so much to tell」では、「起きがけに映る 安らかな寝顔/それだけでこの日を 迎えたこと 奇跡のよう」というような歌詞が耳に入ってきて、一転して何か幸せを掴んだように感じられる。夢が破れて負った傷も癒えつつあるかのようだ。しかし、「あなた」は、苦しみか辛さかそのようなものをひとりで抱え込んでいて打ち明けてくれないらしい。だからか、「想い続けている」と言いつつも「この愛はまだ無力でも」という辛い言葉が入ってくる。でも、「あなたと紡ぐこの愛は/私の唯一の光」というのだから、照らしてくれる光が現れたわけで、2曲目までのどん底からは上に向いている感じがする。

4曲目の「CANDY」は、そんな「So much to tell」の安定をひっくり返す。「毎日 毎日 愛されていたい/それだけ それだけ それだけだったのに/気がつけば私は 甘いだけのCANDY/溶けてしまうよ」。これはもちろん、音楽を忘れたら自分の芯がなくなってしまうということだろう。あなたとの愛が「唯一の光」というところに留まるわけにはいかないのである。本気でものを作ろうという人は、そういうものだと思う。

そして5曲目の「ヒカリ」( https://www.uta-net.com/song/126767/ )が続くわけだが、「まぶしい未来へ/ヒカリの種(たね)をまこう 明日の夢を咲かそう」という歌詞はまるで今の再始動した彼女を予見していたかのようだ。

こうに違いないという勢いで書いてきてしまったが、もちろんこれはそういう読み方もあるというひとつの見立てに過ぎない。そもそも、今回初めて知ったのだが、「琥珀花火」の歌詞は作詞家矢作綾加の作品で、「so much to tell」も同じく矢作作品なのである。井手自身の作品として見るわけにはいかない¶。ただ、仮に私が今書いてみせたように、井手自身が歌詞の世界を使ってひとつのまとまったストーリーを組み立てようと思ったのだとすれば、すでにある歌詞はストーリーの部品に過ぎないわけで、歌詞を作ったのは誰かということはごく小さな問題になるはずだ。

8月からライブを毎月開催するということと同時にこのミニアルバムを発表し、ライブのタイトルも同じ「stepping stones」だったわけだから、ミニアルバムの曲は毎月ライブのセットリストに挙がっていた。ライブの開催形態は、8月から12月が3人のゲストを迎えて4人、2023年1、2月はゲスト1人で2人、3月は井手のワンマンという形で変わっていき、その分井手が歌う曲数もアンコールを含めて6曲程度から、共作/共演曲を入れて9曲程度に増え、最後の3月は一部だけの曲も含めて20曲になっていたが、「琥珀花火」は毎月欠かさず登場した。ほかの曲は、8月に「CANDY」、9月に「オトナ」、10月に「so much to tell」がそれぞれ初登場し、11月から1月にも1度ずつ再登場して、3月には「ヒカリ」も含めてミニアルバムの全曲が歌われた。

このように書くと、同じようなライブが毎月繰り返されたかのようだが、3月のワンマンは明らかにそれまでの月とは質が違っていた。本人も、stepping stonesの向こう側の景色をお見せしたいと言っていたが、それまでの本人によるピアノ、ギターだけではなく、パーカッションとキーボード/マニピューレーションのふたりのサポートミュージシャンが入り、毎月ライブで初登場の曲や『stepping stones』以後の新曲も多数含まれていた。同じ「雲の向こう」でも、nabeLTD(キーボード/マニピュレーション。10周年ライブの会場の経営者、ピアノ担当でもあった)の新アレンジはとても新鮮で、このバージョンの音源もほしいと思ったぐらいだ。『stepping stones』は、門のなかには入ったがまだ玄関のなかには入っていなかったということだったのである。『stepping stones』以後の新曲もすべてnabeLTDアレンジで、まず音のレベルで十分に向こう側を感じることができた。

 

アンコール前の最後の曲として「いいじゃん」という新曲が歌われたが、アンコールで再度ステージに出てきて歌う前の告知で5月5日にこの曲が配信リリースされることが発表された。ミニアルバム『stepping stones』の曲はミニアルバムを買わなければ聴けなかったが、「いいじゃん」はiMusic,Spotify、YouTube Music等々の配信サービスで購入、ダウンロードできる。もちろん、私も発売当日に購入、ダウンロードした。ありがたいことに、歌詞もネットで見られる( https://linkco.re/r01764QE/songs/2184274/lyrics 曲自体も https://www.youtube.com/watch?v=SaAowFHvaUY で聴ける)。

その歌詞を見ると、確かにstepping stonesを渡って向こう側に行ったということが感じられた。あとから振り返ると、それまでのライブでもこの曲は何度も歌われていたのだが(10、12、2月)、歌詞というのは文字で見るまではなかなかわからないものだ。

冒頭の「眼鏡外すと/テールランプもイルミネーションみたいだ」の2行がなんともうまい。これだけであまりはっきり見えすぎない方が本当はつまらない(かもしれない)ものでもすばらしいものに見えてよいというテーマがしっかり伝わってくるだけでなく、夜、恋人同士がふたりで車に乗ってどこかに向かっていることまでわかる。あとで重要な役割を果たす「眼鏡」という小道具も登場させている。

ここで情報量を稼いでいるので、あとはゆったりと進められる。3行目でこれはすごい大発見ではないのだよと軽く謙遜してみせているが、この「お茶目な思考回路」は、つい昨年の『stepping stones』までとは大きく違うことを考えている。たとえば、『stepping stones』の「so much to tell」は、「いいじゃん」とは「私」と恋人の立場が逆だが、「so much to tell」の「私」は自分が知らない恋人の苦しみを知りたがっている。それに対し、「いいじゃん」で「見せない」と言っているのは、お互いに「大切なものは見えないくらいが/ちょうどいいじゃん」ということだ。決して、「私」のことは知らせないけど相手のことは知りたいということではないのである。実際、今までの井手の歌詞は、真実とは何かを追い求めて先へ先へと突き進んでいくような感じのものが多かった。そしてそれが彼女の魅力でもあった(過去形を使ったが、今もそれが魅力であることは変わらない)。そういう意味では、「雲の向こう」も「飾らない愛」も「消えてなくなれ、夕暮れ」も『stepping stones』の各曲も共通したところがあると思う(『stepping stones』には挫折による屈折があるので、それまでとはちょっと違った色合いが出ており、だからこそstepping stonesなのだが)。

しかし、「やけに鮮明な世界は/超あっけなくなって/もう何も生まれない気がしてた」という4行目から6行目からは、そういった世界をばっさり切り捨てるかのような響きがある。そう言えば、「いいじゃん」について井手自身がなにか書いていたなということを思い出し、Facebook、Twitter、Instagramを探してみたがどうしても見つからなかった。この文章を書き始めてから、ファンクラブメッセージというものがあったことを思い出して見てみると、5月5日の「いいじゃん」発売の告知として、5月1日に投稿されたものにまさにぴったりなことが書かれていた。

《私は自分の曲に対して、言葉や背景は綺麗であるべきとか、誰もが頷くことを書くべき、と思っていたんですが、人間そんなに完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりするなあと思ったりして》

有料会員だけが読めるものなので引用は一部だけだが、「いいじゃん」の4行目から6行目は作詞論だったのではないかとさえ感じられる。そして、曲の冒頭の比喩が意味することもここにはっきりと書かれている。

 

逆に、このファンクラブメッセージを見直したおかげで、17行目から19行目の「視界は良好?/歪な心に尋ねても意味ないよ/あれこれ悩むより揺れていたいな ah」の「歪な心」の持ち主が誰かもわかった気がする。特定の誰かではなく誰もがそうなのだということではないだろうか。「歪」という言葉からはかなり強いマイナスの力が引き出されるが、「完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりする」人間に良好な視界を求めても確かに意味はない。「あれこれ悩むより揺れていたい」というのもいい言葉だと思う。「悩む」のは正解がほしいからだが、正解なんてないよと思えば「揺れ」を楽しめる。「鮮明な世界」を完全に捨てる必要もないということになるのではないだろうか(「鮮明な世界」だけを求めるということはなくなるだろうが)。

そしてほとんど最後のところに「ほら眼鏡外してキスしよう」という歌詞が入っているのが心憎い。夜、車に乗っている恋人同士はいつまでも車で走っているわけではない。キスをするというのはある目的地に着いたということだ。キスをするときに眼鏡を外すのは当たり前のことだが(実際、目もつぶるものだが)、冒頭の「テールランプもイルミネーションみたいだ」という歌詞の残響も聞こえてくる。つまらないかもしれない?相手がずっとすばらしく感じられ、いい時間がやってくるのである。そういう時間の流れを短い曲のなかで感じさせるのは見事な手腕だと思う。

このように見てくると、井手綾香のシンガーソングライターとしてのキャリアにおいて「いいじゃん」はかなり重要な曲だったのだろうと思われる。改めてこの1年弱に起きたことを思い出すと、3月ではなく7月(彼女の誕生月らしいが)に11周年コンサートを開き、そこで自主制作のミニアルバム『stepping stones』の発売を発表し、8月から3月まで毎月1回ずつゲストも呼びながら主催ライブを開催し、そのライブの10月の回に「いいじゃん」を発表し、ワンマンで開催した最後の3月に配信シングル「いいじゃん」のリリースを発表して、nikieeとのふたりライブをふたりで主催するとともに、その他各地のイベントに出演しているということになる。それまでの数年と比べればとても盛り沢山だ。

私たちオーディエンスは、そういう時間感覚で彼女の新曲に接してきたわけだが、井手自身の時間はおそらく違うだろう。『stepping stones』に入れた曲は、「琥珀花火」以外、おそらく2020年頃から2022年の始め頃までに書き溜められてきたはずだ†。ひょっとすると、曲は出てきても歌詞が出てこないという時期があったのかもしれない。いずれにしても、そうやって書き溜めた曲で音源を作るというところまではどうもなかなか吹っ切れないでいたのではないかという気がする。ところが、2022年3月から7月までの間に「いいじゃん」が生まれて新たな視界が開けた。「いいじゃん」までのstepping stonesを示すという形でミニアルバムを作り、3月にやらなかった11周年ライブを7月にやって、そこから始まる1年ほどのプランを立てた。何が言いたいかというと、stepping stonesという言葉は、すでに「いいじゃん」ができている時点で、それまでの過程を表すために出てきたのではないかということだ。すべては「いいじゃん」から始まり、「いいじゃん」を前面に押し出すための1年がかりの準備だったのではないかという気がする。

もちろん、こういう想像はほとんど外れるのが普通であり、当たっていたとしてもだから何? というようなものだ。しかし、あれこれ想像するのは楽しいし、そういった想像を引き出す力を持った作品に触れられるのはファンとしてうれしい。前稿の最後のところで、「生きてきた年輪を感じさせる井手綾香の曲を聴いてみたいものだ」などと生意気なことを書いたが、まるで井手がその呟きを聞いて望みをかなえてくれたような気までしてくる。昨年10月に初めて聴いたときには「いいじゃん」がどのような意味を持つ曲かということが全然わからなかったが、5月のリリースにともない、歌詞が公開されて、ようやくそれを想像できるようになった。

3月のライブでは、ほかにも新曲がいくつも披露された。私が聴きに行けていないライブでも、それら(ひょっとしてそれら以外も?)が歌われているらしい。歌詞も見られる形でそれらをじっくり聴けるときが来るのを楽しみに待っている‡。

とは言え、自主製作CDで歌っているものであり、井手自身が自分で歌詞を書いても同じような内容になるというぐらいの近さはあるはずだ。

 

 

† 「琥珀花火」はフリーになる前からライブでは歌ってきたと過去のライブのMCで彼女自身が言っていたのを聞いた記憶がある。それから、「CANDY」は「いいじゃん」ができたあとで作ったものかもしれないという見方もできると思う。

‡ この文章は最初の部分とあとの部分とで何か空気感が違うんじゃないかと思われたかもしれない。それはそう感じるのが正しい。書き始めたときには、こういう形で終わるとは想像もしていなかった。書いている途中で、気になるファンクラブメッセージを再発見してから空気が変わった。筆者としては、その揺れも含めて記録しておこうということだ。

 

 

 

宮柊二「定本宮柊二全歌集」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

昭和31年12月に東京創元社から刊行されたこの本は、それまでに発表された「群鶏」、「山西省」、「蒟駅の歌」「小紺珠」「晩夏」「「日本挽歌」の諸歌集に「群鶏」以前」の作品を加えたほぼ二千首からなり、昭和4年から28年に到る24年間に詠まれた作者自選集である。

宮柊二の師匠が北原白秋であることは知っていたが、白秋死後の師が釋迢空氏であることは山本健吉氏の解説ではじめて知った。しかし「美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか」(「群鶏」)という殉教の歌に白秋調の抒情を看取することはできても、なぜ釋迢空なのかという疑いと不審の念は本編を読了してからも胸から消えなかった。

ところが改めて本書の巻頭を捲っていると、「謹呈大佛次郎先生 宮柊二」と達筆の草書で記された、時代がかった和紙が目に飛び込んできた。

私が借り出した本書は、なんと宮柊二が大佛次郎に恵贈したもので、それを遺族が図書課に寄贈したのだろう。色紙等でみる釋迢空そっくりの草書体をこの目でみた私は、「宮=釋を結ぶ絆ここにあり」と、はたと膝を打ったことであった。

それはともかく、本書の白眉はいうまでもなく「山西省」で、1939年以来5年間に亘って、大陸で中国兵と戦った作者は、その戦闘体験をいかにも生々しく歌っている。

 
 

 磧より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり
 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば聲も立てなくくづをれて伏す
 息つめて闇に伏すとき雨あとの土踏む敵の跫音を傳ふ

 
 

作者の「後書」に、「私は少年のころ、畫家を志望した」と書かれていたが、自他の刹那の行動を、さながら「神の視点」より一撃のもとに把握し、再現する表現力に圧倒されないものはいないだろう。

「目はまなこである」とは言い古された格言であるが、さながら「現代只事歌の元祖」のような、この非凡なる動体視力が冴えわたる異様なまでの眼力は、もしかすると「天性の絵描きのまなこ」の所産なのかもしれない。

いずれにせよ宮柊二の激烈な戦争体験は、後続の「蒟駅の歌」「小紺珠」「晩夏」「「日本挽歌」などの歌集においても、時折地下の仕掛け花火のごとく炸裂するのであるが、1986年に「歌集 純黄」の代表歌「中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」において、その総括的達成を迎える。

さりながら、他の歌人あるいは大多数の日本人兵士と同様、「他国への侵略者としてのみずから」を詠う機会がついに訪れなかったことは、無い物ねだりとはいえ、この偉大な歌人のために甚だ惜しまれるのである。

 
 

 

 

 

村岡由梨詩集『眠れる花』
詩の言葉が生まれる瞬間

 

長尾高弘

 
 

 

1

 浜風文庫で村岡さんの詩を初めて読んだのはいつだったかもう忘れてしまったし、どの作品を読んだのかも覚えていないが、これはすごいと思ったことは間違いなく覚えている。近頃なかなかない衝撃だった。今年(2021年)の春にちょっとしたきっかけでFacebookの友だちにしてもらって、6月13日に映像個展〈眠れる花〉を見に行き、そこで初めてちゃんと挨拶し(村岡さんの方から声をかけていただいたんだけど)、会場で売られていた小詩集『イデア』を買って読んだ。
 7月に刊行された詩集『眠れる花』は2部に分かれていて、1には小詩集『イデア』がそのまま収められている。2は「イデア、その後」となっているが、1の3倍ほどの分量がある。詩集を開いて目次を見たとき、このアンバランスな分け方はどういう意味なのかとちらっと思った。しかも、短いセクションには「イデア」という明確なタイトルがあるのに、長い方は「イデア、その後」という自立していない感じのタイトルになっている。もっとも、そこにこだわっていてもしょうがないので、作品を何度も読んだ。読んでみて、ちょっとわかったことがあった。
 周知のように村岡さんは映像作家として知られ、国際的な賞をいくつも受賞されているのだが、初めて映像作品を作られてから20年近くたって、なぜ詩という表現手段にも進出されたのかは、私でなくても誰もが興味を持つところだろう。驚いたことに、この詩集にはその答え、とまでは言わなくてもヒントが書かれている。それもひとつではなくふたつある(いや、3つか?)。
 ひとつ目は、「イデア」の部分にある。「しじみ と りんご」の最終連(とその前の連)だ。

   死なないで、しじみ。
   これ以上大切なものを失いたくない。
   ただそれだけなのに
   小さな赤い心臓も、グリーンの目も、白くてやわらかな胸毛も、
   いつか燃えて灰になってしまう。
   後に残るのは、始めたばかりの拙い詩だけだ。

   それでも、私が言葉を書き留めたいのは、
   決して忘れたくない光景が、
   今、ここにあるから。
   もう二度と触れることが出来ない悲しみでどうしようもなくなった時、
   私は何度もこの詩を読み返すんだろう、と思う

 その名も「イデア」という作品に〈永遠に続くと思っていた関係にも/いつか終わりの時がやってくる。〉という2行があるが、この詩集ではすべてがいずれ失われるという思いがあちこちで吹き出している。完全に取り戻せるわけではなくても、言葉はその失われたものを思い出すための手段になる。
 もっとも、作品「イデア」には、次のような行もある。

   永遠に続くものに執着して
   何かを失うことを畏れて悲しんで
   壊れてしまった家族の記憶と、壊れそうな家族と
   瀕死の飼い猫についての映画を撮った。

 つまり、失わないため、あるいは失われたものを思い出すための「映画」もあるわけだ。それでは映像だけではなく詩に進出したのはなぜかという素朴な疑問への答は再びわからなくなってしまうが、もはやそんなことはどうでもよいような気もする。あえて言えば、詩の方が適したものと映像の方が適したものがあるというようなところなのではないだろうか。
 それは、初めて詩の言葉が吹き出したとき、つまり、この詩集の冒頭の2篇を読めばなんとなくわかるような気がする。それぞれ、詩集のタイトルにもなった眠(ねむ)と花(はな)のふたりのお嬢さんのことを描いているが、冒頭の1行がどちらも波乱含みになっている。

   このところ、娘のねむとの会話がぎこちない。
           「ねむの、若くて切実な歌声」

   夫とケンカした夜のことです。
           「くるくる回る、はなの歌」

 ところが、「ねむの、若くて切実な歌声」では3連目から、「くるくる回る、はなの歌」では次の2行目から、ふたりのお嬢さんがその暗い気分を吹き飛ばしてくれる。それはやはりかけがえのない瞬間、絶対に忘れたくない瞬間だろう。冒頭の暗雲を吹き飛ばしてくれただけに、その瞬間の大切さは際立ってくる。
 その大切な瞬間を映画という形で残すにはどうすればよいだろうか。まさかもう一度その瞬間を演じ直して撮るわけにはいかないだろう。思いがけないことだったから心を動かされたわけで、脚本を作って演じたのでは、予想外だった、思いがけないことだったという大切な部分がなくなってしまう。しかし、言葉で書けば、思いがけない喜びをそのまま再現できる。言葉と映像には、そのような違いがあるような気がする。
 もっとも、最初からそういうことを意識して詩を書くことを選んだということではなさそうな気もする。というのも、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という気持ちは、この2作では明示的には書かれていないからだ。もちろん、単に詩の流れのなかで、そういう言葉の出番がなかっただけなのかもしれないが、そういうことではないような気がする。
 そもそも、「ねむの、若くて切実な歌声」は、詩を書こうとして書かれた言葉ではないようにさえ思える。書き留めて形にしないではいられないような言葉が生まれ、それがどんどん頭に溜まっていき、悪戦苦闘してやっと書き留めたとき、初めてそれが詩だったことに気づいた、というようなことではないかという気がしてならないのである。ひとりの人のなかで初めて詩が生まれるというのは、そういうことなのではないだろうか。詩のなかに、ねむさんが歌った様子を描写した次のような4行があるが、

   最初は、はにかみながら
   途中吹っ切れたように、

   ねむが、まっすぐ前を見据える。
   歌声が、大きくなる。

これはまるで村岡さんのなかで詩が初めて生まれてこようとしているときの比喩のようにも感じられる。〈切実な歌声〉なのだ。
 それに対し、2作目の「くるくる回る、はなの歌」は、すでに詩を書こうとして書いた作品になっているように感じる。それは、先ほど引用した冒頭の1行のほか、〈よく回転する姉妹です。〉という行で、ですます文が使われているからだ。読んでいてこのふたつのですます文のところにさしかかるたびに、作者が読者としての私に語りかけてくるような錯覚に陥る。このような語りかけは、最初から作者に詩を書く、人に見せる作品を書くという意識がなければ出てこないだろう。実際、1作目以上に作者の意図(はなさんのことを書く)がはっきりと感じられる。回転寿司に側転という回転続きのエピソードに対し、一見回転とは関係のなさそうなエピソードもあるが、回転とは空気を瞬時に変えてしまう意外性のことかと考えればなるほどと思い、描かれているはなさんのイメージの鮮やかさと爽やかさが印象に残る。
 「しじみ と りんご」はこの2作が書かれたあとの3作目である。この作品は、いつ死んでも不思議ではない重い病気を抱えた猫に、不死身という言葉から〈しじみ〉という名前を付けて、〈死なないで、しじみ。〉という、あえて言えば絶対にかなわない願いをかけるという矛盾を抱えている。最初の2作を意識的、または無意識的に踏まえた上で、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という言葉が出てくる必然性があるのではないだろうか。
 小詩集『イデア』の掉尾を飾る作品「イデア」では、このような思いに「イデア」という名前が与えられる。常識的に言えば、「イデア」とは、生まれては消えていく現象とは異なり、そういった現象を生み出す根拠となる決して消えない本質的な存在としての観念というようなことだろう。しかし、村岡さんの「イデア」は、永遠に続くものなどないという断念を前提とした上での、〈永遠に続くもの〉への〈執着〉、〈何かを失うこと〉への〈畏れ〉(「恐れ」ではないことに注意したい)と〈悲し〉みという人としての思いらしい。
 しかし、この作品には、〈「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった」〉という〈野々歩さん〉の言葉と、〈私には一緒に泣いてくれる人がいるんだということに気が付いた〉という暗闇の出口から差す光がある。〈時間の粒子が流れるのが、一つ一つ目に見えるよう〉だという〈いつかの魔法〉の世界の美しさには目を瞠る(今まであまり触れてこなかったが、技術的な巧さも相当のものだ)。ここで小詩集『イデア』の世界がよい形でひとまず完結し、全体に「イデア」という名前が与えられるのは納得できる。
 ところがそのしじみが、次の作品(「しじみの花が咲いた」)が書かれた2か月後までの間に死んでしまう。

   野々歩さんは身をよじらせて、声をあげて泣いた。
   慟哭、という言葉では到底表しきれない
   言葉にできない何かが
   何度も何度も私たちを責めるように揺さぶった。

この4行に込められた悲しみの深さは、一読者の胸にも響くものがある。さらに、荼毘に付されてほとんど灰になったしじみを見て、〈私は言葉を失〉い、それからのひと月は〈空っぽ〉になってしまう。〈空っぽだった心〉に新たな〈気持ちが芽生えてきた〉のは、亡くなったしじみにかぶらせた花冠と同じヒナギクを庭に植え、その花が一輪咲いたときだった。ここで詩を書く第2の理由が生まれる。

   「言葉にできない気持ちを言葉にするのが詩なのだとしたら、
   もう一度、言葉に向き合ってみよう。」

しじみを失って言葉を失った〈私〉には、まもなく〈しじみの花〉も枯れてしまうという試練がやってくるが、もう言葉を失ったままにはならない。

   わからないまま
   今日もレンズ越しに、言葉を探している。
(中略)
   答えのない問いを、何度も繰り返しながら。

 これで詩は村岡さんにとってはるかに大きな存在になったと思う。あえて言えば、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉ということなら、詩が必要になるのは特別なときだけに限られるだろう。そういえば詩を書いていた時期もあったなあという人は、詩のない生き方は考えられないという人よりもずっと多いはずだ。〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈答えのない問いを、何度も繰り返しながら〉〈言葉を探〉すということになると、詩は生きることの中心に関わってくることになる。詩集のふたつの区分のうち、「イデア」が〈言葉を書き留めたい〉という時期、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期だとすると、後者の方がずっと多いのは当然だと思う。

 

2

 もっとも、〈決して忘れたくない光景が、/今、ここにあるから〉〈言葉を書き留めたい〉という思いがはっきりと言葉になったのが3作目だったのと同じように、〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈言葉を探〉すという作業は、すでに「イデア」の時代から行われていたようにも思う。それは、「イデア」の部で今まで触れてこなかった「未完成の言葉たち」と「青空の部屋」の2つの作品で顕著に感じることだ。
 「未完成の言葉たち」は、タイトル自体が言葉を探した戦いの跡だということを示しており、4つの断章から構成されている。「1 「旅」」は、次の4行から始まる。

   いつかバラバラになってしまう私たち
   今はまだ、そうなりたくなくて
   必死に一つに束ね上げ
   毎夏、家族で旅に出る。

 最初の3行で「しじみ と りんご」までの3作に漂っていた不安を言語化しており、この不安が作品全体を覆うことになる。最初の3作にも不安はあるが、その不安を吹き飛ばす要素が出てくる。しかし、「未完成の言葉たち」では「1 「旅」」のなかのはなさんの笑い声ぐらいしか救いがない。その笑い声も、〈いつかバラバラになってしまう私たち〉の予兆として描かれていると思う。最終連の〈遠く離れて撮っている私〉は、頑張ってもいずれバラバラになってしまうという思いに駆られているように見える。
 ただ、ここでかすかな疑問が浮かぶ。家族の絆というものが案外もろいものだということは事実だとしても、いずれかならずバラバラになるとまで思うのは、ちょっと度を越しているのではないだろうか。少々ごたごたすることがあっても、家族の絆を疑わない人もいる。家族の絆がもろいという思いは、かつて家族が壊れたことがあるという経験があるからではないだろうか。
 詩「イデア」では、村岡さんにとって11本目の映画『イデア』(映像個展〈眠れる花〉でも上映された)のことが触れられているが、〈壊れてしまった家族の記憶と、壊れそうな家族と/瀕死の飼い猫についての映画〉だと要約されている。実際、「1 「旅」」に書かれている秩父旅行は映画『イデア』に含まれており、赤紫色の花も、自分以外の3人を少し離れたところから撮っているショットもある。「2 「夜」」は、この詩集で初めて出てくる暴力的で残酷なシーンだが、〈お母さん〉が出てくることからも、〈壊れてしまった家族の記憶〉だと考えられるように思う。〈私〉と〈あの女〉と〈お前〉がいるが、全部同じで自分のことを指しているのではないだろうか。
 「3 「空」」は〈――未完成――〉と書かれているが、この詩集は、作品が完成したかどうかにかかわらず、書かれたものを次々に突っ込んで作られたようなものではない。実際に印刷された本になったものと、最初に発表された浜風文庫のものとでは、いくつかの作品で異同がある。だから、〈――未完成――〉というスペースホルダーを置いていることには何らかの意味があるはずだ。たぶん、次の「青空の部屋」がこの「3 「空」」にあたるものなのではないのかと思う。ただ、「青空の部屋」として完成したものはもう「未完成の言葉たち」の枠には収まりきらなかったようだ。
 「青空の部屋」は、「未完成の言葉たち」の「2 「夜」」と「1 「旅」」のふたつの家族をつなぐ時期のことを書いているように感じられる。壁紙として選んだのは青空だが、学校にはほとんど行っていないという。〈夜が更けて/私がいた部屋は光が無くなり真っ暗闇になった。〉とあるので、青空の壁紙の部屋にずっと籠もっていたのだろうか。天窓から本物の青空は見えたようだが、一見開放的な青空の壁紙のなかで閉じこもっているという矛盾がある。実際、感じていたのは〈自分の精神と魂が互いの肉体を食い潰していく激しい痛み。〉だ。そして〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉と自己規定している。

   この時期、私と私の核との関係は、
   ある究極まで達したけれど、
   それと引き替えに、
   私の時間的成長は、15歳で止まってしまった。
   私が発病した瞬間だった。

これは恐ろしい言葉だ。〈ある究極〉とは、自分は〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉だとわかってしまったということなのだろうと思うが、それは安心が得られる自己理解からはほど遠い。そして、そこで止まってしまったというのである。そこは、言葉の見かけとは裏腹に固く閉ざされている牢獄のような「青空の部屋」だ。
 「青空の部屋」をこのように読むと、「未完成の言葉たち」の「4 「光」」を読む糸口が見えてくるように思う。何しろ、この部分は〈もう鎖は必要ない。〉という解放の瞬間を歌っているからだ。しかし、〈けれど、もうすぐ私は私の体とさよならする。/真の自由を手にするために〉という自殺の示唆は、本当の解放なのだろうか。
 もちろん、そうではないだろう。〈やがて「青空の部屋]で死んでいくんだろう。〉という行を含む「青空の部屋」が「未完成の言葉たち」の「3 「空」」の位置に入るのではなく、「未完成の言葉たち」の「4 「光」」のあとに続く別の作品になったのは、自殺すれば解放されるわけではないという考えに落ち着いたからではないだろうか。そして、このように考えていくと、次の詩作品「イデア」の先ほども引用した次の箇所がとても大きな意味を持っていることを感じる。

   いつもは何かと注文をつけたがる野々歩さんが、
   「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」
   と言ってくれた。
   その言葉を聞いて、
   私には一緒に泣いてくれる人がいるんだということに気が付いた。

 

3

 長くなったが、〈言葉にできない気持ちを言葉にする〉ために〈言葉を探〉すということが『イデア、その後』よりも前から始まっていたという話だった。先ほども触れたように、「イデア、その後」では、そのような作業がさまざまな方向に向かって行われていく。言葉を必要とするあらゆるものが次々に詩の題材として取り上げられているように感じる。そして、それは見事に成功して、さまざまなものが言葉を見つけて村岡さんの詩の新しい領土になっていく。
 ただ、それらのなかでも私には読者として特に気になるテーマがひとつある。それは〈お父さん〉のことだ。『イデア』のなかですでに始まっていた〈言葉を探〉す作業が直接つながっているのは、このテーマだと思う。そして、このテーマは村岡さんをもっとも苦しめているテーマでもあるようだ。
 一冊を読み終えたときに強い印象を残す〈お父さん〉だが、初めて出てくるのは意外と遅い。「イデア、その後」のなかの「クレプトマニア」で、全体の9作目である。それに対し、〈お母さん〉は「イデア」に含まれている全体としては3作目の「しじみ と りんご」で登場し、「未完成の言葉たち」や「青空の部屋」でも登場している。そして、「クレプトマニア」での〈お父さん〉の初登場のしかたは異様だ。
 クレプトマニアとは病的に窃盗を繰り返してしまうことである。最初の6連、2ページ半は〈私〉が繰り返したそのような食べ物の窃盗と〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉というテーマで進んでいく。正確に言うと、2連から5連までは窃盗の記憶と罪の感情であり、窃盗が見つかった破局的な場面の記憶であり、〈あなた〉が〈私〉を〈メッタ打ち〉にしたあとで〈きつく抱きしめ〉た記憶で、非常にはっきりとした映像が目に浮かぶ(〈あなた〉に対する告白という形で全体が「ですます」調になっているからということもあるだろう)。
 「クレプトマニア」というタイトルの詩だが、クレプトマニアの話はこの5連で終わってしまう。何しろ5連で〈それ以降、私はパタリと盗みをやめました。〉と言っているのだから、非常にきれいに終わってしまう。本当のテーマはクレプトマニアではないのではないか。実際、不潔で醜い男たちとの性交、しかもその男たちは自分であるというという1、6連のテーマの方がクレプトマニアのテーマよりも映像がはっきり見えて来ない分、深いのではないかと感じさせられる。窃盗癖は克服できた〈けれど私の外形は醜いまま〉。克服できないものがあると言っている。
 正直なところ、私には〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と窃盗のつながりがよくわからない。たぶん、作者には切実なつながりがあるのだろうとは思うが、むりやりこじつけて考えてもあまり意味がないような気がするし、そこまで踏み込まない方がよいような気もする。あとで(16連)、〈切れない刃物でメッタ刺しにされているような気分。〉という〈夫〉の感想が紹介され、なるほどと思わされるが、そのような感想になるのは、外からは本当の核心がよく見えないからだろう。
 7連では1、6連の〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉の身の置所のなさから〈お母さん〉に助けを求める。ちなみに、2連から5連までの間にも親である〈あなた〉が出てくるが、この〈あなた〉は〈お母さん〉とは呼ばれていない(あとで触れるように、〈お母さん〉であることは間違いないが)。しかし、7連で〈お母さん助けて〉と悲鳴を上げたあとの8連では、生まれた家での家族が列挙される。

   お母さん、お姉ちゃん、弟、お父さん。友達。
   たくさんの人たちを傷つけながら生きてきた。」
   私の生活は今、
   たくさんの人たちの不幸の上に成り立っている。

 家族の列挙の仕方として〈お父さん〉を最後にするというのはなかなかないことだが、その後の「家族写真(抜粋)」で父親はほかの女性と別の家庭を築いたことが明かされ、なるほどと思うことになる。これだけ多くの人を列挙しているが、9連から11連は〈お父さん〉の発言と〈お父さん〉への謝罪と〈私〉の応答で、ほかの人たちは登場しない。しかも、その〈お父さん〉の発言は、人の親としてまったく信じがたいものである。

   「お前たちは育ちが悪い」
   「由梨はヤク中」

 最初の1行は、子ども全員を切り捨てるだけでなく、〈育ちが悪い〉という表現で母親も侮辱している。次の1行は、最初の1行よりももっと強い言葉で由梨さん個人を侮辱している。ここで〈たくさんの人たちを傷つけ〉ているのは、〈私〉ではなく〈お父さん〉なのである。しかし、〈私〉は〈お父さん〉に謝ってしまう。

   お父さん、誇れるような人間でなくて、ごめんなさい。

   お父さん、私のことが嫌いですか?
   私は、私のことが嫌いです。

 9連2行目の部分に対して〈私〉が謝るのはまだわかるが、これでは1行目で侮辱された母と姉、弟は救われない。
 先ほど、〈夫〉の感想について触れたが、この詩はもとの詩とそれに対する感想の両方から構成されている。〈夫〉の感想が入っている16連の冒頭は〈この詩を一気に書き上げて、〉という1行なので、もとの詩の部は15連までで、それに対する感想の部は16連以降のように見える(実際、浜風文庫で発表された初出形では、15連と16連の間に3行分ぐらいの空行が入っていた)。12連から15連は、9連から11連と同じように、〈私〉以外の人(ふたりの娘さん)の言葉に対する〈私〉の反応であり、詩のリズムとしては9連から11連とうまく響き合っている。
 しかし、内容から考えると、11連までの登場人物は結婚、出産前の家族だったのに対し、12連以降からは新しい家族が登場している。そして、12連から15連でふたりのお嬢さんが発する言葉は、11連の2行目、〈私は、私のことが嫌いです〉に対する反応である。お嬢さんたちがこの詩の前の部分を読んでいるのか、母親がこの詩と関係のないところでときどき口にする(のではないかと想像される)〈私のことが嫌い〉という言葉に反応しているのかは明確には示されていないが、16連の〈夫〉の感想のあと、17連以降でふたりのお嬢さんが〈私〉を抱きしめるところが描かれているので、彼女たちも11連までの全部を読んだのかもしれない。
 いずれにしても、ここで言っておきたいのは、11連までで前後を区切って読むと、この詩を読む上で何かと役に立つということである。15連までで区切って読むと、12連から15連が11連までの毒を洗い流してくれるというシンコペーションのような効果があるが、逆に11連までが訴えていた苦しみが見えにくくなる。言いにくいことを断片的に言葉にしながら、辛さの根源が〈お父さん〉にあることにようやくたどり着いたことがぼやける。それは、ぼやけるように書いたということでもあるのだろう。
 作者にとって、この詩はたぶん「もとの詩」よりも「感想」に意味があると思う。16連で夫の感想に反応したあと、次の3行がある。

   決して虚構を演じているわけではないけれど、
   私の中に詩という真実があるのか、
   詩の中に私は生きているのか。

どう読んだらよいか、なかなか迷うところだ。仮に「もとの詩」は11連までだったとして、クレプトマニアにしても〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉にしても父親の言葉にしても、そうですよね、そういうこともありますよね、と簡単に納得できる話ではない。〈私の中に詩という真実があるのか〉という言葉からは、〈私〉の真実は〈私〉以外の人には伝わらないのかという苛立ち、〈詩の中に私は生きているのか〉という言葉からは、〈私〉は本当に生きているのかという不安を感じる。
 しかし、次の17連でふたりのお嬢さんに抱きしめられ、次の4行が生まれる。

   幼い頃の大きな渦に飲み込まれたまま
   いつしか私は
   抱きしめるだけではなく、
   抱きしめられる立場に、また、なっていた。

〈あなた〉に抱きしめられてクレプトマニアから卒業できた5連がここで想起される。かつて子だった〈私〉は母になっており(ここで5連までの〈あなた〉が〈お母さん〉であることは間違いないと判断できる)、ふたりの子を抱きしめているが、またふたりの子に抱きしめられてもいる。

   その瞬間、
   間違いなく詩の中に生きていた。
   詩の中に生きていた。

という最後の3行からは、本当に生きているという充足感が伝わってくる。しかし、〈その瞬間、〉という限定と過去形からは、その充足感がいつまでも続くわけではないという思いも感じられる(実際、母に抱きしめられてクレプトマニアから卒業できた5連のあとの6連は〈けれど〉で始まって、〈醜い私を愛してくれる人など、いるわけもなく/私は私を愛するしかなかった。〉という閉塞に引き戻されている)。
 〈お父さん〉のことに話を戻そう。先ほども触れたように、「クレプトマニア」の「もとの詩」を11連までだと考えると、辛さの根源が〈お父さん〉にあることがはっきりする。〈「お前たちは育ちが悪い」/「由梨はヤク中」〉の2行だけでも相当なものだ。しかし、当事者ではない読者としては、もう少し手がかりがほしい。先ほども触れた「家族写真(抜粋)」には、次の3行がある(タイトルに「(抜粋)」とあるのは、浜風文庫の初出では、“”で囲まれた部分の後ろに家族写真を燃やしたことへの後悔の言葉が続いているからである)。

   精神を病み、大量服薬を繰り返した私を、軽蔑していた父。
   私の母ではない女性たちとの生活に安らぎを見出した父。
   腹違いの弟たち妹たちの方が優秀だ、と言って自慢する父。

「クレプトマニア」の〈「由梨はヤク中」〉の1行の意味がここで明らかになり、〈ヤク中〉という言葉の酷さがさらに激しく感じられる。そして、〈父〉が家族を捨てたこと、もとの家族をどのように侮辱したかもわかる。しかし、「透明な私」の次の3行の方が、〈お父さん〉に対する感情をよく伝えてくれるかもしれない。

   ゆりはどこだ!ころしてやる!
   おとうさんが、わたしをさがしてる。
   わたしは、いきをひそめて、かくれてる。

もっとも、これは一度ならず見ている〈怖い夢〉で、おそらく実際にそういうことがあったわけではないだろう。ただ、父親に対してとてつもない恐怖心を抱いていたのは事実だと思う。以上以外で〈お父さん〉が明示的に出てくるのは、「昼の光に、夜の閣の深さが分かるものか」の「3 由梨」だけである。

   だいぶ前、東京拘置所にいた父と手紙のやりとりをしたことがあって、
   その中に、父から届いたこんな言葉があった。

   「由梨が小さい頃、自分の鼻を指差して『パパ、パパだよ』って教えていたら、鼻=パパだと勘違いしたらしく、
   由梨の鼻を指差して『パパ、パパ』って言ってたことがあった(笑)。」

   それを読んで、
   怖かった父のイメージが完全に覆るまではいかなかったけれど、
   私の中で何かがグシャっと潰れて、
   涙が止まらなくなった。
   人は単純じゃない、多面的な生き物なんだって
   そう、腑に落ちたというか。
   ああ、私にも父親がいたんだな
   愛されていなかった訳じゃないんだな、ということがわかった。
   完璧な親なんていないってことも、
   傲慢だけど、許す許さないってことも、
   長い時間をかけて決着がつけばいいやと思い始めている。

引用がちょっと長くなった。読んでいて読者もほっとして救われる部分だが、〈父〉を〈怖〉いと思っていることはわかる。

 

4

 全33篇のうち、これら4篇にしか登場しない〈お父さん〉がなぜ強く印象に残ってしまったのだろうか。それは、詩集を何度も読むうちに、この〈お父さん〉が村岡さんの一部として村岡さんのなかに入り込んでいると感じてしまったからだ。何しろ、この詩集のなかで村岡さんに強い憎悪の言葉を投げつけてくるのは、〈お父さん〉と村岡さん自身だけなのである。まだ保護を必要とする小さな子どもにとって親は絶対的な存在であり、その時期に親が子に与える影響は計り知れないものがある。子どもの内面の奥深くに入り込んで容易に消えない痕跡を残すことはあると思う。それは、私自身がそうだったからということでしかなく、村岡さんもそうなのだと決めつける根拠にはならないが、一読者としての私は、村岡さんのなかに内面化された父親がいるという読みにひとたびたどり着いてしまうと、もうそこから離れられなくなってしまったというわけである。
 このように読むと、父と名指しされていなくても父の影が見えてくる作品が浮かび上がってくる。小詩集『イデア』のなかにもすでにある。それは言うまでもなく、「未完成の言葉たち」と「青空の部屋」のことだ。
 先ほども引用したように、「青空の部屋」には〈自分の精神と魂が互いの肉体を食い潰していく激しい痛み。〉という行がある。〈精神〉は論理的、理性的な思考、〈魂〉は衝動的に浮かび上がってくる理性で抑えられない感情のことだろうか。そのようなご自身のことを〈「白と黒の真っ二つに切り裂かれるアンビバレンス」〉と言っていることも先ほど触れたが、この行は次の3行から導き出されている。

   男でも女でもない。大人でも子供でもない。
   人間でいることすら、拒否する。
   じゃあ、お前は一体何者なんだ?

〈男でも女でもない〉し、〈大人でも子供でもない〉のだ。私はここに内面化された父親の存在を読み込んでしまう。そして、〈…激しい痛み。〉の行のあとには次のような連が続く。

(2行略)
   緑の生首が生えてきた。
   何かを食べている。
   私の性器が呼応する。
(4行略)
   私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれてくる音だ。
   そして、漆黒の沼の底に、
   白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

〈緑の生首〉が指しているものは内面化された父のペニスだろう。それに〈呼応〉しているのは〈私の性器〉だ。どちらも〈私〉なので、〈白いユリと黒いユリが絡み合って〉いることになる(もちろん、ユリは花の百合と村岡さんの名前の由梨をかけているのだろう)。「クレプトマニア」冒頭の〈私自身〉である〈不潔で醜い男たち〉との性交とのつながりを感じる。〈私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれてくる〉というところが謎だが、〈母〉を傷つけているという罪の意識は感じられる。少し前のところで、〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と窃盗のつながりがよくわからないと書いたが、〈不潔で醜い男たちと交わる夢〉と母のメッタ打ちからの抱擁とのつながりと見れば、これと通じるところがあるのかもしれない。
 「未完成の言葉たち」では、「2 「夜」」の冒頭に〈私は、叫んだ。/「あの女の性器を引き裂いてぶち殺せ!」〉という2行がある。ここは〈私〉が〈お父さん〉としての〈私〉で〈あの女〉が本来の〈私〉だというように私は読んでしまう(〈私〉と〈あの女〉、そして、2行後の〈お前〉が全部同じ〈私〉なのではないかということは先ほども触れた)。しかし、この詩で特に注目すべきは、「4 「光」」の後半だろう。

   ある夜、6本指になる夢を見た。
   自分の体の一部なのに、自分の思うようには動かせない、
   もどかしい6本目の指。
   思い切ってナタを振り下ろしたら、
   切り裂くような悲鳴をあげて、鮮血が飛び散った。

   真っ赤に染まった5本指は私。
   切り落とされた6本目の指は誰?

   そんな風に、痛みで私たちは繋がっている。

〈自分の体の一部なのに、自分の思うようには動かせない、/もどかしい6本目の指。〉という2行にも、〈真っ赤に染まった5本指は私。/切り落とされた6本目の指は誰?〉という2行にも、自分のなかにある他者の存在が描かれている。それが〈お父さん〉であるとは書かれていないが(〈誰?〉なのだから)、「イデア、その後」を読み、全体を何度も読んでしまった私には、〈お父さん〉に思えてしかたがない。
 「2 イデア、その後」にも、同じように気になる箇所が含まれている詩がいくつかある。「診察室」は「クレプトマニア」と同じようにていねいに読みたい作品だが、それをしてしまうと長くなるし、この文章が何を目指しているのかわからなくなってしまうので省略して、やむを得ず今の話題に関連するところだけを引っ張り出してくるが、まずは電車のなかで見かけた女性を乱暴に犯す想像をする。

   私の股の間から鋭利なナイフが生えてきて、
   女の陰部は血だらけになった。
   絶頂に達した瞬間、女は不要な単なるモノになり、
   エクスタシーと嫌悪と憎悪のグチャグチャの中で私は
   醜く歪んだ女の顔を、原型をとどめないくらい何度も殴った。

〈鋭利なナイフ〉という女性を傷つける存在としてのペニスの非常に具体的なイメージが出てくる。「クレプトマニア」の〈母の産道をズタズタに切り裂〉くという表現に通じるものがある。これは単なる男ではなく、〈お父さん〉という〈私〉の内面に住み着いてしまった具体的な男性なのではないか。
 そして、〈殺す、殺される、死ぬ、死なせるなどの/不穏な言葉が〉〈飛び交う〉診察室の場面を間にはさんで次のような2連で締めくくられる。

   死刑判決を受けて、
   独居房にいる孤独なあなたを今すぐ連れ出して
   狂おしいほど交わりたい。一つになりたい。
   そして、あなたが他の人にしたように、
   私をメッタ刺しにして、殺して欲しい。

   この詩は、午前2時過ぎにあなたとわたし宛てに書いた
   歪なラブソングだ。

この〈あなた〉は誰とは名指しされていないが、殺人事件を起こして〈死刑判決を受け〉た不特定の誰かではなく、特定の人物がイメージされていると思う。そして、冒頭の想像とつながっている。〈あなた〉は〈私〉であり、「クレプトマニア」の冒頭の〈不潔で醜い男たちと交わる〉〈私自身〉や「未完成の言葉たち」「2 「夜」」の〈私〉、〈あの女〉、〈お前〉でもある。
 実は、〈父〉に関して唯一ほっとする描写が含まれているとして先ほど引用した「昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか〉は、この〈診察室〉の半月後に発表されている。これもじっくり読むべき作品で、「1 花」の部分だけ〈診察室〉の3日後に先に発表されていて、そのあとに「2 眠」、「3 由梨」が書き足されているという形なのだが、「3 由梨」の冒頭に先ほども引用した〈東京拘置所にいた父〉が出てくる。〈死刑判決を受けて、/独居房にいる孤独なあなた〉というのはその〈父〉のことであり、〈私〉のことでもあるように見える。
 「イデア、その後」には、ほかにも「絡み合う二人」、「鏡」、「ピリピリする、私の突起」などにこのテーマに関連して注目すべき箇所があり、それぞれていねいに取り上げるべき意味があると思うが、詳述は避けたい(この文章が終わらなくなってしまうので)。
 ここでちょっと考えておきたいことがある。この文章の最初の方で、「イデア」が〈言葉を書き留めたい〉という時期、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期というような見取り図を書いたが、「イデア、その後」が〈言葉を探している〉時期だというのはちょっと違うのかもしれない。〈お父さん〉、あるいは〈父〉という言葉が詩のなかに現れた過程をこのように見直してみると、〈お父さん〉という言葉は〈探して〉見つかったものとは思えない。単にお父さん一般にとどまらない村岡さんにとってある特別で具体的な意味を持った父親の像はずっと前からあり、それを表す〈お父さん〉、あるいは〈父〉という言葉は村岡さんのなかにあったと思う。
 しかし、言葉を発すること、特に文字や映像として残るような形で発することには、途方もないエネルギーが必要になることがあると思う。自分にとって特に重い意味があり、容易に解決できないことでは特にエネルギーが必要になるだろう。そういう言葉を発するためには、何かしら噛み砕いてその言葉を客観化(無害化?)できるようにする咀嚼の過程(気持ちの整理?)が必要になる。村岡さんが詩よりも十数年前から取り組んでこられた映像作品でも、公式サイトの映像作品紹介のページ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/works.html )を見た限りでは〈父〉というテーマは見当たらない。〈未完成の言葉たち〉、〈青空の部屋〉、〈クレプトマニア〉、〈家族写真(抜粋)〉、〈診察室〉(触れそこなっていたが、この作品は浜風文庫では〈家族写真〉の次に発表されており、詩集でも同じように配列されている。また、映像作品の『イデア』に家族写真を燃やすシーンがあるが、詩作品〈家族写真〉の3連以降の内容は映像作品には含まれていない)、〈昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか〉という作品の流れを見ると、〈言葉を探〉す過程というよりも言葉を咀嚼し、外に発せるようにする過程のように感じる。

 

5

 詩集を何度か読むうちに、この詩集はノンフィクションとして書かれていると思うようになった。これはかなり珍しいことだと思う。今どき、詩を書こうと思って現代詩の講座に通えば、詩はフィクションでよいのであって、小学校で教わったように思ったことを正直に書くことを最優先にすることはないと教わるだろう(もっとも、私には講座に通った経験はないのでここは想像である。小学校でそういうことを教え込まれた経験の方はある)。独学でも、ゲンダイシというものを目指したのなら、あれこれの詩論などを読んで、思ったことを正直に書いたりしないものだということを学ぶ(私はこっちの方)。
 そう思った理由はいくつかある。ひとつは随所に挿入されている写真だ。「1 イデア」の最後には、こちらを向いている猫が小さく写っている家のなかで撮ったと思われる写真がある。これは生きていたときのしじみなのだろう。小詩集『イデア』には、これを含む4枚の猫の写真がある。「しじみの花が咲いた」には、黄色い花の写真がある。「はな と グミ」には折り紙、「眠は海へ行き、花は町を作った。」には小さな町という詩のなかで出てきたものの写真が入っている。そして、映画『イデア』には、家族写真を燃やすシーンがある。詩集を何度か読むうちに、これらはすべて詩に書かれたことが真実であることを証明するという任務を負ったものに見えてきてしまったのである。もちろん、それだけが目的だと言うつもりはない。むしろ、言葉だけでは足りないので、写真や映像も使っているということなのかもしれないが、結果として存在証明のようにもなっているとは言えるだろう。
 もうひとつの理由は写真ほど多くの例があるわけではないが、作品自体にある。先ほども触れたように、「クレプトマニア」は「もとの詩」と「家族の感想」のふたつの部分に分かれている。そして「家族の感想」は、「もとの詩」と一体となった村岡さんの現実の思いに対する感想になっている。つくりものに対する感想ではない。また、「塔の上のおじいさん」には、夢のなかの話だが、〈「すごい御宅だったよ。/塔の上のラプンツェルみたいなお家だった!/今から詩に書くから! そしたら読んでね、野々歩さん」〉という3行がある。ここで当たり前の前提となっているのは、見てきたものを詩に書くということだ。そして、そのような詩を家族が読んで書かれた事実についての感想を言うということが日常になっていることを窺わせる。
 そして、ある意味で決定的な理由がもうひとつある。村岡さんの作品はノンフィクションなのではないかと考えるようになり、この文章を書こうとしていたときに、たまたま公式サイトのprofileのページ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/profile.html )を見て驚いた。「私の制作方法」の項目に次のような一節があったのだ。

   私の作品は、フィクションではありません。どの作品も、私が見たもの・聞いたもの・体験したこと…等の忠実な再現です。作品中に描かれるもの全てが私にとっての「現実」なのです。

しかも、同じページの「私が表現したいこと「私=パラドックス」」には、〈表現手段にこだわりは無く、絵でも文章でも映像でも何でも良いのです。〉とも書かれている。これはおそらくかなり前に書かれたもので、映像作品の作者として書かれたものだろうが、「クレプトマニア」の〈真実〉という言葉はここに書かれた〈現実〉と同じ意味だろう。この文章で書いた私のあれこれの推測には的外れな部分がいろいろあるだろうが、村岡さんの詩がノンフィクションとして書かれているという推測はほぼ間違いないと思う。
 とは言え、フィクションとノンフィクションは言葉にして並べた印象ほど大きく違うわけではない。そもそも、ノンフィクションという言葉はフィクションという言葉よりも厳密で、虚構の部分がちょっとでも混ざっていたらノンフィクションとは言えなくなる。しかし、虚構がちょっとだけ混ざっているフィクションは、まったく架空のフィクションよりもノンフィクションに近いものになるだろう。
 たとえば、村岡さんの義父である鈴木志郎康さんの詩は、ほとんど詩集ごとにスタイルが変わり、取り上げられている題材も変わるので、簡単にひとことでまとめられるものではないものの、実際に起きたこと、見聞きしたことを素材として書かれたらしいものがかなり多数ある(それこそ、村岡さんの作品と同様に家族が登場するものも)。それらの作品は、完全なフィクションよりもはるかにノンフィクションに近い。しかし、多くの場合、書かれている題材自体を伝えることよりも、その題材に対する作者の視角に作者の関心があるように感じる。実際に起きたことを素材としているので、純粋なフィクションではない。しかし、鈴木志郎康さんというレンズを通し、書かれた事実よりもレンズ自体による光の曲がり方に表現行為の重点が置かれるために、書かれた事実のノンフィクション性は軽視され、ときには意図的に歪められる。ここで思い出さずにはいられないのが、鈴木志郎康さんに魚眼レンズで撮った写真を集めた『眉宇の半球』という本があることだ。そのあとがきには、次のような部分がある。

 わたしは撮影行為を一種の思考装置として来たわけである。写真を撮ることで、写真の意味の生まれ方を考えるのを楽しんできた。魚眼レンズはそういうことでは非常に楽しい。撮影するときの微妙な身体の動きが、向き合った空間の意味の持ち方に大きく影響するところが、おもしろくて堪えられない。つまり、これら写真は、結果としての「写真」であるから、それを見る方はそこから出発してしまうが、実は撮ったわたしにとっては終点なのだ。

 これは、鈴木志郎康さんの詩にも(そして多くの現代詩人の詩にも)当てはまることではないだろうか。書かれた内容よりも、それをどう書くか、どう歪めるかに興味がある。ノンフィクションを目指していないので、最終的に一切の虚構の混入を許さないノンフィクションにはなり得ない。
 このことに関連して印象に残っていることがある。20年以上前に初めて鈴木志郎康さんの奥様で、鈴木志郎康さんの詩集にたびたび登場する麻理さんと初めてお会いしたときのことだ。何しろ前世紀のことなので正確なところは覚えていないが、志郎康さんの詩にたびたび登場されることについてどう思っておられるのかを尋ねたら(もちろん、すぐ横に志郎康さんご本人もいらっしゃったのだが)、「あれは私ではありません。私はあんな人ではありません。あんなのは大嘘です」と満面の笑顔で返されたのだ。言葉の細部ははっきりと覚えていないが、笑顔で全面否定は間違いないところで、そこは死ぬまで忘れないだろう。志郎康さんも、不機嫌になったり困った顔をされたりするのではなく、いっしょに笑っていた。ところが、本当のお名前は麻理さんではなく真理子さんであるらしいということは、つい最近Facebookを見るまで知らなかった。でも、鈴木志郎康さんがどなたかの文章について、「麻里じゃなくて麻理だ」と怒っているところを目撃した記憶もある。要するに、「麻理」さんは鈴木志郎康さんの詩の世界のなかでの真実なのだ。
 このように言うと、先ほどの村岡さんの文章も〈私にとっての「現実」〉と言っているので、両者に大きな違いはないようにも見える。〈私にとっての「現実」〉だから、あなたにとっての現実ではないかもしれないと言っているわけだ。しかし、作者の意識のなかで、ノンフィクションとしての生身の自分を押し出すか、作品の世界はあくまでも作品の世界であって事実そのものではないと考えるかの間には、天と地ほどの差があると思う(どちらかが優れているということではなく)。
 ノンフィクションとして書こうとすると、書いた内容にフィクションが混ざらないようにしようとする。フィクションを排除して書こうとすると、作者が特に意識しなくても、作者という統一体が作品全体にある秩序を与えるようになるのではないだろうか。もちろん、作者自身にも統一の取れていない部分やはっきりと矛盾する部分があり(村岡さんの主題はまさにそこにある)、たとえば光を求める作品と光を拒絶する作品が現れるというようなことはあるだろう。作者にも、外部の情況の変化や自分のなかの感覚や思考の発展とともに変化が現れるはずだ。しかし、作者にとっての現実にできる限り忠実に書こうとすれば、矛盾にも一貫性のある形が現れ、時間とともに起きる変化も、前の段階を踏まえた成長、変化であって、唐突なものにはならないだろう。
 それに対し、ノンフィクションとして書く気がなければ、作品を作品らしく仕上げることに力を注ぐことになる。だから、作品が独立し、過去の作品が今の作品に影響を与えたり、今の作品が将来の作品を縛ったりすることはない。
 もっとも、これは図式化しすぎで、ノンフィクションとして書くという意識がなくても、同じ作者が書くものが大きくばらついたりはしないものだろう。ひとりの作家を論じるときには、この作家にはこれこれこのような傾向があり、このような主題の展開、発展があるという指摘をするものだ。しかし、ノンフィクションとして書かれた詩群には、その程度ではとても済まないぐらいの複雑なリンクが張り巡らされる。そのため、ひとつの詩を単独で解釈するのが難しくなる。個々の作品の独立性が弱まるということだ。この文章がこのような形で、つまりある作品のある部分と別の作品のある部分のつながりを執拗に追いかけるような形で書かれることになったのはそのためである。

 この文章は、映像作家として確固たる地位を築いた村岡さんがなぜ新たに詩作にも進出したのかという素朴な疑問から始まった。その疑問がつまらないものだったことはすぐにわかった。しかし、ひとつひとつの詩作品には作品としてのまとまりがありつつ、それらの詩作品の間に密接なつながりがあるこの詩集は、まとまった複数のシーンが組み合わされて作られる映像作品の比喩のようでもある。
 浜風文庫( https://beachwind-lib.net/?cat=48 )には、すでにこの詩集以後の作品がたくさん集まっている。それらを読むと、浜風文庫に「ねむの、若くて切実な歌声」が掲載されてから4年もたっていないのが嘘のように感じる。この文章ではふたりのお嬢さんについては最初の方でしか触れなかったが、2年ちょっとの詩集のなかの時間でも、成長にともなう大きな変化が感じられる。詩集以後の2年弱で変化のスピードがさらに上がったような気がする。月並みな言い方だが、村岡さんの詩からは当分目を離せない。
(2021.10―2022.09)

 

(後記)
 2021年7月に出た詩集について、内面化された父親とノンフィクションというアイデアをつかんで10月頃からこの文章を書き始めたが、2ぐらいまで書いたところで停滞してしまった。今年の1月末から2月始めにかけて3の冒頭を書こうとしたが、ほんの少し進んだだけでまた止まった。今度の停滞は非常に長く、やっと再開したのはこの8月で、何とかここまできた。文章を区切って番号を入れたのはこの作業の過程である。
 4を書き終えようというところで、Profileページを確認するために久しぶりに公式ページを見た。そしてdiaryページを見ていないことに気づき、恐る恐る覗いてみた。恐る恐るというのは、不都合な事実がわかっちゃっう恐れがあるからだ。2004年から書き続けられているので(毎日ではないが)、かなりの量がある。最初はつまみ食いのような読み方だったが、この後記を書く前に全部読んだ(映像作品もVimeoで見られる分は一通り見た)。で、予想通り不都合な事実がわかっちゃったわけである。
 「しじみ と りんご」の〈始めたばかりの拙い詩〉というフレーズを鵜呑みにして、村岡さんの詩は『イデア』から始まったのだと思い込んでいたが、それは村岡さん自身が自らの言葉を「詩」として押し出すようになったのが『イデア』、「ねむの、若くて切実な歌声」からだということに過ぎず、diaryにはすでに詩の原石がたくさん眠っていたことがわかった。それこそ、はてなブログに移行する前の2004年12月11日の最初の記事からそうだ( http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/diary/04-12.html )。

   基本的に私は、「変化するもの」より「変化しないもの」に惹かれるんです。根がグータラだからかもしれないけど(笑)。「不変なもの」に惹かれるの。だから自分自身の変化も望まないんです。永遠に私は私でいたいんです。ただね、変化は変化でも、唯一例外、「成長」という名の変化だけは大歓迎であります! 常に学習して常に成長し続けたいわ!

〈「普遍なもの」に惹かれるの〉から〈…大歓迎であります!〉までの各文の展開の速さ、疾走感(あえて吉増剛造的な語彙を使うが)はすごいものだと思う。はてなブログ移行前のすべてのエントリーに、さまざまな意味で詩的だと思わされる部分が含まれている。
 しかし、「ねむの、若くて切実な歌声」以前の詩的原石は、散文の一部に詩的なものが含まれているということには留まらない。2006年3月3日の「タイトルなんて思い浮かばないです」が最初だと思うが、行分け詩のように一文一文で改行するエントリーも現れる。これはブログなどではよくあることだと言ってしまえばそれまでだが、2007年5月3日に「言葉にならない詩」というタイトルで、一文の途中でも改行するエントリーが現れる。これは「青空の部屋」の原形とも言うべきもので、一読者からすれば詩作品そのものだと言えるだけの質がある。2008年には、義父である鈴木志郎康さんの『声の生地』の感想があり、行分けの投稿が目立って増えてくる。その最初である2008年6月6日の「箱の中から こんにちは!」は、〈今日のこのブログ記事〉という言葉が出てきて、詩を書くという意識ではないのだろうが、最後の行が秀逸だ。
 統合失調症の治療のために作家活動を休止したという期間はブログ記事も少なくなるが、2017年から2018年にかけてはこの種の詩の卵がたくさん登場する。しかし、村岡さんはそれらをあくまでも「詩」としては扱っていない。ただ、その後の詩の素材としては使っている。たとえば、「透明な私」から〈おとうさん〉が出てくる箇所として引用した3行は、2017年7月7日の「こわいゆめ」に含まれている3行の1、2行目を逆転させたものだ。村岡さんの詩が「ねむの、若くて切実な歌声」から唐突に始まったわけではないことがわかった。イメージの多くには、長ければ10年以上の歴史がある。村岡さんの詩が2018年に始まったという先入観で文章を書いてしまったので、いやあ参ったというところである。
 詩集のなかでの父親の登場が遅いということも書いたが、diaryでは、先ほどの2017年7月7日以外で2008、9年に3回登場している。それらはどれも悪い登場のしかたではない。〈「人生は絶望でいっぱいだけど、ほんの少しの希望があれば、それだけで、人生を生き抜く価値がある」〉という〈良い言葉〉を言った人であり、〈「晴れ着を着て、記念写真を撮りなさい」〉と言ってお金を渡してくれた人であり、〈知識欲が旺盛な人〉であって、「クレプトマニア」や「家族写真(抜粋)」で出てきた人とは別人のようである。しかし、3箇所とも注意して読むと、父に対して複雑な感情を抱いていることは伝わってくる。
 ほかにも、diaryを読まずに、詩集だけを読んだためにちょっと不都合なところはいくつかある(〈私が母の産道をズタズタに切り裂きながら産まれ〉たというのが事実だったらしいことなど)。ちなみに、Facebookの古い投稿は読んでいないが、それも読んでいればさらに新たなことがわかってしまうだろう。しかし、不備がいくつもあってもまったく無駄なものを書いたわけではないだろうと思うので、このまま提出することにした。以上、長い言い訳で恐縮です。

 

 

 

 

斜に構えるという態度
川上亜紀詩集『あなたとわたしと無数の人々』(七月堂)

 

辻 和人

 
 

『あなたとわたしと無数の人々』は川上亜紀さんの既刊詩集4冊を集成した彼女の全詩集である。私と川上さんは知り合いで、詩の合評会や同人誌でご一緒させていただいたことがあった。物静かで柔らかな物腰、知的で笑顔を忘れないお人柄の方だった。しかし、1968年生まれの川上さんは2018年に癌により早すぎる死を迎えることになってしまった。残念でならない。私は、川上さんは本当は小説家として成功したかったのではないかと思う。彼女は詩と並行して小説も書いており、2009年に刊行された小説集『グリーン・カルテ』の表題作は『群像』新人賞最終候補になった。没後となった2019年には『チャイナ・カシミア』も出版されている。川上さんは学生時代に難病に罹患し、病と闘い続けながら詩や小説を書き続けた。川上さんの小説は一部で高い評価を受けたものの、高度にして先鋭的な手法で書かれており、残念ながら大手出版社からは商業出版には向かないと判断されてしまったようだ。小説は詩(例外はあるが)と違い、一般読者向けの市場が開かれている。詩が高名な詩人でも自費出版中心であるのに対し、小説は額はともかくお金が入ってくるということがある。ここは大事なところで、「職業」としての認知はお金が得られるかどうかで決まってくるところがある。川上さんは健康上のハンディのため、バリバリ働いて経済的な自立を果たすことが難しかった。それだけで生活できなくとも、「注文を受けて小説を書き対価を得る」ことができれば、社会人としての自信をつけることができただろう。私たちの生きている資本主義の社会は、「働かざるもの食うべからず」を軸とし、競争原理によって人を生産性の面からランクづけする傾向がある。優秀な頭脳を持ち一流大学を卒業した川上さんは、健康という、努力ではどうにもならないことで引け目を感じなければならないことに怒りや悲しみを覚えたことだろうと思うし、文学の才能が思うように認められないことに苛立ってもいたと思う。
しかし、プライドの問題がどうであれ、命ある限り生きていかなければならない。そのことを端的に問題にしたのは、川上さんにとって小説より詩だった。理不尽を受け入れながら生きていくことの複雑な心境が、川上亜紀のどの詩のどの言葉にも溢れているように思う。

「夏に博物館に行く」は第一詩集『生姜を刻む』(1997年)に収められた詩。さしたる興味もないまま何となく博物館を訪れた話者は、裏口のドアから中に入ってしまう。

 
 階段は全部で17段あって徐々に左へ捩じれている
 だから壁に沿った右側を歩くと上り下りに時間がかかる
 人々はゆっくりした動作で階段を上ったり下りたりする
 人々は左の手摺側を好んで上っていき、下る時は壁際を下りてくる
 人々は果てしなくそれを繰り返している
 階段に敷きつめられた桃色の絨毯は長い間にすり減って
 人々の足をめり込ませたりしない
 私はこの階段の13段目で立ち止まるのが好きだ

 
こんな調子で情景が細部まで精密に描かれる。これらの情景描写は物理的な描写に終始し、何ら美的な感覚を喚起するものではないが、情景を無為に見つめる話者の孤独な心を浮かび上がらせる。話者はやることがなくて、暇つぶしのためにさして関心もない博物館に来ているのだ。だから展示物よりも博物館内の物理的環境が気になるのである。「立ち止まるのが好きだ」ということは、話者はここに何度も無為な時間を過ごしに来ているのだ。詩は次のような4行で締められる。

 
 裏口の石段の上に若い男の人が寝そべっていて
 暑いですねって声かけてみようと思ったんだけど
 あの人昨日もいたのよ
 と赤いスカートの娘が大きな声で笑った

 
話者と似たような人が他にもいたということだ。しかし、話者なその若い男に話しかけたりはしない。積極的に人間関係を作る心の余裕がない同士だから、ここに来ては閉館まで過ごし、帰るのである。そんな自分の姿を、話者は透徹した視線で冷ややかに眺めている。

笑い話のような詩もある。同じく『生姜を刻む』に収録された「卵」は、卵料理が大好きな話者が卵をだめにしてしまったエピソードを語る詩である。長いこと留守にしてもうこの卵は食べられないと判断した話者は卵の処理について「ヒトリ暮らしなんでも相談」に電話する。すると、男が来て卵の殻を割り中身だけトイレに流すという方法を教えてくれる。

 
私はそれを聞いたとき、新鮮な思いつきだ、と思った。私は今まで割ってみたら黄身が崩れているような信用できない卵を流しの隅の三角コーナーに捨てて、卵の白身がとろとろと流しに垂れてくるのを横目で見ていたのだった。もうそんな愚かな真似はしなくていいのだ。

 
まるで実用エッセイのような、さらさらと綴られる文体だ。そして話者は実際に該当の卵を割って便器の中に流してみる。ところが、卵に痛んだところはない。「色は、あまり濃くはない黄色で/形は、盛り上がりには欠けるが、/とくべつに変色したり崩れたりしているわけではないらしい」。詩は次のようなあっさりした調子で終わる。

つまりそれほど長いあいだ、留守をしていたのではなかったかもしれない、と言って男のヒトに割れた卵の殻を渡したら、男のヒトは流しの隅の三角コーナーにそれを捨てた。

 
どうだろう。相談コーナーの係員が家まで来る、というところは作り話っぽい感じがするが、奇談という程でもなく超現実的な要素もない。散文的な書き方で特に比喩や修辞に凝っているわけでもない。しかし、全体として途轍もなく妙なものを読んだ、という印象が残るだろう。この詩は、些細なことに対する話者の異様な拘りの形を抽象的に言語化したものだ。こんなことに拘って時間を使うこと自体が異常なのだ、ということを示している。そこに話者の孤独が色濃く影を落としている。「流しの隅の三角コーナー」を二度も登場させている。エピソード自体の中で特別重要な役を果たすわけではないが、言葉の上では重みを持たせている。どうでも良いと思える些細な事への異常な拘り。語りは事務的と言っていい程淡々とした調子に徹しているが、このさりげなさは緻密に仕組まれたものである。さりげなく、されど執念深く細部に拘る、その言葉の仕草の集積が詩全体に不条理性を帯びさせている。

時事的な問題を扱った詩も、他とはひと味違う独自のアプローチで意表を突く。「リモコンソング」(詩集『酸素スル、春』2005年所収)は、2001年のアメリカ同時多発テロ事件及び直後に起きた炭疽菌事件(メディアや政治家に炭疽菌が入った封筒が送り付けられた事件)に端を発して展開される詩。

 
 アメリカの郵便局は白い粉末で大騒動
 でも「炭疽菌」には泡! 一時間に千人を洗浄できる
 「環境には問題ありません」泡
 「製造法は企業秘密です」泡
 USAのゲームソフトなら核だって水洗いできるんだ
 エアクリーナーなんてもういらない
 海水が画面を洗浄すると ほらもとどおり
 核戦争後の地球上にも人類はまた誕生いたします
 CM「私の祖父は痔持ちでした、痔は軍隊の鬼門でした、
    したがって祖父は戦争に行きませんでした」

 
戦争と事件から現実の意味を取り除き、現実をナンセンスな言葉遊びに置き換えてしまう。悲惨な出来事もエンターティメントとして消費してしまうテレビ番組への皮肉であろう。「CM」が効いている。視聴率は広告料に反映されるのである。

 
 ところでテレビがにがてなことは意外にも広さと速さだって
 ニュースステーションの久米さんが言ってた
 (球場って広いんです でもこっちが投手が投げてるときは球場全体を映せな
  いんです とつぜんむこうで誰かが走り出したらあわててそっちを追いかけ
  ます でもカメラがその人をいくら追いかけても速度を伝えることはできな
  いんです だからテレビは「盗塁」がにがてなんですね)
 盗塁王は走る走る 走って滑って滑ってすべって
 ベースに触れたその瞬間
 CM「私の祖母は巨人ファンでした」

 
脱線に次ぐ脱線の末に語られる、これは見事なテレビ論だ。現実の野球の複雑なゲームの進行を捉えられないテレビは、現実の戦争の複雑な様相を捉えることもまたできない。我々がテレビで見ているものはテレビが作った虚構であると言える。「CM」は直前の行で展開された内容を、野球に絡めただけで全然違う話題に転換し、流し去ってしまう。テレビの第一の役割は時間を埋めること、視聴者の注意を繋ぎ止めることであり、必ずしも現実を正確に伝えることではない。そのことを情報の消費者の立場から皮肉を込めて語っているのである。

詩集の表題作でもある「酸素スル、春」は、父親の病気について書いた詩。

 
 ハイサンソ3Cという機械が家にきた
 部屋の空気を使って酸素を作るらしい
 家の中心に四角い箱が据えつけられて
 箱からチューブが長く伸びている
 起きてきた父が食卓に移動すると
 濃い緑色のやわらかいチューブが床の上を揺れ動く
 猫は器用によけて通るがひとは時々踏みつける

 
父親は肺をやられてかなり深刻な状態になっている。話者はその様子をアサガオの観察日記でもつけるかのように、細かく丁寧に、感情過多になることなく記していく。そしてちょっとした事件が起きる。

 
 空になった朝食の皿から目を上げると
 テーブルの向こう側でブラブラと揺れている
 輪っかになったチューブの先端が椅子の背から垂れ下がって
 オトーサン、酸素スルの忘れてる
 私は食後の錠剤とカプセルをコップの水で呑んだ
 母は新聞を読んでいた

 
恐らく病気が深刻化した時は、本人も家族も大騒ぎしたことだろう。しかし、大騒ぎの時期が過ぎれば、どんな出来事でも日常として受け止めざるを得ない。私たちは自ら死を選ぶ場合を除き生きていかなければならないし、生きていくことは「日常生活」を営むことであるからである。慣れてくれば、命綱である酸素チューブを本人でさえ忘れてしまう。ああ、人生ってこういうことだよね、と感じさせてくれる。

 
 酸素スル家族、
 一粒の苺を残して
 窓を開けて
 舞い上がるテーブルクロスのように
 空へと向かう

 
家族というものはどんな仲良し家族でもいつかはバラバラになる。誰かが家を出ていくという時もあれば、命が尽きる時もある。それも日常の一コマなのである。緊張しきっていては日常生活を営めないから日常はどこかのんびりした顔をしている。話者は死の匂いを含んだそんなほんわかした空気を、冷静に見つめ、距離を取りながら記録しているのである。

第3詩集となる2012年刊行の『三月兎の耳をつけてほんとの詩を書くわたし』(思潮社)辺りから、川上さんの詩はそれまでのクールさを薄れさせていき、本音をぽつりぽつり漏らす温かさが滲み出るようになる。短編小説の登場人物のように、突き放した態度で描いていた話者を、現実の自分に近づけるようにしているのだ。と言ってもべったりした抒情は注意深く避けており、話はしばしば喜劇的な語りで進められる。詩集の表題作『三月兎の耳をつけてほんとの詩を書くわたし*』の書き出しはこうだ。

 
 ちょっと待って
 地震が来る前にほんとのことばかり書かなきゃいけない
 ほんとのことばかり言っても誰も聞きたがらないんだ

 
口で言っても聞いてくれないが、書いたら読んでくれる人がいるかもしれない。個人の内心の深い部分にある問題は、親しい人でもなかなか理解してもらえない。深刻さを受け止められない時もあるし、過剰に反応される時もある。またこちらからわざわざ話題に出すのが恥ずかしかったり気が引ける時もある。詩は、話しづらいそうした微妙な話題を語るための便利なツールである。作品は複数の私的な出来事を扱っている。父親が肺癌になった話を中心に、避妊手術を施した猫を引き取ったこと、話者の片想いに近い「あなた」との交際、などについてである。それらについて、具体的な事実を交えつつ、話者はやはり核心をはぐらかすような書き方で綴る。

 
 朝めがさめると、あなたのことを考え、
 考え、るので、頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった
 (ツル草を刈るための道具がいる)
 きのう、わたしの母親だというひとを殴って
 椅子を床に叩きつけて、いくつか傷をつけてしまった
 (茶色のクレヨンを探して床に塗る)
 そのうえ、カーテンにぶら下がって怒鳴ったので、
 窓の上の壁のカケラが、ぽろんと絨毯に落っこちてきた
 (壁を拾ってとりあえず物置のなかへ)

 
交際中の人との関係にむしゃくしゃして母親と喧嘩してしまった、と取れる部分だが、話者が伝えたい「ほんとのこと」とは、「あらいざらい喋ってせいせいした」と言えるようなまとまった意見ではなくて、整理しきらない、すっきりしない心持ちそのものなのだということがわかってくる。

 
 ほんとの話をいくつかしたつもりになると
 またそこからほんとの話が枝分かれしていって伸び放題のツル草になる
 でもぜんぶほんとの話だ、これからはもうほんとのことばかり書くんだ

 
「枝分かれ」した「伸び放題のツル草」というすっきりしない状態こそが、「核心」であり伝えたいことなのである。川上さんは今後書いていく詩の方向を「ツル草」に定めた。それまでの川上さんの詩は小説仕立ての虚構の詩だったが、これを境に「ほんとのこと」を書く作風に転換していくのである。

その傑作の一つが「スノードロップ」である。スノードロップの鉢植えを買って窓辺に置く。そして歯医者に行って、BGMの男性歌手が歌う「アヴェマリア」を聞きながら歯の治療をしてもらう。更に「昨日の夕飯、ふきのとうのてんぷら」と誰かが言ったのを聞く。これらの互いに関連のない材料を総合し、自由奔放な夢としての「ほんとうのこと」をうたいあげていく。

 
 (このまま天国にのぼっていってふきのとうのてんぷらを食べたい)
 わたしはとうとうそう思ってしまった
 たちまちしゅるしゅるっと天国行きの縄梯子が降りてきた
 すぐに片足を縄梯子にかける
 (ふきのとうのてんぷら)
 もう片方の足をひきよせる
 (でも来週の金曜は歯医者の予約だ)
 一瞬迷うが金曜には戻ってくればいいのだからともう一段のぼる
 (ふきのとうのてんぷら)(ふきのとうのてんぷら)……
 (ふ)(き)(の)(と)(う)(の)(て)(ん)(ぷ)(ら)
 というぐあいにのぼっていくと縄梯子はぜんぶでちょうど十段だった
 最後の「ら」の段に片足をのせたとき私は窓辺の白い花のことを思い出した

 
何とも壮大な光景だ。話者はこのまま天国に行ってスノードロップのために王子様をひとり連れて帰ろうとまで考えるが、縄梯子を踏みはずして現実に帰ることになる。話者は、この馬鹿馬鹿しいと言っていい壮大なナンセンスの中を素直に生きている。話者は虚構のお話の主人公として突き放されるのでなく、作者に背中を押されて作者と一緒に虚構を生きる存在となる。虚構は生きられることによって現実となる。傍観者としての話者から行為者としての話者へ。

最後の詩集となった2018年発行の『あなたとわたしと無数の人々』(七月堂)では、作者と話者の距離が更に近くなる。この詩集については論じたことがあり([本]のメルマガ vol.692  http://back.honmaga.net/?eid=979323)、ここでは以前は取り上げなかった詩について言及することにする。
「噛む夜」は、料理し、食事する日常の光景を描いているが、その実、自意識の在処を探ることがテーマとなっている。

 
 たぶんわたしはしんけんな顔をしているだろう
 これからヒトとして有機物を摂取するのだから
 生きていくための左手は握ったり持ち上げたり忙しく動き回り
 時々思い出して文字を書く右手は水栓を開けたり閉めたりする

 
話者のアイデンティティは作家であるというところにある。しかし、作家だって人間という生き物だから食べるということをしなければならない。話者は一人で料理し食事するという局面において、その、作家であるという意識を持つ自分に微かな違和感を覚える。

 
 箸を使い 咀嚼する
 豆と米 肉と葱 味噌と茄子 胡瓜
 先月、右の奥歯の詰め物がとれてしまったので穴があいていて
 その穴に噛んだものがはさまってしまうので困っている
 こんどの氷河期のおわりにわたしが発見されたときには
 右の奥歯の穴に豆が見つかったりはしないかと気になってしまう
 歯と顎の形状から何を噛んでいたかわかってしまうだろうか

 
自分からアイデンティティを外し、一個の物体のように眺めてみる。人類が滅亡し、次世代の人類に発見された時、作家だなどという意識が問題になるはずはない。単なるサンプルとして物理的に把握されるだけだ。その様子を想像し、おかしく感じるのだ。

「写真」は、大学教員だった母親の勤務先を訪ね、研究室で待っていたことを思い出すという詩。話者が若かった頃の話だ。机の引き出しを開けたら、モノクロの女子学生の証明写真が出てきた。

 
 わたしはその見知らぬ人の写真をなにか恐ろしい気持ちで眺めた
 コンナ写真ヲ撮ラレルナンテ
 コノヒトハ捕マッテ刑務所ニイルノカモシレナイ
 アルイハ死ンデシマッタノカモシレナイ

 
ここでは、当時の、というより現在の話者の心境が語られているのではないだろうか。証明写真は生活の場から切り離された、文字通り身元を証明するための写真なので無機的に感じられるものだ。その人の人となりが抜き取られ、物体として置かれているからだろう。現在の話者は時間がたってそのことを思い出し、より強烈な印象を作り上げていく。

 
 無表情にまっすぐ前をみている知らない人の写真を
 見なかったことにしたいと思うのだが
 キットコノヒトハシンデシマッタノダ
 という考えが頭から離れなくなる

そして詩は次のように締められる。

 
 季節は秋だった
 窓の外の青空は急な貧血のように薄く白くなり
 椅子も机も本棚もすべてがモノクロに変わって
 宛先のない封筒のようにコトンと奥深いところへ落ちていく

 
この時期、川上さんの病状は進んでいたはずだ。死が遠くないものとして予感されていたかもしれない。若い頃の回想にしては切迫感がありすぎる。話者は当時の自分に憑依してなり変わっている。机の引き出しを開け、無表情な女子学生の写真に衝撃を覚えているのは、「現在のわたし」なのだ。これは思い出話ではなく、現在進行中の死への恐怖を語っているもののように思える。自分を直接晒すことで生じる生々しさを避けるため、過去の自分を呼び出し、間接的に現在の心境を語ろうとしたのではないだろうか。

 
川上さんの詩を読む人は人生の理不尽をうたう切実さに心を打たれることと思うが、その心情がストレートな筆致で語られることはない。ユーモアに包まれ、笑いとともに綴られることもしばしばある。川上亜紀の詩の魅力の核心はここにある。心情をオープンな形で曝け出すことを拒否するのが川上さんのやり方だ。はぐらかし、肩透かしを食わせ、時にはからかうような口調で表現していく。素直でないのだ。川上さんは人生の理不尽に対し、斜に構えた態度を取っていると言える。文学の才能に恵まれながら運と健康に恵まれなかった川上さんは、プライドとコンプレックスの両方を抱え持つことになる。プライドがコンプレックスを呼び起こし、コンプレックスがプライドを刺激する。理性と教養があり、理解ある両親にも恵まれた川上さんは、やけくそになったりひねくれたりすることができない。そこで川上さんは詩の言葉でもって、斜に構える、という態度を取る作戦に出るのである。気取っていたり、拗ねたりしているのではない。そうしないと自分を保つことができないからそうしているのである。川上さんはそれを独自の語りの形式に落とし込み、読者と想いを共有することができた。想いは内に秘められることなく、明確な言葉の形を取って公開され、普遍化を達成したのである。そこに川上さんが詩を書く喜びがあった。そのことを私も心から喜びたいと思う。

 

 

 

詩について 03

 

塔島ひろみ

 
 

詩の旅

 

離婚して、生まれ育った町に戻ってきた。
私はこの町が嫌いで、子ども時代、とにかくもう嫌でたまらず、早くここから出ていきたかった。
そこへ、不本意にも舞い戻って、もう9年目にもなるけれど、いまだ、かつての友だちの誰ひとりとも出会っていない。見かけもしない。
彼らはどこへ消えてしまったのか?
それとも老けこんで、会っても気づかないだけなのか?

「友だち」と言っても、私はこの嫌いな町の中学を卒業すると同時に誰とも親交がなくなったので、単に「学校が一緒だった知ってる人」という意味で、該当者は多い。少なくとも100人以上はいると思う。
その人たちが一掃され、私だけが今、この町にいる。
つまり人が入れ替わった、あのときと違う、町にいる。
そしたら今、私はこの町が好きだろうか?

中学の卒業アルバムの後ろについていた「生徒住所録」を見て、幾人かの「友だち」の住所を訪ねてみる。
するとそこには、もうまったく別の人が住んでいたり、空家になり、放置されていたりした。
なんとも言えない。
そこには、なんとも言えない、いろんなものがごちゃごちゃになって、漂っていた。
学校時代の彼らの、その行動の、表情の、感情の、背景とか。
その後の彼らの、私が知らない、今ここに住んでいる人も知らないだろう歴史とか。
私と友だちが何十年も昔に交わした会話とか。
木とか。雨とか。においとか。
町を流れる2本の川。
その川の影とか。

当時中学校は荒れていた。その中でも一番スケバンだった彼女の所番地に、先月行った。
その番地は、大きなマンションに吸収されてあとかたもなかった。
マンションのまわりには古い町工場が並び、ガチャガチャと機械の音が聞こえてき、作業服の人がマンホールに片手を肩まで突っ込んでいた。
すぐ先は川で、川沿いの敷地にNTTの鉄塔が立ち、その隣りの囲われたスペースに、タンクローリーや大きなトラックが次々入っていく。中には土砂の山がいくつもあり、大小のブロック塀が積まれ、ショベルカーが並んでいる。「○○建材」とあった。
その先の角地に、「水神社」があった。

小さな祠。その横に「水神社」とだけ書かれた石柱がある。
境内には、狛犬もなく、供え物もなく、さい銭箱もなく、神社の説明書きもなく、あまり関係なさそうな「○○橋之記」と、すぐそこにかかる橋の歴史が刻まれた碑があるきりだった。
「夫れ祖国再建の基は産業復興に在り産業の進展は交通機関の完備に俟つ」
歴代村長の執念が架橋とその戦後の再建を果たしたことが述べられていた。

『葛飾区神社調査報告』(東京都葛飾区教育委員会)には、この町の水神社についての記述がある。
祭神は水波能売神(みずはのめのかみ)。
1729年、幕府の勘定吟味役の井沢某が人柱伝説により河川開削のときに祀ったこと。
その後の大正期に、川の改修工事の際100メートル下流の現在地にうつったこと。
それはしかし、彼女んちのそばに私が見つけた水神社ではなく、上流にあるもう少し大きな、別の水神社についての記述なのだ。
「本区は水稲栽培が一般農民の基本になっていたので、稲作に不可欠の灌漑用水の守護神として水神を祭ることが多い。しかし現在は多く鎮守社の摂社になって・・・」。(『葛飾区神社調査報告』)
私が見た水神社は、この地区の鎮守社に吸収された、鎮守社の一部に過ぎないものだった。

鎮守社に行くと、「御祭神 日本武尊、相殿(熊野様)イザナギノミコト イザナミノミコト スサノオノミコト」と書かれていた。
水神についての記述はないが、年間行事のなかに「7月18日 水神祭」が入っていた。

調べると、水波能売神は、イザナミノミコトの尿から生まれた、女神だった。

病いの苦しみのなかで、イザナミのたぐり(54)から成り出た神の名は、カナヤマビコ、つぎにカナヤマビメ。つぎに、糞から成り出た神の名は、ハニヤスビコ、つぎにハニヤスビメ。つぎに、ゆまり(55)から成り出た神の名は、ミツハノメ。

 

           (54)たぐり 嘔吐した、その吐瀉物。
           (55)ゆまり オシッコのこと。

             (『口語訳 古事記(完全版)』三浦佑之、文藝春秋)

 

それで、水の女、という詩を書いた。

 
 

詩「水の女」
https://beachwind-lib.net/?p=33599

 

 

 

「自分だけのもの」を大切にする

今井義行エッセイ「私的な詩論を試みる」を読む

 

辻 和人

 
 

昨年10月に「浜風文庫」に発表された今井義行さんのエッセイ「私的な詩論を試みる」は、私にとってすこぶる刺激的な読み物だった。

→リンク先はこちら
https://beachwind-lib.net/?p=31458

これは今井さんが詩についての考えをまとめた初めての文章だという。私は今井さんと、1980年代の後半に鈴木志郎康さんが講師をつとめる詩の市民講座で知り合った。今井さんの方が私より入るのが少し早かった。そこには川口晴美さんや北爪満喜さんといった、現在でも活躍中の詩人も受講していて、ハイレベルな講義が繰り広げられていた。但し、レベルに合わせて丁寧な指導がなされ、初心者だから居づらいということは一切なかったし、どんな作品も受け止めてもらえた。私は安心して八方破れな作品を好き放題に書いて提出することができたのである。今井さんは、最初はポップソングの歌詞のようなリリカルな調子の詩を書いていた。表面は甘かったが、その底には重い自我が存在しているのが感じられ、「この人はいつか化けるぞ」と思っていた。予想通り、今井さんはある時から斬新なアイディアを詰め込んだ完成度の高い詩を次々と発表するようになり、注目を集めるようになっていった。私は今井さんと「卵座」や「Syllable」といった同人誌で一緒に活動するようになり、現在でも親交を保っている。さとう三千魚さんの「浜風文庫」に、ともにこうして詩や文章を掲載させてもらってもいる。私は詩歴を同じくする今井義行という詩人に対し、強い共感を持っている。また私と今井さんは、互いの詩を読み合って意見の交換をするだけでなく、食事をしたりSNSや電話で雑談し合ったりする、友人同士でもある。
近い関係にある今井義行さんだが、詩に関する考えの全体像を披露してもらったことはなかった。この「私的な詩論を試みる」を読み、「ああ、今井さんという人は詩人としてこういう人だったんだ」と初めて理解したのだった。詩の言葉は人の生き方と密接に関わっている。その結びつきが細かく詳しく書かれている。自身の身に即して率直に綴っているが故に、詩の普遍的な問題に食い込んでいると感じられたのだった。

それでは、今井さんの論考について私が思ったことを、章ごとに綴っていくことにしよう。

「1 始まり」では、本格的に詩に取り組む以前のことが書かれている。今井さんはたまたま買った本で現代詩の言葉のかっこ良さを知ったものの、難しさに参ってしまって、その後積極的に読むということはしなかったようだ。「言葉のかっこ良さ」が胸に刻まれたことは重要なところだ。今井さんは『罪と罰』などの名作小説には興味を持たなかった。ストーリーを読み解くより言葉自体を感覚的に味わう方が好きで、それが詩を書くことにつながっていったのかなと思う。私自身は、現代詩は中学の終わり頃から少しずつ読み始めて、高校の時にはかなりの数の作品を読んでいた。現代音楽も結構聴いていたし、まあ現代アートのオタクだったと言える。私は自分が好きなものには敏感で、同年代の連中がロックや漫画に熱中しているのと同じような感じで現代詩を読んでいた。周囲の中で自分だけが知っているということに軽薄な優越感を抱いていたこともある。今井さんは私のようなオタク気質ではなかったようだ。大学の法学部に入ったが法律は好きでなく、児童文学サークルに入ったが子供が好きでなかったという。今井さんが入った大学は日本有数の難関校である。少年時代の今井さんは頭が良く優秀だったが、趣味よりも一般的な勉強を優先したのだろう。進みたい道の自己決定をすることを避けていた今井さんは、現在、お世話になっている福祉の世界の重要性を知り、若い頃に福祉の勉強をしたら良かったと書いている。私はこうした気づきがあること自体、とてもすばらしいことだと思っている。

「2 『詩作』への入り口」では、詩を書き始めるに至る経緯が書かれている。就職したがそこでも「自分だけのもの」を見出せず、前述の詩の市民講座のパンフレットをたまたま手に取って即受講を決めたそうだ。さて、世の中には「自分だけのもの」をさして重視しない人がいる。ある程度のお金と健康と社交性があれば、世間のシステムに乗っかってそれなりに楽しく過ごすことができる。しかし、自意識が発達した人なら、システムの枠を超えて自分だけの領域を作りたいという欲求をごく自然に抱く。その際、山登りやボランティア活動ではなく、詩作という芸術表現に向かったということは、今井さんが自身の心と対話したい気持ちがあったということだ。詩作というものは、真剣であれば、どんな初心者であっても趣味では終わらない。詩を一編書いたら、詩はその人にとって絶対的な価値を持つものとなる。今井さんにはその覚悟があったのだろう。

「3 現代詩人『鈴木志郎康』氏と創作仲間との出会い」では詩作を始めた頃のことが書かれている。この講座では、まず受講生による合評、次に講師である志郎康さんの講評、が行われる。今井さんは初めての詩作を行った感想を「ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである」と述べている。ここで今井さんは生まれて初めて「自分だけのもの」に出会ったのだろう。そして、「毎週『現代詩講座』が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた」とも書いている。「自分だけのもの」は、合評や講評を通じて、「自分だけのものが他人に伝わる」喜ぶをももたらした。それは更に、喫茶店での二次会を通じて、人と交流する喜びをもたらした。代替の利かない唯一無二の「自分」が、言葉の上で、その読解の上で、人との語らいの上で、躍動することの喜びだ。この喜びは私も味わった。仲間がいるということはすばらしい。「自分だけのもの」は、自分の中で終わらず、豊穣なコミュニケーションを促すということだ。

「4 『詩壇』というものについて」は、今井さんが関わってきた詩の業界について書かれている。今井さんは、商業詩誌を中心として、詩人たちが会社の組織の中でのように、年功序列で位置しているように感じる、と書いている。詩集を作ったが、詩の出版社の大手である思潮社が発行する雑誌『現代詩手帖』での評価が気になったということだ。今井さんはその思潮社から第3詩集を出し、大きな賞の候補になったが受賞を逃した。今井さんは、選考委員長が壇上から受賞詩人に目配せしたのを見て、受賞するためには有名詩人と何らかのコネがなくてはならない、と感じたそうだ。この部分に関し、今井さんは誤解をしていると思う。まずそもそも賞というものは、詩以外のどんな賞でも、賞を受ける側の都合でなく、賞を与える側の都合で存在するものだ。これは全く当たり前のことで、良い悪いの問題ではない。業界を盛り上げたり地域の振興を図ったり自社ブランドを認知させたいといった、主催者側の都合があるのだ。そのためには選出にそれなりの根拠が示せなければならない。コネのようなものが透けて見えるようでは賞の権威は失墜してしまう。
私は、選考委員をつとめた詩人は一生懸命に審査を行っていると思う。その結果、自分と作風が近い人を選んでしまうことがあるのだ。実作者が選考委員になればそういうことは避けられない。私が選考委員をつとめたとして、自分の好みを大きく外れたものを選ぶのは難しい。公正に徹した挙句、自分に近い知り合いの詩人の作品を選ぶことはあるだろうし、その場合、壇上からその人に会釈くらいはするだろう。
ここで詩の業界の作り方を考えてみると、まず現代詩を日々の娯楽として読む人は多くない。従って、詩の出版社が顧客と考えるのは、詩を読む一般の人よりも詩人として認められたい人たちだろう。自社で自費出版をしてくれれば経営は安定する。経営判断として全く健全なことであり、私が経営者だとしてもそうする。誰にでも承認欲求というものはあり、それは詩人でも同じである。詩人として認知されたいという気持ちを満たしてあげるために、誌面を使って詩集の書評や広告を手配したり、雑誌の企画のアンケートの回答者に指名したりする。それが創作の励みになれば良いのである。書いた詩を仲間と読み合った後、より広い範囲で認められたいと願うのは、まあ自然なことだからだ。一般読者は余り詩を読まないから、詩の業界は読者ベースでなく書き手ベースで動いていく。大衆的な人気を得ることでなく、詩を書く人間のコミュニティの中での位置が問題になる。コミュニティが商業詩誌を中心に作られると、そこで評価を得た詩人が権威を持つことになり、賞の選考委員に選ばれることになる。結果として彼らの好みが受賞作の傾向に反映されることになるわけだ。
今井さんは、受賞する詩が「言葉による『オブジェ』」のようだと書いているが、それならそれでいいではないか。受賞は「ある人たちがある判断を下した」結果以外ではないし、それはそれで尊重すべきなのだ。受賞すれば素直に喜べば良いし、落ちたところで他人が下した評価に過ぎないと思えばどうってことはない。詩で最も大切なのは「自分だけのもの」のはずである。本末転倒になるのは馬鹿馬鹿しいことだ。

「5 現代詩講座での『鈴木志郎康』氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡」では、現代詩講座における鈴木志郎康さんの指導とその後の今井さんの詩の活動について書かれている。
今井さんは志郎康さんの指導をシンプルに「一体、どういう事を言いたがっているのか」と「どのような工夫が必要なのか」の2点にまとめている。まさにその通りだった。「一体、どういう事を言いたがっているのか」は、「自分だけのものを書き手としてどのように自覚しているのか」に、「どのような工夫が必要なのか」は「自分だけのものを他人と共有するにはどうすれば良いか」に、それぞれ言い換えることができるのではないか。今井さんと一緒に受講した私は、志郎康さんの指導の基本は、その人が詩を書くことによってどれだけ「自分だけのもの」を大切にできるか、ということだと理解している。志郎康さんは、詩に製品のような収まりの良さを決して求めなかった。その人が、まさに生きているという感覚を言葉に投入して自己実現を図れるか、を常に問題にした。しばしば見受けられたのは、志郎康さんとの対話によって、八方破れな提出作品がヤスリをかけられて洗練されていくのではなく、それなりに完成度の高かった作品のギザギザが強調されて、八方破れで野趣溢れるものに変貌していくことだった。作品のギザギザの部分、即ち「変わったところ」「おかしなところ」は、その人がその人である所以の部分である。それを自覚させて、とことん先鋭化させようと指導していくのだ。「泣き出してしまう受講者もいた」程の志郎康さんの厳しさは、その人の「自分だけのもの」に対し志郎康さんが当人以上に敏感だったことによる。「自分だけのもの」を追求していると、私たちの言葉の常識から外れることになり、つまり「非常識」を目指すことになり、怖くなってしまう。ここで並々ならぬ精神力が必要なのだ。私がなされた指導で印象に残っていることは、「間接的に書け」ということだった。言いたいことを詩の外にいる作者として書くのでなく、詩の中にいる発話者の口を通して表現せよということ。作者の言いたいことを作者の日常を引きずった意識のまま書くのでなく、作品内の登場人物になりきって書けということだ。日常のしがらみを断ち切ったところに「自分だけのもの」がある。その「自分だけのもの」である世界で見たことを、自分以外の人にも伝わるように、なるべく落とさないように書けとも言われた。その提言は今でも詩を書く度に思い出す。

「6 『現代詩』が盛んに読まれていた時代があったと言う」では、60年代頃の、現代詩が今より読まれていたとされる時代について書かれている。今井さんはそのことを知り合いの元コピーライターの方に言われたという。60年代-70年代前半辺りは、前衛的な芸術、現代詩やアングラ演劇、暗黒舞踏やフリージャズ等が、大衆にそれなりの認知をされていたということは私も聞いたことがある。その頃政治闘争が盛んであり、反体制という姿勢がそれなりの支持をされていて、既存の制度に反抗しようという気運が高まっており、文化面にも反映されたと考えて良いだろうか。この既存の制度に反抗するというスタイル自体が制度化されることにより、反抗というコンセプトが意味を失ってしまい、前衛芸術は衰退していったと言えるだろう。そして今井さんが言うように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い」状況になっていった。私はこのことはある意味当たり前であって、既存の制度に共同で反抗するという気運が失われたことで、詩本来の「自分だけのものを追求する」という面がぐっと前に出てくるようになり、忙しく毎日を過ごさなくてはならない大衆は他人の内面に本来さほど関心がないことから、詩への興味も薄れてしまったのだと思う。逆に詩人たちはオタク化して興味が専門化され、ますます大衆の理解から遠ざかるようになっていった。前衛芸術が盛り下がっていた80年代に詩を書きたいと思った今井さんが「1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点」としたことは、ごく当然のことだと考える。

「7 『詩人』を名乗る事と現代詩の『賞』について」は、4章に引き続き、詩の制度的な問題について書かれている。今井さんは、詩集の出版や詩壇での評価と関係なく、詩を書いていれば詩人と名乗れる、と書いている。至極もっともな意見だ。芸術表現は、生きる権利や生きる自由とともにあり、故に万人のものであって、評価とか業績とかいったこととは無縁のはずである。吉岡実は「詩は万人のものという考えかたがありますが」という問いに対し、「反対です。詩は特定の人のものだ」と答えたが、これは誤った考えだと思う。今井さんは「詩を書く才能」は「詩をどうしても書いてみたい、という動機」に繋がっていくとし、「持って生まれた資質」より上位に置いている。スポーツ選手であれば生来の資質はかなりモノを言うだろう。だが、詩は特殊技能ではない。動機があれば誰でも書くことができ、詩人になれる。繰り返すが、詩は生きる権利とともにあるからだ。言葉の世界で強く生きたいと願って詩を書けば、言葉の運びは拙くても何かしらは伝わるだろう。
こうした個人の詩への欲望に、「『詩の賞』を受賞して、詩人として『それなりの、自分のポジション』を獲得していきたい」というステイタスへの野心が対比される。今井さんは詩の賞の選考委員が「中堅詩人」と「ベテラン詩人」によって占められ、詩の真価とは離れたところで賞が決定されていると感じているようだが、私は前述のように、中には政治的に動いている人もいるかもしれないが、大概の選考委員は公正を心がけて選考していると思う。但し、選考委員の顔ぶれが一定で、毎年同じような傾向の作品が受賞するということはあるかもしれない。実は私も、詩集『ガバッと起きた』を出版した時、幾つかの賞に応募してみるということをしてみた。今までやったことのなかったことだが、このマンガのようなテイストの詩集がどの程度受け入れられるのか試してみたかったのだが、受賞はおろか、候補にもならなかった。私はこの結果に満足した。委員の方々には読んでくれてありがとう、の一言しかない。そして私としては今まで同様「自分だけのもの」を追求していくだけである。「上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではない」と今井さんは書いているが、試験に対する傾向と対策のような意識が生まれ、「自分だけのもの」の追求が疎かになることはあるかもしれないなあとは思う。上昇するなら、自分の内的衝動をずうずうしく押し出すやり方で頑張って欲しい。

「8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される『媒体』について」は商業詩誌に掲載される詩の傾向と、詩が発表される場について書かれている。
今井さんは現代詩を、書いた人の姿の反映のされ方という視点で5つのタイプに分けて分析する。この分け方はとても独創的で、今井さんの詩に対する見方がよく出ている。「1 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩」「2 主に『直喩』から造形化されていて、その中に『人の姿』が見える詩」「3 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』が見える詩」「4 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』があまり見えない詩」「5 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩」の5つである。今井さんは書いた人の姿が言葉の中に見えるかどうかを重視している。その人がどういう固有の現実に触れたのか、言葉の中からその痕跡が窺われる詩を良いとしている。ナマの現実が言葉の中の現実にどう飛躍を遂げるのか、飛躍の仕方はいろいろあるにしても、基となるナマの現実が文字通り生々しく他人に伝えられる、そこに表現の本質を見出している。今井さんは「4」が商業詩誌によく見られる詩であるとした上で、「形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている」とやや批判的である。私は、表現が他者に対して開かれたものであるという意識が薄いために、こういうことが起こるのかなと思う。紙媒体の世界では詩壇を軸とする中央集権的な意識が生まれやすい。喩の使い方や意味の飛躍の作り方に一定のモードが生まれ、そのスタイルを使いこなすことが現代詩人として認められる暗黙の条件となる。その枠の中で斬新と呼ばれていても、今を生きている人々にメッセージを伝えていくという点が弱いと、詩人の独白で終わってしまいがちになる。この章では私がツイッターで呟いた「(求められるのは)『現代詩』ではなく『現代の詩』ではないか」という言葉が引用されているが、これは、単なる独白では同時代を生きる人間にインパクトを与えることができないのではないかとの危惧からきたものだ。
今井さんは紙媒体でなくインターネットでの発表の方に希望を持っている。インターネットはボーダーレスであり、未知の読者にランダムに働きかける力を持っている。詩誌や賞における「選ぶ/選ばれる」関係の外にいるので、特定の人間に評価を独占されることがない。
行数の制限がないので長い詩も書ける。お金もかからない。SNSに投稿すれば、シェアしてもらえたり、コメント欄で感想をもらえたりする。もちろんいいことづくめではない。いいね!の数を気にして神経質になったり、誹謗中傷のコメントがきて落ち込んだりすることはあるだろう。それでもコミュニケーションの幅の広さは紙媒体とは比較にならない。今井さんは「作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか」とその可能性について肯定的に語っている。インターネットの普及によって、詩もコミュニケーションの一形態なのだという単純な事実が明確に浮かび上がったきたことは特筆すべきことではないかと思う。今井さんは、紙媒体の詩誌とネット詩誌が交流をしてより広い詩人たちの交流ができあがると良いと書いている。これには私も全面的に同意する。紙媒体の詩誌にはしっかりした編集がある。ここはネット詩誌が比較的弱い部分である。紙媒体の詩誌が行う様々な企画は詩に様々な角度から光を当ててその魅力を引き出していく。詩を読み書きしたい人にとって有益な情報や論考の宝庫である。その価値を認めないわけにはいかないだろう。また商業詩誌は様々な評価を行って業界を盛り上げようとする。これは当たり前の話であり、そこから学ぶべきことも多い。それを絶対視するのは良くないが、無視するのもつまらないものだ。テレビ番組でもtwitterやyoutubeの情報に触れることが多くなってきた。紙とネットが交流して互いを補え合えれば、面白い文化が生まれるだろうと思う。

さて、今井さんのエッセイで私なりに気になった点について書いてみたが、今井さんの考えの基本は「自分だけのものを大切にする」ということに尽きる。どの話題に触れていても必ずここに戻ってくる。次に「自分だけのものを他人と共有する」が来る。表現というものは、「表」に「現」していくもの、人に伝えていくものであり、決して独り言ではない。芸術は爆発であって誰にもわからなくていい、みたいな考えは根本のところで間違っているのである。人間は共生する動物であり、伝えたいものがあるから爆発するのである。その爆発の仕方によっては、人にうまく伝わらないことがある。伝え方が悪いか、その人に受け止める準備ができていないか、ということだが、双方に伝えたい意志・受け止めたい意志があれば、何かしら残るものはあるだろう。今井さんの詩に対する考えの基本は共感できることが多い。今井さんとはこれからも詩人として、友人として、つきあっていきたいと改めて思ったのだった。

 

 

 

詩について 02

 

塔島ひろみ

 
 

すきまについて

 

高い吊り橋を渡るとき、板と板の間のすきまからずっと下の峡谷の底が見える。
すごく恐い。
開けたところから下を見るより、ずっと恐い。
ホームに電車がやってきて停まる。ホームと電車の間のすきまは真黒だ。
さっきまで陽に照らされていた線路が、急に恐ろしい深淵に変わってしまう。
その恐ろしい深淵に、私が追っかけた害虫が逃げ込んだ。
細すぎて懐中電灯の明かりも届かない、洗面台と床の間の真っ黒い空間は、這う虫の命を守るシェルターで、
道端の、ゴミだらけのほんのわずかなコンクリートのすきまからは、ここからもそこからも雑草が芽吹き、根をはり、花を咲かす。
時に生物を奈落の底へ落とし込むすきまは、命の魔法の泉でもある。
それより大きく、強いものが入りこめない、弱者の世界。
弱者に挽回のチャンスを与える、逆転の装置。

地元の京成立石駅周辺は、曲がりくねった細い路地が入り組んで、すきまだらけで、そのすきまには赤い顔の大人たちがひしめいて立ったまま酒を飲む。またあるすきまではまだ開いていないスナックの前で、猫好きのおばあさんが猫に餌をあげている。通りを歩いていると、どこかのすきまから、カラオケの音痴な歌声が聞こえてくる。
そのすきまには、彼らより大きく、強いものは入れない。
そのすきまの深淵が恐ろしくて、恐くて入れない人もいる。
すきまは、その形、サイズ、深さによって、一人一人に違う意味をもって存在する。
肉屋と、つぶれた花屋の間にすきまがある。細くて、黒くて、その先に何があるのかは見えない。
何が始まっているのか、何が企まれているのか、私には見えない。

重なり合う葉と葉のすきま、げんこつを握った時の指と指の間にできるすきま、
この世には、同一のものなど何一つなく、全てがいびつだ。
図面上ではフラットでも、モノとモノがくっつけば、すきまができる。
図面とモノの間にもすきまができる。
いびつな地球を、数字と定規で表そうとするときにも、すきまができる。
そしてある思いを、ある感覚を、言葉という記号で語ろうとするときにも、すきまができる。
あなたの言葉と、私の言葉の間のすきま。
体と言葉、こころと言葉の間のすきま。
そのすきまが「詩」。なのではないか。
そんな気がする。

だから詩は、弱く、小さいもののためにある。
弱く、小さいものを、闇に沈めたり、温かく包みこんだりする。

立石駅周辺、4.4ヘクタールもの一帯は更地になり、4棟の超高層ビルが建つらしい。
「土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新を図り、魅力ある駅前環境を形成するため」と、北口地区の計画書にある。
いくつものすきまが消滅し、虫も、ノラ猫も、酔っ払いもいなくなった4.4ヘクタールに建つ超高層ビルに住む人の孤独を考える。心のすきまを考える。
「合理的な」窓、「健全な」キッチン、機能的な居住空間と、そこに住む、いびつな生きものである「人」たちとの間にできるすきま。35階建ての壁に生じるぞっとするような暗い亀裂。そのすきまに、
まだ誰も見たことのない雑草が生えるだろうか。
誰も見たことのない虫が眠るだろうか。
誰も読んだことのない詩が生まれ
頑丈にロックされた防音窓のすきまから
まだ誰も歌ったことのない歌が、聞こえるだろうか。
そのとき区長は、「しくじった」と、自分の禿げた頭を叩くだろうか。

 

 

 

「詩」から
「詩じゃない詩」へ

中村登の未刊詩篇を読む

 

辻 和人

 
 

これまで中村登の3つの詩集を論じてきた。第1詩集『水剥ぎ』(1982年)は暗喩を多用して生活していくことの苦しさを訴え、第2詩集『プラスチックハンガー』(1985年)では換喩的表現に転じて言葉の遊戯的な面白さを追求し、第3詩集『笑うカモノハシ』(1987年)では散文性を取り入れた書法で抽象的な論理を展開した。短期間のうちに作風がくるくる変化を遂げている。これは、彼が書法について自問自答を繰り返していたことと、同時代の多様な詩の動向を注意深く見張っていたことを示していると思う。但し、その底にあったのは常に生命というものの在り方への関心だった。生命は、喜びと苦痛を味わう感受性を持ち、いつか失われる脆さを内包している。その捉え難い実態を、自身の身体を起点としながら、言葉でどこまで描き出せるか、中村登は詩人として試行錯誤を重ねていたように感じる。

中村登が出版した詩集は上記の3冊であるが、その後も詩作を続けていた。奥村真、根石吉久と組んだ同人誌『季刊パンティ』を、私は創刊号から18号まで持っている。これは中村登本人から送ってもらったものだ。創刊号は1989年8月、18号は1994年6月の刊行である(その後も続いたかどうかはわからない)。私にとっては、この『季刊パンティ』に掲載された詩の数々が、3冊の詩集以上に刺激的であり、正直言って驚きそのものだった。『笑うカモノハシ』は、尻切れトンボの結末が多い規格外の構成ではあるが、一応はきちんと物語が展開された詩集である。しかし、『季刊パンティ』に発表された詩の中には、構成も何もないような、生の断片がただただ殴り書きされたような作品が見受けられる。これをどうやって「詩作品」と位置付けたのか。3冊の詩集の出来から見て、中村登が詩史に疎くないことは明らかである。詩の可能性を広げていった挙句、「詩じゃない」領域に足を踏み入れてしまった、としか言いようがない。だが、これらを「散文」と呼ぶこともためらわれる。散文には散文の厳しさというものがあり、それなりの文意の起承転結が求められるからだ。詩でもなければ散文でもない、しかし、書いたその人の息遣いは濃厚にうかがわれる、そんな不思議な「行分け文」に、私は魅了されたのだ。
それでは具体的に作品を取り上げてみよう。

 

空0日差しを浴びて
空0匂い立った地面の
空0新鮮
空0手頃な広さの顔つきが
空0手玉にとれそうなその気持ち
空0残るこちらの目と口と胃袋
空0ついでにタネまき
空0キュウリのタネまき
空0地面のなかのタネ
空0あれはもうタネとは言えないのではないか
空0女体のなかに入った精子、あれはもう精子じゃない別の生き物
 
空0発芽したのは45粒のうちの11粒
空0のこる34粒はタネじゃなかった、なんだったろう
空0秋にたべるつもりの涼しいキュウリなんだけど
空0キュウリの筏汁ってしってるかい
空0擂鉢に焼き胡麻すっていい匂いがしてきたらなま味噌いれて胡麻味噌
空0砂糖はほんのひとつまみ、キュウリのうすぎりを胡麻味噌と和えて
空0できたキュウリもみを水でといて出来上がり、コツは擂鉢のなかで
空0キュウリも一緒にすりこぎ棒でこねること シソの葉をつまんできて
空0すりこんでもいい匂い
空0やってみな美味いよ
空0夏の炊きたてのゴハンに筏汁たっぷりかけて
空0ふがふがかきこむのたまんない」
空0犬とかわんない生き方してるわけで
空0鼻で喰うわけ

空白空白空白空白「匂い涼しい」より

 

中村登は会社勤めの傍ら、細々と農業も続けていた。この詩は自ら種をまいて育て収穫したキュウリを、汁にしてご飯にかけて食べる様を描いている。田舎料理のおいしさが伝わってきてお腹が空いてきそうになる。が、これが「詩」として書かれ、発表されているということに気づくと、途端に不安な気持ちになるだろう。ラフな口調で、比喩らしい比喩も見当たらず、一行の時数が長いことが多い。種はまかれると同時に種ではなくなり、自立した生物に進化しようとする(精子も女性の膣内に射精されると同時にヒトという生物になろうとする)。生殖というところにルーツを持つその生々しい在りようが、鮮烈な味と香りを生み、食欲を刺激することになるのである。種-性-食という3つの概念の交代と混ざり合いの具合が、散文を行で分けたようなこの作品を辛うじて詩にしているのだ。

「匂い涼しい」はまだ詩的な象徴性を備えているが、「冬の追記」になると、見た目はリズミカルで「匂い涼しい」よりは詩らしいが、内容を見ていくと詩特有の象徴性を欠いていることに戸惑いを感じる程だ。全行引用しよう。

 

空0きょうは2月17日
空0突風が吹いている
空0このところ日の出がずいぶん東に移って
空0まばゆい朝だ
空0まばゆい光のように咲く
空0水仙が好きだが
空0まだ蕾だ

空0また季節が移って
空0沈丁花が匂う頃には
空0今度は
空0心が移って
空0沈丁花が好きになる
空0去年は6月14日に
空0百合が咲いている、と書いている

空0目前のものは
空0激しく風に煽られているのに
空0青空に浮かんだ
空0白雲は少しも動かない
空0なんだか
空0老年にいる両親に
空0きっとめぐってくる
空0死についてどんなふうに思っているか
空0聞いてみたいが
空0口幅ったくもあり聞かずに過ぎた
空0きのうからのこの風も
空0明日には止むだろう
空0死ぬまでに
空0ほんとうのことをいくつ知ることができるかと思う
空0知ったところでなんだというのかと思う
空0突風に煽られ
空0すずめらは飛んで
空0餌をさがしている
空0風にあらがって
空0身をひるがえして楽しんでいるように見える
空0そんなこともたちまち忘れてしまう
空0間もなく
空0春だ

 

冬の終わり頃、季節の移り変わりを感じながら、両親の死を思い、目の前の雀を思い、想ったことを忘れて、また季節を感じる。この詩にはいわゆる「さわり」とか「つかみ」といったものが全くない。その場にいて、感じたこと・思ったこと・見たことを、そのまま記述しているだけだ。『水剥ぎ』の中村登だったら死というテーマに重みを持たせ、暗喩を多用して凄みのある詩に仕立てただろう。『笑うカモノハシ』の中村登だったら、季節の移り変わりから時間の不可逆性を抽出し、その中で生きる者たちの儚さを鳥瞰する詩にしただろう。しかし、この詩における中村登は描写に意味を持たせることをせず、事態を収拾することをしない。言葉がある観念に凝縮しそうになると「知ったところでなんだというのかと思う」と、その流れを断ち切り、次の展開に向かう。ここでは語りの現場性・即時性が全てである。散文が成立する条件であるストーリーの起承転結を拒否することで「散文でない言葉」を志向し、それによって逆説的に「詩」を作り出しているのだ。この詩で描かれていることは、話者が「2月17日」に生きて存在して何某かのことを感受していることだけである。しかし、話者が生々しく立ち尽くしている姿だけは伝わってくる。

死は以前から中村登の関心事だったが、観念としての死ではなく物理的な死、つまり対象がはっきりした現実の死を問題にすることが多くなってくる。「コッコさんノンタンそれから」は飼っていたニワトリと猫の死を描いた詩である。

 

空0ボクはみんなが起きてこないうちに
空0コッコさんを埋めた
空0スモモの木の下に
空0コッコさんの穴は小さな穴で済んだ
 
空0ノンタンの穴が
空0思ったより大きくなってしまったのは
空0死後のノンタンが
空0寒い思いをしなくていいようにと
空0ヨーコさんが
空0着ていたチャンチャンコを着せてやったから

 

家族がショックを受けないようにこっそり墓穴を掘る中村登、死後の生活を考えて自分の着物を着せてやる妻のヨーコさん。生き物を思いやる気持ちに打たれる行為だが、中村登は感情を声高に歌いあげることはしない。中村家は動物好きで、他に「ユキのために飼ったウサギのプラム/ボクがつれてきたイヌのサクラ/サクラの生んだイヌのチビがいる」。

 

空0そしてチビ
空0最後にプラム
空0その度にボクは死の穴を掘るだろう
空0その度にボクはともに生きたものの
空0その穴の大きさを知るだろう

 

愛する動物たちの死は、死骸の穴掘りという行為に直接結ばれる。その間に説明を挟むことはない。穴を掘る行為だけが、掘られた穴の大きさだけが、悼む気持を表している。中村登はここで詩を書こうとしていない。気の利いた比喩を廃し、事実を淡々と並べるだけ。その並べる手つきの中に発生したのが、詩だった、そんな風に見える。

このやり方で顕著なのは具体的な「日付」の記述である。『季刊パンティ』に発表した中村登の詩は、後になる程日付が出てくるものが多くなってくる。『流々転々』は

 

空0きょうは3月8日
空0日曜日だから朝早く起きて
空0犬の散歩
空0思ったより寒くて
空0満開の梅の花もうら悲しく見えたよ
空0オレも寒いのは苦手なんだ

 

と独り言のように始まり、

 

空0いろんな朝があるけど
空0会社に行かなくてもいい朝は
空0みんな新しくて
空0みんないとおしいよ
空0高いところでたくましいカラスが
空0なんだかしきりにわめいているぜ
空0やつらはきっと 
空0ニンゲンのくらしとうまが合うんだろうな
空0そう思う

空0さあ もう書けることがなくなった
空0サヨナラダ

 

で終わる。テーマに求心性がまるでなく、ほとんど日録のようである。しかし、これは日録ではない。日録であれば「カラス」の暮らしについての考えを巡らしたりしない。その場で思いついたことをさっと流して書いているように見えるが、核になるのは思いつきの中身ではなく、とりとめのない想念の淀みに嵌っている話者の姿なのだ。詩の後半に、

 

空0オーイ、フジワラシゲキよ
空0ヤカベチョウスケよ
空0この詩を読んでくれているかい
空0もし、読んでくれているのならふたりがいま疑問に思っている
空0そのとおりにこれは二人が考えているような詩ではないよ
空0それに実はオレ、詩なんてわからないのさ

 

というフレーズが出てくる。「フジワラシゲキ」「ヤカベチョウスケ」は中村登の詩の仲間だろう。2人はこの詩に何かしらの求心的なテーマが隠されていて、それがどのような比喩によって暗示されているかを読み取ろうとする。詩を読む時は誰でもそうするだろう。しかし、中村登は言葉の裏を読むという、詩の通常の読み方を否定する。何かの観念を象徴させるという言葉の使い方を廃し、そこに「オレ」がいるという具体的な事実だけを浮かび上がらせようとしている。「詩なんてわからないのさ」は斜に構えた言い方ではなく、作者の本音に違いない。「詩作品」という形を取ることによって、ナマの現実が何かの「象徴」にされていくことに、疑問を叩きつけているのだ。

この先の中村登の詩は、心をそそる言葉の「さわり」や「つかみ」といったものを徹底的に排除した、「非詩」的なものに変貌していく。「詩じゃない詩」になっていくのである。それに伴い、日付そのものが詩のタイトルになっていく。

 

空0あの花の性格のまずさが
空0サツマイモにもあって
空0彼にしても
空0生きていくってことは
空0ヒマワリ以上に大変なこと
空0雨にぬれて
空0風にふるえている
空0彼の葉っぱがなんだかみょうにうつくしい

空白空白空白空白「6月21日(日)きょうも雨」より

 

空0ひとつの現実
空0そこには
空0生きている人間の数だけの現実
空0そのとき
空0現実とは境界

空0皮膚は個体を形成する
空0境界である
空0といえるが
空0その境界がじつは
空0むすうの穴なのだ

空白空白空白空白「6月28日(月)晴れ」全行

 

空0きのうの
空0駅までつづく道があり
空0水たまりがあった

空0(畑のネギはわずかに伸びたかもしれない)

空白空白空白空白「9月18日(土)快晴」全行

 

日常の風景であったり、抽象的な思考だったりとまちまちだが、それらは徹底して「断片」として投げ出されている。発展を拒否した「断片」として提示することに、中村登は異様な執着を示している。「断片」を発展させて深みのあるストーリーを作るのでなく、「断片」そのものの深さを端的に追求している。現実は、統一的な意味概念ではなく、「ただそこにあるもの」なのである。それを意識的に行っている。「詩がわからない」ではなく、これまでの「詩というもの」の概念に挑戦していると言えるだろう。ナマの現実を捕まえるためには「詩」らしい体裁など知ったことじゃない、ということ。

 

空0朝、チビを連れて母を見舞う
空0あれほど苦しんでいた母の容態は
空0急速に回復に向かい
空0眠っていた

空0辻和人さんから
空0お願いしていた詩の原稿が届く
空0ハガキが同封されていて
空0「作品を成立させる言葉」と書いてあった
空0でもオレの書くものはとても「作品」とはいいがたい

空0昼過ぎに雨は止んで
空0テニス仲間のサトーさんから電話があった
空0「明日晴れたらテニスをしませんか」
空0「もちろんやりましょう」
空0サトーさんとは気が合うと思った
空0気の合うひとと
空0気の合わないひととがいて
空0思い出してみれば
空0出会いの印象だった
 
空0声の感じに含まれた気温と湿度
空0顔の表情に含まれた季節
空0喋り方に含まれた風向
 
空02月に生まれたオレを
空0冬の天気が
空0萎縮させる

空白空白空白空白「1月16日(土)雨」全行

 

母親の見舞い、作品の感想、テニス仲間からの電話、気が合う合わないということについての考察、が例によってぱらぱらと記述される。第2連で辻のコメントの一部が挿入されているが、これは私が中村登に、詩という作品を成立させる言葉についてどう思うかを問うものだった。この頃の中村登の詩は、暗示的表現を封じ、構成された「詩」を否定し、代わりに断片としての現実を突きつけるという点で、極めて先鋭的な問題意識を備えている。現代詩は長らく磨き上げた暗示的表現を最大の武器としてきた。飛躍の大きい「わかりにくい比喩」を通して、社会や日常に潜む闇を暴くというものである。一見意味はわかりにくいが、その底にある心理主義的な図式が横たわっていることは自明であり、読み慣れてくれば外見の複雑さにかかわらず、どうということはなくなってくる。何らかの意味の図式を象徴的に描いているということさえわかれば良いのである。中村登は現代詩がほとんど自明のように備えている意味の図式に疑問の目を向け、図式に還元されないナマの現実の断片を断片のままに提示しようとしたのだろう。同時代の誰も試みたことのないそのラディカルさに惹かれずにはいられなかったが、同時に疑問も抱かざるを得なかった。詩を「作品」として発表するということは、基本的に読む人=他者とコミュニケーションを結ぼうとすることである。しかし、メッセージ性を持たないこれらの詩は言葉の内部で完結しており、悪く言えば自閉してしまっている。敢えて自閉した言葉を見せることによって、他者とどういう関係を結ぼうとしているのか、それが見えてこない気がしたわけである。 それに対し「オレの書くものはとても「作品」とはいいがたい」と流すように応じつつ、3・4連目では「人と気が合う・合わない」を問題にする。中村登を追いかけて読むような人、つまり「気の合う人」なら、そこから浮かび上がる人となりを頼りに、この即物的な記述からナマの現場の空気を感じ取ることができる。しかし、そうでない人なら、素通りしてしまうかもしれない。

そもそも「表現」と「作品」は矛盾を隠し持っている。表現はその人が固有の現実と触れ合って内発的な衝動を覚えるところから始まるが、作品は他者に開かれた器としてあるものである。内側に秘められたものを他者に向けて開く時、表現者は出発点となる固有の現実をいったん手放さなくてはならない。そうしないといつまでたっても表現は他者に開かれない。ナマの現実を作品内の現実として再創造することで初めて表現は他者のものになる。そして現代詩は主に暗喩を使って、現実から現実への変換を行ってきたと言えるだろう。そのやり方は効率的だが、元にあったナマの現実の「ナマさ」を削ぎ落すことにもなる。中村登は固有の現実をとことん相手にする道を選び、試行錯誤の結果、できあがったのが日付をタイトルにする一連の「詩じゃない詩」だった。言葉をぎりぎりまでナマの現実に近づけるために「作品」を捨てる。文字通り捨て身の詩法であり、意味が辿りやすい平易な語り口でありながら、読者を拒否する寸前の際どい所まで踏み込んだ詩だと言えるだろう。

以上述べたことは、実は中村登も意識していたようである。というのは、その後、日付をタイトルに持ちながらも、今までとは違って小説的な展開を取り入れた詩を書いているからである。

 

空0男は泣いていた
空0深夜のタクシーのなかで
 
空0泣く男には夜の闇を越えた
空0理解を越えた
空0心の闇が広がっていた

空0闇のなかでも
空0そこにいる少女の姿は痛いほどよく見えた
空0見ているのは記憶に過ぎないのか
空0見えるのにいま
空0見えない
空0触れることができるのにいま
空0触れえない
空0いま悔やみきれない

空0名を呼べば
空0呼ぶ声を聞分け
空0その腕のなかに抱かれた幼かった少女を
空0思い出す
空0思い出す思いに
空0成長したいま
空0誤りがあったとは思えない
空0そんなハズはない
空0ない道を生きはじめてしまった
 
空0しまった
空0応える声を
空0しまいこんでしまった
空0少女は泣く男の娘なのだ

空0いまは見える少女の姿が救いなのだが
空0心の奥底深く迷いこんでしまって見えない
空0いまは触れることのできない少女の体温が救いなのだが
空0触れえない
空0無念が車内の薄闇をふるわせ

空0涙にふるえる
空0コートを引っ被った男に応える言葉がなかった

空白空白空白空白「2月4日(金)深夜の帰宅だった」全行

 

心に闇を抱えた男が深夜のタクシーの中で泣く。男の救いとなるものは朧気に見える幼い少女の像だが、それは彼の娘だった。娘のことをあえて少女と呼び、自分のことを男と呼ぶことによって、現実の位相をずらし、外から覗いた仮構の空間に作り変える。その冷めた視線で、娘を素直に娘と呼べない、父親になりきれない、大人になりきれない自分の寂しさを暗に浮かび上がらせているのだ。この詩は、ナマの現実と虚構の中で生まれる現実の乖離に悩み続けた中村登が出した一つの回答であり、彼が始めた「詩じゃない詩」の進化と言うこべきではないかと思う。

『季刊パンティ』への参加後、私の知っている限り、中村登はしばらく詩を発表しなくなったようだ。理由はわからない。ただ、2012年に加藤閑、さとう三千魚とともにウェブ同人誌『句楽詩区」を開始する。その際に筆名は本名の中村登から古川ぼたるに変えている(但し、本稿では中村登を使ってきておりそれを続行する)。中村登は俳句も書き始めており、俳号として古川ぼたるを名乗ったのかと思える。

 

*「古川ぼたる詩・句集」として鈴木志郎康の手でまとめられている。
http://www.haizara.net/~shirouyasu/hurukawa/hurukawabotaru.html

 

この期間に書かれた作品、つまり中村登の最晩年の作品はまた大きな変化を遂げていた。テーマは季節・自然・家族など自分の周辺のことが多く、その点では以前と余り変わらない。しかし、今までになくストレートな筆致で素直に抒情を述べている。凝った暗喩や換喩表現を使った初期の詩や、物語を喩として扱った『笑うカモノハシ』の詩、喩を拒否して現実を断片として扱った『季刊パンティ』の詩、のような尖った外見の詩とは異なり、穏やかで暖かみのある抒情詩に変貌している。散文性が高い点では「詩じゃない詩」は継承しているが、現実を一個のオブジェとみなすかのような、他者の共感を敢えて拒むような姿勢は失せている。「大雪が降った」を全行引用する。

 

空02013年1月14日は月曜日でも休日だった
空0昼前から思いがけない大雪が降って
空0雪の深さは足首まで埋まりそうだった
空0午後になっても降り続けてたが
空0畑作業用のゴム長靴を履いて
空0家のそばを流れる古利根川伝いに歩いた
空0吹雪く川原はきれいだった
空0降り続ける雪で
空0昨日までの見慣れた景色が一変していた
空0白い景色は目的もなく立入るのを拒んでいるのに
空0開かれるのを待っている
空0大勢の死者や未知の人たちが書いた
空0閉ざされた文字が整然と立ち尽くしている
空0沈黙のなかに入って行く時のように
空0内臓がずり落ちそうで
空0自分をなんとか
空0閉じ込めようとしている
空0私は幼児のようだ

空0あの角まで行ってみよう
空0あの角まで行く途中に
空0大きな胡桃の木が生えている
空0大きな木に呼ばれるように
空0そばに行って
空0その先の角を右に折れて家に帰るつもりで歩いた
空0歩きながら今日の大雪を記録しようとカメラに収めた
空0画像には年月日時刻が入るようにセットして
空0写した景色を日付のなかに閉じ込めておくと
空0あの胡桃の種子のように
空0新しく芽生える日がくると思って

空0雪を被った胡桃の木は
空0遠くから見ると
空0たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし
空0近づくにつれて
空0苦しんでいる
空0人の姿のようだ
空0土のなかに頭をうずめて
空0空のたくさんの手足は疲れて硬直している
空0それで
空0何を求めているのだろう
空0こんな日にも
空0土のなかの頭部と地上の胴体とは
空0私が立っている地面を境界にして
空0少しずつ少しずつ何を地下に求め
空0少しずつ少しずつ何を上空に求め
空0春には新芽を膨らませ
空0初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける
空0光合成をしているのだという
空0根本は周囲1メートルほどの太さになっている
空0一度噛んだ果肉は渋く殻は固い
空0忘れられない果肉
空0果肉の数だけ忘れられないことが多くなる
空0人ではない胡桃の木は数十年
空0季節の実を結んでいる

空0雪は10センチ以上積もっても降り続けた
空0ストーブを焚いている部屋に帰ってきて
空0胡桃の実の固い殻のなかから
空0なかにしまわれた記憶を取り出すように
空0カメラからPCにデータを送る
空0撮って来た画像を再生し
空0帰りを待っていた女房にも見せた
空0彼女とは40年近く一緒に住んでいるが
空0こんな降り方をした大雪を
空0ここに住んで見るのは初めてのような気がする
空0吹雪く川原の
空0雪をまとった胡桃の木は
空0日付もうまく入っていて
空0彼女もきれいだと言ってくれたので
空0うれしかった
空0あの日
空0長女の生まれた日も
空0雪の降る日だった
空0その子は予定日より十日ほど早く破水したので
空0大きな川のほとりにある病院に向かって
空0明け方の雪の中
空0転ばないように
空0二人とぼとぼ歩いていったのだった
空0雪の日の赤ちゃんは逆子で生まれた
空0女の子だったので
空0雪江と名づけたのだった

 

雪が降った日に外を歩いて、そこで目にしたもの一つ一つを大切に慈しんでいる。その慈しみの様子を、実況中継するように逐一生々しく伝えていく。「雪を被った胡桃の木は/遠くから見ると/たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし/近づくにつれて/苦しんでいる/人の姿のようだ」は話者がその距離を確かに歩いたことの息遣いを伝え、対象を捉える心が刻々変化していることを伝える。「こんな日にも/土のなかの頭部と地上の胴体とは
私が立っている地面を境界にして/少しずつ少しずつ何を地下に求め/少しずつ少しずつ何を上空に求め/春には新芽を膨らませ/その初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける」はその土地で暮らす者特有の鋭敏な感覚で微細な自然を感じ取り、そこから生活者特有の哲学を汲み出していく。その一連のことが、「断片」ではなく「流れ」として詩の言葉で記録されているのだ。読者は詩を読むのでなく体験するのだ。何と豊かな体験だろう。詩の終わり頃には、妻の出産にまつわる思い出が描かれる。その日も大雪だった。予定より速く破水した妻をケアしながら病院まで歩き、生まれた女の子に雪にちなんで「雪江」と名づける。雪を通じて現在と過去が結ばれるわけだが、娘の誕生を愛おしく思い出す行為もまた、自然の営みの中にあるものとして、把握されていることに注意したい。

中村登が初期から一貫して関心を持っていたことは、命の在りようだった。命や身体についての記述は、自分・家族・知人・動物・植物と、どの詩にも必ずと言っていい程現れる。生まれて、飲食し、性交して、死ぬ。中村登は自分もこのサイクルの中に在ることを常に強く意識している。自分を精神的な存在とはせず、身体ある存在として扱うことに拘った。詩のスタイルは変化していったが、核にあるのは生命への関心であり、そこがブレることはなかった。生きているということは、身体とともに在るということであり、時間もまた身体という概念とともに在る。中村登は詩もまた身体ともにあるものと考え、命や身体のリアリティを丸ごと実感できるような言葉の在り方を模索していたと思われる。
以上が4回にわたる、私の中村登の詩に対する論考であるが、拙論を通して中村登という詩人に興味を持っていただけたら、これ以上嬉しいことはない。

 

 

 

私的な詩論を試みる

 

今井義行

 
 

1 始まり

 
わたしは、今から「私的な詩論」を試みようとしているが、これは、あくまでも「私の経験」に基づいて書いていくものなので、この論考を書くにあたり、サイトや図書館等で調べたりという事は、行なってはいない。
調べると「ああ、この箇所は、いかにも、きっと調べたんだねえ・・・」という事が、読者に伝わってしまうからだ。後々に述べる事に関係するのだが、わたしは「詩集」は、殆ど読んではこなかった。「現代詩文庫」も、殆ど読んではこなかった。
この論考を書くに際して、わたしが思った事は、わたしは詩を書いてから30年以上経つが、詩に関する散文は殆ど書いてこなかった。わたしは、最近になってわたしが数年経つと還暦になるという事を知って、驚いてしまった。そこで「わたしは、わたしなりの「私的な詩論」を書いておきたい」と思ったのだった。
わたしは、小学生から高校生まで、国語の教科書以外では「詩」を読んだことはなかった。単行本としての「詩集」を読んで感銘を受けたという事もなかった。小学校中学年に、誕生日のプレゼントに、親から「宮沢賢治作品集」を買ってもらった事があった。そこには「童話」の他に「詩」も収められていたが、それらは、独特の文体だった事もあって、途中で読めなくなってしまった。
わたしが小学校中学年の頃に熱心に読んだのは、最近亡くなってしまった、日本のファンタジー作家「佐藤さとる」氏の「コロボックル・シリーズ」というファンタジー作品だった。それは、面白かったので、夢中になって読んで、わたしなりに「コロボックル・シリーズ」を真似て童話のようなものを書いてみたりした。しかし、物語を創作するという事は難しいもので、タイトルばかりは考えたものの、その物語が完結するという事はなかった。そこから「文学というものは難しいものだ。」という、先入観ができてしまったようだ。
しかし、その後、数年経った中学2年生のとき、たまたま、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・上巻」を書店で見つけ、購入し、読んでみたのだった。そこには、戦後から1950年代までの現代詩人たちの代表的な詩篇が収められていた。「田村隆一」氏の代表的な詩篇は、とても格好良かった。また「谷川俊太郎」氏や「黒田三郎」氏といった詩人たちの代表的な詩篇は「何処が、とは説明出来ないのだが、その説明出来ないところが、とても良いなあ。」と感じられるものだった。何よりも、それらは「創造的」であると同時に、とても「解りやすい」詩篇でもあった。わたしはそのときに「現代詩」というものがあると知ったわけなのだった。けれど、その後「現代詩アンソロジー・下巻」を買う事がなかったので、1960年代以降に書かれた詩篇を読む体験は持たなかった。とはいえ「現代詩」というものがあるのだと知ったわたしは、書店で「現代詩手帖」という雑誌を立ち読みしてみた。そして、そこに載っていた詩や論考が、あまりにも難し過ぎて、わたしには、さっぱり理解できなかったので、それから「詩」という文学からの興味は、またわたしから離れていってしまった。
──それから随分と経ってから、わたしは、大学の法学部に進学した。そしてわたしは、法曹サークルではなく「児童文学」のサークルに入り、また童話作品の創作をしてみた。そのときに、わたしは、久しぶりに文学体験をしたというわけである。何故その後に、わたしが童話作品の創作から離れていってしまったかというと、わたしは「児童文学」に関わっているというのに、実は「子供が好きではない。」という事に気づいてしまったからだ。
ちなみに大学生になると、まるで、決められた事のように文豪の作品「罪と罰」のような作品に手を出してみたりするが、わたしは、それら有名な小説を、それなりに読み通しはしたものの、何が「罪と罰」なのだかさっぱり解らず、その内容は、きれいさっぱりと忘れてしまった。
話は戻るが、わたしは高校を卒業してから、大学の法学部に進学したわけなのだった。しかし、わたしは、法曹を目指していたわけではなかったし、公務員を目指していたわけでもなかった。ただ浪人をする余裕が家庭になかったので「将来的に潰しがきくだろう。」という理由だけで、合格した大学の法学部に進学したのだった。この事は、今になってつくづく思う事だが、進学をする場合「どこの学校に進学する。」のかという事が大切なのではなくて「何をやりたくて学校に進学する。」のかという気持ちが、本当に大切なのだという事だ。わたしは今、いろいろな経緯があって、「精神障害者年金」というものを受給しながら、また福祉的なさまざまな支援を受けながら、生活をしている。また、一般的な就労はもうできないため、殆ど寝たきりに近い生活をしている合間に、ベッドで詩を書いて、定期的な通院をしながら、住んでいる地域の「作業所」に通所して、日々を営んでいる。わたしは、精神疾患を持ってはいるけれども、この環境にようやくたどり着いて本当に良かったと感じている。
「作業所」に通所しているメンバーは、30歳台から70歳台までの精神疾患者であり、メンバーは、わたしのように「精神障害者年金」を受給しながら生活をしている人たちもいれば「生活保護」を受給しながら生活をしている人たちもいる。わたしたちは、軽作業をしながら一緒にできたての温かい昼食を取り、月に1回、僅かではあるけれども「工賃」を受け取る。わたしが「作業所」に通所していて思うのは、「作業所」のスタッフがとても心優しい人たちであり、そのスタッフたちが「直接的に社会の役にたちたい。」という動機から、福祉的な仕事を敢えて選択しているという事が伝わってくる事だ。「スタッフたちの給与は、それほど高いものではないだろう。」と察するのだが、スタッフたちは笑顔を絶やさないし、1日を精神疾患者たちと一緒に過ごす。
「作業所」には、割合頻繁に、福祉学校の生徒たちが実習生として訪れて、わたしたちと一緒に一定期間を過ごす事がある。なぜ実習生たちが福祉の仕事に就きたいという考えに至ったのかは、1人1人異なると思うのだが、はっきりとしている事は、高校在学中から「福祉的な仕事に就こう。」と明確に定めていたのであろうという事だ。これは、とても大きい事だ。将来的にやりたい事が決まっていれば、自ずと、どのような学校に進学したいのかが、決まってくるからである。わたしは、わたしに関わることがらを、後悔しない性質の人間だと思っているが、唯一、今、わたしには思う事があって「わたしは、直接、人々を支える事ができる「福祉の仕事」を、なりわいにすれば良かったな。」という事である。

 

2 「詩作」への入り口

 
わたしは、大学卒業後、民間の中小企業に就職した。初めの内は、何事も新鮮に感じられたし、やはり、わたしにとって嬉しかったのは、今まで手にした事のなかった給与を受け取る事ができた事である。その給与で、わたしはわたしなりの望むような生活がある程度可能になったし、実家に一定額のお金を渡す事もできた。
ところが、働いている内に、わたしは、1つの事に気がついた。社員の誰もが自分の部署の仕事に邁進しているように見えていたのだが、社員が担当している仕事が完結しつつあるというのに、どういうわけか、上層部の決裁により、簡単に人事異動が行われてしまうという事だ。もう少しで、出来かかっている仕事だというのに、その仕事を奪われてしまって、担当していた社員は「とても悔しい思いをしているだろうなあ。」と思った。そのような事は、わたしには、とても理不尽に感じられた。わたしは「わたしなりの仕事を完成させていってみたいと思っても、簡単にそれを奪われてしまう可能性もあるのか。」と思った。わたしは「何者にも奪われない、自分だけのものを得たいものだ。」と望むようになっていった。
その頃、わたしの勤務地は渋谷にあって、そして、渋谷の駅前には東急のビルがあった。会社から帰宅するとき、何気なく、そのビルの上階に昇ってみた。するとそこには「東急BE」というカルチャー・スクールがあって、講座のパンフレットを眺めてみると「現代詩講座」という講座があった。講師は、わたしの知らない「鈴木志郎康」氏という現代詩人だった。そのパンフレットには、このような事が記されていた。「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」その文章を読んで、わたしは「これだ!」と直感的に感じたのだった。(結局、生きていく上で最も大切な事は、そういう事なのではないか。)と思った。そしてわたしは、その講座を受講してみる事に決めたのだった。

 

3 現代詩人「鈴木志郎康」氏と創作仲間との出会い

 
わたしは、講師の「鈴木志郎康」氏という現代詩人の事は、何1つ知らなかった。そこで休日に神田の書店街に出向いて「思潮社」から出ている「現代詩文庫・鈴木志郎康詩集」という本を買って読んだのだった。けれども、その詩は、よく解らなかった。「解らないのに、講座を受講して大丈夫か?」という思いがよぎったが「とにかく、勇気を出して、受講してみよう!」という気持ちになったのだった。
実際に「現代詩講座」を受講する事となって、参加した初日、教室には、「鈴木志郎康」氏が座っており、その周りには受講者たちが座っていた。講座の進め方は、受講者が予めコピーしてきた詩作品をその場で読んで、感想を述べ合う合評会の形式だった。今でも忘れられないが、初めて参加した日の講座で合評する事になった詩作品は、詩人「北爪満喜」氏の「白色光」という作品だった。わたしは、それを読んで、すぐに「ああ、これは難しいな。」と感じてしまって、感想を述べる順番がわたしに回って来たとき、どうにもならず「・・・パス。」と言ってしまった。そうしてわたしは、他の受講者たちが「北爪満喜」氏の詩作品の感想を思い思いに述べているのを見たのだった。正直なところ、わたしは、面食らってしまったが、その後になって、とても物静かな佇まいの「北爪満喜」氏の使う言葉が、詩の中では、跳ねて動いているように、強く感じられたのだった。わたしには、現代詩というものが、普段使っている日本語から成り立っているにも関わらず、別の構造を持っている造形物として強く感じられて、やや萎縮もしたのだが、やはりその事よりも、現代詩への大きな関心の方が遥かに上回った。そうして「わたしもわたしなりに詩作品を書いて、提出してみたい。」と思ったのだった。
わたしは、その後、アパートの自分の部屋で、わたしなりに、原稿用紙に、初めて「詩」を書いてみた。その初めての「詩」は、現代詩を知らないわたしによる、初めてのものだったので、あくまで、日常的な日本語で書いた「詩」だった。
そのときに、今でも忘れられない出来事が起きた。──ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである。そのような出来事は、わたしにとって、今までに1度も起きた事のない経験だった。翌週、わたしは、わたしの書いた詩をコピーして「現代詩講座」に緊張しながら持っていった。わたしは、「鈴木志郎康」氏と受講している人たちに、わたしの書いた詩を配って、わたしは、その詩を朗読した。ぐるりと、受講している人たちがわたしの書いた詩について、感想を述べてくれた。その感想が、おおむね好意的な感じだったので、わたしは、胸を撫でおろし、本当に嬉しかった・・・
わたしは、詩を読む事や詩を書く事から「詩の世界」に足を踏み入れた者ではないけれど「詩の世界」に足を踏み入れて、自分の好きなように、詩を書き始めた。「鈴木志郎康」氏は、講座の中で「詩は、勉強するものではない。」と受講者たちに言った。だから、わたしは、「現代詩文庫」を買い揃えて、貪欲に有名詩人の詩作品を読む事は少なかったし、今では閉店してしまったが、その当時、渋谷にあった、詩の専門店「ぱろうる」で、熱心に詩集を立ち読みしたり、詩集を買ったりする事も少なかった。
それでもわたしは「現代詩講座」を受講しながら、詩を書き続けていく事にしたのだった。何故なら「詩作」は、わたしの日常生活を、とても活性化させたからだ。毎週「現代詩講座」が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた──

 

4 「詩壇」というものについて

 
そうした生活の中で、わたしは、詩の世界には「詩壇」というものがあるらしい、という事を知った。
今、考えてみて「詩壇」というものがあるとするなら、それは詩集の出版社の最大手「思潮社」が形造ってきたものと言って良いと思う。詩集に「思潮社」マークが入ると、詩人として認められるところがあり「思潮社」が発行する「現代詩手帖」の中で、それなりの役割=原稿執筆等の仕事を果たしていくと「詩人は「新人詩人」から「中堅詩人」となり、「中堅詩人」から「ベテラン詩人」になっていくという構造になっているのだ。」と思った。その結果、詩人たちの作品は「現代詩文庫」に収められて、絶版になった詩集も、その中で読む事ができる。「ベテラン詩人」として認知されると、その詩人は、他の文芸出版社からも詩集を刊行していく事にもなり、広くとは言わないが、詩人は、社会的にも認知をされていく。その事は「詩の世界の中での「会社」のようなものだ。」とわたしは思った。しかし、それは、別に悪い事でも何でもない。例えば「中堅詩人」というものは、会社で言うところの「中間管理職」のようなものだと言えるだろう。
わたしは、「鈴木志郎康」氏の紹介によって「書肆山田」という出版社から、第1詩集を出版する事になった。詩集のタイトルは「SWAN ROAD」というもので「現代詩講座」で発表した詩を纏めたものだった。その詩集の出版の打ち合わせのために渋谷の喫茶店で、わたしは「鈴木志郎康」氏と待ち合わせをして、詩集用の原稿の束を「鈴木志郎康」氏に渡して、1通り読んでもらった。「あなたは、今、何歳?」と尋ねられて、わたしは「27歳です。」と答えた。「鈴木志郎康」氏は「第1詩集を出すのには、ちょうど良い年齢だね。・・・でも、この詩集は、あまり評判にはならないかもしれないね。」と言った。
わたしは、その頃「思潮社」から刊行されている月刊誌「現代詩手帖」をときどき読むようになっていて、その12月号は「現代詩年鑑」というもので、その中には、「今年の収穫」という記事があり、それは、その年度に出版された中で、アンケート結果によって、良かったと判断された詩集が、特集されるというものだった。わたしは、その「今年の収穫」を閲覧して、わたしの第1詩集「SWAN ROAD」の名を探したが、たくさんのアンケート回答者の中で、わたしの詩集を挙げてくれた詩人は、2名だけだった。まさに、「鈴木志郎康」氏の予想通りになってしまった。
その後、わたしは、5年後に、主に俳句や短歌の句集を刊行している「ふらんす堂」という出版社から「永遠」という第2詩集を出版し、それからまた3年後に「思潮社」に連絡をして「詩集を発刊したいのですが、引き受けてもらえるでしょうか?」と告げた。すると「はい、解りました。1度、編集部に、原稿を持って打ち合わせに来てください。」と言われた。「思潮社」の編集部は、有楽町線の「護国寺」のマンションの2階にあって、わたしは、原稿の束を持って、発行者「小田久郎」氏の次男である「小田康之」氏に会った。「小田康之」氏は「とうとう、訪れましたね。」と、わたしに言った。
わたしの第3詩集のタイトルは「私鉄」と決まった。12月号の「現代詩年鑑・今年の収穫」に間に合うように、制作を始めたはずだったが、結局、詩集の完成は「今年の収穫」には、どうしても間に合わなかった。「思潮社」から届いた年賀状に、発行者「小田久郎」氏からの1筆があって、大きな現代詩賞の1つである「高見順賞の推薦に1票投じました。」という事が書かれてあった。わたしは「高見順賞」の発表式に出席して、受賞詩集の発表の成り行きを見ていた。その結果、わたしの詩集の名が読み上げられる事はなかった。他の詩集の名が読み上げられたわけだが、そのとき、わたしは、選考委員長が受賞詩人に向かって「壇上から、目配せをした。」のを、はっきりと見てしまった。(こういう事を見つけるのが、わたしはとても早い。)そのとき、近くにいた「小田久郎」氏が「詩の賞なんて、つまらないものだ。」というような事をつぶやいていたのを記憶している。わたしはその後、何冊かの詩集を「思潮社」から出版していった。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心であった。しかし、先に述べた、1例としての「高見順賞」のように、何らかの「「詩の賞」を受賞するためには「ある程度有名な詩人との繋がりが、かなり必要なんだな。」と感じてもいて「その事は、あくまで「「個」としての「自分」にこだわって、詩を書いていきたい。」という、わたしの考え方とは、かなり相反する事のようにも感じられた。また、わたしはやはり個人的には、受賞していく詩集での詩の書かれ方や「現代詩手帖」に掲載されている詩の書かれ方の多くには、何らかの大きな違和感も感じていた。すべてとは言わないが、それらの詩の多くは、難解な言葉で造形されていて、ある意味「格好良いじゃないか。」と思わせる部分もあったのだが、よく読んでいくと、「詩人の手つきは見えるのだが、書かれた詩篇からは「人の姿が、何故だか、あまり感じられない。」という事だった。その違和感とは、何だったのだろうか。それは、言葉による「オブジェ」という感じだったろうか?
しかし、言葉によらなくても、美術作品にも「オブジェ」と呼ばれるものは数多く存在する。「オブジェ」という存在を見て、その形に惹きつけられる場合、見た者は、何に惹きつけられてその形を「面白い」と思うのだろうか?・・・わたしには、その「オブジェ」という存在は、ある形を成しているわけだが「その形とは、まず表現者の頭の中に概ねの形のイメージがあって、そこから、表現されていくものなのか、それとも、表現してみようという意識や無意識の中で次第に、ある形が表れてくるものなのか。」という考えを持った、そして「現代詩の形の場合も、そのような2通りのプロセスのどちらかをたどりながら、その形が成り立っていくのだろうか?」と、わたしは、想像をしてみた。

 

5 現代詩講座での「鈴木志郎康」氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡

 
話は戻るのだが「鈴木志郎康」氏の現代詩講座での、詩についての指導の行われ方について、これから書いていきたいと思う。
先に述べたように「現代詩講座」での、講座の進められ方というものは、受講者たちが予めコピーしてきた詩作品を合評会形式で感想を述べ合っていき、最後に「鈴木志郎康」氏が講評を述べるというものであった。そこで大変に印象的だった事は、提出された詩に対して「鈴木志郎康」氏が、いきなり「技術論」を語って詩の添削をしていくのではなくて、書かれた詩には「何らかの欠点」が含まれているわけだが、その詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という形での指導がなされたという事である。そして、この事は「現代詩講座」受講のパンフレットに記されていた「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という文言に、まさに符合するものであった。「誰だって、自分が言い表したい事が形になっていく事は、とても嬉しい事ではないか。」わたしは「この指導の仕方は、とても優れた方法ではないか。」と強く感じた。
しかし、その指導の徹底的に厳しい行われ方は、生半可なものではなかった。「詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という事への作者との対話が細かくなされていった。その結果「この詩は、何回書き直してもこれ以上進む事はないから、次の詩へと向かっていった方が良い。」という発言さえあった。また、あまりの指導の厳しさに泣き出してしまう受講者もいた。けれども「ダメなものは、ダメ。」という事なのであった。
「現代詩講座」は、一定の期間を以って終了し、その後も継続して受講するのかどうかの判断は、参加してきたそれぞれの人たちに委ねられる事になるのだが、1期間だけで満足して辞めていく人たちもいたし、指導が厳し過ぎて辞めていく人たちもいたようだ。「鈴木志郎康」氏の指導は大変に厳しいものではあったけれども「もっと上達して、自分自身の書き表したい事を、実現させていきたい。」という参加者たちは、継続して「現代詩講座」の受講を続けていった。わたしも、そのように強く願っていたので、継続して「現代詩講座」の受講を続けていく事にした。
その一方で、受講者たちの有志によって、盛んに詩についての合評会が重ねられて、その結果を「卵座」という同人誌にまとめ、現代詩に関わる多方面の人たちへ発送しては、その反応を楽しみにした。但し、同人誌を発行して、それを、現代詩に関わる多方面の人たちへと発送して、または、逆に発送されてきて、その反応を楽しみにしあうという行為は「詩に関わる人たちの間での循環」ともなる。それは、それで有意義な事なのだが、偶発的に、わたしたちにとって、未知の詩の「読者」との出会い=接点を生み出す事は、稀であった、と言えよう。
わたしは、その後、いくつかの同人誌活動を転々としながら、詩集の出版も盛んに続けた。出版した詩集は、これまでに数冊となったが、今はもう同人誌活動をするつもりもなければ、詩集を出版するつもりも持ってはいない。(その間に、わたしは、46歳のとき、会社という組織の中にいる事がつくづく限界に達してしまって、精神疾患となり、会社組織から追われる事になったのだが、その事は、わたしを、つくづく、安堵させた。)わたしはもう、同人誌活動も、詩集の出版も行わない。この事は、わたしの経済的な状況によるところもあるけれども、もっと積極的な意味合いを持っている。

 

6 「現代詩」が盛んに読まれていた時代があったと言う

 
わたしは、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・下巻」を読まなかったので、1960年代以降に書かれた詩がどのような詩だったのか、解らなかった。ある日、知り合いの65歳くらいの元コピー・ライターの男性から「1960年代の末頃に「詩」が盛んに読まれた時代があったのだけれども「詩」って、今どうなっているの?」と尋ねられた事があった。その男性の話によると「その当時盛んだった学生運動とリンクして、映画や演劇や文学書や思想書や漫画が観られたり、読まれていたりしていた。」という事だった。
そこでは「鈴木志郎康」氏の詩も盛んに読まれていたし、わたしが現代詩講座を受講した後に知る事となった「吉増剛造」氏や「天沢退二郎」氏や「清水昶」氏らの詩作品も数多くの読者に支えられていたという。また詩人・思想家「吉本隆明」氏の著作物や、短歌・現代詩等の詩歌、「天井棧敷」での演劇、前衛的な映画等多方面で活躍した「寺山修司」氏の活動もとても大きく支持されていたそうだ。わたしは、先述の、65歳くらいの元コピー・ライターの男性に、自分が出版した詩集を贈ってみたのだけれども、彼から見ると「今は、もう「現代詩」という分野の文学は、殆ど存在していないのではないか。」という見解になるのだった。
それは「現代詩」というものが、1980年代半ば以降から、しばしば語られていたように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い。」という状況を指し示しているのではないか、という事にも解釈できた。その一方で、わたしは「「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という、わたしが「現代詩講座」を受講する事になった、現代詩の在り方は「基本的な事」であり、それで、充分なのではないか。」とも強く考えた。あくまでも「詩というものは、1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点として、詩という言葉にしていけば良いのであって、それが、何かしらの「詩壇的現象化・社会的現象化」をしていく必要等は、ないだろう。」と、彼と話していて、わたしは考えたのだった。

 

7 「詩人」を名乗る事と現代詩の「賞」について

 
ここで「詩人」を名乗るという事について考えてみる。まず「詩人を名乗るという事」は「詩集」を出版している人たちを指しているという事なのか?
わたしは、そのようには思わない。詩集を発行する事は、自費出版による事が殆どなので、ある程度経済的に余裕がないと、それは実現しない。「詩人」は、出費ばかりが、かさむので、職業にはならない。わたしは独身生活を続けてきたので詩集の出版が可能となったが、家庭を持っていて子どもがいる人たちにとっては、詩集を出版するための費用を捻出する事はかなり難しい事であり「詩を書き続けてきてはいるけれど、一生に1度くらいは、自分の詩集を出版してみたい、と願っている人たちは数多くいるだろう。」とわたしは想像した。詩を書き続けていて「わたしは「詩人」だ。」と名乗れば、その人は、もう詩人なのだとわたしは思う。また「詩人」は「詩を書く才能」がある人がなるのだろうか?「詩を書く才能」とは、何なのか?「詩」を書くには、ある程度、持って生まれた資質というものもあるのかもしれないとも思うが、文章を書くのが、巧いという事とは、まったく違うと思う。形が「いびつ」でも構わないとわたしは思うし、やはり「詩をどうしても書いてみたい、という動機こそが「詩を書く才能」へと向かって、繋がっていくのではないか。」とわたしは思うのだ。そこには「生活の中の切実さを乗り越えていきたい」という事もあれば「生活の在りかたをもっともっと豊かなものにしていきたい」等、さまざまな事があるだろうが、そこには「詩」を書いていく、強い意志と粘りが必要とされる。但し、何の意識も持たずに、言葉を改行して、それを「詩」としてしまうのは「安直である。」とわたしは思う。言葉を改行する事には、言葉を改行するための積極的な意識が必要なのであり、そこを外してしまうと「詩」にはならないと思う。
ところでわたしは、何冊かの詩集を出版してきた。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心ではあった。そこで「詩人」が得るものは「ステイタス」というもので、それは「詩人たちの「詩壇」で認められたい。」という欲望を満たす。わたしは、「詩の賞」を「あらかじめ、受賞者が決まっているのかもしれない。」というような疑問を持っている事を書いたが、それは、すべての「詩の賞」に当てはまる事ではないかもしれない。ただ、選考委員会は、ベテラン詩人と中堅詩人で構成されており、中堅詩人は賞の候補になった詩集を丹念に読み込んではくるが「やはりベテラン詩人の意向が強く反映されていくのだろうなあ。」という思いは、個人的には拭い切れない。詩人の名が冠された「詩の賞」等は、概ね、詩人の出身地域の文化振興とも大きく関わっていると思うので「純粋に「詩という文学」について与えられるものでもない。」とも想像する。
そのような事もあって、わたしは、わたしの詩壇での評価は、どうでもよくなってしまった。
上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではないけれども、あくまで、わたしは、そのような考えを持つに至って「自分の好きなように、詩を書ければ、それでもう充分である。」というふうに感じたのである。その時期、わたしは、わたしの持病である、精神疾患が悪化していってしまったので「詩壇」で、多くの詩人たちと交流する事から遠ざかってしまったし、また住所も非公開にしてしまったので、詩人たちから詩集や同人誌が送られてくる事も激減してしまったのだった。そしてわたしは「もう、それで良い。自分の好きなように詩を書いていければ良い。そして、身近な詩友たちとの間で熱心に詩について考えを交わし合えれば、それで充分なのではないのか。」という考え方を持つに至ったのだった。
そうしてわたしは、その後、詩人「さとう三千魚」氏の主催するネット詩誌「浜風文庫」に詩を掲載させてもらう事になったのだった──

 

8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される「媒体」について

 
現代詩の書かれ方=書法には、代表的なものが、複数存在すると、わたしは考えている。まず、それらを列挙していってみようと思う。
「「現代詩」は、難解である。」と、しばしば指摘される。けれど、必ずしもそうとは言えないので、現代詩の在り方をひと括りにして、考える事はできない。そういう事を踏まえて、わたしは、わたしなりに、「現代詩」の書かれ方について、整理してみた。

① 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩。

※ 生活の場面に即したり、身近な風景に即したりしながら、素直に書かれている詩ではあるが、作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近いため、詩の作者の経験の範囲に基づく詩となり、詩の中の話者が動き回れる範囲は狹くなる詩。

② 主に「直喩」から造形化されていて、その中に「人の姿」が見える詩。

※ ①の詩に近いが「〜のような」という「直喩」の修辞が多用される詩。詩で表現される言葉の世界が、①の詩よりも、大きく拡げられる詩。

③ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」が見える詩。

※ 「直喩」を使わずに事物そのものを「暗喩」として例えるが、その技法の奥に「作者」または、詩の中の「話者」の姿が見える詩。造形化されていても、その中に「人の姿」は見える詩。

④ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」があまり見えない詩。

※ あくまで「暗喩」から造形化されている詩。形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている詩。現在「現代詩手帖」に掲載されている詩作品は、このタイプのものが多いように、わたしは感じている。何故、そういう事になってしまうのだろうか?③のタイプの構造の詩が「模倣されて、模倣されていき、」その結果、書き手の手つきばかりが残ってしまい、そういう事になっていってしまうような気がしてならなかった。

➄ 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩。

※ 作者は作者として在り、話者は話者として在り、作者と分離した形で書かれる詩。書き手の生活体験、生活範囲は限られているわけだが、詩の書き手の想像力を駆使すれば、詩の中の話者は自由に動き回る事が出来る詩。
わたしは、今は、⑤の方法で詩を書いている。何故なら、わたしの生活と共に、詩作に於いても、「さらに「自由」になっていきたい。」と願っているからだ。そうする事によって「書いていて楽しくなれるし、おそらく読んでくれる人たちも楽しい気持ちになれるのではないか。」と思うからだ。

わたしは、ある日、詩人「辻和人」氏が、ツイッター上でこのようなツイートをしているのを見つけた。それは、このような1文だった。「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」わたしは、ツイッターはツイートが流れる速度が早過ぎて疲れるため、滅多に見ないのだが、わたしは、このツイートは「とても重要な事を、言い表しているのではないか。」と思ったのだった。
詩の書かれ方、①②では、もちろん書き手の姿が充分に見えるけれども、詩としては素朴過ぎる事を免れない。けれど、人の生活を端的に切り取るという面では充分に有効だ。③では「現代詩手帖」に多く見られる書法であり、言葉によるオブジェのようなものではあるが、その向こうに「人の姿」は見える。④では、これも「現代詩手帖」に多く見られる書法で、言葉の形はあるものの、その向こうに「人の姿」はあまりよく見えない。この書法では、書き手の意識が詩に投影される力が薄い、もしくは存在していないかのように見えるので、詩が形骸化して、読者を詩を楽しむ事から遠ざけてしまう危険を孕む。③④のような詩の書かれ方が、現在、最も多いのではないか。その理由は「詩としての姿形=言葉の配置のフォルムが「スタイリッシュ」だから、好まれるのではないか。」と、わたしは想像する。さまざまな詩集や同人誌では、詩の書かれ方は、まちまちかもしれないが「現代詩手帖」では、しばしば、そのような詩が掲載されているように、わたしには感じられる。
最近、しばしば「ネット詩」という言葉が使われる事がある。往々にして「ネット詩」というものは「紙媒体」で書かれた詩とは異なり「扱いが便利なインターネット上に書かれた、何処か薄っぺらい詩」のような解釈も多くされているようだが、わたしは「決してそうではない。」と思う。「「紙媒体」で発表された詩も、「インターネット上」で発表された詩も、同様に「詩」なのであり、「詩」が存在している、その在り方が、かなり大きく異なっているのではないか。」とわたしは考える。また、詩の書かれ方が、それまでの「縦書き」から「横書き」になるため、あくまで頑なに「縦書き」にこだわる書き手からは、敬遠されるのではないか?では、「紙媒体の詩」「ネット媒体の詩」それぞれの媒体で書かれる「詩」の在り方とは、何か?
「紙媒体」の詩は、主に「見開き単位」で考えられている事が多く、また「本のツカ」が厚くなり過ぎてしまうため、ある程度、1篇毎の詩の行数が意識されなければならないという面がある。そして何よりも、詩集や、わたしがかつて所属していた同人誌「卵座」に見られるような書物の発送先が、「詩人」や、詩の「同人誌」や、詩の「出版社」等に限られてきてしまうため、詩に関わる媒体の中での循環となり、それぞれの詩集や同人誌間での「感想」のやりとり」となってしまう事が多い。「鈴木志郎康氏」は「詩は、感想を言い合うのは良いけれども、批評をしあうのは良くない。」という事を言っていた。それは何故なのかと言えば「「紙媒体」同士でのやりとりでは、書き手同士が対面して、リアル・タイムで話を交わす事がなかなか出来ないし、発送等の関係で、詩を読み合うまでの間に「時間差」が生じてしまうから、詩人同士の「「コミュニケーション」に「制約」が出てきてしまう。」という事ではないだろうか?
また「現代詩手帖」には「詩誌月評」「詩集月評」というものがあり、ここでは、選者の嗜好による「選ぶ、選ばれる」という関係性での批評がなされ、取り上げられた「詩誌」や「詩人」は、その事で一喜一憂するような傾向が見られる。
現在は、既に、SNSの時代である。わたしは今、SNSの中でも「Facebookが「現代詩ではなく現代の詩」を発信する事に於いて、最も適しているのではないか」と思っている。Facebookは、参加者が、ウェブ・サイト上で、名前や顔(存在)を示し交流しあっていく、という性質を持つものである。
わたしは今、Facebook上にある、詩人「さとう三千魚」氏が主宰するウェブ詩誌「浜風文庫」の場を借りて、詩を発表させてもらっている。そこでの詩の在り方は、「ネット上の空間に詩が固定されている。」というよりも「ネット上の空間に詩が浮遊している。」という感じだ。ここで、わたしが「良い事だな。」と思う事は、詩人「さとう三千魚」氏の手腕によるところが、とても大きいのだが、ウェブ・サイトへのアクセス数が大変に多くなってきているそうで、それは、自分の書いた詩を、普段、詩を読み書きしない人たちを含めたところまで、読んでもらえる可能性を多く含んでいるという事である。また、何処からか訪れる詩人の投稿詩が多くなってきているそうで、その事も「ネット詩」の可能性を大きく示唆していると言えるのではないか。また、発表された詩がアーカイブされる仕組みを持つ事も出来る、という特長もある。
ここでは「紙媒体」で書かれる詩と「ネット媒体」で書かれる詩の、どちらが上、どちらが下、等という比較をするつもりは、さらさらないが、時代の潮流としては、良くも悪くも情報の伝達方法はインターネットが主流となってきている。インターネット上の情報は、誤りも多く持っているかもしれないが、昨今の新聞やテレビ等の媒体が、かなりイデオロギーに支配されている事を考えると、その有効性は図りしれないところがある。
わたしは、持病を持っているので、基本的には「ベッドの中」で、詩を書いている。スマホのメモ帳アプリで詩を書いていき、それをメールでパソコンに送って、ワープロで清書、推敲というプロセスを経て、詩を仕上げていく。わたしは、パソコンの前に座っていられる時間が体の関係で30分くらいに限られているので、その方法は、わたしにとってありがたいものだ。「わたしには、出来ない事がいろいろとあるけれども、ああ、こうやって、詩を書いていけるんだな。」という喜びがある。
Facebookには、「コメント欄」という決定的な特長があり、詩を読み合った「感想」のみならず「批評」もリアル・タイムで書き込み合う事が出来る。但し、それが実現されるためには、「詩のサイト」の参加者が、積極的に、そのような意識を持ち合う事が必要になってくる。「黙っていては、何も進展しない。」のだ。「詩のサイト」の参加者が、参加者同士での単純なコミュニケーションに留まってしまうと、結局「紙媒体」の同人誌内で行われる「合評会」と同じ事になってしまう。ネット詩誌「浜風文庫」では、参加者が知らないところで詩が読まれている可能性が大いにある。「現代詩手帖」に詩を掲載している詩人たちが「浜風文庫」を閲覧してくれている事も増えてきているような傾向も見られ、時には、コメント欄に書込みをしてくれる事もある。また、わたしは、Facebookフレンドをどんどん増やしていけば良いと思う。最初は、躊躇があるかもしれないが、「シェア機能」を活用して、FacebookフレンドからFacebookフレンドへと「詩の読者」を増やしていく事が出来るし、実際、わたしの書いた詩をめぐって、FacebookフレンドとそのFacebookフレンドが感想を言い合ってくれたり、意見を交わし合ってくれたり・・・というような、嬉しい出来事も起きたりしている。
「コメント欄」を大いに活用して「「浜風文庫」のレギュラーメンバーのみならず、投稿者やまわりで閲覧してくれている多くの詩人たちが、幅広く、詩をめぐっての「対話活動」を盛んに行なっていければ良い。」とわたしは思う。
そのようにしていけば、あくまで現在に於ける可能性だけれども、作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか。 
「現代詩手帖」では、ベテラン詩人による「鼎談」がしばしば行われているが、ベテラン詩人以外の詩人による「詩」についての考え方の声=議論が、あまり見受けられないような気がする。この事は、残念な事だと、わたしは思っている。また、投稿作品に対しても、ベテラン詩人が2名いて、感想や意見を語っていき、最終的には「現代詩手帖賞」が選ばれる仕組みとなっており、主に「現代詩手帖」の熱心な若い読者たちが、それを目指して、詩を投稿していく形となっている。そこには、ベテラン詩人と詩の投稿者との対話は成り立っていないように思うし、投稿作品の多くが、ベテラン詩人の作風の模倣になっているような感じもあり「詩誌内での詩の執筆者と執筆者、詩誌内での詩の読者と読者との「対話」も、生じにくいのではないのではないか。」とわたしは思う。
ここで「わたしは、現代詩手帖」の在り方の、批判をしているわけではない。「紙媒体」で書かれる事への「限界性」について、書いている。
ところで「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」という指摘は「さまざまな、詩をめぐる境界を打ち破れる可能性を持っているのではないか。」とわたしは思っている。それは「詩」に於ける「平和的融和」について、広く考えていけるという事だ。
「「現代詩」という呼称は、「思潮社」が発明したものである。」とわたしは思う。この呼称は、今後も、長く用いられていく事であろう。しかし、「「現代詩」ではなくて「現代の詩」」という風に、解釈を拡大すれば、今書かれている「「現代詩」と「現代の詩」との垣根は、取り払われて、もっと自由に行き来する事が出来るようになっていくのではないだろうか?」と、わたしは、そのような事を願っているのだが、どうであろうか?「現代詩手帖」と「詩と思想」という「紙媒体」の雑誌同士での交流は、生まれ始めているようだ。理想論かもしれないのだが、そこに「ネット詩誌」も加わって、より広い「詩人同士の交流」「詩同士の交流」が生まれていくというのはどうであろうか?少なくとも、わたしが「紙媒体」の編集者だったなら、そういう事を提案してみると思う。何故なら、その方が、お互いにしあわせな「言葉の交流」を図れる事になると考えるからだ。

 

9 最後に

 
数年が経てば、今まで長く活躍してきたベテラン詩人たちが次々と逝ってしまう事になるのだろう・・・それは「とても寂しい事だ。」とわたしは思う。しかし、寂しい事ではあるけれども、わたしたちの世代、また次の世代・・・というように「進んでいかなければならない。」と思う。
わたしは、30年以上、詩を書いてきたが、還暦近くになっても「詩論は、書いてこなかったな。」と思う。その事に関しては「わたしは、もしかして、怠惰だったのかもしれない。」という思いもよぎる。けれども、その理由は、はっきりとは解らない。だから「これからでも、きっと間に合う。」というつもりで、わたしは、詩にも詩論にも、向かい合っていこうと思うのだ。
それを引き受けて「詩は、「現代詩」ではなくて「現代の詩」」としての拡大解釈が有効になっていくのではないか。」とわたしは思っている。