遠くなった、道を行く人たちが遠くなった、あっ、はあー

 

鈴木志郎康

 

 

遠くなった。
遠くなっちゃったんですね。
道で人がこちらに向かって、
歩いて来て擦れちがったというのに、
その人が遠くにいるっていう、
一枚のガラスに隔てられているっていう、
水族館の水槽の中を見ているように、
遠くなっちゃったんですね。
ずーっと家の中にいて、
偶に外に出て、
電動車椅子に座って、
道を進んでいくと、
向こうの方に歩いて行く人、
向かって来てすれ違う人、
みんな遠いんですよ。
車椅子に座って道を行くと、
わたしは変わってしまうんですかね。
視座が変わちゃったんですね。
視座が低くなって、
大人の腰の辺りの、
幼い子供の目線で、
電動車椅子を運転してると、
立って歩いているときなら、
目につかない人たちの姿が見えてしまう。
けれどもそれが遠いんだなあ。
見えてしまうってことで遠いんだな。
見えてしまうっていう遠さ。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さん、
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男、
レジ袋と鞄を両手に持って着ぶくれたお母さん、
見えるけれど遠い。
見えてしまうから遠い。
遠おーい。
オーイ。
あっ、はあー。

昼食で雑煮の餅を食べたら、
餅の中に金属。
あっ、餅に異物混入かっと思ったら、
自分の歯に被せてあった金属がぽっこり取れちゃったんですね。
で、早速電話して予約外で、
西原の寺坂歯科医院に、
電動車椅子で麻理と行って直して貰ったんです。
帰りに小田急のガードを潜って、
車の滑り止めでごろごろする上原銀座の坂道を、
悲鳴をあげる電動車椅子で身体を揺すられ、
登って行くと、
いつも血圧降下剤などの処方箋を貰う小林医院の前を過ぎれば、
最近開店したスーパーマルエツ前の、
麻理のママ友がおかみさんの酒井とうふ店。
豆腐屋さん頑張ってねと、
突き当たりを右に曲がって、
信号が赤にならないうちに渡りきろうと、
電動車椅子の速度を目一杯に上げて、
道幅が広い井の頭通りを横切ると、
商店がどんどん住宅に建て変わちゃってる
上原中通り商店街です。
ついでだからと、
麻理が、
薬局パパスで猫のおっしこ用の砂を買って、
その大きな袋を抱えて、
わたしは電動車椅子を西に向かって
冷たい風を受けて走らせる。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さんが、
目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーいな。
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男が、
やはり目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーい。
そしてレジ袋と鞄を両手に持つ着ぶくれたお母さんまでが、
目の前の近くを遠く歩いて行くんですよ。
遠おーくなった。
中通り商店街を行く人たちがみんな、
みんな。
遠おーくなっちゃった。
上原小学校の前まで来たところで、
冬の雲間から出た西日の鋭い陽射しに、
わたしは、
両眼を射抜かれてしまいました。
遠おーくなった。
オーイ。
オーイ。
あっ、はあー。

家に帰って、
ふっと思ったんですが、
なんか、
この國の世間が遠くなっていく感じなんですね。
オレって、
日本人だ。
東京の下町の亀戸で生まれて、
日本語で育って、
日本語で詩を書いているわけだけど、
毎朝3時間掛けて
新聞の活字を読んで、
昼からベッドで
テレビの画面を見ていると、
安倍首相も、岡田代表も、
国会で議論してる議員さんたちや、
水谷豊も沢口靖子も
刑事ドラマで活躍する俳優さんや、
ビートたけしも林修も
スタジオで騒いでいる芸能人たちが、
遠いんだよね。
その日本が遠く感じるんだ。
活字で登場する連中、
映像で登場する連中、
なんて遠いんだ。
でも、
遠いけれど読まないではいられない。
遠いけれど見ないではいられない。
いまさらながら、
ゲッ、ゲッ、ゲッのゲッ。
権威権力機構ってのが、
有名人ってのが、
言うまでもなく遠いんですよ。
遠いけど、
彼らがいなけりゃ寂しいんじゃないの。
新聞がなけりゃ、
テレビがなけりゃ、
ほんと、さびしい。
遠おーい。
けど、
電動車椅子杖老人に取っちゃ、
仕様が無い、
けど、
けど、
しようがないね。
けど、
しょうがねえや。
詩用が無えや。
親父ギャグだ。
ゲッ。
あっ、はあー。

ところが、
だけどもだ、
ねえ、
一緒に暮らしてる麻理
という存在は、
ぐーんと近くなった。
今日も、
あん饅と肉饅が一つずつ入った
二つの皿を、
はい、こっちがあなたのぶんよ、
とみかんが光るテーブルに置いた
麻理はぐーんと近くなった。
抱きしめやしないけど、
ぐーんと近くなった。
近い人が人がいてよかったなあ。
わたしより先に死なないでくれ。
いや、わたしの方が麻理を
最後まで看取るんだ。
でも、
でも、
その後の心の、
心底からの寂しさをどうするんだ。
通院するのに付き添ってくれる人がいなくなったら、
どうするのかいな。
あっ、はあー。

今日は、
二〇一五年二月二十日。
歯医者に行ってから、
早くも、
ひと月が経ってしまった。
あっ、はあー。
馬鹿みたいに、
あっ、はあー。

 

 

 

生きる

 

渡辺 洋

 

 

悲しさを汗のように振りはらって
ジョンのように微笑みながら歌いたい
もっともらしいネガティブさに囲まれて
自分が信じられなくなるときには
C→F→G→Amのコードを弾きつづけよう

老人になって雲のように押し流されながら
世界のベランダを見ている
老人たちのかたまりになって
一人ひとり風に引きちぎられながら
お前たちの意味のない人生を
ふいごのような合わせた息で
吹き飛ばしてやる

神様が空気をつかんで破くみたいに
何もなかった場所に世界をひらく
ときには暴力的に
境界線上にいた人びとも引き裂いて
心たちのすみかをつくる

友だちと三人で逆立ちして
世界を持ち上げる
春風にヘソをなぶらせて

 

 

 

 

夢は第2の人生である 第8回

 

佐々木 眞

 

西暦2103年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

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その日の芝居を終えてから、私は今日で役者をやめようと決意した。ホテルを出てから不思議な場所をあちこちさまよった。ホテルに戻ると見知らぬ男が私を待っていて、きいたことのない名前の大学に来てほしい、といった。8/2

私は熱心な実業家ではないが、赤字を出し続けている会社をどうしても立て直してくれと銀行から頼まれたので、その会社の女性の社長に、あの手この手で迫ったのだが、彼女がどうしても言うことを聞かないので、とうとう奥の手を使ってしまった。8/3

イケダノブオが現れたので、「お元気ですか」、「どこでどんな仕事をしているのですか」、と矢継ぎ早に質問をしたのだが、彼はそれが夢の中であるから、私にまともに返事しても詰まらない、と思ったのか、一言も言わないので、なにかあったのかしら、と私はあやしんだ。8/4

ぼつぼつとSMっぽい小説を書いていたところへ、京都からやってきた美少女のような美少年に誘惑されて、本物のSM体験をしてしまったので、それを小説にして完成したところ、そいつは暫くして耐えがたい腐臭を放ち、さながら「ちりとてちん」のようになってしまったので、とうとう滑川に投げ捨てたのだった。8/7

ノーベル賞をもらった生物学教授の原作による映画「サクルデサイス」の邦題は、「牡牛」と「蛆」という2つの意味があるという。そこで1本は「牡牛」、もう1本は「蛆」、そして最後は「牡牛と蛆」を主人公にした同タイトルの映画を世界同時公開しているそうだが、いずれも大ヒットだそうだ。8/7

寝ている間じゅう、パソコンの住宅リフォーム案内の画面が、ずっと目の前で展開されていて、アイテム別に診断や価格の情報が出てくるのだが、その画面全体の交通整理ができていないので、けっきょく朝までかかってもさしたる情報を得ることができなかった。8/8

深い深い海の奥の奥の、そのまた奥に沈んでいた私は、明け方になってようやく水面に浮かび上がってきた。しかし、まだ意識は戻らない。8/9

戦争が近づいてきたので、各部族から逃げ出してきた牛や馬が、私の広大な牧場に集まりはじめた。誰かがこれは早速国王に報告しなければとつぶやいたので、私は「その必要はない。もはや国家も国王も蕩けはじめているのだから」と制した。8/10

私の一族は、夏になると都内の一流ホテルに長期滞在する。それぞれの家族が思い思いの部屋を借りて、お互いに自由に行き来しながら楽しく過ごすのだが、私の唯一の楽しみは、ホテルから嫌われながら洗濯物を1階の駐車場の隅に干すことだった。

こんな歳になっているのに、北方領土と尖閣・竹島を奪還する愛国正義のたたかいに徴兵された私は、感染防菌のための8千本の衛生注射をされるのを断固として拒んだので、祖父と同様に牢屋にぶち込まれた。8/11

あたしは自分がいいと思うデザインしかできないから、とんがった作品をコレクションに出したんだけど、いつもと同じようにやっぱり誰からも認められなかった。だけどあたしには他のデザインなんてできないから、死ぬまでこのまま突っ走るわ。8/12

S君は結局末期のがんに冒されていたのだが、そんな気配は微塵もみせず、まわりに対して自然かつ平然と振舞っていたが、それは彼が深い諦めと達観の境地に達していたからだった。8/16

吉田秀和の「音楽のたのしみ」で、ディズニー映画音楽の特集をやっていた。珍しいことだと思いながら聴いていると、ミッキーマウスの音楽を、名前を聞いたこともない歌手がノリノリでスウィングしている。8/17

関西の放送局のアナウンサーに対するPR活動を実施せよ、という上司の命令で大阪に派遣された私は、各局を順番に挨拶廻りしていたのだが、B局のお局と称されている鈴鹿ひろ美似のおばさんに妙に気に入られ、用が済んだというのに何回も呼びつけられて、閉口しているのだった。8/19

編集長が呼んでいるので部屋に行くと、彼女は私を裸にして三つ折りに縛りあげてから全身をくまなく舐めはじめた。8/21

私たちは買い物をしながら次の店へ移動した。私と違って井出君はオシャレに目がないので、やたらたくさんの衣類を買い込む。買い物がどんどん増えて運びきれなくなると、彼はそのまま店の前に置いて、また次の店へと急ぐのだった。8/22

この近所の女子高校生殺人事件の犯人のものと思われるオートバイの撮影に成功したが、さてこれをどうしたものか。警察に届けると面倒くさいことになりはしないかと、悶々としているわたし。8/23

半島の南端に突き出した夏のレストランのテラスで、私は食事をしていた。鎌倉野菜は文句なしだったが、次に肉にするのか魚にするのかピザにするのか、それともパスタにするのか、私は真夏の海を見ながら思考停止状態に陥っていた。8/24

久しぶりに銀座のマガジンハウスを訪れ、ロビーに入ろうとしたら、真っ黒なガスがもくもくと吹き出している。あわてて逃げだそうとしたら杉原さんが「あんなの大丈夫、大丈夫、すぐに収まってもうじき赤十字の総会が始まりますよ」と教えてくれた。8/27

杉原さんは「久しぶり、お元気ですか? 私は「どんどん歩こうかい」という組織を作って大儲けしています」と自慢する。仲間のAさんは「ゴルフ大好きかい」、Bさんは旅行大好きかい」でやはり大儲けしているそうだ。8/27

なにやらアパレル・デザイン・コンテストなるものが1カ月に亘って開催されている。私たちが紳士婦人子供の外着中着内着の見本を昼夜兼行で制作すると、その優秀作がその都度表彰され、それらの総合得点で順位が決まるのだった。8/28

身体検査だといわれても、特に裸になるとかレントゲンを撮るとか診察があるということはなにもなくて、ただいつかどこかで撮られた写真や記録やらが目の前の画面に投影されるだけのこと。ここで私という人間が生きているのか死んでいるのか、もはや誰にも分からなかった。8/30

独裁者となりあがった私が、忠実な部下に敵の暗殺を命じると、彼は「殺人の仕事の場合は特別手当として1名千円を頂戴します」というので、私は暫く考え込んだ。殺人は月給の範囲を超える特殊な業務だというのである。8/31

 

 

 

ugly 醜い

 

昨日
四谷の駅で

壁を見た

壁には

水の沁みて

流れた
跡があった

お茶の水の駅では
クレーン車が佇っていた

アマリリスの

花が
萎れているのを

facebookで見た
ありのままを見よといった

地上には
人々がいた

雨が降っていた

 

 

 

electric 電気の

 

本を
ひらいた

ぺらりと
ひらいた

でんきの本も
ぺらりとひらきたいと言った

でんきのカメラで

きみの笑顔を
モコの寝顔も

水のなかの他者の記憶も
瘤鯛の夢も

でんきのカメラで撮る

原子力発電所と
ブロッコリーも

風が強い
風が強かった

 

 

 

道具がやってきて

 

 

長尾高弘

 

 

同時に注文したんだけど、
断裁機だけはちょっと遅れた。
それでもスキャナーは使ってみたい。
まあ、それが人情だよね。
そこで切らずに読み取れるもの、
ということで、年賀状を読み取ってみた。
裏表を同時に読み取ってくれるし、
紙が重なって入っていくということはまずない。
一枚ずつ次々に吸い込んでいって、
それがまともな画像になっている。
とにかくすごいスピード。
フラットスキャナーで一枚ずつ取り込んでいたのが
馬鹿みたいに思える。
買うまでは知らなかったけど、
スキャナーは画像ファイルではなく、
PDFという形式の電子ブックを直接作ってくれる。
大量の画像ファイルを作って、
それを電子ブックにまとめるわけではないのだ。
(そうすることもできるけど、する理由がない)
だから電子ブックは思ったよりも簡単に作れることがわかった。
しかも、できあがった電子ブックでは、
年賀状の裏と表を同時に見られる。
間違っても紙のままではできないことだ。
なかなかいいじゃないか。

*

年賀状は三年分読み取った。
読み取っていないものはまだ何年分もある。
でも、やっぱり本をやってみたい。
断裁機が来ていないので大々的にはできないけど、
ゴムマットとカッター、スケールはある。
ちょうどいいんじゃないかと思うものはあった。
『フライデー』の増刊、「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」というやつ。
本棚に立っていられないので、
今は積み上がっている本の山の下の方に埋もれている。
ときどきは見てみたいと思うけど、
紙のままだとちょっと不便な感じがする。
それに、カッターで切れる程度に薄いし、
綴じ目まで写真が広がっているので、
断裁機ではちょっと切れない。
断裁機だとかならず捨てる部分が出るので、
写真がずたずたになってしまう。
そういうわけで本の山の下の方から
「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」
を引っ張り出して、
雑誌を綴じている留め金を外した。
ゴムマットの上に紙の束を置き、
スケールを当てて、
折れ目のところをカッターで何度も切った。
思ったよりも早く二つに分かれた。
バラバラになったので、
たとえば手に持っているときに落としたら大変だ。
前後がわからなくなってしまう。
ページにノンブルが付いていて本当によかった。
紙の束を揃えてスキャナーにセットする。
年賀状よりもくたっとしていて、
波打ってもいる紙だが、
スキャナーは一枚ずつ吸い込んでいった。

*

できあがったPDFは、でも何か少し変だった。
元の紙の雑誌と比べて、何かが足りない感じがする。
写真ページを見て、理由がわかった。
もともとの雑誌では、一枚の写真が見開き二ページになっていたのだ。
一枚の写真を半分ずつしか見られないのなら、
電子本なんてダメだろう。
で、ちょっとネットで調べてみたら見開き二ページで表示できることがわかった。
個別の電子ブックごとに設定することもできるし、
電子ブックリーダー全体ですべての電子ブックを対象として設定することもできる。
で、やってみると確かに見開き二ページで表示された。
左に偶数ページ、右に奇数ページが並んでいる。
写真は見開きの左端から右端に続いている。
うーむ。
電子ブックを作るAdobe Acrobatはアメリカ製だから、
横書きの本に合わせて左綴じのつもりで見開きを作っている。
しかし、縦書きの本は右綴じでなければならない。
で、またちょっとネットで調べて右綴じにする方法を見つけた。
「文書のプロパティ」の「詳細設定」の「読み上げオプション」というところで
「綴じ方」を「左」から「右」にすればいい。
でも「読み上げオプション」なんて言われてもねえ。
自力ではわからなかったわけだ。
これで見開きページが正しく並ぶようになった。
目が覚めるようだ。
見開きの写真には迫力がある。
と言っても写っているのは、3・11のあとの津波に破壊された福島の海岸線だから、
きれいに見えるようになったとはしゃいでいては、被災した人たちに申し訳ないな、
と思った。

*

以前から、PDFはスクロールすべきものではないとは思っていた。
翻訳の仕事では、画面左半分に原書PDFを開いて、
右半分で訳文を書いてきたのだ。
それ以前は紙の原書を見ながら画面に訳文を打ち込んでいたけど、
本は簡単にバタンと閉じるし、視線を大きく動かさなければならない。
かならずしも満足してはいなかった。
試しに編集部が本といっしょに渡してくれたPDFを使ってみたら、
PDFの一ページには紙の本の一ページと同じだけの情報が載っているし、
紙の本を使っていたときの不都合はないし、
意外と便利だなと思った。
そのうち、紙はなくていいのでPDFをくださいとまで言うようになった。
最初はPDFもスクロールしていたけど、
PDFのページには余白があり、
ページとページの間には二つ分の余白が入るわけだから、
ページをまたぐ部分はあまり読みやすいものではない。
それで、いつも一ページ全体が表示されるモードを使うようになった。
矢印キーを押すと、スクロールせずに次のページ、前のページがぱっぱと表示さ
れる。
ページがふらふら動かないところがいい。
しかも、このモードはツールバーのアイコンをぽちっとするだけで設定できる。
見開き表示にはそういうボタンはないのだ。
もっとも、
私が翻訳するような本では見開き表示の図面などというものはなかったので、
一ページ全体が表示されれば満足できていた。
見開き表示のことなど知りもしなかった。
しかし、大きな写真で見開き表示の効果を知ってしまうと、
文字だけのページでも見開きにするとなんとなく安心する。
それは、紙の本と同じだけの情報が目に入るからなのかもしれない。
本を読んでいる大部分のとき、
注視しているのは一文字かその前後の数文字だけなのかもしれないけど、
少し前に戻って話を確かめたり、
次の見出しの位置を覗いてみたりすることもときどきはある。
そういったことがスムースにできないと、
読みづらいと感じてしまうのだろう。
要するに紙の本と比較して足りない部分があれば、
電子ブックなんていらないということになるのだ。

*

断裁機はそれから一週間ほどしてやっと到着した。
Amazonの紹介ページに十八キロあると書かれていただけのことはあって、
宅配の人に渡されたらやたらと重い。
ごめんなさい、重いの運ばせちゃって。
重いだけでなく、ばかばかしく大きい。
窓際の本棚の横になんとかスペースを見つけて設置した。
最初に切る本は、ヘシオドスの『神統記』の文庫本と決めてあった。
特に深い理由があるわけではない。
単に間違えて買って二冊持っているから、失敗してもやり直せるというだけ。
この機械は、刃の先が台に留められていてそこが支点となり、
刃の反対側についている持ち手を下げると、
てこの原理で小さな力でも紙の束がすっぱり切れる、
という仕組み。
だから、本の綴じ目から数ミリのところに刃が当たるようにして、
ページの端っこの印刷されていない部分を切り取るわけだ。
しかし、一冊目はちょっと失敗してしまった。
四角いものの右端を切り取る形になっていて、
本を左と上から押さえ込んで動かないようにして切るのだけど、
上からの押さえ込みが緩かったらしい。
ちょっとずれてしまった。
しかし、使えないページができるほどずれたわけではなかったので、
そのままスキャナーに送り込んだ。
五分もたたないうちに全部読み取って、
電子本らしきものができあがった。
実際、この断裁機は優れもので、
本の固定さえしっかりやれば、
一瞬のうちに本がただの紙の束になる。
気持ちよくて癖になる。
これをやらないと一日がなにか物足りない。
大げさなようだけど、
生活がそんなリズムになってしまった。

 

 

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coast 海岸

 

海辺を
あるいた

漁港で巨大な船をみた

舳先が丸く突き出ていて
瘤鯛のようだ

たくさんの魚を捕り
積み込むのだろう

それから
海辺のプールで泳いだ

魚になって

ゆっくりと泳ぐ
もぐる

水に
親和する

水の中に入ってゆく

遠い

他者の記憶だ

 

 

 

ペーパームーン

 

爽生ハム

 

 

ダム湖に 住みつく研究者
浮いている主義の人

揺れる針の旋律を望み
脚がつかないように欠如を求め
病院へ 欠かさず 通う

雲がよどんでく

広告が街にばら撒かれ、東の方から、、、、雲がしおれてく

病院の帰り道に
いつもの、 ように
この街の公園は
郵便番号ごと消えた

過ぎる風を気にしてか
またとない散骨がグレンチェックの毛布に巻かれていた

「忘れてしまう あの番号を」
と、祖父は言う

「大丈夫 送れるよ」
と、私は言う

爽やかに行方をくらまし、祖父は麻痺した子供になる
プレパラートを爪で持つと、めりこむ透明は子供を覆った

「大丈夫」って
言うんじゃなかった
愛らしいけど 針に違いない

この街は容器だから
私も祖父も…
ホットスポットで、SF片手に
インベーダーゲームをしていた

公園が消えると
容器に水をはれる
水面下と
人の
思考が交わる
嬉しい悲鳴と新しい悲鳴

たぶん
この新しい悲鳴の方は
祖父には届かない
共鳴に近い
またとなく破損した、音階だから

ペーパームーン
に賄賂をおくる
人格化したから
なにもよりも 先に、祈るよ

「祖父を麻痺させたのも私じゃないか?」

また公園、

広告のコピーは、
脳裏に焼きつく 管理が媚びりつく
漏れてしまう
染みてしまう ペーパームーン

雲がくれ 動揺の戦慄
人格障害かもしれないが
必ず祈るよ

祖父と私は
順番が逆だったかもしれない

「お陰様で 自由になり、先程
退院したばっかりでして」

耳を、外気にめりこませ
冬の猿のように会話を
捜しはじめる

純喫茶 式 回廊 で、音階をすすり すすり スリルで
すする そして、ここは街

 

 

 

ニューヨークのピザ屋

 

長田典子

 

 

2015年 過激派によるテロが頻発しているなか
ニューヨークで出会ったムスリムのピザ屋はどうしているだろうか

2011年のクリスマスイヴ
マンハッタンのお気に入りのピザ屋に
いつも通り夕食を買いに行った
店で働く人は全員浅黒い肌の人たち
南米出身なのかと思った
いかにも出稼ぎ風で 家族で経営しているのがわかった
そこのピザはどれもとびきり美味しくて
掲載されたワシントンポストの記事が自慢げにレジの横に貼ってあった

「クリスマスイヴなのに祝わないのか?」と聞かれて
「ブディストだから今日は何もしない」と咄嗟に答えた
「わたしたちも祝わないの」と言って
店の人たちはみんな急に笑顔になり愛想がよくなった
思いがけずパンを3個もおまけしてくれた

「それはひどいものだった……」
2001年9・11直後のムスリムの人々への差別について
語学学校の教室で
白人の教師が吐き捨てるように言ったのを思い出した

その後 ピザ屋に行くたびに大歓迎されて
必ずパンをたくさんおまけしてくれた
丸くて小さくて噛むと歯が折れそうに硬くて
なんていうパンなんだろう
聞いておけばよかった

サンタコン※の日は サンタクロースに仮装した若者たちで混み合う店内で
人々を写真に写すのに夢中になって
肝心のピザを店に忘れてしまった
慌てて戻るとピザが冷えないように
箱に入れたまま窯の上に置いて温めておいてくれた
そしてやっぱり丸いパンのおまけがたくさん

ニューヨークでは
たくさんの人がやさしくしてくれた
だけど彼らのやさしさは特に胸に沁みた
笑顔のなかに強さが宿っていた
クリスマスイヴにお祝いをしないと知って
少なくとも酷い差別をしない人だと認めてくれたのだった

店に最後に行ってからすでに2年が過ぎてしまった
テロの恐怖が世界を震撼させているなかで
ピザ屋の家族はどうしているだろうか

次にニューヨークに行ったら
いちばんにあの店に行こう
とびきり美味しいピザを頼もう
歯が折れそうに硬い丸いパンを食べよう
それからゆっくり再会のハグをしよう
握手をしよう

 

 

※サンタコン…クリスマスを控えた週末(1週間~10日程前)に毎年開催される。その日はサンタクロースに仮装して街に繰り出し朝からバーやレストランで楽しく飲んで食べようというイヴェント。クリスマスの前夜祭のようなもの。現在世界40か国300都市に波及しているという。

 

 

 

堀江敏幸 『彼女のいる背表紙』のこと

 

加藤 閑

 

 

堀江敏行

 

彼女というのは実在の女性ではない。書物の中の女性である。
最初に置かれた「固さと脆さの成熟」のフランソワーズ・サガンなど、著者である彼女そのものと言えそうに思えるが、実は『私自身のための優しい回想』の中の私=サガンである。網野菊をとりあげた「青蓮院辺りで、足袋を」も私小説なのでともすれば網野菊その人と思いかねないが、もちろん「光子」に他ならない。
48編の短い文章が収められている。女性誌「クロワッサン」の2005年4月25日号~2007年4月10日号まで、2年に渡って連載された。女性誌に堀江敏幸というのが意外の感があったが、文芸誌の相次ぐ廃刊でいま編集者らしい編集者は文芸誌以外の媒体に身を潜めているという話を耳にする。
著者自装だが、いつもながら行き届いた本づくりだ。写真の撮り方から配置、刷り色、文字づかい等、この人はどこでこういうことを身に着けたのだろうと思わせるほど整っている。ほとんど単色と言えるくらい色を抑えているのに、カバーの写真のインクの微妙な色のうつろい。帯や扉に用いた用紙と文字の選択も、この本にはほかに考えようがないと感じさせる。だが、何よりも本文組みのバランスの良さが、どちらかというと控えめな表紙のデザインを助けるように、安定感をもたらしている。

この本を読んでわたしが感じ取るのは、雰囲気というしかないくらいのわずかな感覚なのだが、常に行間にひそんでいるある種の親密さと著者のほのかなエロティシズムである。
親密さはおそらく、堀江敏幸というひとが読書体験から書いた一連の文章が集められているということに起因している。読書を語るということは、自分の精神形成史を語ることであり、そのときどきの境涯や感情をたどりなおすことに他ならない。それにここにある文章は、書評に重なる部分もあるが、書評よりも創作(多分に私小説的な)に近いところも少なくない。
そのうえ、文章のそれぞれに影を落としている(ときには直接登場する)著者の姿や発言、心の動きなどが、書評と言うには物語性を帯びすぎている。たとえば、「いびつな羽」と題されたローリー・ムーアの「ここにはああいう人しかいない」を取り上げた文章にある次のような言葉。「だれかといっしょにいようとしてそれが果たせないからこそ孤独なのであり、その原因が相手にではなく自分にあるとわかっているから、よけいに腹立たしいのだ。」

48編、2年に及ぶ連載だから、さすがに最初のころと後の方では微妙に印象が違う。連載がはじまったばかりの頃の文章がかなり意図的なのに対し、終わりの方は本の作者に寄り添う度合いが強くなっている。文章を読む面白さは前者の方が強いが、取り上げた本を読んでみたいと思わせるのは後者の方だ。
この本で取り上げられている本を2冊買った。安西美佐保『花がたみ…安西冬衛の思い出』(沖積舎)とヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』(岩崎力訳、岩波文庫)である。未読であれば網野菊も買っただろうが、去年のはじめに読んでいた。いずれもこの本の後半に出てくる本ばかりだった。

『花がたみ』の著者、安西美佐保は詩人安西冬衛の妻。堀江敏幸が「測候所とマロングラッセ」で触れている、電通広告賞審議会に出席した際の竹中郁とのやりとりは、この本の冒頭の「はじめに」と題されたもっとも短い章にある。そしてここに描かれたエピソードがこの本一冊のすべてを語っていると言っていい。
内容は、原本、引用文どちらを読んでもすぐわかるものなのでここには記さない。この小さなエピソードは、妻美佐保が書こうとした安西冬衛の人となりと二人の互いを想う気持ちを表していて余りない。著者は、失礼ながら文章を書くということに当たってはまったくの素人と思われるが、堀江敏幸も書いているように、そのたどたどしさが彼女の一途な気持ちを具現しているようで胸を打たれる。

『幼なごころ』について書かれた「名前を失った人」の書きだしはとても魅力的だ。
「好きになった人が身につけているものに、そっと触れる。もちろん、だれも見ていないところで。コート、マフラー、帽子、ハンカチ、鞄。あるいは、彼が、彼女が、さっきまで座っていた、まだ少しあたたかい椅子に腰を下ろす。肌と肌が合ったわけでもないのに、モノを通して想いが伝わってくるような気がする。けれど、そんなふうに近くに寄ることもできない場合には、どうしたらいいのだろう?(中略)名前だ。名前をつぶやけばいいのである。その人のすべてが、名前の響きに、意味に、文字のかたちに代弁されているからだ。」
思春期になるかならないかの頃に、こうした悩ましい思いにとらわれなかったひとがいるだろうか。こういうふうに書かれた本をどうして読まずにいられよう。
ラルボーの『幼なごころ』は、『彼女のいる背表紙』に関わりが深い本のように思える。
『彼女のいる背表紙』が表紙に著者自身の撮影になる写真を使っているのに対し、『幼なごころ』は各短編の扉に訳者の撮った写真があしらわれている。そのうえ解説を書いているのが他ならぬ堀江敏幸その人である。

相前後して同じ著者の『ゼラニウム』(中公文庫)を読んだ。異国の女性(多くはフランス人)との出会いを描いた6編の短編が収められていて、主人公はどれも著者を髣髴とさせる。同じ頃の作品である『雪沼とその周辺』とか『いつか王子駅で』(いずれも新潮文庫)に比べると、エッセイや身辺雑記を思わせる部分がないではない。しかし、これらはれっきとした小説である。『彼女のいる背表紙』の文章から受ける印象に近いものを感じることがあるのは、女性誌に連載された短文の多くが小説に擦り寄っているからではないだろうか。わたしにとって『彼女のいる背表紙』は、小説ではないのに作者が小説家であることを強く感じさせる本と言える。