plate 皿

 

皿に
盛らない

皿には
なにも盛らない

野菜も
盛らない

花も盛らない

そのヒトの無いコトバと
そのヒトの

無い死を盛る

生きなさい
生きなさい

コトバを生きなさい

午後に
カモメの鳴いて飛ぶのをみた

それから
眠った

白木蓮の花がひらいた

 

 

 

@150310 音の羽  詩の余白に 2 

萩原健次郎

 

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しゅうたん、しゅうたんと呟きながら、急峻な坂を降りてきた。
私の愁い嘆きは、心が薄く透けている証であり、右足、左足、腰、胴、頭と、道筋に落としていく身体のぐらつきと同じように、心の揺らぎに拠っている。
修行とは、何か。しゅうたんしゅうたんと繰り返すことか。
雲母坂の中程、もう陽は落ちて、一切が闇の中である。風があると、木々の葉末がそよいで、波のようにうねり去っていく。去ればまた、音の波が起って重なり去っていく。
遠い、川の瀬音も重なる。
ぎゃぁと、嗚咽した。
薄い、草鞋の、指先の下で、何かを踏みつぶした感じがした。
液質の、ひしゃげる音もした。
ちいさな生き物を潰したのだろう。爬虫類か、それとも、少し大きな虫なのかもしれない。
私が、今こうしていることを知っている人は、誰もいない。さっきまでただ蠢いていた命を殺めたことも、誰も知らない。
しゅうたん、しゅうたん、比叡の頂から、私が落としてきた汚い砂、小石、言葉。
欲、小欲の銭。穴のあいた硬貨の幻かもしれない。
行とは、落下。落とし、捨てるほかに、修めることなど何もない。
幻を払い落とす、踊りの所作を闇の中に溶かすこと。
雲母橋を渡りきったそのあたりから、遠い西山の麓に町の灯りを眺めることができる。
魚を煮る匂いが、たちこめてくる。
「震度1以上の各地の震度は――」というラジオの音。
漫才師の、割れる怒声。
それから、赤ちゃんの泣き声。
水のような体験をしているのは、修行僧である私である。水は、生きている声音を吸い取って、この山あいから街中へと降りていく。
音の塵を溺れる寸前まで飲まされているのは、私である。
枯草で編んだ、草鞋には液質の何かが沁みている。草の汁か、それとも命が食した、また別の命の汁だろう。
ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ――
いつのまにか、足下の道は、舗装されている。
私は、硬直して別の音を鳴らしていた。

 

 

 

today 今日

 

春に
生まれた

56年が過ぎて

母を
見舞った

雪原のむこうに
山々はあり

雪原のうえ

空は
ひろがっていた

雲が浮かんでいた
誰にでも空はあるだろう

そこにいた
そこに投げられていた

56年が過ぎて
なにもわからない

今日が
ひろがっていた

 

 

 

AR蛇籠

 

箪笥から、たぶん、狼狽した春を抜きだした。
そんな、手触りだけが残った。
墨のような、
跳ねが爪を食っている。
まさに今、食らう。
私はまもなく校歌をうたう、できるかぎりの轟音で。
例月、例月、例月、まわり、例月が年月を許さない。
区別がつかなくなってきている。
このまま、為体は、ねとねと。
淡緑の羊羹だというさじ加減か。

そろそろかな、うちあがりは。
この吸引、この吸収というべきか、のどごしに頼って疎かになった姿のまま待つ。
待つこともないが、

しゃあしゃあと終える時に、着衣していた土が香りだす。
柔軟剤より遥か遠くまで柔軟しきっていた。
香りに蜂が寄り道するように、このまま一生、目線を落とし、
偽わろうと寄り道を真似る。

道端の花束はこの街が機能しなかった場所を炙りだし、
機能しなかった校歌のように
そこを陣取る。

と、同等に雨が降る。
天気というものは、
こんなもんなんだと思います。

真面目に聴けない。
雨音が跳ねている。
どろりと脈うつ、
聴いたという感触の端から。
それは耳の輪郭と、この現象の端から
丸みだけを抽出して、
まるで
得体のしれない、
フルーツの盛り合わせである。

 

 

 

river 川

 

昨日の夜
新幹線で新庄についた

それから車で
西馬音内まできた

雪原がひろがっている

そのうえに
空がひろがっている

ヒトビトは
小さくみえる

子どものころ
増水した川で溺れたことがあった

死ぬんだと
おもった

死は遠くない

そこに川が流れていた

 

 

 

光の疵 十九歳

 

芦田みゆき

 

 

部屋は光に満ちている。
大きな鏡と白いキャンバスを前に、
あたしは絵筆をもって止まっている。
鏡には
何も写っていない。

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十九歳の夏。
あたしは首のない自我像を描いていた。
細く切りひらかれた瞳は、
わずかな光を含むとすぐに閉じてしまうので、
光に満ちているはずの白いアトリエを、
あたしは、暗がりの、深度の浅い、
見渡しの悪い空間と認識した。

トルソーがいい、とあたしは思った。
人を描くなら、トルソーがいい。
鏡はいらない。
そして、頭部は描かない。
あたしの瞳から見えたものだけが物質なのだ、と。

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写真3

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あたしは、自らを見下ろしてみる。
絶壁のように、垂直に、下方へとひろがるカラダ。
床に投げだされた足、
それが、十九歳の〈私〉だった。

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