金木犀の香り

 

みわ はるか

 

 

その香りが金木犀だと知ったのは随分あとのことだ。

向かいのお姉さんの家の庭は常にきちんと剪定されていて、いい香りがするその植物はその庭の端にちょこんと植えられていた。
隅のほうにあったけれど存在感は抜群だった。
そんな香りのベールにつつまれてお姉さんは毎日決まった時間に大きな玄関から出勤していた。
黒く長い髪をひとつに束ね、赤い小さめの鞄を肩からさげていた。
洋服は職場で決められているのだろう。
白いブラウスの上にチェックのチョッキのようなものを着ていた。
紺色のスカートはひざ下まであり、それにあわせて黒いヒールを履いていた。
当時部活の練習で日に焼けた肌をしていた中学生のわたしにとって、憧れの存在でとてつもなくまぶしくうつった。
いつかわたしもあんなふうに颯爽と歩くオフィスレディにでもなるのかなと勝手に夢をふくらませていた。
こんなわたしにもニコニコした笑顔をむけ挨拶をしてくれた。
お姉さんに会うときはなぜか少しどきどきして恥ずかしかった。
特別親しく遊んでもらった記憶はないけれど、長女のわたしにとっては本当の姉ができたようで嬉しかった。

そんなお姉さんもいつもいつも明るかったわけではなかった。
少し伏し目がちで大きなため息をついて家から出てくることもあった。
きっと人に言えない辛いことや苦しいことがあったのだろう。
そんな日が続くとものすごく心配になったけれど、またあの笑顔ですれちがえたときは心底ほっとしした。
やっぱりお姉さんの笑っている時の姿が一番好きだった。

それから月日は流れた。
お姉さんはその家から居なくなった。
遠いところにお嫁にいってしまったらしい。
遠いところってどこだろう~、元気にやっているのだろうか~。
想像することしかわたしにはできなかった。
そして、少しずつお姉さんのことを忘れていった。

わたしも大事な高校受験や大学受験を経験し、少しずつ大人の階段をのぼっていた。
前はお肉を好んで食べていたけれど、今は有機野菜や消化にいい食べ物に興味をもつようになった。
夏は紫外線なんか気にせずさんさんとふりそそぐ太陽の下部活のテニスに精をだしていたけれど、今はいかにしみやしわを防ぐ化粧品を見つけられるか
に時間を使うようになった。
キャラクターがプリントされているTシャツよりも、少し品がある無地の洋服を好んで着るようになった。
お菓子はあまり食べなくなった。
マンガや恋愛もののドラマよりニュースを見るようになった。
多少のことではわたわたと怖がることがなくなった。
遠足の前日のようにうきうきやわくわくすることが減った。
いつもいつも明るい明日が来るわけではないということを悟った。
時間的制約がある限り限界というものがあることを知った。
色んなことが自分の知らないうちに確実に変わっていった。
私は少し大人になれたのだろうか。

お姉さんをまた見るようになったのはそんなふうにわたしが大人に近付いているときだった。
金木犀の香りに包まれてあの玄関から出入りする姿があった。
一人ではなかった。
お姉さんの腕で大事そうに抱かれた小さな小さな赤ちゃんも一緒だった。
白いふわふわの生地で包まれたその子は天使のような微笑みをお姉さんにむけていた。
それを見ているお姉さんの顔はそれ以上の笑顔だった。
守るべき存在ができたお姉さんは前よりもたくましく見えた。
日が陰ったころ、ベビーカーにその子を乗せゆっくりとゆっくりと歩いていた。
聞き取ることはできなかったが何か優しく話しかけながら。
その時、一つ間違いなく言えるのは、その瞬間確かにお姉さんは幸せだった。
そしてきっと今も幸福な人生を送っているに違いない。
そうであってほしい。

わたしも結婚を機に地元を離れてしまったが、金木犀を見ると思いだす。
金木犀のお姉さんのことを。