女の子座りの麻理のこの光景を忘れることはないっちゃ。

 

鈴木志郎康

 

 

これが最後の詩なんてことにならないようにしたいな。
明日から別の詩を書こう。
とFaceBookに投稿したら、
佐々木 眞さんが
最後では困ります。もっと、もっと、もっと!
と返信をくれたっちゃ。
FBのお友達の佐々木 眞さん、
お目にかかったことがない佐々木 眞さん、
ありがとうございます、と、
そのもっとに応えて、
次の詩、
また次の詩、
更に、次の次の詩、
次々に詩を書きたいですね。
が、
次に書くことが、
いつも見当たらないっちゃ。
でも、書きたいッ、書きたい。
もっと、もっと、もっとッ。
つぎ、つぎ、つぎッ、
ポンッ。

痛いッ。
イタタッ。
足の甲のそこ、
麻理が指で押さえているそこ、
痛いよ、踝のところのそこ。
女の子座りの麻理が、
わたしの左足を抱えて、
優しくマッサージしてるこの姿を、
しっかりと記憶に焼き付けておこう。
女の子座り麻理っちゃ。
このところ、
毎朝、麻理が足をマッサージしてくれるので、
左足の浮腫が消えて、
触るだけでも痛かった中指の付け根の痛みも消えて、
踝のところの痛みだけが残ってるん。
だから、今朝もマッサージしてくれてるっちゃ。
幾つになっても可愛いっちゃ、
女の子座りの麻理。
まあ、どちらが先にいくにしても、
脳髄に焼き付けておこうっちゃ。
麻里がスーパーに買い物に行っただけで、
家に独り残された
わたしゃ胸がスーッと寂しくなるんじゃ。
麻理ッ、麻理ッ、マリーッ。
ポンッ。

人が死ぬって、
その人がいつも居たところにいなくなるってこっちゃ。
わたしのテーブルの椅子の席は決まってる。
毎日そこに座って、
新聞を読むっちゃ。
ご飯を食べるっちゃ。
その席にわたしがいなくなれば、
テーブルの上に積み上げられている詩集が無くなり、
新聞を読むのに使っている拡大鏡が無くなり、
毎日花を撮っているカメラが無くなり、
紅茶を飲んでいる蓋付きのマグカップが無くなり、
そのテーブルの上の光景がすっかり変わってしまうってこっちゃ。
人が死ねば日常の光景が変わっちまうってこっちゃ。
こっちゃ、こっちゃ、こっちゃ。
ポンッ。

2015年11月13日。
パリでテロがあったって、
テレビ新聞が賑わってる。
劇場とかサッカー場とかレストランとかで、
爆発と銃撃で、
130人の市民が殺され、
350人余りの市民が重軽傷を負わされたっちゃ。
おっそろしい。
無差別の憎しみはおっそろしい。
130人の人が家に帰って送る普段の光景が失われたってこっちゃ。
コヒー飲んでるとか、
フランスパンをかじってるとか、
家族と話してるとか、
それぞれの人の無くなった光景の前で、
たくさんの人の家族や友人の胸がスーッと空っぽになっちゃって、
寂しくって悲しくなってる。
その人たちの日常生活の光景が見たいっす。
痛ましいなあ。
国家っていうひとからげの憎しみは恐ろしいなあ。
憎しみに憎しみを返すんだろうか。
フランスの大統領が戦争を宣言しちまったよ。
フランス空軍のシリアのISの空爆で、
またまた普通に生活してる多くの人が死んでるんじゃろ。
どっちにしろ戦争じゃ、
人が殺されるんじゃ、
敵として憎しみ殺し殺されるんじゃ、
その憎しみをすっぽりと優しく暖かく包んでしまう超でっかい友愛のテント、
そのテントの中じゃ人がいる光景が輝く、
そんなテントがあるといいんじゃがねえ。
祈りを込めて、
いいんじゃがねえ、いいんじゃがねえ。
ポンッ。
今日も、
居間のテーブルで新聞を読んでるわたしの光景が、
ここにありました。
ポンッ、ポンッ。

うん、
人がそこにいるってことは、
そこに掛け替えのない光景が生まれているってこっちゃ。
人は光景に立ち会って、
また光景の中の人になるってこっちゃ。
人はそれぞれその人なりの
掛け替えのない光景を持って、
掛け替えのない光景の中で生きてるってこっちゃ。
その光景が忘れられないってこっちゃ。
脳裏に焼き付けて、
それでは消え易いからって、
写真に撮るっちゃ。
そして、遂には、
人はその光景の中でいなくなるってこっちゃ。
いなくなっても、
掛け替えのない光景は残るっちゃ。
六月には膵臓がんで入院してた
旧友の西江雅之さんをお見舞いしたんじゃ。
文化人類学者の西江さんは喋ってるうちに、
学生の頃の昔の西江さんになったんじゃねえ。
六十年前の早稲田のキャンパスで、
無銭旅行をするには、
おばさんの話を聞いて生活の中に入ちゃうのが一番ってね。
ひと夏でイタリア人と旅行してイタリア語をマスターしたってね。
二階から飛び降りて遊びに行ってったね。
ラジオドラマの子役だったね。
お見舞いして十日経って西江さんは亡くなっちゃった。
ベッドの西江さんが忘れられないっちゃ。
その西江さんの写真集『花のある遠景』が
11月17日に送られてきたっちゃ。
若い時から、
アフリカやパプアニューギニアで撮った写真っちゃ。
西江さんが立ち会った光景っちゃ、
いろいろな民族の人たちの生活の光景っちゃ、
太陽に輝く黒い裸の人たちの光景っちゃ、
後ろに犀がいるのに気づかない人の光景っちゃ、
ぎょろ目の子供の笑顔の光景っちゃ、
西江さんはこの人たちの生活に入ってるっちゃ。
ページをめくるごとに、
ドキドキさせられる光景っちゃ。
一ページめくってドキドキ、
二ページめくってドキドキ、
三ページめくってドキドキ、
西江さんはあのベッド横になった光景の中で、
いなくなったっちゃ。
寂しいね。
ポンッ。
今日、ここ、
居間のテーブルで、
西江さんの写真集を見てるわたしの光景が
そこにありました。
ポンッ、ポンッ。

もう晩秋ですね。
麻理が買い物に出て行った後ですね。
家の中にはわたしの他にはだあれもいない。
この部屋に、
大きなガラス窓から、
晩秋の陽が射して、
テーブルの上まで届いているっちゃ。
わたしはテーブルの上に両腕を組んで
うつぶしているっちゃ。
テーブルにうつぶしているひとりの男。
いや、ひとりの老人。
この光景を目にする者はいないっちゃ。
しばらくして、
わたしはゆっくりと
身を起こしたん。
いないのを忘れて、
麻理ッ、麻理ッ、マリーッ。
ポンッ、ポンッ、ポーン。
では、また次の詩ですね。