広瀬 勉
東京・杉並成田東?
朝
わたしは窓を開け
きょう初めての世界を見る
クライスラービルの先端が空を突き刺している
それから
昨夜の
バスタブの底に付いた
黒い靴跡を思い出す
外出中
顔も知らない男が
狭いバスタブの中を歩き回って
バカでかい黒い靴跡を付けてから
部屋を出て行った
トーキョーの夜は
ぼんぼりの灯のように
タワーがオレンジ色に燃えていたな
トーキョーの男は
帰宅してすぐ
バスルームに入ると
バスタブの底に30センチ以上はあろうかと思うほどの
大きな靴跡がいくつも付着していた
鍵はかかっていた
不動産屋に電話をすると
上の階で水回りのトラブルが発生し
わたしの部屋の水回りもチェックしたのだとか
油を含んだ黒い靴跡は
タワシで擦っても擦っても消えず
右手の爪が先に削れて割れた
台所で
お茶碗を落として
割ってしまいました
割れた
壊れた
ベッドカバーの上に靴を履いたまま
平気で寝そべる人に言いました
ニホンでは
ベッドは完璧に清潔でなければなりません
だから
わたしたちは夜に入浴します
まずバスタブにからだを浸して皮膚をふやかします
バスタブの横の専用の洗い場で
垢を入念に洗い落とします
ベッドには
完璧に清潔なからだになって滑り込まねばならないのです
ベッドは
完璧に清潔でなければならないのです
部屋のなかを土足で歩き回る人に言いました
それは
信じがたいほど不潔な行為です
その靴は外のあらゆる汚いものを踏んだ靴裏をもっています
部屋のなかでは靴を脱ぐべきです
床はとても清潔であり
裸足で歩いても足裏が汚れることはありません
部屋のなかは外とは別の世界です
床は完璧に清潔でなければなりません
人たちは
大変よい勉強になりましたと
お礼を言いました
トーキョーの夜は
ぼんぼりの灯のように
タワーがオレンジ色に燃えていたな
トーキョーの男は
足下12700キロ先の
遠い夜で
どの星を見ているのだろう
黒い大きな靴跡は
削り落としても削り落としても
翌日にはまた新しい靴跡がいくつも付けられ
結局
見知らぬ男は
バスタブを一週間歩き続け
黒い靴跡を残し続けた
何かが食い違っている
4日目を過ぎるころ
わたしは
黒い靴跡を
平気で裸足で踏んで
シャワーを浴びるようになりました
シャワーの把手を握るわたしの手は
男の性器を想いました
トーキョーだった
トーキョーの男だった
ふたりでバスタブに浸かり
からだを見せ合って
触り合って
笑い合った
おさなごの
ように
クライスラービルの先端が空を突き刺している
バスタブはからだを綺麗に洗う場所です
トイレは汚物を処理する場所です
その相反する二つの行為を
同じひとつの部屋で行うことは考えられません
わたしはそのことも敢えて付け足しました
人たちは
とてもよい勉強になりましたと
お礼を言いました
朝
わたしは窓を開け
きょう初めての世界を見る
クライスラービルの先端が空を突き刺している
三角屋根の鱗模様に朝陽が反射して
金色に輝いている
クライスラービルの先端は
巨大なクロカジキが跳ねて
海に飛び込む寸前そのものだと思いつく
潮の匂いがする朝陽を浴びて
わたしの肌が納得しました
垢を落とす行為と汚物を排出する行為は同じことだ
ゆえにこれは合理的な部屋割りであると
ふたりで
お揃いのお茶碗を買いました
お揃いのお箸を買いました
ここはわたしたちのおうちだと
納得し合いました
割れた
壊れた
バラバラ、に
なった
その痕跡は
きっぱり片づけておしまいなさい、と
わたしはきつく男に言いました
ばか、きちがい、ぱらのいあ、と
男はわたしに言いました
何かが食い違っていた
あなたは 正しいです
わたしは 正しいです
何かが食い違っている
休日
ハドソン川がよく見える
古い美術館へ行ったことがある
はじめに
囚われた一角獣のタペストリーを見た
それから
惨殺された一角獣のタペストリーを見た
一角獣は獰猛な生き物であり
聖女だけには従順だと知って
鼻で笑ってしまう
誰にでも等しく獰猛であれ!
トーキョーの夜
男は
わたしは
おさなごの
ようでした
わたしたちは
夜に
いっしょに
入浴しました
あのときは
ひとしく
いっしょ
でした