広瀬 勉
東京・中野界隈?
シャルル・ミュンシュ(1891-1968)は、大好きな指揮者です。
長くボストン交響楽団の音楽監督を務め、彼の生地ゆかりの独仏両国の音楽にいずれも堪能で、明晰かつ情熱的な演奏を後世に遺してくれました。
彼がフランス国立放送響と録れたドビュッシーやベルリオーズ、Memories盤で聴くボストン響とのベートーヴェンの交響曲全集やモーツァルト、ブルックナーの交響曲第7番などのライヴ演奏は、いずれも素晴らしい。
それは生命の跳躍と輝きがあるからです。
フランス音楽、ことにベルリオーズの「幻想交響曲」では高い声望を勝ち得ているミュンシュですが、1967年11月14日パリ管弦楽団の音楽監督就任お披露目コンサートの実況録音に聴くドビュッシーの「海」はもっと見事な演奏で、安物のスピーカーから流れる第3曲のトランペットの強奏を耳にしながら、ドビュッシーがインスピレーションを得たという葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖裏」の映像が忽然と脳裏に出現したのには我ながら驚きました。
また仏のレーベルAUVIDIS VALOOIS のV4826には、1963年6月にフランス国立管弦楽団とリスボンで行ったライヴ演奏が全8枚に収められています。
お得意のフランス音楽のほか、ブラームスの交響曲2番、シューマンの4番、ベートヴェンの4番と7番、フランクの交響曲なども収められているのですが、いずれも超の字がつく名演で、この人がバーンスタインなぞ及びもつかない生命力にあふれる音楽をやった大指揮者であったことを雄弁に物語っています。
マーラーにも思いがけない名盤があります。例えば歌曲「さすらう若者の歌」と「亡き子をしのぶ歌」では、カナダの歌手モーリン・フォレスターの沈湎たる歌唱が深々と心に響きます。
いまここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする“命懸けの豪胆さ”が、私たちの心をひしひしと打つのです。
――『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』
そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、ここでじつに印象的な風貌を垣間見せているブラームスの姿が、私にはどうしてもミュンシュその人に重なってしまうのです。
*追記
ミュンシュの音楽の素晴らしさを知って頂くためのいちばんの近道。それはYouTubeの「人気の動画シャルル・ミュンシュ」というトピックをのぞいてみることです。
百文は一見に如かず。そこにはボストン交響楽団を中心とした長短様々なライヴ演奏の動画が陸続と展開されており、彼の卓越した指揮ぶりに信服しているオケの面々の音楽する歓びと、これを目の当たりにした聴衆の感激が生々しく伝わってきます。
海をみた
きのうも
きょうも
海をみた
きのうもきょうも
モコと
海が光るのを
みた
綺麗さ
綺麗だったさ
きのう
浜辺の砂利のなかに
子猫が
捨てられてた
弱ってた
もう
ふらふらで
動かなかった
綺麗だ
此の世は
綺麗だ
3月13日
灯りのアパートメントは四階ぐらいかな、それは電車から見たから地上との距離感がいまいち掴みきれない、目の位置だけが高く灯った。
すれちがった私とは別の人の方へ
重心がかたむくはずだったのに
歩みを止めれない。
体がおぼえだした
このステップを
指令してみた
右に半歩左に半歩これ続ける
体が空くまで
意識して命令する
独唱をするように天をみあげてから
最近 うーわオレンジ食べてないな
あやとさわげ。言葉のあやと
身崩れ。なれなれ
この果てを身一つ
広げる意識で、かくまるな
アウトラインに電気が走る
外科医のメスの先に鋭利な地割れ
手の先、道具の先、電流の先
モスグリーンの
じめったいケルト民族の肩に
小鳩がとまる
かじかむ舌先のありかは口内
本当は舌が空中に
ほうりだされて、空気
舐めている動物としての粒子
先に水を舐めにいく
舌で牛を飼う
時間を飼う
住家を飼う、許されるなら
貧困で質素な自由の隣国に
生まれなかったバージョンの私と
現存する不安げな 渋谷着いたよ
今どこ?
私の健気さには
来年はもうない。久しく宇宙を
調べてない
石油をご飯にかけ、高速を突っ切る姿はバイク城の王宮
頼りなくなったとか言わないでほしいよ。
毎回頼りなくなりにいっている
ピストンしない寸止めに
未来感はないさ、誠実に困惑する輪っかにはめにいく。この体は
筋力が足りないか
筋肉の嘔吐が伝わらないか
背骨が見えないのか、もしかして
もしくは
人体の効果は
衣服からはじまる施術を飼いならした結果なのかい。チャンス
敵陣が観客に徹している、マジ
ポンプ式の筋肉で人を押すゾ。
圧縮しようよ人を、手をひっこめて胸のあたりを意識する、胸に身震いする黒い丸を飼う
照らされた側から暗闇は見えない
身体よどうか代理してくれてもいいんだよ。って言った
わざと謙遜を破って想像に入る
カラダもいらだち
自慢げに大胆になりつつ
目撃談として、ひっぱりあう
動いてないカラダを
人の爪痕や鼻息に吹きかける。
念とか禅のたぐい?木魚叩きたい
叩いてるように見えてるよっ
それとも愛情かい、
愛でる浮遊で体圧をあげる
気持ちいいとこに落とすと
オン枠にはまる。
寄り道した末に旅した
末の部分がとても長い道のりだったのだよね。
目的に没入した体をよく憶えてる
スライドして帰ってきた
幾つあっても代理の変容でしかなかった。非常に幸せ
可能性の膀胱が光り、それは
本人の素材に景色が、うん?
気色だったか、燕尾のよな尻が
左右で分かれていた。
モノクロとカラーのように温度調節がむずかしい境地に達していた
色もつけれるし
左手の おーいお茶 あったかくて
色もおとせるし
目に見える色と意識している色を共に裏切ることもできる。
感動的にチューニングしていく様が入れ物という花壇を剥脱する気もする。
花壇っていうのか、この区域は
勝手に名づけ過ぎ
じゃあ、花壇します。
私は花壇。今は雲しか見えない
本当に雲、くも く も
白いとグレイと曲線ざ
花壇の裏の広場で清志郎が歌ってる。清志郎人体。彼は人間
姿 スーサイド
こういう時に連結した関節に動力を感じまくる。
スポーツではないハンガーにかかったままの身体、炭酸水にしおれる塵です吸いこみ膨らんだ毛壷よ
忘れていた。
言葉だったね えーっと
ギャスパー・ノエを見たんだ
朝になると文字が死んでる、ぎくっ振付から降りる。再度振付に入るまでの期間でさえも体は裏切らない、でも結構死んでる、短く振付に滅入る、同じように全てをやる。同等にぎくっ
万国のステップ万国の行進、万国旗いずれもコンティニューして
自分の癖に戻そっかな
スーツに入ります、川にも入ります
ヒイ、
ヒイ、
ヒイ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。
教室で、
国語の時間に、
土左衛門の
お姉ちゃんはなんで死んじゃったんだろうって、
お母ちゃんに聞いたら、
苦しいことがあったからよって、
言ってましたって、
作文に書いたら、
女先生は俺っちの頭に、
手を置いて、
黙って、
顔を左右に、
動かしたっす。
ヒイ、
ヒーチョト、
ヒイ、
ヒイ。
昔々の、
ピーと鳴らない、
口笛だったんだす。
ピー、
ピー。