Onbashira(御柱)

 

狩野雅之

 

 

160513-DSC01632-C1
諏訪大社上社本宮御柱 01

 

160513-DSC01634-C1
諏訪大社上社本宮御柱 02

 

160513-DSC01646-C1
諏訪大社上社本宮御柱 03

 

160513-DSC01662-C1
諏訪大社上社本宮御柱 04

 

160513-DSC01654-C1 1
諏訪大社上社本宮御柱 05

 

160513-DSC01663-C1
諏訪大社上社本宮御柱 06

 

160513-DSC01656-C1
諏訪大社上社本宮御柱 07

 

160513-DSC01664-C1 2
諏訪大社上社本宮御柱 08

 

160513-DSC01683-C1
諏訪大社上社本宮御柱 09 

 

160513-DSC01667-C1 1
諏訪大社上社本宮御柱 10

 

 

 

ベッドで

 

根石吉久

 

 

こころがあったらしく
あったところが空洞になって
こころがなくなって
しまった

こころが
なくなったのか
こころが
空洞にかわったのか
わからない

空洞だとかんじているのは
こころだろう
こころはなくなって
なくて
ある
のか

奥村さんが言った
こころは
また
生える

生えてくるまで
ない

こころが
なくなったと
かんじたときまで
こころは
なかった

そのかん
かんいっぱつ
くうどうになったせかいで
はんざいしゃになることを
まぬがれて
よかった


そういうことか

 

 

 

ロッポンギにルナちゃんがやってきた

東京六本木の国立新美術館で「ルノワール展」をみて

 

佐々木 眞

 

印象派は大好きで、昔はなんでもかんでも見に行っていたのだが、だんだん飽きてしまひ、ゴッホ以外はもういいやと思っていた。ゴッホ、ゴッホ、ゴホゴホ。

ロッポンギにルナちゃんがやってきたとか、風の便りに聴いてはいたが、ルノワールといふ淑女番茶で傅く高値キッチャテンのやうな名前を耳にしただけで、あのぶたぶた女のふわふわモワレ像のあともすふぇーるが浮かんでは消え、消えては浮かんでしまふ。

「まず、よさう」と思っていたんだが、たまたま御成通の金券ショップで割引入場券を衝動買ひしてしまったので、けふ仕方なく初夏の昼下がりのロッポンギくんだりまでやってきたんだよ、オネイちゃん。

ところが結果的にはこれが良かったずら。行かなければ一生後悔したにちげえねえくらい良かったんである。あるん、あるん、コンコンチキのコンチクショウめ。

おらっちは遅まきながら、ぬあーんとルナちゃんの真価に目ざめてしまったんである。あるん、あるん、おらっち、コキ過ぎて。古稀過ぎて。

入り口にさりげなく置かれていた「猫と少年」にいきなり目がいった。と思いねえ。

猫をネコかわいがりしている少年は、まるで童貞少年プルーストのようで、映画「バーディ」の主人公と同じように、素っ裸で無防備なお尻を、おらっちの前におどおどと晒していた。

そのおどおどをば、ルネちゃんはあざやかにえぐっていた。
お、これがルナちゃんか、なかなかやるじゃんかと、おらっちは思った。

じゃんか、じゃんか、ルナちゃん、なかなかやるじゃんか。

お次は肖像画のコーナー。点描の大家シスレー選手や詩人テオドール・ド・バンヴィルの澄ましきった御影なんざどうでもよかったけど、「読書する少女」にはちょっと心が動いた。やっぱ描くなら少女なんだなと、心が揺らいだ。チラ、らちもなく。

次の次は風景画なんだけど、セーヌ川のなんてこともない風景がじわじわ胸に染みてきたではないか。

じゃんか、じゃんか、ルナちゃん、なかなかやるじゃんか。

「アルジャントゥイユのセーヌ川」の河原には、蒼穹の下で雲雀が日がないちんち歌っており、童貞プルースト少年が全裸で逍遥しているのを、心配そうに眺めている。

白いパラソルをさした彼の母親、それからモネの奥さんや娘たちが「草原の坂道」をゆるゆる下ってくるのが見える。

そしておらっちの心がいきなり鷲摑みされたのは、これまでよくみたこともなかった「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」だった。じゃった。
午後二時半の巴里モンマルトルの広場で、老若男女のシトワイヤンとシトワイエンヌが、ジンタの響きに合わせてワルツを踊っている。

ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア*
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光影軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ*

燦々と輝く午後の日差しは、恋人と我を忘れて踊る若い女性の白いシフォンドレスの上にほのかな樹影を刻印している。樹影、じゅえい、Joue joue jouer

画面の中央では、箱入り娘が青年の、そして左隅では、ジルベルトがプルースト少年のダンスの申し込みを待っている。

ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光影軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ

あ、と思えば、つ、と過ぎ去ってゆく、我らが祝祭の日。
その一瞬の仕合わせを、ルナちゃんはキャンバスのうえに、かそけく、あわあわと描く。かそけく、かそけく、あわあわ、あわあわと

あたかも次の瞬間には、束の間の宴がうたかたのごとく儚く消え失せ、けたたましい軍靴にとって代わられる日が来ることを予期しているかのやうに。

ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア
ダンス、ダンス、ダンス
一寸の光芒軽んずべからず
泣くも笑うもこのときぞ このときぞ

そして満を持して最後に姿を現すのは、草上にごろりと横たはる巨大な裸婦たち。そはかのギリシア神話のニンフか、はたまたアマゾネスか。

いな、否、Nein 、それは、かつての「麦わら帽子の少女」、「本を読む少女」。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットでダンスに興じた少女は、やがて「ルノワール夫人」となり、「横たわる裸婦」となり、最晩年の傑作「浴女たち」となった。

燦然と光り輝く午後三時の太陽の下、もはや男どもが死に絶えたエデンの園で、
恐竜のようにあどけない原始女性たちが、地表のあらゆる因果律を無視して、未来永劫戯れている。

 

*「ジン、ジン、ジンタン、ジンタタタッタアタアア」は仁丹の広告に拠る。
*「泣くも笑うもこのときぞ。このときぞ」は、中原中也の「古代土器の印象」の「泣くも笑うも此の時ぞ」に拠る。
*括弧内の表記の多くは、今回の「ルノワール展」の掲出作品名である。

 

 

 

cover 覆う

 

海から帰り
午後に

高橋悠治さんの
インヴェンションとシンフォニアを

聴いた

声に
声を重ねる

さらにもうひとつ声を
重ねる

夕方にはモコと散歩した

道端には
ドクダミの白い花が咲いてた

悠治さんは
覆うのではない

ピアノの声を重ねて裸になる