広瀬 勉
東京・杉並界隈。
5月のはじめのある晴れた朝、健ちゃんが洗面所の水道の蛇口をひねった途端、長さ10センチ足らずのほっそりしたウナギが、キュウキュウ泣きながら、水盤の底へとまっさかさまに吐き出されてきました。
ウナギは、真っ白な磁器で造られた水盤の上に、朝の光を受けてゆらゆらと揺れ、キラキラと輝く5リットルの水たまりの中を、器の内周に沿って軽やかな身のこなしで、ぐるぐると2回転半。あざやかなストップモーションを決めると、アシカに似た賢そうな頭を水面の上にチョコナンと持ち上げ、健ちゃんを上眼づかいに見上げたのでした。
ドボンと水に飛び込んでから、上眼づかいに見上げるまでのわずか3秒間のあいだに、ウナギの色は真っ黒から薄茶色へと変っています。
<ウナギにしては小さすぎるし、ヤツメウナギにしては眼が2つしかないし、ドジョウにしては背ビレがおっ立ってないし、どっちにしても変なやつ。きっとウナギなんだろうけど、直接本人に聞いてみよう>
そう思いながら、健ちゃんはいいました。
「お前はいったい誰? どこからやって来たの?」
するとウナギは、こう答えました。
「僕、ウナギのQ太。丹波の綾部の由良川からやって来たの」
「な、なに、丹波だって? 綾部だって? 由良川だって?」
健ちゃんは磨きかけの歯ブラシを止めて、口をモグモグさせました。
思わずポッカリあいた健ちゃんの口から、ツバキおよびそれと一体になったソルト・サンスター歯磨の白い泡が、上手に立ち泳ぎしている自称ウナギのQ太の鼻先にぐっちゃりと落下したものですから、Q太はあわを喰って水盤の底の底までもぐりこんで、小さな首をぷるぷると動かしました。
「おう、塩っかれえや」、と呟きながら……。
健ちゃんは、あわてて水面に漂う白い泡を手ですくうと、水盤の奥で依然としてぷるぷる頭をふりふりしているウナギもどきのQ太に向かって、大きな声で話しかけました。
「ごめんね、ウナギのQ太君。ダイジョウブ?」
Q太はしばらく聞こえなかった振りをして、拗ねたように全身をクネクネしていましたが、
「おお、そうだ。僕はなんでこんなとおろでクネクネしていらりょうか。おお、おお、そうだった、ホーレーショ、これはお家の一大事。僕は泣いたり拗ねたりしている暇なんかないんだ。健ちゃんに助けてもらわなければ、僕たちの一族は全滅してしまう!」
と、ぶくぶく独りごと。
その次の瞬間、ウナギのQ太は非常な勢いで、水底およそ4センチの地点から水面めがけて脱兎のごとく躍り上がり、余った力でさらに上空15センチばかり上昇すると、そこでいきなりストップ。
鈍色がかったとてもやわらかなお腹の皮を、子猫のでんぐり返しのように健ちゃんにくまなく見せながら、古舘伊知郎のように一気にしゃべったのでした。
「ケ、ケ、ケンちゃん、タ、タ、タイヘンだーい! 健ちゃんが去年の夏、お父さんやお母さんや耕ちゃんと一緒に遊びに来てくれた近畿地方でいちばん水のきれいな由良川で、いま大変な事件が起こっているんです。いままで見たことも聞いたこともないオッソロシーイ、オッカナーイ怪魚たちがいっぱいあらわれて、僕らの仲間のウナギやドジョウやフナやコイやモロコやハヤを、見境なしに喰い殺しているんです。どうか一刻も早く助けてくださーい! いますぐ由良川にきてくださーい。でないと、僕たちは、ゼ、ゼ、ゼンメツでーす!」
滞空時間がけっこう長かったために、いつの間にか赤紫色に変色してしまったウナギのQ太は、金切り声を張り上げてもういちど「ゼンメツでーす!」と絶叫すると、ふたたび水盤の奥底へとモーレツな勢いで沈んでいきました。
ボッチャーンとはね返った水は、健ちゃんの寝ぼけまなこを直撃したので、健ちゃんはそこではじめて事態の深刻さを、はっきりと悟ったのでした。
丹波の国の綾部の由良川で、いま、なにかとんでもないことが起こっている……
空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空次回へつづく
雨
だった
目覚めたら
雨の音が聴こえた
エアコンの除湿の
ファンの
音も
聴こえた
ベッドから起きて
風呂に浸かった
コーヒーを淹れて
砂糖と
豆乳をいれて
飲んだ
カザルスの
チェロ組曲を聴いた
昔に
暮した女が
カザルスを聴いていた
こんなに空が青くては
死ぬこともできないだろうに
こんなに空が青くては
とうに失った希望を思い出すだろうに
こんなに空が青くては
人を信じない人を信じる気になっちまう
こんなに空が青くては
ぬかるみの夜を忘れすべてを許したくなる
こんなに空が青くては
殺し行く勘気もほどけ
ナイフでリンゴをむいてやる
いったいどうしたというんだろう
すいこまれながら
遠くを見つめると
忘れた悲しみが落ちてくる
苦い果肉を噛んで
すすり泣きする少女の
髪を撫でようとして
風が邪魔をする
リンドウが揺れる道
果てに広がる青空
稜線の風が吹き上がり
なにものでもないと消え行く
こうして生きてるんだか死んでるんだか
わからない日がはじまる
こんなに空は青い
はじめての朝のように
裸で
階段を
降りていった
裸になって
階段を降りていった
そこには
祖母がいて
母が
いた
天皇陛下万歳といった
足の速い
自慢の息子を
沖縄の戦争で死なせた
そろりと
階段を降りていった
階段の下には死者たちがいた
国の名は知らない
先日、登山をした。
小学生以来の本当に久しぶりの登山だった。
地元にある標高850mほどの山で、前々から1度は登ってみたいと思っていたところだ。
数年来の知人を道連れに意気揚々と出発した。
心配していた天候も風がほどよく吹く晴天に恵まれた。
知人は山が珍しいのか、出発地点に向かう車内で楽しそうににこにこ笑っていた。
凍らせたドリンク数本、虫除け、制汗剤、帽子、タオル、着替えまでと用意周到だった。
登山初心者の知人には怖いものなしのように見えた。
わたしはというと、体力の衰えを少し感じ始めていたため、ちゃんと頂上まで上りきれるか若干不安だった。
出発地点で写真撮影を済ませていざ登山を開始した。
生い茂る新緑の木々、わたしたちの頭よりもずっと上に咲く白い花、普段見るよりもずっと大きな蟻、上から見るとずっーと小さく見える民家や湖。
見るものすべてに感動してゲラゲラ笑いながら登っていた。
知人はよく笑った。
知人はよく汗をかいた。
知人はよくドリンクを飲んだ。
そして、無言になっていった。
そう、知人は疲れていた。
まだ半分も登っていないのに完全に疲れきっていた。
意外にも傾斜が急でわたしも驚きはしたがこんなもんだったかな~とも思っていた。
わたしたちは少し長めの休憩をとることにした。
すると前から下山してくる初老の男性が杖をつきながらやってきた。
「ここは急や。こんなところで休憩か。まだまだじゃないか。頂上は蜂だらけだ。気を付けろ。」
まるでやっと話し相手を見つけたかのようにいきなり話始めた。
聞くところによると、その老人は会社を定年退職し、登山を趣味としていた。
隣の県からわざわざ足を運んできたんのだった。
その後もその老人の話は続き逃れられそうになかったが、一瞬の隙をついてごきげんよう~とその場を去った。
わたしたちはまたどっと疲れてしまった。
それからは急傾斜と、太陽のじりじり照りつける日差しとの戦いだった。
口を開けばお互い「頂上はまだかな」と言い合った。
二人だから頑張れた。
一人だったらくるっと踵を返してとうの昔に下山していただろう。
受験は団体戦と言うけれど、本当にそう思う。
ブーンとなにか大群の音がだんだん聞こえてきた。
何事かと上を見上げると蜂の大群だった。
そうあの老人の言葉は本当だった。
目の前に頂上が見えるのに…。
この中を通っていかなくてはならないのは地獄のように見えた。
でもせっかくここまで来たのだからとタオルや帽子で素肌を隠し歩き続けた。
頂上からの景色は絶景だった。
ただ蜂の大群のせいで30秒でその場を離れなければならなかったのは本当に残念だった。
下山もまた大変ではあったが知人とまたゲラゲラ笑いながら歩いた。
どうでもいいことを話ながらただひたすら歩いた。
その時間はものすごくすがすがしかった。
誰かと何かを共有できるのは素晴らしいと思えた。
帰りの車中も知人はにこにこ笑って楽しそうに今日撮った写真を眺めていた。
そんな知人を見るのがわたしは好きだ。
もうすぐ灼熱の夏がやってくる。
また二人でにこにことどこかお出かけしたい。
わたしの親友の
戸田桂太さんよ、
『東京モノクローム 戸田達雄・マヴォの頃』出版、
おめでとうです。
息子が書いた言葉で甦えった
今は亡き父親の戸田達雄さん
おめでとうです。
桂太は青年時代の父親を
若者「タツオ」と名付けて、
一冊の本に蘇らせた。
わたしはタツオと親しくなってしまったよ。
関東大震災の燃え広がる
東京の街中を、
走り抜けるタツオ。
勤め先の若い女性を
丸ノ内から向島の
彼女の家族のもとに送り届けるために、
燃え広がる
東京の街を、
走り抜けるタツオ。
膨大な震災記録を
縫い合わせて、
タツオの足跡を
蘇らせた息子の桂太。
そこから、
「東京モノクローム」は始まるんですね。
タツオは、
震災後、
勤め先の「ライオン歯磨」を辞め、
イラストを描く、若い表現者となって、
震災の惨状を体験した活力で
極貧の生活を送りながら、
村山知義の斬新なオブジェに仰天して、
前衛芸術家集団「マヴォ」参加し、
「マヴォイスト」として活躍するんですね。
わたしの好きな複雑でニヒルな詩人の
尾形亀之助たちと親交を深め、
やがて友人と
二十一歳の頃から、
ショウウインドウを飾る仕事を始めて、
広告図案社「オリオン社」をスタートさせた。
タツオは、
震災後の若い芸術家たちの中で、
生きるための道を探り歩いて行ったんですね。
息子の戸田桂太は
その青年の父親を、
見事に蘇らせた。
親友のわたしは嬉しいです。
ラン、ララン。
ところで、
わたしの親父さんは
若い頃、何してたんだろ。
聞いた話って言えば、
若い頃、下町の亀戸で
鉢植えの花を育てて、
大八車に乗せて、
東京の山の手に
売りに行って、
下りの坂道で、
車が止まらなくなってしまって、
困った困ったって、
話していましたね。
大八車に押されて、
すっ飛ぶように走ってる
若い親父さん。
いいねえ。
ラン、ララン。