登山

 

みわ はるか

 
 

先日、登山をした。
小学生以来の本当に久しぶりの登山だった。
地元にある標高850mほどの山で、前々から1度は登ってみたいと思っていたところだ。
数年来の知人を道連れに意気揚々と出発した。
心配していた天候も風がほどよく吹く晴天に恵まれた。

知人は山が珍しいのか、出発地点に向かう車内で楽しそうににこにこ笑っていた。
凍らせたドリンク数本、虫除け、制汗剤、帽子、タオル、着替えまでと用意周到だった。
登山初心者の知人には怖いものなしのように見えた。
わたしはというと、体力の衰えを少し感じ始めていたため、ちゃんと頂上まで上りきれるか若干不安だった。

出発地点で写真撮影を済ませていざ登山を開始した。
生い茂る新緑の木々、わたしたちの頭よりもずっと上に咲く白い花、普段見るよりもずっと大きな蟻、上から見るとずっーと小さく見える民家や湖。
見るものすべてに感動してゲラゲラ笑いながら登っていた。
知人はよく笑った。
知人はよく汗をかいた。
知人はよくドリンクを飲んだ。
そして、無言になっていった。
そう、知人は疲れていた。
まだ半分も登っていないのに完全に疲れきっていた。
意外にも傾斜が急でわたしも驚きはしたがこんなもんだったかな~とも思っていた。
わたしたちは少し長めの休憩をとることにした。

すると前から下山してくる初老の男性が杖をつきながらやってきた。
「ここは急や。こんなところで休憩か。まだまだじゃないか。頂上は蜂だらけだ。気を付けろ。」
まるでやっと話し相手を見つけたかのようにいきなり話始めた。
聞くところによると、その老人は会社を定年退職し、登山を趣味としていた。
隣の県からわざわざ足を運んできたんのだった。
その後もその老人の話は続き逃れられそうになかったが、一瞬の隙をついてごきげんよう~とその場を去った。
わたしたちはまたどっと疲れてしまった。

それからは急傾斜と、太陽のじりじり照りつける日差しとの戦いだった。
口を開けばお互い「頂上はまだかな」と言い合った。
二人だから頑張れた。
一人だったらくるっと踵を返してとうの昔に下山していただろう。
受験は団体戦と言うけれど、本当にそう思う。

ブーンとなにか大群の音がだんだん聞こえてきた。
何事かと上を見上げると蜂の大群だった。
そうあの老人の言葉は本当だった。
目の前に頂上が見えるのに…。
この中を通っていかなくてはならないのは地獄のように見えた。
でもせっかくここまで来たのだからとタオルや帽子で素肌を隠し歩き続けた。
頂上からの景色は絶景だった。
ただ蜂の大群のせいで30秒でその場を離れなければならなかったのは本当に残念だった。

下山もまた大変ではあったが知人とまたゲラゲラ笑いながら歩いた。
どうでもいいことを話ながらただひたすら歩いた。
その時間はものすごくすがすがしかった。
誰かと何かを共有できるのは素晴らしいと思えた。

帰りの車中も知人はにこにこ笑って楽しそうに今日撮った写真を眺めていた。
そんな知人を見るのがわたしは好きだ。

もうすぐ灼熱の夏がやってくる。
また二人でにこにことどこかお出かけしたい。

 

 

 

空谷の跫音~イタリア弦楽四重奏団の空耳アワー

音楽の慰め 第5回

 
 

佐々木 眞

 
 

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イタリア弦楽四重奏団のモーツァルトの「ハイドン・カルテット」を70年代の旅先で耳にしたときは、最初の一音で陶然となって、なぜだか涙が出て仕方がありませんでした。

ああ、これがモーツァルトだ。これが弦楽四重奏だ。これが弦のほんたうの響きだ。
と確信できて、それは同じ頃に聞いたクーベリックのマーラーと同様にかけがえのない音楽体験となったのでした。

その後同じ曲をいろんな機会にいろんな団体で聴いたが、みな駄目でした。
大好きな東京カルテットも駄目でした。鉄人アルバン・ベルクも、てんでお呼びでなかった。

それから幾星霜、いまではとっくの昔に解散したこの四重奏団がかつてフィリップス、デッカ、DGに入れたCD37枚の録音を順番に、それこそ粛々と聴いていくなかに、K387のその曲がありました。

「春」という副題がつけられたそのト長調4分の4拍子のその曲の、冒頭のAllegro vivace assaiを久しぶりに耳にした私でしたが、どこか違うのです。

それはまぎれもないイタリア弦楽四重奏団の演奏ではありましたが、あの日、あの時、あのホールに朗々と鳴り響いた、あの奥深い音ではなかったのです。

それから私は急いでCDを停めて、そのほかのモーツァルトやベートーヴェンやシューベルトなどがぎっしり詰め込まれている黄色いボックスにそっと仕舞いこみました。

半世紀近い大昔の、あのかけがえのない音楽と懐かしい思い出が、もうそれ以上傷つけられないように。

 

 

 

雑草詩って、俺っちの感想なん

 

鈴木志郎康

 

 

これは、
俺っちの感想なん。
新詩集
「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は」の
横に書かいた詩が、
縦に印刷されてきた
校正刷りを、
二回読んだ感想なん。
日頃のことが
ごじょごじょっと書かれた
俺っちの
詩の行が縦に並んでるじゃん、
こりゃ、
雑草が生えてるんじゃん、
ページをめくると、
また、雑草、
また、雑草、
引っこ抜いても、
抜いても抜いても生えてくる
雑草じゃん。
俺っちが書く詩は、
雑草詩じゃん。
じゃん、じゃん。

いいぞ、
雑草詩。
こりゃ、
俺っちにしては
すっ晴らしい思いつきだぜ。
踏まれても、
引き抜かれても、
生えてくる
雑草。
貶されても、
無視されても、
どんどん、
どんどん、
書いちゃう
雑草詩。
いいじゃん、
いいじゃん、
じゃん、じゃん
ぽん。

今朝も、
ようやく明るんできた
窓の外。
梅雨時の雲が垂れ込めた
朝方、
書く言葉が見つからないで、
仕事部屋への階段を、
杖を片手に降りて行く。
雑草詩なんちゃって、
かっこつけ過ぎじやん。
なんか悩ましいじゃん、
なんか悔しいじゃん、
なんかこん畜生じゃん、
ああ、
世間が遠いっじゃん。
じやん、じゃん。
ぽん。

 

 

 

夢は第2の人生である 第39回

西暦2016年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

 

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米ソ冷戦下の時代にアメリカンのホテルに泊まったソ連の子供たちは、黒人のフロント係に、ソ連のホテルに泊まったアメリカの子供たちは、イワンの馬鹿のようなフロント係にそれぞれ懐いて、とても満足して帰国したそうだ。2/1

国連にロシアと日本が大枚の寄付をしたという噂を耳にして、「その嘘ほんまかいな」と思いながら電車に乗ると、電車の中刷りに「たけしがやって来る」と書いてあったので、「たけしなんかより、さんまのほうがずっとがいいな」と私は思っていた。2/2

ジャイアント馬場を化け物のようにしたような怪物が、チーフとサブの2人をさんざんな目に遭わせたあと、屋上の洗面所で上着を脱いで水を飲んだりしているのを見つけたので、私はぐったりしている2人にそのことを伝え、3人で復讐しようと図った。2/3

洗面所の外で待ち伏せしていたら、お化け馬場がやってきたので、3人で立ち向かい、2人が大きな体を押さえている間に、私が股間に何度も猛烈キックを加えると、さしもの怪物もたまりかねて、8階の階段の上からまっさかさまに転がり落ちた。2/3

これは夢の中だから大丈夫だな、と思って頭にシャワーをかけたが、案の定濡れなかった。2/4

僕の腹と腰には、びっしりとパイプ爆弾が巻かれている。僕のお師匠さんがいう。「あいつは悪魔だ。悪魔はこの世から取り除かねばならない。あいつを殺せば、世の中はたちまち平和になるだろう。そして君は永久に神から賛美されるだろう」2/4

とても面白そうな夢を見たので、真夜中にその内容をメモしたはずだが、朝起きてみたら手帳には何も書かれていなかった。2/5

時間が押していたので、「ではこの執行部案でよろしいでしょうか?」と尋ねると、バラバラという拍手のはざまから2、3本の手が上がったので、私は失敗したことに気付いた。「ではこの執行部案を拍手でご承認ください」と言うべきだったのだ。2/5

早く彼奴を潰さなきゃ、と思ってキック、キックでぶっ潰してやった。2/6

新幹線の先頭の2人しか入れない空間に、無理矢理5人で乗り込んだ。2/6

痩せたデビッド・ボウイそっくりの軍人が遥々私を訪ねてきたので、家の外へ出ると、ボウイは、いきなり私の口を吸いながら、その勢いで、私の肉を全部吸いこんでしまった。2/7

逃亡中に新しいケトルを5個買って、それで茶を飲もうとした首領は、「まず煮沸した熱湯でケトルを消毒してから、湯を捨て、もういちど煮沸した熱湯に、茶を入れろ」と手下に指示した。2/7

道路の真ん中を、中身が空気だけのかりそめの人々が大勢歩いていたが、私もまったく同じような、かりそめの人だった。2/9

官憲は、私たちを逮捕しようと待ち構えていたが、私らは別に悪いことをした覚えはさらさらないので、平然とその場に居直り、彼奴らにつけいる隙を与えなかった。2/9

橋本と名乗ったその男は、激しく降る雨の中を、ずぶぬれになって踊り狂っていた。2/10

「君はよく戦った。もうそれくらいでいいだろう。武器を捨ててそこから出てこい」という聞き覚えのある上官の声がしたので、私はたった一人で閉じこもっていた塹壕から、のっそりと、まぶしい光の中へ出た。2/11

雨宮氏は、彼が大切にしていたルイ14世風の、華麗にして重厚なデザイン画を、ことごとく売り払って出家した。2/12

「君のパンツが、また濡れてる。お気の毒だね」と慰めたら、そいつは「そんなこと、お前の知ったことか」といきなり逆上したので、ついかっとなった私は、彼奴を殴り殺してしまった。2/13

プロのカメラマンが、私のその「万感の思い」というやつを撮影したいというので、私は大いに戸惑っていた。2/14

或る男が、銀の取っ手を世界最高速度で製造することに成功したというので、その町工場ではささやかなお祝いをした。2/15

この男は大物なので、当局はしばらくは拘束せず放置していたのだが、洞窟の中で生活を共にするうちに、私はその人物の重厚な存在感に圧倒されるようになっていた。2/16

半ズボン姿の息子と、山際に建つ高層マンションの階段を自転車を転がしながら、上へ上へと登っていくと、てっぺんで行き止まりになった。ここで引き返そうと、車輪を戻そうとしたとき、いきなり息子が、ひらりと身をひるがえして空に飛び出し、地表にどすんと叩きつけられたので、驚いて見守っていると、しばらくして元気に立ち上がったので、やれやれと胸を撫で下ろした。2/17

その男は、みなから嫌われていたので、こそこそと立ち去っていこうとすると、みんなは口を揃えて、「せっせっせえーのよいよいよい。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」と大声で歌いだした。2/18

その歌は、「あいつは人からお金を借りても、決して返さない。その癖ションベンしてると早く出せ、早く出せと催促する変な奴。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」というような内容だった。2/18

夜、小便をしようと講談社の編集部に立ち寄り、いつもの便器の前に立ってズボンを下ろそうとしたら、いつのまにか隣に知らない男が立っていて、「やあ軽薄短小君、君はなにをしごいてこれからなにをしようというの」と歌い出したので、私は出なくなってしまった。2/19

するといつのまにか紛れ込んでいた女子が、「そういうあんたこそ、女の前で裸になったら、なにもできないくせに、偉そうなことを抜かすな。ボケナス」と罵ったので、くだんの男はすごすごと便所を出ていった。2/19

それから私は、広大なキャンパスの中で途方に暮れていた。昔一度大学に合格していたにもかかわらず、事務所で手続きするのが面倒臭くなって、そのまま郷里に戻ってしまったことがあったが、今度こそちゃんと入学しようと心に決めて、朝から歩きまわっているのである。

しかしなんという人間の多さか。人波に酔って疲労困憊した田舎者の私は、しばらくベンチで寝転んでいたが、急に空腹を覚えたので、よろよろと立ちあがって、学生食堂に行ってランチを食べようと思った。

あらかた喰い物は無くなっていたが、食堂のおやじさんが親切な人で、「ランチは終わったけど、残り物なら出してやろう」と言ってくれたので、ほっと一息ついた。するとおやじが、「ところであんた、これからどこへ行くの?」と私に尋ねた。

「医学部の大学院で入学手続きをするんだ」と答えたら、「なら飯どころじゃない、すぐに行かないとヤバイ」と脅かすので、一口も出来ないまま再びキャンパスに飛び出す。人に聞き聞き走りまわって、ようやく大学院の事務所に辿りついた。

ところが事務所のおばはんは、「手続きはもう終了したけれど、午後4時半からパーテーがあるから、そこへ行って学部長に頼めばなんとかしてくれるかもしれないよ」という。「場所はどこだ?」と聞いたが、「それは分からない」という。喉は乾くし、腹は減るし、頭はクラクラするので、もう諦めて下宿へ帰ろうかと思ったのだが、田舎の両親のことを思ってもう一度がんばろうと思った。2/19

勤務しているお笑い会社で、初めて映画をつくることになり、参考にするためにみんなで大阪のアチャラカ物をみた。会長がみんなの感想を聞きたいというのだが、誰もなにも言わないので、私が「作るとすれば、非上方的で洗練されたユーモアのある映画ですな」といったら、「そんならお前が監督をやれ」といわれた。2/20

わが社の会社案内カタログがやっと完成したというので、手に取って開いてみたが、はじめのほうに4/6という数字が印刷してあるだけで、中身は真っ白だったので、社員は呆然としてペラペラページを繰っていた。2/21

寿司屋で野菜寿司を注文したら、店主が「今日はなにもないから、お前さんの右足を折ってくれないか」というので、折って差し出したら、それを美味しい天ぷらにしてくれた。2/22

世界中が困窮したので、我が国でもそれに準じて貧富の差が著しくなってきて、両階級は事あるごとに大殺戮を繰り返し、格差どころか人口そのものが激減してきたので、万やむを得ずお互いに妥協して、背中合わせにくっつきあうようになってきた。2/23

貧者たちは、冨者が所有するあらゆるビルや住宅の内部に勝手に侵入するようになり、野球場やサッカー場、とりわけ企業の会議室で終日ごろごろするようになったので、冨者のビジネスマンは、彼らの隙間を縫って打ち合わせするほかなかった。2/23

朝の4時頃に私の声が聴こえた、とリョウちゃんがいう。「そんなはずはない、その時間は私は眠っていたよ」というと、「かわかわの耕ちゃん!」と叫んでいたという。どうやら寝言が電波で鎌倉から浦和まで飛んで行ったらしい。2/24

ジコチュウで不規則発言を繰り返していた歌手が、ついにイオニアレストを退社したので、社長も社員もほっとした。2/25

修学旅行の夜にホテルのトイレに行くと、小便器があまりにも高い位置についているので、チンポコが届かない。ふと便器の下を見ると、点点と血糊がついており、人間だか鳥獣だかよく分からない目玉や肉片も散らばっている。2/27

これは駄目だ。小便どころではない。早く自分の部屋に帰ろうとするのだが、ホテルの廊下は真っ暗闇で、どこにあるのかも分からない。2/27

桐野と2人で巨大なクマと戦っている。最初は私が黒クマで、桐野が白クマだったが、いつのまにか相手が入れ換わり、私が鍬を白クマの頭にぶちあてると、真っ赤な鮮血が迸り、脳天の白い骨が見えたので、私は急に白クマが可哀想になった。2/28

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

引越しをした。現地につくと段ボールから出された荷物が全部家の前に並んでいる。驚いた。机も椅子も本もピアノもお皿もまるでその空き地が居住空間であるかのように配列されているので、パソコンに向かって日記を書いていると、雨が降って来た。3/30

島崎藤村の身内の何回忌だというので、その生地を訪れた私だったが、そこは山奥の薄が茫々としげる草原の真ん中の一軒屋で、まわりには誰も住んでいなかった。平屋の八畳間には大きなテーブルだけがどかんと置かれていた。3/29

黒光りがする頑丈な古材のテーブルには、私の右に見事な白髪の島崎藤村、まん前には壮年の森鴎外、左にはまだ若さが残る夏目漱石が座っていたが、彼らの顔は逆光でよく見えない。藤村の手には子供の作文か悪戯描きのような紙片があった。3/29

「君は何駅で降りたのかい」と尋ねると、鷗外が「某駅だ」と答えた。それぞれ違う駅からここへ来たらしい。すると藤村が、「なるほど漱石君は一つ先の駅を降りてまず墓参りをしてからここへやって来たというわけだ。そういうコースがあるとは私も思いつかなかったな」といって愉快そうに笑うのだった。3/29

その町の寄り合い所には、意見を異にして敵対する2つのグループ全員が、手に手に武器を携えて結集していた。はじめのうちは荒あらしい言葉の応酬だったが、誰かが誰かを殴ったのを皮切りに、たちまち白刃がきらめき、弾丸が飛び交う阿鼻叫喚の巷と化した。3/29

集英社やマガジンハウスの編集者が集まって、なにやら懸命に企画案をプレゼンしているのだが、おびに短したすきに長し、で行き詰った私たちは、テーブルを離れて午後のコーヒーを飲みにいった。3/26

後楽園ホールで開催される「ばちかぶり」の雲古ライヴに行こうと、彼女と一緒に水道橋の改札口を出ようとしたら、三角形の頂点にあたる場所に、黒メガネをかけたチンピラが立ちはだかって通せんぼうをするので、一発でノシてやった。3/25

西武グループの御曹司のはずなのに、テレビや週刊誌でしか知らない立派な顔をした堤一族が勢ぞろいした大会議の中で、私は蒼ざめた顔付きで黙り込んでいるしかなかった。3/24

大震災のために横倒しになった路線バスが、公園の中に倒れ込んでいたので、カルテットのメンバーである私たち4人は、その内部の狭い空間を活用して、練習したりミニコンサートを開いたりしているのだった。3/23

地下鉄に乗ろうと下降していくと、道はまるで大蛇の巣穴のようにどんどん大きくなり、また丸くなって地下へ地下へと降りてゆく。不安に駆られた私は携帯を掛けたが通じず、仕方なくほぼ垂直に落ち込む真っ暗な道を落ちていった。3/22

ある会社に飛び込み営業を掛けて、出てきた若い女性社員の下着を脱がせて、その場でなにしようとしていたら、アメリカ人のおっさんが「スミマセンガ」と道を聞くので、彼女とつがったまま廊下に出て、「あっちだよ」と教えると、「サンキュウ」といって立ち去った。3/22

医学生の私は、男性の死者たちのペニスを解剖して、そこに刻まれている彼らの末期の言葉、すなわち「金言」を書きとめ、遺族に教えると共に私の博士論文の糧としていた。3/22

私は歌舞伎のチケットを買いに来たのだが、大きなビルヂングのどのフロアに売り場があるのか分からず、エレベーターが止まるたびに外へ出ようとするのだが、すぐに扉が閉まってしまい、結局買うことが出来なかった。3/21

善行を施す度にその人の評価は高まり、彼が住んでいる石川島を見下ろす超高層マンションの彼の住処は上へ上へとあがってゆき、とうとう最上階のペントハウスに到達したのだが、今では避雷針の直下の小屋に住んでいる。3/21

敵鑑からの集中砲火を浴びて、30数発の砲弾に見舞われながらも、私が搭乗している戦艦は、無数の損傷を蒙りつつも奇跡的に運行に支障はなく、毎時20ノットで疾走しているのだった。3/20

ファシストたちが罪なき市民をほうりこんでいる収容所の中で、私は普段の習慣を改めることができず、取締官の目を盗んで、夜な夜なぐうたら日記をパソコンにアップしているのだった。3/20

小中高大学と、何も勉強らしいことをしないで卒業し、会社に入っても同じような状態で呆然と過ごしていたが、そこを追い出されてからは、少し勉強を始めたけれども、それがとんでもなく遅すぎたのだった。3/19

自殺未遂の青年に、少年の私が「どうして死のうと思ったの?」と尋ねたら「いずれ君にも分かるさ」と答えたが、まもなく死んでしまった。やがて私が彼と同じ年になった時、私も自殺してしまったのだが、その時になって、初めて彼の言葉の意味が分かった。3/18

午後6時ごろになってようやく電気が来たので、店の照明を調整したり、電気仕掛けのPOPを動かしたり、BGMを掛けたりすることが出来るようになった。3/17

肝心の商品がよくないうえに販売網に破綻が生じているというのに、宣伝広告を強化すればこの危機を突破できると説くM部長の頑固な能天気を嫌って、私たちは全員で休暇を取ってピクニックに行った。3/16

震災による停電がようやく回復してきたので、それまで天井を向いていたショップの照明の向きを変えて真下にしたら、売り場の雰囲気が明るく楽しいものへと一変した。3/15

夜遅くまで残業をしていて腹が減った。中野坂上の駅前広場のようなところの店でなにが出来ると聞いたら、カレーライスとランチの炒め直ししかダメだというので屋台のラーメンを探すことにした。3/14

大名行列の先頭を歩いていた侍が、突然大刀を抜きはなって、後続の武士たちを斬りつけながら、中央の駕籠に向かって殺到してくる姿が目に入った。3/13

今日明日のオケの演奏曲目が、ハイドンとモザールの後期交響曲をそれぞれ3曲だというのに、指揮者は現れず、なんのリハーサルもないので、私たちはだんだん不安に駆られてきた。3/12

その若い女性は英国大使館の窓口担当だったが、彼女が黙って右側の席に座ると、左の席から窓の外に出てくる英国国旗が、まるで音声付のロボットのように、英国の観光案内を始めるのだった。3/11

朝日新聞の歌壇に自作の短歌が掲載されているかどうかを確かめようと、作品を書き込んだパネルを持った私は、往来を通行する人々に見境なしに尋ねたのだが、みんな怯えた表情で逃げ出すのだった。3/10

去年は17歳、今年は同じイタリア人だが20歳の女性と弧島でひと夏を過ごすことになった私だが、他にすることもないので、朝から晩まで幾たび性交に及んでも、ついにそれを最後まで貫くことができないのだった。3/9

東京ドームでファッションショーがあり、イケダノブオと一緒に見物していると、隣の席の男が「ちょっとやってみませんか」と言って、リトマス試験紙のようなものを持ってきて私の胸に張ると、「あなたガンですね」と宣告したので、愕然とした。3/7

なんでもさる引取り屋が息子を引き取ってくれることになったので、準備万端を整えて業者が来るのを待っている間に、彼は何杯も何杯もカレーライスをお代わりするのだった。3/6

鈴木、杉本の2人のリーダーに導かれた我らのチームは、勝抜きゲームに勝利した。なんでも御馳走してやるというので、今では貴重品となったウナギのかば焼きに舌鼓をうっていると、いつのまにか奇麗どころが膝の上に乗っているのだった。3/5

次から次へと山海珍味が目の前に並んだが、私の胃腸は最新のハイテク技術でこんとろーるされていたので、どんどん退治していった。3/4

中学校の中川という女性音楽教師の下宿に招かれた国語教師の私は、彼女がショパンの「小犬のワルツ」を弾いている背後から抱き締めて、その張り切ったお椀形の両の乳房をゆるゆると揉みしだいた。3/3

雪は次第に解けはじめていたが、まだ人間ピラミッドは確固とした形態を維持していたので、私はその一角に潜り込んで次の大震災に備えることにした。3/2

私は貧しくてお金がないので、さる富豪の家の前の道路の下にある地下室に住まわせてもらっていたが、そこは日の光こそ差さないが、広くて静かで、なかなか快適な環境だった。3/1

 

西暦2014年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

テレビ局に入社した私は、上司の命令で全国津津浦浦を経巡ってその土地に生きる人々の暮らしぶりを紹介する番組を作り続けていたのだが、東京本社の人間は、もはやそんな私のことなど忘れ果てたらしく、何年経っても音沙汰無しだった。4/30

暴力団の武装勢力と対峙していた僕たちは、だいぶ消耗していたが、ふだんはあんなに柔和な高山公平くんが激しくアジっているのを聞くと、「よーし、ひとふんばりしてみようじゃないか」と、腹の底から勇気が湧きおこってくるのだった。4/28

久しぶりに会社の広報誌を見たら、全然聞いたこともない連中が、会社とも世の中とも関係のない不可解な記事や対談やアホ莫迦な感想を吐き散らしているので、担当の前田さんにその訳を聞いたら、「上司が狂ってしまったからどうしようもないの」と言って項垂れた。4/27

広告のコンセプトも全体のデザインもコピーの書体と級数までもが決定しているというのに、肝心要のキャッチフレーズがまだ出来上がっていないので、関係者全員がコピーライターである私の方を見詰めているのだが、まったくのノーアイデアなのだった。4/26

彼らの物づくりのレベルはかなりいい加減で、個性も創意工夫も感じられなかったが、そのときは私はあえて駄目だしをせず、鷹揚に若いスタッフの労をねぎらった。4/25

私たちが所属していた自由市民軍は、みなおいぼればかりだったので勝手気儘にふるまったために、正規軍の連中は眉をひそめていたのだが、いざ戦闘となると楽しみながら戦い、しかも強いのだった。4/24

ボロボロの飛行艇を修理しなければならない。たくさんの硬貨を入れて大量のコンクリートを機に注入すると、いっぺんに崩壊する危険があるので、わたしは100円玉をちびちび投入しながら、愛機を慎重に修理していった。4/23

昨日診察してもらった病院が地震で倒壊したというので、知人の安否を確かめにいったところ、運悪くまたしても崩落が起こって瓦礫の山に呑みこまれてしまったのだが、そんな私を助けだしてくれたのは昔の恋人だった。4/21

イケダノブオが「パリに持ってゆきたいのでいい映画を推薦してください」と頼むのでいろんな映画を見まくったがない。知り合いの若い女性がある中国映画を推薦するのでこれにしようかと思ったが、それは彼女を思いのままに操っているリーチンチンの仕掛けと分かった。4/20

フォノグラムの尾木さんが、いきなり悪魔の歌を歌い始めたので驚いていると、誰かが「あの人は最近悪魔に心臓を抜かれてしまったので、ああやって本物のオペラ歌手を目指しているんですよ」と教えてくれた。4/20

商品企画室のA子と打ち合わせしていたら、彼女の上司の山口君がいきなりA子と企画室のなかの噂話をはじめた。しばらく我慢していたが延々とやっているので、「おいおい、君たち失礼じゃないか。こっちが打ち合わせしていたんぜ」と文句を言ったが、2人とも知らん顔だ。4/19

横町に面した家の奥の部屋には、着物をきてサルカニ合戦のお面をかぶった若い女が、左端でぶらぶらしながら、じっと往来を見詰めている。部屋には小さな裸電球がついているだけで、1つの家具もなかった。4/18

「私は広告を出す代わりに、売れない画家の絵を買っているんですよ」と、その右翼の総会屋は小学館のロビーで豪快に笑うのだった。4/17

吉兆の残飯を毎日食べて飢えをしのいでいた松田君は、遂に奴隷の身を脱して自由の天地に羽ばたいたのだった。4/17

リュクサンブール駅前のカフェに入ったら、昨日スイスで会ったばかりのゴダールがコーヒーを飲みながら独語の原書でギョエテを読んでいたので「ムッシューゴダール、昨日は大変お世話になりました」と挨拶すると、突然奇妙な東洋人に名前を呼ばれた彼は、一瞬怯えた顔つきになりながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。4/16

死ぬべき日を迎えていた私の前に、突然蓮池君が蹌踉とした姿で現れて、「広葉の」という大著を世に出したので、これを読んで感想を述べてから死んでくれ、と嘆願且つ強要するものだから、とうとうその日は死ぬることができなかった。4/16

事故死した若林君のバラバラの死体は、4つの茶色い断片になって保存されていたのだが、それらがひとつずつ白昼の下に引き出され、バチンバチンと組みたてられていくと、若林君はたちまち生者となって蘇った。4/15

巴里に滞在していたら、息子の知り合いだという触れ込みで、全然知らない3人の若者が、入れ替わり立ち替わり私の部屋を訪ねてくるのだった。4/14

1985年に私の新居が出来たが、それは1本の巨大な楠を斧で切り倒し、鑿で刻んで作られた手造りの家だった。4/14

南蛮から鉄砲が渡来した種子島に、西洋服の第1号も渡来していたというので、それを見物に行ったら、船着き場の浜辺にお洒落な白いケープが置かれている。記念に持ち帰ろうとしたら、某アパレルメーカーが既に買い取った後だった。4/13

マーラーの交響曲第5番のすべての音符を、広大な正方形の舛の外に押し出すゲームの最終勝利者は、奴隷から解放されるというので、私たちは闘技場の中を必死に駆けずり回った。4/14

30坪ばかりの狭い敷地に、我が家のS型と隣の藤井家のF型の2つの住宅ユニットが相次いで到着したのだが、お互い勝手に組み立てを開始したので、もはやなにがどこやら収拾がつかない大騒動になってしまった。4/12

「原ジョージ」という名義でアメリカ企業の株券を持っていたら、どういう風の吹きまわしか無茶苦茶に値上がりして億万長者になってしまったので、大阪支店の仲間たちがお祝いしてくれることになった。4/11

超有名役者が出演するというので人気沸騰の歌舞伎公演のチケットを買おうと、私は夜も寝ないでパソコンの前に座り込み、ネット販売の時間がやってくるのを待っているのだった。4/11

アメリカでアメリカ車を買おうとしていたら、セールスマンが「まずクレジットカードを自分に預けろ」というので「冗談じゃない、お前はいったいどういう奴なんだ」と押し問答しているうちに、朝になった。4/10

自転車で保谷ヶ谷まで行こうとしたのだが、横浜駅の近所の小汚い一角で、路はおろか方角すら分からなくなってしまった。仕方なく自動販売機に自転車を寄せかけていたら、子供たちがやってきて、「ジュースを買うからどけてくれ」と騒ぐのだった。4/9

佐藤愛子さんが愛猫の青木愛子を亡くして涙にくれているので、「猫じゃなくて犬ですけどうちの愛犬ムクを霊界から呼び出してお貸ししましょうか?」と提案したのだが、にべもなく却下された。4/9

偉大なるお笑い芸人が亡くなったというので、朝から晩までテレビは追悼番組をやっているのだが、誰ひとり「笑っていいとも」とは言わなかった。4/8

NHKのアホ莫迦会長が、「朝9時半に君が代を斉唱しない者は全員解雇する」と宣言したので、これに対抗すべく、わが社の会長は「会社でいつもソーラン節を踊っていない者は、即解雇する」と宣言した。4/8

イタリア語なんて全然分からないのに、ヴェルディのオペラの字幕製作を依頼された私は、公演が終了するとただちに収録映像を再生し始めたが、そこへ指揮者が飛び込んできて、「腹が減ったから飯を食いに行こう」と手を引っ張るのだった。4/7

ABそれぞれ50人からなるチームが、完全原始人生活に挑んだのだが、3か月後に現地を訪れてみると、両チームともほとんど生き残った者はいなかった。4/6

リゾートホテルの労働者たちは、大幅賃上げを要求して無期限ストライキに突入していたのだが、仲間割れが起こって殴り合いも始まってしまったので、団結がぐずぐずに崩れ去り、お決まりの敗北を喫してしまったのだった。4/5

道路混雑を規制する会議に出たのだが、会議がポンポコ狸踊りを始めてしまったので、とうてい結論など出やしないのだった。4/5

「こんなに広告の出校があるんだから、パブも宜しくね」と誰かがリクエストしたら、婦人画報の戸川さんは「ハハハハ、また冗談ばっかり」と例によって豪快に笑い飛ばすのだった。4/5

全身黒ずくめのそのオバハンと、ちょっとしたことから言いあいになってしまった。会合が始まって司会者が挨拶しているというのに、そのオバハンが後ろを振り向きながら、また私の悪口を言いだしたので、私も応酬を開始すると会場は騒然となった。4/4

どこかの寄り合いでおいらは連れの席を取っていたのだが、あとからやって来たヤクザが「そこは俺の席だ」と難癖をつけやがったので、最初はしたでに出ていたおいらも、すぐに切れてしまって、彼奴をあっというまにボコボコにのしてやった。4/3

図書館に行ったが、平日の真昼間だというのに、誰もいない。仕方なく「誰かいませんか?」と大声を出すと、暗い奥の方から割烹着をきたおばさんが出てきたので「お茶を下さい」と頼んだらハイと答えたきり、いつまで経っても姿を現さない。4/2

軍事演習という名目で隣国のアパリティアに進駐したわが軍団は、ここで進撃をとどめるべしという慎重論と、さらにアンゴラ国まで東進すべしという積極論が激しく対立したために、進軍を停止せざるをえなかった。4/1

 

 

 

dirty 汚れた

 

もう荒井くんはNYに着いたかな

おととい
吾妻橋の薮で

荒井くんと

蕎麦を食べた
ビールも飲んだ

この前は
電話で

お前もダサい詩人だなあ
と言われた

カッコつけてんじゃねえよ
キモイ書なんか書いてんじゃねえよ

とも言われた

休日に
海辺の塵の中から貝と流木を拾う