カントリーロード

 

今井義行

 
 

カントリーロードは あまえのみち
帰りつく場所を 持てない人たちは
いつの 時代にも いつの 街々にも
数え切れないほど居たことでしょう

──── そんな方達にはごめんなさい これが最後かも、と
わたし(1963年生れ)と妹の暁子(1966年生れ)は お互いに都合をつけ
元気なうちに82歳の母(1934年生れ)と 三人で会うことにしたのです

わたしも暁子も 敗戦直後の傷跡等知らず 半世紀以上 過ぎました
日本が復興したのは‘50-60年代の人が よく働いたから、と母は言う
それでも兄・妹にもいまでは苦笑するしかない“被災”は多くあった
世界情勢ばかり語られる でも個人情勢の方が机上の論理に墜ちない

愛知県のTOYOTA の関連工場に勤める暁子は下請として
振り回されて有給休暇があっても滅多に使えないのです
彼女とは 7月初めからメールのやり取りを 何度もした

≪ 必ず都合をつけてほしい ママが、元気なうちにね ≫
≪ 熊本の地震で TOYOTA の関連工場は 打撃を・・・・・ ≫
≪ お義兄さん、工場長なんだから 何とか都合つけて ≫
≪ ママ、そんなに悪いの? 電話では いつも元気だよ ≫

─── 会う予定日は2016年8月14日から17日まで この詩のこの部分を
書いている今日は 7月10日です わたしはPCのまえで 想像しています
参議院選挙の日で日本が戦時下に戻るのではと懸念されている朝の想像です

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

8月のお盆休み 13:00過ぎ
東京発・JR 東海道線を降りると 改札から タクシー乗り場までの
ペデストリアンデッキの照返しには湘南海岸から吹く潮風の匂いが
いつもながらに 紛れ込んでいた 真夏の午後 藤が岡丘陵団地までの
道のり── 郵便局本局のある 交差点の渋滞は相変わらずだ
国道・町田線沿いに サーフボードを載せた車が 長い列を作っている

≪ ママ、そんなに悪いの? 電話ではいつも元気だけど≫
≪ いつ、亡くなっても不思議ではないよ 気丈で楽観的な人だから
82歳まで生きてこられたんだよ ≫
≪ 息子が就活中だからなあ でも高校の友達に会える≫
≪ 本人の前では普通に振る舞えばいいけど ここだけで
決めておきたいことがある お葬式についての話だよ ≫

妹の暁子は愛知県知多半島から名古屋から小田原までは新幹線に
乗り 小田原から東海道線 タクシーに乗り換え 少し遅れて着く

カントリーロードを いまだ たどれる
わたしたちは 幸せだとおもう
── 片肺を切除して60年以上 4年間の入院をしたという母は
残った肺の機能も10%となり肺炎に罹ったら即ち「死」なのです

≪ お葬式?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ≫
≪ お葬式!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ≫

「ただいま」と ドアを 開けると
1Fなのに 江ノ島展望台まで見渡せる せまい庭から
朗らかな 「おかえり」が 聞こえた

≪ ここまで生きられたから 思い残すことは無いって
葬式なんて お金をかける必要無し弔問客も要らない
通夜にはあたしの好きな“徳永英明さま”の唄を流し
続けてくれること それから 火葬のあとは50年以上
棲んだ 藤沢の 江ノ島の海に お骨を撒いてくれれば
いいから パパといっしょの今井家の霊園には絶対に
入れないでよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ と、お願いされてる ≫
≪ あら、結構 いろいろな条件付きのお願いだね、お兄ちゃん ≫
≪ う? そういうとこもある 取り合えず “江ノ島に散骨”って
いうのは無理 葉山に撒いたり伊豆に撒いたりそういうサービスを
やってる葬儀屋はあるけど 俺達で骨をぎこぎこ挽いて粉末にして
江ノ島に撒いたら 遺体遺棄になるってさ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ≫

母は あちこちに散らばり落ちた 盛夏のはなびらを
箒で綺麗に纏めていた 藤沢に棲んで よく働いたね

双つの脚の筋肉が 日増しに弱ってきて
遠くまでは 歩けないの、と言うけれど
杖は要るものの 背は曲ったりしてない

外見は 元気そうにみえるので 「若い、若い」と
驚かれるそうだけれど朝目覚めて一番に思うことは
≪ おや、今日も生きてる!≫と いうことだと言う

わたしは はじめて知る 味のように 食卓に腰かけて
少し遅めの昼食にと──・・・・・林檎と 神を食べたりした

林檎は太陽を象徴する実 神、というのはバターのこと
バターは天の恵みの生乳の良質な栄養を凝固させた神の化身なので
それをトーストに塗り拡げて食べることは心身の浄化だ

母の人生がもうしばらくしたら
閉じるのかと思うと
母が戦時中 9歳で孤児になって どれほど泣いて
現在(いま)に至っているかと思うと 不憫でもあり
野生の逞しさも感じ尊敬する 二人の子を授かった
ことはラッキーで 父と結婚したことは「貧乏くじをひいちゃったわねぇ」と
父の実姉に心底慰められるほどアンラッキー!!
だと言って憚らない故に父についてはここでは触れない

わたしはTシャツと短パンになって しばらく母と四方山話をしていた

ところで、母より喧嘩っ早い人をわたしは知らない
ドコモショップの待合室で「いつまで待たせんだ、即刻店長だせ!」
ゆうパックの集配の態度に「年寄りと思って上から目線すんなよ!」
京樽のおせちのモニターに「伊達巻がとーっても不味かったです!」
デイサービスの隣席の人に「あたしのすることに口出すなウザい!」
そして あらゆる親戚とは口論してきっぱり絶縁
ですから我が家は 母の大立ち回りで 清々しいほどの核家族なり

相撲なら白鵬 テニスならジョコヴィッチ フィギュアなら
羽生さん そんなレヴェルの勝負師なのです

ストレスフリーの体質なので そりゃ日々思い残すことはないよな
・・・・・・その気質を そのまま受け継いでいるのが
暁子だということを 忘れていたのは 迂闊だった

16:00過ぎ インターホンがなって わたしが出たら
「あたしー、ただいまー」
ドアを開けると 勝気そうな色黒の50歳が立っており 靴を脱ぐや
母のいる居間に どかどか 入っていって、

【お兄ちゃんから聞いたわよ ママ、死にそうなんだってね?】

あわわ、「一番 食べたいものは何」と 尋ねる前に
そんな 展開に ならないだろうな・・・・・!
いまこの詩のこの部分を書きながらありうるシチュエーションだと
戦慄が走りました 抒情的に過ごすはずの、再会はどうなるのかと

カントリーロードは あまえのみち
帰りつく場所を 持てない人たちは
いつの 時代にも いつの 街々にも
数え切れないほど居たことでしょう
なんて書いたわたしの詩を読んだら

母と 妹は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
腹を抱えて大笑いするんだろうなあ

「甘えんじゃないの、自立してちょうだい」
と 杖を ふりかざしたりしちゃってさあ