第2章 丹波夏虫歌~ウナギのQちゃん
佐々木 眞
「さあ、真っ黒なウナギのやつが、ヤナの中に入っているかな……」
ケンちゃんは、そばに誰かが立っていたら、絶対に聞こえるんじゃないかと心配になるくらい心臓が強く鼓動を打つのを、全身で感じながら、石ころと早い水流が邪魔になって、きわめて歩きにくい川瀬を、素足のままで、一歩一歩あるいていきます。
息をこうグッとひそめて、仕掛けヤナに近付いていく。
そして1、2、3でヤナを引っ張り出して、思い切ってその中を覗きこむ……
でも、たいていは穴の中は、水にほとびて淡紅色になったテッポウミミズだけ。
雑魚一匹入っていないヤナの中を、ケンちゃんは、顔を水面すれすれにくっつけて、何度も何度もよーく見たのでしたが。
結局ウナギが獲れたのは、その夏綾部に滞在した1週間のうち、たった2回だけでした。
生まれて初めて、ケンちゃんが、まるまると肥った真っ黒なウナギをいけどった日のよろこびを、何にたとえたらよいのでしょうか?
そう、それはケンちゃんが、生まれて初めて国蝶オオムラサキ、学名Sasakia charondaを捕虫網にばさりと入れたときの、まるで飛翔中のツバメをなにかの間違いで捕獲したときのような、息を呑むような充実感としか比べようがありませんでした。
その折に、ケンちゃんが感動のあまり唄った歌は次のようなものでした。
加藤清正
お馬に乗って はいどうどう
あとから 家来が
槍持って はいどうどう
体長2メートル、直径20センチはあろうかという天然ウナギは、おばあちゃんのアイコさんの手でじょうずにさばかれ、特製のタレをまぶして、丹念に焼かれて、その夜おいしいカバヤキにされちまいました。
が、しかし、ケンちゃんはどうしてもそれを食べようという気が起こらず、兄貴のコウちゃんが何倍もお代わりして、まるで子豚のようにムシャムシャ食べるのを見ているだけで、お腹がいっぱいになってしまいました。
ケンチャンは、ほんとうはウナギをカバヤキなんかにしないで、いつまでも自分の手元に置いておきたかったのでした。
バケツの中に入れて、ヌルヌルそしたその感触を楽しみ、魚くさいその臭いをかぎ、愛犬ムクのような顔をしたそいつに、チュッとキスをしてやり、そのあとでまたバケツの中に返してやり、そんな風にして、いついつまでも遊んでいたかったのでした。
だから2回目にヤナにウナギがかかったとき、ケンちゃんは「こいつは絶対にカバヤキにはさせないぞ」、と固く決心したのでした。
でもそのウナギは、カバヤキになってしまった最初の大きなやつと違って、とてもウナギとはいえないくらいちっぽけで、細長いウナギだったのです。
ケンちゃんはこのウナギをはじめて見たとき、ヤツメウナギかちょっと太めのドジョウかと勘違いしたくらいでした。
そのうえこのスリムなウナギときたら、ケンちゃんが両手でむんずとつかまえると、まるでマゾヒストのヤツメウナギのように、哀れな声で「ヒーヒー、キュウキュウ」と悲鳴を上げるのです。
そうしてそのウナギは、絶望と悲哀に満ちたまなざしで、ケンちゃんのつぶらな瞳をじっと覗きこむようにするものですから、なおのことケンちゃんは、このウナギを殺したり、食べたりできなくなってしまったのでした。
「お前はキュウキュウ泣くからQちゃんだよ」
そう命名してから、ケンちゃんは、Qちゃんの小さな口にチュッとくちづけしてやりました。
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