松井宏樹
正気を保っていようとすることすら
あやうい世の中です
朝から晩まで情報の奔流にさらされ
つぶやきは炎上
実はなんでもないことが攻撃とみなされ
失敗は許されない
触れられる世界と
触れられない世界とのはざまに
ロープをかけて首を吊る若いひとたち
世界は手のひらにおさまるのではなく
ほんとうはもっと大きくて広くてわけわかんなくって
まだだれも知らないことに満ちていて
まだまだ会ってない人もたくさんいる
検索しても出てこないことが
存在しないというわけではないという当たり前のことすら
置き去りにされていく加速度のなか
ミチやミライといった手付かずの手放しの領域を
四次元的動物として生きる私たちみんなが
享受できるという自然の摂理を信じて
あたしはまだかろうじて
そうやって正気を保ってる
体育の女教師は
相手コートに素早くボールを落とすことを授業では禁じた
これは試合ではないのだからと
あなたとのやりとりを
わたしは楽しみにことばを放つ
でもおかしなものね
やわらかに放ったそれが
スマッシュになって
わたしのからだにつきささることの繰り返し
ノックするその扉のなかに
あなたがいても
わたしのためには開かれない
そしておそらく
苦しみ惑うときの助けの呼び方を
そっと差し入れたい
名もなきものからとしてなら
その扉の隙間くらいには
きっと、たぶん、おそらくはと
見上げるこの辺りの冬の空は
痛みもつきぬけてつつんでいくよ
どんぐり食べると
どもりになるってさ
しゃっくりが出そうだな
食べたことないけど
風邪は長いことひいてない
馬鹿になったわけじゃないよ
たぶん
会社やすみたくて
わざと風邪に負けていたんだ
あとがつらいから
敵がまだ弱いうちに
倒すことにした
勝ち癖がついて
いまは負け知らずさ
お風呂は入っちゃだめだとさ
でも
入った
清潔にして
あったまって
気持よく疲れて
たくさん眠る
というのが
コツ
あとは
あれだ
みかんを食べなきゃ
どんぐりは
食べなかった
食べなかったけど
どもりになったよ
大人になって
十分に饐えてくると
自分がなんでも知っているかのように
人は誰でも思いがちになってくる
慎み深くあれ
謙虚であれ
などと道学者めいたことを
ひとくさり言ってみたいと思うのではなく
そんなふうに慢心していられるほど
波風立たない入り江に暮らしていられるのだろうか
その証拠だろうか
などという印象を持ったりするだけのこと
ある大学の教員室に居たら
日本語の初老の女性の講師が
短歌について他の先生たちにしゃべっているのが聞こえてきた
他愛もないおしゃべりに過ぎないのだが
授業で短歌が出てきたのだろうか
あれがどうの
これがどうの
いろいろしゃべっていて
他の学科の先生たちが
「まぁ、そうですか」
「そんなもんですかねえ」
などと聞いている
わざわざ聞き耳を立てるほどの話でもない
そのうち
北原白秋の名前が出てきたので
ちょっと
耳を澄ましてしまった
「白秋も短歌をちょっと作っていたんですよ」
そんなことを言っている
白秋が作った歌のあの量を「ちょっと」と言うかねえ
と思う間もなく
「でもね、白秋の歌なんて、たいしたものはないんですよ」
とおしゃべりが続いたので
いっそう注意して耳を澄ましてしまった
「まぁ、歌人としてはたいしたことはなかったですね」
空0おや
空空空0おや
空空空空空0おや
空空空空空空空0ぎょ
空空空空空0ぎょ
空空空空空空空0ぎょ
この日本語の先生は
ひょっとして
アララギ派原理主義者かなにかなのだろうか?
それとも
独自の作風を確立なさった現代の大歌人ででもあらせられたか?
なかなかきっぱりとした白秋批判だが
いったいどこから
これだけの白秋ぶった切りの言辞が出てくるのだか
それにしても
怖いなぁと思わされるのは
あれだけの多量の歌を作った白秋を
言下に「白秋も短歌をちょっと作っていた」と断じてしまう
このノーテンキさ
あれらの歌に「たいしたものはない」と難じるにしても
「ちょっと作っていた」はないだろう
言えないだろう
そんな不正確なことは
正直なところ
わたしには好きではない白秋の歌がいっぱいあるのだが
それは彼の言語世界が好きではないということで
あれだけの多量の歌を生産し
あれだけの言語表現の力量をはっきり刻印したことまで
たやすく無視してしまうことなどできはしない
だいたい
世間であまり読まれてもいない
目を患ってからの
晩年の暗い黒々とした墨絵のような歌の世界は
齋藤茂吉の最上川詠に比肩されうるような高みに達してもいるのだし…
それを
この日本語の初老の女性講師は…
恐ろしいなぁ
と
ひたすら
思うのである
なにが恐ろしいのか
知らないということか
ちっぽけなナマクラな判断基準を肥後ナイフよろしく
いや
ボンナイフよろしく振りまわして
あちらこちら
評定し
断じ
批評して
何様になったかのように慢心することがか
たゞ
わたしは、あれ、嫌いです
と
済ましておけばいいのに
どうして人は
評するところまで行ってしまうのか
評定し
断じ
批評して
何様かにでもなったかのように慢心するところまで
行ってしまうのか
白秋については
むかしむかし
大学院で白秋を研究していたという女性と
つかの間
同じ職場で親しんだことがあった
秩父出身のその人は
いつも驚くほどのミニスカートで
まれに見るほどにムチムチした腿を
包むか包まないか
という具合にして出勤してきていて
職場は難関校受験の進学塾だったというのに
股の奥が覗き見えるような座り方を生徒たちの前でするものだから
男子学生がわたしたちに
「センセ、もうダメ、ぼくらイッチャウ…」
などと
不平とも
苦情とも
恍惚とも
逸楽の悶えともつかぬことを
話しにきたものだった
空0(ちなみに
空0(精子はじつはエーテル体なのであると断ずる
空0(トンデモオカルト説をこのあいだ偶然ネット上で読んだナ
空0(もちろん、これは「ちなみに」な話であって
空0(いま進行中の言語配列とはあまり関係がないんだナ
この女性はなぜだかわたしに好意を示すようになって
仕事の後でよく公園で話をした
その職場は埼玉県の北浦和だったので
その公園とは北浦和公園であった
空0(なんでだか
空0(この書きもの
空0(「であった」調になってきているナ
夜十時半や十一時頃までベンチで話したが
内容はその女性が見合い結婚をそろそろすることについてであったり
かつて大学院で研究した白秋についてであったりしたが
座っていると例のミニスカートがやっぱり腰の上にズレ上りぎみになるので
心おだやかならぬものがあるにはあったが
それでもヘンに陥落したりしてしまわなかったのは
彼女の髪の毛がやけに薄く
毛の一本一本の間がずいぶん開いていて
それがうまい具合のラジエーター役になってくれたからだった
わたしが短歌に興味があったものだから
過去に集めた白秋の研究資料を少しずつくれて
ついには白秋の肉声の朗読テープまで貰い受けることになった
勤め先が替わってからは
だんだん連絡が減っていって
ついに年賀さえ出さなくなったけれども
それも
この人のことを思い出すと
ムチムチした腿にひらひらの短か過ぎるミニスカートしか
思い浮かばないという事実に
どことなく
劣情の哀しみをしみじみと思わせ続けられたからで
まぁ
やっぱり
会い続けていたら
危なかったかもしれない
錨を下ろすべきでない御仁とは
どこかで
きっぱり距離を取る必要はあるもので
あるから
貰った白秋の肉声朗読は
なんだか
しゃっちょこばって
趣きも
面白みもなかったが
歴史的貴重品ということで
ずっと保管しておいた
手放したのは
詩人の吉田文憲さんから欲しいと言われたからで
あれは
文憲さんが詩集『原子野』を編集中の頃のことだった
あの詩集の原稿が送られてきて
手直しすべきところや校正をしてほしいと言われていて
こちらもずいぶん忙しい最中だったが
時間を割いてずいぶん深読みをしたものだった
吉増剛造さんが過去の詩人の肉声に特にこだわっていた頃でもあって
吉増さんとよくいっしょにいた文憲さんは
その影響もあってなのか
わたしが白秋の肉声を持っているというと
ぜひ聴かせてほしいと頼んできた
手渡してからしばらくして
考えてみれば
わたしとしてはあまり保管しておきたくもないものだったので
よろしかったら差し上げます
と伝えたものだったが
それ以降
文憲さんはあれを使って詩作をしたりしたのかしら
白秋のあの肉声テープとともに
ひょっとしたら
文憲さんに
あのムチムチの腿や短すぎるミニスカートの雰囲気までも
べったり
じっとりと
伝わっていってしまったのかも
と
今はじめて
思うに到ったのでござるヨ
なんとも
不覚であったノ
あなたが
横で ねむっているのに
よなかに なんども
叫び声をあげてしまって
なんども
じぶんの声でめざめた
朝は
からだがだるくて
起き上がれなかった
あなたは とっくに
ベッドをぬけだしていて
きのう
ひさしぶりに 前の
会社の人としゃべったからだろうか
昼ごろになって
いい匂いがしたから
食卓に座って
パジャマのまま
あなたが作ったチャーハンを食べた
ふたりで
ハムとねぎとたまごの入った
とてもシンプルな
チャーハン
香ばしくて美味しい
ご飯がすこし固めの
薔薇色の チャーハン
食べた
ハムとねぎとたまごは
今朝 コンビニで買ってきたって
あなたは いった
あなたは いってた
おそろいの
薔薇の 把手の スプーンは
むかーし
学食で盗んだって
ゆうべ わたしの叫び声で起きなかった?
たずねたら
気がつかなかった と
つぶやいた
おそろいの
薔薇の 把手の スプーンで掬って
食べた
とてもシンプルな
香ばしくて美味しい
ご飯がすこし固めの
薔薇色の
チャーハン
あ、泌尿器の問題
とつぜん 漏らしてしまったら
どうするの
心配で
そこだけは 触っちゃダメ 突っ込んじゃダメ
見ちゃダメ
そんなことするからには
そんなとこさせちゃうワケ?
ぜったい いや
だれが そんなことさせちゃうワケ?
わかんない きもちわるい
泌尿器の問題
あ、とつぜん
漏れてしまったことあるのよ
Compunction の
パ、に力を入れた途端
プレゼンで
お花柄のきれいなワンピース着て
きんちょうの あまり
パンツの中に ひとかけら
よかった
歩き回りながら ポタッと 床に落とさなくて
きれいなワンピースのメンツは保った
臭いは 落としてしまったんだろう
ボタッ、ボタッ、
お花柄のワンピースのメンツは保てなかった
あ、泌尿器の問題
きたないこと 汚すこと
ぜったい いや やめて
汚して 汚して あそこだけは
どこを? もうひとつの場所
そこは いい そこが いい
メンツなんか いらない
生まれたままのすがただもの
ぜったい して
まんなか
そこが きもち いいの
臭いは 匂い
あ、泌尿器の問題
※compunction 良心の痛み
タイトルはありません。クリシュナムルティの言葉の引用を冒頭に掲げたいと思います。
あなたが全注意力を集中する―あなたの中の全てを傾倒するとき、そこには観察するものは存在しない。存在するのは全的なエネルギーである注意を払っている状態であって、その全的なエネルギーは最高の形の知性である。(クリシュナムルティ)
やがて見えてくるもの。
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生きることは夢のごとし。
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極楽浄土などあるものか。
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死後の世界は、無い。
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いま ここに ある それがすべてである。
170920-DSC06802-3
当たり前って言えば当たり前なんだけど、
歌舞伎を見てると、
役者がしゃべってる日本語は、
今の日本語とちょっと違うんだよね。
違っていても普通に意味がわかる言葉もあって、
たとえば「お前」って言葉は、
間違いなく二人称代名詞なんだけど、
親だの店の主人だのといった
いわゆる目上の相手にも使うみたいなんだよね。
初めて聞いたときにはぎょっとしたけど、
あんまりよく出てくるもんだから、
もう慣れちゃったけどね。
今の言葉で「お前」って言う相手には、
「てめえ」って言うのかな。
あとさ、今ならただ「さようなら」って言うところで、
「左様なればお暇《いとま》致します」
なんて長ったらしく言っているのも
へーって思ったな。
それが縮まってわけがわからなくなっちゃったのかってね。
この間芝居見てて面白いなあと思ったのは、
そば屋の主人が店を出て行く客に
「お帰りなさいまし」
って言ってたところだな。
今そんなこと言われたら、
え? 俺は家に帰ろうとしてるのに、
また店に入れっての? って驚いちゃうよ。
それからよく聞く言葉で、
「真っ平御免」てのがあって、
今みたいにそれだけはやめてくれ、
って意味じゃないんだよね。
素直に本当にごめんなさいって意味で、
「真っ平御免なすってくださいませ」
なんて言うんだ。
最近好きなのは、「かわいい」って言葉だなあ。
今で言う「愛してる」と同じような意味で、
男から女にも言うけど、
女から男に対してでも、
「お前がかわいい」みたいに言うんだ。
「愛してる」なんて言うよりも、
よほど好きだって気持ちが出ている感じがするよ。
全体に、今で言うカタカナ語はないし、
音読み漢字の二字熟語とか四字熟語も少ない気がする。
でもね、「未来」って言葉はなんか耳に残ったんだよね。
それがさあ、
今よりも進歩した先の時代って意味じゃないみたいなんだよ。
どうもあの世ってことらしいんだよね。
「たとえ火の中水の底、
未来までも夫婦《めおと》じゃと」
なんて言うんだもんな。
今の感覚だったら、
何言ってんの? って感じだけど、
あの世に行ってもって意味なら、
なるほどねえと思えるわけさ。
ひょっとして
江戸時代の庶民の感覚では、
何年たっても今日と同じような日がやってくるって
そんな感じだったんじゃないかな。
逆に過去に遡ったときも、
歌舞伎だと江戸時代みたいな世界が出てくるもんな。
菅原道真の時代に寺子屋が出てくるし、
義経弁慶の時代に江戸時代みたいな寿司屋が出てくるわけでさ。
だから、今言うような意味の未来みたいな言葉は
必要なかったんじゃないかな。
一方で、今は昔のような意味の未来なんて誰も信じてないしね。
そんなことを考えてたらさ、
今より進歩した未来なんて本当はないんじゃないかな、
って気がしてきたよ。
これからもずっと同じ毎日が来るわけでもないけどさ。