「つむじ風、ここにあります」

音楽の慰め 第22回

 

佐々木 眞

 
 

 

木下龍也著「つむじ風、ここにあります」という短歌の本を読みました。
木下さんは山口市在住のことし29歳、すでに2冊の歌集を出し、2012年には全国短歌大会大会賞を受賞したという、文字通り新進気鋭の歌人です。

どんな短歌を作っている人かというと、これはなかなかいわく言い難い。じつにさまざまな歌を詠んでいる人なので、ページを開いたところにある歌を、行き当たりばったりに紹介しましょうか。

 

あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました

 

機関車トーマスに託された現代人の痛切な孤独と嘆きが伝わってこないでしょうか。
じっと耳を澄ますと、「ああ、いちど貼られたレッテルは二度と変更できず、一度定められた行き先も変更できず、同じ道行きを死ぬまで繰り返すのみである」というような叫びが聞こえてくる。
ユーモラスな外見に秘められた人生の惨劇は、私たちのまわりにいくらでも転がっているようです。

 

数千のおにぎりの死を伝えないローソンで読む朝日新聞

 

その前に「鮭の死を米でくるんでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい」という歌があり、次にこれが来ます。
コンビニに並べられている商品はことごとく死んでいることの発見の歌。私たちの日常を静かに囲繞する「乾いた死の歌」といえるでしょう。

 

後ろから刺された僕のお腹からちょと刃先が見えているなう

 

悲劇を達観し諦観する軽妙なニヒルこそ、われらの時代の唯一の処世術なのでしょう。おのおのがた、なう。

 

つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる

 

これは本書のタイトルにもなった短歌ですが、私はすぐに「誰が風を見たでしょう?」という昔の歌を思い出しました。

英国ヴィクトリア朝時代の女流詩人、クリスティナ・ロセッティの作詞を、西条八十が訳し、草川信が作曲した唱歌です。
けれども、ここでつむじ風が通り過ぎることを教えてくれるのは、もはや木の葉や木立ではなく、無機的な菓子パンの袋に変わっている。
いっそセレナードならぬ、「都市ルンペンプロレタリアートの哀しき叙情」といってもよいかも知れませんね。

今宵はこの懐かしい歌を聴きながら、皆様とお別れしたいと存じます。