駿河昌樹
もっとも親しかったうちのひとりを9年前に失ったまゝ、いろいろな思いを脳内に彷徨わせたまゝ、……で、居続けている。かといって、ポーやリラダンやローデンバッハらの作品の人物たちのように死者の思い出だけに沈潜し続けているわけはもちろんなく、最新のCPUが軽々とこなすごとくに、マルチタスクで、意識は諸相的に多層的に忙しく機能し続けている。現代のセルジオ・レオーネとも言えるであろうアントワーン・フークアのアクション映画を次々と見ながら死者のある日の目の伏せ方を心の中に凝視し直したり、出勤前に慌しくシャワーを浴び、洗髪してから髭を剃る時に、また別の、死者が健康であった頃のある日の服選びに助言した瞬間のことをありありと蘇らせたりする。
髪にドライヤーをかけたり、鬚を剃ったりする洗面所の洗濯機の奥の小棚にはプラスチック製の黄緑色の小籠が置かれていて、そこには入浴剤や他の小物が乱雑に詰め込んであるが、この小籠は、死者が最期の日まで、病院での朝晩、歯ブラシや歯磨きチューブ、タオル、化粧水や乳液、口紅などを入れて、病室から洗面所まで通うのに用いていた。手頃な道具入れが必要になった際、病院の近くの100円ショップで慌てて購入して持って行き、与えたもので、100円商品にしてはプラスチックも厚手で、なかなか頼りがいのある悪くない品だった。
すっかり筋肉の削げた足で、よろよろ、ゆるゆると廊下を進み、洗面所に通う姿にたびたびつき合ったが、他にもいくらも適した容器や籠はあり得るというのに、急ぐ必要があったことや使い勝手のよさから、こんな廉価品を毎朝毎晩提げて歩ませることになってしまう…と思いながら見続けた。最期も近いかもしれない人に、100円商品を持たせるとは。かといって、高価でもっと重い、使い勝手の悪いものを持たせるわけにもいかず、成り行き上、それなりというより、必然というべき事情のもつれの果ての風景や光景が一瞬一瞬醸成される。二度と戻らない時間の一刻一刻であるというのに、ひとりの人間を取り巻く物品のありようは、しばしば侘しく、うすら寒く貧相で、偶然というものの悪戯心やそれとない悪意を感じさせられさえする。
そのプラスチックの100円商品の小籠は、持ち主よりももう9年も長く生きのびて、劣化の気配も見せない。鬚剃りの後で化粧水や乳液を顔につけながら横目で見たこの小籠のイメージと、そのイメージに無数に重なって甦る死者の生前の姿、さらにはそれらの姿のかたわらにいつも在った私なるものの在りようを意識の中に漂わせながら、今日も、靴を履いて、地面や、地面と呼びづらいような人工的な石板の数々を踏みに出る。