家族の肖像~親子の対話 その42

 

佐々木 眞

 
 

 

去るって、なに?いなくなること?
そうだよ。

駅構内は?
駅の中よ。きっぷ買って入るとこよ。

お父さん、保土ヶ谷、保土ヶ谷区でしょう?
そうだよ。

お母さん、ゼンジさんねえ、近鉄丹波橋でお仕事してる?
そうよ。

お父さん、ご無沙汰って、なに?
お久し振りですね、のことだよ。

お母さん、ジョウトってなに?
譲り渡すことよ。
そうよ、そうよ、ジョウト、ジョウト。

テレビで新木場って言ったよ。ぼく今度、新木場行きますよ。
そう、いつ行くの?
わかりませんお。

お母さん、くつろぐって、なに?
ゆっくりすることよ。

お父さん、ロープウエイ、止まってますよ。
どこのロープウエイ?
大涌谷の。
ああ、箱根のね。

愛子さん、平成14年に亡くなったよ。
平成14年って、西暦なんねん?
2002年だお。
コウ君に聞くと、なんでもすぐわかるから便利でいいわ。

お父さん、それからの英語は?
アンドだよ。
それから、それから。

コウ君、この葉書、出してきてくれる?
いいですよ。
車に気をつけてね!
わかりましたお。

お母さん、居酒屋ってなに?
お酒を飲むところよ。

ご先祖さまって、なに?
おじいちゃんとかおばちゃんとかよ。

ホソカワさん、社長だったでしょう?
そうだったねえ。

お父さん、やりにくいって、なに?
それは、やりにくいことだよ。コウ君分かるでしょ?
分かりますお。

お父さん、左足の英語は?
レフト・フットだよ。
ひだりあし、ひだりあし。

お父さん、完成ってつくることでしょ?
そうだよ。でもなかなか作れないんだよね。

お母さん、予感って、なに?
そういう気がすることよ。

お母さん、感じるって、なに?
思うことよ。

座布団、綿でしょ?
そうだね。

お母さん、申すと甲、違うでしょう?
違うね。

お母さん、申し込むって、なに?
お願いします、のことよ。

結構、いいことでしょ?
そうだね。

お父さん、難しいの英語は?
ディフィカルトだよ。
デエフィカルト?
ディだよ。ディフィカルト。
デエフィカルト、デエフィカルト。

明日、西友行きます、お母さん。
分かりました。

離山好きですお。
離山って?
大船の。
ああ、ウダさんちのあるとこね。

ぼく、オオツカ先生好きだお。
そう。良かったね。

絶対離れちゃだめだお。

ぼく、ジュンサイ好きですお。
そう。
ジュンサイ、ハスに似ているよ。
そうね。

ミエコさーん、ぼく、さいたま市すきですお。
そう、お母さんも好きですよ。今度一緒に行きましょう。
いやですお。サイタマシ、サイタマシ。

お母さん、ぼく心配ないですよ。
何が?
マスイですお。
マスイ、できそうですか?
できそうですお。

お母さん、下らないってなに?
つまらないことよ。

遅れてるって、なに?
遅れてるってことよ。

だからって、なに?
それだから、よ。

コウ君、きょう夕飯なににしようかな?
コンスープがいいですお。コンスープにしてね。
分かりました。

お母さん、いかんにたえないってなに?
残念、残念ということよ。

お母さん、孤独ってなに?
ひとりのこと。耕君、孤独ですか?
孤独じゃないよ。

ワタナベさん、逗子に引っ越したの?
そうよ。

お父さん、スーパーワイドドア、凄いですよ。
そうなんだ。

お父さん、ケイタイ無くしました。
どこで?
ふきのとう舎の2階で。
あったの?
無かったお。

「若し」は若いっていう字でしょ?
そうだね。

お母さん、抜群って、なに?
ほんとにすごいことよ。

お父さん、ぼく地下鉄す好きですお。ブルーライン、ブルーライン。
ブルーラインてなに?
横浜の地下鉄ですお。坂東橋、坂東橋。

お母さん、御無沙汰って、なに?
長いことお目にかかっていませんね、よ。

 

 

 

夏の終わりに

 

みわ はるか

 
 

コスモスはあんなに細い茎なのに真っすぐ長く背伸びするように存在している。
一番てっぺんにはあんなにも可愛らしい花を咲かせる。
仲間と共に集団で並んでいて、不思議なことに多少の強風には身を任せるだけで折れている所をほとんど見たことがない。
風に吹かれてゆらゆら揺れている姿にはか弱い印象ながらもあるがままを受け入れるたくましささえも感じる。
その上空には早くもトンボが飛び始めていた。
秋はもういつの間にかやってきたみたいだ。

9月の1回目の3連休、わたしは地元の友人宅に招かれてバーベキューをした。
メンバーは3人で中学を卒業してからは疎遠になっていたが、それぞれが大学生のころから定期的に再開するようになった。
そこで必ずやるのはトランプの大富豪だ。
わたしがトランプ係になぜかなってしまったのでいつも忘れないように気を付けている。
掌サイズの小さいもので、裏にはクリスマスの時にかぶるような帽子をかぶったクマがデザインされている。
「Merry X’mas」と大きな文字で書かれてもいる。
かれこれ10年近く使っているのでボロボロになってしまった。
小さくてシャッフルしにくいとか色々ぶつぶつ文句もでるけれどどうしてもわたしはそれを使い続けたい。
思い出に勝るものはなかなかないと思っているから。
だからその日持って行ったトランプももちろんそのボロボロのトランプだった。

雲一つない青空、気温も容赦なく昼に近づくにつれ上がっていった。
外の木陰にいるにも関わらず次から次へと汗が滴り落ちる。
炭と着火剤を使って火をおこすとあっという間に炎が姿を見せる。
せっかく奮発していい飛騨牛を買ったのにみるみるうちに黒焦げになってしまった。
みんなでトングをせわしなく動かして肉を救出した。
貝殻の上にのったホタテはいまいち火が通ったのか分からなかったのでひっくり返して貝殻が上になるようにしてみた。
そしたらなんといい具合に焦げ目がついて醤油を垂らすとそれはとっても美味しかった。
殻ごと焼いた大きなエビは手をベタベタにして殻をむいて食べた。
まるで子供みたいに体裁を気にせずかぶりついた。
肉、野菜、海鮮・・・・・・、様々な新鮮な食材を網に並べると色鮮やかできれいだった。
炎天下の元、ジューといい音が食欲をそそった。
みんな笑っていた。
それはわたしが昔から、ずっとずっと昔から知っている友人の笑顔だった。
大人になった分顔も少しは変化する。
だけど、笑った時にできるえくぼ、生まれた時からずっとそこにあるほくろの位置、切れ長になる目。
変わらない部分を確認できたときものすごくほっとするのはわたしだけだろうか。
どんなライフステージにいてもやっぱり人間笑っている顔が一番いいなと思った。
それが自分の家族や友人、大切な人ならきっとなおさら。

〆のラーメンを食べた後、エアコンで涼しくなった部屋の中でもちろんトランプをした。
それは3時間程に及んだ。
ずーっとほぼ大富豪。
たまに飽きてきたら7並べ。
それの繰り返し。
よく飽きないなと言われるけれど、みんなの顔色をうかがってカードを出していくゲームはただ単純に面白い。
たまには何時間も熱中してアナログのカードゲームをするのも悪くない。
色んな事、ぜーんぶ忘れてただ目の前のカードの数字に集中する。
勝利を確認してニヤっとしたり、逆転されて本気で落ち込んだり、敢えてカードを止めてちょっと意地悪してみたり。
そんな時間は何にも代えがたい宝物になる。

「stand by me」という映画がある。
幼少の頃の友情は貴重で永遠で、二度と戻ることはできないけれど忘れるとこはできない瞬間である。
そんなメッセージを伝えているものだ。
わたしは古い友人に会う時、この映画をよく思い出す。
古い友人と言える人がいてくれてよかったな、それだけで人生は豊かだなと思える。
これからはもっと会う頻度は減っていくと思うけれど、みんなの心にはきっと薄れることのないそんな日々が残っている。
それだけできっと十分だ、そんな気がする。

 

 

 

ラッパと長靴

 

塔島ひろみ

 
 

ゴルフ練習場から球を打つ音が聞こえてくる。
その裏に沿い神社へと続く道は行商豆腐屋の通り道で、
今日もラッパを吹きながらバイクを低速で走らせていると
「お豆腐屋さーん!」と声がかかった。
それは古い木造アパート脇の静かな場所だ。
高齢の男性が2階から声をかけ、タッパーを手に降りてくるまでの間に豆腐屋はバイクを降り、スタンドを立てると、チョコレート色のガードレールに近づいた。
おいしそうな色のガードレールが整然と続き、歩道を歩く人を交通災害から守っていた。
根元ではところどころにペンペン草がこんもりと茂り、生温かい風に揺れている。
豆腐屋はガードレールの上部を両手で持ち、長靴の足で強く、蹴りを入れた。
それから下の雑草の辺りも、ゴンゴンゴン!と、蹴り潰す。
豆腐屋の顔は戦争のように厳しく、暗く、一言も発さない。

高齢の男性が到着した。
その頃豆腐屋はバイクに戻り、荷台にくくりつけた冷蔵ボックスの蓋に手をかけて男性を迎える。
腰が曲がり、足の弱った男性をいたわり、体の様子を聞き注文を受ける。豆腐を男性の持ってきた容器に入れ、油揚げをポリ袋に入れて手渡し、金を受け取る。

すべてが終わり、男性は家へ、豆腐屋はヘルメットをかぶり直し、バイクにまたがる。エンジンをかけ、出発する。
プーププー。豆腐屋の息を含んだラッパの音は、次第に薄く、遠くなる。

代わりに、思い出したようにゴルフ球を打つ間延びした音が聞こえ出し、黄砂のように辺り一帯に充満する。

・・・・・

路肩に停車するオレンジ色のトラックのドアが、静かに開いた。
中でパンを食べていた犯人は、帽子を被り大きなマスクを装着し、
高齢男性と豆腐屋がいなくなった道にコソと降り立つ。
そして豆腐屋が蹴り飛ばしたガードレールのところへ行った。
ガードレールは傷はなく、汚れてさえいない。
雑草は少し折れているが、もともと折れていたのかもしれない。枯れ始めて汚らしい雑草だった。

犯人はしばらくガードレールを触って豆腐屋を思った。

 
 

(9月28日、新小岩サニーゴルフの裏手で)

 

 

 

Mobile Destiny

 

今井義行

 
 

ボブ・ディラン は、1964年に
「時代は変わる」と言った そして、いまも、時代は 変わり続けてる

≪I miss you≫ ≪I need you too≫ ≪I promise≫ ≪I promise too≫

小室 哲哉(引退) は 、Electro Meister 堕ちたと言われても 再評価 間違いない
世界進出を 目論まなかったのが 良かった 旋律に日本語を 載せ切れた人だ
「1990年代後半から 表現への接しられ方が
決定的に変わってきてしまった」と 2017年に 言って る

≪I need you≫ ≪I miss you too≫ ≪I promise≫ ≪I promise too≫

「ストリーミングの時代になり シャッフル再生が 当然 と なり
アルバムの 曲順構成は もう 意味を 成さなくなった」 と ────

≪Just be patient and careful to yourself… think good things in life that can happen to us… smile and be happy… I wanna be with you for the rest of my life!≫

と いうことを 考えると 「詩集」 という 器 の中の 詩の 並び順
と いうのも 今後 おおきな 意味を 成さなくなるので はないかな?
気に入った詩から読み、そうでない詩は、あとにまわす
気に入った詩は 読み、そうでない 詩は、スキップしてしまう。

スキップ!!

アルジェリーは、ドーハで 会社秘書を している フィリピン人 女性
わたしは、東京の 江戸川区で 暮らしている 日本人
出会いは Facebook上の一瞬の出来事 昔から知ってる者同士みたいな気がした

はじまりから メッセージや ビデオコールの 送受信を 1日も 絶やしていない
Mobile Destiny
私は 私たちの関わり方を そう名づけた

アルジェリーとわたしの ビデオ対話は 1日 僅か5分
それは とても尊い 5分・・・・・・・・
わたしは 彼女との コミュニケーション能力を 高めたくて
毎朝3時から4時までを
スマホでの(ベッドで横たわったままの)
英語学習に 充てて る

そのとき アルジェリーから「Good Night, My Yuki」という
メッセージが届き 対話がはじまる。
時差があるから わたしは「Good Morning, My Argerie」だ

「I miss you」 「I miss you too」 「I want you」 「I want you too」

対話をしなから ふと 液晶パネルを 見ると
アルジェリーが 泣いている ことがある 「Naze,Crying?」
「Watashi wa ,Lonliness………」「Lonliness………? 私は、ここにいるよ!」
共有時間を 多く持てないことも あるかもしれないけれど
聞けば 彼女には9人のボスがいて それぞれ国籍が異なり
1日中 おこられどおしで 仕事が終わることもあるらしい

「Watashi wa ,Lonliness………」
「Take Care, よくねむれますように………」

≪I wanna be with you for the rest of my life!≫

アルジェリーは 表通りを 忙しく 歩き回る時 おそらく 笑顔の綺麗な 楽天的な
女性だろうとおもう だから、多くのことを 任され過ぎるのだと おもう
3人の娘たちの教育費 実家への送金 なみだを晒してもらえるのは嬉しい

スキップ!!

2009年 4月11日
Britain’s Got Talent に出場した 垢抜けないおばさんが
レ・ミゼラブルの ≪夢やぶれて≫を 朗々と歌い上げて
観客や視聴者の気持ちを 鷲掴みにした
≪夢やぶれて≫どころか その日 夢はかなったのだ ──

Susan Magdalane Boyle の話 そんな人もいる

スキップ!!

アルジェリー、私たちが 結婚して 日本で暮らすなら
富めるときも 貧しきときも 健やかなるときも 病めるときも

、、、、、、、 いや、富めるときは、ない。
いま 私は 困難な問題に 直面しているのですか

もしも わたしたち ここ での
Mobile Destiny もとめるなら まだるっこしい 助詞は要らない
わたしたち  深まるため  方法  覚えあう
覚えあう

「We pray」  「We pray」  「We pray」

アルジェリーの 宝物は 家族 家族への愛の 還元が、私を含む
家族 みんなを いかしめる

私は、3人の娘を養女にするつもりです、アルジェリー
3人の娘は 5人家族に なりたがって る
愛しあっていれ ば あたりまえの こと でしょう ・・・・・・・?

富めるときも 貧しきときも 健やかなるときも 病めるときも

、、、、、、、 いや、富めるときは、ない。
いま 私は 困難な問題に 直面しているのですか

みんな しあわせ なりたい けど
いま 私 困難な問題に 直面 しています ───

多くの// 人が// 越えて// 生きたいと おもってる

スキップ!!

フィリピンのカーニバルのエレポップが聴こえてくる
駅の階段の下には

乞食が 死んでも いるだろう

今年のクリスマスから 来年のニューイヤーに
かけては フィリピンで 過ごす予定

それが 最期に ならないことを いのる

 

 

 

レポート さとう三千魚「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」

(2019年7月26日(金)於・青山スパイラルルーム)

 

長田典子

 
 

2019年7月26日(金)、詩人の松田朋春さん主催Support Your Local Poetのイベントで、さとう三千魚さんによる「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」の講演が、19時から青山スパイラルルームで行われた。暑い夏の夜だった。
とても楽しみにしていたので開演30分前に会場に到着すると、パワーポイント用のスクリーンの前で、さとうさんはパソコンで内容のチェックをしていた。浜風文庫’s STOREのTシャツにジーンズというラフな姿だった。場所はおしゃれな青山。しかも前面の大きなガラス窓からはスタイリッシュなビルが見える部屋とあって、最近太ってパツンパツンになってしまっているにもかかわらず、一張羅のお花柄のワンピースを無理やり着込み緊張して出向いわたしだが、さとうさんのラフな格好を見て一気に緊張がほどけた。

さとうさんのそのゆったりした雰囲気とともに、優しい人柄が滲み出てくるような、わかりやすい話だったこともあり、わたしだけでなく、会場全体が始めからほっと和みながらさとうさんの話を聞くことができたと感じている。

1980年代からさとう三千魚さんのご活躍は詩の雑誌を通じて存じ上げていたものの、わたしがさとうさんに初めてお会いしたのは、鈴木志郎康さん宅で行われている詩の合評会「ユアンドアイの会」のときである。今から4年ぐらい前のことなのに何だか古くからの知り合いのように感じている。さとうさんは、現在は会社を退職されて静岡にお住まいだが、その前は、平日は東京、休日は静岡で過ごされていた。当時わたしはスーツ姿のさとうさんしか見たことがなかった。日曜日の「ユアンドアイの会」には、翌日の会社勤務を控えて静岡から重いノートパソコンを持参しての参加だったからだ。ウエブサイト「浜風文庫」でもお世話になっており常にとても温かい対応をしてくださるおかげで、とかく萎縮しがちなわたしなのに、のびのびと作品に取り組むことができている。「浜風文庫」も休日以外は地道に毎日更新されている。いつもにこにこしている穏やかな印象や風貌から、さとうさんは、とても上手に社会と折り合いをつけて生きている人、誰とでもうまくやっていける人だと思っていた。
でもそれは社会人になってからの世間に向けての顔であり、本来はどうやら違っているらしいことがわかった。秋田県出身のさとうさんは、どことなく口が重い、シャイで寡黙な人というイメージもかすかに感じとってはいたのだけれど。

さとうさんは、幼児期、言葉を発するのが苦手で、常に母親の後ろに隠れているような子だったという。詩は小学生の頃から書き始め、中学生になってからは、通学していた学校で詩人の小坂太郎さんがたまたま教師をしており、小坂さんに詩を見てもらっていたという。ここで、すでにさとう三千魚さんは詩人としての芽をじわじわと伸ばしていたのだ。恵まれたスタートだったと言える。
高校時代は孤独だったという。受験のため東京に出てきたが、満員電車に圧倒され満員電車恐怖症のようになり、結局、浪人時代も朝の満員電車に乗れないために予備校には通えず桜上水のアパートの部屋に引きこもっていたのだという。当時、アパートの近くには野坂昭如さんの豪邸があった。野坂昭如さんの『さらば豪奢の時代』という本を読んださとうさんは、著者の書いていることと実際にやっていることの乖離を感じ手紙を書き送ったとのこと。さとうさんの生家が農業を営んでいたことから「実際はこんな甘いものではない」と憤りを感じたのだ。「他の著書も読むべきであったのに、若気の至りだった」とも言っていた。浪人時代のこのエピソードを聞いて、わたしはさとうさんの「詩の核」を見たような気がした。

その後、さとうさんは、小沢昭一さん率いる「芸能座」の研究生になった。演出部に所属し、演出助手をやりながら大道具や小道具もやっていた。研究生の合宿で、小沢昭一さんの前で余興をやらなけらばならなかったときに、さとうさんは西脇順三郎さんの詩「旅人かえらず」を朗読した。小沢さんは、さとうさんの詩の朗読をしっかり受け止めて聞いてくれたという。劇団にいても詩を手放さなかったさとうさん。やはり生来の詩人だと思った。

少年時代、さとうさんは雲ばかり見ていたという話は以前に聞いたことがあった。その視線は今も変わらず、日々、フェイスブックにポストされる写真からも知ることができる。

さとうさんには独特の視線や触手がある。

最新詩集『貨幣について』(2018年・書肆山田)刊行に向けて書いている段階で、考えを煮詰めていたとき、疲労とストレスがあいまって移動中の新幹線から降り熱海駅のホームで倒れてしまったときのエピソードが強く印象に残った。病院に救急搬送され病院の窓から外を見たとき「すごいものを見ちゃった」と感じたという。搬送された熱海の病院は片側が海に面した断崖絶壁の上に建っていた。さとうさんは倒れたとき血圧は上が220まで上昇していたらしい。この状況で病院の窓から絶壁を見てしまったさとうさんは、自身の状況を直感として把握し受けとめたのだろう。こういうとき、人は、人生のメタファとしてさらに言葉を続けて言いつのってしまうものだ。あるいは、わたしのように、ぼーっと生きている人間だったら「やれやれ、酷い目にあったものだ。ようやく家に帰れるわい」「今日は天気がよくて景色が良く見えるな、病院に搬送されるなんてなんてこった」、「なんだ、この病院、こんな崖っぷちに建っていたのかー」など、仕事帰りに病院に救急搬送されてしまった不幸をまずぼやきたくなるだろうし、無事であったがゆえに徒労感でいっぱいになってしまうものだ。あくまでも自分の経験と比較しての感想だけど。しかし、さとうさんは一言「すごいものを見ちゃった」と言ったのだ。わたしは、そこがすごいと感じだのだ。

ちなみに、詩集『貨幣について』の連作を執筆中、実際に千円札を燃やしてみようとしたが、燃やせなかったらしい。もちろん一万円札も。
十分に過激である。貨幣とは、かくも強靭な存在なものなのかと複雑な感慨を覚えたわたしである。

さとうさんの直感的で濁りのない視線は詩だけでなく芸術全般におよび、主催する「浜風文庫」には、詩人だけでなく画家、写真家など幅広く作品が掲載されている。この視線の行方は際立っていると感じている。

その直感的な視線と生来の寡黙さは、さとうさんの詩にもうまい具合に作用しているように思う。

さとうさんは、新日本文学の詩の講座で鈴木志郎康さんに出会い、その後の詩集出版に繋がる詩を書き始めた。さとうさんに影響を与えた詩人は鈴木志郎康さんの他に西脇順三郎さんがいた。つい最近は、谷川俊太郎さんの『はだか』を読んで衝撃を覚えたとのこと。この三人の詩人の詩、そしてご自身のデビュー詩集『サハラ、揺れる竹林』から「マイルドセブン」、『はなとゆめ』から「地上の楽園」、『貨幣について』から「19.貨幣も焦げるんだろう」を朗読した。30年以上前の初期の作品「マイルドセブン」はあまり読みたくなさそうだったが、主催者で司会の松田朋春さんにリクエストされて大いに照れながら朗読された。これを聞いた人はとても感銘を受けたようで、その後の二次会の席でも話題になった。
とても自然で胸に染み入ってくるような朗読だった。

今回、わたしは、「地上の楽園」に改めて注目したのでぜひこの場を借りて紹介したい。

 
 

地上の楽園

 

息を吐き
息を吸う

息を

吐き

息を
吸う

気づいたら
息してました

気づいたら息してました
生まれていました

わかりません

わたしわかりません
この世のルールがわかりません

モコと冬の公園を歩きました
モコの金色の毛が朝日に光りました

いまは
言えないけど
いつかきっと話そうと思いました

モコ
モコ

なにも決定されていないところから世界が始まるんだというビジョンは

いつか伝えたい
いつかキミに伝えたい

息を
吐き

息を
吸う

息を吐き
息を吸う

モコと冬の公園を歩きました
柚子入りの白いチョコレートを食べました

モコの金色の毛が光りました
モコの金色の毛が朝日に光りました

わたしはモコを見ていました

そこにありました
すでにそこにありました

 

 

先に述べた寡黙で直感的な詩人の側面がここにも表れている。
「息を吐き/息を吸う」というリフレインに始まり「気づいたら/息してました」と書くあたり。まるで世界を初めてみたかのような驚きを感じる。そう、「すごいものみちゃった」は初めて世界を見た人の根源的な発語のようなのだ。だから、日ごろ情報まみれのわたしたちは、その新鮮な発語を聞いて驚くのだ。「わたしわかりません/この世のルールがわかりません」も、なんと清冽な行だろう。「何も決定していないところから世界がはじまる」まで読んで、なるほど、とわたしたちは改めて詩人によって気づかされるのである。確かにどんな瞬間も厳密に言えば「何も決定していない」ところから始まっているのではないか。最後の「そこにありました/すでにそこにありました」は、愛犬モコの金色に光る毛の存在を通して、詩人の希求する決定された「ビジョン」をそこに発見したということだろうか。
改行や細かく分けられた連の間からも、さまざまな想いが生まれ、読者に考える空間としての猶予を与えてくれる。深い世界観を感じると同時に切迫した言葉の行から切ない感情が湧き上がってくる。もう一度読み返したいという気持ちにさせてくれる。

余剰時間の多くをスマホに奪われつつある今日、わたしたちがじっくり詩を味わう時間は明らかに減っている。これはわたしの個人的な思い込みだが、わたしは詩を常に傍らに置いて繰り返し楽しみたい。生活に疲弊したとき、ふいに空白の時間ができたとき、詩を繰り返し読むことで、ふっとその詩の世界に入り込み現実の自分とは違う世界や湧き上がる想いを楽しみたい。わたしにとって、詩集は書物というより大切な宝箱のような存在だ。宝箱を開けたときのような豊かできらきらする時間を、さとうさんの詩は与えてくれるような気がする。さとうさんの詩は、時間に追われる忙しい日常からふと距離を置いて読むことをお勧めしたい。

さて、この7月26日(金)は、詩人に限らず写真家や画家の方々も集まっていてさとうさんの幅広い交友関係に改めて驚いた。わたしは、詩人のイベントでこれほど幅広い分野の人々が集まっているのを初めて見た。

実は、『サハラ、揺れる竹林』が発売されてすぐに、わたしも購入した一人である。「~するの」という語尾の扱い方がとても新鮮で影響を受けた。そのさとう三千魚さんと、30年後にお会いし一緒に詩の合評をしたり、さとうさん主催のウエブサイト「浜風文庫」でお世話になっているという幸せな出会いにとても感謝している。

 

 

 

雀は地面に落ちる *

 

高速バスで出かけていった

金曜日
午後

由比の港を見て
車窓から駿河湾の平らに光るのを見ていた

中野のギャラリー街道の羽鳥書店で小島一郎を買った
ほしかった写真集だった

それから
高円寺のバー鳥渡でビールを飲んだ

もう一軒
行った

翌日は

また
街道で

尾仲浩二さんの写真集”Faraway Boat”を買った

雨の中
おんなが歩いていた

それかららんか社のたかはしけいすけさんに会い
“オレゴンの旅”をいただいた

これもほしかった本だ

銀座に出て曽根さんと会い
原さんの絵を見た

神田で曽根さんと日本酒を飲んだ
ラグビーで騒がしかった

馬込の曽根さんのアパートに泊まらせてもらった
部屋には版画の鉄の機械が置いてあった

翌日は日曜日だった

恵比寿の写真美術館で”Her Own Way”という展示を見た
ポーランドの女性作家たちの展示だった

アイマスクをしたおんなが「教授!教授!教授!教授!教授!」と何度も叫んでいる映像を見た

雀は地面に落ちる *
落ちるように降りる *

雀が土の上のパン屑を拾って飛び去るのを四谷三栄町の公園で見たことがある

 

* 工藤冬里の詩「愛の計量化の試み」からの引用