ウェイリーからシャンポリオンまで

 

駿河正樹

 
 

語学の天才だったアーサー・ウェイリー[i]は、古典日本語と古典中国語も独学で習得し、『源氏物語』[ii]を詩的で美しい見事な英語に翻訳して全世界に知らしめた。第二次大戦後に日本政府に招聘された際、平安朝の日本にしか関心はない、と断ったという。

「日本の古文、文語を読めるようになるには三か月あればいい。三か月で誰にでもできる」と言うほどの天才として、当然の拒絶でもあったというべきだろう。彼が翻訳した『老子道徳経』には「不出戸知天下、不闚牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成」とある。「戸を出でずして天下を知り、窓より窺わずして天道を見る。その出ずることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少なし。これを以て聖人は行かずして知り、見ずしてあきらかにし、為さずして成す」。ここに述べられているのは意識に扱わせる対象の積極的な限界づけの勧めであり、大小や遠近、上下、全体と部分の違いが精神や宇宙には本来存在しないことを当然のこととして踏まえた上での、より効率的な精神の旅の指南である。

平安朝の日本にしか関心はない、というのは誰かが拵えた伝説であろう。阿倍仲麻呂の和歌について、漢文で創作したのちに和訳した可能性を指摘しているし、ラフカディオ・ハーン[iii]が日本を理解できていないと批判もしている。本人に会ったドナルド・キーン[iv]は、日本語も中国語も自由に読めるウェイリーにして、どちらも話すことはできなかったと言っているが、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象」[v]だったとの留保をつけている。

ウェイリーの関係者には、単に、彼が長旅を嫌ったから、と言っている者もあるそうだが、実相はそんなところかもしれない。誤ってアームチェア人類学者と呼ばれがちな、フィールドワークをしないイギリスのジェームズ・フレイザー[vi]のことが思い出されもするし、旅行嫌いで有名だった哲学者ジル・ドゥルーズ[vii]も思い出される。ちなみに、アームチェア人類学者という表現を作って、フィールドワークをしない人類学者を批判したブロニスラウ・マリノフスキー[viii]は、批判対象にフレイザーを含めていない。彼の『西太平洋の遠洋航海者』出版にあたって、フレイザーから序文を貰ってさえいる。

ウェイリーに並ぶ古典日本語の名手といえば、『源氏物語』を二番目に完訳したエドワード・G・サイデンステッカー[ix]がすぐに思い出される。こちらの場合は現代日本語の翻訳の名手でもあって、谷崎、川端、三島、荷風などは彼の文章で世界に知られることになった。彼の英訳による『雪国』や『千羽鶴』が世界に読まれたからこその川端康成のノーベル賞受賞だったのは疑いようもないところだから、川端は正当にも「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と考えて、賞金の半分をサイデンステッカーに渡している。この彼が、『源氏物語』の原文の読み方について、こう書いている。

平安時代の散文を勉強するのなら、十分に読めて、原文で『源氏』の偉大さが感じ取れるくらいにならなければいけないと、いつも学生に強調している。『源氏』の本当の偉大さは原文でなければわからない。そしてその感じがわかるためには、ある程度以上のスピードで読めるようにならなくてはいけない。頭をひねりながら判読するのではなく、要するに普通に読めるようにならなくてはいけないのである。[x]

しかし、『源氏物語』について、おそらく最も刺激的で面白い文芸評論のひとつと思われるものを書き上げた吉本隆明は、サイデンステッカーのこの見解に敢然と反論する。

わたしには、「サイデン」はとんだホラを吹いているとしかおもえない。わたしはたぶん、現存する文芸評論家では、比較的日本古典を読んでいる方に属しているが、『源氏』の原文を「頭をひねりながら判読」してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以上のスピードで読める(正確にだ)ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったく信じていない。
(…)『源氏』のほんとの偉大さが、原文でなければわからないなどという外人の日本文学研究者のホラが、ホラでないというのなら、現代語訳や外国語訳や注釈や解説書のたぐいなど、『源氏』研究者は一切つくらぬがよい。だいいちこの「『源氏』の十年」程度の文章を自国語(英文)で書いて、日本人に訳させる程度の語学力で、E・G・サイデンステッカーが『源氏』を「ある程度以上のスピード」で正確に読めるなどと、信じようにも信じようがないのだ。
わたしは以前に宣長の『古今集遠鏡』の口語お喋言り調の『古今集』の読み下し評釈を読んでいて、宣長がすらすらと正確に『古今集』を読むことができているかどうか疑わしいと思ったことがあった。宣長のような偉大な古典学者でもそんなところだ。すこしばかり原文が読めるなどということは、何程の意味ももたない所以である。
(…)あまりに長編で、しかもその割に物語の進行は遅く反復的であることに退屈したら、きみが悪いわけではない。『源氏』が悪いのだ。わたしの経験では、『若菜(上・下)』の章が、いちばん出来がよくまとまりもあるから、まずそこを読んで、これはいけるとおもったら、みんな読んでみるのがいいとおもう。原文で「ある程度以上のスピードで」読もうなどと考えちゃいけない。一生何もせずにそれでつぶれることになるぜ。現にそんなひとは、大学へゆくとたくさん先生をしているのだ。[xi]

批評家とはかくあるべきもの、とでも言うような面白いお喋りだが、『源氏物語』は、長いには長いが「あまりに長編」というほどでもないし、「物語の進行は遅く反復的」では全くないし、「退屈」するどころではないはずで、すこし誇張し過ぎだろうと思われる。そこに批評家の芸風があるといえばあるが、もともと知的娯楽の一領域であるはずの文芸批評など真面目に受け取り過ぎる必要もないので、観客はその場その場の芸を面白がっておけばよい。

ひとつ、吉本隆明が間違っていると思うのは、語学を含めた言語の能力というのは、個々人においてずいぶんと多様な展開のしかたをするものだということを忘れている点である。おそらく、脳の使い方の多様さや我儘さ、好き勝手さ、それをいくらでも可能にする脳そのものが持つ使われ方における縦横無尽の潜在力から来るものだろう。ある程度以上のスピードで正確に古文が読めるのに、現代文はうまく書けないとか、現代語がしゃべれないなどという外国人は、いくらでもいるだろうと思われる。だいたい、吉本隆明の代表的な文章をどれでも読んでみればわかるが、彼自身がずいぶんと奇妙な言葉づかいで日本語を書く人で、わかりやすい現代文がうまく書けないということなら吉本隆明だってそうではないか、と、たぶん普通の日本人は思うに違いない。

しゃべれないということについては、現代フランス語からルネサンス期の難解なフランス語までをあれだけ見事に読解した渡辺一夫が、はじめて渡仏して恐る恐る煙草を買ってみた時に自分のフランス語が煙草屋に通じてひどく喜んだのを、弟子筋の仏文学者たちから聞いた話として思い出される。たしか、ピエール・ベールを見事に翻訳した野沢協も、話すほうはからっきしダメだったと聞いた。旧制浦和高校時代からの友人には渋澤龍彦や出口裕弘がいるが、渋澤龍彦などは、あれだけの翻訳家でフランス語の理解者でありながら会話はダメだったはずではないか。出口裕弘の場合は二度留学しているので、普通の会話には不自由はなかっただろうが、出口さんとは外苑前にかつてあったバー《ハウル》[xii]の三階で会って、ロートレアモンについての愛着をながながと聞かされたことがあったから、その時に、語学にまつわるこんな益体もない話もついでに聞いておけばよかったかもしれない。

もう少し遠い人だと、もちろん会ったこともない人だが、やはり、ヒエログリフを読解したジャン=フランソワ・シャンポリオン[xiii]のことが思い出される。9歳でラテン語をマスターするところから始まって、ギリシア語、ヘブライ語、アムハラ語、サンスクリット語、アヴェスタ語、パフラヴィー語、アラビア語、シリア語、ペルシア語、中国語、コプト語を習得していく。ロゼッタストーンの写しを18歳の頃には入手していたというから、止まるところを知らぬ天才、得体の知れないようなやる気満々の怪物である。とはいえ、現存していた言語やラテン語などは話すことができただろうが、さすがにヒエログリフの音を話すことは、彼でさえもできなかったに違いない。

吉本隆明なら、ここで、シャンポリオンの場合はヒエログリフを「頭をひねりながら判読」したのであって、「ある程度以上のスピードで」など読んでいたわけがなかろう、と茶々を入れてくるかもしれない。「ある程度以上のスピードで」読めたがしゃべれない場合の例を並べてきたくせに、おまえ、「頭をひねりながら判読」できるもののしゃべれはしないシャンポリオンなど持ち出してきて、撞着を起こしてるじゃないか、と。

そんなことはわかっているが、想いに随いながらの言葉並べをしてきての末尾には、シャンポリオンほどのお飾りも据えておきたくもなるというものではないか。この野郎、シャンポリオンをお飾りになんぞしやがって、と怒られれば、そこはまあ、もちろん、素直に怒られておくほかない。

 
 

[i] Arthur David Waley
[ii] The Tale of Genji(1921~1933)
[iii] Patrick Lafcadio Hearn
[iv] Donald Lawrence Keene
[v] ドナルド・キーン『わたしの日本語修行』
[vi] James George Frazer
[vii] Gilles Deleuze
[viii] Bronislaw Kasper Malinowski
[ix] Edward George Seidensticker
[x] E・G・サイデンステッカー「『源氏』の十年」(安西徹雄訳)
[xi] 吉本隆明「わが『源氏』」
[xii]バー《ハウル》 https://www.hoshiko.jp/barhowl/index.html
[xiii] Jean-François Champollion

 

 

 

どど どぉん どど どどっ

 

薦田 愛

 
 

ぴぃぴぃぴぃー
リビングの窓いっぱい
葉を繁らせる桜の樹のどこかだろうか
ひときわ高く鳴く
声の主が知りたくて
歴二ヵ月のスマホで調べる
便利だなスマホ
日本野鳥の会鳴き声ノートなんてあるんだな
午前十時すぎ朝食の洗い物を済ませ
ソファでひと息ついたところへ
どど どぉん どど
どどっ
何だろう
どこか近所で太鼓の練習でも始めたんだろうか
ハナミズキやツツジのある中庭を囲む
小さなこの集合住宅はいつも静かだから
最近越してきた向かいの棟の人かななんて
いけないなあ根拠のない濡れぎぬは
うちだってまだ一年そこそこ
歩いても歩いても
このあたりのことはどれほども知らない
東京入谷の住まいはまわりに
お寺も神社もたくさんあったから
祭のころになると週末ごとに笛や太鼓
お囃子が近づいてくるのだった
ひよひぃ ぴぴぃ
とことん どこど
とことことこ どどどどどん

あれまたかすかに
どど どぉん どど
どどっ
まさか
まさかね
気づかなかったんだ

二日くらいあとだったか
メイクをしようと脱衣所のドアを開けたら
押し寄せてきた
おと
どど どぉん どど
どどっ
えっ
太鼓の練習?
違うのだった太鼓じゃなかった
よそじゃなかったうちだった
洗濯機が鳴っていたのだった
どど どぉん どど どどっ
これはいわゆる異音ってやつだろうか
グレイでクールな洗濯機の上蓋前面にある
一時停止ボタンを押し
リビングに戻ってトリセツを開く
音の種類さまざまについての解説に
どど どぉん どど どどっ
は含まれておらず
異音のある場合は使用を続けると危険な場合があるとの記載
とはいえ洗いかけのものを放置もできないので
つむれない耳をつむらないまま
洗濯を再開
ふむふむ
ずうっと鳴ってるわけでもないんだな
洗うものの重さを量っている時、空回りしているような何かひきずるような
し し きゅ きゅる しし し し きゅる
洗っている時の音がいちばん大きいな
どど どぉん どど どどっ

仕事帰りのユウキに話すと
「何年使ってるの」
そうだね
東日本大震災よりあとに買ったよ
五年か六年くらいかな
「洗濯機なんて、そうそう壊れるものじゃないよ
もっとも、きみのうちはお母さんもきみもすごい量の洗濯をしていたみたいだから
ふつうの家の頻度に比べたら、だいぶ消耗してるのかもしれないね」
あのころ
女所帯の長らくの習慣で
ベランダに出る窓にも鍵を
上下合わせて三つつけていた
つまり籠城の覚悟
ゆえにずうっと外干しはせず
浴室乾燥と洗濯機の乾燥機能をフル利用していた
(なんて反エコだったんだ!)
東日本大震災のあとは放射線量が気になって
洗濯物の量も頻度もいっそう増えた
ことに雨のあとはコートもスカートも鞄のカバーも
脱いだ端から外した端から
洗濯機の中
身につけるものを選ぶ基準は何より洗えること
いや洗えない表示のものでも洗ってたっけ

東京をはなれて
今の住まいには浴室乾燥機能もないけれど
外干しをためらう理由もなくなった
奥行きのないベランダの物干し竿に隙間なく並べては
容赦ない西日に射られながらすばやく取り込む

し しし きゅきゅる しし し
どど どぉん どど
どどっ
だましだまし使っていても
音はやまない
洗い終えたものをすっかり出すと
なにやら違和感
あれっ ねじが浮いてる?
これってつまりねじがゆるんだせいで異音が出てたってことかな
いのる思いでしめ直しても
次に使うとまたゆるんでいる
かぞえきれないくらい回って
かぞえきれない靴下だのタオルだの
すりへった洗濯機の年月をおもってみる

「そうか仕方ないね」
早じまいで帰宅したユウキの車でいちばん近い量販店コジマへ直行
冷えすぎた平日夜のフロアはほぼ独占状態
ドラム式の威風堂々をスルーし
整列する各社新製品を通り越し
そうそう
七キロ洗える全自動式洗濯機でいいんだよ
梅雨どきには外干し時間が限られちゃうから
乾燥機能はいちおう欲しいよね
異音の主となった今のも乾燥機能があって
いざって時にはけっこうありがたい
でも六キロで、ちょっときゅうくつ
七キロはほしいね
言い合いながら仔細に覗き込むところへ
洗濯機をお探しですかと若手男性店員N氏
ちょっと目元が北村一輝似の濃い目くんは
ひやりとしたフロアの空気を切るように私たちの前から隣のブロックへ
「ああ、大型じゃなくていいので。七キロ洗えて乾燥機能ついてれば」
ならばと戻った列の二台を、こちらは節電、こちらは節水、とてきぱき解説
デザインお値段もにらんで節水タイプのを選択
今日選んで明日配達、というわけにはいかないけれど
太鼓の練習とさよならできるよかった

それが火曜の夜六月の日没は遅い
暮れきらないうちに買い終えて帰った
のだったが

どど どぉん どど どどっ
廃棄確定の全自動洗濯乾燥機でお茶を濁しながら
まもなく到来する新しい洗濯機の機能を確認する
使い心地のクチコミも今更ながら気になる
節水をうたっているけど洗いあがりがイマイチというのは気になるな
すすぎの回数を増やしたら結局たくさん水を使ってしまうし
そのぶん時間もかかるってこと
ふと見ると、縦型全自動洗濯機と銘打ってはいるけれど
乾燥の文字が入っていない
ってことは
乾かせないの?

配達の時間帯を知らせる電話を受けて
メモを取るのもうわの空
洗えるけど乾かせないのでは、梅雨をのりきれないのじゃないか
慣れないLINEで仕事中のユウキにメッセージ
配達時間がわかったよ
ただ、洗濯機に乾燥機能がついてないみたい
どうしようキャンセルできるかな
「え、なんで?」
だから、そういう機能のを選んじゃったみたい
まず配達をキャンセルできるかどうか聞いてみるね
「わかった」
乾燥機能のない洗濯機を積んだトラックがわが家に近づく
いやいやまだだいじょうぶきっとだいじょうぶ
コジマへ電話するも北村一輝似のN氏は不在
代わりのK氏にこうこうこういうわけでと
キャンセルを申し出る
配達とご購入のキャンセルはお受けできますが
改めてご購入の場合は金額が変わりますのでご承知ください
もちろんです勝手を申して申し訳ないですと陳謝
汗を拭きふき受話器を戻す

それでも洗濯機は要るのだった
予算内におさまるかどうかわからないけど
間際でキャンセルした手前
早めに行かなくちゃ

改めて選びに行った
コジマへ
二日後だったか
その日北村一輝似のN氏はいた
キャンセルの一件を詫びつつ話した
乾燥機能つきのものを改めて選びたいと
するとN氏
濃い眉の下の濃い目をくっきりとあげて
乾燥機能はついていますというのである
ただし乾燥といっても温風のそれではない
風乾燥だという
「ああそれなら十分だ。やっぱりこのままでいい」
とユウキ
温風ではないのはやや心もとないのだったけれど
湿気が籠りがちな脱衣所のつくりを思うと
そうだねそれでいいね
ではとN氏は改めて配送の手配
キャンセルのキャンセルという次第で
もとの値段のまま

よかったこれでやっと
どど どぉん どど どどっ と
さよならだ
籠城の女所帯のぬれた靴下やコートのにおい
うっくつのしみたグレイの
すり減ったおおきな矩形ははこびだされ
し し きゅきゅる し しし と
うめくものはもういない
ここには

届けられ開梱され納まってみれば何ごともなかったような
顔でそこにいるのが大型家電というもの
白にピンクの配色はいささかこそばゆく
風乾燥はまことに心もとないけれど
回転する音は静かなのだった
うん うん ぐぐー すすっ すすー
上蓋に化粧ポーチを置いてもすべらない
梅雨が明け
みみ みぃん みみ みんみん みぃん
いちめんの蝉しぐれ
洗濯終了のベルさえ
聞こえない