夢素描 03

 

西島一洋

 

前書き

 
 

前回と前々回に、前書きの前書きの1と2を書いた。さて、ようやく前書きを書こう。

「夢記憶交感儀」については先に書いたが、この行為をする前遡ること半年くらいだと思うが、 元名古屋の裁判所で地階には元独房や元拷問室もあるがそこの三階の元食堂で二週間程「素描行為」を行なったことがある。明治の頃の古い煉瓦造りの建物である。

元食堂は、おそらく囚人のための部屋ではなく職員用だと思う。天井も高く広い。シャンデリアも吊るしてあり、まるで宮殿のようだ。僕は、ここに裸電球を一本吊るし、畳十畳分のゴザを敷き、小さなちゃぶ台の前に鎮座して藁半紙に鉛筆で素描行為「絵幻想解体作業/筆触について」を訪れた人と対話しながら続けた。部屋は薄暗い。

二、三人が僕の周りにいて、話しをしながら素描行為をしている時、ふと、今度の僕の展覧会は「夢記憶交感儀」で、何故それを行うかについて僕が話し始めた。

この時だった。突然、数十年分の夢を一気に全て鮮明に思い出したのだ。空間が歪み始めた。歪むという言葉は適切ではない。うまく説明できないが、空間認識及び時間認識が尋常では無くなった。目の前にあるものは確かに見えるが、全て存在感や位置感が尋常では無いのだ。言葉についても同じ様だった。突然失語症になったというというか、二言くらいまでは分かるが、その前後がどんどん欠落して行く。つまり、例えば「僕は、いま、絵を、描いています。」のうち「、」の区切りの前後が欠落して行くのだ。その場に居た人達に「今、僕はおかしい。」とだけ言い放って、部屋から外に出て、廊下で両手を拳で握り締め、「これではいけない。戻れ、戻れ」と力を込めて腕を振った。

三十分ほどだっただろうか、なんとかその状態を抜け出すことができた。しかし、同時にあれほど鮮明に思い出した数十年分の夢の記憶が全て思い出せない。ただ、思い出したということだけは間違いなく事実だ。そういう感覚だけは間違いなくある。
よく死ぬ前に、一生分全てを思い出すというが、これは間違いなく本当の事だろうと、この時体験的にそう思ったし、今でもそう思う。

記憶というのは、極めて抽象的なものとして体に残るのだろうと思う。だから、瞬時にして、数十年分を一気に思い出すことができるのだ。

ただそれらは、日常空間や日常時間の認識とは違う。インプットはされている。しかし、アウトプットするには、日常の空間時間認識に置き換え無ければいけない。そういう装置というか器官というか、それが無ければ、いくら思い出しても、言語化はできない。

 

 

 

plausible・もっともらしく思われる

 

Michio Sato

 
 

evening

I took a walk with Moco

Always
In the evening

take a walk with dog Moco

Pink clouds were floating
Swallows were flying

At such times
I don’t need plausible words

With Moco
I was watching the clouds

Swallows were flying over the river

Swallows

It was chirping

 

 

夕方

モコと散歩した

いつも
夕方には

犬のモコと散歩する

桃色の雲たちが浮かんでいた
燕たちが飛んでいた

こんな時
もっともらしい言葉はいらない

モコと
わたし雲を見ていた

川面を燕たちが飛んでいた

燕たち

チキチキと鳴いていた

 

 

*タイトルは、twitterの「楽しい英単語」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

地球の歩き方

 

工藤冬里

 
 

あなたはなにをしてきたのか、どこからきたのか

自分で穿いたズボンのバンドを締め上げ地球を巡り歩きたい所を
歩き回っていました
もっと若かった頃は
地上そのものが牢獄なのだから場所の移動など何の意味もないと考えてみたりしてましたが

歩き回れなくなって愈々、
玉虫厨子とかを除けば、
見た、行った、が何の足しにもならなかったと身に染みました
ああそれでも
今よりもっと若くて元気だった頃は歩き回っていました
見た気になった仮想の平等主義を批判しながら
絵葉書にさえ納まりました
それが年​を​取る​と
自分でズボンも穿けず
はい万歳してー、
と言われて伸ばす手からすっぽり
拘束衣を​被せられ
徒刑場に​連れ​て​いかれます
それが申し込んだツアーの結末
となりました

 

 

 

#poetry #rock musician

海辺の叙景

 

工藤冬里

 
 

曲がった世代の曲は曲がっていた
開いていく正しさとの距離を反芻しながら
遠ざかりのうちに非難されない立体を彫塑するには
三次元は手狭だった
諦めて近づいていく遠ざかりがpopなら
音は遠ざかろうとして却って近海沖に沈む
ロックアウトされた艦内で冴えた状態を保つのは
語る服が同じ柄の果物なので難しい
自分の落ち度が原因で
最高気温は二八度だった
聞いて理解して思いやる
聞いて理解して思いやるには
三次元は手狭だった
曲がった世代の曲は曲がりにまがり
近海の水は濁りに濁り
同じ間隔を保って付いて行く敗北の中で
ビオは飲まれ
像は倒されるが
定点に留まることによって遠ざかろうとするサングラスの
縁取りの中に浮かぶ黒い箱からテクストは
陽炎の中で
黒く垂れるか

 

 

 

#poetry #rock musician

disappoint・失望させる

 

Michio Sato

 
 

This morning too
woke up early

Beyond the screen door
West mountains are blue

The sky above the mountains is gray
It’s flat gray

It will rain

If
I have disappointed you

Please permit me

Now
There is a small lemon tree in me

White flowers are blooming

 

 

今朝も
早く目覚めた

網戸の向こうに
西の山が青くいる

山の上の空は灰色だ
平らな灰色だ

雨になるのだろう

失望させてしまったとしたら
許してほしい

いま
わたしの中に小さな檸檬の木がいる

白い花が咲いている

 

 

*タイトルは、twitterの「楽しい英単語」さんから引用させていただきました.

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

あきれて物も言えない 13

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

空気を喰う

 

夕食を食べてから考えはじめて、
途中に寝て、
夜中に再開してボーッとして、また、朝になってしまった。

「2次補正 疑念残し成立」 * 1
「給付金事業委託「中抜き」」 * 1
「予備費10兆円「白紙委任」 * 1
「河井夫妻、100人に2600万円か」 * 1
「米警官 今度は黒人射殺」 * 1
「陸上イージス計画停止」「技術改修に時間・費用」 * 1
「河野防衛相「合理的でない」」 * 1
「北朝鮮、南北事務所を爆破」 * 1

最近、5日間ほどの朝刊一面の見出しです。

ここのところ、TVの国会中継をチラチラと見ていた。
この国の首相が、平気で、言い訳や、嘘とわかる嘘や、時間稼ぎの答弁をしている。
大臣や、官僚たちが指名され、忖度し、答弁している。

あきれてしまう。
すでにあきれてしまう。

政治家というのは「コトバ」の専門家だと思っていたが、国会中継を見ていると、改めて政治家は「コトバ」の専門家だと思えます。
「コトバ」の専門家は、「コトバ」の機能と効果をよく理解して、使用しているということでしょう。
「コトバ」の機能と効果をよく理解して、自分や自分たちの党派のメリットを最大に引き出すように使用しているということでしょう。

そこに求められるのは「コトバ」の真実ではなく、効果と結果だというわけだろう。
そんな「コトバ」、わたしは国会中継で、見たくも聞きたくもないのだった。

「空気を喰う」ということを思ったことがある。

一昨年だったか、
高円寺のコクテイル書房で、
広瀬勉の写真展「鎌倉詣」を見に行った時に思ったことだったか。

亡くなった女性作家や友人たちとの黒姫での写真や、
鎌倉の海辺の道路を渡ろうとする老いた田村隆一や、
旅館の一室で二人きりで撮っただろう浴衣の少女の写真や、
うなだれた黒猫、
広瀬勉の逃れ難く言い訳のきかない写真を見たときに、写真は「空気を喰う」ほかないのだと思ったのだった。

広瀬勉の写真を見て言葉を失った。
絶句した。

写真も、詩も、
この世の絶句に突き当たった時に、語りはじめられる言語なのだろう。

「空気を喰う」といえば、
詩人たち23人による「空気の日記」という連載詩がある。

「空気の日記」は、WEB誌「SPINNER」で2020年4月1日から開始された。

”新型コロナウイルスの感染拡大により、街の様子がすっかり変わりました。
多くの人々が、せいぜい悪性のかぜみたいなものだと思っていたのはほんのひと月前で、社会の空気の変化に驚いています。
未曾有の事態なので様々な出来事は記録されていきますが、こういう時こそ、人々の感情の変化の様子をしっかり留めておくべきではないかと思いました。
「空気の日記」は、詩人による輪番制のweb日記です。その日の出来事とその時の感情を簡潔に記していく、いわば「空気の叙事詩」。
2020年4月1日より、1年間のプロジェクトとしてスタートします。” * 2

と説明されています。

その連載の「空気の叙事詩」の中から、白井明大さんの空気の詩をひとつ引用させていただきます。

 
 

朝ね
暑い て起きて
熱測ってみたら三十七度もあって
きみが話してくれている
もういちど
水飲んでから測ったら三十六度五分だった
、て

二人が出かけていく
ほんの短い間に何が起きてるか
寝てるとふだん何も知らなくて

たまたま今日にかぎって耳にできたのは
暑い てぼくの耳も
いつもよりずいぶん早く
動きはじめたからなんだろう

南風が吹く
梅雨明けの白南風が
鉦を鳴らして夏を呼ぶ
カーチーベーが来るより早く

風も鉦も知らせない
息苦しさを
呼ぶ声のずっとしないままでいて   * 2

 
 

詩の言葉は、家族のいる空間のなかで、絶句して、います。

絶句して、そして吃りながら、
詩の言葉は、言葉の身体を生きようとしているように見えます。

政治家たちの言葉から遠い場所にこの詩はわたしたちを連れて行こうとしているように見えます。
その遠い場所とはわたしたち自身のなかにあるでしょう。

わたしたち自身のなかに「空気」の詩はあるでしょう。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

* 1 「朝日新聞」2020年6月13日から6月17日より引用しました。
* 2 「WEB誌「SPINNER」「空気の日記」プロジェクトスタートの言葉より引用しました。
* 3 「WEB誌「SPINNER」「空気の日記」6月12日(金)白井明大さんの詩より引用しました。

「空気の日記」
https://spinner.fun/diary/