西島一洋
飛び転死
今回は飛ぶ夢について書こうと思っていた。最近は飛ぶ夢をあまり見ない。もしくは見ていても思い出せない。とはいえ、昔たくさん見たので、それらをのんびり思い出しながら書こうと思っていた。もちろん、書けないことはない。
しかし昨日見た夢が、特に鮮明だとか強烈だとかではないけれど、妙に心の奥底に引っかかっていて、やっぱり吐露した方がよいかとおもう。
これは夢ではないのだが、一回りほど年下の友人が、ある時ある集まりの中である出来事を述懐した。というより告白か。十人くらい居合わせたと思う。
子供の頃の体験談である。しかし、この日まで人に言ったことはなく、ずっと苦しんでいた。話したことで癒されるわけでもないが、この話は、もちろん本人にとっては切羽詰まった現実そのものなので、奇異とか面白いという類のことではない。
ただ僕は面白かった。何が面白いかというと、僕にはその情景がくっきりとイメージできたからだった。おそらくは、現実のイメージとは違うのだろうが、そんなことはどうでもよい。
薄暗い。水が流れている。勢いよく。溜まりもある。濁ってはいないが透き通ってはいない。流れてきた。少女だ。小さい少女だ。3歳ぐらいだろうか。最初はゆっくりと、そして、目の前に来た時は異様に早い。手は出せた。だが、怖くて動けない。少女はそのまま流されて、そして、死んだ。
さて、昨日見た夢だが、ここまで書き進んでいるうちに、なんだか、書く必要もないのかなあとも思えてきた。
ただ、どうしても気になるので、書いておこう。おそらく今書かなければ、きっと忘れてしまう。いや、書くことによって忘れてしまうということもあるので、記憶を留めるためには文字化しない方が良いのかなあ。
労働と死という夢であった。
この国では、死も労働として認められており、貨幣経済も認知されている。したがって、死ぬことによって労働の対価が支払われる。死ぬことに宗教とか哲学とか思想とかもちろん芸術とか一切の共同幻想は介在しない。死ぬことの大義名分も無い。
ただ、死ぬのである。なぜか、淀んだ水の中に飛び込んでそれでおしまいなのだ。死への労働志願者は途切れることなくどんどんやってくる。気になるのはその労働への対価は誰に支払われるのだろう。
夢だから情景は、くっきりというかもやもやというか、ただ、あっさりと死んでいく人たち、僕はまだこちら側にいたが、ああそういうもんだなあ、と、特に悲しくもなく、苦しくもなく、罪の意識も無く、ああ、いずれ、こんな感じで死んでいくのかなあという感じか。
でも夢のリアリティから離れてみれば、やっぱり死にたくは無いなあ。