雨が降っていた

 

さとう三千魚

 
 

昨日は

日曜日でした

予報は
午後から

雨となるようでした

白い
車で

女と

法事に
向かいました

四十九日の法事でした
臨済宗なのか

お寺には
白隠の

半身達磨図が掛かっていました

法事の間は広く
窓々は

開けられていました

庭の緑が
光っていました

読経の後に
雨はふりはじめました

雨がふっていました
雨はふっていました

雨の音を
聴いていました

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

履歴書

 

みわ はるか

 
 

住所
山の中

性別
女性

年齢
30才

略歴
山や田んぼに囲まれた田舎に生まれる。
当時は3世代で暮らしていた。
みんな忙しそうに働いていた。
保育園に入る前は兄弟や近所の幼なじみと野山を駆けずり回っていた。
ひどい擦り傷はしょっちゅうしたけれど、ガハハガハハと毎日笑っていたなぁ。
と、実はこの辺りはこの程度の記憶しかない。

地元の家から徒歩15分の保育園に入園。
同じ組の友達は13人。
男子7人、女子6人。
少数精鋭でみんな仲がよかった。
わたしが階段から落ちて左手を骨折したときみんなが心配してくれた。
ちょっとヒーローになったような気分になった。
みんなで鯉のぼりを作り、プールで水をかけ合い、スイカ割もした。
園内のお祭りのカレー作りは新鮮な体験で本当に楽しみだった。
冬はわりとたくさん雪が降るところだったので雪だるまをこれでもかという程作った。
ウェアは水浸しになった。
保育園の先生は明るくてきれいな人ばかりだった。
卒園は悲しくみんなで泣いた。
小学校も同じメンバーだというのにね。

上記のように13人そろって保育園のすぐ隣の小学校へ入学した。
少し大人になったような気がして嬉しかった。
けれど、入学して数ヵ月たったころずる休みを数日してしまった。
保育園とのギャップでなんとなく行きたくなくなってしまった。
公園でぼんやり過ごしていたがやっぱりみんなや先生に会いたくて、その後はきちんと通った。
小学校時代、そろばん、水泳、英語の習い事をした。
どれもそんなに長続きはしなかったけれどいい経験になった。
ポケモン、モーニング娘、テレビゲームにものすごくはまった。
ポケモンゲームは特に育て対戦に勝っていくスリルがよかったし、モーニング娘は全盛期のメンバーでとにかくかわいかった。
ぬいぐるみ、カード、シール、何でも集めた。
大分捨ててしまったけれどカードはまだ100枚くらい残っている。
相変わらずみんな仲良しで卒業式をみんなで迎えた。
このころからなんとなく将来こういう業界で働きたいかもと思えるものが頭の中をフワフワしていた気がする。

4つの小学校が集まって中学校に入学した。
80人くらいで2クラスに分かれた。
色んな個性の人の集まりだった。
様々な理由で人と人とがトラブルをおこす所を何回か見たし、体験もした。
人が多いのは良し悪しだなと感じていた。
新しいこともたくさん始まって、このころからか、なんだか勉強を頑張りだした。
通信教育しながら長期休暇には隣町の塾にも通いだした。
部活はテニス部に入部したけれどわたしはへっぽこだった。
でもテニスという競技は楽しかったし、部員で出た駅伝大会は団結することの達成感を味わった。
きれいな汗をみんなかいていた。
今でもテレビでテニス中継を録画して見ている。
高校受験は併願校合わせて志望校2校に絞った。
最も通いたいと思った高校は、大学のキャンパスのような校舎で自由な校風に憧れた。

念願だった第1志望の高校に入学した。
同級生が320人(8クラス)もいたので本当に驚いた。
電車や自転車を駆使して片道1時間程かけて通った。
通学は苦ではなかったが、宿題が多く、本格的に塾にも入ったのでその宿題もあった。
勉強もものすごく難しくなったけれど、特に数学はきちんと道筋をたてればきれいな解答がでたので美しいなと思った。
文理選択は理系を選び(文系に進むことを反対されてしまったため)、世界史の授業中にはこっそり塾の数学の宿題をやった。
数学や物理は好きだったがどうにも化学を好きになれず、たまたま地元のおじさんが化学の教師だったため恥ずかしい思いをした。
学校はあまりにも人が多かったので気後れして、あぁわたしは大人数って得意じゃないんだなと認識した。
図書館、文芸部、美術部には部員でもないのによく出没した。
静かな空間が心を癒してくれた。
先生はみんな一生懸命に勉強を教えてくれた。
夜遅く質問に行っても嫌な顔一つせず対応してくれた。
この時、「大人って悪くないな、いいな」と、ずっと子供がいいと感じていたわたしの考えを変えてくれた。
わたしも社会に貢献できるようなこんな「大人」になりたいと心から思った。
今でも連絡をとる数人の友人ができたことは宝である。
自由な校風が辛うじてわたしをここにいさせてくれて卒業証書をゲットすることができた。
小学校のころからなんとなくと思っていた業界に絞って受験勉強をしたため(人生で1番ガリ勉)、現役で大学に滑り込むこともできた。

家から通える、自由な校風な大学生活がスタートした。
同級生は3000人くらいであったと思う。
実際関係してくるのは数十人なのだが、キャンパスを歩けば知らない顔ばかりだった。
臆病なわたしはおどおどしながら歩いていたかもしれない。
片道1時間30分~2時間であったけれど、電車や地下鉄を乗り継ぎ通っていた。
都会に住むというのはどうも肌に合わなかったからだ。
単位を落とさないように計画的に授業選びはしたし、ボランティア団体に所属し長期休暇は東京へよく行った。
バイトも様々なこと(飲食、花屋の裏方、旅館・・・・・)を経験したが、家庭教師は卒業までずっと続けたし自分に合っていた気がする。
「お洒落」というのもなんとなく感覚的に学び、色んな都道府県から来る友人の話や価値観は興味深かった。
「お酒」というものも嗜むようになりちょっぴり大人に近づいた気になっていた。
ここでも、数人今でも連絡をとる友人ができたことは宝となった。
就職活動も人並みにし、地元に決まった。

社会人というのは思っていたより大変だった。
仕事の責任、人間関係、プライベートの過ごし方。
社会人になれば自由になれると思い描いていたけれど、ここからがまさに修行だった。
信頼できる人の話を聞き、本を読み、友人の話を聞き・・・・・・。
やっとこさっとこ社会という軸を自分の中で受け入れられる様になってきた。
不安は今でも大いにあるけれど、あまり先を考えず「今」を生きることが一番楽なのではと思っている。
居心地の良いパートナーができ初めて地元を離れた。
今、ここである。
この土地で自分ができることをして過ごしている。
 

空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白以上
 

所有している資格
いくつか諸々

趣味
読書 文章を書くこと 散歩 温泉 サイクリング お茶を飲むこと

自己PR
居心地のいい環境で流動的に信頼できる人と過ごしていきたい。
社会に貢献できる人間でありたい。

 

 

 

ペダル

 

塔島ひろみ

 
 

がれきを積んで走ってきた
春の陽を浴び スックと 狼のように立っている
産業廃棄物運搬車第024295号
菜の花が似合う

私はこれから自転車で
年寄りからセカンドバッグを奪うために
川を渡る
年金を下ろした年寄りが、自転車の前カゴに金の入ったセカンドバッグを不用意に突っ込み、もたもた走る
私は遊ぶ金欲しさに 背後から追い抜きざまにそれを奪う
その実行現場へと
立ちこぎでペダルを踏み 橋へ続く坂をのぼる              
川の向こうは東京だ

左手に一面のネギ畑、菜の花、桜、そして
私が卒業した中学の校舎
その正門に続く畑の間の凸凹道を
国道からそれてトラックが一台 走っていく
幌がかかった大きな荷台を揺らし
畑の中にぽつんと立つ中学校へ トラックが向かう
ガタゴトと 次第に学校へ近づいていく
なぜか胸騒ぎを覚え 唇をかんで自転車をこぐ
学校では 私の後輩たちが給食を食べているだろう 
教室の窓から 近づいて来る大きなトラックを見るだろう
彼らは目をつぶり、祈るだろうか
チャイムが鳴る
チャイムの音が ここまで聞こえる

老人はペダルから足が外れ、傾いていた
左足で踏ん張りながら 右足をペダルに戻そうとするが
足がうまくかからない
「大規模環境創造型複合街区」の工事が進み
来るたびにきれいになっている、私から一番近い東京の
その、まだきれいになっていないパチンコ店裏の小さな道で
ボロボロの自転車のペダルがくるくると ぎごちなく回る
自転車と同じくらいボロボロの、老人の右足がペダルを追う 甲で位置を定めてから足を乗せようと試みるが
ペダルは逃げるように形を変え、 息が合わない
その間にも車体はさらに傾いて、老人の左足が入ったしみだらけのズボンがぷるぷる、ぷるぷると震えている

自転車はペダルだけが黄色に塗られていた

店がひしめきあっていた
弁当屋にも飲食店にも行列ができ
肉やパンを焼くにおいがたちこめる往来の片隅で
老人は一人黙々と戦っている
前カゴからコロンと、つぶれた空き缶が一つ落ちた
カゴには、年金が入ったかばんではなく、汚らしい空き缶が山盛りに入っているのだ

遊ぶ金欲しさに、前カゴに年金を突っ込んだ自転車を探す私の前で、
無益な老人は042495号産廃車のように孤独に、
最後のバランスを保ちながら立っていた

黄色い、菜の花のようなペダルを見つめ
私は自転車にまたがり右足をペダルにかけたまま唇を噛み息をこらし、
じっと祈る

 

(3月某日、葛飾区東金町で)

 

 

 

ふふ

 

薦田愛

 
 

つばら、ゆつ、ごっくん
ふふ
つばら、ゆつ、うっふん
こほ

つぷら、ゆら、とっぷん
うる
とぷり、とぷり
はる

つちのにほひ、な、いたす
まひるのの、ひの、さなか
はるの
ふふ

とぽり、つむり、るっふん
ぬぷ
こぽり、こぽり
はる

 

 

 

死と、ひまわり

 

村岡由梨

 
 

このところ、毎晩上原へ行って、
御年85歳の志郎康さんのオムツを交換する。
まずベッド脇にあるポータブルトイレに座ってもらって、
デンタルリンス入りの水で、口をゆすいでもらい、
アローゼンという便通の薬を1g服用してもらう。
それが終わったら、熱めの蒸しタオルで、顔→背中→手の順に清拭する。
背中を拭くと、志郎康さんはいつも「ああ、気持ちがいい」と言う。
そして陰部と臀部に薬を塗り、
日中用のリハビリパンツではなく、
就寝用のテープ式オムツをあてて、ベッドに寝かせて、帰る。

昨日の夜は嵐だった。
嵐の日でも、もちろん上原へは行かなければならない。
びしょ濡れになりながら、急いで自転車を走らせていたら、
道のど真ん中にネズミの死骸があった。
突如目の前に現れた「死」に、私は戦慄した。
ネズミの頭は潰れていて、頭の周りに血がまあるく広がっていた。
雨に濡れたアスファルトに、
空虚な穴がぽっかり開いているみたいだった。

志郎康さんに、どうして長生きしたいのか、聞いてみたことがあった。
志郎康さんは、
「世界がどう変わっていくか、まだ見ていたいから。」
と、少しも迷わず真っ直ぐに答えた。

別の日の夕方、上原から、自転車で東北沢へ。
志郎康さんの薬を受け取りに、駅前の薬局へ行く。
再開発が進む、東北沢の駅前の変化には驚くばかりだった。
いつの間にか、ロータリーのようなものも出来上がっていた。

薬局で、薬が出来上がるのを待っていた私はふと、
東北沢の駅前のマンションに住んでいた、
富子さんのことを思い出した。
富子さんは、変わっていく東北沢の風景を最後まで見届けることなく、
2018年、94歳で亡くなってしまった。
志郎康さんの言うところの、
「世界が変わる」ってこう言うことなのかと、
何だか腑に落ちたような気がした。

そこにあったものが無くなること。
そこにいた人が、いなくなること。
そこに無かったものが、現れること。
そこにいなかった人が、生まれること。
そんな風に世界は呼吸して、日々生まれ変わっているんだなあ。
でも、

 

今日も夜9時に上原へ自転車を走らせる。
ネズミの死骸は跡形もなく無くなっていた。
誰かが拾ってゴミとして捨てたのか。
カラスか何かがくわえて持って行ってしまったのか。
まるで何事も無かったように
ネズミなんて元からいなかったかのように、
刻々と変化し続ける世界の残酷さを思うと
何だかとても気が滅入った。

それでも、
「若さゆえの希望」
それだけで、死は鳴りをひそめてしまう。
眠は、16歳の誕生日にひまわりの種をもらったので
早速大きな鉢に植えて、熱心に世話をし始めた。
「どうしてひまわりの種が欲しかったの?」
そう尋ねたら、眠は
「空に向かって真っ直ぐに伸びていくのを見たいから。」
と、少しも迷わず真っ直ぐに答えた。

85歳の志郎康さんと、16歳の眠。
決して希望を捨てず、
何事もまずは受け入れる
やわらかな思考の志郎康さん。
太陽の光を存分に浴びて、
変わりゆく世界を真っ直ぐに見つめる、
ひまわりと眠。

どうか私を置いていかないで、世界。
ふたりの「真っ直ぐ」を私にも下さい。
そして「死」を壊したその先にある
その先の先にある「世界」の変化を
私も生きている限り見届けていても、いいですか。

 

 

 

ボディステッチ

 

村岡由梨

 
 

手のひらに刺繍しようと思って、
100円ショップで縫い針と赤い糸を買った。
手のひらの皮膚の、血が出ない痛みもない
ギリギリの深さまで針を刺して、すくいとる。
きれいな模様にしたいけど、
なかなか思い通りにいかない。
すごく惨めだけど、
きれいな赤だな、と思った。

手のひらを握って、私の「作品」を隠す。
みんな目に見える傷にしか気付かないんだね。
そういえば、縫い針って消毒したっけ。
ボディステッチって不潔かな。

だんだん赤い糸が引きつって、こんがらがって、
イライライライラする。
私の中のイライラとムズムズが
赤く盛り上がって白く膿む。
おでこ、鼻、あごの下。
頰にできたニキビは、
特に最悪で、
私を絶望させる。打ちのめす。
針の先っぽを、なかなか治らないニキビに刺したら、
白い膿がプツッと出た。

何度も何度も擦り切れるほど顔を洗っているのに
なかなかニキビが治らない。
これは私の数々の悪行に対しての、神様からの罰なのかな。
みんな私じゃなくて、私のニキビを見てるんだね。
醜いね。汚いね。
いちいち言われなくても、わかってる。
誰にも見られたくない。私を見ないで。
私が自分の醜さにどれだけ苦しんでいるか
お前らなんかにわかってたまるか、と心底思う。
能天気な笑顔の奴ら、みんな消えていなくなればいい。
中学の卒業アルバムなんて、とうの昔に捨ててしまった。
一人だけ背景の違う、歪に顔を歪めた顔写真なんて。
どこまで残酷なの。どこまで私を苦しめるの。

 

赤い糸が絡まる 絡まる ほどけない 助けて
糸をひく入れ歯。悪臭のする陰部。汗ばんだ手。
日常の些細な事柄が、
あまり気持ちの良くない思い出を引きずり出す。
私たちのせいで捕まった、哀れな男性のロッカーを開けたら、
裸のリカちゃん人形の写真がいっぱい出てきたんだって。
逃げられないように、
みんな両脚を切断されてたんだって。

思い出さないようにじゃなく、
思い出しても大丈夫になるために、
精神科に通う。薬を飲む。
先生、私に赤い薬をください。
両脚を失くした私は
汚い思い出から、なかなか逃げきれない。
数少ないきれいな思い出は、
誰にも知られないようにノートに書き留めて
枕の下に隠した。
誰にも知られたくない痛みは
カッターで太ももに赤く刻んで、
スカートの下に隠した。

夜、街を彷徨っていたら、
赤ん坊の叫び声みたいな
皮膚を切り裂くような音がキーンと聞こえて

夢を見た。
お風呂場で手首を切って
真っ赤な血がどんどん広がって
止まらなかった。
真っ赤な浴槽に浸かって、一人で泣いていた。
誰も私のことなんか気にかけない。
誰も助けに来てくれない。
そんな夢だった。

水洗トイレに座って、
赤い経血が一筋、滴り落ちるのを見た。
一本の赤い糸が便器の水たまりの中で
ゆっくりほどけて広がっていくみたいで
とてもきれいだった。

糸を縫い付けた手のひらが痙攣して、少し疼く。
明日になったら、針を刺したところから
少しずつ膿み始めるだろうな、と思う。

ひどく膿む前に
縫い付けた糸を抜いてしまう前に、
刺繍した手のひらを
本当は誰かに見て欲しかったな、
なんてね。
笑えないよ。
バカみたい。
最悪。最悪。最悪。

 

 

 

お知らせ 本日、2021年4月1日

 
 

本日、2021年4月1日より

 

2020年4月1日から開始した
広瀬 勉さんの写真、工藤冬里さんの詩、さとう三千魚の詩を、
月曜から金曜の毎日、公開する行為を完結することといたしました。

広瀬さん、工藤さん、ありがとうございました。

今後は、引き続き、
広瀬 勉さんの写真は月曜から金曜の毎日、公開し、
工藤冬里さんの詩、さとう三千魚の詩は毎週月曜に公開いたします。

毎月、月初に、辻和人さん、さとう三千魚などの批評を公開する予定です。

また、
沼恵一さん、薦田愛さん、塔島ひろみさん、みわ はるかさん、芦田みゆきさん、一条美由紀さん、駿河昌樹さん、小関千恵さん、松田朋春さん、萩原健次郎さん、陳式森さん、南 椌椌さん、道ケージさん、尾仲浩二さん、長田典子さん、Yoichi Shidomotoさん、ピコ・大東洋ミランドラさん、原田淳子さん、佐々木眞さん、狩野雅之さん、西島一洋さん、辻和人さん、Claudio Parentelaさん、白石ちえこさん、ヒヨコブタさん、正山千夏さん、松井宏樹さん、鈴木志郎康さんなどの作品、また他のゲストの作品を随時、掲載します。

日曜日はお休みです。

よろしく、お願いいたします。

 
2021年4月1日  さとう三千魚