広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
不思議な場所がある。それは北八ヶ岳中腹標高1700mにある丘なのだが、そこからの見晴らしは実に素晴らしいというかそもそも啓示的である。その丘の突端、その先は険しい崖というポイントにこの岩たちが生息している。声高には何も語らないし生命反応はおそらくないのだが、間違いなく生息している。行くたびに彼らはわたしに様々に語りかける。何しろ彼らの頭を踏み締めてその突端の高見にたどり着くのだから。彼らの機嫌が悪ければわたしは岩と共に奈落の底に落ちるのかもしれない。それでもいいと思っているよとその日は語りかけてみた。その午後は秋の陽光が鋭く差し込んで彼らの柔らかな闇をほんの少しだけ暴いていた。
FUJIFILM X-T2, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS
Masayuki Kano
図書館車に来たこの本voidにもあった。香川の島に住んでる人を何人か思い浮かべた。炭水化物の暗黒面なんじゃないかと思う。
¡Miren!, una gran muchedumbre
川登の坪内さんとこの庭でやってるvegrecaの出店、近所だから行ってみたけどもう帰って居なかった。苗売ってる人とか占いやってる人とかがちらほら残っているだけだった。山間なので日が陰って寒くなってきた。
Vendrá sobre ellos destrucción repentina, y de ninguna manera escaparán
ビルの新作は動機がよくわからないが夢の話である。大変短く、大変普通である。夢ではビルも普通なのだ。ということは夢では皆普通なのだということが言いたいのだろうか。最後のI have been dead hereのリフレインがこびりつく。
2年前の夏にスイスから研修に来ていたリャンさんがお母さんが湖で溺死したこと、voice crackと繋がったこと、建築のポートフォリオに春秋窯で修行と書いたこと、など書いてきたので、酒游館ではまだ君の盃を使っているよと教えた。
工芸性への恐怖はあの柘榴の彫り物から派生している。ベザレルへの力を持たない者が物を作れるわけがない。元代の空間恐怖とは絵付師ではなく私達の裡にある恐怖なのだ。それはシルクロードを介したユーラシアの陶芸史にある断絶、つまり細密とpeasant陶の純然たる階級差となって裂開している。
ではストークオントレントの一群の、染み出すゴム球による転写はどうなのだろう?それらも付け立てに対してお嬢様の見下し的な陰謀論を維持している。その19世紀の洪水的からくりを解くことが工芸性をさらに平たく千年単位のピザ生地に引き延ばす鍵だ。全くもって、第一神殿の音楽と同じことだった。
民藝のような汚いものを、とアレクセイ・ゲルマンの神々のたそがれの、ルネサンス期を迎えようとしている星に降り立つお嬢様は唾を吐く。ところがルネサンス自体が嘘なのだとしたら、その星のリアルはどこにある?というのが系1となる。つまりクラフトは二重の意味でマトリックスのゲームの中にある。
つまり技術には、技術の終わりを照射するまなざしが必要なのだ。それを象徴界と言う。言う、と言うより言わば言え、という感じか。ウェッジウッドにもスポードにも砥部にも景徳鎮にも未来がない、というより過去がない。白の書き換えが興る。それがミレニアムだ。
”ガール”不在のまま、メジャーを異化しようとするマーティン・ハネット・プロデュースの”自分と結婚aha路線”は捨てられさらに、作った当初のワンコード・ワンダーに回帰している始末
すべての音楽はデモテープに戻っていく
https://youtu.be/wnuNABpjShg
他の多くのパンクのレコードと違って、それはいつの間にか家にあった。それはすぐに僕の芯のようなものになった。70年代の半ばのことで、僕はまだ日本の地方都市の高校生だった。”spontaneous”が集団即興演奏のキーワードだった時代だ。レスター・ボウイとレオ・スミスが同じ旋律を「ずらしながら」吹いていた。その女性歌手の声は時間軸に対して垂直に立っていた。すべての参加者たちは、それぞれ自立しながら同じ平面に立っていた。そういうわけで、東京に出てきた時、僕は”Comme a la Radio”で武装していたのだ。
東京の吉祥寺にあった「マイナー」には、フリージャズというソクラテスが去った後に登場したキニク学派が全国から集まってきていた。即興演奏のセッションの場では、僕は、「僕だけが音楽になってしまっている」と批判された。
パンクの好景気の余勢をかって、それまで陽の当たらなかったフリー・ミュージックの自主製作盤の制作が、シェフィールドやアクロンなど世界の各所で同時多発的に発生していた。
歌が発生することをゆるされているのは集団即興の場における事件としてだけだった。
その頃のこと、下北沢の「五番街」という古レコード屋で、僕が「worstnoise」というバンドでインストアライブをしていた時、女の子が店に入ってくるのを見た。それで僕はすかさず店のカウンターに”Comme a la Radio”を持って行って、かけてもらった。案の定彼女は「これ、ブリジットね。私も好きよ」と言った。僕の作戦は見事に成功し、次に福生の「東京ロッカーズ」のギグの会場で会った時は、バンドをやる話になっていた。
私たちはともかくも、ブリジットの”L’ETE L’ETE”とジャニスの”summer time”を持っていた。それで、自分たちの”夏”を持つ必要があったのだ。
78年に”Comme a la Radio”のライナーノートを書いていた間章という男が死に、僕は彼の遺族が棺の中にそのレコードを入れた、という話を聞いた。「西遊記」に出てくる「釈迦のてのひら」の逸話のように、間章も”Comme a la Radio”の手のひらから出ることはなかったのだ。すべての男は彼のロック史によって突き進むが「ラジオのように」は男のエートルをドミネースィョンする。包摂する。man is subsumed under 棺の中に「ラジオのように」を入れるのではない。「ラジオのように」という棺の中に男の死体を入れるのだ。
Unlike many other punk records, it was in my house before I knew it. It was in the mid 70’s, and I was still a high school student in a provincial city in Japan, when “spontenious” was the key word for collective improvisation. Lester Bowie and Leo Smith were playing the same melody in a shifting fashion. The female singer’s voice stood perpendicular to the time axis. All the participants were standing on the same plane, independent of each other. So, when I came to Tokyo, I was armed with “Comme a la Radio”.
At “Minor” in Kichijoji, Tokyo, the Kinnick School, which emerged after Socrates in the Free Jazz was gone, gathered from all over Japan. At the improvisation sessions there, I was often criticized that only my performance had become “music” in a negative sense.
In the aftermath of the punk boom, independent productions of free music, which had never seen the light of day before, were occurring simultaneously in Sheffield, Akron, and other parts of the world.
Songs were allowed to occur only as incidents in the field of collective improvisation.
In such those days, I saw a girl walk into the store when I was doing an in-store live performance with a band called “Worst Noise” at an import record store called Gobangai, which means “5th Ave”, in Shimokitazawa. I immediately took “Comme a la Radio” to the store counter and asked a store clerk to play it. Sure enough, she said, “This is Brigitte. I like it, too,”. My plan worked, and the next time I met her at the Tokyo Rockers gig in Fussa, we were talking about starting a band. We had Brigitte’s “L’ete L’ete” and Janis’ “summer time” anyway. And we needed to have our own “summer”.
In 1978, a man named Aquirax Aida, who wrote the liner notes for the Japanese edition of “Comme a la Radio,” died, and I heard that his family put that LP in his coffin. Like the anecdote of “Buddha’s Palm” in “Journey to the West”, Aida was unable to get out of the palm of “Comme a la Radio” after all. Every man rushes through his “rock history”, but his “être” subsumed under “Comme a la radio”. It is not about putting “Comme a la Radio” in his coffin. It is about putting the corpse of the man in the coffin of “Comme a la Radio”.(T)
The blurred image of a thin faced woman. A blue purplish haze of nowhere. It was a cold winter and I was pregnant. I took a long train ride to where Tori was playing a guitar. It’s the area called “Sanya” in northern Tokyo, the home to lots of homeless people, then. It’s not a home, but cheap hotels where they can stay if they have a day’s wage. In winter they were out of jobs and they slept in a park and that’s where Tori and his friends were. As I walked to the park some guys greeted me kindly, a sense of loose bond among us. I could hear a guitar sound, and Tori and his allies were also burning fire inside the park to cook for them. I could not go inside as the park was surrounded by armed police, they were there, many of them, two folds around the park.
‘ Il fait froid dans le mond’
It was a phrase lingering in my mind these days. I was roaming alone at night In Shinjuku aware of lots of homeless people sleeping inside tube passages. ‘ I can’t be happy if there’s one starving child in the world’ I thought it was Simone Weil’s word, but can’t find it anywhere, but I felt a bit the same, my obsession was to destroy myself, away from home, betraying my mom and dad. I did’t think about my future, but I wanted future for my baby, it was at that moment when I saw armed people in that tense atmosphere, I realized that power is useless. Those who take up the sword will perish with the sword. My mum was betrayed, too, lost her mum and a dear sister at the moment atomic bomb exploded. No repeating, no. I had to survive. I had to find a home, I had to find someone to deliver my baby. I felt powerless, I will live. I’m still here, I have a will to love, that’s what my Father taught me, my mother taught me to sing, I can witness, I live for it. Recibí una espina en la carne.(R)
index finger, earlobe natural light
老人と海、ですな。 デレク・ベイリーみたいな顔してたんでしょう
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1460948379631243265?s=20
在留自国人の保護という大義名分↓
一般市民と政権を峻別↓
傀儡↓
解放された非抑圧層の抑圧者への変化↓
転落した旧支配層の叛乱↓
一般市民という座の奪い合い↓
利権で説明する視点の登場↓
背後の巨悪に責任転嫁↓
その観点からの自国の分断↓
非抑圧者層の国際的連帯の失敗↓
独裁待望とその輸出↓
陰謀説の乱立↓
弱体化↓
98年か クレーメル、マイスキー、アルゲリッチでタンゴ・パセティークとか反則じゃんねー
紙を剥がすように捲ると夜になっている
揺れる地層から錠剤のカプセルが飛び出し、武蔵美系の実のすっぽ抜けたハチスのようだ
道から消えうせる
右手か額の奴隷の印は拒否しないが自分の手に所有者名を刺青する
乾いていく洗濯物の乾いていく色
柴又のbiscuitのクッキーはとても美味しいので皆様行かれてみては
カフェもあります
El verdadero amigo ama en todo momento y es un hermano en tiempos de angustia
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1461468885761224706?s=20
https://youtube.com/shorts/MXKo-qp14Go?feature=share
ブントが共産党を見限ったのは暴力革命路線を否定したからだったということを団塊は覚えている筈ですから、閣議決定のアナクロにはただただ萎えるでしょうね
久万のミシュランラーメン屋で背脂鯖威張る
ラスクリや白い粉吹く首都連合
かめやが久米に復活してる。事件だ。でも何をやっても潰れる場所なので不安しかない。
分かった。落ち目であることを知らないふりをしてるんだ。これは現代アートだ。それでトレンドに引き上げる。浅海君ならやりそうなことだ。
うどんの話だよ。
雨や
オデュッセイアは韓流みたいに続くし
米軍女士官という触れ込みのline誘導に策を巡らし
ネフィリム崩れの神々のような現世の
流石のあやつらも寝静まった頃
一番ひとりになれないとは
さらばナウシカア
きみは水族館のように手を振る
雲の道行、
と発語することで吉祥寺に俺の歌碑を建ててくれた
オデュッセイア
悲劇も喜劇も無い
韓流ドラマのの分かり易さで
介護の日常が続くだけだ
それにしても雨や
刹那はグリーンウェアのまゝ乾かないだろう
オデュッセイア
膠着した湿度の
依存症としての
雲の道行
尻切れトンボって何?
尻の切れたトンボ?
焼鮎の腹食ひちぎるて耕衣の句にあったけど
#poetry #rock musician
高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。
詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。
「内なる声」
「犬儒派の牧歌」
高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。
若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。
朝になった。
今朝も朝になった。
言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。
窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。
佇んで、
いる。
詩の言葉もそのようにして佇むだろう。
人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。
いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。
画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。
その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。
そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。
いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。
この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。
作画解説 さとう三千魚
* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」
突然右の耳が痛くなってきたので、どうしようかと迷ったが、「そうだ、おらっちはいまさっきイモカワ耳鼻科から出てきたばっかりだった」と思い出したので、急遽引き返そうとしたが、「まてよ、この痛みは夢の中の痛みで、本物ではないのではないか」と疑って立ち止まっている。7/1
ビデオ屋の訳知り爺さんは、ポルノビデオを買ったお客にすかさず、「お客さんは、次はO嬢の最新作が「ええですぜ」などと、余計なおせっかいメールを入れるので、悪評嘖々だ。7/2
8代目スカスカ男は、メキシカン名ではハント君だったが、そのハント君から、「新メキシコ語でハイビスカスの名前を新たにつけてくれ」と頼まれたので、張り切っているところだ。7/2
そいろく60歳また会いに正男かお金の小色2の中へ入っていった。7/3
久しぶりに職場を訪ねた私だったが、そこはもはや、昔日の面影は微塵もなく、見知らぬ若者たちが、無言で出入りする、荒涼たる空間と化していた。7/4
目の前に両端が少しけぶった空気の塊がある。いつも気になっていたので、ある日思い切って、それをクリちゃんに電送したら、なんと妙なる音楽が鳴り響いたので驚いた。7/5
それは「電気オルゴール」だったのだ。私が音楽家ならそのメロディを音符に書きつけて、マリアカラスか、美空ひばりに歌ってもらって再現だできるのだが、残念なことだ。7/6
その寺の住職には、有力者の後ろ盾があったので、自分がどうにも気に入らない、ホシナ的、或いはトヨヒラ的な檀家を、次第に排除することに成功した。7/7
夜中に布団の中を見ると、白いパジャマを着た黒目が輝く、娘がいた。いつの間に潜り込んでいたのだろう。でもこんな可愛いらしい娘がいたら、きっとウレピーだろうと思ったが、私には息子はいても、娘なんかいない。この子は誰?7/8
牧場には、たくさんのヒツジがいたが、その中に、ひときわ巨大な黒いヒツジがいたので、牧場主に「あれはなんだい?」と尋ねると「あれが噂の悪魔ヒツジでさ」と答えたのよ。7/9
おらっちは、久方ぶりに古里の村に帰省したんやが、まっすぐに我が家の露台に上ると、そこから天空の道を目指して飛び出した。7/10
さる将棋の名人が、指名手配の犯人を、将棋盤から叩き出したのよ。7/11
「GAFAの時代が終わったら、群雄割拠の戦国時代になり、わが社の天下もあるのではないか」と、マウスコンピューターという会社の社長が独語した。7/12
私ら同郷の者は、はじめのうちは味方同士だったが、途中から敵味方に別れても、けっしてお互いに殺し合うほどには追い詰めず、同じ釜の飯を食った生温かい紐帯で結ばれていた。7/13
大谷翔平選手の、風船玉のようにささやかな野望が、巨大なアメリカン・ドリームの胎内に呑み込まれてゆく姿が、見えた。7/14
離反した子分たちが、次々に立ち上がって、親分の横暴を批判していく。次はおらっちの番だが、おらっちたちの団結は、きわめて脆いことが分かっているので、ここで下手なことを云うと、親分の大反撃があった折に、半殺しの目に遭うかもしれないと、小心者のおらっちの心は揺れ動いた。7/15
「大谷選手が出てくると、世界中の耳目がそっちに行ってしまうから、おらっっちがいくら活躍しても、誰も褒めてくんない」と、ウチの小谷がこぼした。7/16
青白赤の三色旗を作って、全学共闘会議が結成された夜のキャンパスに登場したおらっちは、たちまちマスコミのフラッシュを浴び、学生叛乱の時代の寵児となった。7/17
ショー開幕30分前に、主任デザイナーが、スタイリストと駆け落ちしたので、楽屋は大混乱に陥ったが、臨時プロデューサーの私の奮闘よろしきを得て、なんとかかんとか無事に終わったのよ。7/18
これぞ大阪人ゆう奴を、大阪じゅう駆けずりまわって探したんやが、もおそんな奴は誰一人おらんかった。大阪は、そおゆう奴を、育ててこんかったんやね。7/19
せっかく開戦早々に敵艦を撃沈したというのに、本隊の捜索機も飛ばさず、ひたすら現場から離脱しようと焦るだけなので、「我が国の海軍は、この程度なのか」と、吾輩は絶望したことであった。7/20
最終テストは、2つの額をガンと打ちつけて、どちらかが倒れたら負けになるという古風なやり方なので、「これが2021年現在の最終面接試験なのか?」と、おらっちは、すこぶる驚いた。7/21
大病院の受付で、「おらっちはどこかが狂ってるような気がするのだが、どこかで調べて呉れまへんか?」と頼んだが、「最近はあなたと同じようなことを言って来る患者さんが多いので、とても困ってます。どこか他を当たってみてください」と、追い返されてしまったずら。7/22
有名無名作家の文章を、鋏で切り刻んで、雪のように、机の上に舞い散らせたものを、原稿用紙の上に、丁寧に並べると、前代未聞の名文章が、出来上がっていた。7/23
医者から禁じられているのに、ほんの気まぐれでコロナワクチンを接種してもらったのだが、やはりというか、案の定、それがおらっちのアナフィラショックとなってしまい、急いで手持ちのエピペンを腿に差したものの、間一髪間に合わず、おらっちは御臨終となったのよ。7/24
最初に住所と氏名を書き、次にコロナワクチン接種の希望の有無を書き、最後にこの世に望むものの有無、前者の場合は、その内容を書くと、人々は三々五々帰っていった。7/25
ワーテルローの戦場で、歴史的時間を刻んでいた大時計が、いつのまにか姿を消して、「てらこ履物屋」の女中部屋にあった、独逸製のオルゴール時計に掛け替えられていた。7/26
「いざカマクラの折りには、必ずおいらのとこへ来てくれ、ぜひ頼みたいことがある」とかねてショーグンがいうておったの、偶々そんときにおっとり刀で駆け付けると、「あのなあ、おいらの軍隊を全員武装解除してくれ」というので驚いた。7/27
「よし、明日からおめえさんの支店に出てやるよ」と、その名物バイヤー氏は気安く請けあったが、本当にやって来るのだろうか?7/28
敵地に敵前上陸したおらっちだったが、敵兵の銃剣で、右手の肩、腕、指を刺され、その余りの痛さに呻いたのよ。7/29
新築の家なのに、よく見ると、いたるところに瑕疵があるのは、何故なのだろう?7/30
わいらあ、フィリピンで、おじさんに育てられ、さんざん、人殺しなど、やってきました。7/30
50年代か60年代にかけて、コロンビア・レーベルで活躍したワルターやセルなどが、それぞれのオケを率いて、リクエストに応えて、どんな曲でもいくらでも演奏してくれる。しかも、レコードとは違って360度のステレオなので大迫力だ。7/31
深夜に
モコを抱いて外に出た
夜空を
見上げた
丸い月がいた
それから
モコと布団に入った
モコはすぐに布団の上に這いでて
わたしは赤塚不二夫のシェーのスタイルで眠りに落ちていった
きみの上にも
月は
いるかい
欠けるまえの丸い
月は
いるのかい
朝早く
モコに起こされた
暗い庭の玉石の上でモコにおしっこさせた
それから
部屋を暖めた
モコをおいて
ひとりの部屋に入った
サティの”犬のためのだらだらとした前奏曲”を聴いた
窓を開けると
西の山はいた
近くで
イソヒヨドリが鳴いていた
犬儒派の歌は
きみに
聴こえたろうか
光っていた
ひかりだった
* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”犬のためのだらだらとした前奏曲” より
#poetry #no poetry,no life