侵略

 

塔島ひろみ

 
 

この土手に 河川敷に
あっというまに広がった
どこまでも伸び そして増えた
秋 気がつくと河原には
セイタカアワダチソウの黄色が
ザザー ザザーと 嵐の日の海のように揺れていた
仲間をよぼう
肩を寄せよう
この黄色が 鮮やかだから
青空に美しく照り映えるから
私より高く伸び 届かないから
密生して 群落の奥は暗いから
なにかが 隠れているかもしれないから
企まれているかもしれないから
恐いから
手をつなごう
「わたしたち」という固まりになろう

軍手をはめよう

武器をとろう

セイタカアワダチソウたちは 
荒川放水路の土手下で
夕日を浴びて ギラギラと光った

強靭なこの害草を
手に手に 打ち倒し 引き抜き ハンマーで叩き 火を付ける
真っ黄色の花粒が空に舞う
空が染まる
黄色に染まる

よく荒れるから「荒川」と呼ぶ
荒川放水路は水防のために村をつぶして作った人工の川だ
水害はなくならず
河川敷にはいま 「越水までの水位表示」と書かれた堤防高を示す棒杭が立つ
その河原で 橋の下で 
冷え始めた夕刻
ゆったりと流れる黒い水を見ながら お酒をのむ
少しの豆と 焼き鳥の缶詰 
一人が恐くて 仲間と群れて お酒を飲む 
ポケットにハンマーを持っていた
仲間たちが恐かった
川が恐かった
堤防が恐かった
堤防の向こうが恐かった
自分が恐かった
ポケットのハンマーが恐かった
セイタカアワダチソウが恐かった

いつのまにか音もなく シラサギが水辺に立ち 餌を探している
こんな夜に 汚い川辺で
武装して 冷えたトリニクを突っつく酔っ払いたちの至近距離で
たった一羽で
恐くないのか
そして 橋から離れた暗いところには 一面 あの背の高い帰化植物たちが
除いても 除いても 生き延びて陽を受けて膨らみ 伸び 黄色く花開くしなやかな植物たちが
夜が明けるのを待っているのだ

セイタカアワダチソウと太陽と水

セイタカアワダチソウと太陽と水

無防備な鳥を
ハンマーを持った男たちが静かに取り囲む
輪を縮める
ライターも持っている

いつかセイタカアワダチソウになりたくて
この水のそばに 私はいた

 
 

(10月某日、四つ木橋下で)

 

 

 

餉々戦記 (葉つきの葉と茎 篇)

 

薦田愛

 
 

スマホのタスク&買い物メモに「葉もの」と入力
なにがしか青いものを手に入れたい、と心に付箋たてる
冷蔵庫の野菜室の中身がかたよると料理ビギナー
できるメニューがたちまち見つからなくなる
(応用力が育つには経験がまだまだ追いつかないというわけ)

それは師走だったか年の初めか
寒かったころ たぶん
北摂の駅前スーパー産直コーナーは夕方4時をまわって大にぎわい
規格はずれだの一昨日あたり並んで残った青ものに次つぎ半額シールが貼られ
傍から手に取ろうと前のめりのお客一同にはもちろん私もまじっている
(だってオオサカ)
島根産生きくらげのパック一六〇円にも半額シールを認めて白黒ふたつ籠に入れ
コーナー一周こればかりは値引きの有無にかかわりなく並んでいれば連れ帰ることにしている葉つきの小かぶ三玉ひと袋一五八円今日のは徳島産をわしづかみ
白じろきめ細かいに違いない鈴菜とよばれる実は味噌汁に入れようか水菜や薄揚げと煮びたしにしようか迷うところだけれど
いやいやじつは目当てはこのしっかと伸びたひとかかえの葉と茎なのだ
だって 
だってほら
小松菜もほうれん草も高騰しているって時になんて貴重な緑黄色
葉もの はもの
だからね
握り直すスマホの買い物メモから“葉もの”を消去
レジを通って籠からエコバッグに移し替え
よいしょっと担ぎ上げるバッグはすでに鶏胸肉だの鰤の切り身だのみりんのボトルだの入っているので重い
急がなきゃ日脚が短くなったものと踏み出す肩先へ
「すみません、あの」
すわ忘れ物と振り向けば三十歳前後とおぼしき細身の女性
「その葉っぱ、なんですか?」
指さす先はエコバッグから突き出た緑の茎と葉
「ああこれ? 蕪です。かぶの葉なんですよ」
「かぶってあの」
「そうなんです。かぶ。こんなに立派な葉っぱつきなので、食べてみたら美味しくて! 
 あそこの産直コーナーに並んでますよ」と長すぎる答え
「あのコーナーですね? ありがとうございます。買ってみます」とにっこり
いやいやよりによってごくごく料理ビギナーのこのわたくしが
食材のことを聞かれるなんてと冷や汗かきかき
よいしょっとバッグをかつぎ直し
家への近道だけれど急坂へと前傾姿勢

もとはといえば最寄りの駅前ビルの図書館
レシピ本をあさってみつけたひと品は
私の目にはちょっとひねったおひたし いや和え物
ほうれん草をゆがいて絞って切ってまた絞り
そこへすりごま、かつおぶしにオリーブオイル、ちりめんじゃこを投入
ぽん酢を和えてできあがり、だったのだ
そもそもつれあいユウキが
「ほうれん草のおひたしって、なんだか時々食べたくなるんだよね」
と言うので
ありきたりのおかかのせを何度か作ってみたあとのこと
そういえばというくらいかすかな翳り
ほうれん草にはほの暗い思いが、あるといえばあるからだろうか
ついね 
くったりくたくた
ゆですぎてしまってね

五歳だったかあるいは
学校に通い始めていたろうか
常づね仕事から戻るのが遅い父を待たず
母とふたりの夕食
ならぶひと皿がその夜
ほうれん草のおひたし
ゆでられかたく絞られ
かつぶしと醤油
つまんではこぶと
鼻をつくあおみのにおい
むぐ んぐっ ぐちゃ
どれだけ噛みしめても
くちいっぱい筋っぽくて
それはつくり方のせいだったのか
そのころのほうれん草はそんなものだったのか
くちゃっくちゃっ ぐちゃむちゃ
むふう
ぼお
のみこめなくて むちゃぬっちゃ
ぼお
ぬっちゃ ぐ ぐっちゃ
ぼおお

ぴしっ 
いたっ

打たれたのだと すぐには
わからなかった だろう
ぼお
いつまで噛んでるのよっ

言われた

思っていたが
つくって食べさせたひとは
のちに
その子すなわちわたしが
テレビを見ながらぼおっとして
口が止まっていたのだと言った
血がにじんだ
かるくはたいたらどこか
くちのなかを嚙んだみたい、と

「どうしてかな、こどもの時は
 ぼくも好きじゃなかったな
 こどもの味覚じゃわからないのかもしれないね」
ガスを早めに止めて
鍋からざるへ すぐに冷水
それでもね
くったり
ぬちゃっ

ところがね
それがさ

日脚短くなる頃どこの店頭
まるい白い実がみっつに葉っぱあおあお
茎もしっかとぐいぐいのびきったそれが
かぶが
並んでいて

ざくり 実を切りはなし
実は野菜室に収める(出番は別の日)
ひとにぎりに余る葉と茎は湯がく前に
ざっくざく 大きなざるふたつに盛ってにゅうねんに水
その間に鍋にはぐらっぐらと湯
だってね
湯がいてから絞って 切ったらまた絞る
その段取りもたもたするのをひとつ減らしたい
ざるから鍋へ まず茎からどしどし
ガスは止めて刻んだ葉もぎゅぎゅっ
ややあって
念のため茎の太めひときれつまんで もぐ
ん、だいじょうぶ
ざるにとって流水 水けきりながら
オリーブオイルちりめんじゃこかつぶしすりごまぽん酢
オールスター揃いましたら
ぎゅぎゅっきゅっ
握って絞り にぎってはしぼって
次つぎボウルへ
どさどさっ
つつうっばらばらはらりぱららっしととっ

混ぜ入れまぜいれ うん
葉っぱは嵩が減るよね でも
茎はもりもり
すきとほるあさみどりの茎が
かつぶしとすりごまをまとって
きれい

ばりっ もぐっ んぐ
噛みごたえあるよね
「ああ、これはいいね。
 ほうれん草よりこっちがいいな」
うん、おいしい

かくして
白い実がまだ野菜室にあるうちに
次の葉つき小かぶをとくとくと持ち帰る
かたよるにも程がある
季節の幕開け

 

 

 

夢素描 19

 

西島一洋

 
 

死、その2

 

カヌーを見ると死んだ水野を思い出す。先程、僕が運転する4トン車の左横に信号で止まった赤い車。ルーフに赤いカヌーが一艘、ちょんと載っかっている。

水野は僕のひとつ下。高校の時、美術クラブで一緒だった。呑気なやつだった。喋り方もおっとりしている。「暑いなあ!」と言うと、必ず「夏だも…」と、若干だみ声で返ってくる。とりつくしまのないやつだ。

高校を卒業してからは、滅多に会うことはなかった。風の噂で、奈良でカヌーの小さな店を開いているということは、聴いていた。

いつだったか、夕刻、テレビをぼんやりと見ていると、唐突と言えばその通りだが、彼の死がニュースで流れていた。チャンネルを変えても、あちらこちらで流れていた。

彼はカヌーのツアーを主催していて、カヌーで沖に出たところ、参加者の一人が帰ってこなかった、彼はその人の助命と探索をするために再び一人で沖に出て行った、そして、その参加者は無事戻ってきたが、彼は戻ってこれなかった、彼は死んだ。責任を感じて必死に探したのだろう。

彼の死骸は相当傷んでいたらしいが、通夜での棺桶の中の、仰向けになった彼は、若干フランケンシュタイン状態ではあったが、それなりに綺麗に修復されていた。

さて、それが、いつだったか、記憶を順に辿って行こう。

昔であることには違いないが、大雑把に簡単に、そしてあっさりと「昔」…、ということで落着するわけには、いかない。「昔」でお茶を濁すことは許されない。つまり、その記憶の厚量というか、その濃厚さは尋常ではない。

おそらく、自分以外にとってはどうでも良いことに違いない。だが、いつだったか、が、気になる。

で、そのどうでも良いことをだらだらと書く。

僕が、あの家に住み始めたのは、二十九歳の時。長女が生まれる僅か数ヶ月前。長女が生まれたのが、1983年。その頃、僕はテレビを意図的に見ていなかった。

僕は基本的にテレビ嫌い、正確に言うとテレビは苦手、というよりも、テレビは僕の性質に合っていない。

どういうことかというと、一旦、スイッチを入れて、テレビを見始めると、何も手につかない、テレビに没頭してしまう、ただぼんやりと見ているだけなのだが、テレビを見ることしかできない、釘付けになってしまう。

しかも、何時間も何時間も離れることが出来ない。見たくもない番組でも釘付けになってしまう。完璧なテレビ依存症なのだと思う。だから、鼻っからテレビを見ない。

僕は、あの家に行ってから、テレビは持っていたが、アンテナも繋がなければ、もちろん電源も。

あの家に行ってから三年が経った。何故、三年というのを覚えているかというと、長女が女房の腹にいる時、あの家に住むようになった。そして、その長女が生まれ、三歳になった時、テレビ愛知の開局で、気になっていた写真家(名前が出てこない)が出るというので、それを見るだけのためにテレビをアンテナに繋いだ。

長女は、この時、三歳になって、実質テレビを初めて見る体験をした。実家とか、友達の家とかで、僅かな時間ではあるが、見る体験はしていたと思うので、テレビそのものの存在を知らなかったわけではない。

しかし、テレビの映像を見るという行為は、彼女にとっては強烈だった。テレビの映像に釘付けになって、動かない。まなこを見開いて、ただ、ただ、見入っている。

あまりにも、まばたきをしないので長女に、「目をパチパチとしなさい。」と言うと、自分の小さな両手を平手にし、目をバチバチと叩いた。

と、言うことは、つまり水野が死んだニュースを見たのは、1986年以降ということになる。ただ、僕の記憶では、僕は、ぼんやりとテレビを眺めていた。見入ってはいなかった。

まあ、記憶を辿るのはここまでか。

この頃は、体現集団ΦA ETTAの草創期、美術雑誌裸眼の編集発行や、アパルトヘイト否国際美術展の運営など、精力的に動いていた時期でもあった。

いずれにしても、水野は死んだ。ただ、それだけのことである。

下の名前が思い出せないので書かずにいたが、思い出した。三郎、さぶろうである。水野三郎か…。

水野のひとつ年上、山田省吾というのも死んだ。つい最近のことだ。つい最近と言っても、僕は知らなかった。

山田省吾は、僕の中では友人の中で濃厚な関係を持った一人、トップスリーの内に入る。つまり僕の親友三人衆のうちの一人である。

なのに、省吾を死んだことを知らなかった。

今年、つまり2021年の春だった。僕は、花粉症をこじらせて、苦しかった。それに加えて、虫歯が化膿し、鼻から脳天にかけての強い痛み。熱も37度5分越え、それが三日以上続き、ついには38度5分以上の高熱も出た。

一般の医者がもうやっている時間でもなかったので、時間外もやっている済衆館病院に電話をすると、高熱で新型コロナの可能性もあるからか、対応できないとのこと。結局、救急を通じて、小牧市民病院を紹介してもらい、診察してもらった。新型コロナの検査をしたわけではないが、症状から、副鼻腔炎、つまり蓄膿をこじらせていると診断され、翌日、町医者の耳鼻科に行った。

翌日のニュースで、昨夜最初に問い合わせて断られた済衆館病院で、昨日新型コロナの院内感染があり、数人が感染したらしい。それで、昨夜の済衆館病院の電話の応対が変だったのだろう。

副鼻腔炎だけではなく、虫歯の痛みも酷かったので、歯医者にも行った。歯医者は、その後、治療のため何回も通った。

何回目だったか忘れたが、その歯医者で、高校の時の同窓生、西安秀明にばったりあった。彼は、近くに住んではいるが、滅多に会うことはない。

西安は、「久しぶりだなあ」の後の開口一番、「省吾が死んだこと知ってる?」と言う。僕は知らなかった、唐突だった。

省吾というのは、山田省吾、高校時代の美術部で一緒だった。高校を卒業してからも受験のため、名古屋亀島にあるYAG美術研究所に何年かは一緒に通った。

何故か、苗字では呼ばなかった。山田とか、山田君とかと、そのように呼んだ記憶が全く無い。呼び捨てで、省吾だった。

あとで、西安が、省吾が死んだ日と死因をメールで送ってくれた。死亡日は前年2020年の11月2日、死因は胆嚢癌。

省吾は片目、つまり隻眼だった。どちらの目かは忘れた。すこぶる画面の中のヴァルールが整った美しい絵を描くやつだった。天性のものがあった。

僕が勝手に推察するには、片目の人は、両目で見るような立体感というか空間の三次元性が希薄だ。もちろん、片目でも、体を動かして、目の位置をどんどん変えれば、立体的空間感は把握出来る。両目が見える人は、常に、物が立体的に見えるのだ。意識せずとも。僕が思うには、この立体的な空間感に惑わされて、画面全体の調子とかヴァルールとかが狂ってくるのだと思う。

ともかく、省吾は死んだ。ただ、それだけのことである。もう会えない。それも、ただ、それだけのことである。

歯医者で同じ西安に、今度は僕の方からの死の情報「平松が死んだこと知っている?」と言った。彼は知らなかった。

平松明は、省吾と同じく、僕の中ではトップスリーの友人の一人だ。死亡日は2021年1月27日、死因は間質性肺炎。葬式は家族葬ということで行っていない。

平松は、小学校も、中学校も、高校も一緒だった。しかも、すぐ近くに住んでいた。しかし、不思議なことに、小学校も、中学校も、高校も、彼との付き合いは、皆無に限りなく近いほど、ほとんど無かった。

平松と付き合い始めるようになったのは、十九歳の頃だったと思う。僕は、飯田街道沿いの木造モルタル造りの古い六畳一部屋のアパートに住んでいた。

ある朝…、だったか、ある夜だったか、忘れた。部屋の出入り口の扉を中から開けると、暗い木の廊下に、汚い男が一人うずくまっていた。それが、平松明だった。

「帰って来た。」と彼は言った。「もう何時間もここに居た。」とも言った。状況はうまく掴めなかったが、とりあえず、僕は、彼を部屋の中に招き入れた。

ゆっくり、話を聞くと、彼は、東京から自転車で野宿しながら、ここに辿り着いたとのことだった。生家はすぐ近くなのに、何故家に帰らずに、僕のところの、しかも廊下なのか。僕の部屋のドアをトントンすることもなく。まあ、その辺は、いい感じということで端折ります。

彼は、東京の明治大学に通っていたのだが、自らの意思で中退したとのことだった。学生運動の内ゲバで、明治大学の校門のところ、目の前で、ツルハシでヘルメットの上から突き通し、つまり、そういう殺人現場を見たことや、学生運動の追い詰められた過激で情緒不安定な状況を話してくれた。

それからは、僕は同性愛者ではないが、男の裸が好きで、彼は僕の絵のモデルを快く引き受けてくれて、彼の裸をたくさん描いた。

平松明は多彩なやつだった。物言いは、ゆっくりおっとりしている、声は低く大きい。

その後、平松明と、彼の友人日置真紗人と、僕の三人で、ぴしっぷる考房という生活共同体を作った。雑誌ぴしっぷるを編集発行し名古屋の文化を担うくらいの思い入れと勢いがあったが、赤字が続き、主にデザインと印刷で収入を得ていた。三年ほどは続いたが、仕事も乏しく、生活も苦しく、解体した。

平松は、百貨店丸栄の奉仕課、つまりエレベーターガールと結婚して、五人くらいの子供を作った。

いつからか、あまり会うことが無くなった。いつだったか、そう、おそらく、水野が死んだ頃と同じ頃だったと思う、久しぶりに彼から電話があった。「躁鬱病なんだ。笑うことが全く出来なくなった。」この言葉は、不思議と今も覚えている。

そうか、平松明も山田省吾も死んだのか。そうなると、あと一人か。つまり、僕の中での、親友三人のうちの二人が死んだ。あと一人は生きているのだろうか。あと一人というのは、後藤久彰である。

後藤に連絡をした。後藤久彰は生きていた。彼は、平松の死も、省吾の死も、知らなかった。

生きてて良かった。もしかして、死んでるかしらんとも思っていた。まあ、彼についても、書きたいことは山ほどあるが、生きていたので、端折ります。

ただ、一言、彼、つまり後藤久彰は、優れて良い絵を描く。今は、描いていないかもしれぬ。

後藤久彰は生きていた。ただ、それだけのことだ。