ΟΔΥΣΣΕΙΑ

 

工藤冬里

 
 

図書館車に来たこの本voidにもあった。香川の島に住んでる人を何人か思い浮かべた。炭水化物の暗黒面なんじゃないかと思う。

¡Miren!, una gran muchedumbre

川登の坪内さんとこの庭でやってるvegrecaの出店、近所だから行ってみたけどもう帰って居なかった。苗売ってる人とか占いやってる人とかがちらほら残っているだけだった。山間なので日が陰って寒くなってきた。




蓼食う虫も好き好きの蓼
鮎料理に使うんやって

人差し指、フラッシュ、反転

フラッシュ、小指

Vendrá sobre ellos destrucción repentina, y de ninguna manera escaparán

ビルの新作は動機がよくわからないが夢の話である。大変短く、大変普通である。夢ではビルも普通なのだ。ということは夢では皆普通なのだということが言いたいのだろうか。最後のI have been dead hereのリフレインがこびりつく。

2年前の夏にスイスから研修に来ていたリャンさんがお母さんが湖で溺死したこと、voice crackと繋がったこと、建築のポートフォリオに春秋窯で修行と書いたこと、など書いてきたので、酒游館ではまだ君の盃を使っているよと教えた。

工芸性への恐怖はあの柘榴の彫り物から派生している。ベザレルへの力を持たない者が物を作れるわけがない。元代の空間恐怖とは絵付師ではなく私達の裡にある恐怖なのだ。それはシルクロードを介したユーラシアの陶芸史にある断絶、つまり細密とpeasant陶の純然たる階級差となって裂開している。
ではストークオントレントの一群の、染み出すゴム球による転写はどうなのだろう?それらも付け立てに対してお嬢様の見下し的な陰謀論を維持している。その19世紀の洪水的からくりを解くことが工芸性をさらに平たく千年単位のピザ生地に引き延ばす鍵だ。全くもって、第一神殿の音楽と同じことだった。
民藝のような汚いものを、とアレクセイ・ゲルマンの神々のたそがれの、ルネサンス期を迎えようとしている星に降り立つお嬢様は唾を吐く。ところがルネサンス自体が嘘なのだとしたら、その星のリアルはどこにある?というのが系1となる。つまりクラフトは二重の意味でマトリックスのゲームの中にある。
つまり技術には、技術の終わりを照射するまなざしが必要なのだ。それを象徴界と言う。言う、と言うより言わば言え、という感じか。ウェッジウッドにもスポードにも砥部にも景徳鎮にも未来がない、というより過去がない。白の書き換えが興る。それがミレニアムだ。

人刺し指

”ガール”不在のまま、メジャーを異化しようとするマーティン・ハネット・プロデュースの”自分と結婚aha路線”は捨てられさらに、作った当初のワンコード・ワンダーに回帰している始末
すべての音楽はデモテープに戻っていく
https://youtu.be/wnuNABpjShg

 

Comme a la radio R×T

他の多くのパンクのレコードと違って、それはいつの間にか家にあった。それはすぐに僕の芯のようなものになった。70年代の半ばのことで、僕はまだ日本の地方都市の高校生だった。”spontaneous”が集団即興演奏のキーワードだった時代だ。レスター・ボウイとレオ・スミスが同じ旋律を「ずらしながら」吹いていた。その女性歌手の声は時間軸に対して垂直に立っていた。すべての参加者たちは、それぞれ自立しながら同じ平面に立っていた。そういうわけで、東京に出てきた時、僕は”Comme a la Radio”で武装していたのだ。
東京の吉祥寺にあった「マイナー」には、フリージャズというソクラテスが去った後に登場したキニク学派が全国から集まってきていた。即興演奏のセッションの場では、僕は、「僕だけが音楽になってしまっている」と批判された。
パンクの好景気の余勢をかって、それまで陽の当たらなかったフリー・ミュージックの自主製作盤の制作が、シェフィールドやアクロンなど世界の各所で同時多発的に発生していた。
歌が発生することをゆるされているのは集団即興の場における事件としてだけだった。
その頃のこと、下北沢の「五番街」という古レコード屋で、僕が「worstnoise」というバンドでインストアライブをしていた時、女の子が店に入ってくるのを見た。それで僕はすかさず店のカウンターに”Comme a la Radio”を持って行って、かけてもらった。案の定彼女は「これ、ブリジットね。私も好きよ」と言った。僕の作戦は見事に成功し、次に福生の「東京ロッカーズ」のギグの会場で会った時は、バンドをやる話になっていた。
私たちはともかくも、ブリジットの”L’ETE L’ETE”とジャニスの”summer time”を持っていた。それで、自分たちの”夏”を持つ必要があったのだ。
78年に”Comme a la Radio”のライナーノートを書いていた間章という男が死に、僕は彼の遺族が棺の中にそのレコードを入れた、という話を聞いた。「西遊記」に出てくる「釈迦のてのひら」の逸話のように、間章も”Comme a la Radio”の手のひらから出ることはなかったのだ。すべての男は彼のロック史によって突き進むが「ラジオのように」は男のエートルをドミネースィョンする。包摂する。man is subsumed under 棺の中に「ラジオのように」を入れるのではない。「ラジオのように」という棺の中に男の死体を入れるのだ。
Unlike many other punk records, it was in my house before I knew it. It was in the mid 70’s, and I was still a high school student in a provincial city in Japan, when “spontenious” was the key word for collective improvisation. Lester Bowie and Leo Smith were playing the same melody in a shifting fashion. The female singer’s voice stood perpendicular to the time axis. All the participants were standing on the same plane, independent of each other. So, when I came to Tokyo, I was armed with “Comme a la Radio”.
At “Minor” in Kichijoji, Tokyo, the Kinnick School, which emerged after Socrates in the Free Jazz was gone, gathered from all over Japan. At the improvisation sessions there, I was often criticized that only my performance had become “music” in a negative sense.
In the aftermath of the punk boom, independent productions of free music, which had never seen the light of day before, were occurring simultaneously in Sheffield, Akron, and other parts of the world.
Songs were allowed to occur only as incidents in the field of collective improvisation.
In such those days, I saw a girl walk into the store when I was doing an in-store live performance with a band called “Worst Noise” at an import record store called Gobangai, which means “5th Ave”, in Shimokitazawa. I immediately took “Comme a la Radio” to the store counter and asked a store clerk to play it. Sure enough, she said, “This is Brigitte. I like it, too,”. My plan worked, and the next time I met her at the Tokyo Rockers gig in Fussa, we were talking about starting a band. We had Brigitte’s “L’ete L’ete” and Janis’ “summer time” anyway. And we needed to have our own “summer”.
In 1978, a man named Aquirax Aida, who wrote the liner notes for the Japanese edition of “Comme a la Radio,” died, and I heard that his family put that LP in his coffin. Like the anecdote of “Buddha’s Palm” in “Journey to the West”, Aida was unable to get out of the palm of “Comme a la Radio” after all. Every man rushes through his “rock history”, but his “être” subsumed under “Comme a la radio”. It is not about putting “Comme a la Radio” in his coffin. It is about putting the corpse of the man in the coffin of “Comme a la Radio”.(T)

The blurred image of a thin faced woman. A blue purplish haze of nowhere. It was a cold winter and I was pregnant. I took a long train ride to where Tori was playing a guitar. It’s the area called “Sanya” in northern Tokyo, the home to lots of homeless people, then. It’s not a home, but cheap hotels where they can stay if they have a day’s wage. In winter they were out of jobs and they slept in a park and that’s where Tori and his friends were. As I walked to the park some guys greeted me kindly, a sense of loose bond among us. I could hear a guitar sound, and Tori and his allies were also burning fire inside the park to cook for them. I could not go inside as the park was surrounded by armed police, they were there, many of them, two folds around the park.
‘ Il fait froid dans le mond’
It was a phrase lingering in my mind these days. I was roaming alone at night In Shinjuku aware of lots of homeless people sleeping inside tube passages. ‘ I can’t be happy if there’s one starving child in the world’ I thought it was Simone Weil’s word, but can’t find it anywhere, but I felt a bit the same, my obsession was to destroy myself, away from home, betraying my mom and dad. I did’t think about my future, but I wanted future for my baby, it was at that moment when I saw armed people in that tense atmosphere, I realized that power is useless. Those who take up the sword will perish with the sword. My mum was betrayed, too, lost her mum and a dear sister at the moment atomic bomb exploded. No repeating, no. I had to survive. I had to find a home, I had to find someone to deliver my baby. I felt powerless, I will live. I’m still here, I have a will to love, that’s what my Father taught me, my mother taught me to sing, I can witness, I live for it. Recibí una espina en la carne.(R)

index finger, earlobe natural light

いよいよ食べ物がなくなった鳥がしょうがなく食べる七竈

老人と海、ですな。 デレク・ベイリーみたいな顔してたんでしょう
https://twitter.com/tomizawakakio_b/status/1460948379631243265?s=20

ガチりんすげえ

在留自国人の保護という大義名分↓
一般市民と政権を峻別↓
傀儡↓
解放された非抑圧層の抑圧者への変化↓
転落した旧支配層の叛乱↓
一般市民という座の奪い合い↓
利権で説明する視点の登場↓
背後の巨悪に責任転嫁↓
その観点からの自国の分断↓
非抑圧者層の国際的連帯の失敗↓
独裁待望とその輸出↓
陰謀説の乱立↓
弱体化↓

98年か クレーメル、マイスキー、アルゲリッチでタンゴ・パセティークとか反則じゃんねー

紙を剥がすように捲ると夜になっている

揺れる地層から錠剤のカプセルが飛び出し、武蔵美系の実のすっぽ抜けたハチスのようだ
道から消えうせる
右手か額の奴隷の印は拒否しないが自分の手に所有者名を刺青する
乾いていく洗濯物の乾いていく色

柴又のbiscuitのクッキーはとても美味しいので皆様行かれてみては
カフェもあります

El verdadero amigo ama en todo momento y es un hermano en tiempos de angustia
https://twitter.com/_YukioHakagawa/status/1461468885761224706?s=20



https://youtube.com/shorts/MXKo-qp14Go?feature=share

ブントが共産党を見限ったのは暴力革命路線を否定したからだったということを団塊は覚えている筈ですから、閣議決定のアナクロにはただただ萎えるでしょうね

久万のミシュランラーメン屋で背脂鯖威張る

ラスクリや白い粉吹く首都連合

かめやが久米に復活してる。事件だ。でも何をやっても潰れる場所なので不安しかない。
分かった。落ち目であることを知らないふりをしてるんだ。これは現代アートだ。それでトレンドに引き上げる。浅海君ならやりそうなことだ。
うどんの話だよ。


雨や
オデュッセイアは韓流みたいに続くし
米軍女士官という触れ込みのline誘導に策を巡らし
ネフィリム崩れの神々のような現世の
流石のあやつらも寝静まった頃
一番ひとりになれないとは
さらばナウシカア
きみは水族館のように手を振る
雲の道行、
と発語することで吉祥寺に俺の歌碑を建ててくれた
オデュッセイア
悲劇も喜劇も無い
韓流ドラマのの分かり易さで
介護の日常が続くだけだ
それにしても雨や
刹那はグリーンウェアのまゝ乾かないだろう
オデュッセイア
膠着した湿度の
依存症としての
雲の道行
尻切れトンボって何?
尻の切れたトンボ?
焼鮎の腹食ひちぎるて耕衣の句にあったけど

 

 

 

#poetry #rock musician

あきれて物も言えない 29

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

ひかりだね、と言った

 

高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。

詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。

「内なる声」
「犬儒派の牧歌」

高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。

若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。

 

朝になった。
今朝も朝になった。

言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。

窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。

佇んで、
いる。

詩の言葉もそのようにして佇むだろう。

人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。

 

いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。

画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。

その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。

 

そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。

いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」