広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
窓を開けて
餌を
やる
今朝も
窓を開けて
小鳥に餌をやる
西の山を見る
西の山を見ている
山桜が盛りあがって咲いている
川岸を
老人たちが歩いている
若い人が
走っている
どうなんだろう
横たわってた
道端に
そのまま
動かなかった
そこに花は咲くだろうか
そこに道はあるだろうか
あそびましょう *
あそびましょう *
子どもたちはそう言った
* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”(犬のための)本当のだらだらとした前奏曲” より
#poetry #no poetry,no life
Apr 3
国立はノースウエスト的リベラルの牙城になってる、包囲網が狭まっている、どっちだ?
Apr 4
互いにナチ呼ばわりして罵り合う中間の、存在しない虚構の虚構がハードコアとしての現実であり、それ以外の表現は力を持てない
国立は存在しない。攻撃されているのは存在しない国立のイデアである。必要なのはすり寄せや統合ではなく、幻想と幻想の間の断片に過ぎない現実を先鋭化させることであり、ばくぜんと歩道橋からサクラを俯瞰することではない、ぼくらは一片の花弁にすぎない。
Apr 5
彦坂さんは達成感から饒舌になっているがあれは野獣の残骸ではなくただの南北であることがはっきりしてきた。彼は後続のものは発表しない方が良かった。
真実よりもフェイクの方が重要であることをきみたちは知らない。フェイクのみが存在しない真の現実を照らすのだ。照らされるのはあり得た現実たちのハードコアである。
そうしたあり得ない現実こそが存在しない真の現実なのであり、絵画はそこにしか存在し得ない。
フェイクニュースに照らされた絵画。しかし、フェイクニュースになってしまった絵画しかたいていは見ることができない。それを僕はworldlyと呼ぶ。
新たな戦争画の時代なのだ
非戦を貫くにはきみの絵画をやめなければならない
絵画をやめた人が描く絵画こそがつきづきしいのはそのためである
帰納的に想像されるロシアは存在しないし、存在しない人格から個々の出来事を演繹することもできない。われわれの特殊な球体の眼球で下から見上げる癖は拭い去らねばならない。
Apr 6
ゑでぃさん「悲しい顔をしてた していた」は翻訳が難しい、日本語表現の白眉だと思ってた 思っていた
ネカフェの食べ放題の具のないカレーを米なしで二皿食べてた 食べていた
路肩にタヌキが死んでた 死んでいた
肩を痛めてもスマホをいじってた いじっていた
バズったのでバズリンコフに、改名してた 改名していた
うまい安いという看板を見てにっこりしてた にっこりしていた
二人共ラーメン屋では小を頼んでた 頼んでいた
レベルが落ちてきたのでやめます
団地横のフィリピンパブのカラオケからとなりのインド人が流れてくるのを、昭和とか安心リベラルとかと同じく深掘りするジャンルではないと思い乍ら過ぎた。
AIのモアイ像かなんかだと思ってた 思っていた
Apr 7
東京は疲れている。自作自演は流行らないよ。
東京に求められているのは腕力でも知力でもなく笑顔で嘘をつくことができるという演技力のみである
疲弊しているので消耗せずに殺したいという切実な願いが伝わってくる
歩数だけは8000と一人前で、間違った正論しか無く、言わせた言わせられただけの世界観である
3年も行ってないと僕にはそう見える
ケレン味もゼレン味もある映像
そのためには狂人のふりさえするだろう
マスクの中で困難な呼吸を続けている
指を何回怪我したかとかは何億年も経ったら覚えていない
瞬きする度に睫毛に引っかかった前髪が揺れて耳も腕も腐って落ちた
Apr 8
罪悪感でおぎした」
萌え系やサイバーパンクが何とか芸術になる形で窓に持っていくケースが多いがしかし
しかし窓はアクシデントでできた孔を埋めるためだったことを忘れてはならないししかも
しかもはめ殺しで10階から飛び降りはできないことも知っておいたほうがいい
言っちゃったね恣意いいんちょ
それでもわたしはわたしを使わずわたしを守らない
緑化した種芋のように不可逆的な九条を植え
メラトニンの夢を見るきみはメラニン
庭の蕗の葉の佃煮で弁当、茶も庭の柿の若葉と蓬
Apr 9
阻まれて蕎麦焼酎雲海状態のサウルが川の流れのようにとか唄って青線街は閉じてゆく 削られてゆく島の牝牛も痩せ細り閉じてゆく
Como la muerte vino mediante un hombre
医大病院近くのローソン店員の物腰が明らかに医大生で苦学してらっしゃるのねと思う
「スター劇場」のチラシを作るときこのロゴが欲しくてgoodman近くの映画館のポスターから「京王地下」という字を切り取ろうとしていたら映画館から出てきたヤクザ二人組にお嬢ちゃん何してんのと声をかけられ、ボコボコにされて血だらけになったことがある
アルトーそっくりなN響好きだが部屋はゴミ屋敷のワタナベさんが自転車を失くしたのか足を少し引き摺りながら歩いているのが見える。春の弁当特集良いですねと分館の司書に声をかけてダイドープレミアムデミタス最高峰のコク豆量1.5倍当社デミタス微糖史上プレミアム豆ブレンド微糖を買い山間部に向かう
#poetry #rock musician
プーチンの不条理な命令で、ウクライナに侵攻し、軍民はもちろん、民草まで根こそぎ殺戮する、無慈悲な戦争犯罪の映像を見せつけられながら、考える。
もしおらっちが、第3国の日本人ではなく、ウクライナ人のまだ若い成人男子なら、どうするだろうか?
もとより、ロシアがすべて悪で、ウクライナがすべて善、という訳ではないが、今回のこのケースでは、非がプーチン率いるロシア軍にあることは、自明の理だ。
おらっちは、戦争に大反対だし、こよなく平和を愛する者だが、今回の侵略戦争に限って言うなら、それを是として、黙って見ているわけにはいかないだろう。
これはあえていうなら“正義の自衛戦争”だ。
では、軍隊に入り、武器を取って戦うか?
もし戦えば、おらっちは、敵の兵士を殺めたり、傷つけたりするかも知れないし、自分が殺されたり、傷ついたりするかも知れない。
どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
しかし、もしも武器を取って戦わなければ、おらっちは、まわりから卑怯者と罵られ、徴兵を拒否した罪で、牢屋に入れられるだろう。
どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
それでは、敵の兵士を殺めたり、傷つけたり、自分が殺されたり、傷ついたりするのと、まわりから卑怯者と罵られ、徴兵を拒否した罪で、牢屋に入れられるのとでは、どっちの方がより嫌か?
嫌だ、嫌だ、どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
すると、どこかで、誰かの声がした。
「お前さんは、愛する家族を、敵から守ろうとは、これっぽっちも思わないのかね? 攻め込んできた敵が、お前さんの愛する家族を、傷つけたり、殺しても平気なのかい?」
するとそのとき、おらっちは、自分の奥底に、またしても「嫌だ、嫌だ。嫌だ」、とは、どうしても言えない、もう一人の自分がいることを、初めて知ったのだった。
もしおらっちが、武器を取って敵と戦ったとしても、敵が愛する家族を傷つけたり、殺したりするかも知れないけれど、それでもなお、ここはやっぱりあえて戦場へ赴いて、なんとまあ!おらっちとしたことが、「一人でも多くの敵を倒さなければなるまい」と、思ったのだった。
―Q.E.D証明終り。
かねてから、あらゆる戦争を悪と断じ、たとえ武装した無法者の敵が侵略してきたとしても、抵抗せずにいさぎよく降伏し、最悪は、捨身飼虎の薩埵太子や聖徳太子の子の山背大兄王のように、家族もろとも皆殺しにされても構わない、と密かに考えていた筋金入りの“非武装絶対平和主義者”が、いともたやすく“積極果敢な殺戮主義者”に転向した瞬間なのだった。
しゃあけんど、頭の中ではすでに解決済みの問題だったはずなのに、身体の方では、まだそれをいさぎよく受け入れることが出来ず、相も変わらず胸の奥の方で、ぶつぶつぶつぶつ言うておる、そんなおらっちなのだった。
どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
どっちも嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
*魔訶羅陀王の第3王子、薩埵太子は、飢えた虎の親子のために自らの肉体を「布施」したという伝説があり、聖徳太子の子、山背大兄王とその一族は、643年11月1日に蘇我入鹿に襲われ、「わが身一つを入鹿に賜う」の言葉を遺し、滅亡したと伝わる。
言語使用は
たとえ
無人の孤島でなされようとも
必然的に読み手を呼ぶ
ヒトがまったくいない場所であっても
言語そのものが
みずからを「読む」
この言語神学に到る者は少ない
一切だれにも向けられず
ヒトの読み手がまったく想定されず
ヒトに読まれるために言語配置が行なわれず
言語みずから
ひとり
言語使用痕跡を読む
意識的にこれがなされ続ける場で
はじめて
この界において
発生しはじめる波動がある