わたしが子どもだった頃、ちいさな

 

ヒヨコブタ

 
 

たくさんの神様がいることは子どもの世界でも当たり前だった
〇〇ちゃんをお祭りに誘ってはいけない
△くんはまた異なる神様のおうち
そんなふうに当たり前のこととして覚えていた
そうしなければ、うっかりすると彼らの顔に戸惑いと諦念が浮かんでしまうことをしっていた
信仰というのは自由だと幼稚園のシスターは教えてくださった
異なるからということで争ってはならないということだと
子どものわたしは考えた

仏教の幼稚園の子たちは少しだけ勉強が進んでいた
そして少し誇らしそうだった
僅かなほんの僅かな時期

わたしのなかに特別な信仰はなくても
他の子の数人には強い何かがあることは
当たり前だった

それでも迷ったとき、悲しみの中にあるときは
マリア様を思うことがわたしには自然なことだった

余裕の見えない今のこの数十年に
子どもだった彼らを思い出す
諦念の中に居すぎないことを
異なることを威張らないことを
少しだけ願う

人は少しずつ異なる
顔や体つきと同じように
それを言い出したら争いばかりになる
争うのはもったいない
せっかく生きて生まれてきたのに

まるで子どもなわたしには
時々起こる違和感や他者を強く排除することがたまらなくなる
同じように、少しでも同じように生きていたいのに

家族の中でも変人なわたしを
わたしは何度も諦めようとした
けれども誰かが呼び止める
幼かったわたしのような
諦めていいの?と

信じているのは生きていくこと
誰のことも貶まずに生きていくこと
当たり前が通じなくても

もともと変人だったんだからと開き直る
変な子といわれて大きくなったわたしなのだから
今更絶望で総てを諦めたりはしない
傷ついた人に塩を塗りたくないのだ

八百万というだけあって
あまりに多い神様の
そのすべてを知ることはないだろう
その神様たちを知ることは無理だろう
それでいい
ただ、静かに見ている
静かに通り過ぎる

先祖たちが知っている
わたしのなかにも受け継がれている
なにかを
見つめ直す頃に来たのかもしれない