広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
久しぶりに布団の上に寝転がっている。
ひぐらしの鳴き声がこれでもかというくらい聞こえる。
でもなぜか、全然耳障りではなくて心地いい。
短い一生を一生懸命生きている。
そんな人生も悪くないのではないかと思う。
蝉の本能はすごい。
法事があった。
ごくごくこぢんまりしたもの。
父親の兄弟夫婦のみ呼んだ。
久しぶりに会った叔父や叔母は老いていた。
元気に話してはいるけれど、年齢にはなかなか抵抗できないようだ。
腰にステロイド、お盆に膝のオペ、その後の長い安静期間を経てのリハビリ、糖尿病、肩の内視鏡オペ。
唯一元気な叔父のゴルフ話になんだか救われた。
仲のいい父の三兄弟。
家が近いためわりと行き来をしているようだ。
ほんと、魔法たるものがあったら、前みたいに若々しくしてあげたい。
もっともっとパワフルな叔父叔母であってほしい。
そんな叶わない夢を描いてしまう。
色んな、この先と言われるものを考えなければならない。
次もみんなそろって会いたい、会えると信じている。
信じることでなんとか今の現実を受け入れられたような気がした。
帰り際、以前よりよたよたと歩く姿に、ぐすんとなる心を落ち着かせ大きく手をふった。
どうか無理をしないで生活してね。
頼むよ。
ひぐらしは今日も大合唱している。
ランドセルに入っているのはその日の授業の教科書と筆箱ぐらいでその中身は大体誰も同じだけど
弁当箱に入れるものについては何一つ指示なく先生が決めてくれなかったから
人に見せたくない「自分ち」が まとわりつくようにその箱の中に入っている
重すぎる愛も 貧乏くささも 鼻を突く「自分ち」の独特のにおいも
ぎゅうぎゅうにその箱に詰まっているから 「ふた」をしめる そのふたにはヒーローとかキャラクターとかのさまざまなカッコいい他人が刷られ 中身よりもむしろ気を引く
「ふた」たちは 「多様性」という名の地獄から子らを日々救った
その川近くのゼロメートル地帯にある工場では、アルマイトの弁当箱を年間20万個も30万個も作り飛ぶように売れた
野球選手や大きな目の日本人離れした女の子も地球を救うヒーローも だけど使ううち 洗ううち 少しずつ剥がれ薄まり下水に溶けて流れていき
そのうちどこにもいなくなった
だから娘は 弁当の時間が死ぬほどいやで 見られないよう味も考えずひたすら食べ
家に帰って来てから食べたりもしたそうだ
わたしがつくる弁当は彩りが悪くご飯ばかりやたら多く弁当というより「うち」みたいで「うち」まるみえで
うち以外の友だちの弁当は「うち」ではなくちゃんと「弁当」だそうだ
ヒーローは救ってくれなかった 弁当は進化し「自分ち」を反映させない技を親たちが習得したのか 「自分ち」が進化し重くも臭くもない爽やかな ふたする必要がないものになったのか
わたしをおいて
みんなは先に進んでしまった
コンクリート造りのアルミ工場の建物群
そのほとんどはかつての社宅で今は使われず幽霊屋敷のようになっている
彼女は目がくりくりと大きくまつ毛が長く茶色がかった髪の毛はサラサラで
まるでふたに描かれた少女マンガの子みたいだった
その社宅の一室が彼女の「家」で
彼女は 弁当箱たちとともにアルミ工場の歴史とともに育った人であることをわたしはまるで知らなかった
誰も住まなくなった鼠色の建物を 同じ色のコンクリートブロックが囲っている 彼女はどんな「ふた」をこの「家」にかぶせていたのだろう
口もとにホクロがあり大人っぽかった 大きな目が射るようだった
まっすぐな視線が 弱いわたしの心を射るようだった
工場は今もアルマイトの弁当箱を細々とつくる
ヒーローのいない無地のふたの弁当箱はちゃっかり ロフトなんかの店頭に並び
開けようとする人の心をまっすぐ見つめる
なかには優しさが詰まっている 家族への思いが詰まっている
隠すとかごまかすとかではなくて ふたは
それを守り暖かく包むものだと教えるみたいに
開けようとするわたしの心をまっすぐ見つめる
あなたの心をまっすぐ見つめる
(7月某日 奥戸2、◯◯アルミニウム製造所前で)
月改まって葉月はちがつ
屋外での活動はなるべく控えてください夜間も積極的に冷房を
という夏のさなかだのに
いささかもおとろえる気配のないわが家の
いえ私の食欲
夏やせ知らず
かえりみるに
いつの夏もそうだった
近ごろ外食は少なくなったが会社勤めの頃は
なんでももりもり食すもののとりわけ
穴子の天ぷらあじフライ蛸の唐揚げ鯖の竜田揚げ薩摩揚げ串揚げ
フリット諸々もメニューにあれば注文せずにはいられなかったほどに食いしん坊で
むろん厚揚げだの練り物のごぼう巻だのあぶって生姜醤油というのも目がない
けれど
うちご飯の朝餉夕餉に
そうだ作ってみようとスイッチが入らないのは
油が撥ねてアツッとなるにちがいないことや
使ったら漉してストックしたり固めて廃棄したりの始末を横着がる
不心得者だから
とはいえ
食べたい思いが募りにつのり
面倒くささを凌駕しそうな日があり
さらにごくごく稀だが
ついに凌駕する日もある
暑気より疲労より食欲がいやまさる恐ろしい夕べ
この場合けっして
つれあいユウキの底なし型食欲が招く事態ではない
だから
今夜はあれを作る
ネットでしばしば目にする
――と感じるのは恐らくアルゴリズムのなせる業だが
揚げないなにがしだの、何なにの揚げ焼きだのという文言
その
とても無理と彼方へ押しやるあきらめの呪縛をゆるませる言葉が
そよいで
フライパンをひたひた満たすから
つい、ね
つい
これならできるんじゃないかと
勘違いしてしまう
だってほら フライパンって
つまるところフライ用のパンではないか
炒めるのと揚げるのとの境界はどのあたり
目玉焼きはフライドエッグなのだもの
はじめは揚げない南蛮漬けだった
三枚におろされたあじやいわしのパックひとつ分
削ぎ切りにして塩こしょうに薄力粉
焼くより幾分多めのオリーブオイルでジュッジジッ
裏返してジュジュッ 蓋してそろそろいいかな皿にとり
にんじんの千切り玉ねぎスライスしめじも炒めてしんなりしたらドッドサッドサ
ああ多すぎたなと毎回 そこへぽん酢をたっぷり
って
食べていたのだったけれど
いま思えばどこかあの
豆腐ステーキの魚版って趣き
けれどある日
真夏ではなかったその日
いや いいや
やっぱりね
欲望にはとことん正直になりたい
揚げない南蛮漬けも美味しいけれど
本当のところ
がんもどき食べたい
あじフライより天ぷらより
がんもどき食べたい
飛竜頭というのだ関西では
豆腐生地に野菜やらひじきやら時に銀杏やらきれいにちりばめられて
じゅじゅうっと滴るほど煮汁をふくめるあの
やわらかさ
でも、ねえ
おでん種にするには他にも揃えるのがちょっと骨だし
何より
まぁるく揚げるには油をたっぷり張らなくては
でも食べたい がんもどき食べたい
あるかなあ揚げないがんもどき
揚げ焼きでできるかなあ
キーワードふたつかみっつでさがす
――あっ あるよ
揚げ焼き版がんもどき
おお 揚げないからがんもどきじゃなくて
がんもどきもどき、だってさ
同じくらいに油の始末が億劫なひとや
同じくらいに食いしん坊の始末屋のひとかな
同じくらいにヘルシー志向なのは確かだな
すごいすごいや
薄くまとめて作るレシピが次つぎ
木綿豆腐はキッチンペーパーきっちり巻いて重石の平皿乗っけて水切り
ゆでてざるにあげるやり方はその後に知った
探し続けてプリントしたレシピ三つを並べてふむふむ豆腐一丁分で片栗粉は
だいたい大さじ三杯なんだな
塩や砂糖は入れたり入れなかったり
超時短派レシピだと干し椎茸をそのまますりおろして投入するとか
別のレシピは豆腐の水分でもどるからひじきもそのまま使うとか
山芋入れるのもあるなあ
(これが本式なのだとわかったのはずっとあと)
すごいなあ考えた人たち
ありがたや
いいとこ取りとしっくりするやり方を手探り
もどした干し椎茸は細切りのち微塵切り芽ひじきも右に同じ
直売所でみつけた無農薬にんじんもカタカタ刻み
畑でとれた黒枝豆を昨日ゆがいた残りもひとにぎり大まかに刻み入れ
賞味期限きれて久しいけどアミを半袋
生姜も入れようおろさなくても粉末のがあったっけ
微塵無尽オレンジに緑こげ茶に黒
ぐぐぐっちゃり崩してゆく豆腐の生成りに色をこぼせば
ステンレスボウルの冷たい肌はすっと曇って隠れ
しとっと重くなる
片栗粉を大さじ三杯振り入れ使い捨てビニル手袋の手で混ぜる
にちゃっぬちゃっ
フライパンに大さじ三、四杯目分量のオリーブオイル
カレースプーンで掬ってずとっとおとし
隣にまた
ずずっとおとし
平たく平たぁく あっ
こんなだった
昔いただいたことのある豆腐屋さんの
木の葉に似たかたちの平たいがんもどき
木の葉がんもって呼ばせていただいたのだった
比べればこれはずっと小さいけれど
アツッ 少なめの油だってやっぱり撥ねる
水切りしたって豆腐だもの
あらら
あとから間におとしたのがくっついちゃった
フライ返しと菜箸でくくっと隙間をあけ
うらがえっあっ
ふちから落っこっあっ
だ だいじょうぶ
最初に焼いた側はつるっつる
こんがりには届かないもっと焼こう
「おお、何作ってるの なんだろう」
やぁ待っててねもうしばらく
お楽しみにと言って大丈夫かどうか
うらがえして皿に取ると油はすっかりなくなったので注ぎ足し
一丁の木綿豆腐から平べったい小さなそれが
フライパンで二回分つごう十四枚ほど
大皿に重ねてスマホで二カット
ぽん酢とおろし生姜を添えて食卓へはこぶ
箸をのばすユウキの口もとが気になる
いや
最初の思惑からすればね
食べて私が美味しければいいのだけれど
小さめの平たいそれを取り皿に二枚
ぽん酢をたらし口から迎えにゆく香ばしい大豆がふっとにおう
んん
美味しい
みるとユウキも頬張って一枚食べ終わったところ
「あのさ
ふつうのがんもどきって僕はとくに好きじゃないんだけど
これは美味しいよ こんなふうに食べるのは好きだな
ふつうのよりこっちのほうがいいな」
ほんとに? もどきもどきなのに?
うれしいな たしかに美味しいよね
「きっと柚子胡椒があうと思うんだ」
持ってくるよ。こないだ買った柚子山椒もね
柚子胡椒はもちろん柚子山椒も後押ししてくれて
平べったく小さなそれは何枚も残らなかった
がんもどきもどき
なんて言うけれど
雁の肉とがんもどきの距離より
油少なめまんまるく揚げていないこのもどきもどきまでの距離は
思っていたよりずっと小さかったよ
もちろん本式もどきの
煮汁たっぷりふくむことのできるふっくら加減には
及びもつかない
けれど
とりどり混ぜ込む微塵無尽にいささか手間がかかる
けれど
暑さ寒さに負けないわが(家の)食欲みたすレパートリーのかなり上位にこの夜加わった
もどきもどきのための木綿豆腐をいま
冷蔵庫から出すところ
カレーに転身
胃瘻に検診
尾籠な塁審
ティンカーベルは陽性
なので反共とコミュニズム、自己否定としての反日と自足としてのナショナリズムは金の出所が同じだったと思いながら思いつつ
犀のように吐きながら進め
雑魚はいいからカメラは国連と政教分離のトレンドのみを追え
願わくば私が仰向かんことを!
記録的短時間大甘情報
付き合いもあるし、腸内菌の嫉みの際にも手伝ってもらっている
openfield with no child
ドブ胡瓜のインド屋台風
ドブ胡瓜は極限まで細く縦切りにし、それらしいスパイス全部入れて炒める
裂けトマトなどあればそれも潰して混ぜる
砕いたインスタント麺を入れ溶き卵を加えて数分で出来上がり
非常に量が増すので二人分でも多いくらい
冷やし胡瓜の深沢七郎風
胡瓜は極限まで薄く輪切りにし、冷たいご飯に乗せる
冷たい残り物の味噌汁を掛けて出来上がり
鯛の擂り身などがあれば伊予薩摩と呼ぶこともできる
あとは
・メロンと思ってスプーンで食べる
・冬瓜と思って煮る
など
それはどんなジャンルなんですか
えーっと,例えば、純粋な数式だけを音にしてるんです
昭恵は徹也を許すチャンスを逃さない
peace frog
腐る服を着てインスタにアップしながら
技術は
いやに黄色い
熱り立った人を
水と思え
竹籤は折れ
瑠璃は逃げる
お気持ちはよくわ分かります
からきしだめな
オルナンはアラウナ
神罰でさえ良いこと
水を探り当てる
Take away from me the noise of your songs;
for I will not hear the melody of your viols.
紙が飛ぶ
すぐに腹を立てない
万札と思って追いかける
裁判官が目撃証人
何回も洗濯して白が褪せている
職場では無理だ
四国だけ井戸にするとかスーパーやコンビニをなくすとか集落ごとに電気を自前でまかなうとか山を掘って住むとかは八十八ケ所的結界妄想と出所が同じだったが、エデンは最早展げるものではなく覆うものなのだとしたらグローバリズムにも積極面はあるということになって笑いが込み上げる
理由を見つけて
靭帯の平和
ひとり
いろいろ
善悪を判断する機能は?
違いを楽しむ
人の舎弟を批判しない
分画はどの時点で血ではなくなるか
ネオンは輸血していい
自分の感覚に従うのは良心に従うのとは違う
謙遜温和辛抱愛
良心は詩ではない
森山さんシンバルキレイね#フジロック
ワタラセはカモガワみたいだったけどね
時間を轆轤にかけて細長く筒にしているだけではないのか
「私が人間であったことなど一度もない」エマヌエーレ・コッチャ
一致する理由しかなかったがそれでも憎み合う理由を見つけた
一致する理由はなかったが一致した
靭帯の伸び縮みが平和
違いを楽しむだろうか
アル中だろうか
一生は素早く過ぎるので
腰掛けだと思っている
料理を削ぎ落とす
貯蔵はできないわ
#poetry #rock musician
“ひかりだね”
と
きみは言った
電話の向こうで言った
小舟で
夜明け前の
青黒い海に漕ぎだしたことがあるかい
沖に出ると
空は
透明の薄い青になり
太陽が
水平線から昇ってくる
ひかりが
海原にひかりの道をつくる
無数の
ひかりが
凪いだ
海の波間に輝くのを
見たことが
あるかい
またたくんだ
ひかりは
ランプの明かりじゃない
ひかりは
無数のひかりが
またたくんだ
* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”自動描写” より
#poetry #no poetry,no life