また旅だより 48

 

尾仲浩二

 
 

猛暑、コロナ禍、お盆初日の朝9時半から開催と悪条件のブックマーケットにオマケに台風が来てしまった。
会場は来年取り壊されてしまう中野サンプラザ。
こんな日に人が来るのだろうかと心配していたけれど、開場と同時にたくさんの入場者があった。
おしゃれな人も、いかにもな人も、痛い系の人も、フツーの人もいて、これはこのブックマーケットが「まんだらけ」の主催で、アート・カルチャー・文芸・芸能・怪奇漫画・精神世界に占いと様々な店が並んだので、それぞれのファンが集まったからだと思う。いかにも怪しい中野ブロードウェイ的でうれしい。アートだけではこんな雰囲気にはならない。
写真のファンも少なからず雨の中やってきてくれ、感謝感謝。
中野は今、再開発の真っ最中。いつもの見慣れた風景がもうすぐなくなってしまう。

2022年8月15日 東京中野にて

 

 

 

 

いっしゅんで充満し、いっしゅんで遠ざかる

 

工藤冬里

 
 

家原さん
外から見れば無音じゃん

現存するイノシシ旅館で72歳の男が死んでも誰も騒がないご時世になった、そうだ、レコード盤を裏返す手つきがナベサンのマスターに似ていた
https://youtu.be/1VOJi9Lwg-o/
申し訳ないけどもう少しプログレ喫茶で酔っ払っていたい
https://youtu.be/_Sls_QCMG2Y/

苦さの活性化のようにして残暑
空の冷蔵庫から夏の思考として氷

「窯にまかせて」じたいに中立的チャンス・オペレーションの妙があるのではない
「窯にまかせて」という決断に偶然性があっただけである
つまり何故「窯にまかせて」かを知らずに「窯にまかせて」いるのである
その点人間は人間ではなく器に似ている
磁界のバランスの中で浮いている重さは数値の多寡を問われない その揺れは定まらず刻一刻と純粋経験を積む
tu dois はil fautとして、恰も憲法のようにして来る
持続が真に持続である時を待ち望むあまり持続は常に一瞬でありそれ故に求め続けることになる
人間牧場という言い方で貶められているのは 言葉を刈り取られる羊である
リックライトやギルモアが囲むようにしてはじめてバレットの標野wasteが不在を確証され、あのno man’s landのサインが境界線上に掲げられる
突出したニュースたちを話題にしてはならない
突出するものがあるということは相対的に沈み込む関心事があるということだからだ
例えば「統一」と発した時に下降してゆく澱を掬い取るようなまだ生きている人たちとの対話の可能性があるだろう
イデオロギーもひとつの宗教だとすれば政教分離は不可能なので面倒くさくなってその勢いで政・教双方の廃絶に向かわないだろうか

穴子は炭火をよく熾して決して裏返さず、皮面だけを焦がす 鱧もそれに準じて裏返さない 目玉焼もそれに準じて裏返さない
なべて裏返さないでじっくり

我思う故にとかじゃなくて主体とは恥が五割罪五割の裂傷に過ぎない
「べからず集」が欲しいだけなんだ、と三谷は言った。
アート独裁

Sigue venciendo el mal con el bien
「べからず集」がなくても音楽はできるが親は恥をかく
頭蓋がよく分かる
先が尖って
目尻から蟀谷に稲妻線がある

遠さと近さに濃淡はなく、限りなく遠いか限りなく近いかのどちらかしかない
だから遠さを利用して隙間でどうこうしようというやり方は立たない
常に少数派が正しい情況の中で、清和会潰しのようなことを表にするという南極なしの戦略でしか進みゆきがない、と地の球軍団AIジョーのエヒメ新聞コラム
詐欺を見抜き全力疾走で阻止西垣生コンビニ店員48歳の笑顔

豆の鞘
主体ずたずた

国際食豊かな母が子を煮たのである
あ喉痛いコロナかな

広い洞窟に階段

目玉焼きの二階から銀天街をモップ拭き

“reality”とオーダーしてAIに描かせるとバグる
では、と”real world”で指定すると、VRを装着した男が立っていて、こちら側にwaste landふうの標野が映しだされている

ニーチェは七日目に関する法的時間軸がずれている。「われわれ」は八日目の休みの国に向かうのであって、一週が七日である間はブラック企業のごとくに働くときだ。
そこではすべてがいっしゅんで充満し、いっしゅんで遠ざかる。
キョリは時間だ。時間は、労働だ。

タイトルを決めようということになり僕はアルトーを念頭に身体が思うように動かないと言った。それを踏まえて思いつく言葉を出し合って羅列しようとなったときガセネタの諸君は蠢くと言い、灰野さんは気配と言い、金子は「傷」と言った。今となっては主体が外傷的であることが際立っているのではないか。

https://twitter.com/simoneweil_bot/status/1558069061543571457?s=20&t=XzAFRVoiZeggiW9KZPjBNA/
だから裂け目なんだけれども、息も風も”フォース“も全てプネウマの一語で括るから余計にそれが目立つような仕掛けになってるんだよ

水脈の言おうとしていることの中には正しさも真実もないが、言っていることの中には彼女を離れた一面の正しさがある。もちろんそこにも真実はない、大体そのような構造になっている。そしてリベラルはその逆ではない。その捩れが都合良く現実を作っている。

シドバレット(様)が庭で「今日もひとつ音を殺したよ」などと宣っているロック雑誌特有の浅いマンガがあったが 、彼が囲い込んでみせたのは現実界そのものではなく、no man’s landという囲いに過ぎない。現実界が存在していると思った時点でそのベクトルは不能性を帯びる。心はそこにあったとしても。
伊牟田はその線を引く男だった。接する界面の、内側に拡がるその原は、牧場であるらしかった。
半野田拓もこの前新作を渋々呉れたが、明石海岸のホセ・マサダがマーク・ロスコの抽象をやっているような趣きだった。
家の近所に沖縄料理屋が出来た。モンパチのドラムと釣り友達らしい。
意識して眠ることは出来ない。睡眠は常に寝落ちの形でしかやってこない。それをコントロールしようとする意志は裏返った夢だ。

かたちとなかみのちがい
なかみはない
ないなかみのかたちがかたちなのだ
焼き物に良い形、いやな形があるのはそのためだ
その人が良い人だから悪い人だから良い形嫌な形なのではない
唐九郎と魯山人の違いとはそういうことだ
なかみのあるかたちはない
なかみのないかたちというかたちがあるだけだ
焼き物とは眠りながら作るものである
げんに窯屋はてれびを見ながら湯呑を挽いている
マイケル・カーデューの息子も首と肩の間に携帯を挟んで電話しながら轆轤していた
乱入してくるものに気を乱されるようではだめだということだ
無意識の回転がロクロのかたちだからだ
陶芸教室の作品は中身のオンパレードだ
仕事量の多い名作かもしれない
でも中身のない信楽の土を使った中身の表現は、器胎が眠剤飲むような中身のオンパレードになるのだ
眠剤導入という形が無意識とシュールの沃野を殺し
さつりくのかたちとなる
あゝとうげいきやうしつのやきものはちをながしてゐる
きみは食卓に血を置きたいだろうか
否だ
置くべきは骨だ
イエスは復活したがマリアが識別できたのは声だけであった
血と肉と骨は型式であった
それは粘土から造られていた
声とは息であり、風であった
それはプネウマと訳された
それは一瞬で充満するものであり、いっしゅんでとりさられるものでもあった
わたしは声ですと荒野のヨハネは言った
彼の音楽形式はラクダの皮の衣服と食物としてのいなごであった
それはジュビリーを待つパンクスに似ていた
風にそよぐ葦(Reed)を観に来たんじゃないだろ?とイエスは言った、
「ヨハネのプネウマを聴き取ってオレのロックンロールトレインとジョイントしようじゃあないか。」
その引用の形式によって、イエスのアップした全ての動画は父ではなくYouTubeから著作権の申し立てがありますという警告を受けた
音楽はジュヌスと呼ばれる束の配列であり束の組み替えが演奏であった
塩基配列の組み替えは、なまじヒトがやると種の絶滅をもたらす。音楽が死だとゆうのはそーゆうことだ
だからあ、やめた方がいいんだってば作りに行くタイプのやつ

ユリにおわない
コロナかなあ


三幸の柿の種が復活
「ピーナッツが少なくなったような気がする
「からい
と言いながらも
「量が丁度良い
「パリッとしている
など褒め言葉も

やっと思い出した 8-10死水秋道、5-7漏水夏道、2-4若水春道、11-1泥水冬道

https://apps.apple.com/jp/app/radio-garden-live/id1339670993/
異化とか脱臼といった言葉が廃れて久しい。地上波と衛生波が一足先に統一政府を実現してしまった。
笙やガムランバンドのベクトルが折れるのはそのためである。尚且つ異化も脱臼も封じられた居住区に我々は居る。武器を現実界に持ち替えてもウクライナや奈良でそれはひろがりを持たない。欠けているのは不参加と無音のパブリック放送への意志である。

https://m.youtube.com/watch?v=xZnmJE1XIoE/
沖野さんフジロックの森山さんの時シンセ鳴らしてたけど元ネタはこれかな

真実に寄せようとすると悪場所を歌うしかないのでその代償にストンとした顔になっているがそれは戦争前夜の黒いドブの上澄みの透明であって正しさではないから光ってはいない

「居直り」じゃないかな今年の、お坊さんが書くやつ
「居直り」と「粛々」が合体した感じ
でもそれも延命のための演出だ

 

 

 

#poetry #rock musician

お芋を煮る

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 14     motoko 様へ

さとう三千魚

 

 

おさとうと
おしょうゆだけ

入れた

お芋を
煮た

母から教えてもらった

父は
よく働いた

夏に
ひとり

青森の恐山に行ったことがあった
八重のドクダミが白く咲いていた

わたしのなかに
咲いていた

咲いた

 

 

memo.

2022年8月15日(土)、自宅にて、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」として作った詩です。

お名前とタイトル、好きな花の名前を伺い、その場で詩を体現しプリント、押印し、お送りしました。

タイトル ”お芋を煮る”
花の名前 ”八重のドクダミ”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life