光の中で

 

さとう三千魚

 
 

大風は
過ぎていった

窓の外の緑が揺れている

きみは
いつか

“光だね”といった

電話で
いった

志郎康さんも
“光で生きのびた。” *

そう
書いてる

“生きのびることが、” *
“生きのびることが、” *

と二度
繰り返している

そこには闇があったのだと思います

いまも
闇はある

闇のなかで乳房に触れる

光を
探している

 
 

* 鈴木志郎康「赤ちゃん」より引用しました。

 「赤ちゃん」
https://beachwind-lib.net/?p=21235

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

Soigne ta gauche

 

工藤冬里

 
 

participants are welcomed
https://fb.me/e/2Uz94qwlU

There was a microSD in the lid that held this song and about 200 photos. I put them together and made this video.
https://youtu.be/gKRk9w5pQpU

τὸ ἀπολωλός

沙記さんの携帯カバー遂に引退しました

https://fb.me/e/1JqiMoCLg

https://youtu.be/-rlMfaPtdmI

日本を買う
井戸を買い沢を買い斜面を買う
日本を売る
何の気掛かりもなさそうな皿やチェアや雪山やLINE誘導で輸出させる
山の内部の隠し部屋に住む
コンクリの鳥居を粉にして
金やコバルトを匿して
頭をすり潰し(シュリンボー)て元素に解体する朱鱗洞の母船が今治沖を彷徨う

Las cosas anteriores han desaparecido

お前…自慢していいぜ

Soigne ta gauche

映画が自分の首を絞めるというのではなくて
首が夜に向かって石灰化するのである
反動は骨の音に過ぎずその音が三笠宮から賞を頂くのである
稲穂が垂れるのも枯向日葵が垂れるのも項の硬さという点では同じであり
種の爆発が全ての現在であった

nous ne savons pas que nous sommes encore au vingt et unieme siècl

Cela apparaît clairement si l’on compare avec l’année mille neuf cent vingt-deux.

それはハダドがなぞるエジプトのモーセの物語と似ている
繰り返されるが、最初は詰まっていたニンジンのようなものが抜かれている

馬の前に人参をぶら下げるような疾走だった
その赤が失われて青赤黒となった馬が走っているのが今だ

馬はもうサラエボを走ってはいない
イベリア半島を二手に分かれることもない
モスクワは火の海にはならない
モスクワ以外が国旗色に染まるだけだ

zach & quentin in texas
https://youtu.be/WBf9OM0ZNwI

腎臓人間ベム

comme des sœurs

Le cultivateur attend le précieux produit de la terre. Vous aussi patientez.

Empieza a llover
Il commence à pleuvoir
https://youtube.com/shorts/uipDm6ODpsM?feature=share

コールラビが売ってた(この用法は子供の頃はなかった)ので百円入れて持ち帰った。カニかまとかと硬度が連続していってて噛みごたえとして合わせると肉の代わりの増量材としていいと思う
カブより肉寄りの板、って感じ

https://youtu.be/hvBZHUsgznM
https://youtu.be/HWKlTTe7pJA

ケンちゃんはイッヌのように何にでも小文字の“っ”を挟む
ケンちゃんこれ小さいね、と話しかけると
ちっさ!
と言う

はっや!
おっそ!
うっそ!
あっつ!
さっむ!
うっま!
まっず!

などとも言う

ケンちゃん風強くなってきたね
つっよ!

ちょっと止んできたね
よっわ!

かつてない暴風雨らしいね
まじか
は普通である

九州はひどいらしいね鹿児島とか
ひっど!

風が生ぬるいね
ぬっる!

星なんか見えないねー
くっら!

夕焼けは赤くてすごかったねー
あっか!

そろそろ散歩やめて帰ろうか
だっる!

じゃあおやすみなさい
ねっむ!

という具合である

ケンちゃんは前のめりに激しく同意することでバイト言葉をブラッシュアップする人生を送ってきたのである

でかっ と でっか
うざっ と うっざ
の違いはことのほか重要である

前者は独白に近く、後者は同意に寄せている

だっさっ

ダーツはうまい奴ほど投げ方が汚い
リリースする位置を近づけようとする根性がいやらしい
刺さるスピードがないから実戦では使えないだろう

蛇を轢く車に伝わる堅さ 哉

 

 

 

#poetry #rock musician

雲3つ分のディスタンス

 

一条美由紀

 
 


後悔ばかりの毎日でも
破れてるお菓子の包装紙を大事にするように
最後まで持っていたい一つの輝く鼓動がある。
交差点を渡るたびに疲弊して1日の時間は瞬く間に消えてゆくけど
通り過ぎる人とのやり取りの後に残しておきたい記憶がある。
それは本当に小さな誇りだけど
いつか会えるあなたへの贈り物として。

 


電車のドアは開きっぱなし
発車のベルは私が鳴らす
諦めを鞄に詰め込んだら出発だ
ドコデモドアの向こうでは
家を焼かれ母の手に触ることも困難な彼らが見つめてる
一瞬がすべてで
世と生の契約書に注意事項は記されていない
わからないまま足掻き、疲れ果てた人々がここに来る
神の作ったバイブルは終着駅で開示される

 


いつもワンサカ生える猫じゃらし
強いね 飢えや渇きに耐えて
いつも私のお庭いっぱいに生える
近所にネコはそんなにいないのに、そんなに生えてどうするの?
寂しい私と遊んでくれようとしてるの?
でもね私の寂しさはとても深いから
全然なくなりゃしないのよ
それでも生えてくる猫じゃらし
今日もワンサカワンサカと

 

 

 

さようなら ありがとう 志郎康さん!

 

佐々木 眞

 
 

この夏も、多くの死がありました。

8月には妹が昇天し、9月に入るとゴダールが自死したというので嘆いていると、15日には思いもかけぬ詩人の訃報に接したので、大きな衝撃を受けたのでした。

鈴木志郎康という人は、私が心から敬愛し、師と仰いだ、たった一人の詩人でした。

でも、志郎康さんには、たった一度しか会ったことは無い。
その後も会おうと思えば機会はあったのですが、余りにも鮮烈だったその記憶を大事にするために、あえて会おうとはしなかったのです。

太いパイプをくわえ、度の強そうな眼鏡をかけ、仏陀のように温厚な顔立ちをしたその人は、私の顔をじっと見つめると、開口一番、「私が思った通りの人だった。」と仰ったので、私は驚きながらも、ちょっと嬉しかったのです。

私の詩を読んで、私という人間について興味を抱き、いちど実物を見てやろうと思いたった詩人は、その目の前の現物が想像通りの人間だったので、まるで千里眼の手相見のように喜んでいるのでした。

それまで私は、有名な大詩人の、有名な詩を読んでも、ちっとも心が動かされず、ほんのちょっとでも面白いと思ったことがなかった。だから詩なんてつまらないと思い込んでいたのです。

ところが私は、プアプアなどのスズキ詩に初めて出会った時、「ああこれが詩だ。これこそが本物の詩なんだ」と、生まれて初めて思ったのです。
頭で思ったのではない。腹の底から、いわば臓腑の認識として、分かったのでした。

それで、詩とは自分の思いを、自分が思った通り自由に書いてもいいのだと、初めて得心した私が、その通りに書き殴ってみると、不思議なことに、詩だか、詩のようなものだか分からない代物が、どんどん書けてしまえたので、私は、思わず「ヤッホー!」と叫んだものでした。

喜んだ私は、それから無我夢中になって、来る日も来る日も、その詩のようなものを書き続けていると、驚いたことには、そんな私のシロウト詩に、志郎康さんはイイネを押してくれたので、私は一日中言い知れぬ喜びに浸ったのでした。

「帰玄」という短い詩を書いたときには、いつものイイネだけではなく、「これはなかなかの抒情詩ですね」というコメントまで下さったので、私は文字通り狂気乱舞したことを、生涯忘れることはないでしょう。

それは氏一流の詩の初心者への励ましであり、先輩としての人世の応援歌だったのでしょう。

その励ましと応援歌を手渡しで受け取った私は、イイネのついた作品を集めて生まれて初めての詩集を編み、恩師の志郎康さんに読んでもらえる日が来るのを指折り数えて待ち望んでいた、その矢先の訃報でありました。

志郎康さんの殆ど最後の詩に、「赤ちゃん」という小品があります。

上の2人のお兄さんは両親の寝室に窓がなく、2年続きで暗闇の中で死んでしまったが、窓が作られた後で生まれた志郎康さんは、「光の中で生きのびることができた」というのです。

志郎康さんの悲報が届いた日、夜空に瞬く星の光を探しながら、私も志郎康さんにあやかって、光の中で生きのび、できるだけ長く詩を書くことができますように、と、しばし祈ったことでした。

さようなら ありがとう 志郎康さん!

 
 

※鈴木志郎康「赤ちゃん』
 https://beachwind-lib.net/?p=21235

 

 

 

エスケーピング

 

村岡由梨

 
 

手元に見慣れない紙がある。
「死亡診断書」
「鈴木康之」
「(ア)直接死因 腎盂腎炎」
「(イ)(ア)の原因 前立腺癌」

どうしよう。
志郎康さんが亡くなってしまった!

思えば亡くなる2日前、奇妙な夢を見たんだった。
赤ちゃんになった志郎康さんを、
老齢の麻理さんがフラフラと手招きして
「これが最後だから」と言って、抱き寄せようとする夢。
そんな最愛の人を残して、
一足先にエスケープしてしまった志郎康さん。
大好きなバニラ味のハーゲンダッツみたいに
溶けて無くなってしまった。

ハーゲンダッツといえば、
子供のように駄々をこねるヤスユキさんだ。
便通の良くなる粉薬を飲ませると、
「苦い苦い苦い苦い苦い、
ニーーガーーイーーヨーーー!!!!!」
「アイス アイス アイスアイスアイスアイス!!!!!」
思わず「うるさい!!!」と一喝したくなるけれど、
そこは我慢。冷凍庫からハーゲンダッツを出してきて、
スプーンで一口二口と食べさせる。
そうするとヤスユキさんは大人しくなる。
ご機嫌なヤスユキさん、悪いヤスユキさん、
しょうもないヤスユキさん、
父親としてのヤスユキさん、祖父としてのヤスユキさん。
色々なヤスユキさんがいて、いっぱい翻弄された介護の日々。
でも、どんな時でも、帰り際の握手は忘れなかった。

梅雨頃からだんだん体調が不安定になり始めて、
夏の途中から食欲も顕著に落ちていった。
傾眠傾向が強く、いつも眠っている状態だった。
でも、時々「!“#$%&‘()=〜|」と言うので
注意深く聞いてみると「孫たちは元気?」とか
「今日は由梨ひとりで来たの?」とか
こちらを気遣う言葉ばかりだった。

亡くなる前日、救急車に同乗して
ずっと手を握っていた。冷たい手だった。
耳が遠いので、耳元で「由梨ですよ」と言っても
「うー」としか言わなかった。

それっきりシロウヤスさんの口から
「言葉」が出ることは無かった。

斎場の霊安室でシロウヤスさんの遺体と対面した時、
まるで作り物のゴム人形のようだったけれど、
トレードマークの度の厚いメガネをかけたら、
ゴム人形は、シロウヤスさんになった。
でも、これが、シロウヤスさんなのか。
シロウヤスさん、本当に死んじゃった。
シロウヤスさん、本当に死んじゃったんだ。
そう言って泣くことしか出来なかった。

 

私が作品を作れずに苦しんでいる時、
「とにかく続けなさい」と励ましてくれた志郎康さん。
私の顔を見る度「詩、書いてる?」と言う志郎康さん。
その度に「書いてますよ!」と答えていた私。
逆に「志郎康さんはもう書かないんですか」って言って
赤い表紙のノートを1冊買って渡したら、
次の日、詩がポコっと生まれていた。
それがこの詩。

 
 

鈴木志郎康

詩って書いちゃって、
どうなるんだい。

詩を書いてなくて、
もう何年にも、
なるぜ!

ノートを買って来てくれた
ゆりにはげまされて、
なんとかなるかって、
始めたってわけ。

それゆけ、ポエム。
それゆけ、ポエム。

 
 

ヤスユキはいなくなってしまったけど、
小さなシロウヤスはウジャウジャと世界中に広がっているみたい。

私も、詩を書き続けることを誓います。
いつかまた、「詩、書いてる?」って聞かれても大丈夫なように。

 

 

 

また旅だより 49

 

尾仲浩二

 
 

3年ぶりにヨーロッパへ来た。
街を歩く人は誰もマスクをしていない。
日暮には毎日キオスクの前に集まってビールを飲んだ。
トークイベントの後には握手とハグを沢山した。
バーの地下のダンスフロアでは歌謡曲DJをやって声を合わせてTOKIOと叫んだ。
翌朝ノドが痛くて、やはりコロナかと疑ったが、薬局でのど飴を買って舐めたらよくなった。急に寒くなったのとDJで大声を出したせいだろう。こちらののど飴は舌がシビれるほど強い。
 
2022年9月12日 ドイツ ケルンにて